【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜 作:さくらのみや・K
しんと静まり返った森の中。
見上げると、木々の狭間の向こうに見える空が、茜色に染まっている。
周りは段々暗くなっていく。
気がつくと道はなくなっていた。
『ひいっ』
突然響く鳥の鳴き声。
焦燥感を掻き立てる。
ここがどこなのか、
自分がどうやってここへ来たのか、
帰り道はどこなのか_______
『うぅっ……』
涙が溢れそうになる。
このまま、アタシは二度と帰れないかもしれない。
ママにも、
パパにも、
そして慧梨主にも、
もう誰にも会えなくなってしまう______
アタシはうずくまる。
さまよい続けたアタシの幼い足は、もう限界だった。
『こわいよ……いたいよ……たすけて……』
幼いアタシは、成すすべもなく泣き出してしまった。
アタシのすすり泣く声は、陽が沈む森の中へ消えて行った。
気がつくと、俺は雪の上に倒れ込んでいた。
気絶したのは、ほんの一瞬だった。
なぜ?という感情の後、凄まじい激痛が意識を支配する。
ドクンドクンと、頭の痛みが増していく。
うずくまりながら何とか首を上げると、息を切らしてこちらを見下ろす、亜梨主の姿が見えた。
「ふざけんじゃないわよっ!!」
眼を見開いて、亜梨主が叫ぶ。
「うっ……」
「彼氏か何か知らないけど……自分の彼女が殺しかけた人間に、よくまあ二回もノコノコ会いに来たわよねぇ」
憎悪に満ちた声を浴びながら、俺はどうにか身体を起こそうとする。
「バカにするんじゃ……ないわよっ!!」
「ガハッ……」
胸を蹴り上げられ、身体がのけぞる。
うつ伏せから、今度は仰向けに倒れ込んだ。
口の中で、血の鉄臭い味が広がる。
「ゲホッ……そんな……俺はただ……」
「うるっさいわね!人の話、聞いてなかったの?」
横たわる俺の胸ぐらを無理やり起こす。
「アタシはもう、慧梨主の家族じゃないのよ!!!」
それは、明確な拒絶の言葉だった______
「もうあの家に帰るつもりも、慧梨主と会うつもりもない。あの娘が今どんなだろうと、アタシにはもう関係ないのよっ!!」
きっと、人生で初めて向けられた、恐ろしい憎悪と怒り。
殺意すら感じさせるその感情に、俺は何もかも封じられ、ただ怯えるしかできなかった。
「分かったら……さっさと消えなさいよっ!ゴミがッッ!!」
掴まれた胸ぐらを離すと、亜梨主は俺の腹を蹴り飛ばす。
積み上がった雪山に倒れ込んだ俺は、自分の思慮の無さを悔やんだ。
甘かった______
愚直に話し合えば通じる。
そう信じていたし、これまで遭遇したいくつかの困難も、それでどうにかなった。
雪山に埋もれた俺に目もくれず、亜梨主は乱暴にドアを閉めて消えて行った。
辺りはしんと静まり返り、自分の愚かさへの後悔がより大きく、頭の中でこだまする。
姉妹で、双子で、かつてはずっと一緒にいたはずの慧梨主と亜梨主。
あんなにも愛に溢れた姉妹を引き裂いたもの。
それは、ろくな絶望も知らずに生きてきた人間には、到底触れられるものじゃなかった。
今こうして、自分の行いを反省できるだけ、まだマシなのかも知れない。
下手をすれば、比喩抜きで死んでいた。
「……あいつが、あんなに真剣になってた理由が分かったよ」
よろよろと立ち上がりながら、俺は恋の修羅場に身を投じた友人を思い浮かべて呟いた。
帰ろう______
俺には、慧梨主の夢を叶えられない。
ここへ来て、ようやくその事を自覚した。
悔しかった、
情けなかった。
深い傷を負った慧梨主の心を、多少なりとも癒すことができた。
そして、彼女と共に小さな事件を乗り越えて、俺はどこか浮かれていたのだ。
結局俺は、心の傷に涙を流す慧梨主を抱き締めて、その場をやり過ごすことしかできない。
俺には何の力もない______
やっと、そのことに気がついた。
とぼとぼ歩きながら、亜梨主の住む家と駅の中間くらいまで来た。
まだ身体のあちこちが痛むが、多分重傷は負ってないらしい。
だがここで、俺は違和感を覚えた。
ズボンの左ポケットが、やけに軽い。
雪に埋もれたせいで、わずかに湿ったズボンのポケットに手を突っ込む。
「あ……あぁ……」
右ポケット、後ろのポケット、ジャンバーの左右も漁る。
出てきたのは、お気に入りの純正イヤホンだけ。
あるはずのものがない。
「あぁもう!!クソっ!!」
涙が込み上げてきた。
「なんなの……なんなのよっ!」
家の中に飛び込んだアタシは、頭を抱えた。
もう戻らない。
もう帰らない。
アタシと慧梨主の物語は、バッドエンドで幕を下ろした。
そう心に決めていた。
なのに、
なのになのになのに______っ!
夢明希は、硬く閉ざした幕をこじ開けようとした。
それは、パンドラの匣を開けるのと同じ行為。
開けば、色んな災いが吹き出してくる。
そんなことはさせない、
耐えられない。
『お姉さまは……いつもいつも、私の大切な物を奪っていく……私の欲しい物は……みんな、お姉さまの物になる……!』
『楽しかった思い出が、ぜーんぶ無駄になって……思い描いていた未来が、ぜーんぶバラバラになって……』
「いや……違う……違うの……慧梨主……っ」
あの日の惨劇が蘇る。
絶望に打ちひしがれ、
狂気の笑顔に囚われて、
『お前はお姉さまじゃない!!』
『この……人でなし______!!』
憎悪に満ちた愛する妹の表情と、
差し向けられたナイフ______
「やだ……やだぁ……やだぁあああああああっ」
あの日の記憶が……封じ込めようとした記憶が蘇る。
アタシは頭を抱えてうずくまる。
襲い来る悪夢に、アタシはただ泣き叫ぶしかなかった。
………………
……………
…………
………
……
…
それから、どれほど経っただろう。
ふと、外から物音がした。
「まさか……」
あのバカ、もしかしてまだ外にいるのかしら。
アタシはフラフラと、玄関へ向かう。
もう、怒りに任せて追い払う気力も失せていた。
ドアを開ける。
そこには、雪の地面を這いずり回る夢明希がいた。
ドアの開くを聞き、彼はこっちを見た。
今にも泣き出しそうな表情をしている。
「何……やってんのよ……」
「あ……亜梨主……!」
「何……?」
泣き腫らし、虚ろになっているであろう瞳で、アタシは聞いた。
「財布……落としちゃった!」
雪まみれになり、震える身体を起こしながら、夢明希は泣きそうになってそう言った。
居間の石油ストーブの前で、夢明希は震えながら猫のように丸くなっていた。
「ほら」
マグカップに入ったコーヒーを差し出す。
「……ありがと」
「それ飲んだら帰りなさいよね」
そろそろと手を伸ばして受け取ると、両手でカップを握りながら啜り始めた。
夢明希の財布は、雪山にできた人型の中に、深々と突き刺さっていた。
まあそんなことだろうと思ったけれど、パニクっていたのか、コイツはただ地面を這いずり回っていた。
「ふう……帰れなくなるかと思った」
「来るなって言うのに来るからよ」
「ごめん……」
湯気の経つコーヒーを覗きながら、力無い声でポツリと謝る夢明希。
その姿は、小学校時代のやたら突っかかってきた時の面影はなかった。
大人になった______
そう思って、アタシは気がついた。
5年制の高専に通っているコイツは別にして、他のみんなは、もう進学か就職の準備をしている最中。
同い年の人達は皆、もうすぐ大人になっていく。
もちろん、慧梨主も______
その現実を突きつけられて、改めてアタシは自己嫌悪に陥った。
アタシだけが、時計の針が止まっている。
あの日から、何もかもが止まってしまっている。
アタシは、夢明希の隣に座ってストーブにあたる。
「な、なんだよ」
押しのけてきたアタシに、夢明希が口を尖らせる。
「アタシだって寒かったのよ。全く、鈍臭すぎでしょ」
込み上がる震えを寒さのせいだと言い聞かせ、アタシは身体を温めて誤魔化した。
「なあ……亜梨主」
「なによ」
「……さっきの言葉、本気なのか」
「それ飲んだら帰れってこと?」
「いや、その……もう慧梨主は妹じゃないって……」
「……」
意図しているのか、それとも何も考えてない能天気なのか。
アタシの心の闇にズブズブと手を突っ込もうとする。
コイツ、さっき自分がボコボコにされたのを忘れたのだろうか。
「……好きで、あんなこと言ってると思う?」
「まさか」
「じゃあ、余計なこと聞かないでよ」
「……ごめん」
それきり、夢明希は何も喋らなくなった。
黙々と、安物のインスタントコーヒーを啜り続ける。
その間、アタシは奇妙な感情に戸惑っていた。
怖くて、
つらくて、
離れているのを良いことに、間違いだらけの自らの過ちに蓋をして、目を背け続けてきた。
それなのに夢明希は、なんの躊躇いもなく手を突っ込んでくる。
本当は今すぐ追い出して、また自分の殻に篭りたい。
なのに、アタシはなぜか心地良さを感じていた。
すぐ隣に感じる、コイツの温もりに、どこかでほっとしている。
ここでのアタシは、家族ではなくただの居候。
知り合いもなく、ただ一人で、息を潜めるように遠くの汽笛を聞き続ける日々。
こうやって誰かの温度を感じたのも、思えば随分久しぶりだった。
久々に触れた人の肩は、こんなにもあったかい。
帰って欲しい、
でも、もっとこうしていたい。
二つの相反する感情が、アタシの心の中で渦巻いていた。
「だいぶ、あったまってきた」
夢明希は、カップを揺らした。
「ありがと、本当助かったよ」
「……うん」
もう残りわずか、底が透けて見えるほどしか、コーヒーは残っていなかった。
コイツがコーヒーを飲み干せば、それで終わり。
もう会うことはない。
そしてもう二度と、かつてのアタシを知る人間と会うことはないだろう。
二度と、慧梨主を振り返ることも______
残りを飲み干し、夢明希の持ったマグカップが空になる。
「ごちそうさま。それと、今日はごめ……」
「ね、ねぇ!」
気が付くと、アタシは立ち上がろうとする夢明希の腕を掴んでいた。
「なんだどうした」
「次は……次は、いつ来るの?」
何してるのよ、アタシ______
そう思った時には、もう遅い。
「えっ」
掴んでくるアタシの手を見て戸惑い、夢明希の瞳が揺れる。
どうかしてると自分でも思う。
でも、もうこの温もりを感じられないかと思ったら、考えるより先に身体が動いてしまった。
さっきまで、本気で追い返そうとしてたくせに……
なんて、自分勝手なんだろう______
「……ごめん、やっぱりなんでも……」
「亜梨主が良いなら、いつでも」
「え」
その言葉に、ただ胸が高鳴った。
「良いの?」
「もちろん」
夢明希は、こんなアタシに、優しく微笑んでくれた。
とことん自分勝手だけど、それでも今はその優しさに甘えたくなった。
「ありがと」
「じゃあ、うーん……連絡先教えてくれた方がはやいよ」
「アタシ、携帯持ってないから」
「ああ……じゃあ再来週の日曜かな。何時が良い?」
「そうね、じゃあ……」
こうして、アタシ達は来週にまた会う約束をした。
もしかしたら、
もう一度だけ、慧梨主と話せる日が来るかもしれない。
その小さな夢を、胸に抱きながら______