桜には自分の弱さを曝け出せる士郎がどうしても見たかった
『シロウは、生きたい? どんな命になっても、どんなカタチになっても生きていたい?』
パチリと目が覚めた。
目の前には、見慣れた天井が広がっている。時計を見れば、午前3時であった。まだ起きる時間よりもだいぶ早い。
心臓がバクバク鳴っている。背中は寝汗でびっしょりだ。自分は生きているのだと実感する。
「……夢、か」
この身体になってから暫く経つ。
何でも人形の身体なそうだが、言われないと気づかないぐらい以前と変わらない。汗もかけるし、心臓も動いている。世の中には、様々な魔術師がいるものだ。素直に感心する。
「……ちょっと暑いな」
春が過ぎ、汗ばむ季節になった。クーラーを使うほどの暑さではないのだが。夏ももうすぐくるのだろう。
「夏、か」
あの雪のような少女が居たら、日本の夏にどういう反応をとっただろうか。
暑さには耐性が無さそうだし、夏バテしてそうである。そうなると、ご飯はなるだけ冷たいものやサッパリとしたものを作って、おやつの時間にはアイスも用意しておくべきか。休日にはプールや海に行って、かき氷なんかも良いかもしれない。あとは、知り合いを集めて、流しそうめんとかも面白そうだ。
無邪気なあの少女は、俺の拙いおもてなしでも楽しんでくれるのだろう。初めて経験する夏の空に目を輝かせて───
「…………」
そこまで考えて、思考を中断する。
これ以上考えると余計なことまで考えてしまう。頭を振って切り替える。
「…………ん」
傍らから声がした。見ると、隣り合わせにした布団で眠っている桜が寝返りを打っていた。
顔がこちらを向く。規則的に寝息を立てて、口端からは僅かに涎が垂れていた。最愛の人が、自分の前で無防備な姿を晒している。その事実がたまらなく愛おしくて、胸の奥が熱くなる。
起こさないように、細心の注意を払って、その柔らかな髪を撫でた。サラリとした感触が心地よい。毎日毎日、欠かさず手入れを行なっているのだろう。ドライヤーと寝癖を治すくらいしかしない自分とは大違いである。
「……少し出るか」
極力音を立てないように気をつけて布団から抜け出し、部屋を出る。
廊下は少しだけ涼しく、暗かった。月明かりはなく、窓の外は完全に闇に包まれている。分厚い雲で覆われているため、星々すらも見えない。
足を踏み出す度にギシリと床板が鳴る。静寂の中で響くその音が、自分が今ここに居ることを自覚させてくれるような気がした。
手頃な場所で立ち止まり、ゆっくりと腰を落とす。そして、そっと目を閉じた。
「…………」
この場所で、切嗣の夢を継いで、そしてその夢を裏切った。
その選択に後悔は微塵も無い。その選択があったから、桜と今こうして一緒に暮らせているのだ。もちろん幸せなことばかりではない。これから先、桜が犯した罪、それに伴う罰を共に背負うことになる。
それでも2人なら、きっと乗り越えていける筈だ。例えそれが茨の道であろうとも、桜と共に在れるのならば耐えられる。何度だって前を向いて歩いていける。今は心からそう信じている。
だから、後悔があるとするならば、選んだ道ではなく、少女に望まぬ選択をさせてしまった己の弱さにあった。
「……イリヤ」
その名前を口に出す。
一度は忘れてしまった名前。今はもう会えない家族の名前。だが、彼女の存在は、俺の記憶にしっかりと刻み込まれている。
「生きていて、ほしかったな」
アーチャーの腕を使った時点で、死ぬことは覚悟していた。それでも、最期の瞬間まで諦めずに抗うと決めていた。その結果が、イリヤが代わりに犠牲となった。あの時、彼女が助けに来てくれなければ、俺は間違いなく死んでいただろう。
こんなことを考えても仕方がないってことは分かっている。それでも、こうして生きて、日常を過ごし、これからの生活に思いを馳せる度に、イリヤにも、この世界でもっと色んなものを見て欲しかったという想いが強くなっていく。
死者は蘇らない。起きた事は戻せない。そんなものは叶わぬ願いだと、既に終わったことだと、頭では理解していても、未練たらしく願ってしまう。
「……せめて、ありがとうって言いたかったな」
声が広い屋敷に虚しく響く。
目を開くと、そこには当然誰もいない。暗闇だけが俺の視界を埋め尽くしていた。
「……戻ろう」
このままここにいても何も変わらない。身体を起こし、立ち上がる。ギシギシと音を鳴らしながら、再び歩き始める。
ふと、人の気配がする。それは、寝室からだった。
「……先、輩?」
眠たげな声に、心臓が大きく跳ねた。
前を見ると、薄らと開いたドアの隙間から、桜が顔を覗かせているのが見えた。
「ごめんなさい。誰かの、歩く音が聞こえたので。……驚かせちゃいましたかね」
申し訳なさそうに目を擦りながら、桜は言った。どうやら起こしてしまったらしい。
「こちらこそ、起こしちゃったな。悪い」
「いえ、大丈夫です」
パジャマ姿の桜は、俺の姿を認めると、のそのそと出てきた。
「……先輩、眠れないんですか?」
「ちょっと目が覚めただけさ。喉が渇いたから水を飲んできたんだ」
「そうですか」
桜がクスリと笑う。何か可笑しいところでもあっただろうか。
「ん、どうかしたのか」
「あ、すみません。なんだか、こうして当たり前のように一緒に暮らせているのが嬉しくて。つい、顔が緩んじゃいますね」
照れくさそうな笑顔を浮かべる桜。その言葉を聞いて、こちらも思わず口元が綻ぶ。
ああ、本当にそうだ。こうやって、桜と一緒に居られることが嬉しい。幸せだと思う。その気持ちが溢れてくる。桜といるだけで、心が癒される。桜の何気ない仕草で、笑顔一つで、自分がどれだけ救われているのかを実感する
「……」
幸せを認識すると同時に、どこからともなく罪悪感が込み上げてきた。
脳裏に、あの光景が浮かぶ。真っ白な服を着て、奇跡を見せてあげると言ったイリヤ。弟を守らなくっちゃと言い、俺にその後を譲ってくれたイリヤの姿。
必死に手を伸ばしていかないで欲しいと願った。だが、俺はあの時、イリヤに生きていたいかと問われ──
「──先輩?」
「え……」
いつの間にか、桜の顔が目の前にあった。
「……ぼんやりしてましたけど、何かありました?」
「い、いや、何でも無い」
「……本当ですか? 先輩、何か隠し事してませんか?」
桜はじっと、こちらを見つめる。
その表情は真剣そのもので、瞳には心配の色が滲んでいる。心から俺の身を案じているのだろう。
好きな人が俺のことを気にかけてくれている。ただそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
「……隠し事は無いよ。それは誓って言える。ちょっと、考え事をしてたんだ」
「考え事、ですか?」
桜は、続きを催促するように首を傾げる。
正直言って、あまり桜に打ち明けたくはない。この罪悪感の様なものは、時間が解決してくれるもので、そもそも罪悪感を感じること自体がイリヤへの侮辱に思えたからだ。
だが、俺のことを心から案じているかのような視線を向ける桜を見れば、黙っていることは躊躇われた。
「……イリヤのことを、考えてたんだ」
「イリヤちゃんのこと、ですか?」
「ああ。イリヤがここに居たら、この屋敷で楽しく暮らせてたかなって」
「……」
桜は何も言わない。ただ静かに俺を見つめている。その沈黙が居たたまれなくて、俺は言葉を重ねるしかなかった。
「……俺は、あの時イリヤに生きていたいかと聞かれて、生きていたいって答えた。だからイリヤに助けられて、今もこうしていられる」
そう、それは事実だ。
あの時、生きていたいと心の底から願っていた。全てのことから桜を守ると約束をした以上、俺は勝手に消えていい命じゃないと思った。そして、何より桜と一緒に生きていたいと思った。
「でも……」
それと同時に、イリヤの問いに頷いたら、生きていたいと口にしたなら、イリヤが消えてしまうとも判っていた。
それでも、生きていたいと願った。桜と一緒に生きていたいと望んだ。
もしも、俺が躊躇わず最後の投影をしていたのなら、イリヤは今もこうして生きていたのではないか。死ぬのは、死を覚悟したうえでアーチャーの左腕を使った俺だったはずなのに。俺は、俺が本来背負うべきであった責任を、イリヤに押し付けてしまった。その事実に対しての自責の念が、どうしても拭えなかった。
「先輩」
桜の声が耳朶を打つ。
月明かりもない闇の中、けれど確かに桜は微笑んだ。
「イリヤちゃんは、どんな顔をしてたんですか?」
「え?」
唐突な質問に、一瞬脳がフリーズする。
「それは……」
思い出す。イリヤの最後を。
光に包まれて、遠くに行くイリヤに向けて、必死に手を伸ばした。それでも、最後にイリヤは自分をお姉ちゃんだと言い、そして──
「笑ってた」
そうだ。イリヤは笑っていた。満足そうに、嬉しそうに、俺を安心させるように微笑んでいた。
その笑顔は今も眼に焼き付いている。あの時の光景を忘れることは、きっと永遠に無いだろう。
「じゃあ、先輩はイリヤちゃんの気持ちに応えてあげたんですね」
桜は一歩距離を詰めると、俺の手を握る。温かな体温が伝わってきた。
「気持ちに応えた……俺が?」
「はい。イリヤちゃんは、きっと先輩に生きていて欲しかったんだと思います。……たとえ、それで自分が命を落とすことになっても」
「…………」
「先輩も、自分の命に替えても好きな人に生きていてほしいって気持ちは、よく分かるんじゃないですか?」
桜の握る手が強くなる。
桜の言葉を、否定することはできなかった。
「そうだな……分かるよ」
きっと、あの時俺とイリヤは同じ気持ちだった。ただ大切な人に生きていてほしいという願望を抱いていただけだったんだ。
そして、最後にそれを見せたのはイリヤで、俺は見届けることしかできなかった。それが今の結果だというのなら、俺はそれを受け入れなければならないだろう。
「……私は、多くのものを奪って、それでも生きています。それは、先輩が多くのものを裏切っても、それでも私を選んでくれたから。先輩が、手を伸ばしてくれたから。助けに来てくれたから。真正面から叱ってくれたから」
桜は目を落とす。その瞳には、深い悲しみと自責の念が見て取れた。
「私にできることは少ないけど、せめて胸を張って生き続けることが、先輩への恩返しだと思うんです」
桜はそう言って、俺を真っ直ぐ見上げた。
「先輩が、自分を許せないのなら、イリヤちゃんの代わりに何度でも私が先輩を許します。先輩が、自分を愛せないのなら、その分私が先輩を愛します。……だから、どうかもう自分を責めないでください。先輩が苦しむのは、私も辛いです」
「────」
言葉が出ない。胸の奥から熱いものが込み上げてきて、視界を歪ませる。
桜は、ただ真っ直ぐに俺を見つめている。その視線が痛くて、だけどとても心地よくて、ずっと見ていたくなる。
「……ありがとう、桜」
気がついた時には、桜のことを抱きしめていた。
桜は一瞬驚いたような素振りを見せたが、すぐに腕の中で受け入れてくれた。
「……あったかいですね」
桜はそう言って、背中に手を回してきた。お互いの体温を共有しあう。小さな身体だった。強く抱けば壊れてしまいそうなくらいに華奢で繊細な身体。それでも、確かな温かさを感じることができた。
「……しばらく、このままでいいか」
「はい」
瞳から、一筋の雫が流れ落ちた。一度堰を切ったら、もう止まらなかった。次々と流れ落ちるそれを拭うこともせず、俺はしばらくの間、桜のことを強く抱き締め続けた。
桜は涙の理由は問わず、静かに俺の頭を撫で続けてくれた。その優しさが、今はありがたかった。
「……ずっと、一緒にいてくれ。これからも、この先も、桜が嫌になるまでずっと」
「はい。嫌になっても離れませんから、覚悟しててくださいね」
桜の声も微かに震えている。もしかしたら、桜も泣いているのかもしれない。でも、それは指摘しないことにした。今だけは、お互いのぬくもりで心を温めあいたかったから。
月のない夜。腕の中のお互いの存在だけが、確かな現実として其処にある。この温もりを、愛しさを失いたくないと強く思った。
そう思えたのは、イリヤが助けてくれたから。だから、今はイリヤへの最大限の感謝をここに誓う。それが、イリヤにできる唯一の手向けだと信じて。
イリヤのいない人生を送るのは辛くて辛くて堪らないけど、あの笑顔に恥じない人間であれるように、未来に向けて、生きていこう。
──ありがとう。俺を、助けてくれて。
涙と共に心の中で呟いたその言葉は、静かな夜に消えていった。