別冊星達のミュージアム 創刊号   作:苗根杏

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前回に引き続き、壱肆陸さんの作品となります。

まえがき
───────
後半いくよー☆


いつかの君へ、いつかの僕へ。

 

『私の夢は、歌で皆を笑顔にすることです!』

  

 いつか初めて口に出して、それからは何度も何度も言葉にした。語るのが楽しかった。それを胸に描くだけで誇らしかった。なんでも出来るような気持ちになった。そんな彼女の“夢”があった。

  

 そう、ずっと夢見ていたんだ。

  

 自分の理想が叶うその日を。一緒に夢を追える大切な友達に囲まれ、辛さや苦しさを共に乗り越え、いつか世界に歌を届けるその日を。燦然と輝く星々の中で、心を揺らす喜びを斉唱するその日を───

  

  

「ばーか」

  

  

 夢は醒めた。その日が来ることは無かった。そして、これからもきっと無い。

  

「……歌えたら苦労しないっつーの」

  

 この無意味な毒言を吐いた回数すら、もう夢を語った数よりも多くなってしまったのだろう。

  

  

 ______________

  

  

  

「おとちゃん、この後……時間ある?」

  

「かのんちゃん?」

  

 千砂都の真綿で首を絞めるような審問会の末、練習は中止に。可可を自宅に突き返し解散した後、帰路に就く直前の音羽を、かのんは呼び止めた。その何やら神妙な表情を見れば音羽の背筋も立つというもの。

  

 音羽は首を傾げながらも真っ直ぐな視線を向け、かのんの言葉を待つ。しかし、かのんは一瞬なにかを言おうとしたと思えば、その声を喉の奥に仕舞い込んだようだった。そして、しばらく見つめ合う時間が続いた。

  

「……ちょっとウチでお昼でもどうかな? そこで、相談したい事があるんだけど……」

  

  

  

  

  

 澁谷かのんの家は喫茶店をやっている。音羽も何度か来たことがあり、以前ここで食べたデミグラスソースのオムライスは彼のお気に入りだ。ここで働いているのは主に彼女の母であり、たまに妹の澁谷ありあが手伝いをしている。

  

 ちょうど今、ありあが音羽を連れて帰って来た姉を、接客ついでに見つめていた。

  

「あ、こんにちは。ありあちゃん」

  

「いらっしゃい音羽さん。で、お姉ちゃん練習じゃなかったの? まさか……ふたりで練習早引きして帰って来たの?」

  

「違うって。なんていうか……可可ちゃんが不良になったから今日は中止」

  

「なにそれ」

  

 できるだけ事情を簡潔に説明したつもりだったが、伝わらなかったようだ。午前中からの馬鹿騒ぎで疲れてしまっているのだろうか、かのんは若干冷静ではなかった。

  

「で、折角だからお昼ご飯に私が誘ったの」

  

「なんだ……普通にお客さんとして来たんだ。私はてっきりお姉ちゃんが彼氏連れ込んだのかと」

  

 冗談めいた口調と、笑いを織り込んだ声。それを読み取れないほど、純情な二人は投げられた言葉を文面通りに受け取り、絵に描いたような動揺をあらわにした。

  

「っ───!?」

「彼氏っ!? なに言ってんのありあ!!?」

  

「ではごゆっくりどうぞ~」

  

 姉と姉の友人をからかうだけからかうと、すっと溶けるように接客へと戻るありあ。昼前とはいえ休日だけあって他にも客はいる。

  

「……ごめんね! いやもう本当に何言ってんだろうね! ありあには後で言っとくから!」

  

「ううん、大丈夫! 気にしてないから。大丈夫だよ……本当に、大丈夫……!」

  

 それから数秒、とてつもなく長く感じる時間が漂った。かのんも音羽も、互いに互いを大切な友人であると思っている。それでいて気兼ねなく接することができるような、家族の次に親密な関係とも言える。しかし年頃の男女であることに違いは無く、周囲からはそういう風に見られるのだろうか……と、そんな考えが二人の中で悶々と渦を巻く。

  

 これらの感情を全て妹への怒りに変換している最中のかのんに代わり、音羽が勇敢に沈黙を破る。

  

「そ、そういえばさ!」

「はっ……はい!?」

  

「かのんちゃん、相談があるって言ってなかった?」

  

「あ……あー、そうだ忘れてた! ありあがあんな事言うから……!」

  

「なにかあったの? 困ってる事があるならなんでも聞くけど、僕にしか言えないことって……?」

  

「いや、そういうわけじゃないんだ! むしろ逆っていうか、ちょっと待ってね。ちょっと心の準備が……」

  

 そう言えばかのんは、ここまで本題を先延ばしにしているようにも思えた。音羽に対して緊張することとは何だろうと、僅かに音羽の心も強張って来た辺りで、かのんが差し出したのは自分のスマホ。

  

「新しい曲を作ったんだ」

  

「新しい曲……? でもなんでそれを僕だけに?」

  

「この曲、なんかいつもと違うの。ほら、普通って曲や歌詞作るときってさ、こうヨガとかやるでしょ?」

  

 やるかなぁ……? と思ったが、音羽は口には出さなかった。

  

「普通は“よし、曲作るぞ! ”ってスイッチ入れて作るんだけど、この曲はなんというか……降って来たんだよね。練習してる時とか、勉強してる時とか、お風呂入ってる時とか、音楽に触ってない時間に頭に浮かんできた」

  

「へぇ……そんなことあるんだねぇ」

  

「そしたらいつの間にかギター弾いてたんだ。それで折角作ったなら聞いて欲しいなーって。歌詞もまだだし、次のライブで使えるかも分かんないから……まずはおとちゃんに聞いてもらおうかなって」

  

「うん、すっごく気になる! ぜひ聞かせて!」

  

「あ、待って。本当に思いついたメロディ形にしただけだからね。変だったら言ってね!」

  

 かのんは普段のヘッドホンではなく、イヤホンの右側を音羽の耳に、左側のイヤホンを自分の耳に入れる。というのも、自然発生的な出来立ての曲であるため、自分自身での確認も兼ねる必要があるからだ。夜に作って満足の出来だった曲が、朝起きて聞くとピンと来ない、なんてことはザラにある。

  

 そうして、かのんは自身のスマホに録音した演奏を再生した。

  

 未完成の曲を誰かに聞かせる、というのは何度も経験したことだが、相手が音羽なら話が変わる。かのんが最初に音羽に聞かせたいと思った理由がここにある。

  

 音羽は『絶対音感』の『共感覚保持者』。音の形を正確に捉え、更には音を色として認識する才能を持つ。音を聞く能力に関しては間違いなく世界級(ワールドクラス)の天才だ。そんな友として心から誇らしく思う天才に、この自分から生まれた音楽の正体を見て欲しかったのだ。

  

 とはいえ自分でもよく分からないものを音羽に聞かせるのは、多少なりとも心臓に悪い。だから小心者気質な彼女はここまで尻込みしてしまったのだ。しかし、彼女の心配とは逆に、音羽の表情は朗らかになっていった。

  

「わぁ……すごいよかのんちゃん! とっても素敵! なんていうか、かのんちゃんらしい『色』をしてるっていうか……聞いてて楽しい澄んだ音っていうか……」

  

 音楽が終わると音羽は、目を輝かせて自身の内の感動を遠慮なくぶつけた。そこまで褒められるとも思っておらず照れくさそうなかのんだったが、音羽は最後に一つ、悩んだ末に付け足した。

  

「でも……すごくいい曲なんだけど、やっぱり今までの『Liella!』の曲とは色が全然違うね。多分それは、純粋にかのんちゃんの閃きから生まれたから……グループのために作った曲じゃないからだと思う」

  

「やっぱりそうだよね……うん、ありがとう。おとちゃんに聞いてもらってよかったよ」

  

「あ、待って待って!」

  

 納得できたようで話を締めようとしたかのんだったが、音羽はそこに慌てて言葉を付け加える。彼がこの音楽に対して出した結論は別にあるのだ。

  

「確かにこれは『Liella!』の曲じゃないかもしれない。でも、もしこれを歌えなかったとしても、僕はこの曲が好きだな。かのんちゃんの『音楽が大好き』って気持ちが、そのまま音になったんだと思う。小さい頃からずっと歌が好きだったかのんちゃんの気持ちがこう……地層みたいに重なって、心を飛び出したんじゃないかな」

  

「そっか、好きって気持ちが重なって、地層かぁ……そんな立派なものじゃないと思うけどなぁ、私の気持ちって」

  

「かのんちゃんの気持ちは立派だよ! じゃあ地層じゃなくて、バームクーヘンとかどう!?」

  

「それおとちゃんが好きなだけでしょ!」

  

 音楽が好きという気持ちは音羽も同じように持っている。この曲を聞いていると、その気持ちが呼応し同調しているみたいで心地が良かった。そんな音楽は作ろうと思っても作れるものじゃない。例えば音羽では、『音楽を好きでいられなかった時間』が長すぎて、こんな曲は生み出せない。

  

 どこまでも純粋な『歌が好き』という心が無ければ、この『色』は出せない。

 そんな澁谷かのんのことを、音羽は心から尊敬していた。

  

「お待たせしました、オムライスでーす……って、お二人さんイヤホンシェアまでしちゃって」

  

「ありあっ!? だからそういうのじゃなくて……!」

  

「さっきからいたんだけど全然気付かないし。ふたりの会話が楽しいのはいいことだけどさ。確かにお姉ちゃん、昔から本当に音楽は大好きだよねー。寝ても冷めても歌のことばっかり。特に最近はよく2階から歌が聞こえてきてさぁ」

  

「そうなんだ! それだけ歌が好きってことでしょ? いいなあ、そういうの。凄く素敵だよ!」

  

 からかったつもりのありあで、恥ずかしがってるかのんだったが、音羽の反応は皮肉でも世辞でもなく本心からの称賛。ありあも彼の初対面から第二対面までの変化には目を見開いたものだが、こうして深く接してみると内面もなかなかに浮世離れしている。というか、良い意味で子供っぽい。

  

 気分が悪い、とまでは言わないが、音羽の中の姉が美化され過ぎている気がして少し腑に落ちない。現実の姉は割とだらしないし、器も小さいし、文句なんていくらでもある。ただ特に理由は無いのだが、少しだけ現実を教えたいというありあの悪戯心が作用した。

  

「……音楽が好きといえば確かにそうなんですけど、こんなお姉ちゃんでも歌から離れてた時期があったんですよ」

  

「そうなんだ……あっ、もしかしてそれって音楽科入試の?」

  

「ははは……確かにあの時は『終わったー!』ってなってたなぁ」

  

 音羽は話でしか聞いたことが無いが、かのんは音楽科の実技入試で歌う事ができなかったらしい。それ以前にも人前で歌えなかったことがあるなんて話も知っている。かのんが昔の話として笑うように、それは既に超えた過去。だが、ありあが踏み込みたいのはそこではなかった。

  

「その入試の後から入学式までのお姉ちゃん、どうだったと思います?」

  

「え? そりゃあ、すっごく落ち込んでた……とか?」

  

「いやぁ、それがウチの姉は布団に潜って枕濡らすー、みたいなセンチメンタルな感じじゃなくて。もう女子とは思えない澁谷かのんやさぐれ期の到来で……」

「っ───ありあぁぁぁぁぁぁっっ!!!」

  

 一歩遅れたが迅速なる言論統制。かのんはありあの口を塞ぎ、手際よく方向転換させて注文を待っている客のところに押し返した。そして呆気にとられている音羽を見ると、ぐいっと顔を近づけて一言。

  

「今の……忘れて」

「はい……」

  

 その時のかのんの声は、聞いたことが無いくらい低く、ちょっとだけ『黒』が見えた気がした。

  

  

  

  

  

 かのんの家を後にした音羽は、帰り道考えに耽っていた。その内容は当然、ありあの言葉だ。

  

「なんか意外だなぁ、かのんちゃんが……想像できないや」

  

 やさぐれ、と聞くと浮かぶのはさっきのヤンキースタイルだが、恋以上にあの中で彼女が一番イメージに合わなかったので意外も意外な話だ。なにせ、音羽の中のかのんは人を思いやる優しい少女。やさぐれていた、というのは彼にはよく分からないが、精神的に不安定だったのだろう。

  

 挫折からの憂鬱。音羽にもその経験はあるから理解る。

  

「そっか、僕が誰とも関わりたくなかったみたいに、かのんちゃんにもそういう時があったのかも」

  

 そう考えると少しだけ親近感が湧いた。

 そういった悩みを内に溜め込むタイプの音羽には『やさぐれる』という心理が想像し辛かったが、恐らく『意外だなぁ』で済ませられる程度のものだろう。実際ありあが笑い話として出したものだし、それこそ盗んだバイクで走り出したわけでもあるまい。何より、彼女は音羽の挫折の過去に対し、怒ってくれたのだ。

  

『音羽君にあんなこと言った人達……絶対に許せない。努力してる人の足を引っ張って何が楽しいの? 『気持ち悪い』のはそいつらの方だっつの……』

  

 確かに言われてみれば言葉遣いは若干荒い。だが、他人のためにあんなに優しい怒りを持てる人が、誰かを傷付けるような真似をするわけがない。音羽のかのんに対する尊敬や親愛は変わらない。ただ彼女の意外な一面を知れただけだ。友達のことをさらに深く知れて、むしろ嬉しかった。

  

「でも、忘れてって言ってたよね……かのんちゃん。うーん、どうやって忘れよう……」

  

 だが反応を見るに、本人からすれば良くない記憶なのだろう。忘れろと言われたら忘れなくてはいけない気がする、音羽はそんな素直で真面目過ぎる少年だった。

  

 その願いを天が聞き届けたのだろうか。

 不意の瞬間、音羽の頭に強い痛みが走った。

  

  

 _____________

  

  

  

「う……ん……? いま、なにが……?」

  

 少しだけ意識が暗転し、目を覚ました音羽は状況を確認する。

  

 頭が痛くなったと感じたら意識を失っていた。それだけ強い痛みだった。何かが頭にぶつかったのだろうか。だが周囲にそんな形跡はない。それだけ長く気を失っていたとしたら大事だ。

  

 ちなみにだが目を覚ましてすぐ、さっきの話は全く忘れていないことに気付く。気絶し損だ。そしてもう一つ、音羽はポケットにスマホが入ってないことに気が付いた。

  

「あ、そういえば……かのんちゃんの家で使って、仕舞ってなかった。取りに行かないと!」

  

 音羽は帰り道を逆走する。少しだけ焦りを含んだその意識の中で、彼は過ぎ去る街並みに違和感を覚えた。

  

「こんな店、ここにあったっけ……?」

  

 別に普段から気にかけているわけではない道だし、店の詳細自体も左程興味のないものだった。友達に「あった」と言われれば、それで納得してしまうだろう。しかし、やはり見覚えが無い気がして少しだけ気になってしまった。

  

 だからと言ってなんだという話ではある。音羽はその違和感を周辺視野に押し込み、かのんの家に急ぐ。

  

 来た道を戻る。だが、違和感は重なる。どこが変かと言われると言葉にできないが、とにかく変なのだ。見える景色が、聞こえる音が、僅かに認識や記憶と軋む。まるで全然知らない街を走っているかのよう。過敏な感受性が告げる正体不明の不安を抱えたまま音羽は急ぎ、かのんの家の喫茶店まであと一つ曲がるだけ。

  

 少しでも早く安心したくて柄にもなく焦っていた。だから音羽は、曲がり角の先にいた『彼女』に気付かなかった。

  

「あっ……!」

  

 両者は曲がり角で衝突する寸前、体を止めた。だが、その弾みは止められず、曲がり角の先から現れた『彼女』は尻もちをついて転んでしまった。音羽は慌てて、申し訳なさそうに手を差し伸べる。

  

「ごめんなさい! 大丈夫ですか、って……あれ?」

  

「……ったぁ、どこ見て歩いてんの!」

  

「え……かのんちゃん……だよね?」

  

「はぁ……?」

  

 音羽がぶつかった相手を落ち着いてよく見ると、どこをどう見ても澁谷かのんそのものだった。だが、音羽の口から出た疑問符。何故だろう。()()()()()()()()()彼女が、自分の知る彼女とは違う気がした。

  

「なに? 馴れ馴れしいけど、誰?」

  

「誰って……僕だよ! 音羽! さっきかのんちゃんの家にスマホを置いて来ちゃって、それを取りに来たんだけど……」

  

「だから誰? 音羽? 友達みたいな感じしてるけどさ、私はあんたみたいな人知らない」

  

 背後からいきなり、首でも落とされたような気分だった。

 安直な言葉でも表せない。なんだろう、突然耳が聞こえなくなったとか、手が無くなったとか、そういう世界の終わりとでも言えばいいんだろうか。耳鳴りが五月蠅くて、視界が滅茶苦茶な色に染められて。

  

『友達じゃない』。彼女の本心からの声。

  

 音羽は怖くなった。()()自分は、何かしてしまったんじゃないか。恋のときのように、自分のことしか見えてなかったのか? すみれのときのように、自分の何かが無自覚に彼女を傷付けてしまった? 

 わからない。でも、嫌だ。彼女に嫌われてしまうのだけは、絶対に嫌なんだ。

  

「なに言ってるのかのんちゃん……! 僕は結高の1年、君と一緒にスクールアイドル部をやってる東音羽だよ! もし僕がなにかしちゃったんだとしたら……わからなくてごめん、でも……謝るから! だから……!」

  

「私は『結女』の『3年』、澁谷かのん。あとウチにスクールアイドル部なんて無いし。人違いでしょ」

  

「…………え?」

  

 ストンと何かが隙間にハマったみたいな言葉だった。これが腑に落ちるということなのかもしれない。理屈では全く理解できないが、音羽の感覚はそれを呑み込んだ。

  

 ここは音羽が知る街ではなく、彼女は音羽の知る澁谷かのんじゃない。

  

  

  

  

  

「だから、僕の知ってるかのんちゃんはスクールアイドルで、『Liella!』っていうグループを組んでるんだよ!」

  

「だから人違いだって。私がアイドル? 無い無い。それだけは絶対無い。いくら馬鹿でもそんな嘘思いつかないよ」

  

「人違いじゃないよ! かのんちゃんのこと、僕はたくさん知ってるから。家族に妹のありあちゃんがいて、ペットは梟のマンマル。幼馴染はダンスが得意で丸が大好きな千砂都ちゃん!」

  

「は、怖い怖いっ!! なんでそんなことまで知ってるの!? ストーカー!?」

  

 自分がかのんに嫌われたわけじゃないと分かった音羽は、存外強かった。彼を引き離そうと足を速めるかのんに、全く躊躇せずに喰らい付く音羽。というのも、音羽はかなり冷静ではなかった。

  

 様子のおかしいかのん、そして『3年』。ここはもしかして未来? 音羽の常識では持て余す状況なのは間違いない。これはきっと夢だと、音羽はそう結論付けた。夢にしては少しリアルが過ぎるような気もするが、気のせいに違いない。

  

 夢と分かったなら気負う必要は無い。そのうち醒めると信じ、好きなようにやってみよう。

  

「ねぇかのんちゃん、今どこ行こうとしてるの?」

  

「……勉強しに図書館行くつもりだったけど、警察に行こうか迷ってる。変質者に困ってま~す、って」

  

「変質者!? 大変! 僕でよかったら力になるよ!」

  

「はぁー……なにこの人、超ウザい」

  

 かのんはとんでもなく大きい溜息をついた。

 一方で音羽も、夢の中のかのんに対する印象を今一度反芻する。

  

(僕が知ってるかのんちゃんより、なんか刺々しいかも……?)

  

 言葉や声から優しさや情熱といった、能動的な感情を読み取れない。ヘッドホンを付けたまま、その態度はどこまでも投げやり。他人のことも自分のことも見ていない、全てがどうでもいいと言わんばかりの態度。

  

 もしかして、これが『やさぐれた』というやつだろうか。

  

「勉強って、なんの勉強しに行くの? やっぱり音楽のこと?」

  

「……なんだ。ストーカーだと思ったけど、違うんだ。私のこと知ってるなら絶対出てこない台詞だし、それ」

  

「え……?」

  

「私は近くの大学の文学部を受験するから、その受験勉強。音楽は大嫌い。もう、一生やらない」

  

 今日一番で信じられない言葉だった。例え夢の中のかのんだとしても、その言葉が彼女の口から出ることを想像すらできなかった。だが、その声が本当に音楽を嫌っているのは、音羽には痛いほどわかってしまう。

  

 その時、ようやく音羽は理解した。目の前のかのんはスクールアイドルをやっておらず、それどころか音楽を辞め、しかも3年生だという。つまり───ここは澁谷かのんが音楽科に落ちた後、スクールアイドルを始めなかった世界だ。

  

「……そんなこと、言わないでよ。音楽が嫌いだなんて……君が言わないで!」

  

 その言葉を音羽は我慢できなかった。

  

 自分は夢の中でなにをムキになっているんだろう。こんなことに意味はないと分かっているんだ。それでも、音羽が何も思わないわけがない。こんな彼女を見て、放っておけるはずがない。

  

「はぁ? なんでそんなこと言われなきゃいけないの。あんたは私の友達でもないし、私の何が分かるの!?」

  

「分かるよっ! 君は知らないかもしれないけど、僕は『澁谷かのん』の友達だから!」

  

「だからそれがウザいって言ってるの! あんたのことなんか知らない! 何回も言ってるじゃん、馬鹿なの!? もういいでしょ、これ以上関わるなら本気で通報する。どっか行ってよ鬱陶しい!」

  

 今の彼女は暴言で他人を突き放すのを厭わない。強い言葉でたじろぐ心を、絶対に引き下がるものかと、音羽は力づくで前に進めた。

  

「僕は知ってるんだよ! 本当の君は、僕が知ってるかのんちゃんは音楽が大好きで……お節介で、優しくて、誰かのために本気が出せる、そんな素敵な人だって!」

  

「うるさいなぁ! じゃあその『澁谷かのん』と私は別人。私は音楽が嫌いだし、他人のことなんてどうでもいい。友達も家族もみんな失望させて、自分が大事だから辛い事からすぐ目を背ける。もしあの時に歌えてたとしても……それが本当の私なんだよ!」

  

「そんなこと無いよ。だって君は……どれだけ罵倒しても、僕の声を『気持ち悪い』って言わなかった!」

  

 音羽の声は年齢に対して高く、女性らしい声質だ。一度その声を『気持ち悪い』と笑われた。自分が普通じゃない、人に馴染めない、何者にもなれないと知り、音羽は絶望したのだ。それ以来全てを諦めた。その声を封じ込めた。

  

 でも、かのんと初めて会った時、彼女は音羽の声を『綺麗』と言った。それはどこまでも淀みのない声だった。

  

 きっとあの時と同じように、彼女は音羽の声を『気持ち悪い』だなんて、欠片程も思わなかったのだろう。それが彼女の優しさの本質。どれだけ荒れた態度を取ろうとも、彼女は澁谷かのんだ。

  

「……だからそんなの、意味わかんないし……!」

  

「本当は音楽が好きなんでしょ? でも人前で歌えなかった、それは知ってる。でもかのんちゃんは歌えるのも僕は知ってる! 一人じゃないなら、なにかきっかけがあれば……君は歌えるんだよ!」

  

「だから何!? 今さらそんなこと言ってどうするの!? もういいから私のことなんか……!」

「無視しないでよっ! ちゃんと聴いて、僕の声を!!」

  

 音羽は叫んだ。そして、彼女の耳を塞いでいたヘッドホンを外した。その声を彼女に届けるために。このヘッドホンはきっと、自分に失望する周りの声を、頼りない自分に期待する他者の声を、聞こえなくするためのモノ。そして自分の声だけで自分を埋めるためのモノ。

  

『眼鏡』と『マスク』で自分に蓋をしていた音羽にはわかる。やはり音羽とかのんは似た者同士。それなら今度は彼女がしてくれたように。お節介でも自分勝手でもいい、次は音羽が手を差し伸べる番だ。

  

  

  

  

  

 ヘッドホンが外され、外界の音が耳を刺激する。彼の透き通るような声が、かのんの心で直接響く。外でヘッドホンを外したのはいつぶりだろう。あの時以来、誰の声も聞かなくなってしまった。

  

 結ヶ丘の音楽科の試験で、かのんは歌えなかった。その時彼女の夢は砕け散った。誰のせいでもない、自分のせいだ。前に歌えなかったことがあったのに、どうして今回は大丈夫だと思ったのか。今思うと見通しが甘くて笑ってしまう。

  

 それから彼女はヘッドホンを付け始めた。音楽科に受かった友達と顔を合わせるのが気まずくなった。それでもまだその時は、音楽が大好きだったんだ。歌うと心が軽くなって、まだ生きていけると思えた。

  

『ククと一緒に、スクールアイドルを初めてみませんか?』

  

 全てが終わったと悲観的になっていた入学式の日、同じクラスの可可という女の子がそう誘ってきた。曰く『素晴らしい声の人』のかのんを、是非ともスクールアイドルに引き入れたかったらしい。だがかのんは人前で歌えない。そんな人間がスクールアイドルだなんて笑い話にもならない。

  

 一先ずかのんは可可を手助けした。歌えはしないが、他にスクールアイドルをやる人がいないか探したり、そういう事をするつもりだった。だが可可はやはり、かのんをスクールアイドルに誘った。

  

『かのんサンが歌えるようになるまで、諦めないって約束シマス! だから試してくれませんか? ククともう一度だけ、始めてくれませんか?』

  

 もう誰かに失望されたくない。自分に失望したくない。かのんは彼女に背を向け、校門へと歩き出した。それでも迷いは消えない。本当にこのままでいいのか。自分の歌が好きで、一緒に歌いたいと言ってくれる人がいるのに、本当にこれで───

  

  

 あと一歩で校門を跨ぐ。そこがきっと、運命の分かれ道だったのだろう。

 

 

 かのんは、振り返らなかった。

  

  

 かのんは可可を見捨てた。スクールアイドルにはならなかった。歌が大好きだという自分の気持ちに嘘をつき、傷つきたくないという保身を優先させた。

  

 その後も生徒会長の方針もあり、スクールアイドル部が成立することはなかった。一度は反抗したかのんだったが、彼女の気持ちを裏切って以来、口を出す資格も無いように思えてしまった。それからヘッドホンを外す頻度は極端に減った。

  

 時間が経つほど自分が嫌いになった。通学路や自分の部屋で歌う事も少なくなった。歌う資格すらも無いように思えたからだ。そして、胸を張って歌が好きだと言えた時の心は徐々に形を失い、2年生になって可可が上海に帰った頃、かのんの部屋からギターは無くなっていた。

  

 あの頃の澁谷かのんはもう居ない。世界に歌を届け、みんなを笑顔にするだなんて漠然とした夢を語っていた彼女の光はどこにもない。挫折してなお未練がましく縋っていた音楽はもう捨てた。信じてくれた人さえも裏切り、自分に何も価値を見いだせない。だからもう全てがどうでもいい。それこそが、現在の澁谷かのんだ。

  

  

  

  

  

「そっか……こっちではくぅちゃん帰っちゃったんだ」

  

「はぁ、なんでこう話しちゃうかな……私って」

  

 少しだけ未来の街を歩きながら、音羽は彼女の全てを聞いた。

  

 音羽の気持ちに当てられたのか、かのんは自身の話を長々と音羽に聞かせてしまった。というのも、初対面から彼のことは正直疑う気になれないというか、嫌いになれなかったのだ。まるで誠実さと純粋さを捏ね回して人の形にしたような清廉潔白、それが音羽に対する印象だった。

  

「千砂都ちゃんはどうなの?」

  

「ちぃちゃんは……最近会ってないかな。音楽科と普通科って仲悪いし、ちぃちゃんは何かと私の力になりたいって声は掛けてくれるんだけど……私なんかに構ってたらさ、ちぃちゃんの価値も落としちゃうと思って。だから……」

  

「うん、気持ちは……よく分かるよ。すみれちゃんや恋ちゃんは?」

  

「すみれ? あぁ、平安名さんね。別にあんまり話したこと無いし、美人だし目立ってるけどそれくらいって感じ。恋ちゃんは生徒会長の葉月さん? 普通科の子からは凄く嫌われてるし、私も好きじゃない。一年の学園祭のときの公約違反は実際酷かったしね」

  

「そっか……」

  

 音羽は辛そうにしながらも理解した。この未来では、かのんがスクールアイドルをやらなかったことで好転しなかった人生がそのままになっている。

  

 見つけた夢を追えないまま諦めた者。

 大事な友達と並び立てなかった者。

 埋もれたまま光を浴びられなかった者。

 母の想いを知ることができなかった者。

  

 音羽の知り得ない少し未来にも、それは転がっている。

  

 新しい自分に踏み出せなかった者。

 憧れと自分の壁を超えられなかった者。

 友達の背中を押せなかった者。

 一等賞を諦め、漠然とした夢に浸った者。

  

 そして、この未来では音羽もきっと、まだマスクを着けたままなのだろう。

  

「私含めてその5人? 音羽君がいる結ヶ丘で、スクールアイドルやってるのって」

  

 音羽も正直に自分の事を彼女に話した。どうせ夢だと思ってはいるが、説明してると自分で正気を疑う話だった。かのんも「なに言ってんだコイツ」という顔をしていたが、乾いた笑いと共に話を呑み込んでくれた。

  

「なんだか変わった面子。あの葉月さんがスクールアイドルねぇ……音羽君も可愛い衣装で踊ったり……流石に無いか」

  

「なんか“音羽君”って呼ばれるの懐かしいな。いつもは“おとちゃん”だから」

  

「げ、男子にちゃん付けしてんの私? まぁ確かに可愛い顔だけどさぁ……」

  

 話している内にかのんの足が止まった。そこは楽器店の前だった。

 失敗で挫折し、自分で望んで手放した夢。それが今になって当てつけでもするように、目の前に現れたみたいだ。

  

「───ちぃちゃん、ちょっと怖いときあるでしょ」

  

「……うん、ちょうど今日もそうだったんだけど、なんというかスパルタって感じ。あと丸が関わると別の意味で怖いかな」

  

「可可ちゃんは大好きなスクールアイドルやれてるんだ。平安名さんは……綺麗だしステージ映えするだろうなぁ」

  

「そのふたり、いつも言い合いしてる。最近はちょっとだけ減ったんだけどね。基本はくぅちゃんの『グソクムシ』って憎まれ口で始まって、すみれちゃんがそれに乗っかって……でも僕からみたらすごく仲良し」

  

「グソクムシ? なにそれ。あと、葉月さんか」

  

「恋ちゃんは僕の大事な友達……幼馴染なんだ。ちょっと不器用で誤解されやすいだけで、本当はすごく優しいんだよ」

  

「ふーん、知らなかったなぁ。あぁでも……全然想像つかないや。だってみんなのこと全然知らない。でも……音羽君見てたら分かるよ、楽しいんだなぁって」

  

 その未来が眩しすぎて、目を閉じても何も浮かんでこない。幼馴染の千砂都でさえ、自分の隣にいるのが想像できない。あの日、ヘッドホンを外すのをやめてしまったあの時から、助けを求める声も、聞いて欲しいと叫ぶ声も、夢を追おうと漏らす吐息すら、何も聞こえなくなってしまった。

  

 きっとあなたは、あの日振り返ったんだ。

  

 あの日歌う事を止めなかった私は、そんな素敵な友達の中で、ずっと夢を追えていたんだ。

  

「…………いいなぁ」

  

 声を震わせながら、涙を堪えて絞り出したその一言が、今のかのんの全てだった。ずっと後悔していたんだ、あの日振り返らなかったことを。機会は何度もあったのに、踏み出せなかったことを。もう全てが遅いというのに気付いてしまった。

  

「やっぱり、それが本音なんだね」

  

 そんな彼女を見て、音羽も思う。かのんと音羽は似ている。だからきっと、彼女は自分なんだ。

  

『音羽君がその気になったら、これを部室に返しに来て。私、待ってるから』

  

 きっと一生忘れないあの夏休みの日。音羽の自宅に押し掛けたかのんは、音羽に作曲中のCDと練習メニューが入ったファイルを───スクールアイドル同好会の未来を彼に預けた。音羽を救えないならスクールアイドルを辞めると覚悟を口にし、こんな自分を信じていると、そう言って去って行った。

  

 この夢の中の彼女は、あのクリアファイルを返しに行けなかった音羽。

 いいや、むしろ逆。彼女は、『澁谷かのんと出会う前の東音羽』そのものだ。

  

 音羽はあの頃、自分には何の価値もないと本気で思っていた。それどころか、何かをすれば誰かの期待を裏切ってしまう、そんなマイナスな存在だと。だから大事な友達や家族すら見なくなった。自分を閉じ込めた。そんな自分自身を音羽は善しとしてしまった。

  

 今の自分が、あの頃の音羽に何を言えるのか。それをそのまま彼女に伝えたい、その思いのまま音羽は声を出した。

  

「僕は……君に出会って救われたんだ。君が僕に手を差し伸べてくれて、僕の代わりに怒ってくれて、僕を『友達』だって言ってくれたから……僕はいま、ここにいる」

  

「私が……? そんなわけない。所詮なにか違っても私は私だよ、私にそんな力なんて……!」

  

「本当だよ! 僕だけじゃない、全部が……『Liella!』は君がいたから始まったんだ!」

  

 澁谷かのんが唐可可と出会い、生まれた小さな星の光。

 彼女が動き、歌い続けることで、その光は育った。幾つもの光が共鳴した。そしていずれ満天を彩る輝きとなる。音羽はそう信じている。それだけの力が彼女にはあるはずだ。

  

 だから、『何者にもなれない』だなんて悲しい事を思わないでほしい。何者でもないからこそ、誰だっていつからでも何にだってなれるんだ。君がそう教えてくれたように、

  

 僕は───『君の力になりたい』。

  

 音羽はかのんの手を取る。自身を嘲るように、後悔を笑いで誤魔化す彼女を強引に引っ張って、楽器店の中に入って行った。

  

「音羽君!?」

  

「ごめん黙ってついて来て! すいません、ここピアノありますか!?」

  

「え……ピアノですか? いや、ウチにはちょっと……」

  

 入店早々、今までになかった雄々しい勢いで店員に詰め寄る音羽。しかし音羽の目的であったピアノは置いていないらしく、足が止まって目が泳ぐ。その時、音羽の視界に入ったのは別の楽器。そして直感と衝動に従い、音羽はその楽器を───エレキアコースティックギターを手に取った。

  

「聞いててかのんちゃん。この曲は……きっと君のための曲だから」

  

 音羽の指が弦にかかる。言っておくが、音羽はギターの経験はほとんどない。音楽教室に通っていた幼少期から、楽器はずっとピアノ一筋だった。だが教養としての知識はある。特に最近は少しでも仲間の役に立ちたいと、他の楽器の演奏法についても学んでいたのだ。ギターの弾き方自体は頭に入っている。

  

 演奏する曲は決まっている。だが、できるのだろうかと不安が過った。

 普段は少なくとも2回は聴いて音楽を記憶する。この曲はまだ1回しか聞いておらず、しかも慣れないギターでの演奏。完璧に伝えられなきゃ意味がないのに。

  

(いや……できる)

  

 一度だけ聞いたあの曲の形無き譜面を、知識に結び付けて再構築しろ。音が染み付いた感性と指先だけが頼り。それでも、感動するほど印象に焼き付いたあの『色』を表現するために、あのテンポを、メロディを塗り重ねて、君が描いた世界を紡いでみせる。

  

 不安なんか無くなった。僕ならできる。君が『凄い』と、『()()()()()()』と認めてくれた僕なら。

  

「っ───!」

  

 音羽は演奏を始めた。始まった曲に、かのんは目を見開く。

 初心者なら破格の技術だが、お世辞にも『上手い』とは言えない演奏だ。おまけに曲もそう。世に出回るプロの曲に比べれば明らかに粗削りで未完成。全てが拙いと一笑に付すのは簡単だ。

  

 それなのに───どうしてここまで心に響くのだろう。

  

 不思議な感覚だった。かのんが目を閉じると、今度は鮮明に浮かび上がってくる。枯れてしまった気持ちをまだ抱いていた頃、輝いて見えた世界が。心地よかった全ての音が。なんにでもなれると歌い続けたあの頃の自分の声が、曲に乗って聞こえて来た気がした。

  

「……いい曲だね」

  

「この曲は……かのんちゃんが作った曲だよ。君が僕だけに聞かせてくれた、かのんちゃんの『大好き』が詰まった曲」

  

「私が、この曲を……!?」

  

「僕はこの曲の『色』が好きだよ。多分僕だけにしか見えないけど……この色はみんなを笑顔にする、そんな優しい色だ」

  

「でも……私は、歌えなかった……だからもう全部嫌になって、諦めて……!」

  

「歌えるよっ! かのんちゃんが歌えば、この色はきっとみんなにも伝わる! かのんちゃんの歌は、世界中の人を笑顔にできる! だから───!」

  

 曲が最高潮にさしかかる寸前、そこで演奏は止まってしまった。

 音羽が指を押さえて表情を歪ませる。彼のピアノを弾くための細く長い綺麗な指。その繊細な指先はギターの演奏には適していなかったようで、皮が剥けて傷となり、嫌な熱を伴った痛みが蝕む。

  

 その痛みが引き金だろうか、音羽の脳を痛みが蝕む。

 気を失った時と全く同じ痛みだ。それが意味する事はただ一つ。

  

 夢の終わりが訪れようとしていた。

  

(まだ……今ここで止めるわけにはいかない……! この不思議な夢に、何か意味があるなら……どうかまだ醒めないで! ここで君を助けられないのなら、僕は───!)

  

 痛む指を再び弦にかけたその時、消えそうな音羽の意識に『色』が飛び込んだ。その『色』は、何度だって心を奪われた、まだ名前の無い『純白』。

  

  

 かのんが、歌っていた。

  

  

「かのんちゃん……!」

  

 歌詞の無いそのメロディを透き通った声が奏でる。音羽がまだ演奏できていなかった部分も、どうしてか心に浮かんで歌うことができた。喉を震わせ、吸い込んだ息と同時に溜め込んでいた想いと、声を、世界に響かせた。

  

 そうだ、歌うってこういうことだった。

 体が軽くなって、遠い空を何処までも飛んでいけるような高揚感。どうしようもないと思い込んでいた暗い悩みも、荒んだ気持ちも、全部力に変えて前を向けると、臆面もなく思えてしまえた。

  

 ずっと歌っていたい。ずっと、この時間が続けばいいのに。どうして今まで気づかなかったんだろう。

  

  

「───やっぱり私……歌が、好きだ……っ!」

  

  

 今度は涙を我慢しない。消えたわけじゃなかった、あのころ夢見ていた自分自身は、思い描けばずっとそこにいたんだ。ずっと心の奥底で押し殺していた感情のまま、かのんは大粒の涙を流して思いを叫んだ。

  

「かのんちゃんも言ってたでしょ。たとえ何かが違っても、かのんちゃんはかのんちゃんだよ。僕はずっと……そう信じてた」

  

「私は……私はっ……もっと、歌いたい……! 歌っていたいよ……!」

  

「もっと歌ってよ! 歌ってていいんだよ! 

 僕は……楽しそうに夢を見て、歌っている時の君が───」

  

 もう大丈夫だ。音羽の想いを受け止めて今度は踏み出せた彼女なら、きっとこれからを進んで行ける。彼女が歌えば、きっと幾つもの物語が回り始めるんだ。そんな澁谷かのんが、最高の『友達』が、音羽は心の底から誇らしくて、そして───

  

  

「僕は、そんな君が大好きだから!」

  

  

 _________________

  

  

  

「───おとちゃんっ!」

「っ……わぁっ!!?」

  

 自分を呼ぶ声に引き寄せられるように、音羽は目を覚ました。

 見慣れた景色に一つの違和感もない周囲の雰囲気。おまけにズキズキと痛い頭の中。ヘッドホンを付けておらず心配そうに音羽を覗き込んでいたかのん。ここは現実だ。

  

「あれ……かのんちゃん……?」

  

「大丈夫おとちゃん!? ウチにスマホを置いてったから届けに行ったんだけど、そしたらおとちゃんが倒れてたから! なにがあったの!? 私のことわかる!? 今は何月何日!?」

  

「待って待って、わかるよ。大丈夫だから落ち着いて。一つ聞きたいんだけど、かのんちゃんは3年生……じゃないよね?」

  

 音羽は冴えた思考回路で純粋にそう尋ねた。だが、それは客観視すると余りに間が悪い質問。

  

「おとちゃんが……記憶喪失……!?」

「違うよ!? 違うから! 僕も説明したいんだけど、なんというかその……」

  

 まだ頭が痛い。そういえば、最近悩まされている偏頭痛に似ている。お医者さん曰く『日常的に情報を取り込みすぎている。共感覚の副作用のようなもの』らしいが、よくわからなかった。

  

 それはそうと、音楽を辞めた澁谷かのんの未来、やはりあれはただの夢だったようだ。今となっては彼女との会話の内容とか、細かい記憶は頭痛のせいもあってもう思い出せない。しかし、夢の中とはいえ悔いのない行動はできた。それだけは胸を張れる。それだけで満足だった。

  

 そう締めくくろうとした音羽だったが、今度は頭部ではない場所に痛みが走る。

  

 それは指先。だが、その細い指にギターを弾いたことによる傷はない。鮮明な痛みだけが、音羽に何かを伝えるようにそこに残っていた。

  

(本当に……夢だったのかな)

  

 あの日、悔いのある選択をしてしまった君へ。

 まだ誰も信じることができなかった僕へ。

  

 夢も希望も捨てることでしか生きていけなかった、いつかの君たちへ。

  

「ねぇ、かのんちゃん」

  

「おとちゃん……?」

  

「僕、かのんちゃんに会えてよかった」

「本当にどうしちゃったのおとちゃん!?」

「なんでもない! さ、帰ろ!」

  

 どんな闇の中だろうと、君を救い出す出会いは必ず訪れる。

 君と僕が出会えた。その神の気まぐれの奇跡の物語に、精一杯のありがとうを。

 そして願わくば、この物語がどこまでも続きますように。

  

 ______________

  

  

 礼を言う暇もなく、楽器店で彼は居なくなってしまった。彼女は涙を拭いて帰路につき、家の物置へと脚を進める。服が汚れることなんて全く構わず、奥に奥にと仕舞い込んだそれを、彼女は見つけた。

  

 随分と埃を被った、それでも捨てることができなかったギターを。

  

『好きなことを頑張るのに……おしまいなんてあるんデスか!?』

「なかったよ、おしまいなんか。ごめんね、ちょっとだけ……遅くなっちゃった」

  

 彼女はまた夢を見る。輝きに囲まれて斉唱する夢を。

 星の輝きは決して消えない。その一等星が輝き始めたとき、物語は何度だって音を奏でる。

  




壱肆陸さんのあとがき
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改めまして壱肆陸と申します。オリ主クロスオーバー二次小説を生業としている者です。オリ主=オリジナルの主人公というのは、本来は完成された物語には不要な存在です。出すからにはその意味と魅力が必要不可欠なジャンルなのですが、『東音羽』は挫折からの救済を物語の軸に据え、世界観に溶け込んだキャラクター、そして原作キャラとの見事な化学反応を魅せてくれた素晴らしいオリ主だと思います。だからこそ今回は、僕なりの方法で『東音羽』がオリ主として歩んだ道を肯定し、物語に存在する意味を描いたつもりです。あと、おとかのこそが最高のカップリングなので推しましょう。
最後に。初めての三次創作で界隈も違って恐縮極まっていましたが、作者の龍也さん、寄稿された他の作者様、星トラ読者の皆様方、今回は参加させていただき有難うございました!
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