ハーデス軍が聖域の黄道十二宮に攻め込んだ時、パピヨンのミューもその軍勢の一人として参戦していた。
ミューは、他の冥闘士《スペクター》とは違う異質な戦士だった。
第1形態の卵から始まり、相手の強さに応じて幼虫、蛹を経て最終形態の成虫へと至る。
最終形態の彼は強力な超能力の使い手であったが、黄金聖闘士でも最高峰の超能力を持つムウの前に敗れ去った。
彼は、仲間たちが不利になることは話さないと拒絶して最後を迎えた。
最後に残った一匹の眷属の蝶も、サガたちを監視し続け、その魂をハーデス軍に縛り続けた。
ハーデスへの忠誠心と仲間を思う心は、聖闘士すらも認めるほどのものだった。
監視の使命を終えた蝶が冥界に帰ってきた。
その蝶は、最後の力を振り絞って卵を産み落とす。
それは、巨蟹宮で見せたミューの第1形態、スライム型の卵であった。
冥界三巨頭の一人ラダマンティスは、彼を進化する魔物と評した。
それは、戦闘形態の特異さからだけではない。
ハーデスの力で蘇るのではない。
その生態によって復活することが可能だから、魔物と評したのだ。
今、冥界は聖闘士たちに攻め込まれている。
復活した以上は、スペクターの使命を果たすために戦わなければ。
ミューは向かってくるコスモを感じて、その方向に向かう。
そのコスモの強さから並のスペクターでは相手にならないと判断していた。
自分でも敵わないかもしれない。
それでも立ち塞がる。
それが自分の使命なのだから。
冥界の地をカシオスが歩いている。
この聖戦《抗争》は、己が所属する聖域《組》と冥界が地上《シマ》を賭けて行われている。
故にカシオスも、この喧嘩に参加しているのだ。
道中、いく人かのスペクターが襲い掛かってきたが、すべて一蹴されていた。
スペクターは、冥衣《サープリス》によって選ばれて、相応しい身体に作り換えられる。
特別な覚悟や訓練は必要ないのだ。
だからこそ、僅かな例外を除き、個々の力は強くなかった。
いや、心が弱かったと言うべきか。
カシオスの喧嘩相手として満足できる者はいなかった。
カシオスの歩みが止まる。
身体が何かで縛り付けられている。
そんなカシオスの前にスライム型のミューが姿を見せる。
「これは、驚いた。
クロスを持たぬ者が冥界に入ってくるとは。
だが、私の超能力に抗う術は持たないようだな」
ミューは、カシオスのコスモの強大さを認めていたが、その気配から超能力などの力は持っていないと理解していた。
だから、自分の力で完全に封じ込める事ができると思ってしまった。
カシオスは全身に力を込めて、身体を縛る何かを引きちぎる。
第1形態の力ごときで縛れるような心ではないのだ。
ミューは能力ではなく、力技で破られたことに動揺する。
その動揺が収まる前にカシオスに殴り飛ばされていた。
「ぐあ!第1形態ではまずい。
進化しなければ!」
相手から超能力に抗う事ができる能力を感じ取れなかったことから、自分と相性が良いと思い油断していた。
まさか、巨大なコスモに任せて戒めを力づくで引きちぎるとは予想できなかった。
このまま追撃されれば本気を出す前に終わってしまう。
そう思い焦るミュー。
だが、いつまでもカシオスからの攻撃は来なかった。
それどころか、カシオスは卵の状態のミューの前に座り込んでいた。
「準備が出来たら言いな」
まさか、この男は私が進化するのを待つと言うのか!
ミューの心が驚愕に染まる。
カシオスが喧嘩相手に求める条件、それはベストコンディションだった。
自分がベストコンディションである事には拘らない。
かつて花山薫だった時も、飯を食ってる時でも、寝ている時でも、女を抱いている時でもいつでも仕掛けてきていいと話すほどだったのだから。
だが、相手の準備が整ってないなら、整うまで待つ。
それがカシオスと言う漢だった。
「後悔するぞ。
最終形態の私の力は、今の比ではない!」
ミューの言葉を受け、カシオスの顔には笑みが浮かんでいた。
優しい顔ではない。
これから始まる闘争に期待を昂ぶらせる修羅の笑みだった。
カシオスにとって強者との喧嘩こそ心躍らせるものなのだ。
そんなカシオスの本気を感じ取り、ミューは身体を進化させていく。
様子見などしない。
幼虫、蛹を経て、人間の姿の成虫に至る。
「準備は出来た。
お前は最初で最後の勝機を逃したのだ」
「・・・そうか」
カシオスが立ち上がる。
拳を鳴らし、ミューと対峙する。
「他のスペクターたちを助けに行かねばならんのだ。
速攻で決めさせてもらう!」
ミューはコスモを高め、再びカシオスを超能力で縛る。
それだけではない。
「シルキィスレード!」
左手から白い糸が放たれ、カシオスを絡めとっていく。
カシオスは、糸で完全に包まれてしまった。
超能力と糸で縛られ、このまま窒息して死を迎える。
ミューは、そう確信していた。
次の戦場に向かおうとするミューだったが、背後から増大するコスモを感じた。
まさかと思い振り返ると、完全に捕らえたはずの繭の中から高まり続けるコスモを感じる。
そして、強靭なはずの繭の糸を引きちぎりながらカシオスが出てくる。
「バカな!
この姿になった私の超能力と糸ですら捕らえることが出来ないなんて」
呆然としているミューにカシオスの拳が迫る。
ミューは、糸を張り盾を作る。
しなやかで強靭、その上弾力もある糸の盾は、打撃の威力を殺してくれるはずだった。
しかし、カシオスの拳は止まることなく糸の盾をぶち破り、ミューの腹部に突き刺さる。
「がはぁ!」
腹部に強烈な衝撃を受けて、吹き飛ばされる。
技でもなんでもない、ただの拳でこれ程のダメージを受けるのは初めてだった。
倒れたミューの前にカシオスが立つ。
「まだ、やるかい?」
痛みに震える身体を精神力で抑え、立ち上がる。
「当たり前だ。
お前を倒して、仲間を助けに行く」
ミューの身体から無数の眷属、死の蝶『フェアリー』が生み出される。
ムウとの戦いで使ったフェアリースロンギングではない。
フェアリースロンギングは、蝶の群れによって相手を冥界に引きずり込む技。
生きて冥界にたどり着ける者などほとんどいないため、相手を即死させる技であった。
しかし、ここは冥界。
生きてここにいる相手に、この技では意味がない。
「食らえ!フェアリーエクスプロージョン!」
無数の蝶がカシオスに群がり、爆発していく。
眷属の蝶は、その内包するコスモを使い自爆していた。
そして、周りにいる他の蝶も、その爆発に反応して自爆していく。
無数の蝶で相手を取り囲み、連鎖爆発によってすべての衝撃を中心にいる相手に叩き込む。
それが、パピヨンのミュー最大の奥義だった。
己の命を犠牲にして行う自爆の威力は凄まじい。
それは、ゴールドクロスを嘆きの壁に送った後、生身のカノンがラダマンティスを倒すために自爆したことからも分かるだろう。
ミューは、自爆するための蝶を無数に生み出せるのだ。
かつてラダマンティスが全黄金聖闘士とも戦えると言っていたのも、あながち間違いではないのかもしれない。
ミューは勝ちを確信していた。
一匹の蝶の自爆でも黄金聖闘士に手傷を負わせることが可能な威力がある。
それを同時に生み出せる最大の数で行ったのだ。
カシオスの身体は、もはや肉片すら残っていないはずだ。
そのはずだった。
爆発によって発生した煙の中からコスモを感じる。
「何故だ!何故死なない!」
どこまでも高まっていくコスモにミューは畏怖すら覚えていた。
煙の中から出てきたカシオスの身体は、いくつか皮膚が破れ筋肉の繊維が見えている所があるものの五体満足の状態で立っていた。
自らの最大の攻撃でも、さしたるダメージを与えられなかった。
「まだ、やるかい?」
ミューの前に立つカシオスが再び問いかける。
勝てない。
ミューの中に諦めにも似た感情が広がる。
それでも、スペクターの使命を否定することだけは出来ない。
「続けるさ。
勝負はこれからだ」
ミューが声を絞り出す。
「そうか。
なら、準備しな」
そう言ってカシオスは座り込む。
卵の状態だった自分に進化を促した時のように。
「まさか、気付いていたのか?」
「全力を出せ。
悔いが残る喧嘩は、つまらねぇぜ?」
たしかに今の最終形態は偽りの姿だった。
第1形態から第3形態まで悍ましい魔物の姿だったのだ。
最終形態だけが人間の姿である意味がない。
この姿は、最終形態が持つ擬態能力を使っているのだ。
ミューは、力の大半を使ってまで人間の姿でいたかった。
スペクターの中で誰よりも人間である事に拘っていた。
巨蟹宮でムウの亡霊という言葉に、自分たちは人間だと答えていたのもそのためだ。
ラダマンティスを始め、他のスペクターたちはミューを進化する魔物と呼んでいた。
そう、人間ではなく魔物として扱われていたのだ。
天妖星パピヨンに選ばれたことで身体が悍ましい魔物に変わってしまった。
他のスペクターたちからは仲間として、その実力は認められている。
しかし、魔物の姿に対する恐れや嫌悪も向けられてきた。
だから、最終形態の真の姿は人間でいたかったのだ。
ハーデス軍に対する忠誠も仲間のための献身も、これ以上嫌われたくないと言う思いの裏返しだった。
だが、目の前の男は違う。
擬態を解いて全力を出すか、ここで終わりにするかを自分に委ねてくれている。
思えば、第1形態から第3形態までの姿を見た時も、表情一つ変えなかった。
この男なら、ハーデス様にすら見せたことのない真の姿を見せても、恐怖も嫌悪もしないかもしれない。
そんな期待とこの男にすら嫌悪されたらと言う恐怖に心がぐちゃぐちゃになってしまう。
あくまで、お前が決める事だと言う態度で待ち続けるカシオスを見て、ミューも覚悟を決める
「覚悟は決まった。
これが、私の真の姿だ!」
ミューは、スペクターになってから初めて擬態を解いた。
身体が軋み、巨大化していく。
身を包んでいたサープリスは、外骨格へと変化した。
その姿は、カシオスすら小さく感じるほど巨大な二足歩行する人のフォルムを残した蝶だった。
人間の美的感覚からすれば、悍ましい魔物以外の何ものでもなかった。
だが、対峙するカシオスの表情に変化はない。
そこに恐怖も嫌悪も存在しなかった。
カシオスが両の拳を握り、顔の横に持っていく。
構えを取ったのだ。
そんな姿にミューの心に喜びが溢れる。
ああ、こいつは私を対等な喧嘩相手としか見ていない。
この悍ましい姿も、この男にとっては何の意味も持たないのだ。
ミューも構える。
今は、この漢と心いくまで殴り合いたい。
そんな気分だった。
今のミューの心にスペクターの使命だとかハーデス軍としての任務と言った雑念はなかった。
二人は殴り合いを始めた。
そこには、技巧も術もなかった。
その巨体が持つ力と魂の力たるコスモをただぶつけ合うだけの、まさに力比べと言うべき戦いだった。
花山薫がいた世界の地上最強の生物と言われる男の言葉に『戦いこそが最高のコミュニケーション』というものがある。
たしかに本気で殴り合わなければ伝わらない想いもある。
激しい殴り合いの中でミューは、不思議な感覚を覚えていた。
カシオスと言う漢の行為そのものは攻撃だった。
だが、殴られた拳に嫌悪などの負の感情がないどころではなかった。
この漢は、自分を好いている。
悍ましい姿を晒した自分を好敵手《とも》と認めているのだ。
仲間のはずのスペクターたちは、自分を好いてはいなかった。
仲間だ、頼りにしている、そんな態度の中に魔物の姿に対する恐怖と嫌悪があった。
スペクターとなった時に諦めた友情を、まさか敵との間で感じることになるとは思わなかった。
だから今、この喜びを拳に込めてカシオスに返す。
殴り合うことでしか分かり合えない不器用な漢たちの戦いが続いていく。
この殴り合いが永遠に続けばいい。
ミューは、本気でそう思っていた。
だが、どんな至福の時間にも終わりはくる。
ミューの肉体が限界を迎えていた。
複眼は破裂し、外骨格は凹んでいる。
身体中の傷から体液が流れ落ちている。
崩れ落ちたミューの身体が縮んでいく。
ミューを魔物たらしめていたサープリスが力を使い果たし身体から離れる。
後に残ったのは傷だらけの人間の姿のミューだった。
すべての力を使い切った後に残ったのは人間としてのミューだったのだ。
思わず笑いが漏れる。
今なら自信を持って言える。
自分は人間なのだと。
こんな自分を受け止めて認めてくれた、この漢のおかげだ。
倒れた自分を見下ろすカシオスを見上げながらそう思った。
「いい喧嘩だったな」
「ああ、ありがとう。
こんな清々しい気分は初めてだ」
「またな」
カシオスは、戦いの前に浮かべていた修羅の笑みではない、優しい笑みを浮かべて去っていく。
カシオスは、ミューが抱える暗い想いを受け止めようとしていたのだ。
なら、ミューがすべてをぶつけ終えるまで倒れるわけにはいかない。
カシオスの精神力は、全黄金聖闘士にすら勝てるだろうミューの真の全力すら受け切ったのだ。
その精神は神の領域にまで至っているのかもしれない。
カシオスは進んでいく。
ハーデスの待つ、冥界の奥へと。
ミューの口調とかは覚えてないので違うかもです。
復活うんぬんはオリジナルですが、ミューに救いがあって欲しいと思い、この話になりました。
誤字修正ありがとうございます。