【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜   作:さくらのみや・K

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Track-17 エンド・オブ・ワンダーランド

空は暗雲が立ち込め、刺すように冷たい小雨が降っている。

天気予報では昼過ぎから雪に変わると言っていたが、それは正しいだろう。

 

スイフトスポーツの車内は、エンジンのアイドリングとマフラーの重低音だけが響き、静けさをより掻き立てていた。

 

 

ここに来るまで、色んなことがあった。

何もかもが、覆ってしまったこともある。

 

だけど、俺の意思は変わらなかった。

 

慧梨主の夢を叶えると誓って数ヶ月。

ついにこの日がやってきた。

 

 

バックミラー越しに、スイフトの後席に視線を向ける。

 

 

「じゃ、行こうか」

 

 

亜梨主______

 

 

シフトレバーを1速に入れ、クラッチを繋ぎながらアクセルを踏み込む。

力強い重低音を響かせながら、黄色いマシンは走り出した。

 

 

 


 

 

 

4月も中頃だというのに、街の人々は皆白い息を吐き、傘を差して足早に歩いていた。

夕方からは、季節外れの大雪が予報されている。

朝から分厚く立ち込めた灰色の雲が、それが当たっているのを知らせている。

私も同じように白い息を吐きながら、近くのバス停から家に向かっていた。

 

ここ最近、今までで経験がないほどに身体の調子が良かった。

頭が冴えるというか……とにかく寝起きが良くて、一日を終えるまで元気に過ごせていた。

今も、まるで羽が生えたように足取りが軽い。

理由は分からないけれど、夢明希くんに話した時は『きっと憑き物が取れたんじゃない?』なんて言っていた。

 

 

家に着くと、前に白い車が止まっていた。

「?」

見覚えのない車だった。

ナンバープレートも地域外のもので、私の少ない知り合いに、こんな車に乗っている人は記憶にない。

少し不安に感じながらも、私はその車の前を通って家の門を抜けた。

 

玄関のドアの前に、誰かが立っていた。

 

グレーのトレンチコートを着たその人は、私の家が留守だったことに少し困惑しているようだった。

すらっとした背格好や整った後ろ髪は、明るくてどこか愛嬌のある夢亜希くんとは違う、知的な感じだった。

 

 

「……っ!」

 

 

声をかけようとして、出なかった。

心臓が、早鐘のように鼓動していることに気づく。

 

私はこの後姿を覚えてる。

 

だって______

 

たじろいだ私の足音を聞いて、その人はゆっくり振り返る。

 

だって、この人は______

 

コートの裾を翻しながらこちらを向いた。

その面影は、あの頃からほとんど変わっていなかった。

 

小さい頃から、私が憧れていた人。

かつて恋人同士になりたいと願い、その気持ちを受け入れてくれた人。

 

そして、

私から全てを奪い去った人______

 

「久しぶり、慧梨主______」

私の記憶に刻まれた優しい声は、もはや疑いようがなかった。

 

 

お兄さま______

 

 

かつて私が愛したその人が、目の前に立っていた。

 

頭の中が、真っ白になった。

幻のように消えてしまったお兄さまが

 

今、目の前にいる______

 

 

 

 


 

 

 

 

何日経っただろう______

 

気が付くと、私はお姉さまの部屋で、ひとり立ち尽くしていた。

 

足元には色んなものが、足の踏み場がないくらいに散乱している。

見覚えのあるものが、床の上でバラバラに散らばっている。

 

そこには、

もう誰もいない______

 

『あ……』

 

床に、小さな写真立てが落ちていた。

投げつけられたのか、それとも落ちた衝撃なのか。

ガラスが割れ、木の枠が折れてしまっている。

 

ひび割れたガラスの向こうで、まだ私とお姉さまが満面の笑みを浮かべていた。

 

『ああ……』

顔を上げる。

 

たくさんの写真、

一緒にお出かけした時のお土産、

同じ誕生日に交換したプレゼント______

 

この部屋には、お姉さまの私との大切な思い出が、色んな所に並べられていた。

私の記憶にも、鮮やかに刻まれている。

 

床に散らばったどの思い出でも、

お姉さまと私は笑っていた______

 

『ああ……そんな…………いや……いやだ…………』

 

私はようやく……

今更になって思い出した。

 

思い出のひとつひとつが、

あの日……夕暮れの河川敷で、お姉さまとお兄さまが抱き合っているのを目撃してしまった時から、

いや……もっと前から失っていた正気を呼び戻す。

 

『いやっ……!いやあっ!私は、私はこんなこと……こんなこと!少しも望んでなかったのにっ!!』

ようやく、私は自分の罪の重さを実感する。

  

あまりにも遅すぎた______

 

『どうして!?どうして私はこんなことをっ!?』

 

ようやく自分の気持ちに、

自分の本当の気持ちに気づけたのに!

 

でも、

もう遅い______

 

だっては私は、

愛するたった一人の家族を、

大好きな大好きなお姉さまを……

 

 

 

 

 

この手で刺し殺してしまったから______

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

なんで?

どうして?

いくつもの疑問符が、不安となって心を支配していく。

 

お兄さまが近づいてくる。

「い……いや……」

訳が分からず、私は思わず後ずさりした。

桜色の傘が、手から滑り落ちる。

 

「いや……やだ…………来ないで…………」

「大丈夫か、慧梨……」

 

「来ないでっ!!」

 

手を差し伸べるお兄さまに、思わず叫んだ。

近づく歩みを止める。

 

 

でも、もう遅かった______

 

 

お姉さまの悲鳴が、

投げつけられる思い出が、

自分の両手に握られたナイフが、

 

その刃に映る、

憎悪に満ちた自分の表情が______

 

恐ろしい闇が、心の奥から溢れ出す。

 

どこかへ封じ込めていた、

あの時の記憶が蘇る______

 

「いやっ!いやあああああああああああああっっっ!!!」

 

耐えきれず、私は頭を抱えた。

周りの景色が暗くなっていく。

雪に変わりつつある雨粒が、頬に冷たく突き刺さる。

 

 

何もかも、

思い出した______

 

 

「ゔうっ……ひぐっ……あぅ……どうして……どうして……っ」

その場にうずくまり、嗚咽を漏らして泣き出した。

涙が止まらない。

「私は……お姉さまを……」

無情な雨が、私の体を打ちつける。

 

いつか、お姉さまと仲直り______

 

それは夢ではなく、私が自分の罪を覆い隠すために、私が身勝手に塗りつぶした記憶の上に描かれた虚像。

 

私は、夢明希くんを裏切っていた。

 

純粋な気持ちで、一緒に願ってくれた夢明希くんを______

 

 

頭を抱えてうずくまり、泣き続ける私に、お兄さまは拾った私の傘を差し伸べる。

「ごめん……遅くなって……」

「……どうして……戻って来たんですか……?」

約三年振りに再会したお兄さまは、前以上に大人に見えた。

その表情は優しいけれど、何か決心をしたような雰囲気を感じさせる。

 

私とお付き合いしていたのに、お姉さまと関係を深めていたお兄さま。

 

そしてあの日______

別れも告げず、突然姿を消してしまったお兄さま。

 

もう二度と、会うことはできないと思っていた。

 

長い月日は、私の心からお兄さまの存在を薄れさせ、やがて私は夢亜希くんの恋人になった。

でも私は今まで、お兄さまへの憧れと恋慕の気持ちを、捨てたことはなかった。

 

私は今、お兄さまと夢明希くんへの感情の間で混乱していた。

 

「慧梨主を、助けるために……」

「そんな……だって……だってお兄さまは……私を、裏切ったじゃないですか……それなのに、どうして……今になって……」

「分かってる……でも、いつまでも逃げ続けるわけにいかないって、気付いたんだ」

「逃げ続ける……?」

「あの日……僕は全てを捨てて逃げた。怖くなって、自分の過ちから目を背けた。だけど今になって、自分のすべきことに気付くことができたんだ。ようやくね……」

「あ……」

 

どうしてあの日から、急にお兄さまがいなくなってしまったのか。

よく考えたら、すぐに分かることだった。

 

お兄さまは、何もかも知っているんだ。

 

私が何をして、

お姉さまがどうなったのか______

 

「慧梨主!」

突然、お兄さまは私の手を掴んだ。

二人の傘が地面に落ち、私達は雨に打たれる。

「ひっ……」

一歩踏み出してきたお兄さまに思わず怯え、私は動くこともできず小さな悲鳴を上げた。

 

 

お互いに、自分の罪を償おう______

 

 

言っている意味が、理解できなかった。

 

「罪を償って、綺麗になって、そして二人でやり直そう。そのために、僕はここへ帰ってきたんだ」

 

罪を償って、やり直す______

 

雪が強まり、辺りが白く染まっていくのに、私の視界は暗い闇へ落ちていくようだった。

不安が、恐怖が心を染め上げていく。

 

「今度は、逃げないから」

「……いや……」

「何年でも、待つって約束するから」

「いや……です……」

「だから……」

 

「いやです!!」

 

心が闇の中へ引きずられるのに抗うように、私は思わず叫んだ。

 

「慧梨主……?」

お兄さまは私の声に驚いて固まった。

 

分かってる。

私の犯した行為は、決して許されるものじゃない。

いつか、裁かれなくてはならない。

 

こんな日が来ることは、分かっていた。

 

だけど______

 

「いやです!そんな……だって……だって私には……」

 

かつての私は、お兄さまを愛していた。

小さい頃からの憧れで、私の告白を受け入れてくれた時は本当にうれしかった。

 

でも、あの日……お兄さまに裏切られてから何もかもを失って、私はようやく本当の気持ちに気が付いた。

 

私が叶えたかった本当の夢。

現実にしたかった願い。

 

 

それは______

 

 

そして、その人は何度も壊れかけた私の心に寄り添ってくれた。

優しく、私を抱き寄せてくれた。

出会ってから、少しずつ、私の心の穴を埋めてくれた。

 

もし今、私が自分の罪を清算しに行かなくてはならないとしたら。

その長い長い贖罪の道の果てで、私が望む待ち人は、一人しかいなかった。

 

「……せめて、夢明希くんとお話しさせてください……私にとって、今一番大切な人なんです!だから、せめて……」

 

そんな権利はないのは分かってる。

それでも私は、最後に夢明希くんに会いたかった。

 

真実を伝えて、

お別れを言いたい______

 

生まれて初めて、私だけを見続けてくれた人だから。

 

でも______

 

「彼には、全部話したよ」

 

その言葉で、ぴしりと……心の深くまで亀裂が走っていく気がした。

 

「去年の冬に、会って話したんだ。慧梨主があの日、何をしたのか……真実をね」

 

夢明希くんが、お兄さまと______

 

「そ……そんな…………それじゃ……夢明希くんは、何もかも知って……」

お兄さまは、首を縦に振る。

「そんな……嘘……嘘です!夢明希くんが……そんな……!」

 

今日までずっと、夢明希くんは私と変わらず接してくれていた。

出会ったあの日からずっと、変わらない笑顔でいてくれた。

私の全てを知ってからも、そんな素振りを見せずに。

 

「話をしたとき、夢明希君はすごいショックを受けていたんだ。きっと今も……」

「……」

「もうこれ以上、あの彼を苦しめちゃだめだよ。彼の心の傷がもっと大きくなる前に、全てを……終わらせるんだ」

 

全てを終わらせる______

 

それが、夢明希くんとの別れを意味しているのは、簡単に理解できた。

 

「夢明希君は関係ない、そうだろう?」

「それは……」

私のやったことが世間に知られれば、恋人である夢明希くんがどういう扱いを受けるのか。

簡単に想像ができる。

「目先の欲に目がくらんで、遠回りもしてしまったけれど……今度は裏切らないって約束するよ」

私のことを真っ直ぐ見つめ、お兄さまは言った。

 

だから慧梨主も、罪を償うんだ______

 

このままお兄さまに着いて行けば、もう二度と夢明希くんと会うことは叶わない。

 

「ううっ……夢明希くん……」

 

でも、それは私が受けるべき最初の罰。

お姉さまに手をかけた以上、私に拒む権利はなかった。

 

 

ようやく手に入れた小さな幸せが、

思い描いていた平穏な未来が、

夢明希くんとの素敵な思い出が……

 

闇の底へ、少しずつ砕けながら落ちていく______

 

私のしたことを知って、夢明希くんはどれほど傷ついたのだろう。

 

ずっと私のことを信じて、一緒に夢が叶うことを祈ってくれた。

そんな彼を、私は裏切ってしまった。

 

みんなを傷つけ、裏切ってしまった______

 

お母さま、

お父さま、

綾瀬ちゃん、

夢明希くん、

 

お姉さま______

 

ごめんなさい。

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい______

 

 

季節外れの雪を降り注ぐ空は、夕焼けも見せずに暗くなっていく。

この世界に、私とお兄さまだけが取り残されたように、辺りを静寂が包んでいた。

 

「……行こうか、慧梨主」

私の手を引く。

「もうこの手は、離さないから」

お付き合いしていた頃、お兄さまには一度も手を繋いでもらえなかった。

 

「……はい、お兄さま…………」

それを拒む意思は、もう私にはなかった。

 

 

 

 

 

 

さようなら、夢明希くん______

 

 

 

 

 

 

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