【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜 作:さくらのみや・K
『あの……お兄さま……?』
慧梨主は学生鞄を右手に提げ、制服の白いベレー帽を左手で押さえながら声をかけた。
セミロングのブラウンヘアが風になびく。
『今度の、日曜日のこと……なんですけど……』
『日曜日?何のことだい?』
少年は、振り返ると優しい笑顔を浮かべながら首を傾げた。
『もう……忘れちゃったんですか?今度の日曜日、一緒にどこかへ行きませんかって、お誘いしたと思うのですが……?』
慧梨主の表情が曇る。
それを見て、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
『ああ、そのことか。まさか、ちゃんと覚えているよ』
『良かった、覚えてらしたんですね』
ほっと胸を撫で下ろす。立ち止まっていた2人は、また歩き出した。
『お兄さまとのお出かけ、とても楽しみです!』
慧梨主は満面の笑みを浮かべながら、数日後の予定に胸を高鳴らせていた。
『たくさん良い思い出、作れると良いなぁ……なんて。私、夢だったんです。大好きな人とお出かけするの……だから……』
慧梨主が口を開きかけた時、少年の言葉がそれを遮った。
少年の提案を、彼女は信じられなかった______
『え……お姉さまも一緒に……ですか……』
心を包み込んでいた日曜日への期待を押し退けて、ずっと抱えていた不安が顔を出す。
その顔は自分と同じ可憐で、しかし自信と侮蔑の表情を浮かべている。
『そ……そうですよね……!みんなで行く方が、楽しいですよね!』
少し申し訳なさそうにする少年に、慧梨主は無理やり笑顔を浮かべた。
青い瞳が今にも泣き出しそうな事に、少年は気づいてはいない。
『あの……』
『分かりました!お姉さまも誘ってみます』
無理やり着けた微笑みの仮面が、剥がれそうになる。
慧梨主はベレー帽を深く被り直して俯いた。
『それでは……私はこれで失礼します。また明日……お兄さま……』
そう言うと、慧梨主は彼に背を向けて走り出した。
青い瞳からは耐え切らずに涙が流れ出る。
お兄さま____
どうして____
そこには、最早いなかった。
淑やかで、
純朴で、
可憐な少女は______
『お姉さまに直接、聞けば良いんだ……直接……』
慧梨主はゆっくりと、2階へ続く階段を上る。
右手を背中に隠し、光を失くした瞳は虚ろだった。
慧梨主の周りには、もう誰もいない。
それでも、わずかに残った理性は信じていた。
きっと亜梨主は……誰より尊敬している私のお姉さまだけは、本当のことを話してくれる。
お姉さまなら、必ず______
ドアをノックする音がした。
『慧梨主?鍵なら開いてるわよ』
亜梨主の言葉に、そっと扉が開かれた。
『お姉さま……?ちょっと、いいですか?』
『あら、どうしたの?なんか顔色悪いわね?』
フラフラと入ってきた慧梨主の顔面は青白かった。
『どーせまた、変な物でも摘み食いしたんでしょ?』
『そんなこと、しません……私は……私はそんなこと……しない……』
『……なんなの一体。私は忙しいんだから、用があるならさっさとしてよね』
虚ろな瞳を浮かべる慧梨主の顔から目を逸らし、亜梨主はぶっきらぼうに言い放った。
少しずつ、
少しずつ______
『お姉さま……お願いです。私から、お兄さまを……盗らないで!』
か細い声を張り上げて、慧梨主は懇願する。
『せっかく叶った夢なの!お願い……私のお兄さまを……盗らないで!!』
『ふん、意味わかんない!どうしてアタシがアンタの彼氏を取るわけ?』
亜梨主は、鼻で笑って吐き捨てた。
だが彼女には、愛する妹への侮蔑の感情などなかった。
焦り、苛立ち______
慧梨主が部屋に入ってきた時から、じわじわと胸の内を支配する悪い予感。
とにかく、さっさと切り抜けたい……という感情が、亜梨主の口調を尖らせた。
それが、自分の首を絞めていくだけの行為だとも気づかずに……
『前にも言ったでしょ、アタシはあいつなんかに興味無いって』
『じゃあ!じゃあどうしてお姉さまは、お兄さまと抱き合ってたんですか⁉︎」
亜梨主の言葉を遮り、慧梨主が言い放つ。
『!?』
『この間……河川敷で抱き合ってましたよね。お兄さまと……』
少しずつ、
ぱらぱら……ぱらぱらと、
欠片が落ちていく_____
『興味も無いのに……お姉さまは、お兄さまと抱き合ってたんですか?』
嘘を言っている目では無かった。
それに慧梨主は、亜梨主に対して嘘をつけるほど強くはない。
それは、姉である亜梨主自身が一番よく知っている。
『私……見てたんです。絶対見間違いなんかじゃない!!』
『べ……別にあれは、深い意味は無いのよ!ほ……ほら!アタシ達、身長がほとんど同じでしょ?ハグしたらどんな感じになるのか、あいつに教えてやろうと思っ……』
『お姉さまは……そんな言い訳で、私を騙せると思ってるの?』
少しずつ、
でも確実に、
崩れていく______
『私……確かに頭は良くないけど、そんなデタラメを信じるほどバカじゃ無い!』
慧梨主の中にある、憧れの亜梨主の姿が崩れていく。
信じたくない。
目の前で狼狽し、下手くそな言い訳を吐くこの女が……
こんな女が、
大好きなお姉さまだなんて____
『どうして……どうしてお姉さまはそんな事を……私を裏切ったの?お兄さまは、やっぱりお姉さまを選んだの!?』
慧梨主は少しずつ、亜梨主の方へ歩み寄る。
小さな藁に縋るように。
こんな女が、亜梨主であると信じたくなくて……
ずっと自分を支えてくれた、気高くて優しくて、憧れ続けたお姉さまに戻って欲しくて……
虚ろな瞳から涙を流しながら、慧梨主は亜梨主に縋り付いた。
その眼を見ることができず、亜梨主は顔を背けた。
『お姉さま……答えて下さい。目を逸らさないで!ねえ!!』
『あーもう、うるっさいわねぇっっっ!!』
亜梨主は、慧梨主を突き飛ばした。
そのまま慧梨主は小さな悲鳴をあげて、床に倒れ込んだ。
そして、崩れ去った_____
『いい加減にしてよ……アタシが何をしようと勝手でしょう!?いちいちアンタの許可を取らなきゃなんないわけ!?』
絨毯に手をつきながら、慧梨主は理不尽は怒りをぶつける亜梨主を見上げた。
突き落とされた、絶望の底から。
『アタシは、あなたのためを思って……』
『やっぱり……そうなんだ……』
私を、裏切ってたんだ_____
今まで、ずっと抱いてきた亜梨主への愛。
それは突き飛ばされた慧梨主と共に、音を立てて崩れ落ちた。
欠片は悲しみの闇の中へ散らばり、もう見えない。
『お姉さまは……いつもいつも、私の大切な物を奪っていく……私の欲しい物は……みんな、お姉さまの物になる……!』
そして憧れの裏で抱き続けてきた感情……
妬み、
嫉み、
コンプレックス、
彼女に対するあらゆる負の感情が、深い心の闇から溢れ出す。
審判の鐘が鳴る_____
『ふふ……分からないですよねえ?お姉さまには……』
何もかも、
手遅れだった_____
『大切な物をいつもいつも奪われていく……哀れな負け犬の気持ちなんて!』
裏切られ、
踏みにじられ、
絶望の底に突き落とされた慧梨主_____
彼女の心は、怒りの狂気に包まれてしまった。
『ふふ……うふふ……あはははははっ』
慧梨主は、隠していたナイフを抜いた_____
その日、彼は桜ノ宮家を訪れていた。
慧梨主に亜梨主との関係と、自分の彼女への好意を伝えるために。
しかし、何度チャイムを鳴らしても反応がない。
出直そうとした刹那、中から声がした。
悲鳴_____
慧梨主のものか、亜梨主のものか……それは分からない。
だが少年は、恐る恐る家の中へと足を踏み入れた。
玄関、リビング、そして階段から2階へ。
その音は、次第に大きくなる。
何かを投げつける音、
何かが割れる音。
そして亜梨主の悲鳴と、
慧梨主の嘆き______
止めに入らなければ……彼はそう思ったが、足が震えて動かない。
気の強い亜梨主が発する、恐怖に怯えた甲高い悲鳴。
大人しい性格の慧梨主が発する、憎悪に満ちた叫び声。
聞いたことのない、あまりに異常な二人の絶叫に、彼は扉の外でただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
そして_____
『確かに聞いたんだ……』
慧梨主が、
亜梨主にナイフを振り下ろすところを_____
そして彼は逃げ出した。
『慧梨主は、自分を裏切った亜梨主を殺した……もし僕を見つけたら、次にその刃を向けられるのは……僕だから……』
その時、彼もようやく気がついた。
自分の罪と、その重さに。
彼は桜ノ宮の家から逃げ出し、そして恋人の慧梨主も、彼女を裏切って得た友人も何もかも捨てて、街からまた逃げ出した。
両親に縋り、彼はこの運河が流れる街の高校へ転籍。
そしてそのまま、医療大学へ入学した。
『僕は……本当はあの後、慧梨主も心中してしまったと思ったんだ。亜梨主はもちろん、慧梨主とも連絡がとれなくなったから……』
そう話しながら、彼の目からは涙が流れる。
『でも良かった……慧梨主は……慧梨主だけは生きていてくれたんだな……!』
自分の身勝手で、姉妹を永遠に引き裂いた罪。
彼は、そのおぞましい過去に、一点の希望の光を見出していた。
それは、償えなかった己の罪を濯ぐためのものか……
だが____
慧梨主が亜梨主を殺した_____
その事実を聞かされた時から、俺の世界からは音が消えた。
溶けた雪で濡れたアスファルトの上を、飛沫をあげて走る車やトラックの音。
脇を通る観光客達の談笑と足音。
運河を流れる水のせせらぎ。
その全てを掻き消し、恐ろしい事実が反響する。
慧梨主が望む夢は、
再会を願う双子の姉は、もういない。
慧梨主自身の手で、
永遠に失われてしまった____
『そんな……慧梨主ちゃんが……嘘だ、嘘に決まってる……』
『……』
マフラーごと口を押さえ、俺は涙を堪えていた。
衝撃的な事実に、心のキャパシティは限界を超えてしまった。
受け入れきれない感情が、涙となって溢れ出す。
誰よりも可愛いくて、
誰よりも優しくて、
天使のように清純で、
そして亜梨主のことを想っていて____
そんな慧梨主が、亜梨主に刃を向けたなんて……
いつか、いつか必ず……慧梨主の本当の笑顔を見れると思っていた。
そうすれば、いつか見た夢も……あの
でも、
それはもう叶わない____
俺の夢も、
慧梨主の夢も_____
気がつくと、雪の降り方が強くなっていた。
雪が積もり、辺りが白く染まっていく。
『くそ……くそぉぉっ!!』
思い描いていた未来を白く塗り潰すように、雪はいつまでも降り続いた。