【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜 作:さくらのみや・K
深夜。
目を覚ますと、繋がれた手は離れていた。
隣のベッドを見る。
そこに慧梨主はいなかった______
「慧梨主……」
静寂に包まれた部屋には、自分以外誰もいない。
ふと、階下から物音がした。
その音に導かれるように、俺は静かに1階へ降りた。
階段を下りて、廊下を少し歩くとリビング。
そして、その先に玄関へと続く廊下がある。
自宅より遥かにでかい家に改めて感心しながら、俺はその扉を開けた。
廊下の窓から差し込むわずかな月明かりが、玄関の扉を開けようとする人影が見えた。
「慧梨主……」
月明かりに浮かび上がったその姿は、確かに慧梨主だった。
カーディガンを羽織り、玄関のドアに手をかける。
こんな時間にどこへ……?
そう声をかけようとしたとき、
「あ……夢明希じゃない」
宝石のような青い瞳も、
透き通った声も、
肩より少し長く切り揃えたセミロングも、
どれも慧梨主そのものなのに______
半分ほど開かれたドアから差し込んだ月明かりが照らし出す、自信を湛えた表情と、強気な口調は全く別人だった。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「え、慧梨主ちゃん……?」
おそるおそる名前を呼んだ。
だが、彼女は首を横に振る______
「残念、ハズレ」
「そんな、それじゃあ……」
「亜梨主よ。桜ノ宮 亜梨主______」
思考が止まった______
そこにいるのは、
目の前にいるのは、
誰がどう見たって俺の恋人。
桜ノ宮 慧梨主だった______
だが……
その女王を自称するような堂々とした出で立ちは、演技ではない。
俺の記憶の中にいる、
あの亜梨主そのものだった______
心臓がバクバクする。
冷や汗が背中を伝い、呼吸が荒くなり始めた。
どういうことなんだ。
意味が分からない。
ドアの隙間から差し込む夜風に乗って、シャンプーの香りが漂う。
夢じゃない______
目の前にいる慧梨主が、亜梨主になって立っている。
お前は誰だ______?
「ちょっと!何ジロジロ見てんのよ」
「!」
「あ……いや、こんなとこで会うなんて。久しぶり」
ここで追及しても意味はない。
無理やり掘り下げて、取り返しがつかなくなったら……
目の前の彼女は、そんな危うさを漂わせている。
だから、慧梨主ではなく亜梨主なんだと、自分に強く言い聞かせた。
たとえどんなに見た目が同じでも、別人として振舞うことにした。
「それにしても、そっくりだね。ビビったわ」
「あら、もしかして見分けがつかなかった?」
からかうように微笑む亜梨主。
「まさか、慧梨主と付き合っておいて、姉妹の見分けがつかないとか言わないわよねえ?」
「自分は慧梨主並みにかわいいって?あっはっは!御冗談を」
「どういう意味よ、頭かち割るわよ」
「こわっ」
小学生の頃と変わらない掛け合い。
見た目は慧梨主でも、言葉は完全に亜梨主そのものだった。
それが余計に、俺を混乱させそうになる。
「まあいいわ……せっかくだし、一緒に来る?」
「え?」
「色々積もる話もあるでしょ?嫌かしら」
そう言うと、亜梨主は俺を手招きした。
一瞬、着いて行こうとしてためらった。
このまま着いて行って、何か恐ろしい真実を見てしまうのではないか。
月明かりと街灯に照らされている玄関ドアの向こうが、光の届かぬ深い穴の底に見えた。
アリスが転げ落ちた、不思議の国へと続くウサギの穴。
でも穴の底が夢の国なら、いつかその夢は醒める。
亜梨主を演じる慧梨主も、きっと元に戻るだろう。
なら今は、彼女に着いて行こう。
深い穴の底に、慧梨主の抱える悲しみが見えるだろう。
「行くよ」
「じゃあ着いていらっしゃい。ジュース奢ってあげるから」
「別にそんな……」
「金欠なんでしょ?」
「何で知ってんだよ」
俺は、外へ歩き出す亜梨主の後を追った。
俺達は近くの公園のベンチに腰掛けた。
奢ってもらったミルクティーの封を開ける。
「慧梨主とはどう?上手くいってる?」
「まあね」
「そっか。どこまで進んだ?」
「うーん……手つないで歩けるようになったくらい?」
付き合い始めて2ヶ月くらい。
他の恋人同士に比べれば遅いのかも知れない。
「そんなんでいいわよ。焦っちゃだめよ?付き合いはゆっくりでも、慧梨主はちゃんとあんたのことが好きだから」
「わかってる。のんびりやっていくよ」
この後しばらく世間話をしていたが、やがて亜梨主は話題を変えてきた。
「……あんたに、どうしても話しておきたいことがあってね」
真剣な面持ちでそう言った。
「どんな話?」
「慧梨主の、恋愛のこと」
昼間のことが思い出される。
慧梨主の闇は、両親の死だけではないことは分かっていた。
「きっと慧梨主は、自分からは話せない。でも、あの娘が恋愛というものに、どんなトラウマを持っているか……知っておいて欲しいのよ」
深い闇の一辺。
俺は恋人として、それを知らなくてはならない。
「……わかった」
俺は頷いて見せた。
この不思議な時間の答えが、そこにあるかもしれない。
それからどれくらい経っただろう。
亜梨主から、それはそれは壮絶な話を聞かされた。
慧梨主の出逢いと別れ。
亜梨主がどのように関わって、そして慧梨主を傷つけてしまったのか。
慧梨主と亜梨主の仲がどのように引き裂かれたのかも、全て話してくれた。
信じられなかった。
あんなに想い合っていた二人が、そんな結末を迎えていたなんて。
慧梨主は両親も亜梨主も失い、ずっと孤独に耐えていたなんて。
亜梨主の奴、
人を泣かしておいて、自分はなにをやってるんだ。
「あたしは、何も分かってなかった。あの娘の本当の気持ちも、自分の行動がもたらす結末も……」
胸がもやもやする。
怒りなのか、やるせなさなのか。
それは分からなかったが、姉妹の絆が、亜梨主の横着とちょっとしたすれ違いの連続で引き裂かれたのは理解できた。
でも、
もしかしたら、バラバラになった関係を修復できるかもしれない。
そう思った。
帰り際。
「夢明希、約束して欲しいの」
家に帰る途中、亜梨主は立ち止まり、俺の方を向いた。
「何?」
「今日話したことは、慧梨主には言わないで。そして、これからも大切にしてあげてね」
心の底から妹を心配している、姉の真剣な願いだった。
きっと亜梨主本人も、同じことを言うだろう。
「もちろん。約束するよ」
「ありがと……もし悲しませたりしたら……」
「したら……?」
亜梨主はニコッと微笑んで、ひと言こう言った。
殺すわよ?_________と。
俺は誰もいない慧梨主の部屋に戻り、布団に潜り込んだ。
枕元に、亜梨主が買ってくれたミルクティーのボトルを置いて。
これが夢なら、眠ればきっと醒めるはず。
そう願って、俺は瞼を閉じた。
これで俺は、ウサギの穴から出ることができる。
でも、慧梨主はもっと深い……そして暗い穴の底にいる。
「……約束するよ」
俺は、そう誓って眠りについた。
慧梨主と亜梨主が笑い合う。
その光景を見ることを、夢見て______