スズカさんが、故障した。大欅を越えようとした、矢先の出来事だった。私は思わず声に出しました。
「す、スズカさん……ッ!」
観客席のフェンスを乗り越えて、今すぐにでもスズカさんの下に行かなきゃ!そう考えていると、スカーレットさん達に止められました……ッ!
「離してください!スズカさんが、スズカさんが!」
「落ち着けスペ!スズカをよく見ろ!」
……え?スズカさんをよく見ろって。私はトレーナーさんに言われて第4コーナーを見ます。そこには、内ラチを頼りに何とか立っているスズカさんの姿がありました……ッ!無事だったんですね、スズカさん!
「アイツは無事……じゃねぇが、何とか意識はある状態だ。今はまだレース中だから動くことができねぇがじきに医療チームが行くだろう。下手すりゃ、お前はレースを妨害したとみなされて出走停止処分を食らうぞ」
「……はい。すいませんでした」
「謝らなくていい。俺も、お前と同じように飛び出しそうになったからな」
そう言ってトレーナーさんは苦笑いを浮かべました。私も、つられて笑みを浮かべます。とにかく、スズカさんが無事でよかったです!
私は、レースを観ることにしました。依然としてファントムさんが先頭です。
《アクシデントはあってもレースは止まりません!先頭を走るのは依然としてファントム!しかし2番手にはエルコンドルパサーだ!エルコンドルパサーが控えている!その差を7バ身、6バ身とグングン縮めていく!エルコンドルパサーがファントムを捉えるか!?》
レースは、エルちゃんがファントムさんを捉えようとペースを上げている場面。す、凄い!エルちゃん速い!これならファントムさんにも……。
そう思っていると、最後の直線に入ろうかというところでファントムさんの走りが明らかに変わりました。ただそのフォームはあまりにも独特で、誰にも真似できないような、そんなフォームでした。
「な、何よあのフォーム……ッ!」
「あんな、あんな走りが可能なのですか!?」
「……理論上は可能だ。だが、アイツじゃなけりゃまず不可能だろう」
「ファントムは、怖くないの!?下手したら地面と激突だよ!?」
そう。ファントムさんのフォームは、頭を地面すれすれまで近づけて走る独特な走法。加えて、超前傾姿勢で走っています。蹴る力を全て前へ進むために使っている。そんなことを感じさせる走り。真似しようものなら、地面に激突して大怪我は免れないです。でも、ファントムさんはまるで意に介していないかのようにどんどん加速していってます。併走でも一度も見たことがないフォームでした。こ、これがファントムさんの……本気の走り。
思わず畏怖の念を抱くのと同時。私はある違和感を感じます。ファントムさん、なんというか……。
「寂しそう……?」
凄く、寂しそうに走っているのが印象に残りました。
スズカ君も心配だが、レースは続いている。私は最後の直線に入ったファントム君の走りを見る。そんな時視界に映ったのが、ファントム君の独特なあのフォームだ。
実を言うと、私はファントム君相手に自分の薬を試したことはない。理由は単純で、彼女には必要ないと思っていたからだ。その理由が、今の彼女の走り方にある。
「……やはり、映像で見るのと生で見るのとは全然違うねぇ。不思議でたまらないよ」
前傾姿勢で走るウマ娘は存在する。何もファントム君だけができることじゃない。だが、ファントム君の走りは彼女にしかできないだろう。そう思わせるだけの走り方だ。
頭を地面すれすれまで近づける異質なフォーム。蹴る力を全て前に進むために使っているかのような走り方。踏み込みの力も半端じゃない。彼女はトップスピードを維持し続けている。
これが、私がファントム君で実験しようと思わなかった理由だ。彼女には私の薬などという不純物は必要ない。神から与えられた天性の肉体、あの超前傾姿勢でもバランスを崩さない驚異の体幹、ここに至るまでに彼女が費やしたであろう狂気ともいえる努力、地面に激突することを恐れない鋼の精神力。それら全てが合わさることによって可能となる、空気抵抗を極限まで減らした理論上最速の走り。そう思わせるだけの説得力が彼女の走りにはあった。
やれ、と言われてできないことはないだろう。だが、真似をしたら間違いなく脚が壊れる。彼女以外は。
「末恐ろしいことだよ全く。私が思い描くウマ娘の限界を超えた先……それの1つかもしれない。彼女の走りは」
だが、だからこそ超えたい。あの走りを、彼女を越える。それこそが、私にとっての命題になるだろう。そんな予感がしていた。
……あのぱっつん緑は沈んでいった。これからが楽しい時間だってのに、興ざめだぜ。一気に心が冷え込んでいくのを感じる。
”……スズカ”
「心配でもしてんのか?」
ぱっつん緑の名前を、心配しているように呟くアイツ。思わず舌打ちする。
「心配するにしても後にしろ。アイツはただ耐え切れなかった。それだけのことだ。それに……」
チラリと後ろを確認する。……どうやらぱっつん緑は内ラチを頼りに何とか立っている、という状態だった。折れてはいるものの、命に別状はないだろう。
「死にはしねぇ。問題はない」
”……でも”
「テメェはレースしている相手を心配すんのか?そんなもん後にしろ。今は勝つことが最優先だ」
もっとも、あのぱっつん緑が沈んだことで俺様の勝ちはもう揺るがないものとなった。後はこのまま、スパートをかけて終わりだろう。
そろそろ最後の直線に入ろうかというところ。さっさとこのレースを終わらせるかと思った矢先。
「追い、つきましたよ!」
……この声、マスク娘か。どうやら虎視眈々と狙っていたらしい。声の位置からして、4から5バ身ってとこか。
追いついた、か。だったら。
「こっからまた引き離してやるよ」
俺様は集中する。最後の直線に入る手前、準備を済ませる。
「恐れろ」
”……ッ!”
さぁ、始めるか。頭を思いっきり振りかぶる。
「跪け」
俺様本来の走りを。頭を地面すれすれまで近づける。
「俺様という個を……テメェらの頭に刻みつけろ!敗北とともになぁ!」
コイツらに叩きつけてやる!その思いとともに、俺様は地面を思いっきり踏み抜いた。
そうして最後の直線に入って、俺様だけの世界が見えてきた。何もない、無人の荒野。360°どこを見渡しても変わらない景色。その景色を塗りつぶすように背後から迫りくる闇。迫ってくるスピードは、とんでもなく速い。普通のウマ娘なら、なすすべもなくこの闇に飲まれるだろう。……俺様以外は。
俺様は一気に加速する。今まで以上のスピードで加速する。誰も俺様に追いつくことを許さない。誰も俺様の前を走ることは許さない。そのために、この走りはある。
”ア、グ、うぅ……ッ!”
……フン。相変わらずの自己犠牲か。コイツも真面目なもんだ。そんなに大事かね?塵共のことが。最終的に、俺様の餌になるってのに。
「蹂躙してやるよ塵共」
依然として俺様が先頭。後はこのまま……出走している奴ら全員を喰らいつくすだけだ。
大逃げの対策は積んできたっ。だからこそ、今はなんとか食らいついていけてます!エルは先頭を走るファントム先輩との差を詰めていきます!
(後、もうちょっと!そして、最後の直線に入れば、エルの
そう考えていると、前を走るファントム先輩の走り方が明らかに変わりました。映像でも見た、あの走り。いざ体感してみると……ッ!
(恐ろしいデスね……ッ!あんな走り、本当に実現可能なんデスか!?いえ、実際にできている。だから、実現自体は可能!)
けど、アタシにやれと言われてできるか?なんて言われたら絶対に無理だ。脚の方が先に持たないだろうし、地面に激突することを考えたら真似することはできない。ファントム先輩に畏怖と尊敬の念を抱く。
けれど、その感情を抱くのは後デス。今やるべきなのは、ファントム先輩に勝つこと!スズカ先輩は……痛ましいが、今はレース中。エルだってこの天皇賞を勝ちたい。だからこそ、今はファントム先輩に勝つことだけに集中する!
(追いかけるこの展開……ッ!もう少しで、もう少しで見えてくる!)
そして、来ました!この感覚……ッ!景色が塗り替わる。ワタシの
(さぁ、ゴーですマンボ!エルのビクトリーロードを示し……ッ!?)
瞬間、強烈な悪寒が走りました。まるで、捕食者を前にした草食動物のような、圧倒的な力を持った相手と相対しているような感覚に陥ります。そして。
(……え?な、なんデスかこれは!?景色が、エルの
突如として、エルの景色が上書きされるように、浸食されるように変わっていく。日本ダービーで見えたあの景色。マンボが先導するように飛んでいたあの景色がどんどん塗り替わっていく!?代わりに見えてきたのは、荒野。360°どこを見渡しても何もない、荒野が広がっていた。
ここは、どこデスか?こんなところ見たことがない。でも、とにかく走らなければいけません。進む足を止めるわけにはいかない。エルはただがむしゃらに走る。
(本当にどこですかここは?本当に何も……ッ!?)
そう思っていると、今度は何かが迫ってきた。それが何かは分からない。ただ、言うなれば……闇。大質量の闇がワタシに迫ってきて……ッ!
「に、逃げないと!速く逃げないと飲み込まれ……ッ!」
必死に脚を動かしても逃げることは叶わず。エルはなすすべもなく闇に飲み込まれました。
次回 ファントムの領域、その正体
23時に続きをもう一本投稿します。