私達スピカのみなさんは、重い足取りで病院へと着きました。トレーナーさんが慣れた様子で看護婦さんと一言二言会話をして、目的の場所へと向かう。その目的の場所では……
「カフェさん。今日も来ていたのね」
「……スズカ、さん。それに、みなさんも」
「どう?カフェ。ファントムはあれから目を覚ました?」
「……いいえ、一度も」
「ま、アタシらもほぼ毎日きてっけどよ。起き上がったって話を聞いてねぇからな」
ファントムさんの、病室です。ファントムさんはこれまでと変わらず、目を閉じたままベットの上で横たわっていました。生きているのかすら分からないぐらい、穏やかな様子で。
あの日食杯が終わった後、ファントムさんは倒れました。そして日食杯は……もう2週間前の出来事です。この2週間、ファントムさんは一度も目を覚ましていません。
この2週間でいろんなことがありました。記者の人達が理事長さんにファントムさんのことを取材しようとして全部拒否していたこと。ファントムさんの影響で走るのを止めちゃった子達が、またトレセン学園に復学したこと。そしてその子達はみんな、元気に走っていること。ファントムさんには複雑な感情を抱いているみたいですけど……過去のことは過去のことで水に流すみたいです。
でも、肝心のファントムさんは……まだ目を覚まさない。
「医者の人は、なんの問題もねぇって言ってるよな?」
「……そうね。身体には何の問題もないって言ってた」
「では、それ以外の部分に問題があるということでしょうね。例えば……精神的な問題とか」
精神的な問題。マックイーンさんの言葉に、私達は多分同じことを考えました。きっと……エクリプスさんが関係している。
霊的なものに詳しいカフェさん曰く。
『おそらく、ファントムさんとエクリプスさんが戦っている』
とのことらしいですけど……。真相は分かりません。
ファントムさんは眠っている。本当は死んでるんじゃないか?って言われても否定できないくらいには。お医者さんが言うには、身体にはなんの問題もありません。でも、ファントムさんはこの2週間眠り続けたままです。そんなファントムさんを、みんな心配していました。
「ファントムさん……みんな心配してますよ?だから、早く起きてくださいよぉ……」
「スぺちゃん……」
思わず、涙が流れます。心配で、心配で……。もしものことがあったらどうしようって。そう考えたら……涙が止まらなくなってきました……ッ。
ファントムさん……みんな待ってます。だから、だから……早く帰ってきてください……。
「……ま、今日もみんなでファントムに話をしよっか」
「テイオーさん……」
「学園であった楽しいことや面白いこと。ファントムが聞いたら羨ましがるような話、いっぱいしてあげよ?スぺちゃん、みんな」
テイオーさんは明るい調子で答える。その声に……みんな頷きました。
そして、眠っているファントムさんにいろんな話をしました。学園での話や、休みの時の話。それはもう、本当に色んなことを。時間も忘れて話しました。
そして陽が沈みそうな頃、トレーナーさんからそろそろ帰る時間だと告げられます。
「じゃあね、ファントム。また明日も来るよ」
「えぇ。あなたが起きるその時を、わたくし達は待っていますわ。ファントムさん」
「早く起きて、元気な姿見せてくださいね、ファントム先輩!」
「アタシ達みんな待ってますから!」
「姉御!起きたらまた囲碁サッカーやろうな!」
「ファントム……頑張って」
「ファントムさん!また明日!」
カフェさんはもう少し残るみたいです。カフェさんに別れの挨拶をして、私達は帰りました。ファントムさん……きっと、今も頑張ってるんですよね?なら、頑張ってください!応援してます!
俺様は大地を駆ける。ここが精神世界だと分かっていても、感じるものは本物に近いような気がする……不思議な感覚だった。
ファントムから提示された1対1のマッチレース。細かいルールはヒートレースのルールを採用したものである。明確に違う点を上げるとすれば、1回でも勝てば勝った側の勝利というところぐらいだ。ヒートレースのように何回も走る必要はない。
もうすぐゴールを迎える。だが……
「ッ!フッ!」
「ッ、やぁぁぁぁ!」
俺様とファントムは……ほぼ同時にゴールした。着差なしの同着……つまるところ、デッドヒート(勝負なし)である。
「……これで何度目のデッドヒート?」
「……さぁな。100超えてからは数えてねぇよ」
嘘だ。本当は全部キッチリ数えている。これで通算……340回目のデッドヒートである。
「次は私が勝つよ!エっちゃん!」
「……ほざいてろ」
嬉しそうなファントムとは対称的に、俺様は淡々と事務的に告げる……表向きは。そして2人して次のレースの準備をする。精神世界だからか、スタミナはすぐに回復する。もうすでに準備万端だった。いつでも走れる。
……正直言って、この勝負の決着はほぼ着くことはないと言ってもいい。俺様とファントムは同じ身体能力をしているという都合上、差が生まれることはないのだから。
思考能力に関しても、どっちがどのタイミングで仕掛けるか?どのタイミングで離しにかかるかなんてのは長年の付き合いで分かっている。だからこそ……先に気持ちが折れた方が負ける勝負だった。
「スタートッ!」
ファントムの合図の下、341回目の勝負が始まる。
思えば、コイツに対する意識が変わったのはいつ頃からだろうか?少なくとも最初は、自分が蘇るための駒としか思ってなかったはずだ。アイツが泣き喚いても構わずにトレーニングを強要し、俺様の肉体に少しでも近づけようとしていた。
そもそも泣き虫だったファントムを、最初は嫌っていた。すぐ泣くし、些細なことでいじけるし、鬱陶しいことこの上なかった。だが、器としては極上だったから我慢するだけの価値はあった。
そんなコイツに対する意識が変わり始めたのは……やはりコイツが虐められているのを見るに見かねて助けた時だろうか?
コイツは泣き虫な性格のくせに、人助けだけはいっちょ前に続けていた。おそらく、両親の教えをしっかりと守るためだろう。だが……子供には善悪の区別がまだついていなかった。余計なおせっかいを焼いて、逆に怒られることがしょっちゅうだった。加えて人の目があろうと俺様と話すのを止めない。虐めるには……格好の的だった。
『やーいやーい!のろわれたこだー!』
『おまえのおやも、どうせおまえをすてたんだろー!』
『ちがうもん!わたし、のろわれたこなんかじゃないもん!すてられてなんかないもん!』
その時は、トレーニングもしねぇしクソガキ共がクソうぜぇから無理矢理変わってクソガキ共を威嚇した。まぁ……その辺の鉄棒をひしゃげさせて
『次はテメェらがこうなりてぇか?あ゛ぁ゛?』
なんて言ったら、顔を青ざめさせてクソガキ共は去っていった。そのころぐらいからだろうか?ファントムは俺様を尊敬の目で見たかと思うと、次の日から真面目にトレーニングに取り組むようになった。
『わたし、えっちゃんみたいなうまむすめになる!』
なんて言ってたっけか?まぁ、当時の俺様としては都合が良かったからあんまり気にしてなかったが。
「スタートッ!」
342回目のレースが始まる。
真面目にトレーニングするようになってからは、見違えるぐらいにファントムは強くなっていった。俺様は……まぁつっけんどんな態度を取っていたような気がする。思い出すだけで苦笑いしそうなぐらいに。
明確に意識が変わり始めたのは……アイツが何気なく発した言葉。
『あーあ、エっちゃんとレースができたらなー』
『なんでだよ?』
そう聞き返した俺様に、ファントムは……屈託のない笑顔で答えた。
『だって、エっちゃんとはしってみたいもん!エっちゃんって、すっごくすっごくつよいんでしょ?だったらきっと、たのしいもん!』
『……アホくせぇ。テメェみたいな泣き虫、どうせすぐに泣いて二度と走らねぇって言うのがオチだ』
俺様はそんな言葉をあり得ないと思っていた。どうせ子供の戯言、気にするだけ無駄。そういう風に思っていた。だけど……アイツは、曇りのない目で俺様を見ていた。
『そんなことないよ?だって、わたしエっちゃんだいすきだもん。まけちゃっても、きっとエっちゃんとまたはしってるとおもうけどな~』
純粋無垢な言葉。あり得るはずがない、どうせ一緒に走ったら離れていく。そう心の中では思っていても……やっぱり嬉しかった。
『……んなわけねぇだろ。いいからさっさとトレーニングを再開しろ』
『はーい。でもなー、エっちゃんとはしってみたいな~……』
多分、変わり始めたのはここだ。この言葉をずっと覚えていて……俺様は、徐々にファントムに対する態度を軟化させていったはずだ。この言葉だけが原因ではなく、ファントムの優しさに触れていくうちに、コイツにだけは気を許しても良いかもしれない……そう思えるようになったから。
「スタートッ!」
343回目のレースが始まる。
態度を軟化させてからは、俺様はファントムをよく褒めるようになった。
『エっちゃん。今日のトレーニングおわったよ……あ!自こベストこう新だー!』
『あ~……よくやった、な。うん。よくやった、ファントム』
『ッ!~~ッ!エっちゃんがほめてくれたー!やったー!うれしいー!』
『そんなに喜ぶようなことかよ……フフ』
最初はぎこちなかったけど、それでもファントムは飛び跳ねて喜んでくれた。それが何となくおかしくて……俺様自身の心にも変化が生まれたんだと感じてきた。
コイツと付き合いを重ねていくうちに、徐々に、徐々に変わり始めてきた。そして……思うようになったのだ。
『……なぁ、ファントム』
『んー?どしたのエっちゃん?』
『お前は、よ。まだ俺様と走ってみたいとか……そう思ってたりするか?』
俺様の質問に、ファントムは笑顔で答えた。
『当たりまえだよ!わたし、エっちゃんと走ってみたい!そしてそして、ずっとず~っと!エっちゃんときそいあってみたいんだ!』
『……あぁ。そうか』
『どうしたのエっちゃん?なんだかなきそうだよ?』
『なんでもねぇよ』
『ふ~ん?エっちゃんへんなの~』
ファントムと接しているうちに、心の奥底に閉じ込めていた気持ちがどんどんあふれ出そうになった。レースを楽しみたいという気持ち。みんなと走ってみたいという気持ち。もうとっくに諦めていた……そんな気持ちを、思い出すようになってきた。
「スタートッ!」
344回目のレースが始まる。
まさかあの時の願いがこうして形になるとは思わなかった。
「アハハ……!楽しいね、エっちゃん!私今、すっごくすっごく楽しいよ!」
ファントムは、楽しそうに走っている。……あぁ、そうだな。
「俺様も……楽しいよ、ファントム」
そう答える。そして……気づいた。自分の、本当の気持ちに。本当の願いに。
「あぁ……そうだな。ヘロド、マッチェム」
もう、自分の気持ちに嘘はつけない。こうしてアイツと何度も何度も走っていることが……何よりの証明だ。
俺様は、他のウマ娘を潰したいんじゃない。傍若無人な振る舞いをしていたのも、わざと敵を作るような発言をしてきたのも……それはずっと。待ち望んでいたからだ。こうすればきっと、自分に挑んでくる相手が現れるんじゃないかって。そしてそいつなら……俺様と一緒に、走ってくれるんじゃないかって。
俺様は……俺様はずっと。
「一緒に走ってくれる……友達が欲しかったんだ……」
視界が涙で滲む。気づけば……ファントムは俺のずっとずっと先を行っていた。344回目のマッチレースにして、ついにファントムが勝利を収める。つまりは……俺様の、負けだ。
「私の、勝ちだよ!エっちゃん!」
「……あぁ、そうだな」
不思議と、軽い気持ちだった。今までの呪縛から解き放たれたような、清々しい気分だった。
「それじゃあ約束!負けた方は勝った方の言うことを何でも聞く!だからエっちゃんは~私の言うことを何でも聞いてもらうよ!」
「……あぁ、二言はねぇよ。好きな命令をしろ」
だが、察しはついている。おそらく……成仏しろとか、そう言われるんだろう。それだけのことをコイツにしてきたし、俺様のしてきたことを考えたらそれが妥当だ。だが……それでも良い。俺様も、それを望んでいる。
コイツには、大事なことを思い出させてもらった。それだけで十分だ。コイツと別れるのだけはちょっと寂しいが……だが、コイツはもう俺様がいなくても十分にやっていけるだろう。
「じゃあねじゃあね~。私のお願いは~……」
「……」
刑の執行を待つ罪人の気分でファントムの言葉を待つ。覚悟は決めた。後はファントムからこの身体から出ていけと言われるのを待つだけ……
「エっちゃんはこれからもずっとずっと、私と一緒に生きること!それが私からの命令だよ!」
「……は?」
ファントムから命令された言葉に、呆けた声を出すしかなかった。
ファントムからの命令。それはこれからも一緒に生きること。