一 転生
トウビョウ様というものがある。
中国地方から四国地方にかけて、広い地域で信仰された蛇の神様のことである。
元々は水の神様であり、雨乞いをする時に拝まれていた。それが次第に万の祈願神様となっていったのだ。
その御姿は、頸に金色の輪がある淡い墨色の蛇とも、神々しき白蛇の姿であるとも、七十五匹の蛇の集合体であるとも、はたまた蛇ではなくキツネであるとも言われている。
トウビョウが憑く家筋のものは、トウビョウ持ちと呼ばれ、その多くは予知や祟りで財を成した。しかし、水の神様であった頃も、伝承が変化し万の祈願を叶えてくれる神様となった時も、トウビョウ様が憑依するのは、たいていが女であった。
それでも特に呪力が強いとされる、頸に黄と白の輪があるトウビョウを使える女は、滅多にいなかった。
肩から先が消えた。瞬きにも満たない間の後、血が激しく噴出した。
チサは這いずって、
血は乾いた土に染み込みながら、濃密な腥さを放って広がっていく。
チサは数えで十四のときに熱病に罹り、しかし貧しい百姓の家に医者を呼ぶ余裕はなく、家族の看病を受けつつ自力で病魔から生還した。
命だけは永らえたものの、病の後遺症で足腰が立たなくなり、目をほとんど塞がれてしまったチサは、その分嗅覚と触覚が冴えるようになっていた。であればこそ、己の血の臭いにまじって、体にまつわりつく悪臭も感じとったのだ。
――乞食の男の、蒸れた汗と垢の悪臭。男がチサに吐き出した白い汁の粘ついた感触。
父母と祖母が野良仕事で家をあけている間を見計らい、不可侵の領域を区切るほいと柱を越え、囲炉裏の前に布団を敷いて横たわるチサの躰を蹂躙した男が、残していったものだ。
乞食の男が去ったと気配で知ったあと、チサは盲て霞んだ目で、長患いのせいで華奢で白くなった片手で、土間に立派に建つ柱を拝む。
「トウビョウ様、トウビョウ様」
トウビョウ様の中でも、特別に呪力が強いとされる個体を、チサは使えた。
柱に支えられた、天井の板のない剥き出しの梁に、小さな蛇が巻きついている光景が、盲のチサには見えていた。頸に白と黄色の輪がある蛇は、冷ややかにチサを見下している。
「見ておられたじゃろう。あれは、チサの望んだことじゃありません」
トウビョウ様はするするとほいと柱に溶け込んでいった。
チサはトウビョウ様に見捨てられたのだ。柱に溶ける神様の姿を最後に、ゆっくりとチサの視野は狭まり、暗闇に埋めつくされていった。弁明は聞き届けられなかったのだ。
引き戸をごとごと揺らす西風の音に、ざらつく鱗の擦れる音が混じっていた。やがてその音も遠くなる。
風が、やんだ。
文明は開花した明治の代といっても、それは都会のことだ。
山岳に隔離された農村において、未来へ希望を繋げてくれるのは祈祷であり、呪いであった。当然土着の神様への信仰も厚い。
明治の後期にさしかかる頃に、岡山県苫田郡で起きた少女の変死事件は、その不可解さゆえに、一時期は山陽新聞にも書き立てられた。しかし巡査や記者の取り調べに、少女の身内・村人のほとんどが口を閉ざしたこともあり、事件の熱は時間の経過と共に収束していき、やがて忘れ去られた。
それは、事件の当事者である少女も例外ではなく。
(ここはどこじゃろうなあ。わたしは、なんでこねえな暗えところにおるんじゃろうか。)
黒い空間にぽつんと残されたチサは、自由に動くようになった膝を抱えて座りこんだ。
片方しかない自分の手がくっきりと暗闇の中に浮いているのが見えて、ここが暗闇ではなく黒い空間なのだと知った。
上も下も、出口も入口も、音も匂いもない。正気ならば気狂いに追い込まれていたかもしれない空間は、不思議と心地よかった。
元からほとんど盲ていたのだから、何も見えない視野には慣れている。むしろ、自分の体が見えるようになっただけ僥倖である。
(稼ぎ頭がおらんなって、お母とお父はどうなるんじゃろう。貧しい百姓暮らしに逆戻りじゃろうか。婆やんも……婆やんって、どねえな人だっけ。わたしは、だれの子じゃ? 名前は? ……、…………まあええわ……)
記憶も思考も曖昧なまま、チサは黒い空間でまどろむ。
ときどき、チサの前には人が現れる。
程度の差はあれど、生者である彼らの体は皆一様に光に包まれていて、彼女に触れることはできない。
現れる、というより、ときどきチサのいる空間を横切る彼らを、チサが勝手に眺めていた。
若者もいたが、子供や老人が多かった。いわゆる〝霊感が強い〟と言われる人々だが、それをチサが知る由もない。
ある者は素通り。
ある者はちらりとチサを見て足早に去り。
チサをじっと見つめる者は稀で、たいていは物事の道理もわからぬ幼い子供であった。
チサはどこにも行けないまま、光に包まれた人々の服装や髪型が、時代と共に様変わりしてゆくのを、夢うつつに眺めていた。
自我すら薄れてゆくのを感じながら、それを静かに受け入れ、己の消滅を物言わず待っていた。
しかし、転機は訪れた。
チサが死んでから百年以上が経っていた。
怪我をした、ずぶ濡れの男だった。
それがチサの前に投げだされたのだ。
男の体を包む光は弱く、吹けば消えてしまいそうだった。
(あの怪我は、おえんのう。もう歩けんじゃろうな。わたしと同じじゃなぁ。)
その時、チサの意識は何十年ぶりに冴えていた。
死にかけの男を憐れんだチサは、すうっと魂を男に寄せた。光を失いかけている男の目が、死の間際にあって、霊体のチサを捉え、かすかに瞠目する。
その瞬間、遠くのほうで稲妻のような光が走り、チサは何かに引き込まれるような感覚に襲われた。
そうして、死後百年余りにして、少女の魂は異なる世界に渡った。
トウビョウの祟りゆえに成仏しそこね、長い年月をかけてゆっくり消滅していた、壊れかけの魂である。
崩壊を始め、塵屑のように軽く小さくなった魂だからこそ、入りこめた。
正史なら、それと知られぬまま流れていた胎芽に宿ることができたのだ。
【甲龍歴410年】
「いいか、ルディ。そっと、そーっと置くからな。動くんじゃあないぞ」
「わかってますよ、父様」
「旦那様、その抱き方ではお嬢様の頭が安定しません。手はこのように……」
「お、おう。すまん」
「もう、しっかりしてよ、あなた。二人目なのよ?」
幼い男の子の手をおおうように、女の手が添えられる。産褥期の明けぬ、気だるい体で、ベッドで上体を起こした女──ゼニスは、己の腿の上に座らせた愛息子にささやいた。
「ルーデウス、あなたの妹よ」
「……はい、母様。かわいいです」
ゼニスに後ろから支えられながら短い腕に赤子をのせたルーデウスは、〝かわいい〟と称しつつも、緊張の面持ちで妹の顔を覗き込んでいた。
赤みの残るやわい肌、はっきりと開かない目、頼りない毛髪、眉毛さえ生えていない、か弱い生物。
ルーデウスは、初めて間近で相対する赤子に戸惑っているのだ、と、パウロとゼニスは解釈した。
(赤ん坊ってこんな小っこかったかな。)
事実その通りである。
前世の記憶を保有したまま、僻地の下級騎士の長男──ルーデウス・グレイラットとして生を受けた彼は、目の前の小さな生き物をまじまじと見つめた。
なるほど、妹か。よくやったゼニス。
「お兄ちゃん」か「お兄さま」か、どちらで呼んでもらおう。
そんな下心が混ざった悩みは、今だけはルーデウスの頭から抜けていた。
ルーデウスは記憶にある前世の弟が生まれた直後のことを思い出し、ついでに大人に成長した弟にパソコンを野球バットで殴り壊されたことも思い出し、苦い気持ちになった。
俺達は仲良くしような、とぼんやり目蓋を開けた妹に、ルーデウスは心の中で語りかけた。
「あ、母様。妹は、目が母様と同じ青色なんですね。きれいです」
「うふふ、髪の色はルディと一緒よ。ルディも、この子を可愛がってあげてね」
「はい、もちろんです」
ゼニスはルーデウスのつむじに優しく口づけ、パウロがこほんと咳払いをした。父親として、自分も息子に何か言わなければと思ったのだ。
「きっとゼニス似の可愛い女の子になるぞ。だからルディ、お前が妹を守ってやるんだ」
「わかりました。父様のような男から守ればいいのですね」
「ルディ~……」
パウロは、普段から妻のゼニスの瑞々しい肉体では飽き足らず、使用人兼子供の乳母として雇ったリーリャにもセクハラ紛いのことを繰り返している。年端も行かぬ息子にからかわれるパウロの姿に、ゼニスがくすくす笑った。普段あまり表情の変わらない、メイドのリーリャも、珍しく口角を緩めている。
パウロはきまり悪そうに頭をかいた。
ルーデウスは、ずっと大人しくしている赤子の体と、重ねられたゼニスの手の間から、そっと自分の手を引き抜いた。
妹の高い体温は、自分の手ごと妹を包み込む母の体温は、いまだ手のひらと甲に残っている。
ルーデウスはゼニスの豊満な胸に後頭部を沈め、くつろいだ笑みを浮かべた。
(妹も無事に産まれたし、俺は魔術の家庭教師をつけてもらえる事になったし、安泰だね。)
「父様、母様、この子の名前は何ていうんですか?」
「お父さんがちゃんと考えてくれたわよ。ねっ、あなた?」
「ああ。何なら、ルディが生まれる前から決めてたぞ!」
気が早い。
(いや、あんだけアンアンギシギシやってたら、すぐに次子はできるよな。早くはない……のかもしれん。)
ルーデウスは、今世での両親である若夫婦の、旺盛な性生活を思い出して苦笑した。
パウロは娘が生まれたのがよほど嬉しいようで、ルーデウスに抱かせたばかりだというのに、再び小さな赤ん坊を抱いてキスの雨を浴びせている。
生まれたての新生児はむずがることも、泣きわめくこともなく、ぼんやりと受け入れていた。
新生児の頃のキスはルーデウスもやられたことがある。口にされたか額にされたか頬であったかは定かではないが、男にファーストキスを奪われていたとはあまり考えたくないので、あれはデコにされたのだ、と思うようにしている。
「それで、名前は?」
自我の見えない妹への助け舟も兼ねて、ルーデウスは父親の注意を己に向けさせた。
パウロは無償の愛情に緩んでいた顔を引きしめ、家長らしい威厳のある声色と表情で告げた。
「この子の名前は、シンシアだ。シンシア・グレイラット」
「いい名前ね」
「だろ?」
その威厳も十秒と持たない。実に手慣れた仕草で、パウロは赤ん坊を抱いたまま緩んだ顔でゼニスにキスしたからだ。
頭上で繰り広げられるマウストゥーマウスの口づけに、ルーデウスはちょっと肩をすくめたのだった。
ともかくにも、青い瞳の赤子はシンシアと名付けられた。
シンシア・グレイラット。それが、パウロとゼニスの第二子であり、ルーデウスの妹の名だ。瑠璃色なゲームで七人の乙女を攻略するとルートが解放されそうな名前である。
「はやく喋れるようにならないかな……」
なにせ妹である。
お兄ちゃん♡と呼んでくれて、ゆくゆくは、お兄ちゃんと結婚する! なんて言ってくれるかもしれないカワイイ存在だ。
そんな夢のある属性ゆえ、妹をヒロインに据えたフィクションは古事記の代より数知れず。
前世では兄も姉も弟もいたが、妹だけはいなかった。現実の姉を知る者としては、姉よりも妹萌えに走ろうというものだ。
生前好きだったラノベだのギャルゲーを思い出したルーデウスは、追随するように転生の直前、つまり死ぬ前に見た光景を脳裏に興した。
トラックに跳ね飛ばされ、コンクリートの壁に叩きつけられた彼は、容赦のない雨粒を仰向いた全身に浴びていた。
そのときに、唯一動かせる眼球が、捉えたのだ。
色白で華奢な巫女服の少女が、横に寄りそうように寝そべっていた。
彼の目は少女の肩越しに、再び迫りくる巨大な車体も捉えていた。
「 」
薄い桃色の唇が動いていたと思うのだが、何と言ったのか。
あの場所には三人の高校生と、俺と、トラックの運転手しかいなかったのだ。
頭も打っていたから、そのせいで見た幻覚だろう。巫女服っていいよな。うん。
あの少女は俺の幻覚であってほしい。
生きた人間だったら、百キロ越えの俺が死んだのだ、まず助からず彼女も死んだだろう。
兄弟に家を追い出された俺も可哀想だが、まだ若いのに死ぬのも可哀想だ。
と、ルーデウスはそのように考えていた。
パウロからシンシアを受けとり、寝台の傍らの揺りかごに寝かせたリーリャがそっとゼニスに進言した。
「奥様、そろそろお休みになられては?」
「あ、そうね。じゃあ、ルディ、シンシアにおやすみの挨拶をしてあげてね」
「はい。おやすみ、シンシア。また明日な」
ありふれた家族の一幕。
ありふれた光景の、しかし唯一無二である我が子達の姿に、ゼニスは幸福な笑みを浮かべた。
「あの、母様」
「ん?」
「赤ちゃんが生まれたあとは、母様も赤ちゃんもしばらく安静にしなきゃいけないのに、住み込みの家庭教師を雇って大丈夫なんですか? 僕のことは後まわしにしても……」
「あ~ん、ルディったら、なんて良い子なの!」
ゼニスのベッドから降りようとしていたルーデウスは、強く抱きしめられ「むぎゃっ」と声を出した。
「大丈夫よ。いつ来られても迎えられるように、部屋の準備はもう済ませたし、うちにはリーリャもいるもの。私も治癒魔術があるからすぐに動けるようになるわ」
「そ、そうですか……」
(そうか、治癒魔術があるんだった。
さすが剣と魔法のファンタジーの世界だ。)
地球の中世よりは、出産における母子の生存率はかなり高いのだろう。
転生して三年、今日も新たな知見を得たルーデウスは、まもなく家を訪れるという魔術の教師と、この世に存在するであろう魔術の数々に触れる未来に気をとられ、シンシアが自分と同じ転生者である可能性のことは微塵も考えてはいないのだった。
死ななければ太平は得られぬ。
そのような賢しらなことを言えるような知識人は、私を含め、身の回りにいなかったから、小説に書いてあった文言であろう。
思い返せば、農村には珍しく、カタカナであれば読めた父が、囲炉裏の火を頼りに小説を読み上げるすがたが浮かぶ。
食事と小説の時間だけ、私は陽の射さぬ納戸から、板の間の囲炉裏端にいざって来た。
小説。暮らしが上向きになるまでは考えられなかった娯楽だ。
熱病で足が萎え目が不自由になるのと引き換えに、トウビョウ様の力が使えるようになった。
トウビョウ筋の家に生まれたが、力はいっさい無く、父を産み老人まで生きた祖母と、力を使えたがために望まぬ姦通の後に祟り殺された私。
どちらが安楽であったろうか。
黒い空間をただよっていた頃は、太平を得ていたのだろうか。
トウビョウ様のお告げを伝えるためだけに生かされていた頃よりは自由であったかもしれない。今となっては、すべてが靄の中に取り残されたように曖昧である。
時間というものは生まれてから死ぬまで一瞬の空白もなく流れるのに、記憶は、気まぐれにちぎった絵の断片でしかないのだ。絵の断片のように、情景は思い出せる。しかし、そのときの私が何を思っていたのかは、もうわからない。
「たー、あう」
「――、――――?」
空腹感をおぼえ、そばを横切る女性に向けて声を出してみる。目に慣れぬくっきりした造形の顔立ちに、西洋の服を着た彼女は、軽々と私を抱え、何事か話しかけると、私を抱いたまま移動した。
「――――、――」
「―――! ――……」
移動した先で、しゃがんで庭仕事をしていた女性に渡される。彼女は庭仕事を中断し、日陰に置いた椅子に腰かけると、乳房をだした。
私は口をあけて先端に吸いつき、彼女の乳から流れる母乳を腹がくちくなるまで飲んだ。
何の話をしていたっけ。
あ、眠い……。
うとうとしていると、縦抱きにされて背中を叩かれる。ごふっ、と息を吐くと、女性が歩いているのだろう、肩越しに後ろに流れていく景色が見えた。
立ち止まった。
下から幼い男の子の声が聞こえてくる。
横抱きに変えられ、景色が下降してゆく。私を抱いた女性がしゃがんだようだ。
少し離れた場所には、青い髪の子が立っている。
彼女を初めて認めたときは、何かと思って凝視したものだ。
青空よりも濃い青の髪である。妖怪か化生の者かと思ったが、何でもないことのようにそこにいたため、悲鳴もあげられず慄いて気を失うこともできなかった。
そして凝視を続ける私に、青髪の化生は、おさげにした己の青髪を持ちあげて、なんと私の手に握らせたのだ。
視界にいるときは、以前より明瞭になった目で見はっていたが、人を喰ったり、悪事をしたりする素振りもない。
化生だが悪い者ではない、と私は知ったのだった。
「――!」
笑顔の男の子に顔をのぞきこまれ、頬をつつかれる。この体では這って移動しかできないため、最近は自分の顔を見ていないが、手足が赤ん坊のように奇妙に縮んでいるのだ。顔など、さぞ醜く縮んで歪んでいることだろう。
もう一人、快活な感じのする男がひんぱんに顔を見せるのだが、今はいないようだ。
死んだと思いこんでいたところを生還し、しかし手足が赤ん坊のように縮む奇病に罹患していた私を、この異人の一家は、いやな顔ひとつせず面倒をみてくれる。
この男の子の母と思わしき人など、歯をなくした私に、我が子に与えるはずの乳を分けてくれる始末だ。
それにしても彼女の赤ん坊が見当たらないから、死産であったのだろうか。
目蓋を閉じ、目の前の女性を視る。
頭の両端が熱くなり、絵が浮かぶ。
不吉な結果であれば頭が痛む。
しかし、痛みはなく、女性が赤子を抱いている絵が、三つ見えた。赤ん坊のほうは三つの絵ともそれぞれ異なり、そのうちの一つは、私の頬をつついた男の子が生まれた直後だろうと察せた。
他の一つは、まだ先の出来事であるようだ。
この家で厄介になり始めてから、一度は私の片腕をちぎったトウビョウ様は、また私に力を使うことを許してくださっている。
やりすぎたと思っていらっしゃるのか……。
いや、相手は神様だ。若い処女、それも片輪を好んでより強い呪力を与えること以外は、人間の尺度ではかれる相手ではない。
彼女は生涯で三人の子を産むが、夭折する子はない。
目出度いことだ、と安心していると、先を見すぎたのか、絵が変わってしまった。
透明な……氷? 石? の内部で、目を閉じて睡っている姿が見えた。
見えたのは一瞬。金卸のような鱗がビッシリ生えた巨大な胴体が視野を覆い、絵は消えた。
先見が意思を逆らって終わるのは、初めてであった。意味がわからない。
冬場に滝壺にでも落っこちるのだろうか。
だから凍りついているのか。
彼女たちの喋る異国語がわかるようになったら、水辺に用心するように告げなくては……。
以前は、未来を視て神託を下すのも、依頼人の行方不明の身内を探すのにも金を貰っていたが、これは無償でやるべきだ。お母でも、婆やんでもない人に、衣食住だけでなく不浄の世話もさせてしまっているのだから。
とくに世話をやいてくれる女性の将来をぼんやり危惧しつつも、私の意識は眠気に流されていったのであった。
すぅ。
「寝ちゃいました」
「ふふっ、そうねえ」
小声でしゃべるルーデウスに、ゼニスもまた、寝た赤子を起こさぬようにひそめた声で相槌をうつ。
午前に行うルーデウスの魔術の訓練を見せてみようと思い立ち、庭の裏に移動したのだったが、赤ん坊はまずロキシーを見て、次にルーデウスを見て、幼い兄に頬を優しくつつかれながら寝息をたてはじめた。
兄であるルーデウスは、同じ時期には知性の片鱗を見せていた。
妹は違った。泣くことこそ少ないが、這って家中を移動したり、本を熱心に眺めたり、口を動かしてこちらの言葉を真似ようとする素振りはない。
ぼんやりと虚空を見ていることが多いので、まだ気に病む時期ではないとは自分に言い聞かせつつも、ゼニスの心の底にはひそかに、澱のように不安が積もっていた。
リーリャは、むしろルーデウスのほうが特異で、これくらいの反応の薄さは個人差の範疇だと言うが……。
「シンディ。お部屋でねんねしましょうか」
シンシア・グレイラット。
家族からはシンディと愛称で呼ばれている。
転生という概念すら知らない彼女が、自分が別人に生まれ変わったことに気づくのは、まだ後のことである。