何が原因かと言えば、単純に油断していたことだ。
アオキは普段の猫背をさらに丸くして溜息をついた。
そもそも普段ジムリーダーや四天王として働いている時は指輪は──言うまでもないと思うのだが念のため注釈しておくと、ここでいう指輪とはミヤコとの結婚指輪のことだ──つけないようにしているのだ。
右利きだからあまり左手でボールを触ることはないがボールを握った時に傷がつかないとは言えないし、バトルの最中に攻撃の余波で破損したり紛失する可能性は排除しておきたかった。一度それで腕時計を壊したことがあるから、なおさら。
とはいえ、きっと温厚なミヤコはアオキが指輪を壊そうが失くそうが怒らないだろう。
そう思ってからアオキは(ただし……)と付け加えた。
代わりに泣き真似をしてアオキに何かしらを強請ってくるに違いない。
物とかじゃなくて、……夜の房事の話だ。
アオキと出会うまでは未通だったという彼女はアオキとの経験を経てからはそういったことに興味津々な上に、元来の寂しがりのせいもあって、2人きりの時は積極的に肌を重ねたがるところがあった。
そうなるのはポケモンたちもいない本当に2人きりの時だけだし、それ以外ではいつもの彼女なのだが。
アオキとしても別にそれ自体は構わないのだが、アオキの趣味やら好きなシチュエーションだとか過去の経験だとかまで聞いてくるのだから流石に少し困っていた。変なところで大胆かつ積極的になるのだ。
もしも仮にアオキが指輪を失くして帰宅したら彼女はこんなことを言うだろう。アオキの脳内の仮想ミヤコが笑顔で話し出す。
「おかえりなさい、アオキさん。あら、どうなさったんですか、そんな顔をして……え?指輪を失くしてしまった?ああもうそんな顔をしなくても大丈夫ですよ。次のお休みに一緒に新しいものを買いに行きましょうね。そうだ、よかったら私に新しい指輪を選ばせてください。アオキさんにお似合いのものを選ばせてもらいますから!いいですか?ふふ、ありがとうございます!…………まあ、それはそれとして大切な結婚指輪を失くしてしまうとは私の旦那様としての自覚が足りていないのでは?今夜はおしおきプレイをしましょうね、アオキさんが御主人様で。……え?立場が逆ではないか……ですか?別になにも悪いことをしていない私をアオキさんがいじめるというシチュエーションが逆説的にアオキさんへのお仕置きになるんじゃないですか!まあアオキさんに他に好みのシチュエーションがあるのでしたらそちらでも全然やぶさかではないというかむしろ是非という気持ちですが……む!なんですかそのお顔は!私は何がなんでもあなたをベッドに引き摺り込みますからね!」
……彼女ならやりかねない。
というか、絶対に要らない想像をしてしまった気がする。
……いや、話が本筋から逸れた。
とにかく、トレーナーとしての時は指輪をつけないようにしている。
ただし、営業マンとして働く時は例外だ。
営業の時は指輪を破損する危険性は低い。
それに変な話だが、対人においては一定の年齢を越えると結婚しているという事実が人間性の信頼の証明になる時があるのだ。
つまり、この人は結婚しているからまともな人なのだろう、という変な信仰のような思考だ。
それを肯定するつもりは無いが、そういう理由もあって付けている。
その日はバトルの予定はなく、完全に営業職の仕事だけの日だった。しかも午後から内勤。定時退社は約束されたようなものだった。
内心普段よりハイテンションで仕事をしていたアオキだったが、定時まであと1時間というところで頼まれ事をされてしまった。
それが、アカデミーで仕事をしているハッサクへ、明日中に提出が必要な書類を渡してほしい、というお願いだった。
あと少しで定時というところで頼まれた仕事にアオキの目が死にかけた。
が、ふとハッサクへさっさと書類を渡してあとはそのへんをぶらぶらして定時になるのを待てばいいのでは?という天啓が降りてきた。合法的なサボタージュ。
アオキは帰宅する気満々で荷物をまとめると、アカデミーへ向かった。
アオキがアカデミーに着いた時、ハッサクはちょうど美術の講義中だった。もう少しで終わるようだったため、廊下でチャイムが鳴るのを待ち、美術室から生徒たちがある程度捌けていったのを確認してからそっと中に入り、書類を渡した。
ここまでは問題なかった。
その時に偶然授業を受けていたらしい、若くしてチャンピオンクラスになったネモとアオイがいたことも別に問題では無いし、彼女たちに声をかけられたことも別に大したことでは無い。
彼女たちが見知った相手に挨拶ができるくらい礼儀正しい子供達だというだけなのだから。
では問題は何かというと、ごく単純に年頃の子供達の恋愛ごとへの関心の強さを把握できていなかったことだろう。
「アオキさん指輪してる!」
「えー!ほんとだ!結婚されてるんですか!?」
他人の左薬指に小さな指輪が嵌っていることに何故そうも目敏く気がつけるのだろうか。
アオキの指輪に気がついた2人はそれはもう楽しそうに「いつ結婚したんですか!?」「お相手はどんな人ですか!?」「出会いは!?」「プロポーズの言葉は!?」と機関銃のように質問を重ねてきた。
2人の友人らしき少年少女はそれを止める様子はなかったし、挙げ句の果てにハッサクまで「せっかくの機会ですし、人生の先立として話してやりなさい」などと言うものだから逃げ場が無くなった。
こうなると逃走を選ぶ方が面倒になる。
逃げようとしても逃げられないならいっそ戦う方が楽な時もあるのだ。
こういう手合いはある程度話して満足させてやればいい。
仕方なく、アオキは妻との……ミヤコとの出会いを話すことにした。
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・
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「……というのが妻との出会いです」
出会いを話すといっても、当然全てを話したわけではない。
ホテルの話は勿論、ミヤコがアオキに心を開いて話してくれた過去のことや、人がポケモンに攻撃されたという子供にはショッキングな話はしていない。
本当に上辺だけ、概要だけにとどめた「仕事で出会った協力者と仲良くなって結婚しました」レベルの話だ。
けれどそれだけでは満足できなかったのか、少女たちはきゃあきゃあ言いながらさらに質問を重ねてくるものだから困った。
「奥さんってどんな人!?」
「ポケモンで例えると!?」
「前にアオキはマルマインと言ってましたですよ」
「ハッサクさん、それあまり口外しないでください……チリ経由で妻にバレて叱られました……」
地面タイプ使いの気のあるミヤコとしては、地面タイプに弱いタイプのポケモンに例えられるのは嬉しいことではなかったらしい。
「アオキさんだって格闘タイプっぽいって言われたらモヤっとするでしょう!ノーマルに強いし飛行に弱いし!」と全然ピンとこない説明をされたし、ミヤコはその発言でアオキのカラミンゴの機嫌を損ねてつつかれていた。
閑話休題。
少女たちの質問に適当に回答したり、適当すぎてハッサクに怒られたり、ミヤコの左腕麻痺の件を聞いたペパーという少年に「目も開けられなかったポケモンがバトルできるようになるまで回復した秘伝スパイス」なるものの話をされて(眉唾……)と思いながらも厚意を無下にするのも悪くて連絡先を交換したりしてから、アオキはなんとかその場を離脱した。
様々なことに関心のある子供はすごいな……と思うと同時に、教師はすごいな……と思いながらアカデミーを離れて、テーブルシティの広場へ出た。
定時にはやや早かったが、実質定時のようなものだと思って屋台を眺める。屋台からする香りに無意識に腹部に手を当てた。
……チャンプルタウンの自宅に帰るまでにはまだ時間がある。なにか食べてから帰ろうか。
そんなことを考えていた時、不意に声をかけられた。
「おや、まだ定時前なのに買い食いしようとしてる不良サラリーマンがいますね」
声の方へ目を向けると、そこにはこちらを揶揄おうとニヤニヤした笑顔を浮かべているミヤコがいた。見られてしまった、と思いつつ軽く頭を下げる。
「ミヤコさんも仕事終わりですか、お疲れ様です」
「お疲れ様です。しかし、晩ごはん前に買い食いとは……これは現行犯逮捕ですね」
「あ、いえ、まだ買ってないです」
「あちらのピンチョ・モルノとかいいんじゃないでしょうか?」
「ミヤコさんも食べるんですか」
「アオキさん買ってきてください」
「あ、はい。……パシリ?」
2人分の肉串を買って近くの椅子に座って食べる。なんだかんだ言ってミヤコも晩ごはん前に食べているが2人まとめて現行犯なのだろうか、と思いつつ、小さな口でもぐもぐしている妻を眺めた。
手持ちのポケモンたちもそうなのだが、好意を抱いている相手の食事風景を見るのは好きかもしれない、とアオキは思った。それから問いかける。
「おいしいですか」
「はい、おいしいです!」
「ではミヤコさんも夕食前の間食で現行犯なので、左手を出してください」
アオキの質問に素直に元気に答えた妻へ手を出すように言うと、彼女は「はめられた!」とケラケラ笑ってからアオキへ素直に左手を出した。
あの事件から1年以上が経った今も、ミヤコの左腕には麻痺が残っている。
リハビリを経て以前よりは良くなったといっても、腕を肩より下までなら上げられる、軽いものを掴む、肘を少し曲げる、くらいにしか動作を行うことができない。
彼女がそれを驚くほど気にしていないことと、左腕が使えないながらに器用に生活をしていることがアオキにとってはささやかな救いだ。
アオキは彼女の左手を取って、その薬指を見つめる。
自分と揃いの指輪が嵌った彼女の薬指。
……それだけのことが無性に嬉しい。
そんな感情が自分にもあったのか、と驚くような心地さえあった。
けれど仕方ないだろう。平凡な自分にとって唯一の『特別』がミヤコなのだから。
その冷たい手を握る。
自分の温度を分けてやれるように、と。
「アオキさん」
「……はい」
「せっかくですし、今日はテーブルシティで晩ごはんを食べてから帰りませんか?」
彼女の提案にアオキはうなづいた。きっと彼女が言わなかったら、自分がそう提案していただろうから。
食べ終えた串を捨てに行ってから、再度ミヤコの元に戻る。静かに待っているミヤコの横顔には暮れていくオレンジ色の日がかかっていた。きれいだ、と見惚れる。こちらに気がついたミヤコがアオキに手を振った。
「アオキさん」
名前を呼ばれる。うなづいて、彼女のもとへ行く。
「ミヤコさん」
差し出す手を彼女はとって、握る。
立ち上がり、2人並んで歩く。
ただそれだけのことが嬉しかった。
少なからず、気分が高揚していたのだろう。
ふとアオキはいつもよりも声を潜めて、彼女の耳元で囁いた。
「ミヤコさん」
「はい、なんでしょう?」
「……今夜、家に帰ったら、お時間もらっていいですか」
「ミ゛」
夫婦関係になってからもいまだに変な奥手さを残したアオキにとって「今夜お時間いただいていいですか」という問いかけはオブラートに包んだ夜のお誘いのことを指している。
それがミヤコに伝わらないわけもなく、彼女は顔を真っ赤にしてアオキを見つめて黙り込んだ。
攻めると強いが守ると弱い……というか、自分からはグイグイ行く割に、少しアオキがそういうところを見せると途端に頬を染めて黙り込み生娘のような反応を見せるのがミヤコだ。
そんな彼女へ追撃するように「……だめですか」と問えば、ミヤコは俯いたり顔を上げたり唸ったりしてから小さな声で答えた。
「……だめ、じゃ、ないです」
「では、よろしくお願いします」
そう返せばミヤコに上目遣いに睨まれるがあまり怖くはない。
むしろ可愛いなあと思うくらいだった。
……それを口にしたら怒るだろうか、喜ぶだろうか。
わからなかったから、アオキは敢えて口にすることにした。
トライアンドエラーを積み重ねることも夫婦生活には大切だろう。
そう思って実際にアオキが伝えた時の彼女の反応については、敢えて口を噤んでおく。
自分にも独占欲なんてものがあったのか、と改めて認識しただけのことだから。
ということで本編完結いたしました。
これまでの閲覧やコメント本当にありがとうございました!
ハーメルンでの投稿は初めてだったのですが、いっぱい温かいコメントいただけて嬉しかったです。
返信のタイミングを逃してしまってできてなかったのですが、全て有り難く読ませてもらってます。めちゃくちゃモチベーションになりました!
あと「お酒を飲もう……」を投稿した後、即座におじさんの正体やランちゃんの正体がバレた時は手を叩いて笑ってしまいました。
ランちゃんはせめてクインかキングの2択で迷ってよお!!
元はエロゲ風みたいな感じで書きたかった事もあり、この2人のR18については需要なくても自分が見てえので、こことは別にR18用の小説枠を作って書く予定です。
もし本編で性描写を入れていたとしたらやはりホテルのシーンと事件後ミヤコさんの病室でそういうシーンが入ってたと思いますが、そうなるとかなり本編の内容も大きく変わっていただろうなと思います。余談でした。
とかく、ここまでお読みいただきありがとうございました!
2022.12.31 ホネホネ