紫咲シオンさんとの接点はない。それなのに同じ空間に二人だけになったとしたら…無言になるのは目に見えていたことだ。雪花さんの時も思ったが、オレの方から話し掛けると余計な緊張を抱かせてしまう。だから話し掛けるぐらいなら無言を付き通した方がまだいい気がする。
今は普通の状況ではない。端的に言うのであればオレと紫咲シオンさんは事務所に閉じ込められている。こうなってしまった経緯は簡単でオレが最後まで残業をしていて、紫咲シオンさんは体調を崩していたらしく応接室で休んでいた。そして出る時に気付いたが、どうやらオレたちの前に事務所を出た人間が施錠をしてしまったらしい。オレが端末を使って連絡を取れば簡単に問題は完結するのだが、今日に限ってモバイルバッテリーを忘れてしまった。そしてどれだけ不運なのか、紫咲シオンさんも同じ状況。
でもいつまで経ってもこの状況が打開されることはない。最悪、オレは別に職場で寝泊まりをしてもいいが、紫咲シオンさんは別だ。只でさえ、体調がすぐれないのに暖房も切れているここで一晩を過ごすと体調を悪化させてしまうかもしれない。
「社員さん」
「どうした?」
「社員さんってお腹空いてませんか?」
「そうだな。さすがにそろそろお腹が空くな」
今日はずっと仕事をしていて朝食以外は何も口にしていない。でも事務所の中に何か食べる物ってないしな。そこでオレはあることを思い出した。
自分のカバンの中からある物を取り出して紫咲さんに差し出した。
「これは?」
「紫咲さんは嫌いかもしれないが、只のパンだ。お腹が空いたら食べようと思っていたんだ」
「でも、これって社員さんのだよね」
「ああ、だがオレは別に大丈夫だ。それより紫咲さんに挙げる方が有意義だからな」
タレントの方を優先するのは当たり前。
「で、でも…」
「遠慮しなくていい。ちょっと体を温められるようなものを探してくるから紫咲さんはそのパンでも食べながら暇を潰して」
そしてオレは事務所の中にあるか分からないが、毛布のようなものでもなか探しに行くことにした。体調が悪いんだったら体を温めて寝るのが一番だ。食事は正直、あれ以外はどこを探しても無さそうだな。あれで我慢してもらうしかないな。
驚いたことに事務所の中には毛布が一枚だけあった。誰かが仮眠用に持ってきてそのまんまにしていたって感じだろうな。
「これで顔を温めてくれ」
「あ、ありがとうございます。でも、社員さんは?」
「オレは大丈夫だ。別に風邪を引いたとしても問題ない。それにオレはそれなりに体が強い方だからな。これぐらいじゃ体調を崩さない」
「本当に?」
「大丈夫だ。紫咲さんは何も心配をする必要はない」
「シオン、少し社員さんの誤解していたかも」
「誤解?」
「はい。もっと怖い人なのかなぁと思ってました。あんまり笑っているところも見たことないし」
逆に怖くない人だという要素が全然と言っていいほどにないからな。顔の印象も怖いだろう。人はやっぱり心と言っても最初は見た目からだからな。
「それは普通だ。逆にオレのことを第一印象で怖がらない奴なんていないからな」
「で、でも、シオンは社員さんが優しい人なんだと思いましたよ。シオンのことを第一に考えてくれてるし」
「そうでもないと思うぞ。オレは別に優しい人じゃない」
「…社員さんが自分んことをどう思っているのかはシオンには分からないけど、シオンから見たら社員さんはとっても優しい人に映りましたよ」
多分、どんなスタッフであってもこれぐらいはやってくれるはずだ。オレが特別ではない。
「…そうか…。紫咲さんは寒くない?」
「うん。大丈夫です。社員さんのお陰で…」
「そうか、それはよかった。じゃあ今日はこれで乗り切るしかないな」
そして次の日の朝になるまでオレと紫咲さんは乗り切る事に成功した。今後、このようなことがないようにしないといけないな。