【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜   作:さくらのみや・K

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Track-15 奈落の底へ

『あの……お兄さま……?』

 

慧梨主は学生鞄を右手に提げ、制服の白いベレー帽を左手で押さえながら声をかけた。

セミロングのブラウンヘアが風になびく。

『今度の、日曜日のこと……なんですけど……』

『日曜日?何のことだい?』

少年は、振り返ると優しい笑顔を浮かべながら首を傾げた。

『もう……忘れちゃったんですか?今度の日曜日、一緒にどこかへ行きませんかって、お誘いしたと思うのですが……?』

慧梨主の表情が曇る。

それを見て、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。

『ああ、そのことか。まさか、ちゃんと覚えているよ』

『良かった、覚えてらしたんですね』

ほっと胸を撫で下ろす。立ち止まっていた2人は、また歩き出した。

 

『お兄さまとのお出かけ、とても楽しみです!』

慧梨主は満面の笑みを浮かべながら、数日後の予定に胸を高鳴らせていた。

『たくさん良い思い出、作れると良いなぁ……なんて。私、夢だったんです。大好きな人とお出かけするの……だから……』

慧梨主が口を開きかけた時、少年の言葉がそれを遮った。

 

少年の提案を、彼女は信じられなかった______

 

『え……お姉さまも一緒に……ですか……』

 

心を包み込んでいた日曜日への期待を押し退けて、ずっと抱えていた不安が顔を出す。

その顔は自分と同じ可憐で、しかし自信と侮蔑の表情を浮かべている。

 

『そ……そうですよね……!みんなで行く方が、楽しいですよね!』

少し申し訳なさそうにする少年に、慧梨主は無理やり笑顔を浮かべた。

青い瞳が今にも泣き出しそうな事に、少年は気づいてはいない。

『あの……』

『分かりました!お姉さまも誘ってみます』

無理やり着けた微笑みの仮面が、剥がれそうになる。

慧梨主はベレー帽を深く被り直して俯いた。

 

『それでは……私はこれで失礼します。また明日……お兄さま……』

そう言うと、慧梨主は彼に背を向けて走り出した。

青い瞳からは耐え切らずに涙が流れ出る。

 

お兄さま____

 

どうして____

 

 

 


 

 

 

そこには、最早いなかった。

 

淑やかで、

純朴で、

可憐な少女は______

 

『お姉さまに直接、聞けば良いんだ……直接……』

慧梨主はゆっくりと、2階へ続く階段を上る。

右手を背中に隠し、光を失くした瞳は虚ろだった。

 

慧梨主の周りには、もう誰もいない。

 

それでも、わずかに残った理性は信じていた。

きっと亜梨主は……誰より尊敬している私のお姉さまだけは、本当のことを話してくれる。

 

お姉さまなら、必ず______

 

 

 


 

 

 

ドアをノックする音がした。

 

『慧梨主?鍵なら開いてるわよ』

亜梨主の言葉に、そっと扉が開かれた。

『お姉さま……?ちょっと、いいですか?』

『あら、どうしたの?なんか顔色悪いわね?』

フラフラと入ってきた慧梨主の顔面は青白かった。

『どーせまた、変な物でも摘み食いしたんでしょ?』

『そんなこと、しません……私は……私はそんなこと……しない……』

『……なんなの一体。私は忙しいんだから、用があるならさっさとしてよね』

虚ろな瞳を浮かべる慧梨主の顔から目を逸らし、亜梨主はぶっきらぼうに言い放った。

 

少しずつ、

少しずつ______

 

『お姉さま……お願いです。私から、お兄さまを……盗らないで!』

か細い声を張り上げて、慧梨主は懇願する。

『せっかく叶った夢なの!お願い……私のお兄さまを……盗らないで!!』

『ふん、意味わかんない!どうしてアタシがアンタの彼氏を取るわけ?』

亜梨主は、鼻で笑って吐き捨てた。

だが彼女には、愛する妹への侮蔑の感情などなかった。

 

焦り、苛立ち______

慧梨主が部屋に入ってきた時から、じわじわと胸の内を支配する悪い予感。

とにかく、さっさと切り抜けたい……という感情が、亜梨主の口調を尖らせた。

 

それが、自分の首を絞めていくだけの行為だとも気づかずに……

 

『前にも言ったでしょ、アタシはあいつなんかに興味無いって』

『じゃあ!じゃあどうしてお姉さまは、お兄さまと抱き合ってたんですか⁉︎」

亜梨主の言葉を遮り、慧梨主が言い放つ。

『!?』

 

『この間……河川敷で抱き合ってましたよね。お兄さまと……』

 

少しずつ、

ぱらぱら……ぱらぱらと、

欠片が落ちていく_____

 

『興味も無いのに……お姉さまは、お兄さまと抱き合ってたんですか?』

嘘を言っている目では無かった。

それに慧梨主は、亜梨主に対して嘘をつけるほど強くはない。

それは、姉である亜梨主自身が一番よく知っている。

『私……見てたんです。絶対見間違いなんかじゃない!!』

『べ……別にあれは、深い意味は無いのよ!ほ……ほら!アタシ達、身長がほとんど同じでしょ?ハグしたらどんな感じになるのか、あいつに教えてやろうと思っ……』

『お姉さまは……そんな言い訳で、私を騙せると思ってるの?』

 

少しずつ、

でも確実に、

崩れていく______

 

『私……確かに頭は良くないけど、そんなデタラメを信じるほどバカじゃ無い!』

 

慧梨主の中にある、憧れの亜梨主の姿が崩れていく。 

 

信じたくない。

目の前で狼狽し、下手くそな言い訳を吐くこの女が……

 

こんな女が、

大好きなお姉さまだなんて____

 

『どうして……どうしてお姉さまはそんな事を……私を裏切ったの?お兄さまは、やっぱりお姉さまを選んだの!?』

慧梨主は少しずつ、亜梨主の方へ歩み寄る。

小さな藁に縋るように。

 

こんな女が、亜梨主であると信じたくなくて……

ずっと自分を支えてくれた、気高くて優しくて、憧れ続けたお姉さまに戻って欲しくて……

虚ろな瞳から涙を流しながら、慧梨主は亜梨主に縋り付いた。

その眼を見ることができず、亜梨主は顔を背けた。

 

『お姉さま……答えて下さい。目を逸らさないで!ねえ!!』

 

『あーもう、うるっさいわねぇっっっ!!』

 

亜梨主は、慧梨主を突き飛ばした。

そのまま慧梨主は小さな悲鳴をあげて、床に倒れ込んだ。

 

そして、崩れ去った_____

 

『いい加減にしてよ……アタシが何をしようと勝手でしょう!?いちいちアンタの許可を取らなきゃなんないわけ!?』

 

絨毯に手をつきながら、慧梨主は理不尽は怒りをぶつける亜梨主を見上げた。

突き落とされた、絶望の底から。

 

『アタシは、あなたのためを思って……』

『やっぱり……そうなんだ……』

 

私を、裏切ってたんだ_____

 

今まで、ずっと抱いてきた亜梨主への愛。

 

それは突き飛ばされた慧梨主と共に、音を立てて崩れ落ちた。

欠片は悲しみの闇の中へ散らばり、もう見えない。

 

『お姉さまは……いつもいつも、私の大切な物を奪っていく……私の欲しい物は……みんな、お姉さまの物になる……!』

 

そして憧れの裏で抱き続けてきた感情……

 

妬み、

嫉み、

コンプレックス、

彼女に対するあらゆる負の感情が、深い心の闇から溢れ出す。

 

審判の鐘が鳴る_____

 

『ふふ……分からないですよねえ?お姉さまには……』

 

何もかも、

手遅れだった_____

 

『大切な物をいつもいつも奪われていく……哀れな負け犬の気持ちなんて!』

 

裏切られ、

踏みにじられ、

絶望の底に突き落とされた慧梨主_____

 

彼女の心は、怒りの狂気に包まれてしまった。

 

『ふふ……うふふ……あはははははっ』

 

 

慧梨主は、隠していたナイフを抜いた_____

 

 

 


 

 

 

その日、彼は桜ノ宮家を訪れていた。

慧梨主に亜梨主との関係と、自分の彼女への好意を伝えるために。

しかし、何度チャイムを鳴らしても反応がない。

出直そうとした刹那、中から声がした。

 

悲鳴_____

 

慧梨主のものか、亜梨主のものか……それは分からない。

だが少年は、恐る恐る家の中へと足を踏み入れた。

 

玄関、リビング、そして階段から2階へ。

その音は、次第に大きくなる。

 

何かを投げつける音、

何かが割れる音。

 

そして亜梨主の悲鳴と、

慧梨主の嘆き______

 

止めに入らなければ……彼はそう思ったが、足が震えて動かない。

 

気の強い亜梨主が発する、恐怖に怯えた甲高い悲鳴。

大人しい性格の慧梨主が発する、憎悪に満ちた叫び声。

聞いたことのない、あまりに異常な二人の絶叫に、彼は扉の外でただ茫然と立ち尽くすしかなかった。

 

そして_____

 

『確かに聞いたんだ……』

 

 

慧梨主が、

亜梨主にナイフを振り下ろすところを_____

 

 

そして彼は逃げ出した。

『慧梨主は、自分を裏切った亜梨主を殺した……もし僕を見つけたら、次にその刃を向けられるのは……僕だから……』

その時、彼もようやく気がついた。

自分の罪と、その重さに。

 

彼は桜ノ宮の家から逃げ出し、そして恋人の慧梨主も、彼女を裏切って得た友人も何もかも捨てて、街からまた逃げ出した。

両親に縋り、彼はこの運河が流れる街の高校へ転籍。

そしてそのまま、医療大学へ入学した。

 

『僕は……本当はあの後、慧梨主も心中してしまったと思ったんだ。亜梨主はもちろん、慧梨主とも連絡がとれなくなったから……』

そう話しながら、彼の目からは涙が流れる。

『でも良かった……慧梨主は……慧梨主だけは生きていてくれたんだな……!』

自分の身勝手で、姉妹を永遠に引き裂いた罪。

彼は、そのおぞましい過去に、一点の希望の光を見出していた。

それは、償えなかった己の罪を濯ぐためのものか……

 

 

だが____

 

 

慧梨主が亜梨主を殺した_____

 

 

その事実を聞かされた時から、俺の世界からは音が消えた。

 

溶けた雪で濡れたアスファルトの上を、飛沫をあげて走る車やトラックの音。

脇を通る観光客達の談笑と足音。

運河を流れる水のせせらぎ。

 

その全てを掻き消し、恐ろしい事実が反響する。

 

慧梨主が望む夢は、

再会を願う双子の姉は、もういない。

 

慧梨主自身の手で、

永遠に失われてしまった____

 

『そんな……慧梨主ちゃんが……嘘だ、嘘に決まってる……』

『……』

マフラーごと口を押さえ、俺は涙を堪えていた。

 

衝撃的な事実に、心のキャパシティは限界を超えてしまった。

受け入れきれない感情が、涙となって溢れ出す。

 

誰よりも可愛いくて、

誰よりも優しくて、

天使のように清純で、

そして亜梨主のことを想っていて____

 

そんな慧梨主が、亜梨主に刃を向けたなんて……

 

いつか、いつか必ず……慧梨主の本当の笑顔を見れると思っていた。

そうすれば、いつか見た夢も……あの()()()に出会った夢も醒めると思っていた。

 

でも、

それはもう叶わない____

 

俺の夢も、

慧梨主の夢も_____

 

 

気がつくと、雪の降り方が強くなっていた。

雪が積もり、辺りが白く染まっていく。

 

『くそ……くそぉぉっ!!』

 

思い描いていた未来を白く塗り潰すように、雪はいつまでも降り続いた。

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