転生したと思ったら婚約者(元男)が女の子になっていた件について 作:舞依夜
翌日、朝一番にスマホを見た茜は、思わずため息を吐いた。返信がなかったからではない。返信の内容にため息を吐いたのだ。
『ちょっと疲れた。今日も休む』
それはつまり、今日美月と話し合う事が出来ない事を意味している。落胆のあまり、彼女は一日の始まりから憂鬱だった。
『帰ってから家に行っていい?』
僅かばかりの希望を託してそう返し、カーテンを開ける。
「えぇ…… 」
そして、彼女は起きてから三分も経っていないのに、一日に二度裏切られた。視界に広がるはアスファルトを叩く雨粒。ここ三日ほどの土砂降りに比べれば随分と雨脚は弱まっているが、それでも傘無しで歩くのは厳しい程の強さだ。
ぬーんと唇を固く結び、仏頂面のまま壁にかかっているセーラー服を手に取った。それをベッドの上に放り投げ、スカートを履く。大鏡に映るのはチグハグな少女。
可愛くない自分にため息を吐き、上のパジャマも脱ぎ捨てた。
教室内はジメジメとした湿気に満ちていた。ぼろいフローリングは薄焦げ色に染まり、悲鳴を上げている。しかし、茜はそんな校舎を足蹴にスリッパで床を勢いよく踏みつけた。
「どーして美月は明日も学校に来ないの!」
現在放課後。雨で時刻が分かりづらいといえど薄暗くなってきた午後四時半。スマホを片手に彼女は叫んでいた。その声に教室に残っていた二、三人の生徒たちが茜を見る。しかし、そんな事も気にせず、彼女は頬を膨らませた。
ついさっき今朝送ったお見舞いに行っていいかの答えが来たのだ。
『大丈夫。あと、明日も休むから』
「私と話す気ないの?」
「まあまあ。落ち着きなさいって」
怒り狂う彼女の背を、涼香がぽんぽんと叩く。その感触に茜は少し心が落ち着く。
「でもさ~、タイミングが悪いんだよね。折角、話し合おうっていう気持ちになったっていうのに、学校休みなんて」
しかし、まだ怒りが収まった訳ではない。怒りは不満へと変わり、茜は唇を尖らせる。
「忙しそうにしてたし、仕方ないわよ。そもそも私は服を用意して貰った手前、あまり強く言えないし」
涼香は苦笑いと共に、茜を宥める。
「まぁいいや。話す機会があるのは明日だけじゃないし」
上手い事宥められた彼女は、さっきまでの怒りはどこへやらケロッとした表情で、スキップを始めた。
「情緒不安定ね」
るんるるーんと鼻歌でも歌いながら廊下を走って行った茜の後ろ姿を眺めながら、涼香はぽつりと呟いた。
如月茜は激怒していた。
「おかしい」
憤怒の形相に人々がスッと避けていく。まるで海を割ったモーセのように、彼女は人波を割って繁華街を歩いていた。
「ちょっと落ち着きなさいって」
そんな彼女の隣を行く涼香は戦々恐々だ。普段、街を歩いていると美貌によって注目を浴びる彼女は、人からの視線に敏感であった。だが、今涼香は誰からも視線を感じない。
「これが落ち着いていられる?」
グルンと振り返った茜の右手には、見慣れたスマートフォン。
『しばらく学校には行けない』
「せめて理由くらい教えてくれたっていいじゃん!」
美月は何も言ってくれない。三日前、お見舞いを断られた。そして三日連続で彼女は休み続け、同時にお見舞いも断られ続けた。
そこにこの連絡である。
「普通、お見舞いくらい許可してくれてもいいよね?」
ぐいっと茜は涼香に詰め寄る。彼女はその剣幕に仰け反りながら、激しく頷く。
「それはそうだと思うわ。けどきちんと理由を聞いてみた方がいいわよ」
正論である。だが、その正論は怒り狂っている人間には通用しない。
「うるさい!どうせ聞いたって教えてくれないよ!私はもう直接会いに行く!」
繁華街を抜け、自宅の方向に向けて歩き始める。肩で風を切る茜の後ろを、小走りで涼香は追いかけた。
雨は昨日で止んだ。その残滓は路傍の水たまりと、鼻につく雨上がり独特の甘い香り。傘が要らなくなった街並みは、くっきりとその姿を茜の視界に映し出す。だが、それを共有する者はいない。いつもいる人間はいない。
恋人がいない。
「待ちなさい!」
後ろから聞こえてくる涼香の呼び声。だが、それは彼女に届かない。欲しいのは女性にしては少し低めで、クールなその声じゃない。舌ったらずで、ゆっくりで、鈴のような声。
美月の声だ。
雨上がりの道。
晴れの日に街を見たのは、先週の火曜日が最後だ。それからはずっと雨で、美月と一緒に帰る事も出来ていない。
「引きずり出してやる」
通りすがりの背の高い男が、ぎょっとしたように茜を見た。しかし、そんな事に構わず彼女は歩みを進めた。
「帰って」
しかし、その決意をもって進んだ先で待っていたのはキッパリとした拒絶であった。わずかばかりに開いた玄関。その隙間から美月の丸い瞳が覗いている。本来ならホラー展開だが、その瞳の持ち主が、あまりにも可愛らしいせいで幼女の戯れのようにしか見えない。
「なんで?」
茜は扉一枚隔てた先にいる恋人に仏頂面で尋ねる。
「今はちょっと大変だから」
よく見てみると彼女は少しやつれていた。もちもちだった頬はこけ、艶やかだった長い髪はくすんでいる。
「大丈夫?」
それに気づいた茜は怒りから心配へと感情を変え尋ねた。だが、その想いが美月に届く事はない。
「師匠からの追加課題で、眠れてないだけ」
「涼香のドレスで課題は終わったんじゃないの?」
「あれの出来があんまり良くなかったから追加指導が入った」
美月の言い分は一見、どこもおかしな所がない。けれど、茜は違和感を覚えた。
「ねぇ、何かあるなら話してよ。私達の仲でしょ?」
自分で自分たちの関係性を恋人と呼ぶのは変な気がして、だけど夫婦と言うのはもっと変で、気を使った彼女は曖昧に誤魔化した。
「だから言えない」
そんな誤魔化しをして右下を向いた彼女とは対照的に、美月は正面から端的に切って捨てた。
「だから言えないって何?ちゃんと教えてよ」
だが、その対応は怒りから心配へと移行させた茜の感情を、再び怒りへと引きずり戻す。
「………… 」
美月は何も言わない。
「ねぇ美月。茜は貴方の事心配してるのよ。もっとちゃんと話を聞いてあげたら?」
黙って話を聞いていた涼香が、彼女に詰め寄る。その声音は柔らかでいて、視線は鋭い。
「………… 」
けれど、美月は何も言わなかった。初めほんのり開いているだけだった瞳が、今は見開かれている。そして、その大きな瞳でもって二人をじろりと見ていた。扉の僅かな隙間から、二つのぎょろりとした目玉。
茜は思わず身震いする。見慣れたものと違うそれに恐怖を覚える。
「―― もういい」
気づけば彼女はそう口にしていた。
「え?」
茜の後ろで涼香が驚きの声を上げる。けれど茜は意に介せず言葉を紡ぐ。
「そんなに私と話したくないなら、もういい。ちゃんと話せないなら一緒にいる意味ないから」
「茜!」
くるりと背を向けて、踵を返した彼女に涼香が叫ぶ。その行動は彼女が恐れた対話拒否に他ならない。
「もういいよ。だって私がこんなに話してって言っても、話してくれないんだもん。これ以上何言っても無駄だよ。もう私達別れよ」
けれど、茜はもう諦めていた。美月は明らかに異常をきたしている。だが、彼女にはその要因が分からなかった。デザインの師匠からの叱責なのか、後にメールで伝えた涼香の失恋か、何か分からないが美月はおかしい。
中学を上がってから欠かした事のない髪と、肌の手入れは見るからにおざなりで、目の下のクマが心なしか酷くなっているように見える。でも、茜にはどうでもよかった。だって彼女には変化の理由を知る術がないのだから。
「美月、貴方止めなくていいの?」
ずんずんと対面の自分の家へと向かっていく茜を後目に、涼香は尋ねる。
「………… 」
だが、彼女はまたしても動かない。
「そう…… 。失望したわ」
そんな美月を冷めた目で見つめ、涼香はその場を後にした。
「………… 」
二人の後ろ姿を、扉の隙間から黙って見つめる美月。
「あかね」
小さく呟いた彼女の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
「ごめん」
その声は僅かに震えている。ぽつぽつと雫が彼女の頬を流れる。顎のラインを伝って流れるそれは、顎先に溜まり堪え切れなくなった雫から順に地べたへと落ちていく。
十滴ほど雫が地べたを打った頃、美月は堪らず駆け出した。今すぐにでも謝らなくては。
彼女の心中はそれで埋まっていた。今ならまだ間に合う。すぐに茜を追いかけ、彼女の背を叩き「ごめん」と言って、事情を話せばきっと理解してくれるだろう。彼女はきっと失望するだろうけれど、それでも「ありがとう」と自分の事を受け止めてくれるだろう。
茜が理想とする恋人とは別物になってしまうだろうが、このまま別れるより数倍マシだ。
美月はそう考えて、一歩踏み出し―― 家の門を出た瞬間、体が固まった。
彼女の潤んだ瞳に映るは長身の男。
「やあ、美月さん」
彼は彼女の顔を見るなり、満面の笑みを浮かべてそう言った。
「っ!」
先ほどまでの覚悟はどこへやら、美月は瞬時に身を翻す。その間に茜は家に入ってしまって、手の届かない所に行ってしまう。
「そんなに急ぐ事ないじゃない」
口に手を当て、猛スピードで玄関の中へ引っ込んでいった彼女に向け、男は困ったように眉を寄せ、片頬を人差し指で掻いた。だが、その言葉が美月に届く事はない。
ドタンと勢いよく玄関を閉じる。その勢いのまま鍵をかけ、彼女はその場にへたり込んだ。扉を一枚隔てた外、男の気配はない。荒れた息。張り裂けそうに血流を回す心臓を抑えながら、酸欠の金魚のように口をパクパクと動かす。
美月はもう何も考えられなかった。
前世から三十年以上連れ添った恋人に振られた事も、五年近く日々を共にした友人に軽蔑された事も、彼女の眼中にはない。
彼女の脳裏には浮かぶのは、さっき玄関先で出会った男の笑みのみ。ぶるぶると、まるで幼子のように彼女は震える。覚悟を決め、止まったはずの涙が再び流れ始めた。しかし、それは先ほどまでのものと全く異なる。
美月は自分の手で、自分の体をぎゅっと抱きしめた。小さな手に、細い腕。男の人なら片手で掴めてしまいそうな細い首。
変わってしまった。
「うぐっ」
流れ落ちる涙を、腕で拭う。彼女は俯く。嗚咽を堪えようとして、代わりに細い声が喉奥から漏れる。それがあまりにも甲高くて、美月はいよいよ声が堪え切れなくなる。玄関のタイルが滲み、力尽きた両腕がだらりと垂れ下がった。目を見開いたまま、たらたらと涙を流した美月。
もはや彼女に誰かを思いやる余裕などない。
すべての元凶はあの男。無邪気な笑みで美月を迎えたあの男。その姿を思い返すと、彼女は全身の震えが止まらなくなる。今、こうしている瞬間にも後ろから、「やぁ」とあの呑気な馬鹿面で声を掛けてくるのではないかと疑心暗鬼に駆られ、心を休める事すら出来ない。
美月はあの男に縛られていた。
だが、救いを求める事は出来ない。
茜に説明する事は出来ない。
だってそれはきっと、彼女をがっかりさせるだろうから。