艦隊これくしょん短編集   作:タクヤカスミ

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水銀の海

 大破よりも中破のほうが危険だと、時の指導教官は言った。

 理解できません。損傷度合いの大きいほうが危ないに決まっています。その真意を教えてください。私は食ってかかった。

 指導教官は黙って顔を横に振るだけだった。

 なおも私が問うと、一言だけ残してその場を去っていった。

「理解できる日を迎えられることを、心から祈っています」

 と。

 

◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 

 雲のない夜だった。満月だけがそこにあった。

 その日の近海哨戒では深海棲艦のはぐれ艦隊と遭遇した。珍しいことではない。そのための哨戒なのだから。

 もちろん、排除した。けれど、相手の抵抗が思いの外激しかった。至近弾による小破が二隻。直撃による中破が一隻、そのたった一隻が私だった。直撃といっても船尾をかすめただけで、小破に近い中破だ。問題ない。

 殲滅し終えたころには太陽が水平線ぎりぎりに寝そべっていた。そこからの帰路。陽は海に消え、入れ替わりで月が私たちを照らした。

 満月。月明りに星が食われる、稀に見ぬ月夜だった。

 深海棲艦など幻の存在だといわんばかりの、凪いだ海だった。私から見て右手からのぼる満月が、水面に映る。まだ低い位置にあるせいか、水平線の彼方から私の足元まで銀色の絨毯が伸びている。長い毛足がたおやかにゆらめく。この絨毯に導かれた先は、どんな世界なんだろうか。極楽か、あの世か、それとも私たちがフネだった時代に行けるのか。そんな他愛もない空想に耽ってしまう。いけない。疲れてるんだ。早く帰投してお風呂に入ろう。

 世界が傾いた。唐突に、なんの前触れもなく。銀色の絨毯は傾いた海の上を音もなく滑り落ちていった。きれいだったのに、もったいないなあ。また会えるかな? なんて、妙に呑気に状況を受け止めていた。

 頭を殴られた。がっつーんとね。敵なんていないはずなのに、おっかしいなって。

 左の腕、肩、腰と私の身体が何者かに引っ張られていく。敵潜水艦だろうか。そのあと全身がぬるくて重いものに包まれて、間髪入れずに鼻から、口から、耳から、体内が粘性のある液体に洗われていく。

 さすがに察した。よそ見していたせいで、私は間抜けにすっ転んだんだ。

 空想の世界に呑気に浸っていたせいで、受け身もとれなかった。対処の初動が二拍も三拍も遅れる。そのあいだも私はあるはずのない波に揉まれ、重力のない世界に溺れる。起き上がろうと手足をばたつかせるけれど、そもそもどこが上なのかもわからない。徒労だった。重油のように重く粘っこい液体にがんじがらめにされて、体力を吸い取られていった。腕や足はおろか、指も動かせなくなっていく。頭を振って状況を確認しようにも、私はいまどちらを向いているのかも把握できなかった。海も、空も、黒一色。目を開けても何も見えない。唯一の頼りとなるはずの満月は、海と空に比べて小さすぎた。

 転んで、跳ねて、揉まれて、くるまれていることはわかる。でも、それだけ。それ以外はなにもわからない。まっさきに頭をぶん殴られたせいで思考能力も低下している。ぼんやりと靄がかかっている。自分が自分であることを認識できる程度にしか頭は働いていなかった。

 そもそもの話、私は今、ほんとうに海の上にいるのだろうか? 私は本当に出撃していたのだろうか? ベッドの上でだらけて寝てしまって、そうして見ている夢なんじゃないか? 沈む夢は幾度となく見た。今と同じように、もがいているうちに手足が動かなくなって、あきらめて、ああもうだめだというところで目が覚める。

 

「陽炎!」

 

 そう、そういう夢を見ているとかならず、私が沈むその瞬間に妹が起こしてくれる。冷たい寝汗を悟られないように、あーはいはいうるさいわよなんて言いながら目を開ける。内心では夢でよかったと思いながら、妹の顔を見てたまらなくうれしくなるのを表に出さないように、のっそりと身体を起こす。今回も、そのはず。

 

「陽炎っ!」

 

 うるさいわね。起きるから。静かにしてよ。

 ん、よいしょ……って、あれ、おかしいわね。身体が動かない。ぴくりともしない。起きなきゃいけないのに。心配性の妹を安心させてやらないと。顔はどんなに平静を装っていても、声色で感情がバレバレな抜けた妹をホッとさせてやらないといけないのに。

 もしかしたらこれは夢ではないのかもしれない。そんな恐ろしい考えが私をくるむ。

 夢じゃなかったらどうなるの? 沈む? 死ぬ?

 いやだっ! そんなのは、ぜったいにいやだ。

 でもどうしたって身体は動かない。もうダメかも。あきらめが頭をよぎる。生まれた感情が身体を硬くする。

 もうだめっぽい。ごめんね、不甲斐ないお姉ちゃんで。でもきっと大丈夫。不知火、あんたなら陽炎型をまとめられる。前の姿でも、そうだったでしょう? だから大丈夫。任せたわよ。

 

「かげろう!」

 

 鋭い声と同時に、私の首から上が吹っ飛んだんじゃないかってくらいの勢いで頭が振らされた。脳がぐわんぐわんと揺すられて、怒涛の勢いで生まれる気持ち悪さが絶望を押し出していく。

 胃袋がひっくり返る。まだ現実であることを受け入れられない私の意識は「あーあ、きったない」と妙に冷めた気分で、しょっぱい液体を吐き出す自分の身体を眺めていた。そのしょっぱさ、吐き出しているのは胃液ではなく海水であるという事実が、夢と現世と幽世の狭間で漂っていた私の意識を現世へと引っ張り上げた。

 もう一発。口内に刺すような痛み。口の中が鉄の味で満ちる。

 海水と共にそいつを吐き出す。塩と鉄の混じった最低の味は、私の意識を覚醒させるには十分だった。

 目を開ける。ゆっくりと。まぶたは航空機の格納庫のシャッターのように重かった。最初に見えたのは、飾り気のない指ぬき手袋と白くて細い指。表情や立ち居振る舞いは私よりも厳めしいくせに、私よりも女の子らしい手。

 見紛いようがない。いつも一緒にいるあの子の手。『よくもやってくれたわね』と文句でも言ってやろうと口を開いたけど、私の口から出てきたのはごぼごぼという水音だけ。

 目の焦点をもっと遠くに合わせると、見えてきたのは夜の闇でも煌めく桃色の髪と鋭い目つき。『どうしても怖がられてしまう』と嘆いていた、でも私は怖くなんてない、むしろ優しさに満ちたその瞳。その瞳はいま、涙で満ちていた。どこかにある満月がその涙を照らす。いくつもの玉がきらきらと夜の闇に浮かび上がる。そのうちの一粒が、こぼれて、落ちた。

 ぐん、と胸元を絞られた。見えないけれど、不知火のもう片方の手がおそらく私の胸倉を掴んでいるのだろう。その細腕一本で私を引っ張り上げたのだろう。それこそ戦艦クラスだ。さすが、私の妹ね。

 空いている手を高々と振り上げた。あ、やば、と思ったけど、対処するだけの体力も思考力も、私には残っていなかった。

 不知火は、振り上げていた手を下ろした。その切っ先は私の目では捉えられなかった。全力だった。片腕一本で艦娘を海から引っ張り上げたその馬力で、張られる。

 せっかく戻った意識は、再び飛んだ。気が付いたら私の首は捩じ切れ、口の中はズタズタで、耳はキーンと鳴っていた。沈んだほうがマシだったんじゃないかと思うほどに降り注ぐ辛さが、私はいま生きているのだと教えてくれた。

 どすん、と胸に小さな打撃。まさかグーパンチか、それはいくらいなんでも許せないと思ったけど、胸元に視線を落とせば、見慣れた桃色の髪が私の胸に埋まっていた。しゃくりあげる声と、震える鼻先を、私のうすい胸に押し付けている。下着と厚い制服越しでも、不知火のでっかい安堵が伝わってくる。

 だんだん身体の感覚が戻ってくる。当然だけど、全身ずぶ濡れだった。不知火も、同じくびっしょびしょだった。

 いつのまにか戻ってきた月明りが、夜を照らす。再び現れた銀色の絨毯。やっぱりあれは、あの世へ続く道だったんじゃないかな。その絨毯は、今は柔らかそうには見られなかった。死へ至る道程。それを飾るは、水や鉄よりも重く、毒でもってじわじわと人体を嬲る水銀で編み上げられた絨毯。美しく、残酷な水銀の絨毯。

 私たちの服と肌にまとわりつく海水が、満月に照らされて鈍く光っていた。なんとかして浮かび上がった私を、不知火を、再度沈めてやろうと重みと毒で蝕む、はやく沈めとそそのかす、水銀の海。

 はじめて海を怖いと思った。艦娘として海に浮くのは当たり前、敵を倒せるもの当然だと思っていた。

 不知火の身体を両腕で抱く。まだ胆力の戻らない私の身体は動かすのが精いっぱいで、そっと包むのが精々だった。でも、それでいい。私を引っ張り上げてくれたこの子を包めればそれでいい。

 そして思った。私がこの子よりも先に沈むことはあってはならないと。

 

 静かだった。ふたりの艤装はいつのまにか主機を停止していた。艤装もなしにどうやって海に浮いているのか。わからないけれど、どうでもよかった。

 僚艦だっているはずだ。出撃したのは私たちだけではないのだから。でも、その気配は感じられなかった。あるのは、私と、不知火と、月と、海だけ。

 夜空に浮かぶ孤高の月。あるべきではない銀色の絨毯が浮かぶ海。得も言われぬ美しさに、私たちは包まれて、生きていた。

 生きていた。

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