シュトロハイムという軍人と出会った第一印象は、一体何だったか……只々彼のその姿に異様さに驚く他なかったとしか言いようがない。
顔の右側は、すっぽりと鋼鉄製のコルセットが装着されていて、その右目はモノクルのような丸形のレンズが装着されている。そのドイツ軍の制服の腕の裾からのぞかせている手は、機械で出来た義手になっていて、指を動かすたびに奇妙な機械音が静まりかえる室内に響き渡った。
彼は一体何者だろうか?そもそも彼は人間なのか?様々な疑問がフラッシュの脳内を駆け巡り、シュトロハイムの姿を頭からつま先までふらふらと視線を泳がせた。
彼の身体がもしも人間であるとしたら、これほど人間の生体拒否反応を起こさずに、かつ普通の人間となんら変わらぬ繊細な動きを可能している科学力は、現代の技術と勝るとも劣らないものだ。
「取り締まりは我々の専売特許。貴方の出番ではないはずです。秘密国家警察ではない貴方が……いや、そもそも貴方のような方が出る幕ではないはずだ、大佐殿」
大佐と呼ばれたシュトロハイムは不遜な表情を浮かべながら、牽制をしてきたアーノルドを無言で見つめ返す。アーノルドの言葉には、上官に対する敬意と尊敬とは程遠い……まるで膿んでしまった傷を見るような、そんなある種の蔑みすら感じさせる意が含まれていた。シュトロハイムは彼のことをじっと見つめていたが、やがてふっと一つ溜息をつくと言葉を口にした。
「……確かに貴様の言う通りではある。本来貴様の管轄に私が介入する謂れはない。我々親衛隊のスローガンの一つにも「常にSS(親衛隊)隊員は沈黙を守り、自らに関係ない問題には介入してはならない」とあるからな……だがこれは私の独断ではない。」
親衛隊と聞いたフラッシュの顔はたちどころに曇ったものとなる。この国のトップである男が、ドイツの正規軍である国防軍とは別に創設した、ボディーガードのような私兵集団から発足した組織である親衛隊。彼らは選ばれたエリート集団であるという自負を持って、最盛期には数十万もの1国の軍隊に勝るとも劣らない勢力を誇り、ドイツの様々な負の側面を生み出した元凶と言っても過言ではない。
そんな親衛隊の……この時代におけるドイツの中枢を担った組織の上級階級である大佐の彼が、わざわざ身元の分からない、引いてはスパイ容疑を掛けられている自分に一体何の用だろうか。
「……私の独断ではない?それは一体…」
「この通りだ」
シュトロハイムは胸ポケットから一枚の紙を取り出すと、アーノルドに手渡す。彼から渡された書類を上から目を通していたアーノルドだったが、書類のとある箇所に目を止めた彼はその途端に顔を曇らせた。
「……ヒムラー親衛隊全国指導者に、ゲッベルス宣伝大臣の連名、だと…」
その名前に、フラッシュはこの日に何度目かの衝撃を受けることになった。ハインリヒ・ヒムラーとヨーゼフ・ゲッベルス。ヒムラーは親衛隊のトップとしてその手腕を発揮し、ゲッベルスはドイツのトップの右腕として、その卓越した演説力を用いてドイツ国民を戦争へと扇動した張本人の内の一人である。
彼らはドイツの終戦によって各々がその罪から逃れるように自ら命を絶っており、今日のドイツでは彼らは罪深い戦争犯罪者として非常に悪名高い人物として認識されている。
そんな彼らの命令によって、自分は連れ出されようとしているのだ。これが絶望と言わずになんと言おうか。顔が蒼ざめているフラッシュとは裏腹に、アーノルドとシュトロハイムは以前変わりなくにらみ合っていた。
アーノルドは無言でシュトロハイムのことを睨みつけていたが、やがてしばらく時を隔てると、溜息を一つ付きながら口を開いた。
「……仕方ありません。」
シュトロハイムの所属が不明にしても、親衛隊と秘密国家警察は大元を辿れば一つの組織であり、そのトップがヒムラーであることに変わりはない。つまりアーノルドは自分の仕事を、頭を飛び越えて持っていかれ、面目を思い切りつぶされたというわけである。
実質彼が持ってきた命令は組織のトップからのものに近く、その命令を覆すことができる人物は実質国内に一人しかいない。アーノルドが悔しそうな表情を浮かべているのを横目に、シュトロハイムはフラッシュを連れて部屋を後にした。
一人残された部屋で、しばらく椅子に身を預けていたアーノルドだったが、突然その拳を力強く机に叩きつけると、その箇所に大きな凹みを作ることになった。
「…シュトロハイム。」
組織のお荷物が、今さら一体どんな雑用を押し付けられようと関係ない。奴は自分自身の面目を潰したのだ。
あの鉄屑に、ウマ娘の小娘…
その卑小な自尊心を破壊された男は、一人部屋で復讐心の炎を宿らせた。
「……この借りは必ず返させてもらう。」
建物を出た二人は、兵士たちの視線の中で玄関口に止めてあった車に乗り込んだ。フラッシュはそのシュトロハイムに注がれる視線の違和感に気が付いた。
…あの視線は。
あれは…シュトロハイムに注がれる視線は、上官に対する視線のそれではない。まるで異物を見るような、そんな視線だった。
シュトロハイムはそんな視線をものともせずに車の後部座席に乗り込むと、その隣の空いた席を二度優しく叩き、フラッシュに座るように促した。フラッシュは座ることに若干躊躇したが、ここで彼に従わないことは賢明ではないだろうと判断すると、いそいそとシュトロハイムの横に座った。
車はシュトロハイムの指示によって、前へと走り出していく。フラッシュは彼の方へと顔を向けると、おずおずと口を開いた。
「……あの、次は何処に?私は何をするんです…か…?」
車内には居たたまれない沈黙が支配する。フラッシュはそのあまりの気まずさに顔を車外の方へと移したが、その長い沈黙の後にシュトロハイムの口から発せられた言葉は意外なものだった。
「……知らん」
「……は?」
その言葉にフラッシュは素っ頓狂な声を上げる。
「貴様が何の故にヒムラー閣下とゲッベルス大臣にお呼びがかかったのか。そんなことは露とも知らん。」
シュトロハイムの竹を割ったような物言いに、フラッシュは茫然と彼の顔を見つめた。左側から望む彼の顔は、どう見ても普通の人間にしか見えない。そんな彼が何故に組織から腫物のように扱われているのか、それは分からない。それ以上の言葉を失ったフラッシュは、再び車の外の景色に視線を向ける。
私の知っている、しかし何処か歪で異なるベルリンの昼下がりの景色に、フラッシュは小さくその目を細めた。
やがて車はとある建物の前に横づけされる。車から降りたフラッシュはその建物を見上げると、建物の屋上に掛けられた真紅色にシンボルのマークが施された旗に、そのマークのレリーフを足に持った鷲の像が自身のことを静かに見下ろしていた。
「……あの。これから何処に?」
「……貴様にはお二人に会ってもらう。貴様にとっても雲の上にも等しい人物だ」
建物の中に入った二人は、やがてとある部屋の前で立ちどまる。部屋の扉をノックして入室の許可をシュトロハイムが乞うと、部屋の中から入室の許可と、入室を促す声が返ってきた。
「……貴方たちは」
その部屋の中には、二人の人物がいた。一人は丸眼鏡に口元に淡いひげを蓄えた男と、もう一人は病人かと疑うほどやせ細り、まるで鷲の嘴のように曲がった鼻をしていた。
シュトロハイムは右手を肩の高さまで引き上げ、室内の人物に敬意を示すとハキハキとした態度で言葉を続けた。
「第1特殊目的大隊シュトロハイム、今参りました。恐れながらご命令を拝命していただきたく存じます。」
シュトロハイムの異常に畏まった態度と、先程の連名での命令から、この2人の人物が一体何者であるのかは想像に難くない。即ちシュトロハイムが所属する親衛隊のトップであるヒムラーと、ドイツの宣伝大臣であるゲッベルスその人だった。
「……本題に入ろう。」
ヒムラーが顔を上げ、こちらを見つめる。その目はまるで洞穴のように底の見えない暗闇を映しこんでいた。フラッシュは彼のその姿を見つめ息を呑んでいたが、彼女をよそに彼は言葉を続けた。
「……3年前、ベルリンで行われたオリンピック。君は見ていたか?」
「はっ!非常に我らがドイツの御前上等な大会でありました。」
その言葉にゲッベルスは首を縦に振ると、その言葉を引き継いだ。
「……オリンピックで我がドイツの神髄が国内のみならず世界に知らしめることができた。」
つまりドイツにとってオリンピックは体のいいプロパガンダだったというわけか。フラッシュは饐えた香りを放つ彼らの会話に霹靂していたが、その会話の方向は思いもかけない方へと進んでいくことになった。
「……そのオリンピックだが、本来は情勢を鑑みて中止されると目されていたが、昨日我がドイツの同盟国であり、次回の開催国の予定である大日本帝国の大本営発表によって、予定よりも開催を遅らせる状態ではあるが、首都東京にてオリンピックを開催するということが明らかになった。」
日本…そういえばこの時代の日本も、ドイツと同じように軍国主義の大国としてその名を連ねていた。今はまだ大戦に参加はしていないものの、1941年にアメリカ領のハワイ州にある軍港を奇襲攻撃することによって太平洋戦争へと突き進み、そしてドイツと同じくその開戦の代償を払うことになった、という歴史を持っている。
「………戦時中ではあるものの、既に開催国の日本や同盟国のイタリアは勿論、アメリカにソ連、イギリスに中華民国などの国々も参加を表明している」
「今は戦時中であるが、そんな時だからこそ国民の民意を結集させるこのオリンピックが肝要であると総統もお考えだ」
ただのオリンピックでも、プロパガンダでもない。既に世界は戦火に包まれようとしている。人々を苦痛から目を逸らさせる道具として、そして国の隆盛を掛けた重要な、ある種の国家を代理してその力を誇示する場となる。勝利者にとって、それは希望となり、敗北者にそれはその先の国家の未来の不安と直結することになるということだ。
「……それで、私がこのウマ娘と呼び出された理由とは何なのでしょうか?」
シュトロハイムの質問によって、辺りは静寂が支配する。ヒムラーはその顔を上げると、まっすぐ彼とその隣にいるフラッシュのことを見つめた。
「………君をそのオリンピックの競技種目の「ウマ娘によるレース競技」における指南役、そしてその責任者に任命する。そしてエイシンフラッシュ…君にはその代表選手の一人として大会に出場してもらう」
それはあまりにも衝撃的な内容だった。シュトロハイムもその命令の異質さにその目を大きく見開いていた。
「……私は。いや、その……」
「………経験がない。そう言いたい気持ちは重々承知だ。だがこれは我らがドイツにとって責任重大なもの。そうそう一介の者に任せることはできない。」
ゲッベルスの言葉に、ヒムラーが引き継ぐ。最早その語気と表情には、彼らには拒否するという選択肢を一切与えないという意がふんだんに含まれていた。
「総統閣下は君に非常に期待している。その期待を次は裏切ることがないように、な」
彼の言葉の真意には、アーノルドがシュトロハイムに発したものに似たもの…否、それよりも遥かに敢然たる、厳格な何かを感じさせた。シュトロハイムは自身に既に選択肢がないことを悟ると、その身を祖国の大きな流れに投じるため、その右手を大きく引き上げた。
「承知いたしました。必ずや祖国に勝利を持ち帰って見せましょう。」