欠伸を噛み殺しながら、腕時計を見る。
飛行機の発着時刻まで、まだ余裕はありそうだ。夜の空港内は人がまばらで、ひやりとした空気が漂っていた。
手近な場所に椅子を見つけ、そこに座る。日中歩き通しで、パンパンにむくんだ足を揉んだ。飛行機に乗ったら、睡魔に負けてしまうかもなと、どこか他人事の様に思った。
ふと、窓の外を見る。都市圏から離れた立地の空港なだけあり、街灯も少なく、辺りは真っ暗だ。窓には疲れ切った自分の顔がぼんやりと映し出されていて、少し驚いた。
「……ひどい顔だな」
ぽつりと呟く。
確かにこの数週間、めまぐるしい日々だった。小さな事件から始まり、終わってみれば大きな事件になっていった。持てる力の全てを尽くして、事態の解決に当たったつもりだった。
それでも、やりきったという実感はない。一抹の虚しさが、胸を微かに傷つける。時間の経過で次第に深くなってゆく傷に、心まで削り取られていくような心地がした。
現実は分かっている。あの火災の日から嫌というほど。誰も彼も救うことなどできはしない。それでも、綺麗事を現実にする為に挑み続けると決めた。だから、この痛みは、俺が受け入れるべきことだ。この痛みをバネに、次は次こそはと、歩き続けなければならない。
俺の好きだったアイツがそうであった様に。
『シロウ────貴方を、愛している」
セイバーの、最後の言葉が蘇る。
彼女は、まっすぐな瞳で、後悔のない声で、そんな言葉を口にしていた。
「今日も綺麗だ」
空を見上げると、今宵も星は夜の闇を照らすように瞬いていた。
どれだけ暗くても、雲に覆われようと、星は瞬き続ける。その姿は、ため息が出るほどに美しい。俺は、その美しさを道標として歩き続けていく、そう決めたのだ。
だけど、上ばかりに目を向けていたら、足元が覚束ない。何度も何度も転げ回って、いつの間にか全身は傷だらけになっていく。だから、視線を下げて、地に足をつけて、現実に目を向ける必要がある。
しかし、下ばかり向いて歩いていたら、今度はいつの間にか星の輝きを見失ってしまう。どこかで妥協して、理想と現実を擦り合わせながら生きていくのが賢い生き方なのだろう。もっとも、不器用な俺は、そんな要領良く生きることができない。
結果、俺の身体はボロボロで、血と泥に塗れた俺の姿は、星の輝きには遠く及ばない。星を目指して歩いているはずが、何もかもを取り零し、どっちつかずの中途半端な存在となっている。
今の俺を見て、セイバーがどんな反応を取るのか。そんなことを考えて、それはあり得ない妄想だとかぶりを振って、それでも少しだけ怖く感じた
「……疲れているな」
肉体面の疲弊が、精神面の疲弊に繋がっているのだろう。今日はやけに弱気になってしまう。こういう時は、ふかふかの布団で寝て、美味しいご飯でも食べるに限るが、海外ではそのどちらも期待できない。
次の仕事が終わったら、一度冬木に戻るのもいいかもしれない。衛宮邸に戻れば、藤ねえの騒がしい声で、きっと疲れも吹き飛ぶに違いない。
「まぁその前に、目の前のことに全力で当たらないと、だな」
自分の顔をパチン、と両手で叩いて気合を入れた。
「隣、空いてるかしら」
と、背後から聞こえるはずのない声が聞こえた。よく通る、耳心地の良い声が。どれだけ騒がしい空間だろうと、その声の主が誰なのか聞き間違えるはずがない。
「……遠坂」
「こんばんは。久しぶりね、衛宮君」
振り返るとそこには、赤いコートに身を包んだ、遠坂凛の姿があった。
ピンと伸びた背筋に、気品を感じさせる佇まい。そして、俺を見下ろす自信に満ちた瞳。見紛えるはずもない。俺の知っている、遠坂凛その人だった。
「なんだって、ここに」
「ここは空港よ。理由なんて、飛行機に乗り来た以外にあるかしら?」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
言い返そうとしたところで、遠坂の方を見れば、玩具で遊ぶ少女のように、遠坂は上機嫌な笑みを浮かべている。
頬をかく。どうやら、俺は揶揄われているらしい。それが妙に悔しくて、遠坂の笑みからそっと目を逸らした。
「それで、隣座っても良いかしら?」
「……好きにしてくれ」
「ええ。好きにさせてもらうわ」
俺の隣、椅子が二脚並んだ空席に、遠坂はそっと腰を下ろす。ふわりと、香水の匂いが鼻を掠めた。
「衛宮君が、また無茶やってるって聞いてね。ちょうど近くに調べ事があって、それならついでに衛宮君の顔も見ておこうと思ったの」
「そのために、わざわざ来てくれたのか……」
「現地の人から、もうひと段落したから、彼は空港に向かったよって聞いた時は、肝が冷えたけどね」
無駄足にならなくて良かったわと、遠坂は微笑む。
「……現地の人達、感謝してたわよ。まるでヒーローみたいだって。ありがとうって伝えて欲しいって頼まれたわ」
「……そっか。そう言ってくれるのは、ありがたいな」
心にじんわりと、暖かいものがこみ上げる。そう言ってもらえるのは、素直に嬉しい。何かを為すことはできたのかもしれないと、少しだけ自信が持てた。
しかし──
「その割には浮かない顔ね」
「疲れてるからな」
「……相変わらず、誤魔化すのが下手ね。まあ、理由の一つではあるんだろうけど」
遠坂はため息混じりに、そう告げる。
別に、誤魔化そうとしてるつもりはなかったが、こうして遠坂の指摘にバツが悪くなってしまうということは、やっぱり心のどこかで後ろめたいことがあるということなのだろう。
「根掘り葉掘り、何があったのか聞き出すつもりは毛頭ないわ。ただね、そうやって一人で思い詰めたところで、得られるものなんて何もないわよ」
「そんなことは、分かってる。……いや、分かっちゃいるつもりだったんだが」
「分かってたらそんな暗い顔してないでしょ。ただでさえ、仏頂面だってのに」
ぐうの音も出ない。実際、窓に映る俺の顔はひどい顔をしていた。思わずペタペタと自分の顔を触っていると、遠坂は呆れたように笑った。
「まったく……ちょっとくらい気楽に生きなさいよね。本当に、難儀な性格してるんだから」
やれやれと肩を竦める遠坂。
やがて、大きく一つ息を吐くと、こちらの目をまっすぐ見つめる。
「ここには私しかいないわ。勇気づける相手も、弱みを見せちゃいけない相手もいない。言える範囲で良い。胸につっかえてるものは全て吐き出しなさい」
「遠坂……」
「ま、士郎が聖杯戦争で、散々貸しを作った相手にも話すことなんて何も無いってことなら、私も無理には聞かないけどね」
「……痛いところ突くな」
「当たり前でしょ。貸しってのはこうやって使うの。返済なんてさせずに、永遠に弱味につけ込んでやるんだから」
遠坂はふん、と鼻を鳴らして笑う。その笑顔を見て、遠坂には永遠に敵わないんだろうなと感じる。
だけど、遠坂のその不器用な優しさが、今の俺にとっては何よりありがたかった。自然と口元が緩んでしまう。魔術師としての冷酷さと、人としての暖かさ、両方を併せ持つ。彼女なら、その2つを損ねることなく、最後まで鮮やかに強かに走り続けるんだろうなと思い、眩しかった。
「それじゃ、話に付き合ってもらって良いか」
「ええ。なんなりと」
遠坂は穏やかに微笑む。
若干の気恥ずかしさを感じつつも、胸につっかえていたものを少しずつ吐き出していく。
海外で1人になってからのこと。守れたもの、守れなかったもの。自分の無力さに打ちひしがれ、それでも何かを為そうと足掻いていたこと。
話しながら、とりとめのない、纏まりのない言葉の羅列だということを自覚する。それでも、遠坂は相槌を打ちながら、真剣に聞いてくれた。
遠坂に聞いてもらって、胸に溜まった泥が流れていく気がした。そうして、胸に溜まったものが少しずつ減って、胸の奥にとりわけ深く刺さったものが見えてきた。
「……俺は、あの日から、少しは成長できてるのかな」
ぽつりと、そんな弱音が口をついて出た。
あの日。セイバーと別れた日。いやもっと前。それこそ、初めてセイバーと出会った日。
その時から今まで、ずっと俺は何も変わっていないのでは無いかと、そんな焦燥感に似た不安が常に胸にあった。
理想ばかりが先行して、中身が伴わない。歩けば歩くほど、理想までの距離を実感していく。それでも、足を動かさずにはいられない。立ち止まったら、そのまま地面に蹲ってしまいそうだったから。
だから、不安から目を背けるように、ただひたすらに歩いた。どれだけ傷を負い、血を流し続けても、脇目も振らずに歩き続けた。歩くことしか、できなかった。
その姿は、あの日から何も変わっていないように思う。剣の腕も、魔術の腕も、身体の強さも、必死に鍛錬を積み、多少はマシになった。それでも、中身の未熟さは変わらない。
このままでは、俺は一生、あの日出会った星の輝きに届かないのでは無いかと、そう思わずにはいられなかった。
「そうね……士郎の言うとおり、成長、というより変化はしてないとは思うわ」
遠坂は、当たり前の事実を当たり前に告げるように、淡々と口にする。
「……だよな」
自分でも分かっていたことだったが、第三者にあらためて指摘されると、胸にズキリと来るものがある。それが、遠坂相手だったら尚更であった。
そんな感情が、言葉尻から滲んでいたのだろう。遠坂は呆れたように眉尻を下げた。
「勘違いしないで。悪い意味で言ってるんじゃ無いわよ」
遠坂は、小さくため息をつくと、真剣な眼差しを俺に向ける。
「士郎はずっと、あの日のままだと思うわ。聖杯戦争が終わってから今日までも。ううん、もっと前ね。聖杯戦争が始まる前から、貴方はずっと変わらないままでいる」
「それは、成長してないってことじゃない……のか?」
「そうかもしれない。けどね、人は誰だって色々な経験積んで、折り合いをつけて変わっていく。そんな中で、士郎は変わらないままでいる。それは、どんな経験を積んでも、何度も苦渋を舐めさせられても、曲げられない芯を、貴方は持っているっていうことなんじゃないの?」
曲げられない芯。
胸に手をやり、その言葉を噛み締める。自分にとって、それが何なのか、あまりピンとは来ない。それでも、遠坂の言葉は、胸にストンと収まった。
「変わらないままでいることを愚かだって言う人もいるかもしれない。だけど、私は愚かでも、その生き方は尊いものだって思う。それがなければ、辿り着けない場所だってあるし、進めない道もあるでしょ?」
「遠坂……」
「だから、貴方はそのままでいればいい。貴方が後悔しないような道を選べばいいのよ。悩むなんて士郎らしくないわ」
「……そうだな」
胸のつっかえが、スッと消えた気がした。
問題は何も変わっていない。星の輝きには依然として遠いままだし、俺が星の輝きに程遠い存在であることに違いない。
それでも、変わらないままで良い。俺は、俺の心の席に1番大事なものを座らせたまま、歩き続ける。愚かで無様でも、そうあり続ける。それが、俺の生き方なのだから。
「ありがとう、遠坂」
「別にお礼なんていらないわよ。私はただ率直な意見を言っただけ。その意見をプラスに変えれたのなら、それは士郎の力よ」
「それでもだ。遠坂のおかげで、助かった」
「……そう。なら一つ貸しにしといてあげる。暴利でつけておくから、早く返しなさいよね」
「……お手柔らかに頼む」
俺の言葉に、遠坂は満足げに微笑んだ。
その笑顔に釣られて、俺も口元を綻ばせる。
「……そろそろ時間だな」
腕時計を見れば、飛行機の搭乗時間まで後10分程だった。
「行くの?」
「ああ。またな、遠坂」
椅子から立ち上がり、遠坂に別れを告げる。身体に疲労感はある。だが、気力は満ちていた。
「ねえ、士郎」
そんな俺を、遠坂が呼び止める。
振り返ると、遠坂は不敵な笑みを浮かべている。その笑顔は、何か悪巧みをしているようにも見えた。
「……なんだよ、その顔」
「セイバーは、今の士郎も好きだと思うわよ。だから、自信を持ってね」
「────」
「忘れないでね。セイバーは、士郎が完璧な人だから好きになったんじゃない。聖杯戦争の時の、未熟な貴方を好きになったの」
言葉を失う。何も言えない。
ただ、胸が熱く、鼓動を早くしていた。
「士郎がセイバーを好きで居続ける限り、道を違えることは無いわ。──だから、士郎は、そのままの貴方でいなさい」
それだけ言うと、遠坂は言いたいことは済んだのか立ち上がる。
「それじゃあね。あと、年明けに冬木で同窓会があるらしいから、何とか予定空けて来なさいよね」
遠坂は、小さく手を振ると振り返ることなく、歩いていく。
遠くなっていく背中に、何も言えず、見届けることしかできなかった。
『シロウ────貴方を、愛している」
セイバーの、最後の言葉が再度蘇る。
彼女は、まっすぐな瞳で、後悔のない声で、そんな言葉を口にしていた。
だから、俺はその言葉に見合うだけの人間にならなければと、そう思った。
「全部、お見通しって訳か」
つくづく敵わないと思う。
次に会った時は、ちゃんとお礼を言わないとなと思った。
そのためにも、今は目の前のことに集中する。一つ息を吐き、気合いを入れ直した。
ゆっくりと、一歩ずつ地面を蹴って歩く。目的地は遠く、どこにあるかも分からない。生涯をかけて歩き続けたとて、辿り着けるかも分からない。それでも、立ち止まれば永遠に届かない事だけはたしかだ。
どれだけ辛いことがあっても、星は輝き続けている。暗く舗装もされていない道を照らし続ける。ならば、歩いていける。星の輝きに向けて、あまりにも小さい一歩を積み重ねる。その果てに辿り着けなかったとしても、その道程は間違いではないのだから。