時系列は士郎が桜に鍵を渡すまでの間で士郎の怪我が治った頃をイメージしていますが、その頃の具体的な月日が分からなかったので士郎が高校一年生、桜が中学三年生の年の九月の設定です。時系列などで矛盾などがあればご指摘ください。
ガラガラと音を立てて、玄関の引き戸を横に引く。中に入れば、9月らしくむわっとした空気が顔を撫でた。
不快感に顔をしかめ、腰を落とし靴を脱ぐ。少しだけ圧迫感から解放され、ほっと息をついた。
「……藤ねえは、今日は寄らないって言ってたな」
ポツリと呟いた筈の独り言がやけに大きく聞こえた。そんな気がしてしまうのは、この屋敷が広過ぎるからだろうか。
僅かに寂寥感が胸をよぎるが、気のせいだと断ち切るように、玄関の鍵をガシャリと閉めた。
屋敷の中に入ってすぐの居間に荷物だけ置いて、台所に直行する。冷蔵庫からよく冷えた麦茶が入ったボトルを取り出し、コップに注ぐ。それを一気に飲み干して、ようやく一息ついた。
さて、これからどうしようか。弓道部は退部したので、当然部活は無い。そのうえ、バイトも休みときている。試験まではまだ期間があるから、勉強という気分にもなれない。こんなことなら、生徒会で一成の手伝いでもすれば良かったかなと思ったが、今日は会議があるとかどうとか言っていた。部外者があまり聞いていいことではないだろう。
家での用事も、掃除は先週の日曜にしたばかりだ。筋トレは今朝やったし、修理中の備品も無い。魔術の鍛錬もできれば夜中にやりたいと思っている。
有体に言えば、暇だった。やることが特に思い浮かばない。
「いつもは、こんなに暇だったかな」
これまで、部活もバイトも休みの日はそう無いが、別に一度も無かった訳ではない。直近でも何回かあったと思う。だけど、その時は今日ほど暇ではなかった気がした。
「ああ、そうか」
そこまで思考し、考えが巡り、無意識に声を零す。
今日時間が空いているのは、買い物をしていないからか。大喰らいの藤ねえを満足させる為に頭を悩ませながら買い物をしていたら、時間なんてあっという間に過ぎて、夕食を作る時間になっていた。
「……そっか」
もう一度呟いた声は、さっきよりも少し湿り気を帯びていた気がする。
別に一人が苦手な訳じゃない。むしろ、昔はそれが当たり前だった。切嗣は海外を飛び回って、数ヶ月家を空けることなんてザラにあったし、藤ねえも頻繁に遊びに来てくれたけど毎日来ていたわけじゃなかった。
だけどやっぱり、どこか物足りない気がしているのだろう。だからこんなにも暇で、退屈で、ほんの少しだけ寂しいのだ。
「子供みたいだな」
自嘲するように笑みが溢れる。普段は、藤ねえに子供だなんだと言っておきながら、自分も十分子供だった。
「……夕飯でも作るか」
少し早いが、食べるのが自分だけなら特に気にする必要はない。腹に入るのが早かろうが遅かろうが関係ない。
去年から残っているそうめんが無開封で眠っていたので、消化するのに丁度いい。期限も少し危なかったから尚更だ。この機会に全部食べてしまおう。具材は特に用意しない。今日はそうめんを茹でるだけで楽をさせてもらうことにしよう。
棚から鍋を取り出し、たっぷりと水を張ってコンロの上に置く。そのまま火を付けて、沸騰するのを待つ。鍋の水が沸騰したら麺を入れて、箸で解しながら茹でる。
茹でている間、つゆを作る。作るとは言っても、市販の麺つゆを水で割るだけだが。
「そろそろか」
麺を一本箸で取り出し、硬さを確かめる。少し硬めだろうか。でも、このぐらいがちょうど良いかもしれない。もう一本取り出して同じように確認すると、さっきよりも少しだけ柔らかめだった。まあ大丈夫だろうと判断して、そのままザルにあける。茹で上がった麺を流水で洗ってぬめりを取りながら水気を切ると、器に盛り付けた。
薬味も何も無いそうめんは殺風景だが、暑い日に食べるそうめんはそれだけで美味しい筈だ。別に手を抜いているわけではない。
洗い物を水につけておいて、そうめんと麺つゆを両手にテーブルに乗せる。
「いただきます」
誰に言うでもなく、手を合わせてそう呟く。箸でそうめんを掴み、麺つゆにつける。そのまま口に運ぶと、つるりと喉を通っていった。やっぱり美味いな、と内心で感想を零す。
麺を啜りながら、そういえば切嗣が生きていた頃は夏になるとよく食べていたなと思い出した。簡単に作れるからというのもあるだろうが、それでも結構な頻度で食べていたと思う。
『士郎、素麺は好きかい?なら良かった』
なんて、吹きこぼしして、火傷をしながらも、黙々と食べる俺を見て笑顔を浮かべていた切嗣。
切嗣があまりにも家事炊事が覚束ないものだから、これは自分がちゃんとやらないとダメだって、子供心に思ったんだっけ。もっとも、そんな自分も最初は失敗だらけで、何度も食材をダメにした。
それでも、切嗣はいつも俺の拙い料理をよくやったねって褒めてくれて、美味しそうに食べてくれた。常に優しく微笑み、時にはオロオロとしながら見守ってくれた。
お互いに、不格好だった。
「…………」
懐かしい。思わず口元が緩んだ。
もう何年も前の話だ。だというのに、今でも鮮明に思い出せる。特に劇的な出来事でも、印象に残るような出来事でもない。何気ない当たり前のありふれた日常の一幕。そんな日々が妙に記憶に残っていた。
それは、きっと。
「大切だったんだろうな」
言葉にして実感する。俺は切嗣との日々が好きだった。だからこんなにも鮮明に、色褪せることなく覚えているのだろう。
料理は今より下手だったけれど、切嗣と食べる料理はいつもより美味しく感じた。優しく微笑む切嗣を見ていたらこちらまで優しい気持ちになれた。誰かと囲む食卓は、それだけで堪らなく嬉しいものなのだ。
「……少し、柔らかかったかな」
不意に発した言葉は虚しく響き、そのまま静寂に溶け込む。喋る相手が居ないから、食べるのに集中できて、その分食べるペースが早い。山盛りになっていた皿の中身は、いつの間にやら半分程になっていた。
どうしてか居た堪れなくなり、リモコンに手を伸ばしてテレビの電源を入れる。夕方のニュースが画面に映った。
「…………」
結局、その後はニュースの内容も頭に入らず、ただ黙々とそうめんを啜っただけだった。
「ご馳走様でした」
最後の一本まで食べ終えて、手を合わせる。量は多かったので腹は膨れた。もっとバランス良く栄養を摂らないといけないのだろうが、今日くらいは許してもらおう。
食器を片付けてシンクに置く。洗剤をつけて泡立たせて軽く水で流して布巾で拭いたらすぐに片付けは終わった。
「さて、どうするかな」
外を見れば、空は夕焼けに染まっていた。いつの間にか時間はそれなりに経っていたようだ。今朝したが、筋トレでもしようかと思ったところで、ピンポンと来客を告げるチャイムが鳴った。
「……誰だろう」
藤ねえは来ないはずだし、セールスか何かだろうか。それとも──
「…………」
そこまで考えたところで、脳裏に1人の少女の姿が頭をよぎる。
自然と玄関に進む足が速くなった。逸る気持ちを抑えて、平静を装い、玄関の戸を開ける。
すると、その先には予想した通りの来訪者が居た。人に気を遣い過ぎる性格故か、反応が無いと判断したのか、踵を返して立ち去ろうとしているところだった。
「──桜」
その名を呼ぶ。もうすっかり呼び慣れてしまった。
華奢な背中がぴくりと跳ねて、恐る恐るこちらを振り向いた。綺麗な瞳が俺を捉えると、桜は顔を綻ばせた。
「先輩」
その笑顔がとても眩しくて、思わず息を呑んでしまう。しかしすぐに気を取り直して口を開いた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
別に拒絶の意味で言ったわけじゃないのだが、桜は一瞬申し訳なさそうな表情を浮かべてから言葉を続けた。
「いえ、その……寄るつもりは無かったんですが、商店街に行ったらたくさん貰っちゃいまして」
そう言い、桜は両手に抱えていた紙袋を胸の高さまで掲げた。袋からは長ネギや大根、キャベツといった野菜が顔を出している。
「本当は、うちの分だけ買う予定だったんですけど、行く先々でおまけだって言われて貰ってたら、こんな量に。……それで良ければ先輩にお裾分けをと思いまして」
遠慮がちに言う桜に、思わず苦笑してしまう。おそらく、人の良い桜のことだから厚意を無碍にできず、受け取れるだけ受け取ってしまったのだろう。桜らしいといえば、そうなのだが。
それに気を良くして店員たちがあれもこれもと桜に渡してしまったというのも、想像に難くない。もっとも、運ぶ手間と調理する手間を考えれば、少しは遠慮してほしかったとも思うが。今度、買い物に行く時にそれとなく注意しておこう。
「そういうことなら、有り難く分けてもらおうかな。とりあえず重そうだし、中に入るか?」
「あ、そうですね。それじゃあお言葉に甘えて……」
桜はそう言って遠慮がちに家に入る。桜が両手に抱えている袋を預かると、ずしりと腕に重みがかかった。やはり結構重いな。これは商店街の人達にはちゃんと言っておかないと思っていると、桜は焦ったように声を上げた。
「あ、先輩!それくらい私が運びますから!」
慌てた様子で俺の手から袋を奪おうとする桜をやんわりと制す。
「いいってこれくらい」
「でも……」
少し困ったように眉を下げる桜を見て、思わず笑みがこぼれてしまう。知り合った頃に比べたら感情表現もだいぶ豊かにはなったが、何かと遠慮がちなのは相変わらずだ。
両手に荷物を抱えたま靴を脱ぎ、そのまま廊下を歩く。ややしてから、お邪魔しますと小さな声が後方から聞こえて、自分より小さな足音がトタトタと付いてくる。それがなぜか妙に嬉しくて、つい歩くペースが速くなってしまった。
居間について、荷物をキッチンに乗せる。袋の中身を見れば、野菜の他にも肉や魚なども入っていた。
「それで、どれを貰っていいんだ?」
「えっと、玉ねぎと里芋と……ダブってるものは受け取って貰っても良いですか? あと、筍は下ごしらえがよく分からないので、もしよければ……」
「もちろん。藤ねえが好きだから喜ぶよ」
桜から食材を受け取り、そのまま冷蔵庫に入れる。中々の量だった。これで買い物に行く手間が省けた。
「こんなに貰っていいのか?」
「はい。私だけで全部を調理しようと思ったら、持て余して腐らせるかも知れないですし、冷蔵庫もパンパンになっちゃいますので……」
「そうか……じゃあ遠慮なく。ありがとな、桜」
「いえ、そんな!私の方こそいつもお世話になってますから!」
ふるふると首を横に振って謙遜する桜に笑みが溢れる。心にじんわりと暖かなものが込み上げてきた。
「……もし良かったら、晩御飯食べていかないか?」
気づけば、そんな言葉を発していた。
自分の夕飯は食べ終えたというのに。桜だって来る予定も無かったのだから、いきなりそんなことを言われても困るだろう。
訂正しようと、口を開きかけたところで、桜がきょとんとした顔でこちらを見ていることに気づいた。
「あの、桜?」
「……え?あ、はい!えーと……」
そこまで言うと、桜は俯くように視線を逸らした。前髪で表情が見えづらくなり、何を考えているか読み取れない。そのまま数秒ほど沈黙が続いたあと、桜はおずおずと口を開いた。
「その……いいんですか……?」
「桜さえ良ければもちろん」
そう答えると、桜は少し驚いたような顔をした後──嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。それじゃあお呼ばれしても良いですか? あ、そうだ、それなら何かお手伝いさせて下さい!」
「いや、桜は……」
お客さんだしと言いかけて、その言葉を飲み込む。何となく、そうやって壁を作るのは、嫌だった。
「そうだな……なら、一緒に作るか?」
「はい!頑張ります!」
ぐっと両手を胸の前で握り込み気合を入れる桜を見て、自然と笑みが浮かぶ。ああ、やっぱり──
「……うん、良かった」
「先輩、何か言いました?」
不思議そうに首を傾げる桜に、何でもないと返す。
冷蔵庫を見る。桜のおかげで、沢山詰まった中身からは、無数に夕飯の献立が浮かんでは消えていく。
「桜。今日の夕飯は、和食でいいか?」
「はい、もちろんです!」
元気よく答える桜を見て、よしと頷く。早速準備に取り掛かるとしよう。
今日の夕食は、きっと美味しくなるだろう。そんな確信にも似た予感を抱きながら、俺はエプロンを被り腰の紐を後ろ手に結んだ。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせて、二人揃って同じ言葉を口にする。テーブルの上には、ふっくらと炊き上がった白米に椎茸と玉ねぎの味噌汁、ほうれん草と人参のおひたし、キュウリの塩昆布和え、鰤の照り焼きが並んでいる。
一汁三菜の揃った食卓は鮮やかだが、時間がかかり過ぎてしまった。桜の手伝いもあったが、外を見ればすっかり暗い。食べ終わったらちゃんと送っていかなければ。
心の中で反省していると、桜は早速鰤の照り焼きに箸を伸ばしていた。綺麗に鰤に切り込みを入れて、一口サイズに切り分けると、そのまま口へ運んでいく。もぐもぐと咀嚼して飲み込むと顔を綻ばせた。
「おいしい……」
幸せそうに微笑む桜を見て、ほっと一息をつく。続いて、汁の入ったお椀に手を伸ばすと、ずずっと汁を啜った。
お椀をテーブルに置くとこちらの視線に気づいたのか、桜は気恥ずかしげに頬を染める。
「……先輩、その、そうやって見られると、ちょっと食べにくいです」
「あ、ああ、悪い」
謝って食事を再開する。それでも桜のことが気になってちらりと見れば、今度はおひたしをご飯の上に乗せて、そのまま頬張っていた。もぐもぐと口を動かして飲み込むと、ふにゃりと頬を緩ませる。
「先輩、このおひたしもすごくおいしいです」
「そうか、良かった」
「先輩は食べないんですか? さっきから全然食べてないですけど」
「いや、ちゃんと食べてるぞ?ただちょっと……」
そこで一旦言葉を切ってから、改めて口を開く。
「……桜が、そうやって美味そうに食べてくれるのが嬉しくてな」
素直な気持ちを吐露すると、桜はピタリと動きを止めた。それからまた頬を赤く染めると箸を置き、気を取り直すようにこほんと咳払いをした。
「……美味しいな」
おひたしを一口食べる。30分かそこらしか浸していないので明日以降はもっと味が染み込んで美味しくなるだろう。汁も椎茸の香りと玉ねぎの甘さが合わさって、味わい深い。
空腹は最高のスパイスだと言うが、先ほどそうめんを食べた為、空腹には程遠い。それでも、美味しいと感じる。1人で食べていた時よりもよっぽど。
それは何故なのか、考えるまでもない。
「ありがとう、桜」
「……えっと、何がですか?」
きょとんと首を傾げる桜。心の中で呟いたつもりだったが、口に出てしまっていたらしい。
妙に恥ずかしくなって、誤魔化すように咳払いをしてから言葉を続ける。
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
「そう言われると気になるんですが……でも先輩がそう言うのならわかりました」
渋々といった様子で引き下がる桜にほっと胸を撫で下ろす。
それからは、お互いに無言で食事を続けた。カチャカチャと食器が立てる音と、味噌汁を啜る音だけが居間に響く。心地の良い静寂だった。
「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
手を合わせて食事を終える。桜は食器を流しに持って行き、そのまま腕まくりをして洗い物をしようとしたところで引き止める。
「水に漬けといてくれればいいから。俺がやっとく」
「え?でも……」
「もう遅いし、これ以上付き合わせたら悪い。家の人も心配しているだろうから、このまま送っていくよ」
時計を見ると、もう20時近い。これ以上遅くなっては心配をかけてしまうだろう。そう思って言ったのだが、桜はむぅと不満そうに頰を膨らませた。
「確かにそうですけど……でも、後片付けまでが料理ですから。最後までやらせて下さい」
「気持ちだけ貰っておく。……その代わりって言ったら現金だけど、一つお願いがあるんだが」
「なんですか?」
首を傾げる桜に、少し照れくさい気持ちになりながら言葉を続ける。
「これからも桜の都合が良い時だけで良いから……その、今日の夕食みたいな感じで、また食べに来てくれないか?俺1人だとどうにも張り合いが無くて」
もちろん無理強いはしないし、嫌なら断ってくれていいからと慌てて付け足す。その言葉に桜はぽかんとした顔をする。それからくすりと笑みをこぼした。
「……はい!私なんかで良かったら!」
そう言って笑う桜を見てほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとう」
料理は別に好きという訳ではないはずだった。だけど、美味しそうに食べてくれる誰かが居れば、料理ができる自分がほんの少しだけ好きになれるような気がした。
幼少期は切嗣と藤ねえが居て、今は藤ねえと桜がいる。自分は昔から恵まれていたんだなと今更ながらに思う。
「……こちらこそ、です」
桜がポツリと呟く。何故か照れ臭くなり、誤魔化すように咳払いをした。
2人並んで玄関を出て、すっかり暗くなった道を歩いていく。少し前まではこの時間でも明るかったのだが、日が落ちるのも早くなったものだ。季節の移り変わりを感じさせる。
別れと出会い、時が経つことは悪いことばかりではないのだなと、あの夜見た月を思い出しながら思うのだった。