別冊星達のミュージアム 創刊号   作:苗根杏

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かってぃーさんの掲載、第3弾です。

まえがき
─────
最後に笑うのは、自分だから。


その思いは甘くて、それでも。

 

 

 ──週末出かけるから、付き合いなさいったら付き合いなさい? 

 

 音羽がすみれからそんな事を言われたのは平日、スクールアイドル部の活動が終わりそれぞれが帰路に着いた頃であった。故にその場にいたのは音羽とすみれのふたり。まるで狙ったかのような状況で、しかし音羽はそれを疑問には思わなかった。そういう事もあるか、と。彼は純粋であるが故に、それを簡単に受け入れてしまう。

 

 むしろ音羽が疑問に思ったのはすみれの声が纏う色、拭えない緊張の色彩についてであった。彼の認識のうえではただ友達と出かけるというそれだけの事で、故にこそすみれの緊張の所在に気付けない。しかしどうしてか緊張の理由について問うのは野暮な気がして、すみれへの返答として返したのは了解の意であった。

 

 ──待ち合わせの場所として指定された結ヶ丘最寄りの駅前。休日であるためか相応に人通りは多く、それらが奏でる営みの旋律が彼の意識の裡で極彩色を描く。その様はさながら不出来な絵画のようで、その中であっても彼が待ち人の気配を見逃すことはない。視線を移せば、そこにいたのはすみれであった。

 

「音羽。早いわね。待たせちゃったかしら。……音羽?」

 

 常であれば即座に返事が返ってくるというのに、今はそれがない。不思議に思ったすみれが彼の名を呼ぶと、音羽はようやく呆けた様子から立ち戻り頭を振って、次いですみれに焦点を合わせた。

 

「わっ、ごめんね、すみれちゃん。ぼーっとしちゃってたみたい。すみれちゃんがあんまりにも綺麗だから、見蕩れちゃってたのかも」

「なあっ……!?」

 

 えへへ、とはにかむ音羽と、そんな彼の物言いに顔を赤くするすみれ。音羽の言はともすれば軽薄な男の世辞にも受け取られかねないものであったがすみれは彼がそんな人ではないと知っているし、何よりそういう下心があったのならばすみれにはそうと知れた筈である。

 

 音羽との外出に際してすみれが着用してきたのは彼女のイメージカラーでもある黄緑色を基調としたワンピースであった。質素すぎず、しかし華美すぎもしない。この外出に臨むすみれが長考の果てに決定したのがその服であった。

 

 であるからだろうか、音羽の言葉を受けて胸の奥から抗いがたい感情が湧き上がってくるのをすみれは自認する。暖かいような、或いはむず痒いようなそれのためにすみれは思わず口許を緩めそうになって、けれどそれを強力な自律心で縛り付けてしまう。

 

「ふん、まぁ当然ね! ショウビジネスに通ずる私なら、どんな服でも着こなしてしまうのよ!」

 

 そう高飛車に振る舞ってみせる所作は過不足なく常の〝平安名すみれ〟だ。演技などではなく、彼女の中に常在する強靭な克己心を以て歓喜を上塗りした結果であった。己を律し続けてきた彼女にとってその程度は造作もない事だった。

 

 そんな中でふと音羽に視線を遣れば、彼はいつもと変わらぬ人の善い笑みを浮かべていて、その姿がすみれの裡に籠る過剰な熱を鎮めていく。そう、変に意識する必要はないのだ。いつも通りに、自然体で。そう己に言い聞かせて、すみれは音羽の方に向き直った。

 

「それじゃ、行きましょ」

「うん。そうだね」

 

 そんな短い遣り取りを交わして歩き出そうとした音羽であったが、それは唐突に無言のまますみれが右手を差し出した事で阻まれる。しかしその意図をすぐに察する事ができずに音羽は首を傾げて、そんな彼にすみれはどこか悪戯な笑みで以て返した。

 

「手、繋ぎましょ。あんたちょっと抜けてる所があるから、こうしてないと迷子にならないか心配だわ」

 

 揶揄うような声音に音羽は苦笑を返すも、すみれの言葉を否定するような事はしない。彼はそもそも相手を真っ向から否定するような人間性をしていないし、すみれが抜けていると言うのならばそうなのかも知れないと受け入れてしまう程純朴でもあった。

 

 しかし了解の返事をした音羽が執ったのは先にすみれが差し出していた右手ではなく彼女の左手。或いはそれは、彼女の利き腕を塞ぐまいとする細やかな配慮であったのだろうか。音羽が言葉にしない以上はすみれが何を考えようとも推測を超えることはないけれど、理由は今の彼女にとってさして重要ではなかった。

 

 伝わってくる体温が否応なくすみれに実感させる、音羽の生命。〝東音羽〟という少年は確かにここにいるのだと、その事実に、彼女は万感こもごも至る。そのまま、どれほどの間その感慨に浸っていたのか。彼女を忘我から復帰させたのは、音羽の声であった。

 

「すみれちゃん? どうしたの?」

「──? な、なんでもないわ。ちょっと……ぼーっとしたのよ」

「そっか。じゃあ、僕と同じだねっ」

 

 あまりにも不明瞭なすみれの返答にも、音羽はそう言って満面の笑みで応える。あまりにも純真な、邪気の無い笑顔。それが内包する実体のない熱量は、しかしすみれの裡では真実でありそれを実感する度に彼女は思うのだ。確かに自分は、この笑顔に惹かれているのだ、と。

 

 心地の良い熱であった。浮かれてしまうような充足であった。同時に、心が軋むかのような混沌であった。東音羽という少年は優しい。だがその優しさは決してすみれのみへと向けられるものではなくて、誰に対しても彼はそうなのだ。そんな彼だから惹かれたのだと理解しているけれど、理性と感情は時として相反するものだとも彼女は知っていた。だが何であれ今この瞬間の彼の笑顔は自分だけのものだと、そう己を納得させてすみれは歩き出す。音羽もそれに倣う。手を繋いだまま。

 

 休日であるせいか駅構内の人の数は凄まじく、その様たるやまさに人の群れとでも形容すべき程だ。そしてそれは改札を抜けた先、ホームに到着した電車も同様で、内部は正しく鮨詰めといった具合である。──それを見て取った音羽が一瞬笑みを消し、複雑そうな表情を浮かべた事にすみれは気付かない。

 

 到着のベルが鳴りドアが開くや、すみれの手を引くようにして歩み出す音羽。彼らしからぬ強引さにすみれが面食らっている間に彼は半ば押し割るように人の群れに押し入ると、自らの身体で小さな空間を作りそこにすみれを招いた。必定、ふたりの距離は極めて近くなる。互いの吐息を肌で感じてしまいそうな程に。

 

 そんな状態であるから、すみれの視界は殆どが音羽に占められてしまう。少年的と言うよりも少女的な線の細い顔立ちに、嫉妬してしまいそうな程長い睫毛。瑞々しい唇。鼻腔を突く彼女自身のものではない甘い香りは、間違いなく音羽のそれだろう。そして何より殆ど密着に近似した状態のために早鐘を打つ鼓動が伝わってしまいそうで、無意味だと分かっていながらすみれは彼から目を逸らした。

 

「音羽、近すぎよ……」

「ごめんね。でも、こうしないとすみれちゃんが誰かに触れられちゃいそうだったから、それが嫌で……」

 

 私の事なんて気にしなくても良いのに、と。音羽と出会ったばかりの頃のすみれならば、或いはそう言っていたのかも知れない。だが今、すみれの口から漏れたのはその言葉ではなく息を呑む音であった。

 

 すみれが誰かに触れられそうで嫌だったと、その言葉の真意は果たして何処にあるのか。彼女を窮屈な環境に置く事を忌避したのか、或いは悪漢の存在を危惧したのだろうか。だがどちらであるにせよその発言はまるで独占の希求めいていて、すみれは更に心拍が早まるのを自覚する。

 

 分かっているのだ。それは独占欲などではなく、彼の優しさなのだと。だとしても嬉しくて、下手すれば期待してしまいそうで。すみれは音羽の顔を直視できなくなってしまう。

 

 そんなすみれの所作に、音羽は何を思ったのか。小首を傾げる彼の様子はその内心を察するには聊か不足で、すみれは少しだけ、口惜しい思いを抱くのだった。

 


 

 休日の満員電車の中、殆ど密着状態で揺られて幾許か。いくつか電車を乗り継いで目的の駅に到着し人の波に押し流されるようにして下車した時には既に、ふたりは()()うの体といった有様であった。或いはそれは、彼らがどちらも徒歩通学であるから満員電車というのに慣れていないが故であるのかも知れない。

 

 けれどそんなふたりにも人の波は頓着することもなく流れていく。一度でも立ち止まればそのまま呑み込まれ散り散りに霧散してしまいそうなそれの中、ふたりがはぐれずに改札まで辿り着くことができたのはずっと手を繋いでいたからであった。まるで、互いの存在を確かめ合うように。しかし手を繋いだままでは改札を通れず、遂には手を離すことになってしまう。

 

「凄かったね……」

「そうね……」

 

 改札から僅かに離れた広場めいた空間の中、げっそりとした顔でそんな遣り取りをするふたり。言葉がひどく曖昧になってしまったのは満員電車を満たす混沌への表現がそれ以外に見つからなかったからか、或いは消耗のために言葉を探す事すら億劫であったからか。

 

 彼らも東京在住であり満員電車に乗ったのもこれが初めてではなかったが、それでも簡単に慣れるようなものではなかった。体力というよりも気力が大幅に削られた感覚と言うのが適切であろうか。

 

 しかしいつまでも立ち止まっている訳にもいかない。折角音羽を外出(デート)に誘えたのだから、とすみれは己を奮い立たせて彼の手を再び執ると、彼を先導するようにして歩き出した。音羽もそれに応え、気力を入れなおしてついていく。

 

 そうして人々の間を縫うようにして出入り口を出るや否や、鼻腔を突いたのは嗅ぎ慣れない磯の臭いであった。それもその筈で、彼らが降りた駅は東京湾に隣接した地域にある。普段は湾岸地域に立ち寄る事のない彼らが敏感に反応するのも無理からぬ話である。それから付近の大型商業施設の方へと歩いていくと、その陰から巨大な白亜の人型が現れた。それを見て、音羽が感嘆を漏らす。

 

「わあっ……! おっきいねぇ……」

「……あんたって、大きいもの見た時には毎回そう言ってそうよね……」

 

 半ば呆れ顔ですみれが投げ掛けた言葉に、そうかな? と音羽が返す。実際の所彼は可可が作った横断幕を目の当たりにした時も全く同じ反応をしていたが、無意識的な反応であったが故に無自覚であった。

 

 すみれとしてはよく知らぬアニメーションの立像よりもこの付近に存在する高校のソロ活動をメインとするスクールアイドル達に興味があるのだが、生憎と今日は休日であるから活動はしているまい。よしんば活動をしているのだとしても、アポもなしに押し掛けるのは非常識だとすみれは知っている。すみれがそんな事を考えていると、音羽の声が彼女を忘我から引き戻した。

 

「すみれちゃん、あそこでクレープ売ってるよ!」

「食べたいの?」

「うん! ……ダメ?」

 

 果たして音羽が指した先にあったものとはクレープの移動販売車であった。その窓口では丁度、桃色の髪を片側で団子に纏めた少女と長い髪を項の辺りで三つ編みに束ねた、少女と見紛わんばかりに線の細い少年の二人組が店員からクレープを受け取っている。音羽以外にも中性的な少年がいるのだな、とすみれは場違いとも言える感想を抱いた。

 

 そうしている間にもそのふたりはその場を離れて、その拍子に店員はすみれらの存在に気付いたらしく、視線が投げ掛けられる。音羽もまるで捨てられた子犬ででもあるかのような目をしていて、それを受けたすみれが苦笑を漏らした。

 

「そんな目をするんじゃないわよ。別に、ダメなんて言ってないじゃない。……食べましょっか」

「……! うんっ!」

 

 すみれの快諾を受けて音羽は表情を綻ばせ、固く繋いだ手を離さないまま彼女を連れ立って販売車へと一直線である。先の表情が捨て犬のそれであるとするなら、今度のそれは散歩に心躍らせる子犬であろうか。何故だか胸が暖かくなって、すみれが微笑する。

 

 そうして応対した店員へと、音羽は一切迷う素振りもなくみかんのクレープを注文する。それに倣ってすみれはオーソドックスなイチゴのクレープを頼もうとして、しかしその直前に脳裏を過ったのは恋の姿であった。間を置いて、代わりにメロンのクレープを注文する。

 

 その心変わりは、何もすみれが恋に悪い印象を持っているだとか、そういう事ではない。むしろすみれは同じグループのメンバーとしても1人の人間としても恋に好印象を持っていて、しかし音羽とふたりきりという状況で他の少女を連想させる要素は、どうしてか嫌だった。

 

 その間隙を、音羽はどう捉えたのか。首を傾げる彼は今にもその由来を問うてきそうで、その前にすみれは別の話題を差し挟んだ。

 

「みかん……」

「えっ?」

「みかん、好きなの?」

 

 即決してたように見えたから、とすみれ。その態度に釈然としない様子をする音羽であったが、すみれが問われたくないのならばそれ以上追及するまいとして彼女の問いに首肯を返した。

 

「昔、風邪をこじらせて寝込んじゃった時があったんだけど……その時にお母さんが作ってくれたみかんのゼリーがすっごく美味しくて。その時からずっと大好きなんだぁ。

 ……って、そこまで訊いてないよね。ごめん」

「謝る必要なんてないわよ。むしろ、あんたの話をもっと聞きたいって、あんたの事を知りたいって思ってるから訊いてんのよ」

「そうなの? それは……嬉しいなぁ」

 

 そう言う音羽の表情は言葉通り嬉しそうで、頬には朱が差している。その笑顔はいつもの音羽のそれと何ら違わないけれどどうしてかとても眩しくて、すみれが目を細めた。

 

 人間にとって、未知とは恐怖だ。それは対人関係においても同様であり、故にこそ相手の事を知りたい、知って安心したいというのは人間の根源的(プリミティヴ)な欲求でもある。けれど同時にそれは誰にでも抱く欲求という訳ではない。未知が恐怖であるのなら、まず関わらなければ良いのだから。相手を知りたいというのは、転じてその過程を踏んででも相手と関わりたいという関心の現れでもあるのだ。

 

 すみれはその関心を音羽に対して持っていて、その逆もまた然りであると彼女は確信している。だが根源を同一としていても、その方向性(ベクトル)まで同一であるとは限らない。それを思うとすみれの胸中には焦りにも似た疼きが立ち現れて、抑えるのも必死であった。

 

 そんな有様であるから、そのタイミングで商品ができたと声を掛けられたのは幸運であったのかも知れない。思索に耽っていたすみれに先んじて音羽は代金を払っていて、すみれがそれに気づいたのは音羽が釣りを受け取っていた時であった。

 

「ちょっと音羽、あんたまさか2人分払ったの?」

「うん。ホラ、これ、すみれちゃんの分!」

 

 そう言い、満面の笑みを浮かべながらすみれが注文したクレープを差し出す音羽。そこに奢ってやったという傲慢やそうすべきという強迫はない。彼は彼なりにそうしたいと考え、その通りに実行したのみというのは明白であった。

 

 であればその厚意を無下にするわけにもいくまい、とすみれが小さく溜め息を吐く。奢られる形になるというのはまるで借りを作っているようで嫌だったけれど、音羽はこれを貸しとも思っていないだろうから。素直に受け取るのが吉だろうと、すみれは判断する。

 

 そうしてすみれがクレープを受け取り、ふたりは手近なベンチに腰掛ける。いただきます、と一言。ふたりがクレープに口を付けたのは殆ど同時であり、噎せ返るような、それでいて病みつきになりそうな甘美が味蕾を突いた。

 

「美味しいね、すみれちゃん!」

「そうね。美味しい」

 

 音羽の無垢な笑顔につられて、すみれも微笑む。それは短い言葉による遣り取りであり、それ以上に互いの意思の交感でもあった。共に食事をして、笑い合う。それだけで満たされる何かがあった。

 

 或いはその充足さえ互いに共有しているかのような、奇妙な感覚。ふたりにとってそれは不慣れなものであったが、どうしてか何の疑問もなく受け入れていた。さながら非現実に揺蕩うような、ある種の浮遊感だ。だからだろうか、音羽は不意に降って湧いた思いのために食べるのを一旦止め、すみれへと声を投げた。丁度手に持ったクレープを、彼女の方へ差し出す格好である。

 

「すみれちゃん!」

「……? どうしたのよ。食べないの?」

「ううん。でも……こっちも美味しいから、すみれちゃんにも食べてみて欲しくて」

「なっ……!?」

 

 何を言っているのだ、この少年は。すみれの驚愕をあえて言語化するならば、そんな所であろうか。或いは音羽は自身の言葉が意味する所を分かっていないのではないかとも疑って、しかし彼に限ってそれはないと即断する。ただ彼は()()していないだけだ。すみれとは対照的に。

 

 少なからぬ抗議の意図を込めてすみれは視線を送るものの、音羽は首を傾げるのみだ。それはまるで母に共感を求める子供か姉に懐く弟のように。それから、逡巡。遂にすみれは覚悟を決めて、音羽が差し出すクレープの端に口を付けた。

 

 瞬間、彼女の口内に広がったのは過剰な程の生クリームの甘みと芳醇なみかんの酸味。それらの合一は全く完璧であり、自然と美味しいと口にしてしまうのも納得してしまう程だった。それこそ、緊張のために感覚が正常に動作しているか不明な中でも明瞭に知覚できるくらいには。

 

「……美味しい」

「でしょう? ふふっ」

 

 何も自分が褒められたりした訳ではないというのに、音羽の反応は心底から嬉しそうだ。或いはそれは、彼自身の裡に在る幸をすみれとより共有できた事から来るものであるのだろうか。

 

 それだけ想われているのがこそばゆくて、間接キスをまるで意識されていない事が少し悔しくて、音羽と喜びを共有できている事が嬉しくて。そんな甘ったるい混沌をすみれはクレープで喉の奥に押し込んだ。

 

 その拍子に唇に付着した生クリームを長く細い指で拭い、何気なく舐め取る。そうして口内で溶けたそれは、やはりひどく甘ったるい味がした。

 


 

 夕刻。西方から差し込む黄昏が常世を朱に染め、林立するビル群がその中に黒を穿つ。その中ですみれと音羽は彼女の実家である神社に続く階段の下で向かう合うように立っていた。音羽の落とす影がすみれの足元に滑り込み、一文字を描いている。

 

 すみれだけではなく音羽までもがこの場にいるのは、何という事はない、彼がすみれの家まで着いていくと言ったからであった。普通なら『家まで送っていく』と言うような所でそんな胡乱な物言いをしてしまうのは、ある意味では自己評価の低い彼らしいのかも知れない。

 

「今日はありがとう、すみれちゃん。楽しかった」

 

 夕景の中、微笑を浮かべながらそう告げる音羽には、彼の生来の線の細さも相俟って奇妙な儚さがある。まるで、今すぐ引き留めなければこの夕暮れの裡に拡散して消えてなくなってしまいそうな、そんな在り得ない想像が鎌首を擡げる。

 

 分かっている。その想像は実在の可能性などではなく、すみれの裡に在る離れ難いという感情に由来するものであるのだと。だが、何と女々しい想像か、と彼女は己を叱咤する。これは〝平安名すみれ〟などではないと。或いはそんな自分らしくない一面さえスクールアイドル部の面々といた中での変化であるのかも知れないとも、彼女は思うけれど。

 

 だが、だとしてもそんな弱気は自分ではない。そうしてすみれが自分に活を入れなおして忘我から立ち戻ると、不安げな目で見つめてくる音羽と目が合った。

 

「すみれちゃん……? すみれちゃんは、どうだった? 楽しくなかった……?」

「そんな事あるワケないじゃない。私も楽しかったわよ。ええ……とてもね」

 

 そう音羽の問いに答えるすみれの表情は常の勝気なそれであり、返答もまた心底からのそれであった。音羽もその身に宿す特異性のためにそれを聞き違える筈もなく、花のような笑顔を咲かせる。

 

 それから二、三言の会話を交わしてから、最後に別れの挨拶。さようなら、また学校で。その遣り取りは極めてありふれたものであるけれど、ふたりにとっては細やかな約束であった。

 

 大した事もない約束だ。それこそ毎日交わしているような、今更何という事もない事象だ。それなのにふたりはどうしてか嬉しくて、別れた後も足取りは軽い。石造りの階段を昇って、すみれの視界に入ってきたのは神社の拝殿とその正面に座す賽銭箱、鈴。

 

 現代において人が神社を訪れる目的というのは、その大半が神頼みであろう。すみれは神主の娘であるし、以前にかのんがこの神社を訪れた際にも軽い気持ちで神頼みをしようとしていたのを見た事があるから、よく分かっている。

 

 そこで彼女の脳裏を過ったのは、今日の音羽の姿。誰かに触れられるのが嫌だなどと思わせぶりな事を言ったかと思えば、一方では間接キスをまるで意識していなかった彼。それに、彼の笑顔。けれど、嗚呼、彼の事だから、誰にでもああなのだろうとも、彼女は思う。

 

 ならば──神頼みでもするか? 自身の心に現れたその声に、すみれは躊躇する事もなく冷笑を飛ばした。

 

「要らないわ。だって、自分で振り向かせてみせるもの。私は、平安名すみれなんだから」

 

 その宣誓を聞き届ける者はいない。境内にいるのはすみれひとりで、言葉は朱色の中に消えていく。けれど彼女の宣誓は彼女自身に対して為されたものであるから、それでも構わなかった。

 

 そう、平安名すみれは簡単に神頼みをするような人間ではない。為せば成る、為さねば成らぬ何事も。今までだって彼女はそうしてきて、故にこそこれからもそれは変わらない。

 

 だから、見てなさい。音羽が去った方向へとそう呟いて、すみれは強気に微笑んでみせるのであった。

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