あれがオラリオさ。
お爺さんがそう言うと目の先には辺り一面の平野には不自然な石の巨大な断崖があった。
それは壁であり、まだ距離があるというのにその大きな壁はオラリオという街がどれほど栄えているのかを象徴するかのように、壁の先に立つ塔と合わせて存在感を放っていた。
「ここまで来れば大丈夫。ありがとうおじいさん。」
ミラは馬車を降りるとお爺さんに礼を言う。
「礼を言うのはこっちの方さ。お嬢ちゃんには積荷も命も救われたからね。本当にありがとう。それに同乗者がいてくれて楽しかったよ。それじゃあ頑張るんだよ。」
オラリオに用があるミラと近隣の村に品を納めにいくお爺さんとは2つに割れた道で別かれることとなった。
2人は手を振りながらそれぞれの目指す方に歩みを進める。
お爺さんに別れを告げ、ミラはそのまま真っ直ぐにオラリオに向かおうとはしなかった。
あの大穴周辺ならばその空を一度は駆けたことがあるはずであった。だが幾千幾万の月日はミラを取り残し変化を続ける。
知っているはずなのにまるで知らない土地がそこにはあったのだ。
閉鎖的な生活を営んで来た反動か、ミラの好奇心がよりくすぐられる。
どうするかと悩んでみたものの結局ミラは己の欲には勝つことができなかった。そうして好奇心に駆られるままに周辺の地理を確認しようと平原を彷徨った。
頭に迷子の二文字がよぎるが、あれだけデカいのだ。土地勘がなく例え迷ったとしても道標にはもってこいである。
大都市だと聞いてはいたが、オラリオの外は小鳥が歌い、川や木々の自然が音を奏でるのどかなものであった。
少しすると大きな湖を見つけその畔に倒れるように座り込む。
近くに巨大な人の街が有ると言うのに綺麗な空気と水の匂いを感じる。
久しぶりの外と種族との関わりで自然と張り詰めていた緊張は解けて固まった体を伸ばしながらリラックスする。
これが星と住まう者の正しい姿なのだろう。
ミラは遠い過去を思い返しながらそう思いふけていると、不意に自身のベタつく髪と身体に気づいた。
旅を始めてから数ヶ月。
馬車にずーと揺られ続け水浴びなどしていないのだから、当然といえば当然である。
ミラは腕や横髪を手に取ると鼻に寄せて嗅ぎ少し臭いを感じると脱ぎ始める。
「どうせ入るなら服も一緒に綺麗にしておくとするか。」
と脱いだ服や下着を湖に浸けて手揉みをすると近くの手頃な木の枝に掛け洗濯を終えると自分は湖に入っていった。
小さなミラは中心に連れて深くなる底にすぐ足がつかなくなった。湖の水はヒンヤリとして火照った身体を冷ましていく、その感覚が心地よく水面に対して仰向けに浮き、顔だけを空気にさらしながら目を閉じる。腰に付くほどの白い髪はまるでシーツの様に水の中で広がるとミラを包み込んだ。
ミラは水の中が中々に好きであった。
こうして水に漂い身を任せ重力の重さから解放されるとまるで自分がこの星に居ることを忘れてしまいそうになるからだ。
そうして浮力により軽くなった身体からは余計に疲労がドット押し寄せてくるのを感じる。
「長年引きこもってたからかな?人との関わりも旅も結構疲れるわね。これは予想外だったかも」
オラリオの様子をみたら後にするつもりだったが撤回である。
この身でそんな事を続けているといつか倒れてしまうだろう。ミラはもうしばらくは旅は中止にして、次の気分が来た時にまた旅を始めることにした。それまでの間はオラリオに身を置こう。湖を漂いながらこれからの方針を定めた。
満足するまで水浴びを終えると、髪をある程度手で絞り適当な布で身体を拭く。服はまだ乾き切っておらず、乾くまでのんびりと近くにあった岩の上で湖を眺めながら待っていると背後でガサガサと音が鳴った。その方向を目を向けるとそこには1人の人間がいた。
「本当にあのスケベ野郎信じられない!!今度こそは火あぶり・・水攻め・・絶対生きて帰さないんだから!!」
一人の女性が恐ろしい事を呪詛の如き早さで口にしながら道の真ん中を歩く。その女の容姿は人間の中でも特に美しく地上の存在とは思えないほどに整っていた。
絶世の美女。それも世の男性が放って置かないほどの超がつくほどの女である。が、しかし彼女に声をかけようとする男はおらず、それ所か行く正面の道には誰も居ない。その場に居合わせた通行人達は皆視界に入らないように身体を小さくするように互いに端の方に押し合う様に寄り合いその美しい女性に道を譲っていた。
機嫌の悪い彼女はダンジョンのモンスターよりいやかの三大クエストより恐ろしい存在である。それがここに住まう者達の共通認識であり、その女性は栄光と悪名を轟かせる一番有名な女であった。
女神ヘラ。
女神たちの女王であり、今オラリオを2つに分ける大派閥の長である。
通行人はその怒りが元凶であるスケベ神で消化される事を祈りながら、自らにその怒りの矛先が向かないよう視界に入らないようにしながら嵐が通り過ぎるのを待った。
そうして簡単に壁までたどり着くとヘラはオラリオの門番に睨むだけの挨拶により、無事オラリオからの通行許可を受け取り外に出ると更に足を進める。
その行動は一刻も早くこのオラリオからいやあのクソ夫と同じ場所から離れたいと一心の行動ではあったが、そんな行動を彼女の眷属達が聞けば全員が束になり抑えつけてでもそれを止めただろう。
気に入らないことがあれば、それがどんな些細なことであれ派閥戦争を仕掛け数々のファミリアを潰してきたヘラ。その過去の功績から神達や他の種族の垣根を超え、オラリオに住むものにとって満場一致の畏怖の対象であり絶対に逆らってはいけないとされる存在。
しかしヘラは悪神というわけではない。
どちらかといえばヘラは善神で、少しばかりクレイジーで嫉妬深くヒステリックな性格が悪い方向に出てしまってるだけである。
オラリオの発展の為に関わり尽くし、今のオラリオの形を築き上げた手腕と闇派閥を数多く壊滅させてきた実績。それは日々のやらかしを差し引いたとしても善神として称えられて然るべきで、オラリオの中であればヘラは神として歓迎される立場である。
そんなヘラが行く先々で注目を集めるのは必然で、ファミリアから外出したとなれば、彼女の位置情報は逐次オラリオ中に飛び交う。気分屋であり自由人で激情家のヘラ本人も無断で外に出たことをいちいち隠そうとするわけがない。そして彼女がどれだけ自由に行動しようが、彼女が歩いた所々で大問題を起こそうが、それによって恨みを持たれたとしても彼女に逆らう者はいない。
彼女の前に立ち塞がり逆らうものが現れたとすれば?そいつはただの自殺願望者。それか最強の片割れ、大神の派閥くらいであろう。
何故か?それはオラリオ最強の派閥の主神である彼女に逆らうことは最強のファミリアの最強の眷属を敵に回すのとなんら変わらないからだ。
だからヘラに何かしら害を成そうとしてもオラリオ最強の眷属達がすぐさま駆けつけ、鎮圧することなど容易く、表立ってヘラに悪意を持って近づこうとする存在は皆無。
それもオラリオの中だけの話ではあるが、
女神ヘラが力を与えた眷属がいくら強くても彼女自身は容姿相応というべきか並の女性の能力しか持ち合わせていない非力な存在であり変わることがない。それが神が地上に降りる時に課せられる制限。ヘラが地上にいる今、彼女が神の力を十全に振るうことはないのだ。
神であり神を象徴する立ち位置のヘラ。
神の世を疎ましく思う者、邪神を崇拝する信者、常日頃彼女に対して恨みを持っている者に取っては、人の目が極端に減る外にわざわざ非力な女神一人がノコノコ出てくるなど、カモがネギを背負ってくる。まさに襲ってくださいと言わんばかりの千載一遇、絶好のチャンスである。
そんな眷属が聞けば悶えて嘆くであろう状況を彼女は気にも止めず、考えもせず、逆に止められればまとめて直接かかってこいと言わんばかりに隠すことなく堂々とヘラは最近お気に入りのある場所に歩いて行った。
「おや?」
彼女のお気に入りの場所には先客がいた。
相手も誰かが来た事を察したのだろう、頭をこちらに向けてくる。髪も身体も全てが白くしかし目だけは宝石の様に赤い特異なエルフの子。
ただの見た目通りのエルフではないのだろう。
エルフは懐かしくも地上に降りてきてから久しく感じることのなかった濃厚な神秘を纏っていた。辺りも湖も少女から漏れる神秘によって満ち満ちている。エルフの容姿をした少女は上から来た者、同族なのだろうとヘラは確信した。
天界にいた頃の自分と比べれば大したことはないとヘラは自分に言い聞かせた。他の神より自分が劣っているなどと認められるはずがない。女神の女王である自分のプライドが認めることを許さなかった。
が、これ程までの己が内に神秘を内包したまま地上にやってくるモノに会ったのは自分を含め、初めてだったのもまた事実。癪に障るが、目の前の神は間違いなくこの地上において一番の存在だとそれだけは認めざるおえなかった。
目の前の規格外の神秘にヘラ自身も侵され、急激なアルコールに酔わされた時の様にヘラは顔を上気させ、身体が頬が火照るのを感じた。そうして長くない時間考えることすら放棄し、目を奪われ、ぼ〜と呆けながらもハッと我に返る。
「貴方、なんで服を着ずに外にいるのよ!!」
外なのに同性とはいえ何も気に留めずに全裸で座り込む同胞に先程まで彼女に酔わされていた雑念を振り払いながら、これまでの鬱憤をはらすかのようにヘラは怒鳴った。
どうしたんだ?といいたげな顔がますますヘラの機嫌を逆撫でさせる。
「貴方わかってるの。ここは地上なのよ?」
少女に近付きながら、ハッキリと顔を見るが、その顔はやはり見覚えはない。パーティーでも見たことがないエルフの面をした新顔だ。
その顔は容姿に優れる神の中でも決して劣ることはなく、それどころか一度見たら忘れることはないだろうと思うほどに非常に愛らしく美しかった。ならばきっと地上に降りてきたばかり、自分とは違う土地の出の神なのだろうとヘラは考えた。同性さえ惹きつけさせるカリスマと完成された美が悪い方向に働き、彼女は神だとヘラをますます誤認させた。
目の前の存在は自分も知らない何処ぞの小さな女神。だがいくら弱小とはいえ神は神だ。ならばここは女神の女王に対しての礼儀を・・いや女王として小さきモノを導いてやってやろうとヘラは思った。
ともかくまずは服、話はそれからだ。
服を着るように再三の催促すると、全裸で涼んでいた少女もしぶしぶと服を着替え、少女がシルクのワンピースに着替え終えるとヘラは待ってたと言わんばかりに話を続けた。
「上ではそれが貴方の普通だったのかもしれないけど、地上には地上のルールがあるの。貴方も何処の神かは知らないけど、知ってる通り、神の力は禁止、ここに長く居たかったら、地上ではいつも通りの振る舞いは出来ないと覚えておきなさい。まあ私レベルになればここ地上でも関係ないんだけどね。あら私とした事が一番大事な事を忘れていたわ。」
ミラは正直目の前の女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。どうやらこの女は勘違いしているようだ。
上と地上。空と大地のことだろうか?
しかしミラにとって空も大地もはるか昔から自分の領域である。
時に他の生命を慈しみ生かす術を授ける事はあっても、自らを謙り他生物に譲歩する道理は無い。自分達はこの星の種族の頂点に立つ者。古竜と名付けられたあらゆる生態系という枠から逸脱してしまった生物。
火を吹けば大地を焦がし、水を呼びて底へと誘い、嵐を起こして地表を白紙へと還す生ける自然の代弁者。だが天災と恐れられ、少し前まではエルフ達に神と崇められていただけに案外神という勘違いも的を射ているのかもしれない。
目の前の変わった人間。
人間性が変わっているという話ではない。確かに少しアレである事は間違いないが、この女、どこか性質が変なのだ。
先ほどから感じてはいたが、やはり何やら不純物が混ざったかの様な、普通の人間とは違う、何処となく自分寄りに傾いている気がする。その歪みは暇を持て余すミラにとって興味深く映る。
ミラは慢性的に困っている良い話相手を見つけた。
「私の名前はヘラ。女神の女王と呼ばれる。女神ヘラその神よ」
そうとは知らずにヘラは自らの威厳を誇示する様に腕を組み、仁王立ちすると少女に見せつけるのであった。
・・・そうかこんな脆い存在が神なのか。
神。そう呼ばれるならばきっと強大な力を持っている。
そうミラは思っていた。
きっと自分と対等に渡り合えるだろうと・・・しかしどうだ?神と名乗る目の前の者は羽ばたけば草の様に余波で吹き飛び、雷を落とそうものなら一瞬で塵となる。ハッキリ言って強者ではなく弱者。
だが彼女が人間ではないことは事実だろう。
ヘラの言葉に嘘が無いことをミラは理解し、納得していた。言われてみればとじっくり観察しないとわからないほどに僅かに、どことなくではあるが人間にはない自分と同じ古き神秘を感じたからだ。
神は好敵手足り得ない。
ミラの神に対しての興味はとうに失せていた。
しかし同時に別の興味も湧いた。
ヘラと名乗る女の神はどうにも会話をする限り人間臭い。下手をすれば神であるのに人間以上に人間、エルフの里にあった書物で書かれていた神とは大違いである。
「・・・人間もまた面白いが、神とやらも非常に興味深い...か」
まるでおもちゃを見つけて喜ぶ子供のようにミラの心は弾み、ヘラとの会話を楽しんだ。
「おいおい。へへへ本当に居るとはな〜」
しかし二人の楽しい時間は急遽終わりを告げた。割って入るものが現れたからだ。
数にして15人、武具を身につけて、各々得意とする獲物を携えコチラを見つめている。明らかに狙いはミラとヘラだろうが、男達の口ぶりから知り合いないし何処かで面識があるのだろうが、両手で数えるくらいしかまだ直接人間に会っていないミラの記憶には彼等は存在しない。ならばヘラの方だろうと、チラリと横のもう一人に顔を向けて伺うが、ヘラもさぁ?と頭を傾ける。
ヘラのその行動が集団のリーダーらしき人物の気に触った。
「お前ら神はいつもいつも傲慢だ。よそ者の癖に地上で好き勝手しやがってよぉ〜」
だが・・・
と言葉を続けると男はニヤリと笑みを浮かべる。
「女神ヘラ。お前の横暴もここまで、お前にはこれから天界に帰ってもらう。俺達はその引導を渡しにきたってわけだ。」
男は剣を腰から引き抜くとヘラに矛先を向け、男に釣られるように背後にいた皆も臨戦態勢を取る。
「そもそもお前たちは誰?そして不快で不敬、私を誰だと思っているの?」
「知らないなんて言わせないぞ!!俺たちのファミリアはヘラファミリアに潰されたんだからな!!」
互いの視線がぶつかり合う。一方は苛立ちと敵意が溢れ、一方にも苛立ちこそあるが、それはこの場を邪魔されたからであり、気持ちの大半は無関心。
男達のファミリアが潰されたと言う話は本当であった。だが彼らの所属していたファミリアは邪神によって作られたいわゆる闇派閥。
あらゆる犯罪に手を染め人道を踏み外したファミリア。そんな彼らに下されたのは大派閥による粛清と主神への強制送還。それは他者を省みることなく自らの欲望を満たした者への当然の報いであろう。しかし元来こういったタチの人間は散々好き放題やってきた癖にいざ自分達が不利益を被ると何事もなかったかのように揃って被害者面を並べるものだ。
「そう・・でもあいにく知らないものは知らないわ」
それにとヘラは顎を上げ、見下すような目線を男に向ける。
「私は女神ヘラよ。道端の小石を覚える道理はないの」
その言葉は有利な立場から弱者に対し蔑みバカにするようにニヤニヤしていた男達の顔をリンゴみたいに真っ赤にさせた。
一触即発。
もはや穏便に済ませる事は敵わないだろう。しかしそうなれば分が悪いのはヘラの方なのは明らか。
普通の女性程度の力しかない彼女が武装した集団に勝てる訳がなく、向こうも端から生かすつもりは無さそうだ。
何もしなければヘラの生もあと数秒。
だというのに当の本人には震えも怯えも無く、死に対する恐れが全くと言っていいほど皆無であった。それどころか生命の危機に晒されているというのに、この期に及んで自分がこの場において絶対の強者である様に振る舞ってすらいる。男達がそれにますます苛立ち募らせる。
それはただのバカ。あるいは本物の器か。
ミラは迷いなく後者を選んだ。
そうだとすれば彼女をここで散らせること、それはきっとオラリオという街に浅くないキズを残し、後々大きく響くことになる。
それだけの価値をミラはヘラとの語り合いで見出した。それに個人的にも神である彼女のことは好ましく思っている。
奴らの思い通りに事が運ぶのは心底面白く無い。
アレらは彼女が最も嫌いとする分類。私利私欲の欲望に満ちた瞳。生産性もなくただ他を貪る存在。本音を言えば一刻も早く視界から排除したかった。
ならば今やる事はもう決まっている。
前に出ると、勝手に邪魔するんじゃないわよ。の声を無視する。
「1人の女相手に多数なんて、それじゃあつまらないでしょ?私が相手をしてあげる」
男達に白いシルクのワンピースの少女が立ち塞がった。
子供にも舐められたと思ったのだろう、男達もとうとう限界だった。少女の行動が引き金となり、2人共々やってしまえと号令がかかると、一斉に襲いかかった。
同時にバチバチとミラの身体に瞬時に電流が伝う。連鎖する様に辺りの空気がきしむ。
咄嗟の出来事にビックリしたヘラはパッと一歩下がった。
「何よ・・・何が起こっているの・・・」
ミラの行動で全てが一変した。
と言っても変化は目に見えてわかるものではない。
それを感じているのは神である自分自身。そして膨大な神秘を放出し、この状況を引き起こしている目の前の白い女の子。
男達は何事もなくこちらに来ようと走り始めている。
湖周辺に神秘が魔素が溢れかえる。
ダンジョンの奥深くでも起こり得ない。地上ならば尚のこと絶対にあり得ない現象が目の前で起こり、魔素はいまだ上昇の一途を辿る。
その中心に居るのはミラと名乗った少女。
会話をして神ではないことは判明している。
だが外見が実年齢とアテにならないのは神にも幼い顔した年増しがいるので重々承知。でも彼女は規格外すぎた。
何故これ程の力を神でもないミラがこの地上で行使できるのかヘラには全く理解も見当もつかなかった。
溢れた魔素が上に集まるのを感じ、空を見上げる。
先程までの青空は雲が広がり曇り、太陽の光を遮る。雲は辺りを暗くし、空一面に広がる雷雲には紅き閃光がゴロゴロと音を奏でる。風が吹き木々がさざめく。それはこれから起こる出来事に対しての歓声か?それとも悲鳴か?
ヘラの身体が震えだす。
恐怖?
違う。そんな優しいものじゃない。
この場から直ぐ離れろと警告が走る。
これはもっと原始的なモノだ。
震えの正体。それは誰しもが持つ自分という種を守るための生存本能。
神々とは幾多も争ってきたが、こんな事は一度だけ。
風景が一瞬にして変わり、やっと異変に気付いたのか、男達も足を止めてヘラの様に空を見上げる。
「これは生あるものに対してのせめてもの慈悲。痛みを感じる間も無く一瞬で蒸発させてあげる」
ミラがそう冷たく言い放つと空から赤雷が男達の頭上に一寸のズレもなく降り注ぐ、ヘラは動じず髪をなびかせるミラを背に衝撃で巻き上がる風に手で顔を覆う。男達がいた痕跡は僅かな炭の粉だけなった。その粉炭も風と共に地上に広がり、湖に居るのは2人だけになった。
その紅き光にヘラは夫である大神の神の雷を幻視した。
目の前の少女に夫の背中を重ねながら見つめていると、少女の身体が力なくフラッと揺れた。地面に吸い寄せられるように倒れていくミラをヘラは急いで駆け寄ると倒れないように抱き止める。
「ちょっとどうしたのよ。ねえねぇってば!!」
身体を揺さぶるが、ミラの頭は人形みたいにグラグラとされるままに動くだけ、ミラは目を開けることはなかった。
それが気を失っているだけだと気付くとヘラはホッとして座り込み自分の膝にミラの頭を寝かせる。ヘラは彼女の細糸の様な髪を解くように頭を撫でた。
膝に感じるのは他と何ら変わらない年相応の子供の重さ。こんな小さな身体で自分を守ってくれたのだ。ヘラにはあの時に感じた恐怖はもう無かった。
彼女が一体何者でどう言う存在なのかはわからない。もしかしたら危険な存在、訳ありの子供なのかもしれない。
わからないことばかりだ。確かなことがあるとすれば、ここには自分を守り、疲労で倒れ、目を覚さない子がいる。理由などでそれで十分だ。
ヘラはありがとうと優しい笑みを浮かべながら、母親が子に寄り添う様に少女を見守り続けた。
探さないで