別冊星達のミュージアム 創刊号   作:苗根杏

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本誌におけるかってぃーさんの作品の、最後の掲載となります。

まえがき
─────
昔日の残影は、未だ心の中に。


残影、(よすが)となりて。

 

 

 ──今までありがとう。恋ちゃん。いや……葉月さん。

 

 

 その言葉を耳にした瞬間の恋の脳裡を形容するのならば、虚無と言うのが正しかろう。何も感じなかったのではない。ただそのその言葉が意味する所を理解する事を心が拒んで、それが故の間隙が虚無として立ち現れてきたのである。

 

 だが時間というのは残酷なもので、否応なく迫る理解は刹那の内に忘我へと追いついてしまう。見て見ぬふりは許されない。恋はそれができる程器用でもないし、何より別離の宣告をした張本人──少年〝東音羽〟の悲嘆と絶望の気配は恋に逃避という選択肢を与えてくれない。

 

 だが、何故音羽はこうも変わり果ててしまったのか。少なくとも数日前、音楽教室から帰るまでは彼はいつもの彼で、彼をこうまで変えてしまうような絶望の影は何処にも在りはしなかったというのに。

 

 音羽の右手を握る恋の手に、力が籠る。言語化しようもない予感めいた感覚に視界が滲み、吐息が湿る。離してはいけない。掴んでいなければ、繋ぎとめていなければ、音羽が何処か遠い所に行ってしまうような気がして。

 

 在り得ない想像だ。起こりようもない未来だ。音羽も恋もまだ中学生で、そんな年齢の子供が物理的な距離を置くなどそう簡単な事ではない。だから、恋のこの予感はきっと心の距離だ。相手はそこにいるのに、決して近づけない──それはきっと、ひどく辛い。ともすれば絶対的に会えない距離に行かれてしまうよりもだ。故に恋は強く、強く、それこそ握っている自身の手すらも痛くなってくる程に強く音羽の手を掴んで、それなのに彼の手はまるで実体のない煙ででもあるかのようにするりと抜け出してしまう。

 

 そして、遁走。恋の手から離れた次の瞬間、音羽は周囲から関心を集めてしまうのも構わずにただ少女から離れるだめだけに駆け出す。それを引き留めようと、恋はなおも手を伸ばした。

 

『音羽くん! 待ってください! 音羽くん!』

 

 縋るような言葉の直後、周囲の世界が擦り切れるようにして崩れていく。現実にはあり得ない光景だ。恋の視界にいるのは音羽ひとりだけで、しかし彼の姿もまた次第に虚空に溶けていくかのようだ。それでも尚、恋は音羽へと手を伸ばして──

 

「待って! ……っぁ」

 

 ──意識の所在が反転する。感覚が現へと急速に帰還して、無限はたちまちの内に掻き消えてその輪郭すら判然としなくなってしまう。今の光景が夢だったのだと恋が理解した時にはもうそのヴィジョンの存在を訴えるものは僅かに空中へと差し伸べられた腕のみで、彼女はそのまま腕で眼窩を覆った。滲んでいた涙の存在を掻き消し、自室の暗闇に上塗りするように視界に漆黒が広がる。

 

 覚えのある夢であった。何から何まで同一という訳ではないものの、近い内容の夢は何度か見た事がある。けれど最近は少しずつ見る事もなくなってきていて、それなのに今日になって再び見てしまったというのは、或いは学校で音羽に遭遇した事に起因するのだろうか。

 

 溜め息にも似た、大きな吐息。胸の奥に鈍痛が居座っているかのように幻覚し、そのせいかとても苦しくて恋は左手で寝間着の鳩尾辺りを握る。その仕草はまるで誰かに恋焦がれる純朴な乙女のようで、しかし実体はそうではない事を彼女は知っている。

 

 ──『葉月さん』などという他人行儀ではなく、昔のように『恋ちゃん』と呼んで欲しい。マスクと眼鏡で顔を隠したりせずに、いつでも優しく笑っていて欲しい。他でもない自分の傍で。隣で。それらは慕情のようで、けれど決して違うもの。形はよく似ていて、だから心の同じ場所に居座るけれど、ずっとどうしようもなく薄汚いものだ。ある種の滅私奉公の為に己を律する恋の裡に残存する、狂おしいまでに他人を求める欲。それに名前を付けるのならば、〝執着〟と言うのが正しいか。

 

 しかし執着と言うとまるで悪しきものであるかのようだが、それはある意味で人間の根源的(プリミティブ)な欲求であるとも言えよう。ヒトという伽藍の器を満たす、他者という穢れ(パーツ)。その基本骨格として定義したモノが欠落したのなら、求めるのが道理である。それに代替など、存在しないのだから。

 

「音羽くん……」

 

 いつの事であったかまでは正確には思い出せないけれど、以前読んだ書籍の内容の一部が恋の脳裡を過る。記憶が正しければ、それは古代ギリシャにおける恋愛観であった筈だ。それによると、人間は喪った己の半身を求めて(こい)をするのだという。胸中を占める懊悩を思慕ではないと定義した彼女だけれど、その渇望には何処か通じるものがあろう。

 

「──でも」

 

 その欠落を埋める事は許されない。それは依存だ。彼は優しいから、全てを話せばきっと力を貸してくれるだろう。だが、それは寄生だ。彼の意志を無視し、一方的に寄りかかる卑怯者のやり口だ。『葉月恋』は、立たなければならないというのに。

 

 亡き母から受け継いだ、皆が音楽で繋がる学校──結ヶ丘の存立という使命(ゆめ)。恋は、それを果たさなければならない。たとえ独りででも。いや、たった独りで。理事長もいるが、恋の責任と彼女の責任は別のものだ。恋は恋自身の意志で、母の夢を受け継いだ。理事長は彼女自身の意志で、友の願いを聞き入れた。これらは同じようで、全く別のモノだ。故に、恋の責は恋自身で果たさなければならない。たとえそのために、周囲から敵意を集める事になろうとも。

 

「っ……」

 

 冥暗に塗れた視界の中、在り得ざるヴィジョンが見える。結ヶ丘の制服を着た無数の人々の敵意を孕んだ視線が恋へと突き刺さるその様はまるで波濤のようで、そのまま押し流されていくかのような錯覚さえ覚える。それを認め、恋の総身を震わせたのは恐怖。周囲から敵意を向けられる事は怖い。それはそうだ。人間である以上、それは当然である。しかしそれ以上に、自分が彼らにそうまでさせてしまう事が、自分が彼らを裏切ってしまう事が恋は怖いのだ。

 

 あぁ──しかし、裏切るというのなら、或いは既に裏切っているとも言えよう。恋は今の結ヶ丘の置かれた状況を生徒たちに話していないのだし、生徒達に目を向ければ彼女は可可(クゥクゥ)やかのん達のスクールアイドルをやりたいという思いを否定し続けているのだから。

 

 スクールアイドル。嘗て母がそう在り、そして自分もそう在ろうとしたもの。けれど何処を捜してもスクールアイドルとしての母の足跡は見つからなくて、だから恋はスクールアイドルをしていた事を母が後悔していたのではないかと、そういう結論に至った。かのん達の活動に反対しているのはそのためだ。彼女たちに母と同じ思いをして欲しくないと、それが恋の思いであった。

 

 だがそれが恋自身の独り善がりである事を、彼女は理解している。今と昔ではスクールアイドルという存在の認知度自体が大きく異なっているし、何より未来は誰にも分からないのだから、もしかしたら、という事もある。しかしそれは同時にかのん達が後悔という結論に至り得る事とも同義であり、だから認められない。それが或いは自身や母の望みとは異なる未来を招き得ると分かっていても。

 

 抑えようのない無力感に唇を噛む。果たして自分に、母の遺志を継ぐことができるのだろうか。無意識ながらに抑圧していた疑問は改めて自覚した瞬間からその存在を強く主張し始め、恋の心を蝕んでいく。一寸先は闇。結ヶ丘の現状を知っているのは理事長を除けば恋だけだ。周囲の生徒らはよもや結ヶ丘が廃校寸前であるとは露ほども思わずに青春を謳歌している。それ故に、恋に味方はいない。四面楚歌。孤軍奮闘。彼女の現状を表すのならば、それが最適な表現であろう。尤も、そう在る事を選んだのは彼女自身だが。

 

 縋ってしまいたい。サヤに。チビに。──音羽に。顔を出した弱気の虫を、恋は今度こそ握り潰してしまう。悟られてはならない。縋ってはならない。弱音を吐いてはならない。それは責任の放棄にも等しい。恋が為すべきは母が遺した結ヶ丘を発展させ、その存在を永く残す事。そして結ヶ丘に入学した生徒達に結ヶ丘にいた事を誇りにして巣立ってもらえるように尽力する事。そのためならば、自身の総てを捧げよう。自分の自由意志も、渇望(慕情)も、青春さえも。できる筈だ。何故なら──

 

「──何故なら、私は『葉月恋』なのだから」

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