妄想日本国召喚   作:石原

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 初の二次創作投稿です。


プロローグ

 1945年8月

 大日本帝国は敗北した。

 史実通りにGHQによる管理下に置かれた日本だが、1951年のサンフランシスコ講和条約以降、歴史は音を立てて加速する。

 GHQの統治下で活動していた連合軍は、真面目に働いていた者もいれば乱暴な者も多数おり、国内の治安悪化の一因となっていた。

 また、東京裁判を初めとする軍事裁判や、各地に収容されていた捕虜の待遇の劣悪さは筆舌に尽くし難く、その実情を知る者は誰もが唇を噛んだ。

 そして、GHQの廃止を機に国際舞台へと復帰した日本には、占領期に溜まった怒りと不満を主張する一派が現れたのである。

 彼等は、「日本民族の尊厳と誇りの復興」をスローガンに掲げ、<日本国民党>を創設した。

 そのメンバーは、誰もが間近で国民の苦しい実情、その国民を足蹴にする駐留軍、戦後のどさくさに紛れて悪事に手を染める人種を目の当たりにし、そして手を差し伸べて来た者達であった。

 そうした経緯から、当初より全国で多くの支持を勝ち取る事に成功し、1953年のバカヤロー解散によって始まった選挙戦から政界へ殴り込んだ。

 史実では、前年の抜き打ち解散から台頭を始めた鳩山派が自由党を割り、社会左右両党が漁夫の利を得た結果に終わり、後に民主党が、更に自由民主党が誕生し、55年体制が成立する切っ掛けとなった。

 しかし、日国党が介入した結果、社会両党、鳩山派が本来得る筈であった議席の多くを吸収し、三党を泡沫政党へと変貌させた。

 初めての選挙で100議席以上を獲得し、改進党を抜いて第二党へと躍進した日国党は、その後の日本政治に大きく関わる事となる。

 バカヤロー解散によって少数与党に転落した自由党であったが、日国党の協力によって勢いを取り戻し、各種政策を実行して行った。

 とは言え、連立を行った訳ではない。

 保守を標榜する点で両党は共通の理念を持っていたが、その指針は異なる。

 国土の復興を第一として活動する自由党は、国際協調を重視した穏当派であるのに対し、国の尊厳を重んじる日国党は、国内を蝕む異分子や国外からの侵害行為に徹底抗戦を行う過激派であった。

 復興の為の各種施策は良いとして、在日米軍や戦力の不保持等には断固反対の立場を掲げ続けた。

 尤も、国内の苦しい状況を理解していただけに、こうした問題は彼等の中でも優先順位が低く、ひとまず後回しにされた。

 国内の復興が進む傍ら、両党の齟齬は中々解消されなかった。

 その大きな理由が、国内の赤化勢力の台頭である。

 過激な行動を繰り返す彼等は、日国党にとって正に排除すべき対象であり、米国の赤狩りに倣った方針を主張していた。

 また、赤化勢力を実情を隠しながら強力に後押しするマスメディアに対する締め付けも主張しており、与党として矢面に立たされる立場にある自由党との間に深刻なすれ違いが生じていた。

 最終的に、積極的な行動を是とする自由党議員と日国党の大部分が結託して<自由国民党>が成立し、自由党に替わる与党勢力として辣腕を振るい始めた。

 その方針は、(比較的)穏当な外交・過激な内政である。

 国際舞台での活動経験のある自由党出身者は、ひたすらに過激な主張を繰り返す若手議員のストッパーとして機能し、戦前の日本がその点でどれ程の悪手を採っていたのかをよく教育し、外交面で協調的な姿勢を醸成させると同時に、その他の面でもバランスの取れた感性を生み出した。

 一方、内政面では様々な勢力が国内で蠢いている実情、国益を守れない法、その状況を良しとする事なかれ主義者の存在が、国益を守ろうとする彼等の逆鱗に触れており、容赦の無い姿勢に繋がった。

 最大の争点は憲法改正であった。

 国内の不穏分子を排除し、国益を追求出来る法的根拠を求めていた自国党は、単独与党の立場を大いに活かして粛々と準備を進めた。

 それに対し、阻止したい勢力は結託して自国党潰しを敢行した。

 当初は、マスコミを通したネガティブキャンペーンが中心であったが、成立が近付くにつれてその手法は過激化した。

 議会での乱闘、賛同者や議員に対する脅迫、事務所への襲撃等々・・・・

 直接的な暴力行為にまで及んだ結果、自国党側が何かするまでも無く、造反勢力は急速にその規模を縮めて行った。

 そうして極限まで追い詰められた彼等は、遂に大規模な蜂起に打って出た。

 九州と北海道に於いて、赤化勢力を中心に編成された<日本解放軍>を自称する武装蜂起が始まったのである。

 彼等が持つ武器は自作ではなく、本物の武器であった。

 最初に対応した警察は多大な犠牲を出して敗走し、多くの地域を占領された結果、自衛隊の動員が決定した。

 本格的な武力衝突となった今回の蜂起は後に、西南戦争以来の日本最後の内戦として記録される事となる。

 半年にも渡る衝突の末、自衛隊が勝利した。

 その後の調査で、九州の勢力は中国が、北海道の勢力はソ連が支援していた事が判明し、支援の受取先として機能していた国内勢力も芋づる式に判明した事で、不穏分子が相当数排除される運びとなった。

 今回の蜂起を切っ掛けに、以前より進めていた法改正はより現実に即した形へと改められた他、自衛隊の組織的、装備的弱点が赤裸々となった事が大きな収穫となった。

 法改正が完了した後、更なる不穏分子の排除、自衛隊の国防軍への改編、国内の情報力の強化、教育改革が推し進められ、日本の復興と発展は日々加速を続けた。

 そして、協調を旨とする外交方針は、若干の軌道修正を迫られた。

 特に、内戦を誘発した中ソに対する姿勢は強硬となり、両国との融和を推進する派閥は完全に勢いを失った。

 また、法改正の完了と同時に始まったのが、竹島を巡る韓国との係争である。

 日本政府は、米政府へ根回しを行った上で、当初は交渉によって「竹島の即時返還を行えば、その際に行った各種行動は不問にする」としていた。

 この要求に対し、韓国政府は激昂した。

 交渉の場で日本側を激しく糾弾し、対抗措置として竹島周辺へ艦隊を常駐させ、空軍を動員して挑発行為を繰り返した。

 また、こうした動きの原因は日本側にあるとし、謝罪と賠償を要求した。

 そうした動きに対し、日本側は韓国に対する援助の一切を凍結し、戦後に行われた賠償の内、有償分の即時返済と、竹島占領時の漁民の拘束、及び止めに入った巡視船に砲撃を加えた件で賠償を要求した。

 同時に、韓国軍の動きに応じて国防軍を動かし、武力奪還を視野に入れて準備を進めた。

 米政府が介入し、交渉の妥結へ向けて努力が続けられたものの最終的に決裂し、両軍が間近で睨み合うまで事態は悪化した。

 韓国政府は、日本の肩を持つ米政府にも大いに失望し、「独島の領有権を認めなければ、在韓米人の拘束や資産凍結、最悪の場合には国交断絶まで視野に入れざるを得ない」と啖呵を切った。

 これには米政府も激怒し、第七艦隊の派遣を通告した。

 これに焦った韓国政府は、艦隊到着前に決着をつけるべく先制攻撃を敢行、宣戦布告の無いまま日本との交戦状態に入った。

 結果、竹島周辺の韓国軍は悉く排除され、国防軍によって奪還された。

 同時に、韓国軍は対馬へ上陸を開始した。

 対馬に配備されている戦力は少なく、占領こそ免れたものの懸命の抵抗空しく、民間人に犠牲者を出す結果となった。

 更に、在韓邦人が韓国政府によって次々と拘束され、韓国国民へ晒し上げられる事態が発生し、少なからぬ死者を出した。

 結局、第七艦隊到着までに事態の収束は実現せず、一帯の交戦状態は米軍の圧倒的武力によって収束した。

 そして、在韓米軍が青瓦台へ向かい、韓国首脳部を拘束した事で<日韓紛争>は終結した。

 その後、米国によって頭を挿げ替えられた韓国政府との和平が行われ、日本は多額の賠償金を得た。

 しかし、日韓関係は極度に悪化し、在韓邦人は大使館員を含めて全員が引き上げられ、日本からの直接渡航も不可能となった。

 日韓紛争の経緯は、未だに自国のすぐ近くに戦争の脅威が存在する事を国民に深く認識させ、国民の国防意識の向上を促す転換点となった。

 政府としても、今回の紛争は反省点が非常に多く、敵の行動予測の甘さ、戦力展開の失敗、攻撃能力の不足、邦人保護の難しさを突き付けられる形となった。

 この一件を機に、情報能力と共に国防軍の本格的な強化が強力に推し進められた。

 日々成長を続ける経済力を背景に国防費は年々増額を続け、その額は米国に次ぐ世界第二位を長らくキープした。

 そうして得た成果の一つに、特殊部隊の存在がある。

 英軍SASを師とする<特殊戦術展開部隊>は、日韓紛争で在留邦人を救出する手段を持たなかった反省から編成された。

 そして、北朝鮮による拉致事件によって初陣を飾った。

 史実と異なり、不穏分子を排除した影響で北朝鮮との直接的なパイプを失った日本だが、大幅に強化された諜報網がこの策謀を察知した。

 そして韓国(実質米国)の協力の下、彼等は邦人救出を見事に成功させた。

 この一件は、繁栄を謳歌している日本全土に冷や水を浴びせ、自身が東西陣営の最前線に位置している事実を再認識させた。

 そして、日本の特殊部隊が他国に侵入した事実はもう一方の当事者である北朝鮮政府の激烈な反応を呼び、中ソが呼応した事でキューバ危機に匹敵する緊張状態を招いた。

 後に<極東危機>と呼称されるこの緊張は、キューバ危機と同様に米ソの連携によって終息した。

 中国は、内政の大失敗によって元から西側と事を構える余力は無く、ソ連の動きに合わせて引き下がった。

 そして、二度も騒乱を引き起こした朝鮮半島は、これを機に米ソによって強力に統制される事となり、事実上主権国家としての地位を失った。

 その後は大きな問題も無く発展を続ける中、1991年にとうとうソ連が崩壊した。

 日本は、官民問わず大規模な食糧支援を実行した。

 その後にロシア連邦政府が発足すると、日本政府はこれを機に最後の領土問題の解決に打って出た。

 韓国と異なり、東側の盟主として存在感を放つソ連が相手では米政府も強く制止する状態が続き、ただひたすらに我慢を重ねるしかなかった。

 鉄のカーテンの崩壊を好機と捉えた日本は、ロシア政府に対して更なる食糧支援と経済支援を対価に、北方領土の返還と樺太の油田とガス田の優先権を要求した。

 加えて、降伏によって放棄した千島列島全て、及び現地に配備されている兵器類の購入を打診した。

 この申し出にロシア側は紛糾したものの、最終的に四島の返還が実現した。

 樺太の資源については、両国出資による開発を積極的に行う方針で妥結した。

 千島列島の購入は断固拒否され、兵器類については歩兵火器のみ購入可とした。

 こうして、ロシア極東地域は日本の支援によってある程度持ち直し、東西境界線の中で逸早く情勢の安定化に成功したのである。

 その後、史実では中韓の隆盛が始まるものの、過去の諍いによって関係が極度に悪化した事もあり、日本からの支援が得られない状況では無理な相談であった。

 国内では、相変わらず自国党の一強状態が続いており、驚異的な経済成長は終息する気配を見せなかった。

 しかし、日本の急激な追い上げによって苦しめられていた米国は、冷戦の終結によって遂に露骨な妨害を開始した。

 10年にも及ぶ日米貿易摩擦の開始である。

 国益を追求する体制が整っていた日本は、米国相手でもそう簡単に退かずに粘り強く抵抗を続けた。

 時には軍事的恫喝すらも行われたが、在日米軍は国防軍の増強によって大幅に規模を縮小しており、その多くが韓国の統制の為に転用されていたせいで、大した効果は見込めなかった。

 その上、造船業が日本一強体制にある事で事実上海運が日本の手中にあり、単純に海軍で恫喝すれば解決とは行かなかった事が、この摩擦の長期化の大きな要因となっていた。

 結局、アメリカ製兵器の高額利用によって米政府をなだめ(技術購入も積極的に実行した)、宇宙開発で積極的な協力体制を構築する事で、次の舞台への投資と言う形で時間を掛けて解決を図った。

 そして、本当に次なる舞台として宇宙開発が世界的に注目されている最中、

 

 西暦2015年、日本列島は地球上から姿を消した。

 

 




 正に妄想。
 こんなに上手く行けばよかったなぁ・・・
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