転生したと思ったら婚約者(元男)が女の子になっていた件について 作:舞依夜
足音を立てて階段を上る。
「茜!うるさい!」
階下から母親の注意が飛んだ。だが、彼女はそれを無視して自分の部屋に転がり込む。そしてその勢いのままにベッドの上へと転がり込んだ。柔らかな布団が茜を優しく包む。枕元に置かれた兎のぬいぐるみに手を伸ばし、強
く抱く。
「もういや」
制服が皴になる事も気にせずに彼女はうずくまり、頭を抱えた。
「私の言う事なんて誰も聞いてくれない」
言葉にすると、押し殺した感情が零れ始める。
こんなにも話して欲しいと言っても伝わらない。
別れようと衝動的に発した言葉に、美月は反対もしなかった。
理由も聞かずに、母親は自分を叱る。
誰も自分の主張に、耳を傾けてくれない。
『きちんと話し合いなさい』
涼香の言葉がフラッシュバックする。
「でも、私の話なんて誰も聞いてくれないじゃない」
自嘲気味に茜は呟いた。そして、その言葉もまた、誰の耳にも届かない。誰にも届かない旋律を刻んで何の意味があるのか。
対話は相手がいて初めて意味を成す。文字は他者に伝えるために誕生したのに、茜にはその相手がいない。
「みづき…… 」
彼女から送られたぬいぐるみに顔を埋める。もはやそこに温もりはない。
断ち切られた繋がり。恋人として繋がっていた二人は、「別れよう」という茜の言葉によって他人へと移り変わった。
それが寂しくて、ちょっと言った事を後悔して、だけどそんな気持ちも美月はきっと受け取ってくれないだろうと思い、茜は悲しくなる。
ぴろりんと軽快な音を立ててスマホが鳴った。ここ数日待ち続けたその音。けれど今はそれが煩わしかった。そう思いながらも、一抹の希望を胸にポケットからスマホを取り出す。送信者は美月だった。何の感慨も抱かずメールを開く。
『ごめん』
そこにはたった一言そう書かれていた。
「結局何も言ってくれないじゃない」
舌打ちをしてスマホを放り投げ、茜は再び丸くなる。謝罪が欲しかった訳じゃない。彼女はただ頼って欲しかったのだ。美月の不安を、恐怖を分け合いたかった。悩みを分かち合いたかった。なのに、彼女はそれを理解してくれない。言えないのか、言わないのか、どちらなのか彼女には判断がつかないが、言えないならそう言ってくれればいいのだ。黙っていないで、口を開いてくれればいいのだ。
「もういや」
茜には美月の考えている事が分からない。
デザインの勉強も、女の子らしくなった理由も、彼女は何一つ説明しない。勝手に自己完結し、それで満足して、一緒にいるのに茜には何も告げない。そんなのは一緒にいるとは言わない。
彼女は何も秘密にしたい事を話せと言っている訳ではないのだ。やましい事を追求するつもりもない。ただ、分かりあいたかった。好きな事を、嫌な事を。恋人の視点で世界を見たいと望む事の何が悪いのだ。各々の世界で見たいものを見るだけなら一人でいればいい。
けど、それが嫌だから茜は美月と一緒にいる。
昔の、好きになったきっかけとなった力強さを失っても美月と一緒にいる。好きな要素を失っても共にいる。だけどそれは誰でもいい訳じゃない。
「ほんとうにばか」
彼女は首からネックレスを外した。二人が小学校に上がった時、指輪の代わりに美月から送られたそれ。逆三角形の黒いチャームがついた中二病みたいな、およそ女子高生が身に着けるに相応しくない装飾品。けれど、茜は肌
身離さず着けていた。
ぽいとそれを机の上に放り投げる。安物で、縁日の景品になっていそうなしょうもない代物。質に入れる事さえ叶わず、ネットオークションに賭けても一円にすらならないだろう。だが、それでも茜にとっては値千金の宝物だ
った。ひとつため息を吐いて、彼女はゆっくり目を閉じる。己への問いを繰り返す。
別れようは言い過ぎたかもしれない。
いや、これでよかったんだ。話したかった内容は『好きな所がないのに一緒にいてもいいのか』。話し合いの結果では、別れる事になったかもしれない。
それが少し早く、確定事項になっただけ。
明日からどんな顔で美月に会えばいいのか。
どうせ、明日も学校にこない。なら関係ない。
そうだ。これでいい。この結末で正しいんだ。
彼女はそう自らに言い聞かせる。
だが問いは止まない。
これで、もう関わることなくなっちゃのかな?
―― それは―― 少し――
そんな思考を頭を振ってかき消す。摩耗した心。前世と違って細い糸で繋がれていた心は、容易く解け、切れた糸が紡ぎ直される事はない。涙も流さず、茜はただ溶けていく。布団に意識を沈ませる。疲弊した精神を癒すため
に、肉体が強制的に活動停止信号を出す。
かくして彼女は眠りに落ちた。
一方で外はまだ明るい。
九月は終わり十月へと駒を進めた。僅かに残っていた残暑も長雨と共に消えて行った。時刻は午後六時。一週間ほど顔を出していなかった太陽が、再び沈みゆく。世界がオレンジに染まる。その中を美月と茜は幾度となく歩い
てきた。
百年前はカエルの鳴き声をBGMに、現世では自動車の駆動音や焼き芋焼きの呑気な音楽を背に。だが、その光景はいまやもうない。
雲が猛スピードで西から東へ移っていく。嵐の後特有の動き。普段白く、高い所にあるそれが酷く身近に感じられる瞬間。
でも、茜も美月もそんなもの見ていない。
茜は美月に、美月は不気味な男に夢中で、そんなものを眺める余裕はない。のんびりしていた日々は過ぎていく。
涼香のデート、そして失恋という嵐は過ぎた。
だが、美月と茜の日々は嵐の後の雲の様にこれから加速していく。