1999年5月下旬。
杜王町を照らす陽射しが徐々に強さを見せてきた頃。
一人の男が、寂れたビルの二階に足を運ぶ。
扉の横に、少し粗雑に取り付けられた「葉月探偵事務所」の看板が目を引いた。
「ここで……合ってるんだよなァ~ッ」
男は恐る恐る、インターホンに指を伸ばす。
無機質な電子音が、薄暗いビル内にこだまする。
「あの……ごめん下さいーッ」
返事はない。
確かにインターホンは鳴らしたはずだが、特に中で誰かが動くような音も聞こえない。
「アレ、留守かな」
念のため、もう一度インターホンを鳴らした。
やはり返事はない。
「ダメか。こんな事、警察なんかじゃあ絶対相手してくれないのに……」
男は肩を落とした。
彼の手元には大切そうに、一枚の写真が握られている。
「優子……」
男は項垂れながら、コツン、と階段を一歩降りた。
少し沈黙があった。
男の表情はひどく険しかった。
目には涙さえ浮かんで見えた。
「も、もう一度押してみようッ。ひょっとして、寝てたかもしれないし」
男は決意と不安を同時に顔に浮かべながら、再びコツン、と階段を一歩上がる。
目の前に張り付いた扉の様相は、何故だか先程と比べて妙に不気味に見えた。
震える指が、再びインターホンへ向かう。
「最高だ、あなたは」
「え?」
突如、ドアが開く。
ぬるりと腕が伸び、男の腕をむんずと掴んだ。
「一回ではダメなんだ。二回は惜しい、実に惜しい。必ず『三回』がいい」
ドアから覗く暗闇が徐々に薄明るくなって広がっていく。
その中からちらり、と眼光が真っ直ぐに浮かび上がった。
「やれ落とし物の捜索だの、不倫調査だの、フザけた依頼の多いことだ。全く辟易するとは思わないかね、えぇ? 私はそんな依頼を受けるためにわざわざこの町に来て探偵などやっていないのだよ……」
男の頬に脂汗が滲む。
喉の奥に物を詰まらせたように、しばらく息が出来なかった。
「『三度』鳴らそうとしてくれたってことはとどのつまり深刻な依頼だってわけだ。だから私は待った。君は一瞬迷ったようだがこの指をインターホンに向けてくれた。その行動に偽りはない筈だ。そうだろう?」
「ハ……ハイッ!」
「グッド! その揺るぎない眼と意思を信じようじゃあないか。さ! さっさと入りたまえ。コーヒーを淹れてあげよう」
男は狼狽える暇もなく事務所に足を踏み入れた。
心に一瞬の抵抗があったが、本能的な、自分でも得体の知れぬところで、彼の奇妙な魔力に惹きつけられてしまったようだった。
事務所の中は想像よりもずっと明るく、そこに座る彼は豹変したように落ち着きを払っていた。
その姿はまさしく誰もが頭に思い描く「探偵」像そのままで、目にした男はようやく緊張の糸が切れたのか、その場にへたりと座り込んでしまった。
「オイオイ、私の部屋のソファは何も飾りもののインテリアってわけじゃあないんだ。座るならそこに座りたまえよ」
「あ……ハイ、すみません」
男はやっとのことで立ち上がり、ソファに腰を沈めた。
出されたコーヒーは少し薄かったが、やたらうまくて直ぐに飲み干してしまった。
「いい飲みっぷりだね。淹れた甲斐がある。何分後君がゲップするかがとても気になるが……」
「あはは、つい美味しくて。エェと――」
「葉月。葉月葉一だ。名乗るのが遅れてすまなかったな。年齢は30歳、趣味はトランプ、その中でもソリティアが好きだ。一人の時間をいつも埋めてくれる。特技はポーカーのイカサマ、一度海外でマフィア相手にやらかして危うく死にかけたがね」
「あぁ、ハイ……」
葉一は自分のカップを見せつけるようにゆっくりと持ち上げると、取手に指を入れた。
「ところで……君もこのカップをこうやって持っていたかな、持っていたね。この持ち方、持ちやすいからね。『そう持ってくれ』って形もしてる。でも、これはマナー違反なんだよ」
「えっ? あッ、ハイ、そうなんですか」
男は思わず動揺した。
その様子を見て、満足気に葉一は爆笑した。
「あははははははーッ! そう、知らなかったろう! そして、世のマナーなんてそんなもんなんだ。知ろうとしなければ知る機会だってない。だがね……私はそれらを知らずに死ぬことは『恥』だと思っている。この世のあらゆる場所にある『隠れた知』を得ずにいるのは、『知る』ために肥大化したこの脳を腐らせるのと同義だと、私は考えるからだ」
葉一の薄い目が、ゆっくりと開く。
こげ茶の瞳が、その隙間から不気味に揺らぐのが見えた。
「そして、それが私の求めるものなのだ。だから私は探偵になった。様々な人々に根ざす謎を……依頼者に連れて来てもらう為に」
葉一は机に乗り出して、男に顔を近づけた。
ギラつく目が、男の顔中を刺激する。
「はじめは楽しかった……。不倫調査だって、失せ物探しだって、素行調査だって、人の色々な面を見る事ができて実に充実していた。でも……回数を重ねればそれらは似通ったものになる。当然の摂理だ、ひどく退屈になったよ。そんな時だった……私が、この町の事を知ったのはッ」
「こ、怖いです……葉月さん。一旦落ち着いて……」
「『行方不明者数全国平均の五倍』だぞッ!!」
葉一は机を叩いて叫んだ。
「なんて刺激的なフレーズなんだッ! 私は……この町に強い引力を感じたッ! この町で何が起こっているのか……私はそのすべてを知りたいッ! そう思ってこの町に来たのだッ!」
先程の衝撃で飛び散ったコーヒーが、声量で小さく揺れている。
男はただ黙って聞き入るしかなかった。
「もともとこの世界には人間の備えた叡智を軽々と超えるような事件が数多く存在している。故にその力によって脅かされ、侵されたものに対し人間は実に無力だ。警察が対応できる範囲などたかが知れている。だから私は探偵として、彼らが対処し得なかった事件の
「は……はァ。でも、そんなに上手くいくもんですかねーッ」
「その通り……現実は非情だ。私の元に飛び込むのは他の町と大差ない退屈な依頼ばかり。結局いまの今まで私が受けた依頼の中で、私の好奇心を満足させてくれたのは
「多分、みんな諦めてるんですよォ。この町じゃあ失踪事件なんて腐るほど起きてるし、運が悪かったんだーって……」
「馬鹿かァァーーッ?!」
突然葉一は立ち上がると、拳を握りしめて男を思い切り殴った。
男の体は軽くふっ飛び、勢いよくソファーから転げ落ちた。
「
「な……なんで殴ったんですかーッ!? ぼくは今! 依頼しに来てるじゃあないですかッ!!」
「あぁ……すまない、つい」
葉一は男を抱え起こすと、顔の血を拭った。
相当強く殴ったようで、しばらく鼻血が止まらなかった。
「んぐ……それで、依頼なんですが」
男は口の中が腫れてしまったのか、喋り辛そうに話している。
「あなたの言っていた、人捜しですよ。ぼくの……その、恋人を探して欲しくて」
「……ほう。それであんなに焦っていたのか。だが、ただ単にフラれただけなんじゃあないのか?気の毒だが、恋人が飛んで別の男とランデブーなんて、経験上幾つも見てきた」
葉一は手でハートを作ると、真っ二つに割る真似をした。
男の表情は変わらなかった。
「違うんです、その……こんな事言っても、誰も信じてくれなかったんですが」
「フフ、ものは試しだ、言ってみるといい」
男は数秒黙り込むと、苦いものを飲んだかのように渋い顔をしながら、うっすら口を開けて声を発した。
「消えたんです。ぼくの、目の前で」
「……ほう?」
「少し、説明すると長くなるのですが」
「構わん。むしろこと細く詳しく解説してくれたまえ」
葉一は嬉しそうに口角を上げた。
待ち侘びた餌をやっと食せる犬のように、純粋に輝く瞳で男を見つめている。
「複雑怪奇な事件、事象、現象であればあるほど、私の好奇心は刺激されるというものだ。君の依頼が私を満たし得るものかどうか……ここで見定めさせてもらうよ」
今回もご覧いただきありがとうございました。
次の更新はもう少し早くなるよう善処しますね。
次回「密室の謎をあばけ! その1」
お楽しみに。