時間は午後4時を回ったころ。ほとんどのウマ娘が施設のどこかでトレーニングを始めているであろう頃、私はトレーナー室群の一角、森村トレーナーが割り当てられたトレーナー室の前へと来ていた。
明かりは点いてるし、おそらく誰かしらは居るんだと思うけど……やっぱ押しかけみたいで気が引けるなぁ。
『誰かいるのかしら?』
向こうから、こちらに気づいたみたいでぱたぱたと足音が部屋の奥から聞こえてくる。引き戸が開けられると、中からこれまた端正な顔立ちのウマ娘が出てきた。
「あなた、知らない顔ね。うちのチームに用かしら?」
「あの、えっと。私中等部1年のスノーラビットって言います。森村トレーナーはいらっしゃいますか?」
「トレーナーならまだ他の子のトレーニングを見ている時間よ。――――スノーラビットと言ったかしら。もしかして、生徒会長さんが言っていた転入生ってあなたの事ね?」
「え、もう連絡来ていたんですか?」
確かにさっき話を通しておこう、とは言っていたけど早い。生徒会の手際の良さが光ってる。
「立ち話もなんだし、入っていきなさいな。お茶くらい出すわよ」
「あ、ありがとうございます」
青いイヤーキャップにサイドアップ。気品溢れる雰囲気で、全身めっちゃ奇麗な人だな。ちょっと見とれながら、そのウマ娘に言われるがままトレーナー室に案内された。ウマ娘さんは私にそこの椅子でも座っててちょうだいと指差したソファーに腰掛ける。
見渡してみると、中はちょっと散らかってるところもあるけど、それなりに整理されていて、作業用デスクの隣にはこのトレーナーが導いてきたウマ娘達の成果がいくつか並んでいた。何故か調理台とか、一人ならここで住めそうなぐらい充実してるけど、普通のトレーナーってこんないい部屋貰えるのかな。
「ちょっと変わってるわよね。うちのトレーナー、帰る時間も惜しいからってここでも生活できるようにしちゃったのよね」
「あ、ここって普通じゃないんですね」
「――――普通じゃないトレーナーは多いけどね」
ため息をつきながら窓のほうを見るウマ娘さん。きっと色々大変なことがあったんだろうな。
「あ、そうだ……お名前聞いても良いですか?」
「私? ごめんなさい、名乗ってなかったわね。私こそが一流のウマ娘、キングヘイローよ!」
おーっほっほっほっ、と高飛車な笑い声を上げるキングヘイローさん。パッと見は悪役令嬢かなって思えるけど、多分この人めっちゃいい人だと思う。ジメッとしたオーラが全然ないし。
あれ? そういえば、トレーニングの時間って言ってたけどキングヘイローさんはどうしてここにいるんだろうか。
「あの、キングヘイローさんはどうしてトレーナー室にいるんですか? さっき、まだ他の人はトレーニング中って言ってましたよね?」
「ああ、それなら私はもう全盛期を過ぎちゃったし、トゥインクル・シリーズは引退してるわ。ドリームトロフィーで走ってはいるけど、後はトレーナーとしての勉強もしているわ。――――さ、出来たわよ」
キングヘイローさんが急須と湯飲みを持ってきてくれて、私の前にひとつ置くとゆっくりをお茶を注いでいく。あ~……とてもいい香り。煎れ立てのお茶ってどうしてこんなにいい匂いがするんだろう。
「熱いから気をつけなさい」
「いただきます」
ふー、と息で少し冷ましてから少しずつ飲んでいく。やっぱ熱いかも……。でもこの程よい苦さが良いんだよね。小さいころは苦手だったけど、年を取るごとにおいしく感じる気がする。コーヒーが飲めるようになっていくのと一緒なのかも。
「――――おいしいです」
「そう、良かった。ちょっと奮発していいのを買った甲斐があったわ」
ふふっ、と笑うキングヘイローさんは優しい顔でこちらを見ていた。うう、顔が良い……。
本当なんなの? なんで顔が良いウマ娘とばかり出会ってしまうのだろうか。私をいけない気持ちにさせないでほしい。
「私の顔に何かついているかしら?」
「あ、いえ、すみません何でもないです」
無意識のうちに見つめていたみたいで、つい謝ってしまう。さて、何を話そうか……思えば、わたしの家のテレビ壊れてからしばらく経ってて今の流行が何も知らないし、何かおもちゃとかで遊んでたわけでもないから、共通の話題が分からない。
どうすればいいか分からず視線を迷わせていると、キングヘイローさんのほうから話を振ってくれた。
「森村トレーナーと、あなたのこと色々意見を交換させてもらったのよ。おそらく、あなたにはもう本格化の兆候があるから今年のうちにデビューしてもらったほうがいいと思うの」
「え?」
「あまり自覚はなかったかしら? 最近お腹の減りが早くなったなとか、いつもより走る速度上がったとか」
「うーん、あまり実感ないですけど……」
「あらそうなの。けれど、一度本格化が来れば一気に色々なことが変わると思うわ。トレーナーの話を鑑みても、あなたは今年デビューしたほうがいいというのが結論よ」
トレーナーの勉強もしているってさっき言っていたから、私が自覚していなくてもそういう話は分かるってことなのかな。私にはそういう知識はないし、うんうんと頷くしかない。
――――そうか、今年デビューなのか。そうすると、キンカメちゃんや
なんとなくだけど、皆物凄く強いと思うし、特にキンカメちゃんはこの世代で一番凄いような気がする。楽しみな反面、こんな人達と戦っていけるのか不安な気持ちも湧いてきた。
「えっと、今年デビューとして……デビュー戦っていつになるのでしょうか」
「――――聞きたい?」
何故か不安そうな顔になるキングヘイローさん。え? なに? 何の問題ですか?
「あの、そんな散歩と思ったら病院に連れてこられた犬みたいな顔をされても……」
「森村トレーナーは、今週末って言ってたわ」
「は?」
今週末? 今日月曜だから……え?
「後5日でトゥインクルシリーズの基本を覚えろってことですか!?」
「大丈夫よ! 私の同期のスペシャルウィークさんも、チーム所属してすぐの開催日で新バ戦出て勝ってるから!」
何故だろう、そのスペシャルウィークさんって人にとても同情の気持ちが湧いてきた。
え、ていうか私のデビュー……早すぎ?
キングヘイローさんからの衝撃的な現実を突きつけられたことに愕然としていると、トレーナー室の扉が思いっきり開けられた。
「はぁっ、はぁっ……すまない! 今日から来るってことを忘れていた!」
「本当よ、トレーナー! せっかくの新人をほったらかして! もう、変なところはいつまでもへっぽこなんだから!」
息を切らせながら入ってきた森村トレーナーに、キングヘイローさんが怒りながら詰め寄る。さっきまでチームの子達を教えていたのだろう、汗だくの姿から容易に想像出来た。
「ほら、早く汗も拭いて」
「ありがとう、キング。君には助けられっぱなしだ」
「その自覚があるならしゃきっとしてちょうだい。一流のこの私のトレーナーなんだから、頼むわよ」
キングヘイローさんに手渡されたハンカチで滴る汗を拭きながら、森村トレーナーは自分の机からいくつかの書類を集めていく。あれは……多分私の契約書類とかそういうのかな?
「さて、今更こんなことを聞くのもアレだけど……うちで良かったのかい? 確かに僕がスカウトしてトレセン学園に入学したわけだけど、別にうちに入らないといけないわけじゃないんだよ?」
森村トレーナーは私の前に座りつつ、至って真面目な顔でそう聞いてくる。多分スカウトの件で自分が恩を売ってるからウチに入れ、みたいなことを強要しないよってことなんだと思う。けど、私の答えはもう決まっている。
「はい、それは生徒会長さんから聞きました。でも、森村トレーナーが私を見つけてくれたのだから、私を一番強く出来るのは森村トレーナーだけだと思っています」
これは紛れもない本心である。後、実は昼休みのクラスメイトとのお喋りの時に森村トレーナーのことは聞いた。
この人、若手としてはかなり有望株らしい。初めて担当したのがキングヘイローさんらしいのだけど、時間が掛かったとはいえG1を
つまり、それだけ人の事を親身になって見てくれるって事。もし私が思った以上に能力がなかったとしても、きっとこの人なら私をそれ以上に行かせてくれるはずだと。きっと森村トレーナーよりも教え方が上手な人はいると思う。でも、森村トレーナーよりも寄り添ってくれる人はいないかもしれないのだから。
「そういうわけで、お世話になります。森村トレーナー」
「そう、か。こちらこそよろしく。スノーラビット。そしてようこそ、チーム
「え、開けるな?」
「……星の名前で、”川の果て”って意味だよ」
呆れられてしまった。小学校でも習ったことないよ。
そして、改めてチームアケルナーに無事加入することが決まった私。森村トレーナーの隣にキングヘイローさんが座り、私の前には契約書類がいくつか提示された。
「それじゃあ、こっちとこっちに名前を書いて。それとこっちが賞金類の振り込み先の記入で……もし口座がなかったら学園が開設を代行してくれるから。それから――――」
森村トレーナーの言われるままに書類にサインをしていく。こう見ると、結構色々作らなきゃいけないんだね。一番気がかりなのはやっぱりお金周りなんだけど、こっちのほうは色々めんどくさそうだった。大方の書類一式にサインや確認を行っていった後、頃合いかなと思って森村トレーナーにメイクデビューについて聞いてみた。
「そうだ、森村トレーナー。さっきキングヘイローさんが今週末にメイクデビューだって言ってたんですけど、本当ですか」
「ああ、急に実戦になってしまうけど。僕の見立てなら、君の実力であれば十分圧勝できると踏んだ」
「ええ? でも、私今までまともに誰かと走ったことないですよ」
「君はもう本格化を迎えているように思う。ちゃんとしたピークはまだまだ先だとは思うけど、多分君の絶対的な能力はだいぶ高いほうだ」
至って真剣にそう言う森村トレーナーに同調するキングヘイローさん。やっぱりプロから見て、私はもう走れる状態らしい。
「あの、駆け引きとかそういうレースに大事なことを覚えたりは……」
「言い方はとても不適切だけど、ジュニア級のレースははっきり言ってかけっこと一緒だよ。単純に速い子から勝ち上がっていく。こんな時期から
笑顔でなんてこと言うんですか、トレーナー。これには思わず私も呆れ顔になってしまう。
「特に君はレースも経験したことがないんだから、まずはレースがどういうものかを身を持って経験したほうがいいと思う。それを元に、レースの展開がどうとか考えたほうがいいだろう」
「習うより慣れろ、よ。まずはレースを楽しんでみなさいな」
キングヘイローさんもうんうん、と頷く。どうやら私にはとりあえずレースに出る以外の選択肢はないようだ。と、なると気にするべきはどんなレースに出ることになるかだ。
「ちなみに、私の出るレースってどんなのですか?」
「この時期は長くてもまだマイルくらいしかないし、いきなり芝を走るのは酷だから、阪神レース場・ダートの1200mでデビューしてもらうことになる。砂被りにさえ気を付ければどうってことはないはずさ」
ダートの1200m。土ってよりは砂だから、走ると物凄く砂が舞い上がるのよね。とにもかくにも、いきなりデビューか……。
ここで一発で勝ち上がれば基本的に安泰だし、しっかり体調整えて勝てるように頑張ろう。