目を覚ますと、身体中の関節が痛んだ。頭は割れるように痛く、まともに思考を働かせることも出来そうにない。どのぐらい痛いかというと、耳元でチューバの低音を鳴らされたかと思うほどの頭に響く痛みだ。それでも、16歳の少年である東 音羽は、身をよじるようにして、身体を起こす。
「学校に行かないと……」
窓の外を見れば、太陽が高く登っている。起き上がろうと身体に力を入れるも、どうも上手くいかない。それでも無理矢理に身体を起こそう とすれば、今度は身体の節々が軋んで折れてしまうのではないかと思うほどに痛んだ。激しい痛みで少し冷静になった脳に、今朝の出来事が浮かんだ。音羽が風邪を引いていると知った母親──東 詩穂が、学校に欠席の連絡を入れてくれたのだ。途端に全身の力が抜け、再びベッドに倒れ込む。先ほどまでも寝ていたというのに、再び睡魔が襲ってきた。重くなる目蓋に逆らおうとせず、音羽の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。
◇
心地よい風に揺さぶられて、音羽は目を覚ました。ほんの少しうたた寝をしただけだというのに、とても長い夢を見ていたような気がした。楽しいことも、悲しいことも、いろいろなことがあった夢。その内容を思い出そうとするが、どうしても思い出せない。
ふと、自分のいる場所がどこなのかという疑問が頭に浮かんだ。防音が施された、少し狭い部屋。窓からは美しい街の景色を望むことができ、部屋の真ん中には見事なピアノが構えてある。そっと鍵盤に指を乗せると、柔らかい高音が鳴った。そうだ。ここは昔通っていた音楽教室だ。何故ここにいるのか、という疑問を抱きはしたが、それ以上に懐かしさが込み上げてきた。このピアノで、幾多もの曲を演奏した。この教室で、何度も歌った。
「音羽くん、まだ練習してたの? もうすぐ暗くなるから、そろそろ帰る準備をしようね」
音楽教室の先生が、部屋の中にいた音羽に気付いて声をかけた。
窓の外に目を向ければ、そこにはオレンジに染まった美しい空が広がっていた。教室から出て行く先生の背中を見送って、荷物を鞄の中に詰める。鞄の中には、筆記用具や楽譜の他に、数冊の音楽雑誌が入っていた。手に取ってみると、どれも両親の特集が組まれた刊だった。それを見ると、少しだけ、息が詰まった。表紙に映る二人の姿が、肩にのしかかってくるような感じがして、すぐに鞄の中に戻してしまった。
何故、そうしたのかはわからなかった。ただ、ずっと見ていると自分が押しつぶされてしまいそうな、これまでやってきたことが崩れ去ってしまうような、そんな感覚だけが胸に残ったまま、音羽は誰もいない廊下を歩いた。
窓から見える空は暗く、薄灰色の雲に覆われていた。幾多もの滴が空から降り注ぎ、自然と気分は憂鬱になっていく。
幼馴染の葉月 恋と共に、外に出ようとした時、音羽はようやく自分が傘を教室に置き忘れてきた ことを思い出した。
「あっ……教室に傘置いてきちゃった」
「では、私の傘に入りますか? 雨に濡れたら風邪をひいてしまいます」
「いや、大丈夫。傘取ってくるから、恋ちゃんは先に帰ってて」
「は、はい……お疲れ様でした、音羽くん」
「うん。お疲れ、恋ちゃん。また明日!」
心配そうにこちらを見ながら帰っていく恋に手を振り、音羽は教室へと戻った。いつものように恋と共に帰りたいという想いもあったが、それ以上に音羽は恋に迷惑をかけるということを拒んだのだ。階段を登った先にある教室には、まだ光が灯っていた。先生が片付けをしているのかと思って近づいていくと、何やら話し声が聞こえてきた。立ち止まって耳を傾けると、声の主が同じ音楽教室に通い、音羽とも仲の良い狩谷という少年と、その他数名の男女の声であることがわかった。同年代であることもあり、遠慮をする必要は無いと教室に入ろうとするが、どうも身体が動かなかった。
「……東の奴、最近調子こいてるよな。高い声出せるのがそんなに偉いのかよ。ホントムカつくぜ」
「先生から褒められて良い気になってんじゃないの? ほら、前からずっとご機嫌とり上手かったじゃん」
聞こえてくるのは、自分の根も葉もない噂だった。 もちろん、事実ではない。そんな風に考えたことは一度も無いし、考えたくも無い。音羽はただ、目の前のことに精一杯取り組んで、その結果で褒められただけだ。
だが、彼らの目にはそうは映らなかったらしい。
「俺さ、元々あいつのこと気に食わなかったんだよな。いっつも葉月さんにくっついてよぉ。恥ずかしくねぇのかよ」
「あれ、狩谷けっこう東のこと褒めてなかった?」
「バーカ。あんなん嘘に決まってるだろ。葉月さんと仲良くなる為の口実だよ。あいつを認めてるフリすれば悪い印象持たれないと思ったからな。大体、東が一緒に居ていい人じゃねぇっつーの。身の程弁えろって感じ」
「うわ、お前意外と悪い奴だな。そりゃ傑作だ」
ゆっくりと、身体から力が抜けていく。息をすることも、立っていることも、何もかもが苦しくな ってくる。これ以上聞きたく無い、と思っても、耳を塞ぐことも出来ない。
「それにさ、あいつのあの声、気持ち悪いんだよ。男のくせにいつまでも女みてぇな声しやがってよ。なぁ、皆もそう思うだろ?」
──ドクン。
『気持ち悪い』。その言葉を聞いた瞬間に、心臓が強くはねた。痛いほどに、ドクドクと鳴り続ける。
「まぁたしかに。気持ち悪いっちゃ気持ち悪いよな」
「ちょっと違和感はあるよね……」
「だろ? 親が凄いってのは認めるけど、あいつは全然すごくねぇよ。東に付き合わされる葉月さんが可哀想だわ、まったく」
いつの間にか、音羽を罵倒するのは狩谷だけでは無くなっていた。その場にいる全員が、場の雰囲気に釣られてか、音羽の声を、『気持ち悪い』と言い放つ。気がつけば、吐き気すらもしていた。これまで音羽に見せていた笑顔は、言葉は、全て偽物だったのだろうか。自分の聞き間違いかもしれない──そんな筈は無い。確かに、聞こえたのだ。 もしかすれば、そもそもこの部屋にいるのは狩谷では無いのかもしれない──なら、今ここから見える彼は誰だ?
必死にいくつもの可能性を考えるも、即座に否定される。
「────ッ!」
気がつけば、その場から逃げ出してしまっていた。
家にたどり着いた時には、既に辺りは暗くなり、雨風はさらに強くなっていた。
「おかえり──って、ずぶ濡れじゃない! どうしたの!?」
雨に濡れて、服の張り付いた肩を震わせ、俯いたままの音羽の異様な様子に困惑しつつも、志穂は手に持っていたタオルを音羽の肩にかけた。だが、音羽は詩穂の言葉に答えることも、濡れた体を拭くこともせずに、俯いたまま自分の部屋へと歩き出した。
「音羽? ちょっと音羽!」
「──もう」
珍しく声を荒げてまで、音羽を心配して呼び止めた詩穂の声に、音羽はようやく立ち止まり、ポツリと呟いた。だが、その声は普段の美しい高音の声ではなく、弱々しい、震えた声だった。
「どうでもいい……何もかも」
「お、音羽……?」
「どうでも……いいんだ……」
これまで一度も見たことがない、我が子の弱り切った姿に、詩穂は何を言うことも出来なかった。 寄り添ってあげることも、何もできないまま、ただ、立ち尽くすことしか、出来なかった。
少しずつ、自分の手から大切なものがこぼれ落ちていくのを感じた。 狩谷のことを、友達だと思っていた──だが、彼は音羽のことを恋に近づくための手段と思っていた。それどころか、音羽のことを疎んでいた。 必死に頑張れば、それを認めてもらえると思っていた──他人の目には、そうは映らなかった。ただのご機嫌とりをしているだけ。調子に乗っている。そう思われていた。 『すごい人』になりたいと思っていた──それが何のためであったのか、わからなくなってしまった。 恋の隣にいたかった──自分は彼女の隣にいていいような人間でないと、彼らに言われてしまった。 これまで、必死に音楽の道を歩んできた──その成果を、『気持ち悪い』の一言で否定されたばかりではないか。 何もかもがバラバラに崩れ去り、音羽は身を抱えて泣いた。その度に腹の底から気持ちの悪いものがこみ上げてきて、トイレへと駆け込んだ。とうに胃の中は空になっていて、出てくるのは酸っぱい液体のみだ。喉がジリジリと焼かれるように痛み、少しだけ、心を埋め尽くす苦しみが上書きされるように感じた。
◇
平安名すみれは、久しぶりに心の底から戸惑っていた。 幼い頃からショウビジネスの世界にいた彼女は、同年代の者よりも僅かながら世間という物の厳し さを知っている。それ故にか、家でも、学校でも、どこか冷めた目で物事を見ていた。 それでもなお、様子を見にきた音羽の部屋で、彼女は戸惑っていた。
(……なによ、これ)
すみれが音羽の部屋を訪れたのは、彼を見舞う為だ。 彼は大切な学友であり、同じ部活の仲間だ。そうでなければ、わざわざ道中で冷却シートやスポーツドリンクを買ってまで見舞いに行ったりはしない。すれ違ったこともあるが、それがあった為に彼には<Liella! >のメンバー以上に深い絆を感じている。
「──すみれちゃん……」
そう言って、熱を測ろうと差し伸べたすみれの手をギュッと握った彼の手の、その弱々しさには驚いた。 枕に半ば顔を埋め、頬を涙で濡らして、あまつさえ紅潮さえさせて泣いている音羽の姿に、すみれは何が出来るわけでもなかった。他人よりも人生経験は豊富であると自負しているが、同年代の少年の涙──しかも、このようなシチュエーションでの涙をどうすればいいのか、すみれのその経験では答えを出すことはできなかった。
(よっぽど辛い夢でも見てるのかしらね)
音羽がこうまであからさまに弱っている様子を見せるということは、これまであまりなかった。自分自身で自分の気持ちを抑え付け、殻に篭り続けているというのは出会ったばかりの頃にあったが、それもここまでではなかった。
「ちょっと、おと──」
そろそろ起こすべきか、と思い、握られた手を離そうとする。が、それよりも早く音羽のもう一方の手がすみれの手を押さえた。
「行かないで……一人に、しないで……」
その様子に、すみれは面食らった。
この東 音羽という男の子は、ここまで弱々しかっただろうか。 普段の音羽は誰よりも優しく、誰よりも他人を気遣うことのできる少年だ。そんな彼が友であることをすみれは密かに誇りに思っていた。
それが、今ではこの様子だ。
「……行かないわよ、もう何処にも」
そして、そう言ってしまった自分にも、呆れた。
◇
記憶の旅は、まだ続いていた。
音楽教室を辞め、無気力に過ごした。湊人からの薦めで、結ヶ丘高等学校に進学すると決めた。 スクールアイドルを始めようと、メンバー集めに励む留学生を見つけた。 同じ苦しみを持つ、マリーゴールドの髪色の少女と出会った。 かのんに、これまでの苦しみを打ち明けた。 スクールアイドル同好会のみんなに、受け入れてもらえた。
恋の、大切な思いを知った。
彼女と、仲直りをすることができた。
<Liella!>のみんなと共に、ラブライブ!へと挑んだ。 自分が、『普通』ではないことを知った。
色々なことがあった。楽しいことも、苦しいことも。だけど音羽は、もう進むべき道を見失うようなことだけはしない。何人もの人たちのおかげで気づくことができたそれを、見失うことなどできる筈があろうものか。かつて、果てしなく続く空で輝く星へと伸ばした手は、決してそこに届きはしなかった、けれど。
──今は、どうなのだろう?
◇
ぴたり、と冷たいものが額に触れる感触がして、音羽は深い眠りの底から引き上げられた。ぼやける視界が少しずつ晴れていき、二つの輪郭が見えてくる。
「ようやくお目覚め?」
「おはようございます、音羽くん」
二人の少女が、ベッドの横に座って音羽を見下ろしていた。
「すみれちゃん……恋ちゃん……」
なぜふたりがここにいるのかは見当もつかないが、ふたりが自分を気遣ってくれていることだけは 感じられた。
「私たちだけじゃないわよ。かのんたちもいるわ」
「最初は私たちも用事があって、すみれさんだけでお見舞いに行ったのですが……一人じゃ手に負えないから来て、と」
「なっ──それはわざわざ言わなくてもいいのよ!」
ニコニコと微笑む恋と、頬を僅かに赤く染めて顔を背けるすみれ。そうやって、いつも通りでいてくれるふたりが、とても嬉しかった。
「今、かのんたちがお粥を作ってるわ。お腹空いてると思うけど、もう少しだけ我慢しなさい」
「うん。ありがとう」
「それはかのんたちに言いなさい。私たちはここで音羽を見てただけだから」
絶対に嘘だ、と思った。すみれはこう言う時に相手を気遣って心配させないようにする人だと言うことを音羽はよく知っている。 少し部屋を見渡してみれば、昨日出しっぱなしにしていた楽譜や雑誌が片付けられていた。ずっとベッドで寝ていたと言うのに、それほど汗もかいていない。これらを全て、すみれたちがやってくれたのは明白だ。
「.ふふ。ありがとう」
「だから、私たちに言わなくていいっての。で、音羽。何か欲しいものとかある?」
「なんでも言ってください。すぐに用意しますから」
二人の瞳が、じっと音羽を見つめる。
「……じゃあ」
「なに?」
「そばに、いて欲しい。それだけでいいから」
そう言って、音羽は再び眠りについた。 眠りの中ではなにひとつ変わらない筈なのに、側にいてくれている、と思うだけで、心が温かいも ので満たされていって、安心できた。
ここに、みんながいる。
ただ、それだけでいいと思った。
以下はシトネさんによる後書きになります。
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本作品『ヴァイオレット・ララバイ』は、元々はこの企画より以前に考えていたシチュエーションを形にしたものとなっております。自分の作品のエピソードとしてでも使おうか......と考えて構想を練っていたは良いものの、どうも良い形が思いつかなかった為半年近くお蔵入りになっていたのですが、この企画が行われると知った際にふと思い出し、この作品へとたどり着きました。 『星達のオーケストラ』──以下星トラ──という作品を読んだ際、私は過去に苦しむ音羽くんの姿が強く印象に残りました。実を言うと、私自身も程度は違えど同じような経験をしており、そこを音羽くんと重ねていたのです。本作品での音羽くんが夢の中でフラッシュバックするトラウマに苦しむ、というシーンも、自分の経験を基にしております。 星トラは、過去に苦しむ音羽くんがヒロインたちに救われる、というのが大まかな物語の流れとなっています。本作品は短編ではありますが、その流れを踏襲することで『らしさ』を僅かですが出せたのではないかと思っております。 今回、敢えて劇中では描写しておりませんが、タイトルをみれば音羽くんが眠っていた間にすみれちゃんが何をしていたのかがわかるのではないでしょうか。私は初めて星トラを読んだ時から変わらずおとれん推しなのですが、実は最近おとすみもいいなと感じておりまして、今回はその影響が大きく出ています。これではおとれん推しとしていかん、と最後にほとんど無理やりながら恋ちゃんの出番も作っておりますが、やはり9割9分9厘おとすみの物語となってしまいました。おとれんの物語はまたいつかの機会ということで、私と同じおとれん推しの方々にもこの物語を楽しんでいただけたら幸いです。 最後になりましたが、『星たちのオーケストラ』原作者及びこの企画を行ってくださったの龍也様、同じくこの企画を行ってくださった苗根杏様、共に三次創作を制作した皆様、ありがとうございました。