「さて、どうぞ話してくれたまえ」
男は息を飲んだ。
葉一の放つ妙な緊張感が、男の心臓を襲う。
「エ~と、もう一週間ほど前の事になりますが……何の気なしに、出かけてたんです。亀有デパートに、買い物しに」
男は言葉を詰まらせ気味に、ゆっくりと話し出した。
「買い物の途中にたまたま、彼女を……優子を見かけたんです。そしたら、知らない男と一緒にいて。僕……不安になって、後をつけたんです」
「やっぱり浮気されてるんじゃあないか。オイ、そんなことを依頼されるために、私は君を招き入れたわけじゃあないんだが……」
「優子はそんなことする人じゃあありませんッ!!」
男は突然怒鳴った。さすがの葉一も、狼狽えずにはいられなかった。
「わかったわかった、からかってすまなかったが、何も怒鳴ることないじゃあないか。逆鱗にふれてしまったかね?」
「あ……すみません。つい頭に血が上っちゃって」
男はすぐ我に返ったようだったが、息は上がったままだ。
「ま、興味深い話が聞けるなら何も気にしないよ。さッ、話を続けてくれたまえ」
「……え、えぇ。それで……そのまま優子の家に入っていくのが見えたので、事情を聴こうと思って僕もすぐ家に入りました。合鍵は持っていたので。そしたら……」
「二人とも影も形もなかった、ということか?」
男は黙って頷いた。
「最初は、どこか部屋にいるのかと思って探し回りました。でもどこにもいなかったんです。奇妙に思いましたよ。だって、部屋のどこを見ても、家の鍵はしっかりかかってるんですから……」
「なるほど。彼女の家は一軒家かい?」
「いえ、そんなに広くない賃貸のアパートです」
「ならすれ違いざまに家を出たとも考えづらいな。その程度の家の広さなら、玄関を出入りする音ぐらい部屋のどこでも聞こえる」
葉一はふと思い出したように立ち上がると、本棚に置いてあった推理小説を手に取った。表紙には「まだらの紐」と書いてある。
「あー、読んだことあるかい? 『まだらの紐』。かの有名な『アーサー・コナン・ドイル』執筆の推理小説さ。タイトルの翻訳センスのせいで謎が一個台無しになっているから私はあまり日本語版が好きじゃあないんだが……『ガストン・ルルー』の長編『黄色い部屋の秘密』なんかは傑作中の傑作だな。あちらはトリック自体はひどく拍子抜けだが、だからこそ傑作なのだ。心理トリック、というのだがね。人はみなシンプルな物事も、周囲の環境・状況・事態の影響を受けると、冷静に考えられず複雑に考えすぎてしまう。そういった人の心に付け込んだトリックというわけだ」
「な、なるほど。推理小説とか、ほとんど読んだことないんで良くわかりませんが……」
「単純なことだよ。例えば紙に『1+1=』なんて書いて手渡されたら、誰だって『2』って書いて返すだろう。でも『これは最大級のミステリーだ』とか『誰にも解けない難問』とか言われて渡されたらどうする? きっと『2』なんてシンプルな答えじゃないはずだ、想像もつかない答えのはずだ、といった調子に、思考はどんどん答えから遠ざかっていくのさ。でも結局どっちも答えは『2』なんだ、面白いだろう」
「あの……それで彼女が消えた件に関しては……」
男は焦るように葉一に尋ねた。
「あのなァーッ、人の話は最後まで聞くものだぞッ。いいか? 君の彼女が消えた件は分類するなら所謂『密室事件』ってやつなんだ。だが大概の密室事件はさっき言ったような『心理トリック』に基づいたものが殆どなんだ。実は決定的に何か見落としているものがあったとか、盛大な勘違いだったとか」
「……なんですか、それ。優子の失踪が、僕の勘違いだったって言うんですか」
男の瞳が、不安定に揺れ始める。
「その可能性は十分考えられる、って事だ。いざ現場に向かってみて、『ハイ勘違いでした』じゃあ、私もやってられないからね」
「僕が彼女を見逃すはずがないでしょうッ!! いい加減にしてください、僕は大真面目なんだーーッ!!」
男は手元にあったコーヒーカップを葉一に向かって投げつけると、再び怒鳴り散らした。葉一の頬から、一筋の赤い線が伸びる。
「……なぁ君、焦りすぎだし何かとキレる
「す、すみません。どうしても不安で……夜もまともに眠れないんですッ」
男の怯えるような表情を見て、葉一は深くため息をついた。そのまま割れたコーヒーカップの破片を拾い深く考え込むと、意味深ににやりと笑い、男の手を握って破片を手渡した。
「そこまで言うなら、わかった、信じるよ。ならその女性の失踪は『物理トリック』によるものになる。と言っても界隈じゃあ密室事件のトリックは
「……ただ?」
「……ただ。今回は殺人じゃあなくあくまで
「……別の可能性?」
「密室事件というのは、本来ありえない……不可能事件と呼ばれるものだ。だからこそその超常現象を現実足らしめるトリックが必ず必要となる。でも、それはあくまで小説での話。ここは杜王町。既に不可解な事件、失踪の多発している場所だ。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだよ」
葉一は男の顔をじっと見つめ、至極嬉しそうに微笑んだ。
「その超常現象が、現実だという可能性さ」
「……え?」
「さっき言っただろう、私の求める謎は……この町に来た理由は『人智を越える、警察ですら手に余る事件』だと。君が出会ったその現象がもし……この町に溢れる奇妙な力によるものなら、私は全力でこの依頼に向き合いたい」
言うなり突然、葉一は手のひらに乗せたコーヒーカップの破片を再び掴むと、男の喉元に勢いよく突きつけた。
「……だが気をつけたまえよ。これがもし……本当に君の『勘違い』だったなら。私のこの大きく膨らんだ期待を……虚しく萎ませるようなチンケな結末だったなら」
男の皮膚から、静かに赤い汗が流れ落ちる。
「私は君を殺すかもしれないからね」
男はただ唖然とするほかなかった。
*
その後男は、依頼に必要な手続きや、書類を執筆していた。葉一は男から手渡された女性の写真を、窓から漏れる夕焼けに照らしながら眺めていた。
「へぇ……結構な美人じゃあないか。君が熱心になるのも分からんじゃあない。もっとも私は昔からこの性格だったから、女には興味なんて微塵もなかったがね。……それなりには
男は何も言わなかった。
「……ところで、だ」
葉一は持っていた写真を机に並べてみせた。
「この写真について、だが。正面向いたやつとかとか持ってないのかい。数枚あるがどれも角度が今一つだ。捜索に過度な支障があるわけじゃあないが、できれば正面の写真が欲しいね」
「あ……ごめんなさい、今現像してある写真はそれだけで……」
「恋人なのにそりゃあないだろう。二人で横並びで撮った、とかないのかい」
「……」
男は黙り込んでしまった。葉一はまた「やっぱり浮気されてるんじゃあないか」と言いそうになるのをぐっと堪えて、男の書いた書類を覗き込んだ。
「あぁ、ここまで書いてくれればあとは大丈夫だ。空も赤焼けてきただろう、冷えぬうちに帰るといい」
「あ、ハイ……。では、どうかよろしくお願いしますッ」
男は深々と頭を下げる。
「それと……先ほどは失礼を何度も申し訳ありませんでしたッ。報酬、嵩増ししておいて結構ですので」
「オイオイ、チャラだといったじゃあないか。もう気にしちゃいないから、さっさと帰りたまえよ」
「あ……ありがとうございますッ、失礼します」
*
男が帰った後の事務所は、びっくりするほど静まり返っていた。葉一は机の上に散乱した書類を整えると、頬にできた一筋の傷をゆっくりと撫ぜた。
「しかしまぁ久しぶりに期待できそうな仕事だ。一か月ぶりじゃあないか? このワクワクする感覚を感じる日は……」
独り言の後、葉一はゆっくりと伸びをする。
「さて……頃合いだ。観るとしよう」
夕焼けの明かりに、見えない影がひとつ、増える。
「ドント・レット・ミー・ダウン」
今回もご覧いただきありがとうございました。
ようやっと話が動いていきます。
次回「密室の謎をあばけ! その2」
お楽しみに。