――私は
そう思い始めたのは今からおよそひと月程前のことになる。月が完璧に夜に塗り潰され、星が輝いていたあの日、寒い空の下。日課である里の外の散策で道に迷い、夜になってしまった時の話だ。
吐く息が白い。その白が星々の明かりに浮くのを見ながら、再び溜め息を吐く。周りの風景に微塵も見覚えがなかった。十五の時から始めた散策は、最初こそ迷う事はあれど、年を重ねる毎に様々な場所を訪れ、それこそ人里の周囲は自分の庭だと言えるくらいに慣れ親しんでいた筈だった。
一体何処で道を間違えたのか。
いつも通りの道を通っていた筈が、何時の間にか知らない道を歩いていたのだ。ぼんやりとしていたので、普段は通らない木々草々の間にでも突っ込んでしまったのか。新月の夜故に、普段より光が少なかったのも原因かもしれない。知らない場所を偶然知れたのは良いのだが、出来れば意図的に開拓したかったものだ。今日こうなると知っていたら方位磁石でも用意しておくというのにと、探検の醍醐味を否定しつつ足を進める。空が見えない程に鬱蒼と茂った道を足取り重く歩いて間もなく、空の見える空間に抜けた。そこは行き止まりであったが、星が良く見えそうな場所だった。
方角を確認するために空を見上げると、まるで十字架のような影が目に映る。何だろうと注視し、その影が何であるか目が、脳が認識した瞬間、時が止まったかのような錯覚に陥った。
夜に浮かぶ金の髪、赤いリボン。簡素な黒と白の服は、少女白い肌をより引き立たせて酷く美しかった。普段ならば綺麗と感じる星が霞んで見えた。
これまで恋愛の経験のない私だったがしかし、これはきっと一目惚れだと理解した。そして同時に思ったのだ。『彼女に食われて死にたい』と、心の底からそう思った。こんな気持ちはきっと異常なのだろう。彼女を見る前は妖怪が人を喰らう事を恐れていたし、妖怪という存在に良い印象を持っていなかった。よく外来人が妖怪と仲良くしていると聞き嫌悪感を覚えるくらいには――嫌い、だった筈だ。
だが、今の私は寧ろ食べられたい。頭の先から身体の全てを、髪の毛も、血さえ残さず彼女に食い尽くされたい。『私』という存在の何もかもを、彼女の内に取り込んで欲しい。
彼女は妖怪だ。何か不可思議な力が働いているのかもしれない。だがそれがどうだと言うのだ。私は、少なくとも今の私は、食べられることこそ最上、それで死ねるなら他に何を求めるというのか。 それ以上を求めるのが愚かではないか。――ともかく、その時私は決意したのだ。『彼女に食われて死のう』と。直ぐにでも食べられたかったが、ふと我に返ると空は雲で陰り、彼女の姿は消えていた。残念ではあったが、彼女は人食い妖怪として有名な姿と酷似していた。明日でも、きっと私を食べてくれることだろう。
明確な目標が出来たからか、私の足取りは軽かった。普段ならば半刻はかかったであろう人里への道を飛ぶような速さで帰った。この日はどんな風に帰ったのか全く覚えていない。気付いたら自室で目を覚ました。一晩という、冷静になるには充分であろう時を超えて尚、自分の決意が全く鈍っていない事に安堵して、私は夜になるのを待った。
窓から見える日が橙色に変わる頃にはいてもたってもいられなくなって、日が完全に沈んだ途端に私はもう里の外へと出ていた。早く彼女の下へ、逸る心を抑えながら夜の森を進む。今日は月が出ているからか、視界はそこまで暗くなかった。昨日の帰り程ではないにしろ、短い時間で彼女を見た場所にたどり着いた。木々の開けた絶好の月見場所。少し欠けた月が輝いて見え、それを背景に彼女がいた。とは言え、その姿は黒い闇が球体状に包んでいたため見ることは出来なかったが。
私は深呼吸をして息を整え、唇の渇きを舌で誤魔化した。何度も同じ言葉を頭の中に反芻させ、僅かな躊躇いを振り切り、私の願いを口にした。
それからひと月、私はまだ食べてもらっていない。何故だかは解らない。ただ彼女は私の願いに対して「食べられない」とだけ言った。何故か、そう問いを投げた所で彼女は首を振るだけだった。その時程の絶望を、私は知らない。そしてそれ程の絶望を知る時は、彼女に食べられるという結末を迎えられなかった時だと断定できる。それ後三日は気持ちが沈み、部屋に引きこもっていたのだが、何とか持ち直し、それから毎日のように足を運んだのだが、彼女の返事は変わらなかった。
本当に何故だろうか。聞く所によるとあの紅い霧の異変の折、博霊の巫女に撃退されているらしいのだがそれが原因であるとも考え辛い。何故なら巫女は中立であり妖怪の営みを度が過ぎない限りは不干渉だからだ。ならば他に可能性はあるか。妖怪の生態など直ぐに変わりはしない筈。そうなれば外部の干渉があった筈。外来人という線はどうだろうか。最近外来人が多数幻想郷にやってきたりしている。そいつらの誰かが人食いを止めさせてしまったのかもしれない。だとしたら、残念だ。その外来人を殺したくなる。外からやってきて我が物顔して私の悲願を邪魔したのなら赦せない。だが、ひと月前は私も近しい考えを持っていた以上、しょうがないことかもしれない。それに、そんな事をする外来人なんて噂でも聞いていない。熱くなる気持ちを抑えて冷静になる。
どうも最近、平静を保てなくて困る。これは、恋故か。もはや二十歳を超えた身で初めて体験するというのも可笑しな話ではあるが、こういう事も悪くは無い。思わず頬が緩んだ。働き盛りの年齢の男が一人自室で笑っているとは何とも怪しい話だ。思えば、あの日から仕事にも行っていない。呼び出しすらない。厳しい仕事場であったが、とうとう見限られてしまったか。まあ、連絡も無しに仕事に行っていないのだからそれも仕方ない。
静かな、狭い自室でぼんやりと外を眺める。最近掃除を怠っているせいか、机に埃が見えるが、どうも掃除する気も起きない。恋をすると何も手がつかなくなるというが、よもやそれが真実だとは思わなかった。趣味であった読書すらする気は起きず、物思いに耽る日が続いてる現状は我ながら純情なものだと、苦笑すら浮かんでくる。夜以外部屋から出る事がないせいか、久しく家族の会話すらしていない。元よりさほど家族仲も良くなかったというのもあるが、すれ違っても無視をされるというのは寂しい話である。私がこの頃ろくに仕事もしていないのだから、当然とも言えるが。
ああ、まだ日の沈まない時間は色々と考えてしまう。そして何度も想像する、自分が彼女に食べられる光景を。どのように食べてくれるだろうか、どこから食べてくれるだろうか、骨は残るのか、服は残るのか……美味しく、食べてくれるだろうか。そんな事を子供のように期待しながら引きこもるというのは実に異常者である。自覚したところでどうというわけではないが、無自覚とどちらが良いのか。自覚がある分、自分はまだましなのではないか。
と、確かそろそろ外の世界から来た本を写本家が写したものが発売することを思い出した。このまま部屋に引きこもっていても陰鬱な思考の海しか見れない。気分転換も兼ねて本屋にでも足を運ぶのも良いやもしれん。思い立ったが吉日、私は家を出て本屋へと向かうことにした。
冬の人里は寒い。人が少ないというのもその寒さを深めているように思う。収穫もなく、稀に猟師が動物を仕留めて売ることはあるものの、基本冬までの蓄えで過ごすため昼の暖かい時間帯を覗いて里人が外出することは少ないのだ。そんな寒い中を子供たちが走り回る姿を目にし、逞しさを感じると共に自分の老いを感じた。前を見てなかったのか、私にぶつかった少年は身体を震わせていたので寒くないわけじゃないだろうに。
子供たちの元気な様をもう少し見ていたかった気もするが、早くこの寒さから逃げたかった私は、足早に本屋へと向かう。里の外れの私の家からかなりの距離があるのだが、こう寒い時期になると近場に引っ越したくなる。なんて、今直ぐにでも食べられて死にたい私が思ってしまうのは可笑しな話であるが。
本屋が見えてきたので安堵。駆け足で店に入ったが、どうも件の本はないようだ。小狭な本屋なので見落としているということもまずあるまい。無駄足になったことは残念だが、仕方ない。折角だから発売日でも聞こうかと、店の奥にいるだろう馴染みの店主を呼んでみるが返事がない。留守という事はないだろう。もう歳だし炬燵で居眠りでしているのかもしれない。不用心ではあるが、人里で犯罪を犯そうものならまず生きてはいけないので問題ないだろう。
発売日も聞けず本当に実入りのない外出だったが、気分転換にはなったかもしれない。たまにはこんな無駄足良いものだ。あの夜だって無駄に迷った結果彼女に出会ったのだから。それに発売日まで生きているかすらわからず、寧ろ死ぬことを期待している私が発売を楽しみにするというのは如何なものか。人間とは不思議な生き物だなぁと呑気に考えながら店を出る。
さて、どうしようか。このまま帰るというのも勿体無い気がするのだが……うん? ふと見慣れないものが目に映った。白いもやのような何か。銀色髪の少女の横をふよふよ浮いているそれは、実に鮮烈な存在感を放っていた。少女の緑の服が透過して見えるということは半透明らしい。なんだろうか、あれは? 無性に気になる。思わず注視していると、少女が此方を振り向いた。
そして刀を突きつけられた。思わぬ展開に固まった。少女の瞳に警戒を感じたので、私悪い人間じゃないですと目で訴えてみる。するとそれが功を成したのか、少女は刀を鞘にしまってくれた。最近の少女は刀を持ち歩くのか、危険な世の中になったもんだ。
「失礼ですが、私に付いて来てもらえますか?」
刀をしまったかと思うと突然の提案。正直、出会い頭に抜刀してくるような辻斬り染みた少女に付いて行くなどごめん被りたかったのだが、何か事情があるのだろうと察した冷静知的な私は断りの言を噤んだ。決して刀にびびっているわけではない。断じてないのだが、万が一彼女に喰われる以外で死んでしまったとなると死んでも死にきれない。少女の言葉に従う事にした。
さて、唐突ではあるが幻想郷には冥界というものがある。とある異変を境に、わりと頑張れば生きてても行けるようになったらしく、白王桜なる場所は一部の幻想郷の住人たちには絶好の桜見所として人気を誇っているとか。流石に冥界に向かうのに気付いた私は焦り、一体何用かと聞いた所、少し逡巡した表情を見せた後会わせたい人がいるとだけ教えてくれた。
はて、亡者に知り合いなんていただろうか。兄弟、両親、祖父母は健在だし、知人の葬式に出席した事すらないのだが。一介の里人に過ぎない私なんぞに用がある人物は全く見当もつかない。気になるが、もう直ぐわかるわけなので大人しくしておく。それにしてもこの階段、長い。
しばらく階段登りの苦行を続けていると、立派な門が見えた。噂の白王桜というやつだろうか。呆けていたが、少女が門を開けたのを見て慌ててついて行く。門の先は立派な庭園だった。大量の桜の気があり、今こそ咲いていないものの春になれば素晴らしい景観であろうことは容易に想像出来る。
奧に案内され、屋敷の前までやってきた。庭園に負けないくらい立派な屋敷、少女は此処で待っていてくださいと言って中に入っていってしまった。何もすることがないので、ぼんやりと庭園を眺める。手入れの行き届いた良い庭である。私の家には庭がないので少し憧れるものだ。
こうも静かで綺麗な場所だと、思わず物思いにふけってしまう。
……はぁ、早く彼女に食べられたい。思わず呟く。
「すまない、それは叶わない」
独り言に返事があった事に驚いて、振り向いて、絶句した。
――そこには男がいた。
少し、姿が薄く透けている。それはまさしく幽霊のようで、生者でないと見た瞬間に理解した。だが驚きはそれが原因じゃない。死人のように青白い顔、質素な着物に身を包んだその姿。
それはまさしく、
「久しぶりとでも言うべきかな?
或いははじめましてかもしれないが」
『私』そのものだった。
姿だけじゃなく、何もかもが私そのものだ。思考が追いつかない私に、その『私』は言葉を続ける。
「私が『私』じゃなくなったのはあの新月の夜さ。あの夜は覚えているだろう?」
――覚えているに決まっている。私はあの日、あの夜、あの時、彼女に食われて死ぬと決意したのだから。
「『私』も私もそう決意した。でも、そこからが違うんだ」
『私』は幸せそうに語る。
「あの夜、私は死んだ。でも『私』は生き残ったんだ。食べられたいという決意が、独立した幽霊として誕生したんだ」
その言葉で、全てを悟った。
人は死ぬ時、幽霊になる。ただ人が死んで生まれる幽霊というのは一つとは限らない。稀に複数の幽霊が生まれる事があるらしい。
つまり、私は『私』が死んだ時に単純した食べられたい決意と『私』の記憶を持つだけの――幽霊だったのだ。
それを知った今になってみて思うと、彼女が私を食べられなかった理由もわかる。そして急に引きこもった息子を気にしない親、休んでも音沙汰のない職場、そしてぶつかった子供の震え、呼び掛けに答えない店主。この真実への手掛かりはたくさんあったじゃないか。
ああ、もう私は死んでしまっていた。そして死んでしまった以上、私の願いが叶う事は永遠に有り得ない。
残念だ。でも、救われるような気がした。何故なら私はきっと消えるのだから。所詮は魂をもたない残滓に過ぎない私は、消えてしまえばこの気持ちは、悩みは、希望は、願いは、全て塵芥と化すのだから。永遠に叶わない願いを持つよりはきっと幸せな筈だ。
そう自覚した瞬間、私から何かが失われたような気がした。それはきっと私を現世に留めていた栓だったのだろう。身体が消えていくのを感じた。
それを見た『私』が少し悲しそうな顔をした。私が生まれた原因が自分だからと、後悔しているのだろう。あの時、食べられたいと思わなければ私は生まれなかったのだから。
――おい、お前は私なんだろ?
生憎、自分のそんな顔なんぞ見る趣味はないんだ。気持ち悪いから悲しむな。そして最後に聞きたいことがあるんだ。
――彼女に食べられるのは、どうだった?
「最高だったさ」
そうか、それは――実に羨ましい話だ。どうやら消える直前になっても私は彼女に食べられる事を望んでいるらしい。それを叶えた『私』が心底羨ましい。身体が消えていくの感じる。既に身体の感触はない。もう首から上しか残っていないのだろう。
私が消えたらどうなるかわからない。魂はないのだ。輪廻転生に乗れないかもしれないし、乗れるかもしれない。でも、出来るなら生まれ変わりたい。
願わくば、来世で夢が叶いますように。ああ、私はいつか――
――食べられて死にたい、か。つくづく私も『私』も筋金入りである。
消えていった『私』を見送った私は溜め息を吐く。最後まで『私』は私だった。
はぁ、私も食われて死にたいものだよ。
実は私は彼女に食われていないのだ。食われて死んだのなら未練は残らず『私』という存在は生まれない。なら何故生まれたかというのも単純明快、死に方違った。
私はあの夜彼女を近くで見たいと近付いた結果、崖に気付かず落ちて死んだ。我ながら、間抜けな死に様だと思う。それだけに、死にきれなかった。だからだろう、私は亡霊として現世に留まることになった。そしてその時、どういうわけか『私』が生まれた。
そして亡霊となった私は冥界へ渡ったのだ。亡霊となった私が妖怪に食べて貰う方法を聞きに。その結果、私が食べてもらうのは不可能とだけ知った。妖怪は亡霊を食えない。そして彼女に食われない限り私は現世に残り続ける。最悪だ。
だから私は『私』に託した。私から生まれたのだ。そいつが来世に食われれば私が食われたのと変わらない。そう、信じて。信じ込んで。しかし、羨ましいぞ『私』。私はもう食べて貰うことは出来ないのだから。来世で食べてもらえるかもしれない、そんな期待が抱けるだけきっと幸せだ。
死体を供養すれば成仏できるかもしれないが、生憎探しにいったが残っていなかった。どうせ野犬に食べられてしまったのだろう。件の彼女は死んだ人間はあまり好きではないという話だ。よしんば私の死骸を彼女が食べていたとして、食べられた感触がないのではお話にならない。
未練は消えないし、供養もされない。
それなりの霊媒師に頼めば強制成仏もできるらしいが痛いらしいのであまりしたくないし、何より未練も消されてしまうらしいのだ。この未練は、彼女に食べられたいという思いだけは消したくない。故に私が成仏することはないだろう。いつか自然とこの未練を持ったまま逝けることを祈りつつ、人に迷惑をかけないよう生きるしか――死んでいるが――ないのである。
――彼女に食べられて死にたかった
私は寒空の下で、そう呟くのだった。まだ冬は長い。
【あとがき】
過去別サイトで投稿してたことのある作品。
東方短編SSの二作目。この時期「被食」ものにハマってた。
伏線貼りたかった結果、結局食べられないオチにした。
あとハーメルンのルーミアものだと「はるねりま」さんの「本当は怖すぎる幻想郷 【ホラー短編集】」の「生首キス」がオススメ。読んだ時また性癖がぶり返すところだった。
【せってい】
・私
名無しの幽霊。元口入屋。
・『私』
名無しの亡霊。未練ありあり。
・亡霊と幽霊
東方求聞史紀によると一人の人間から幽霊がたくさん誕生することがあるそうで、それを元に亡霊と幽霊と二つの霊が誕生したというネタ。亡霊に魂があるかもわからないし、幽霊に魂があるかはわからんのでそこらはオリ設定である。