【完結】アリス・イン・ワンダーランド 〜ルッキング・グラス〜 作:さくらのみや・K
駅前の小さな喫茶店で、俺達は向き合って座っていた。
シャッターの目立つ商店街では、数少ない営業中の店舗である。
あの日以来、俺達はこの店で話すようになった。
再会してから二ヶ月余り、もう何度も会って話している。
亜梨主はいつもコーヒーを頼む。
この店はコーヒーに必ず砂糖とミルクを付けてくれるのだが、亜梨主は入れずに飲んでいた。
そして俺は、この店でいつも紅茶を頼み、自分の分と亜梨主の余った分の砂糖とミルクを入れて飲んでいる。
「どれだけ入れるのよ」
「だっておいしいんだもん」
紅茶のソーサーの周りに転がる、空になったミルクと砂糖の入れ物を見ながら、亜梨主は呆れながら言った。
もしこだわって淹れていたとしたら、冒涜もいいところだ。
「ねえ、夢明希」
「うん?」
しっかり甘くした紅茶を啜ろうして声をかけられ、俺は顔を上げた。
亜梨主はコーヒーのカップをソーサーに置くところだった。
「その……頭の怪我は、もう大丈夫なの?」
「ああ、まあね。昨日抜糸してきた」
「そう……本当、あの時はごめん。アタシ、色々気が動転してたっていうか……」
「まあ、俺も……亜梨主の気持ち、無視しちゃったし。なんともなかったしさ」
申し訳なさそうにする亜梨主に、俺は頭の傷をさすりながら答えた。
亜梨主にかち割られた頭は、当然無事で済むわけがなかった。
帰りの列車を降りたあたりから血が流れ始め、家に着く頃には顔中血まみれになっていた。
当たり前ながら母さんは顔面蒼白になり、すぐさま救急車を呼ばれた。
父さんも速攻で仕事から帰宅し、途中で慧梨主を乗せて病院に駆けつけてきた。
病院での診断結果は全治2ヶ月。
6針も縫う大怪我だった。
切れたというより、衝撃で皮膚がぱっくり裂けたらしく、じわじわ広がって最終的に大量の血が流れ出したらしい。
要は頭の外側が切れただけで、MRIなども撮ったが脳へのダメージは無かった。
通りで、血液の生暖かさに気づくまで分からなかったはずだ。
何があったか聞かれたが、まさか『アイアンでブッ叩かれた』と言えるわけもなく、それっぽい経緯で『階段で滑って落ちた』と説明した。
季節が幸いしたのか疑われることもなく、医者には『頑丈な頭でよかったね』と半笑いで言われた。
当事者の俺と、走り屋時代に120km/hでクラッシュしながら無傷で生還した父さんは、一緒になって笑っていた。
が、息子が死にかけて気が気でない母さんと、恋人が死にかけて病院に来る前から泣いていた慧梨主は、めちゃくちゃ不機嫌になっていた。
その後、俺と父さんも二人に怒られたのは言うまでもない。
なんともなかったとはいえ、みんなを心配させたのは本当に申し訳ないと思った。
特に今一番思ってくれているであろう恋人……その上受験勉強の追い込み中の慧梨主に、余計な心配をさせたのはものすごく申し訳なかった。
埋め合わせしないといけないと思ったし、怠ろうものなら、今度は慧梨主をめちゃくちゃ可愛がっている母さんに頭を割られるかも知れない。
二人の間に沈黙が流れる。
店内には俺達以外に客はなく、外も人通りはほとんどない。
たまに、列車の汽笛が響いてくるだけで、この小さな町の寂しさをより際立てていた。
「アンタってさ」
「うん」
「目移りとか、しないタイプでしょ」
昔から、なんでも一度好きになったものから、気持ちが冷めていくことは稀だった。
部屋にあるおもちゃやラジコンやらは、みんな好きになって買ってもらったり、小遣いを貯めたりバイト代なんかで買ったものばかり。
だから、部屋のスペースが飽和しても、全部捨てずに大事に置いてある。
小学生の頃から、ずっと慧梨主への気持ちを消えずに抱いていられたのは、そんな性格だったからだろう。
何も失わず、
何とも決別せず、
出会ってきた色んなものや人を、抱き集めながら生きてきた。
自分の性格を考えると、ふと不安に駆られる。
別れは必ずやって来る。
その時、俺はちゃんと決別できるのだろうかと……
「ねえ、夢明希」
「え?」
亜梨主の声に、顔を上げた。
「大丈夫?」
「あぁ……うん。平気だよ」
俺は、紅茶の残りを一気に飲み干した。
不安に駆られた胸が、少し晴れた。
「それで、なんだっけ?」
「ハァ……アンタ目移りしないわよねって話」
「ああ。まあね、でもなんで?」
「なんとなくよ。昔から見てて、そう思ってたから」
「小学生ん時から?学校でそんな場面あったかな」
「……気づいてないならいいわよ」
「なんだよそれー」
いつも通り、亜梨主に軽くあしらわれながら、楽しい会話の時間は過ぎてゆく。
亜梨主とは良好な関係を築きつつあった。
話の内容は、こうした他愛のない雑談ばかり。
言い合ってばかりだったとは言え、小学生以来の仲。
話すのはすごく楽しかった。
楽しいけれど、その一方でもどかしさも感じていた。
本当の目的は、慧梨主と亜梨主を仲直りさせること。
それにはまず、亜梨主との会話で慧梨主の名前を出せるようにしなくてはいけないだろう。
でもまだまだ、それができる気配はない。
いつまでも待っているばかりじゃダメだ。
今日こそ、話を切り出さなくては。
そう思って、あの日からもう2ヶ月以上経ってしまった。
『余計なこと聞かないでよ』
あの日、亜梨主がそう発したのを最後に、俺は慧梨主の名前を出せなくなった。
目的を果たすためには、いつかは切り出さなくてはいけない。
でもそうしようとする度に、亜梨主のその言葉が蘇る。
憎しみや恐怖よりも、寂しさや絶望……冷たく暗い闇の底から湧き出たその言葉を、俺は無視できない。
本当なら、俺は拒絶されるようなことをしている。
逃げ込んだ先の住所を調べあげて、押しかけのだ。
下手すれば、警察沙汰になっても不思議じゃなかった。
こうして話せているだけでも、ものすごくラッキーだ。
その上で、自分を殺そうとした妹と和解させる。
考えれば考えるほど、途方もないことだと思い知らされる。
もしかしたら、これから何十年もかかるかも知れない。
人生をかけた勝負になるかも。
亜梨主と会う回数を重ねるたび、そんな不安が募っていく。
辺りがうっすら暗くなっていた。
窓の外には、ちらほらと学校帰りの生徒達が、駅の方向から歩いてきているのが見えた。
冬の夕方は早い。
「そろそろ、帰らなくちゃ……な」
会計の準備をするのに、俺はどこかのポケットに突っ込んだ財布を探す。
以前の反省を生かすことなく、無造作にズボンのポケットに突っ込んだ財布を取りだした。
「ねえ」
「ん?」
今日も進展は無しか……と、紅茶代と帰りの切符代しか入っていない財布の中身を漁っていると、亜梨主が声をかけた。
「今日は……帰ったら用事でもあるの?」
「え?……いや、別に」
正直、何時に帰ろうが何も問題はない。
母さんに、自分の分の夕飯がいるかどうかだけ伝えておけば、自由だった。
もっとも、外で夕飯にありつける金は持ってない。
「じゃあ、少し寄り道していきましょう?」
「!」
それは、亜梨主とこの店で話すようになって、初めての提案だった。
「もちろん、いいわよね?」
相変わらず、眼に光は灯らない。
だけど亜梨主の、高貴で小悪魔的な子憎たらしい微笑みは、どこか懐かしかった。
今日は何かが起こる_______
そんな淡い期待を胸に、俺は頷いた。
陽が沈む森の中で、アタシはひとり泣いていた。
帰り道は分からない。
小さな足はもう歩けない。
きっとこのまま、
もう慧梨主にも会えない_______
『えーーーん……ひぐっ……うえーーーん』
幼い泣き声は、誰の耳にも届かない。
がさ_______っ
そんな物音がして、アタシは恐怖で振り向いた。
猛獣?
それともお化け?
アタシは恐怖で震え、声も出ない。
草木を掻き分けて近づく黒い影。
木々の間から差し込んだ沈みかけの夕陽が、その姿を露わにする。
『ア……アンタ……なんで……』
そこには、いつもアタシと言い争っていた、ムカつく男子の筆頭。
夢明希の姿があった。
俺達は、家とは反対方向へ歩いていた。
暦ではもう春だが、外はまだまだ氷点下の風が吹く。
亜梨主に着いて歩きながら、俺は考えていた。
あの
『慧梨主を弄んだのよ。慧梨主はずっと……小さい時から、あいつを憧れの眼差しで見てたのに、それを裏切ろうなんて……そんなの、絶対許せるわけないじゃない』
傷つきやすい慧梨主の心を守るため、あえて選んだ選択肢。
確かに亜梨主なら、慧梨主のために何でもするだろう。
だが、惚れさせて奪うというのは、どう考えても悪手なのは明らかだった。
どうしても慧梨主を、あの男から引き剝がしたいなら簡単なこと。
亜梨主が真剣に説得すれば、慧梨主はきっと耳を傾けただろう。
彼の本心を知れば悲しむかもしれないが、それでも慧梨主には亜梨主という拠り所がある。
もし付き合ってるのを放置したとて、お兄さまと話した限り、そう長続きしたとも思えない。
彼を誘惑して自分へと心変わりさせ、慧梨主と別れさせる。
確かに仲を引き裂くのは確実に成し遂げられるだろうが、それ以上に失うものが多すぎる。
矛盾だらけで、正気とは思えなかった。
だからこそ、俺は考えてしまう。
慧梨主の心に宿った“亜梨主”と、今目の前にいる亜梨主は、本当に同一人物なのか……と。
あの
あくまであいつは、慧梨主が演じている存在に過ぎない。
本当の亜梨主は、慧梨主の思っているような清廉潔白なやさしいお姉さまなんかじゃない。
自分の欲望のためならば、妹すら蹴落とす非道な女。
慧梨主の事なんて、最初からどうでもよかったのかもしれない。
もしそれが真実だしたら、
もうこの世界に、俺が探している亜梨主はいない。
姉妹を再会させたところで、その先には悲劇しかないかも知れない。
もしそうなら、俺は何のために亜梨主に会い続けているのだろう。
そしてなぜ亜梨主は、俺と会い続けるのだろう。
この行為に、何の意味があるのか______
この何もない寂れた町のように、
虚しさが、俺の胸を空っぽにしていく______
何もない田舎町は、少し歩いただけで、建物のない場所に辿り着く。
気が付くと、真っ白な銀世界の真ん中に俺達はいた。
その景色は、まるで俺達以外がこの世界から消えてしまったようだった。
「何もないわよね、本当に」
亜梨主はそういうと、立ち止まって振り返った。
長い髪が、ふわりとなびく。
「そうだね」
俺が答えると、亜梨主はこちらに歩み寄ってきた。
「ねえ」
それは突然だった。
亜梨主の手が、マフラーの下から中に入ってきた。
「え、ちょっ、亜梨……」
「いいから」
冷たく、柔らかい手の平の感触が、首に、そして頬へとつたっていく。
それはほんの一瞬だったような気もするし、
永遠の時が流れてしまったような気もした。
人も車も……時間すらも消え去って、俺と亜梨主の二人だけが、静かな白い世界に取り残された。
亜梨主の、サファイアブルーの瞳を覗き込む。
悲しみを湛えた瞳。
その奥に、見知った別の少女の姿が映る。
同じ日に生を受け、共に育ってきた片割れ。
同じ姿を持ち、半身ともいうべき姉妹。
唯一無二の家族との絆は、ボタンの掛け違えのような、ほんの小さなすれ違いを繰り返して引き裂かれた。
それでも_______
罵倒されても、
刃を向けられても、
亜梨主にとって、慧梨主は何よりも愛すべきたった一人の妹だった。
慧梨主の姉であることを否定する亜梨主は、辛く悲しく、泣き出しそうな表情をしていた。
それが嘘なのは、俺でなくても分かることだった。
亜梨主の瞳には、
今も慧梨主の姿が映っているから______
「初めて見たわ」
「何を?」
マフラーの中で頬に手を当てながら、亜梨主は言った。
「これだけ見つめられても、アタシが瞳に映らなかったこと……今までなかった」
亜梨主の瞳に、涙が浮かぶ。
「本当に、慧梨主のことが好きなんだ______」
あの日以来、亜梨主は初めて慧梨主の名を口にした。
あの時とは違う。
絶望でも、怒りでもない、優しさに満ちた声。
「もちろん」
マフラー越しに、亜梨主の手に自分の手を重ねた。
温もりという言葉では収まらない熱さが伝わる。
「慧梨主に言い寄ってきた奴らはみんな、欲望丸出しで、アタシがちょっと色目を使っただけで、簡単に靡いてきたわ」
その言葉で、亜梨主が奪ったのは、あのお兄さま一人ではないことが分かった。
「すぐに目移りして、簡単に心変わりする。そんな奴らなんかに、アタシの慧梨主は渡さない……ただそれだけ……」
何度も、何度も。
例え汚されても、
嫌われても、
絆を引き裂いてでも______
「あの娘の純潔が守られるなら、それで良かったのよ」
たった一人の妹を守るため。
ただひたすらに、慧梨主の心を守るため。
亜梨主はその身を投げ出した。
ただ亜梨主には、
自分が本当に為すべきことが分からなかった______
「アタシは慧梨主を愛してる。この世界で、一番、誰よりもね」
そう言って、亜梨主は笑った。
その微笑みは、見覚えがある。
打ち上がるロケットのように高飛車で、
原子力空母のように尊大な亜梨主が、
唯一慧梨主にだけ見せたやさしい笑顔。
少しも、色褪せてなんかいなかった。
「本当に、慧梨主のことが好きなんだ______」
幻なんかじゃない。
慧梨主を愛するお姉さまは、確かにここにいた。
「もちろんよ。アンタなんかより何倍もね」
亜梨主の瞳に光が灯る。
ようやく俺は、
桜ノ宮 亜梨主を見つけ出した______