日本のどこか、加えて言うと人里離れた山奥の辺境、そこに幻想郷という地はある。
幻想郷、そこには妖怪がおり、神がおり、果てに魔法などの不可思議な力も認知されている。まさに幻想と呼ぶに相応しい土地だった。
人間も居るには居るが、その地に住まう魑魅魍魎の数と比べたら少ない方である。文明レベルも外の世界と比べて未発達であり、だからこそ人間はいつまでも妖怪を恐れ、神を畏れる。
人の恐怖の糧に生きる妖怪や、人の信仰で存在を保つ神にとって、幻想郷は楽園の地なのである。
しかし、昔は問題も多かった。
妖怪と人間のバランスが不安定だった頃、人間は必要以上に殺され、妖怪は人間の手により無差別に退治された。
幻想郷の管理が不安定だった頃、外から支配者気取りの妖怪達が幻想郷を侵略しにやって来た。
どれもこれも一筋縄じゃいかない問題。しかしそれらの苦難を幾度と乗り越え、これより幻想郷は新たな時代へ進もうとしていた。
▼▼▼
「……」
紅魔館の小さな主、レミリア・スカーレットは窓の向こうに広がる紅い景色をジッと見ていた。
空を覆う真っ赤な霧、幻想郷全土を覆い尽くさんと広がり続けるその霧は、何を隠そうこの少女が生み出した物だ。
「……咲夜」
「はい、なんでしょうかお嬢様」
レミリアは側で静かに佇む銀髪少女のメイド、十六夜咲夜に声をかける。
「私が異変を起こしたのはいつだったかしら?」
「四日前の夜中頃だったと記憶してます」
レミリアの問い掛けに咲夜はすぐさま答える。その気になれば秒単位で伝える事も咲夜だが、そんなに細かく伝えなくて良いとレミリアに言われてからは自重するようにしていた。
「そうよね。……ねえ咲夜、異変が起きてから館に侵入者が来た事は?」
「一度もありません。美鈴にも警戒を怠らないよう言ってますが、侵入者どころか紅魔館に近づいた者すらいません」
「……そう」
信頼出来る従者の言葉だ。事実なんだろう。だからこそレミリアは、ある人物がやって来ない事に疑問を覚えた。
「博麗の巫女、ねえ」
博麗の巫女。とある賢者との決まりで紅魔館から出られないレミリアは見た事ないが、どうやら幻想郷の管理者という重要な役割を担う人物の一人らしい。
代々受け継がれていく博麗の巫女だが、今代の博麗の巫女はそれはそれは強いのだとか。
曰く、彼女には何者も触れる事は出来ない。
曰く、歴代の博麗の巫女の中でも最高峰の資質の持ち主。
曰く、人も妖怪も関係なく平等に接し、敵には一切の容赦が無い人間。
どれもこれも例の賢者から聞いた話だが、それ故に信憑性は高いと言えよう。
「一度会ってみたかったからあいつに協力したのに」
今回レミリアが異変を起こしたのは、自身を紅魔館に押し留めた賢者、八雲紫との取り引きが発端だった。
なんでも紫は幻想郷に新たな時代を築こうとしており、レミリアにその手伝いとして異変を起こし、博麗の巫女と弾幕ごっこなるお遊びで戦って欲しいそうなのだ。
博麗の巫女に興味を持ち、なにより手伝いの報酬として紅魔館から外出する許可を貰える事もあってレミリアは取り引きに応じたのだが、
「買い被りすぎだったかしら」
来ないのだ。博麗の巫女が、あの八雲紫に太鼓判を押されていた人間が、四日経っても姿を見せないのだ。
「まあ、臆したのならそれでも構わないわ」
取り引きの際、紫にはこうも言われた。全力を出して構わない、と。
ならばこのまま順調に幻想郷を、いや外の世界すらこの真っ赤な霧で包もうではないか。
「さあ博麗の巫女、期待外れでない事を願うわよ」
そう言ってレミリアは嗤うのだった。
「……ふふふ」
幻想郷の創造主が一人。妖怪賢者、八雲紫は宙に浮かんで空を覆う赤い霧を見やり、微笑んだ。
遂に始まる新たな時代、訪れるは戦いと平和が両立された真の楽園。
自身の目指す理想郷、いや幻想郷へ近づいてる事に思いを馳せて笑みを深めた。
「ここから幻想郷がどうなっていくのか……ふふ、楽しみね」
その表情にはいつもの胡散臭さは無く、純粋な想いのみが映し出された。
「……さて」
紫は自身の能力を使い、空間と空間を繋げるスキマを作る。スキマの奥には無数の眼球がこちらを覗いており、酷く不気味だった。
紫はそのスキマの中に入り込み、移動を開始するのだった。
▼▼▼
「……」
見上げれば真っ赤な霧が空を覆っていた。縁側で座る私は、それをただただ眺めてお茶を啜る。
「……ワア、イイテンキダナー」
死んだ目をしつつも私は言う。こうして言葉にすればほら、真っ赤な霧もたちまち晴れて……。
「はぁ〜〜〜」
はい、そんな訳ないですよね分かってました。……分かってましたよこんちくしょう。
私の名前は博麗霊夢。妖怪退治のエキスパートにして楽園の素敵な巫女……と、世間で通っている中身残念な巫女とは私の事だ。辞めたいですこの仕事。
「……異変、よねぇ」
どう見ても異変ですよねーコレ。
「行かなきゃ、いけないよねぇ」
もう現実から目を背けるのも難しいだろう。だって真っ赤な霧が空を覆うなんて、異変以外の何物でも無いんだから。
「……うぅぅぅ!」
嫌だ嫌だ行きたくない死にたくない天寿全うしたい。私の中にある巫女としての義務感は、あっさりとヘタレ魂に敗北した。義務感とヘタレを割合で言うなら1対9ぐらいだろう。ヘタレの圧勝だった。
「うぅぅぅ……はっ! このまま霧が広がれば誰かが代わりに異変解決してくれるんじゃ? そうよ、魔理沙が居るじゃない! 魔理沙なら意気揚々と解決しに行ってくれるわ!」
そうと決まれば私はお家に篭ろう! 他力本願? 上等じゃない! だって私は死にたくないんだから!
私は戦わずして異変が解決する事を確信して天高く拳を掲げ───
「なにをしてるのかしら?」
───ようとして硬直した。
「……」
背後から聞き慣れた声が耳に届く。ダラダラと汗を流しながら、私は人形のようにギリギリと首を後ろに回す。
「ゆ、紫じゃない。……ドウシタノ?」
なるべく平静を保とうという努力も空しく、思いっきり声を上擦らせてしまった。
「んー? いつまで経ってもあなたが動かないから気付いてないのかなと思ってね。様子を見に来たのよ」
「へ、へー、そうなの」
「そうなのよ……ところであなた、この異変にはいつ気付いてたの?」
嘘や誤魔化しは許さない。それを言葉にしないと察せれない程に私は鈍くない。いや私はむしろ鋭い方だ。
「……三日前から、です」
三日前、私の無駄に鋭い勘は三日も前から異変発生を伝えてきたのだ。勘よ、本当に勘弁して下さい。
「へー、そう。……じゃあなんでここに居るのかしら?」
「……」
言いたくない。言いたくないけど言わなきゃならない。だって紫の背後に鬼もびっくりな般若が見えるんだもん。
「…………怖くて行けませんでした」
次の瞬間、私の目の前には拳があった。
「っぶな!?」
「躱すなんて良い度胸ね。一発殴らせなさい」
「むむむ無理! 人間が妖怪のパンチなんて受けれる訳ないでしょ!」
「安心して、手加減はするから。直接殴るなんて久しぶりだから加減が分からないけれど」
「全力ブッパするやつだこれぇ!?」
ダメだ。紫は本気で私を殺そうとしている! 漂う殺気がヤバすぎる!
「さあ選びなさい。今ここで殴られるか、今すぐ異変解決に動くか」
「い、行ってきまーす!!」
今すぐ死ぬよりかはマシ! そう思えば今まで動かなかった体も身の危険を感じて動いてくれた。
私は逃げるように、その場から飛び去るのだった。
「……はぁ〜」
飛び去る霊夢を見て私、八雲紫はため息をつく。
博麗霊夢。彼女は捨てられていた所を私が見つけ、その秘められた才能に目を付けて育てる事にした人間の子だ。
彼女は私の予想通り、いや予想以上の成長ぶりを見せ、晴れて幻想郷の管理者という地位にまで登り詰めた。
優秀、天才という言葉が似合う彼女には一つだけ、たった一つだけ重大な欠点がある。
……彼女は、
「まさか、あんなヘタレに育つなんて」
ものすっごいヘタレなのだ。