あの化け物と同じレースになったのは、年明け最初のレースになったG2の中山記念。私と彼女は万全の準備を期して向かった。
『このレースで最注目されている相手は……分かるね?』
『……はい。ファントムさん、ですね』
『そうだ。ファントムはここまでのレースを全戦全勝。加えて、朝日杯以外のレースを全て大差勝ちしている。間違いなくこのレースで一番の強敵だ。なんでクラシックレースに出走してこなかったのか、不思議なぐらい強い相手だ』
『……』
彼女の手は、震えていた。きっと、怯えているんだろう。今までにない強敵に。だから、私は彼女の手をそっと握った。
『トレーナーさん……』
『大丈夫だ。君なら絶対に勝てる!そのために、対策を積んできたんだ!』
『……ッはい!私、勝ってきますね!』
そう言って私はあの子を見送った。きっと勝てる。大丈夫だ。そんな、何の根拠もない自信を抱きながら。
この時のことを、いまだに後悔している。止めておけばよかったと。それぐらい、私の心に深く刻まれているんだ。
あの化け物をこの目で見た時、最初に抱いたのは不気味という感情。それはそうだ。パーカーのフードとお面で顔を隠している奴なんて普通は見ない。得体のしれない相手。それが最初に抱いた感想だった。
『本当に顔を隠してるんだな……』
だがそんな感情も、あの化け物の走りを見た瞬間に消し飛んだ。
あの化け物はスタートダッシュが苦手だ。逃げウマ娘なのに。このレースでも案の定出遅れていたよ。そしていつものごとく、掛かってペースを上げてすぐに先頭を取った。ただ慢心はしなかった。怖いのはここからだからだ。
第4コーナーを回ろうかというところ。あの化け物が、スパートをかけた。そのフォームは、あまりにも異質だった。
『映像でも見たけど……本当に、なんなんだアイツのフォームは?本当に、あんな走りが可能なのか?なんで、あの走りで脚が壊れないんだ?それよりも……怖くないのか!?アイツは!?』
オグリキャップ並の超前傾姿勢。ただ走ることに特化したフォーム。獲物を狙う肉食獣のような荒々しさ。加えてトップスピードはマルゼンスキーか、それ以上の速さを誇っている。そんなものを感じさせるあの化け物に、いっそ神々しさすら感じたよ。なぜ無事でいられる?という恐怖の方が大きいが。
《……やはり圧倒的だ!圧倒的強さを見せつけた!出遅れようが掛かっていようがこのウマ娘には関係ない!最初から最後まで先頭を走り続けた圧勝劇!2着との差は実に14バ身差!どこまで無敗記録を伸ばすのか!?〈ターフの亡霊〉ファントムが圧倒的強さを見せつけて中山記念を制しました!》
結局、あの子は勝つことができなかった。大差、圧倒的な差で負けた。私は思った。作戦が悪かったと、あの化け物の実力を見誤っていたのだと。そう現実から目を背けるように思った。
『彼女も同じウマ娘だ……ッ!これから努力していけば、きっと……ッ!』
無謀にも、そう思っていた。
そして、それをあの子も同じことを思っていると。そう考えていたんだ。
『大丈夫か!?───ッ!』
あの子はターフの上でうずくまっていた。一瞬怪我をしたのかと心配したがどうやらそうではなかった。
あの子の身体は震えていた。ただ当時の私はそのことに気づかなかった。彼女を気遣うように傍へと駆け寄る。
『……トレーナーさん。私っ』
『あぁ。負けちまったな。だけど、相手の実力は分かった!だから、次は勝つぞ!』
『……はい。そうですね』
その時の私は気づかなった。あの子の目が、酷く濁っていたことに。
そこからあの子は、狂っていった。あれだけオーバーワークをしなかったのに、毎日のように自分に無茶な負荷をかけるようになった。それも、私の目の届かないところで。
『止めなよ───ッ!それ以上やったら怪我しちゃうよ!』
『……放っといて!まだ、まだ足りないの!彼女に届くには、まだ……ッ、まだッ!』
『───……』
友人からの呼びかけにも応じず。
『今何時だと思ってるんだい!?門限ギリギリだよ!』
『……すいません』
『……なぁ───。中山記念で何があったんだい?あの日以来、アンタずっと調子がおかしいよ?』
『……別に。門限、すいませんでした』
『あ!ちょっと!』
寮の門限ギリギリまで練習をするようになった。その度に、私に報告が上がってきていた。
私も、何もしなかったわけじゃない。それを見つけるたびに、報告が上がるたびに私はあの子を叱った。
『今すぐ止めろ!───ッ!』
『トレーナーさん……ッ』
『一体どうしたんだ!?あれだけオーバーワークはしないようにって言っただろう!?』
『でも……ッ、でもッ!』
『中山記念が終わってからおかしいぞ!?一体何があったんだ!?───ッ!』
あの子は、濁った目をしたまま私に訴えかけてきた。
『だって!こうでもしないとアイツに勝てない!無茶な努力をしないと、アイツには絶対勝てない!だから、限界以上のトレーニングをしないと!そうしないと、あの子には絶対に勝てないんだ!』
『───ッ。お前……』
普段めったに叫ばない彼女の叫び。それに私は思わずたじろいでしまった。
そして、ある日の練習中に、悲劇は起こった。
『……ッ!あ……グゥ……ッ!あ、脚が……ッ!』
『───ッ!おい、───ッ!しっかりしろ!待ってろ!今すぐ救急車を呼んでくる!』
あの子の脚は、壊れてしまった。
『疲労骨折です。そして、その、大変申し上げにくいのですが……』
『な、なんでしょうか?』
『もう、レースで走るのは、諦めたほうがよろしいかと思います』
『な、なんでですか!?それだけ、骨折が重いってことですか!?』
『そ、そうではありません!また走れるようにはなります!ただ、彼女の様子がおかしかったので、精神科医の方をお呼びして診察してもらったんです!そしたら……』
『そしたら……?』
医者の人は、その重い口を開いた。
『……強迫性障害の症状が見受けられたと。そう診断されました。おそらく、完治しても彼女はまた同じことを繰り返すでしょう。そうなる前にあなたの口から』
『……ッ!───ッ!』
私は、医者の言葉を無視して駆け出した。あの子がいる病室へと、一目散に駆け出した。
病室に、彼女はいた。だが、普段の天真爛漫な彼女からは想像もつかないほど、疲れ切った表情をしていた。彼女は、こちらへと視線を向ける。わずかに目を見開かせていた。
『……トレーナー、さん』
『───ッ!』
私は、あの子の傍へと近づく。少しだけ、笑みを浮かべていた。
『ごめんなさい……。私……トレーナーさんの言葉を無視して、無理をして、迷惑をかけちゃいました……』
『いいんだ!骨折も、じきに良くなるって言ってた!だから、治ったらまた頑張ろう!』
私は必死にそう言った。彼女を励ますように。だけど……。
『……ごめんなさい。もう、無理です』
『……えっ?』
彼女は、力なく笑った。
『いつか届く。努力はきっと報われる。このまま続けていれば……。そう思ってたんです』
『……ッ!そうだ、その通りだ!諦めなければきっと届く!ファントムにも!』
『無理なんですよ。トレーナーさん。私、気づいちゃったんです』
彼女は、後悔するように言ったんだ。
『あの子には絶対に勝てないって……あの子にはどうあがいても届かないって……。そう、気づいたら……頑張ろうって気持ち、無くなっちゃいました……』
『───……』
そして、あの子は、力のない笑みのまま。泣きたいはずなのに、それでも必死に笑顔を作って。その言葉を、一番聞きたくなかった言葉を、私に言い放った。
『ごめんなさい、トレーナーさん。私との契約を、解除してください。もう、私は……中央で走りたくない……』
「……これが、ファントムのレースで2着になったあの子に起きた一部始終です」
「「……」」
「ほとんどの子が同じ気持ちを味わってると思いますよ。あの化け物と同じレースに出走した子は」
……開いた口が塞がらない、とは、このことを言うでしょう。それぐらいに衝撃的なことでした。ただ、タキオンさんは冷静に分析しています。
「……成程。その子の症状はファントム君と模擬レースをした後のエルコンドルパサー君に近い。だが、エルコンドルパサー君は乗り越えた。なぜだ?いや、あれはファントム君が本気を出していなかったと聞く。つまりは……」
「これで分かっただろう?私がアイツを化け物と呼ぶ理由が」
彼は、そう言って続けました。
「アイツは普通じゃない。あの化け物と同じレースで走った奴は例外なく潰される。そんな奴を化け物と呼んで何が悪い?」
……確かに、そうかもしれません。ですが!
「ファントムさんだって、私達と同じウマ娘です。そして、私の友人です。私の大切な友人を、化け物呼ばわりは止めてください」
「……君達はファントムをよく知らないからそう言えるんだ。知っていけばわかるさ。彼女がどれだけ化け物か」
「フゥン。そうだねぇ」
「……タキオンさん?」
先ほどから、考え事をしていたタキオンさんが彼の言葉にそう言いました。
「確かに、我々もファントム君のことはよく知らない。それは事実だ。認めようじゃないか」
「……そうだろう?」
「だが逆に聞こう。君は彼女の何を知っている?たかだか担当が同じレースで1回走っただけの君に、ファントム君と一度も話したことがない君に、彼女の何が分かるっていうんだい?是非聞かせてもらおうじゃないか」
「……っ」
彼は、気まずそうに顔をそらします。おそらく、自分でも分かっているんでしょう。自分も、ファントムさんのことをよく知らないことに。ですが、言葉を訂正する気は、ないようです。
「最後に聞いておこう。その子は、ファントム君と一緒に走って何を見たんだい?」
「……さぁね。頑なに話そうとしなかった、というよりも、話そうとすると当時のことを思い出してか身体が震えていたんだ。そんな状態なのに、無理やり聞こうなんて思わなかったよ」
「……興味深い話をどうもありがとう。我々はこの辺でお暇させてもらうよ」
「……失礼しました」
扉を開けて、部屋を出ます。帰り際
「───ッ……!」
彼は、自分の担当だったウマ娘の子の、名前を呼んでいました。懺悔をするように。
彼から話を聞いた後、私とタキオンさんはいつもの旧理科準備室に来ました。そして、彼から聞いた話を精査していきます。
「それで?タキオンさん。良い情報は、得られましたか?」
「……」
「タキオン、さん?」
タキオンさんは、無言のままです。私が肩を叩いて、ようやく反応しました。
「……?あぁ、すまないねカフェ。何か用かい?」
「いえ。収穫は、ありましたか?」
「……そうだねぇ。とりあえず分かったのは、なぜ彼女達が学園を辞めていったのか。それは大体の予想がついた」
「彼女達……。ファントムさんのレースで、2着になった子達、ですか?」
タキオンさんは頷いた後、つづけました。
「おそらくだが、彼女達はファントム君の
「
話には、聞いたことがあります。都市伝説のようなものですが……。曰く、限界の先の先、凄まじい力を発揮するものだとか。
ですが、
「あれは、他人には影響を及ぼさないのでは?」
「そうだねぇ。だが、もしそうだとしたら説明がつくんだ。ただ一度のレースで大差をつけられて諦めるような子は中央にはいないだろう。だとすれば、彼女達はファントム君と一緒のレースを走ったことでファントム君の何かを見た。その何かが、ファントム君の
確かに、そうです。そして、タキオンさんは続けます。
「この仮説が合っているとして。もしファントム君の
「……」
「
……分かりません。ただ、垣間見た人達が走るのを諦めるようなものです。それはきっと……、とても、恐ろしいものなのでしょう。
ファントムさん……あなたは……
「一体、何者なんですか?」
思わず。そう呟いて、しまいました。
「カフェ。1ついいかい?」
「……なんで、しょうか?」
タキオンさんは、毅然とした態度で言います。
「私は、これからもファントム君のことについて調べていくつもりだ。君も、付き合う気はあるかい?」
「……」
頷かなくてもいい。例え知らなかったとしても、ファントムさんは私の友達だ。だから、知らなくてもいい。
……いいや、違う。これはきっと、言い訳。
(怖いんですね、私は。関係が壊れてしまわないか)
”カフェ。私は調べるべきだと思う”
「……え?」
お友だちが、そう言いました。
”取り返しのつかないことになる前に、あの子のことについて知っておいた方がいい。それに、あの子はワケを話せばきっと分かってくれる。そうでしょ?”
「……そうですね」
お友だちの後押しもあって、決心がつきました。私は、タキオンさんの言葉に、答えます。
「あなたのお目付け役が、必要ですから。私も、付き合います」
「随分酷い言い草だが……まぁいい。では、一緒にファントム君のことについて調べていこうじゃないか!」
タキオンさんは仰々しく手を広げてそう言います。
ファントムさん、あなたが何を隠していて、何を考えているのかは、私には分かりません。ですが……。
(たとえ、どんな真実が待っていたとしても、私達は変わらず友人です)
そう、誓いました。
ファントム調査団結成。
23時以降にもう一本投稿するかもしれません。内容としては本編ではなくファントムのメイクデビュー戦の時の話にする予定です。なんでかと言いますと……主人公のレース描写が全く出てこないからですねはい。なので、たまに本編の合間に過去のレース回を書いていこうと思います。