まえがき
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卑怯だと、分かっていても。
誤魔化せないから、止められない。
叶えたいから、諦めない。
「ポッキーゲーム?」
11月11日。東京某所に存在する私立結ヶ丘高校の旧校舎、そのスクールアイドル部の部室にてそんな声を漏らしたのは、同部活に所属するスクールアイドルのサポーターたる少年〝東音羽〟であった。
ポッキーゲーム。世間一般において認知されるその行為の内実とは裏腹に音羽の声音には動揺の気配はなく、純粋な疑問の色合いのみがある。そんな彼の視線の先にいるのは同部活所属のスクールアイドル〝Liella!〟のひとりであり彼の幼馴染でもある少女〝葉月恋〟である。
音羽と恋。今、部活にいるのはこのふたりだけだ。それもその筈で、今日は偶々、普通科よりも音楽科の方が早く授業が終わったのである。そうして部室までの道中に合流できた彼らは、共に部室に来たのだ。だが全員揃うまでは練習を始める訳にもいかず、そんな折、恋が言い出したのである。ポッキーゲームをしないか、と。その言葉通り、彼女はいつの間にかイチゴ味のポッキーの箱を胸の前で大切そうに持っていて、その目には僅かな緊張があった。
「はい。ポッキーゲームです」
「恋ちゃんがやりたいなら、勿論いいよ。……でも、どうして急に?」
「昨日、可可さんが仰っていたのです。今日は、仲の良い男女がポッキーゲームをする日なのだと」
仲の良い男女。あまりにも絶妙な物言いである。だが純粋な音羽は特段それ以上に詮索するような事もなく、それを受け入れてしまう。というのも、実の所音羽も恋と同じくポッキーゲームについて詳しく知らないのである。
無論、その行為の大枠については全く知らないという訳ではないけれど、それも人伝に聞きかじった程度であるから、知らなくはないというだけで極めて無知に近い状態であるのだ。
故に音羽はそれが具体的にどういうものであるかについて明瞭なヴィジョンを持たないままで、恋は箱を開けて内袋を開封する。そうして一本取り出すと、クッキーが露出している方を口に咥えた。そんな幼馴染の所作から彼女の優しさを感じつつ、差し出された方を彼もまた咥えようとして──はたと気づく。
(あれっ……? これ、もしかして……)
律儀に食べ進めてしまっては、とんでもない事になるのではないか。今更ながらにそれに気づき顔を赤くする音羽であったが、動揺こそあれど彼の誠実さは一度自らが下した了承に対する撤回を選択肢として想起すらさせなかった。
しかし流石に恋の様子が気になって幾許か視線を彷徨わせた後に恋の表情を伺うも、彼女の眼光から動揺は見受けられない。それに応えるように、少年は大きく息をひとつ。弱気と動揺を追い出して、差し出されたポッキーを咥える。
恋の身長は162㎝。対する音羽の身長は160㎝。ふたりの身長差は僅か2㎝程度で、この状況においては、それは些末な差異であった。ポッキー一本、即ちたった約14㎝という距離はあまりにも短すぎて、恋と音羽は至近距離で互いを見つめ合う形になってしまう。
互いの息遣いすら明瞭に聞き取れるほどの、その距離。故に恋の珠のような白く柔らかい肌も、琥珀色の大きな瞳も、音羽のすぐ目の前にあって、彼は己の心臓が早鐘を打つのを自覚する。そんな中でも殆ど動かずポッキーを折らなかったのは、半ば奇跡と言っても良いだろう。
いつもならばこの時間になると外から運動部の掛け声が聞こえてくるのに、今はそれがない。活動をしていないのではない。ただ今の音羽には世界の全てがひどく遠くて、まるでたったふたり現から切り離されてしまったかのようですらあった。
心臓がはち切れんばかりの鼓動が、耳元で聞こえる。その様たるや、耳朶から心臓がまろび出るのではないかと錯覚してしまいそうな程だ。しかし早鐘を打つ拍動とは裏腹に時間の感覚はひどくあやふやであり、どれほどの間そうしていたのだろうか、心拍を押し退けるようにして渇いた音が音羽の脳裏に響く。
その音は音羽が発したものではない。だがいかな混乱の只中であったとしても、その音の正体を間違えるような音羽ではなかった。それは彼が加えているポッキーを伝ってきた音、つまりは対面にいる恋が一歩踏み込んできた証明であり、その振動がポッキーを伝い、彼の神経を直接震わせたのである。
心臓が跳ねる。頬が紅潮する。息が詰まる。ずっと同じ箇所を咥えているからだろうか、音羽の口内でとうにチョコは溶けていて、だがその味を感じる余裕も今の音羽にはなかった。緊張と予感が彼の身体を支配していて、喉に流れ込んでくる粘性の正体すらも分からない。
しかし緊張しているのは恋も同じ事で、彼女の顔は耳まで赤く染まっている。ふたりの唇の隙間から伝った唾液が半ばで混じり合い、音もなく滴り落ちる。銀の糸を引くその光景はいっそ淫靡ですらあり、けれどそれは彼らの意識の端にも引っ掛からずに過去へと放逐されてしまう。
渇いた音が、もう一度。更に恋は音羽に近づいてきて、少年は少女の琥珀の瞳から視線を逸らせない。それから二度、三度。最早音羽には恋が近づいてきているのか自身が遂に観念して自分から距離を詰めたのかすらも分からない。ただもう自分たちが後戻りできない所まで来ている事だけは、彼にも悟る事ができた。嗚呼、終わる。変わってしまう。今まで存在していた幼馴染の少女との関係が、決定的に変質してしまう。そんな、このままでは回避しようもない未来を想起しながらもそれを受け入れるような、或いは待ち受けるような言いようもない感覚のまま、いよいよふたりは最後の間隙を詰めて決定的な終着と再誕を迎え容れようとして──
「ストォォォォォップ‼」
「うわぁっ⁉」
「きゃっ⁉」
──唐突に割って入った声が半ば夢幻に足を踏み入れかけたふたりの意識を現に引き戻し、世界は元の容を取り戻した。完全に想定外であった介入にふたりは身体を跳ねさせて、その拍子に折れたポッキーが床に落ちた。咄嗟にそれを回収しようとした彼らは、それがもう残り1㎝もなかった事にその時点でようやく気付く。
そして、寸での所で彼らのポッキーゲームに介入した少女──澁谷かのんは肩で息をしていて、どうしたのかと声を掛けようとしたその刹那、不意に視線を感じて音羽は部室の出入り口に視線を移す。果たしてそこにいたのは可可と千砂都、すみれであり、彼女らはまるで様子を伺うかのように半身だけを覗かせたままそれぞれに別の表情を浮かべている。それが示す事実に、思い至らない音羽ではない。
見られていた。どこからかは分からないものの、かのんが出てきたタイミングからして終盤は確実に見られていたと考えて良いだろう。その事実を悟るや否や、自身の顔に熱が集中したのを音羽は自覚する。誘ったのは恋であったとはいえ、自分は何という事をしてしまったのか。今回は途中でかのんが介入したために完遂される事はなかったものの、それがなければどうなっていたか。何より行為の最中であった自身がそれを半ば受け入れかけていたことを彼ははっきりと覚えていて、或いはそれは恋の意志に反していたのではあるまいか、と。申し訳なさと恥ずかしさで顔から火が出そうで、そんな時、彼の肩を優しく誰かの手が叩いた。振り向いてみれば、そこにいたのはすみれだ。その手にはミルクチョコレート味のポッキーの箱が握られていた。
「ちょうどよかったわ。音羽、後で私ともやりなさいったらやりなさい?」
「あっ! すみれちゃん、ズルい! 抜け駆けはナシだよ! おとちゃん、私とも!」
「は、恥ずかしいよぉ……」
これ幸いとばかりに悪戯な笑みを浮かべるすみれと、そんな彼女に食ってかかるかのん。そして音羽と恋はこの上無く顔を赤くしていて、そんな光景を前にして、可可と千砂都が呟いた。
「青春デスねぇ……」
「そうだねぇ……」
部室に着いた時には、友人同士がポッキーゲームをしていた。言葉にするとひどく珍妙でともすれば何かの冗談かとも笑い飛ばせてしまいそうではあるけれど、それは紛れもなくかのんが目の当たりにした現実であった。
彼女や可可、普通科の面々よりも恋と音羽が先に部室に来ているという事自体は、何も珍しい事ではない。普通科と音楽科ではカリキュラムが根本から異なるのだから授業の終了時刻が違うのも当然で、これまでも何度かあった事だ。だが今までそんな、ともすれば睦言とも形容できるような場面に遭遇したのは初めてで、そのせいだろうか、それを目にした瞬間、かのんの頭は真っ白になって、その場に立ち尽くしてしまった。それに気づいた千砂都が手を引いて隠れさせていなければ、そのまま見つかっていただろう。
しかし扉の陰に隠れてもなお、かのんは目の前の光景から目が離せなかった。まるで呼吸の仕方すらも一瞬で忘却してしまったかのように硬直したまま、しかし現実は冷酷なまでに確実に進んでいく。部室に提げられた時計の音が、嫌に煩い。
分かっていた。分かっていた事なのだ。かのんは自らの胸中にある思慕を自覚していて、しかし想い人の感情が自身でない別の誰かへと向きつつあるなどと、今更なのだ。だが理解できているからと粛々と受け入れる程、かのんは軟弱ではない。処理しきれずに停止していた思考に再び火が灯り、堰を切ったように溢れてきたのは抗い難い衝動であった。
その衝動に従う事に、躊躇いがなかったと言えば嘘になってしまうだろう。だが、それでも、と。たとえ最後に手を取り合えるのが自分ではないのだとしても、未来はまだ不確定であるのだから、かのんに諦めるという選択肢は在り得なかった。
「ストォォォォォップ‼」
四人で共に部室へ来たが為にかのんと殆ど同時に恋と音羽の逢瀬を目撃する事となったすみれであったが、その光景を前にして思考の間隙が生まれたかのんとは対称的にすみれは比較的に冷静であった。
衝撃を受けなかった訳ではない。むしろその光景を唐突に見せられて、驚愕しないという方がどうかしている。けれどすみれは音羽の気持ちが恋の方に向きつつあることに気づいていて、故にこそすみれの裡に生まれたのは〝そういう事もあるか〟という蛋白とも思える感情であったのだ。
だがそれは何も音羽の事を諦めただとか、自身の感情に折り合いを付けただとか、そういう事ではない。たとえ音羽の想いが今は自分のものではないのだとしても、まだ決着がついた訳ではない。ならば、まだ終わっていない。音羽が彼自身の意志で誰かの手を取るその時までチャンスは等しく、であれば振り向かせてみせようと、すみれに迷いはなかった。
そんな事をすみれが考えていると、遂に我慢ができなくなったのだろう、気合にも似た声をあげてかのんが恋と音羽の睦言に介入し、ふたりを現実に引き戻してしまう。そうして出来た間隙を見定めるや、すみれはバッグからポッキーを取り出しながら音羽の肩を叩いた。
「ちょうどよかったわ。音羽、後で私ともやりなさいったらやりなさい?」