【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜 作:さくらのみや・K
君が引き裂いたメトロノーム
チクタクと鳴り続けていたのは、
僕の記憶か空想か
私は耐えられなかった______
悲しみを、
虚しさを、
そして怒りと憎しみを______
『なっ……それおもちゃでしょ?仕舞いなさいよ、そんな危ないもの!!』
『大事なものを奪われた時ってね、心がとってもズキズキするんです……』
鞘から引き抜いたナイフの刃に、自分の虚ろな瞳が映る。
『楽しかった思い出が、ぜーんぶ無駄になって……思い描いていた未来が、ぜーんぶバラバラになって……ウフフ』
何もかも奪われた。奪われ続けた。
友達も、
恋人も、
思い描いていた未来も___
『痛いなあ……すっごく痛いなあ……』
奪われるものが増える度、心の痛みが鋭くなっていく。
もう、この世界では生きていけないくらいに……
『この痛みって……説明しても、分からないですよねえ……?だったら……』
身体で分かってもらうしか……
ない______
ずっと光り輝く世界にいて、
ずっと上からの景色にいて、
失うことも知らずに奪い続けてきた。
そんな女には、どれだけ言葉を並べても意味はない。
『慧梨主!?いい加減にしないと許さないわよ!?』
『許さないのはこっちですお姉さま?』
なんて醜いんだろう。
私は、こらえきれない笑いをこぼしながら思った。
もうお姉さま……いや、この女にそんな権利はないのに。
見てられない______
だけど、だけど……!
お姉さまは私のたった一つの自慢。
私の憧れだから。
『私のお姉さまは……清廉潔白で思いやりがあっていつも私を支えてくれた』
だから_____
『私を裏切るようなことは絶対にしない!お前はお姉さまじゃない!!』
『人を平気で裏切る……この……』
人でなし____________!
私はお姉さまに飛び掛かった。
ナイフの切っ先をお姉さまに向けて。
『いやあああああああ!!』
お姉さまに投げつけられた本が当たるのも気にせず、私はナイフを振り回す。
『慧梨主!やっ!やめなさ……!』
殺意だけが、私を突き動かした。
『これからもっ!私を!嘲笑いながら!生きていくんでしょっ!?』
マグカップが投げつけられ、私の頬をかすめて壁に打ちつけられる。
派手な音を立てて、粉々に砕け散る。
『いつも見下して!必死な私を嘲笑って!!』
飛びついた私の身体を、お姉さまが突き飛ばす。
壁際の本棚まで飛ばされ、分厚い本たちが降りかかった。
『私の心を……土足で!踏みにじる______!!』
それでも私は止まらない。
この、お姉さまのような悪者をやっつけなくてはいけないから。
『お願い慧梨主!アタシの言うことを聞いて!』
焦りと恐怖の懇願が、悲鳴となって部屋に響き渡る。
『……消えて……』
肩で息をしながら、両手でナイフを握りしめる。
『あんたなんか……この世界から、消えてよぉおおおおおおおおおおおおお!!!!』
満身の力を込めて、お姉さまに飛び掛かる。
『きゃああああああっ!!』
避けきれず、お姉さまは私の下敷きになった。
『やめてえ……』
泣きじゃくりながら、力なく懇願するお姉さま。
『……あんたにも、私の痛みを……』
教えてやるんだからあああああああああ____________
それが私に残った最後の記憶。
私はナイフを突き刺した______
慧梨主の犯した罪はあまりに重く、綺麗で純粋で、繊細な彼女の心は耐えられない。
そして慧梨主を慰めて、優しく肩を抱き寄せてくれる人も、もうこの世界にはいない。
自らの過ちで、ひとりぼっちになってしまった慧梨主。
自業自得なのは分かっている。
でも、ずっと憧れだった恋人と、ずっと尊敬していた姉に裏切られた。
心を踏みにじられた慧梨主にとって、この結末はあまりに惨すぎる。
鏡は変わらず、冷たいガラスの板に現実を映し続ける。
嘆きと絶望の表情を湛え、泣き続ける慧梨主。
このままでは、本当に慧梨主の心が壊れてしまう。
そんなのはあんまりだ______!
慧梨主と鏡写しのような容姿と、正反対な性格を持った双子の姉に、コンプレックスと共に強く抱き続けた憧れ。
その強い思いは、いつしか彼女の中で少しずつ、彼女を守ろうとする意思として形作られていた。
そして事件が起こった時、
その意思は、慧梨主のもう一人の人格として、愛する姉のなり代わりとして鏡の向こうからやってきた。
そうして
もう一人の桜ノ宮 亜梨主は生まれた______
慧梨主の犯した重罪と、愛する姉ともう二度と会うことのできない、という事実。
その辛い記憶を、あたしは自分の中に取り込み、慧梨主の記憶から消し去った。
そして、記憶と現実との齟齬が生じないよう、あたしは慧梨主の記憶を改ざんした。
“ケンカ別れしてしまった双子の姉と、いつかまた仲直りできますように”
少しでも希望を持たせて、慧梨主の心がバラバラに砕けてしまわないように。
夢に向かって進めるように。
新しい学園へ転校し、新しいスタートを切る慧梨主。
皆の注目を引き寄せる姉のいない世界の慧梨主を、あたしは“亜梨主”としてずっと見守ってきた。
慧梨主の心優しい性格は、最初に仲良くなった綾瀬ちゃんのおかげもあって、彼女の周りにたくさんの人を呼び寄せた。
いろんな事件にも巻き込まれたけれど、それも慧梨主にとっては初めての、楽しい青春の思い出だった。
そして、その集大成こそ______
「あんたとの出会いだった______」
夕暮れ。
家の前で、あたしは家に帰ろうとする夢明希を呼び止めて話していた。
直ったばかりの自分の愛車に寄りかかりながら、彼はあたしの話を聞いていた。
去年の冬。
夢明希は
全てを知ってしまったと______
泣きながら、それでも夢明希は、変わらずに慧梨主といると約束してくれた。
慧梨主がお日様みたいと表現した瞳に、嘘はなかった。
「全部見てたわよ。あんたが慧梨主と公園で会ったときも、慧梨主に告白した時も、全部ね」
「マジかよー。本物じゃなくてよかったわ」
「いい顔してたわよ。今思い出しても笑えるわ」
「やっぱ良くなかったわ……」
マフラーとダウンジャケットで身をくるむ、母親に無理やり厚着させられた子供のような格好で、顔を赤くする夢明希。
彼の存在は、この一年で慧梨主の心を変えた。
困り顔で駆け寄ってくる少年。
それはこの世でたった一人、何にも惑わされずに慧梨主を想い続けた、真の運命の相手。
最後に現れた、慧梨主の安住の場所。
緊張と期待と不安に顔を赤くし、真剣な表情で慧梨主に告白する夢明希を目の当たりにしたとき、それを確信した。
そして慧梨主と夢明希は恋人同士となり、その関係を深めていく。
日を重ねるにつれ、慧梨主の心が幸せで満たされていくのを、あたしも感じていた。
支えきれないほどの悲しみに押しつぶされそうになる時も、夢明希はいつも優しく抱きしめてくれた。
あたしが生まれてからずっと望んだ場所で、夢明希は慧梨主に寄り添い続けた。
慧梨主もあたしも、
心の底から幸せだった______
でも______
希望が残された記憶も、
あたしという存在も、
その全ては、犯してはならない罪を隠した、愚かな虚像に過ぎない。
この幸せな時間は終わりを告げ、再び鏡が映し続けた現実に向き合う時がやってくる。
愛する家族を手にかけた、
その罪を償う時がやってくる______
そしてその時は、決して遠くないことを知らされた。
あいつは……慧梨主がお兄さまと呼び慕ったあいつは、事の真相を知っている。
流されるくせに、中途半端に融通の利かないあの男が、いつまでもそれを胸の内に秘めているとは思えない。
全てが明るみに出て、あたしが隠していた記憶を慧梨主が思い出した時……
あたしは消滅し、
慧梨主の心は今度こそ壊れてしまうだろう______
「ねえ、夢明希」
「ん?」
「これからも、慧梨主の恋人でいてくれる?あたしが……いなくなった後も」
もし私が消え去れば、慧梨主を守れるのは夢明希しかいない。
最後の希望だった______
「そりゃね、もちろんですとも」
「……ありがとう」
本当は、慧梨主と夢明希が恋人同士で……ただ一緒に居続けることすら、叶わないだろう。
夢明希がどれほど願っても、破滅的な別れがきっとくる。
ならば、せめて慧梨主に審判が下るその日まで、つかの間の幸せを感じさせて欲しかった。
夢から覚める、その時まで______
「で、ものは相談なんだけど」
「え?」
車に寄りかかっていた体を起こして、夢明希は話の流れを変える。
その唐突さに、あたしは戸惑った。
「この話……去年俺が、慧梨主のお兄さまに会ったって話した時、今は聞けないとか言ったじゃん?」
「そうね」
あの時、あたしは今の話を語ろうとして、夢明希に遮られた。
あたしは、彼の中で心の整理がついてなくて、とても聞ける状態じゃないんだろうと思った。
「まあ、あん時は混乱してたのもあるけど、それだけじゃなくってね」
「どういう意味?」
「……なんか、今じゃないかなって。だって、まだ何も解決してるわけじゃなかったから」
話が見えてこなかった。
「それで、今はもう解決したわけ?」
夢明希は頷いた。
その瞳は、あの時と……慧梨主に告白した時と同じ、期待と不安が入り混じった真剣な眼差し。
あの日と同じ決断を、夢明希はしようとしている。
「言ったろ?ものは相談だって。これは……慧梨主の中の“亜梨主”にしか話せない」
「な……何よ……?」
「亜梨主______」
一生に一回だけ、
奇跡が起こせるのなら______
慧梨主が叶えたと思った願いは、
奇跡に見せかけた地獄の始まりだった。
なら、
本物の奇跡は______
「どうして______?」
あたしは、夢明希の言うことが信じられなかった。
そんなこと、あるはずがない。
あるわけがない!
「あ……あははっ……あはははははははははははは!あーっはははははははははははは!!!!!」
そんな、
夢みたいな話______
「……亜梨主?」
「はぁ……はぁ……あはは、そっか……そうなんだ……」
涙がこみ上げる。
感情の整理が追い付かない。
「本当、夢みたいな話ね」
慧梨主が鏡の前で願った、一生に一度の奇跡。
遂に叶う、
その時がやってきた______!
「それで、答えは……って!?」
あたしは、夢明希を抱きしめた。
小学生の頃、事あるごとに“あたし”に突っかかっては、こてんぱんに言い返されていた夢明希。
そして6年振りの再会では、壊れたラジコンの部品を追っかけていたという、何とも締まらない感じだった。
そして付き合い始めてからも、デートにはしょっちゅう遅れるわ、好きなものに使っていつも金欠になってるわ、ちゃらんぽらんで子供っぽくて、傍から見ればとても理想的な恋人には見えない。
でも______
ずっと一途に慧梨主を想い続け、
この一年、ひたすら慧梨主に寄り添い続け、
そして夢明希は、
あらゆる災いを吐き出したパンドラの匣に、
ただ一つ残った最後の希望を、遂に見つけ出した。
「良い名前ね……夢明希」
そっと夢明希から離れる。
まだ目には、涙を浮かべていた。
「なあ、亜梨主……」
「大丈夫よ」
あたしは、セーターの袖で涙を拭った。
「それこそ、慧梨主が何より望んでいることだから……あたしは心配いらないから」
不安そうにしている夢明希に、あたしは精一杯の笑顔を向けた。
「ね!」
夢明希が夢を叶える。
その奇跡を起こすということは、
でも、あたしはちっとも悲しくない。
「あたしは……慧梨主だから」
鏡の前で分かれた慧梨主の記憶と心が、
また元に戻るだけ______
幸せに包まれ、慧梨主を守る存在が不要になるのなら、これほどうれしいことはない。
「そっか、そうだな……」
夢明希の瞳に、安堵が宿る。
「それに、うっせえやつが何人もいたら面倒くさいしな。いっか!」
「はあ~?あたしはいつも慧梨主のために言ってるのよ!ていうか言われたくなかったら、そのだらしない性格なんとかしなさいよね!」
「え?俺はいつでも紳士ですけどなにか?」
「紳士ねえ?慧梨主と付き合ってから、何回ごはん奢らせたのよ!」
「全く、記憶にございません!」
「このっ……本当、慧梨主はこいつのどこを好きになったのかしら」
なんだか不安も残るけど、きっとこいつなら大丈夫。
夢明希なら、きっと慧梨主をこれからも幸せにしてくれる。
夢明希は、車に乗り込んだ。
車体が振動し、普通よりうるさいエンジン音が響き始める。
辺りは、すっかり暗くなっていた。
「ねえ!」
窓をノックして呼び止めた。
運転席側の窓が、するすると下がっていく。
「がんばってね」
「うん、わかった」
「さよなら______」
あたしがそう言うと、夢明希は首を横に振った。
「また今度」
そうだ。
またこれからも、あたし達は一緒。
何も変わりはしないのだから______
「ええ、またね______」
あたしはゆっくり、車から離れた。
夢明希は窓を閉めると、ヘッドライトを点けた。
うるさいエンジン音を響かせて、彼の黄色い車はゆっくりと走り出していった。
黄色いボディは暗闇に消え、赤いテールランプが点になる。
右に曲がり、それも見えなくなるまで、あたしは見つめていた______
君は不思議の国のアリス
スローモーションで舞いながら
不思議の国のアリス
時は無常に流れてく
僕の物語の狭間に
君は住んでいるんだ