でも二週間後にまた試験です。ひぃ。
兄が学問のために家を出ることになった。
父様と兄が揃って出かける頻度が増えたとは気づいていた。
どこ行くの? 私も連れてって? と言ってもはぐらかされる。
事情を教えてもらえたのは、兄が通う学校が決定したあとだった。
この辺りではいちばん大きな町――ロアという都市にある、医学校。
正規の学生になるのではなく、そこで教鞭を執る外科医のもとで五年師事し、適齢になれば入学を許される。
そのときの兄の修練状況によっては、授業料免除、飛び級という措置もとられるそうだ。
ブエナ村からロアは馬車で半日近くかかる距離だ。自宅から通うことはできない。
それゆえ、兄はロアの町にある家に寄宿するそうなのだ。
「ぼれあす?」
「ああ。ボレアス家――お前たちの大叔父と、父さんの従兄弟とその奥さんが住んでる家だ。そこでルディの面倒を見てもらう」
「どうしても行っちゃうの?」
「ああ。寂しいけどな、ルディのためだ。だからシンディも笑顔で見送ってやれ。なっ?」
「……うん」
いやだ。行ってほしくない。
でも私はもうお姉ちゃんだ。わがままを言ってはいけないのだ。
リチャード君とエマちゃんという先例があり、好きな人と離れる心の準備は、以前よりうまくできるようになった。
そうしてエマちゃんの時と同じように、馬車で迎えがきた兄を見送った。
その日の晩に、ノルンとアイシャを構っていると、
「子供が一人足りないわ……」
私たちを見た母様がそう呟き、ちょっとだけ泣いた。
おたおたしていると、リーリャが、今日の昼間までここにいた兄が急にいなくなって寂しいのだと教えてくれた。
ノルンと一緒にくっついて母様を慰めてあげた。
兄が家を出て、大暑から処暑になった。*1
生前の村とブエナ村では肌で感じる気候が微妙に異なるし、うちは百姓ではないので、よけいに二十四節気にうとくなりがちだ。
そして、お兄ちゃん事件です。
アイシャがおしゃべりします。まだ十ヶ月なのに。
アイシャは……あ、いた!
食堂のテーブルの下で雪白のしっぽをしゃぶっている。
私が近寄ると、雪白はため息を吐くみたいにフーッと鼻息を強めに鳴らしてどこかに行った。
子守りをしていてくれたらしい。あとで喉をいっぱい撫でてあげようと思った。
「にゃにゃ、なーい」
ぽつんと残されたアイシャが悲しそうにつぶやいた。
私はテーブルの下に入り、アイシャの横に座る。
父様がテーブルの下に座ろうとすると、天板に頭をぶつけてしまうけれど、私とアイシャなら頭上に十分な空間がある。狭いところでも伸び伸びできるのは体の小さい者の特権だ。
「アイシャ、これなーに」
「いしゅ」
「この人だあれ」
「ねねちゃ」
賢いアイシャは、これ、この人、と言いながら物や人を指さすと、名前を答えてくれるのだ。
いしゅ、は椅子。ねねちゃ、は私のことだ。お姉ちゃん、って言いたいんだと思う。
「アイシャはかしこいねえ」
「かちこ」
「うんうん、かちこだよ」
頭を撫でてあげると、アイシャは自分でぱちぱちと手を叩いた。
「あんぶ、ねねちゃ、あんぶ」
「おんぶね、いいよ」
転ぶと危ないから、おんぶと抱っこも座った姿勢でしてね、と母様に言われている。正座したままアイシャに背中を向けると、ちっちゃな体が全身でしがみついてきた。
「あー! んま!」
食堂の入口で、伝い歩きをしてきたノルンが私たちを見て声をあげた。
ノルンはまだアイシャのように訊いても答えないし、意味のある単語は言わない。
人を呼んでいるのだろうか。私はアイシャをおんぶしているから動けないけれど。
「ノルン、お姉ちゃんここよ。おいで」
「あちゅっ! ばうば」
ごめんね、お姉ちゃん嬰児語は忘れちゃった……。
私が動かないことが嫌なのか、ノルンが泣きそうな顔になる。
母様は二階でお掃除中である。リーリャは台所にいるが、えんどう豆の鞘剥きをしていて忙しそう。
「あら?」
ひっつき虫になっていたアイシャが背中から剥がれた。
これでノルンの所に行ける、と思いきや、アイシャはすぐさま私の袖を握ってきた。
そして、ちらちらノルンの方を見ながら、私にぴたっとくっついた。
「びゃああああ!」
ノルンは泣いた。アイシャを見ると、ノルンを見てにやにやしている。
意地悪をしたいのではなく、思ったような反応があって喜んでいるのだと思いたい。
「よしよし、なにが悲しいの」
リーリャが作業を中断し、ノルンを抱きあげた。
ノルンは浮世の終わりのごとく泣きながらこちらに手を伸ばす。リーリャは「お姉様がいいの?」となだめる声色で言い、ノルンを私のそばに立たせた。
「うー」
泣きやんだ。
よだれかけで涎と涙を拭いてあげた。
「ノルンお嬢様もアイシャも、シンシアお嬢様に懐いていますね」
テーブルの下を覗き込んだリーリャにそう言われ、つい笑みを返した。そうだったら嬉しいな。
「アイシャ。シンシアお嬢様を貴方が独占してはなりません。ノルンお嬢様に譲ることを覚えなさい」
「やう!」
「待ちなさい!」
アイシャを抱っこしようとするリーリャの手を、アイシャは這って逃れた。
所詮は大人と子供なので、すぐに捕まり、うけけっ、とアイシャが笑った。かわいいね。
「アイシャのおしゃべり増えたこと、お兄ちゃんへの手紙にかく?」
「いえ、この子はまだ、ルーデウス様に仕えさせるには未熟ですから」
未熟だから、伝える価値もないという意味だろうか。
そんなの寂しいと思うが、リーリャはアイシャを兄専属の女中に育てたいらしい。
兄は妾腹も同腹も区別せず、アイシャをノルンと同じくらい可愛がっていたのに。
「でも、リーリャは、アイシャがおしゃべりしたら嬉しいでしょ?」
「ええ、まあ……そうですね」
「お兄ちゃんもおんなじよ。妹が成長したら、うれしいよ」
リーリャは少し考えてから、兄への手紙にアイシャの様子も書き加えることを約束してくれた。
「お嬢様も書かれますか?」
「いいの!?」
手紙を書いて送るのって、子供もしていいの?
勝手にできないと思いこんでいた私であったが、リーリャの話を聞いた母様から麻紙を一枚もらえた。
「紙はたくさん用意できるわけじゃないから、失くしたり破ったらダメよ?」
「わかった」
つまり丁寧に扱わないといけないのだ。神妙に頷くと、
「うん、良い子ね」
片腕にノルンを抱っこした母様に撫でられた。うれしい。
読むのと書くのは違う。私は読むのはできるけれど、書くのはまだ上手にできない。
ぶっつけ本番で紙に書き込む前に、文章を書く練習をしたい。
自分の部屋に行き、書蠟板を抱えてもどると、シルフィが来ていた。シルフィはリーリャに抱っこされたアイシャの足をつんつん突いている。
「シルフィおはよ」
「おはよう、遊びに行こ!」
「行くー!」
後ろから抱っこされて、くるくると部屋が回転する。抱えて回されているのだ。楽しくて笑ってしまう。
シルフィとは元々よく遊んでいたが、エマちゃんに続き、兄がいなくなってからというもの、彼女は前にもまして構ってくれる。
シルフィは女の子だけど服装や口調が少年みたいだから、お姉ちゃんというより、お兄ちゃんみたいだ。
おかげで、想像していたより寂しくはない。
「えっとね、でも、お手紙……」
「行く」と即答してしまったが、手紙を書く練習をする気でいたのだった。
「手紙を書くの?」
「そう。お兄ちゃんにあげる前に、れんしゅーする」
「練習? そっか、エラいね」
シルフィは「ボクも頑張らなきゃ」と明るくつぶやき、私の頬をむにむに揉んだ。シルフィは読み書きはできているはずだから、その決意は他の分野に対してのものだろう。
「じゃあ、外でやろうよ。ボクも教えるからさ」
「シルフィやさしいね。好きよ」
「えへへ」
シルフィと外に出ようとすると、ノルンが私たちに手を伸ばして「あー!」と何事か訴えてきた。
体も乗り出して、置いていかないでー! と言っているかのようだ。
そんなノルンを母様が説得する。
「ノルン、お姉ちゃんたちはお外に行くのよ。バイバイしようね?」
「やああん! あー!」
ノルンは母様の説得にもめげなかった。寄って行って、手を握ると、ノルンは静かになってぎゅっと握り返してきた。
「一緒にいきたいの?」
口をきけないノルンが答えることはないが、母様が困った顔をして「お外はもうちょっと大きくなってから」とノルンに言って聞かせた。
「ノルンちゃんはボクが見て、……見てましょうか?」
「あら、大変よ? 任せて大丈夫?」
「うん、大丈夫! ……です!」
シルフィは、母様に対して、兄みたいな喋り方をした。敬語というやつだ。シルフィは兄のようになりたいのだろうか。
母様は申し出たシルフィの背中にノルンをおんぶ紐で結びつけ、私にもノルンの世話をきちんとするように言いつけた。
言われなくても承知している。まかせて! と胸を張り、私はノルンを背負ったシルフィと外に出たのだった。
野生化した燕麦やメヒシバが、畑のはしでそよいでいる。
燕麦の波に、にょっきり立つ人影を見つけ、ノルンに指さして教えた。
「ノルン、かかしあるよ、かかし」
藁で作られた人形は両腕を広げた人間の形をして、色あせた農夫の服を着ている。
ノルンは烏おどしの案山子を見て、シルフィの背中に顔をくっつけた。そしてちらっと顔をあげてまた見て、いやいやと首を振る。その仕草が妙にかわいい。
「こわいのかな」
「ね」
燕麦の茎をぷちんと引きちぎって、ノルンの目の前で穂を揺らしてあげると、ノルンの顔に、にこーっと笑みが広がった。笑うといっそうかわいい。
「私たちだってそこ使いたいんだけどー」
「昨日もあんたたちが独り占めしてたじゃん!」
「早いもん勝ちだよバーカ!」
「遅く来るほうが悪いんだろ!」
川に行くと、口喧嘩が起きてきた。
ソマル君ひきいる男子陣が裸になって川で遊んでいるときに、女子陣が来て場所争いになったらしい。ソーニャちゃんがシルフィと私を見つけ、味方を見つけたように心強そうな顔になった。
メリーちゃんが男の子の数を数えて言った。
「ソマル、ヤーナム、ヨッヘン、レミ、そっちは4人だけ? こっちは、私とソーニャと、ハンナとセスと、シルフィとシンディで6人でしょー。多数決で私たちにゆずってよ」
「……ルーデウスも、意見が割れたらタスーケツって言ってたな」
「い、いや! ワーシカのこと数えてないだろ!」
セスちゃんがソーニャちゃんと手を繋いでる二歳のワーシカを見て、ソマル君のことを冷めた目で見た。
「ワーシカ入れてもそっちは5人だけど。こっちは6人だけど」
「うぬぬ……」
「しょーがねーだろ、リチャードもルディも居なくなっちまったんだから」
「とにかく、あんたたちは毎日川で遊んでるんだから、今日くらい私たちに譲る!」
「毎日じゃねーし!」
セスちゃんとソマル君が睨みあう。ソマル君がバシャっと水飛沫をセスちゃんの足元に掛け、すぐさまセスちゃんが水弾をソマル君の顔に叩き込んだ。
「みんなで遊ばないの?」
ぽてぽて歩いて私のもとに来たワーシカの頭を撫でながら、二人に訊いた。男女いっしょに泳いでもいいし、それが嫌なら川にかかった橋で互いの縄張りを区切って遊べばいいのに、と思うのだ。
「えー、だって、裸になるんだよ?」
「? うん!」
当然だ。濡れた服で過ごしたら風邪をひく。
ソーニャちゃんがちょっとビックリしたように言った。
「男の子の前ですっぽんぽんだよ? いいの?」
「うん」
すっぽんぽんならたまに父様と湯浴みをするときもなるし、別にいやだと感じたこともない。
生前ならどうだっただろうか。
生前は、今みたいに湯で濡らした布で体を拭くだけではなく、据え風呂に浸かる日もあった。
晴眼な幼子のときに、年頃の姉と据え風呂に入ると、村の男に覗かれるのはよくあることだったと思う。持ち運びのできる据え風呂を、夏は庭先や川べりに置き、冬は土間に置いて水を溜めて沸かすのだ。屋外に置いているときは言わずもがな、土間に置いても戸をちょっと開けて覗きにこられることはあった。
姉がいやな顔をして怒鳴りつけても、ちっとも視線は減らないから、嫁ぎ先が決まる年頃には諦めて何も言わなくなっていた。
私のときは、トウビョウ様の使いになってからは、祟りを畏れたのか覗きはぱたりと止んだ。
裸を見られるのが嫌、欲情の眼を向けられるのが気持ち悪い、という感覚はよく分からない。
だから、
「え!?」
私は抱えていた書蠟板を下草に置き、服を全部脱いで、川にばしゃんと飛びこんだ。水飛沫が盛大に跳ね、それは陽の光を浴びてキラキラ輝いた。
足裏に、丸い石の感触があった。緩やかに流れる澄んだ水にさらされっぱなしの石の冷たさが心地よかった。
真ん前のレミ君がおどろいた顔をしている。川べりを見上げれば、女の子たちも同じような顔をしていた。
なんだか楽しい。太陽に温められて少しぬるい水を手皿に掬い、バーカと女の子に悪口を言っていたヨッヘン君にバシャッとかけた。
「やったな!」
「あぶ!」
至近距離で倍になって返ってきた。ヨッヘン君がめちゃめちゃに水面を叩いているのだ。息をしようとすれば鼻と口に入ってしまうだろう。
エマちゃんかお兄ちゃんがいたなら、代わりに反撃してくれるのだが、もうどちらも遠くへ行ってしまった。
水の壁から顔をそむけて、たまたま目があったシルフィに、「助けて!」と言ってみる。
「わ、わかった!」
シルフィはおんぶ紐を解き、ノルンをハンナちゃんに預けると、ぱぱっと服を脱いで川に飛びこんだ。
兄に負けない速度で生み出された水弾が、男の子たちにぶつかる。
ソマル君がニヤニヤ笑いながら魔術で作った泥玉を投げた。
「反撃だ! 目つぶし!」
「うわっ」
泥玉はやや逸れ、シルフィの胸元を直撃した。
シルフィが水をかけて洗い流し、ぷりぷり怒って言った。
「それはダメだよ! 川が汚れてもいいの!?」
「ダメだな! ごめーん!」
「よし、謝れてえらいね!」
兄も友達が何か間違ったことをしたとき、何がいけなかったのかを説明して、謝った子には「ちゃんと謝れてえらいな」って言っていたのだ。
「シルフィ、お兄ちゃんみたい!」
私がそう言うと、シルフィは長い耳をぴんと跳ねさせて嬉しそうに笑った。
私たちはまだ胸にも腰にも肉のついていない年頃である。美しく性別があいまいな顔立ちのシルフィが裸になると、上半身は白皙の少年のようだ。
「いいなー、私たちも入ろーよ、ソーニャ」
「うん! 待って、ワーシカも脱がせるから……」
「男子こっち見ないでよ!」
「見たらヘンタイって言うからね」
ノルンを抱っこしているハンナちゃんが川べりに残り、他の女の子は全員きゃあきゃあ言いながら裸になり、川に入った。
「男と女に分かれて勝負しようぜ」
「ダメだよー、ワーシカもノルンもいるもん」
メリーちゃんがすっぽんぽんにしたノルンをハンナちゃんから受けとり、そっと水に浸けながら答える。ヤーナム君がノルンの顔を覗き込み、「泣きそう!」と叫んだ。
彼も一歳の弟がいる。一度泣きだした子を宥める手間を知っているのだろう。
「シンディ来てー!」
「はぁい」
呼ばれ、胸まである水の中を跳ねるように移動してノルンの元に向かった。ノルンは泣きそうな顔をして私に手を伸ばした。
ぎゅっと手と足をつかって猿の子みたいにしがみついてくる。
水の中だから私でも軽々と抱っこできた。
「どんな顔? ノルンどんな顔してる?」
表情が見えないので周囲の子に訊くと、「まだ泣きそうだよ」と近寄ってきたレミ君が答えた。
ワーシカは「おぼれたら危ないね? 抱っこしててね?」と言いながらソーニャちゃんに抱きついている。あの子もお喋りが上手になった。
「見てみてノルンちゃん、花車だよ」
そう言ってセスちゃんが見せたのは、真ん中の黄色い蕊を抜き、細い草の軸を通した梔子だ。
軸の両端を手でもち、水面に浮かべると、水流によって白い六枚の花弁がくるくると回った。花の甘い匂いもただよってくる。
「面白いねえ、ノルン」
「……」
「あっ、ノルンちゃんちょっと笑った!」
ノルンが前を向くように抱き直したから、やっぱりノルンの表情は見えないが、笑ったらしい。よかった。
クルクル回るといえば、先ほど燕麦を取ったのだ。燕はこの辺りでは見かけないから、カラス麦と呼んだ方が他の子には伝わるだろう。
「カラス麦とってほしいの」
「あそこ?」
レミ君が私の服を置いた場所から、カラス麦を取ってきてくれた。
「お礼に一個あげるね」
「ありがとう……?」
ノルンをシルフィに預け、穂をぷちんと切ってレミ君にもあげた。
どんな玩具であるのか思い出したらしいレミ君が、「これ知ってる」と得意気に言った。
「クルクル回るやつだ!」
「そーだよ」
右手の甲に穂を一粒おき、濡らした左手の指先から水滴を垂らして濡らした。すると種子から伸びた
時々息を吹きかけて手助けしながら、回転する種子をノルンに見せると、ノルンは種子をつかんで不思議そうに眺めだした。
「掴んでたら回らないよ、バカだなー」
「赤ちゃんだから何にも知らないの。しかたないの」
ノルンを馬鹿呼ばわりとは何事か。
むっとなって抗議すると、頬をつまんで伸ばされた。おのれ。
別事に気を取られたおかげで、ノルンは水を怖がっていた事は忘れたようだ。
「ノルンちゃんかわいいねー、つぎ私にも抱っこさせて」
「私も私も!」
「お、俺も!」
たくさんのお姉さんお兄さんに可愛がられて、ノルンはご機嫌だ。水面を叩くだけで褒められるくらい可愛がられている。
ヤーナム君など「俺の弟よりかわいい」と言って憚らない。ちゃんと自分の弟も可愛がってあげてほしい。
今度はアイシャも連れてこよう。
リーリャはお母さんだけど、必要な時以外はあまりアイシャと触れ合わない。今は赤ちゃんだから分からなくても、もう少し大きくなったらアイシャはそれを寂しく思うかもしれない。
だから無条件に褒められて、可愛がられやすい赤ちゃんのうちに良い思い出を作っておく。そして大きくなったアイシャに、あなたはそこにいるだけで好かれていたんだよ、って教えるのだ。
「どうしたの、なんで泣くの?」
ソーニャちゃんの方を振り向くと、足を水につけ、川べりに座ったソーニャちゃんの白いお腹に、ワーシカが顔をくっつけていた。どっちも裸だ。
「ねえねえ」
「あ? なに?」
たまたま私の前を泳いでいたヨッヘン君を呼び止めた。
派手に水飛沫を上げながら犬かきをしていたヨッヘン君は、泳ぐのをやめて、私の指の先を見た。
「泣いてる」
「あっそ」
「なぐさめてあげないの!?」
外道だ。ちっちゃな子が泣いてるのに。
ヨッヘン君はしぶしぶ私についてきた。めそめそ泣いているワーシカをソーニャちゃんと一緒によしよしと撫でていると、ヨッヘン君が「わかった!」と声を上げた。
「こいつ、ノルンが羨ましいんだ」
「ノルンちゃんがみんなに人気だから?」
「そーそー、でもエラいな。ユリアンだったら俺を殴ってきたのに、ノルンのこといじめないじゃん、ワーシカは」
ユリアンはヨッヘン君の四つ年上の兄だ。
ヨッヘン君は、長男と次男とは十歳以上年が離れているが、この比較的年齢の近い三男のユリアン君には、小さな頃はさんざんぶたれたり蹴られたりしていたらしい。
「そうだったんだ」と目をぱちくりさせ、ソーニャちゃんが呆れた顔でワーシカを見下ろした。
「もー、泣かないの、家じゃママにたくさん抱っこもチューもされてるじゃない。それに、ノルンちゃんが産まれる前は、シンディにたくさん遊んでもらってたでしょ。じゅんばんよ、じゅんばん! 人気者の座はもう小さい子に譲るの!」
「やだあああ!」
手厳しい言葉を浴びせられ、ワーシカは大きな声で泣いた。
「おぼえてないもんん! 赤ちゃんのときはぁ!」
「たしかに」とヨッヘン君が吹き出した。
「そ、そうだよね、憶えてないよね。ノルンがうらやましいよね」
私は慌ててワーシカに腕を伸ばした。
私は前世があるおかげか、赤ん坊の頃のことも憶えていられる。母様やリーリャ、兄や父様にたくさん言葉をかけてもらって、身の回りの世話をしてもらったことも憶えている。
もし、まっさらな状態で、自分以外の家族が優先的に妹たちの世話をしているところを見たら、烈しく嫉妬したかもしれない。
「ほら、シンディお姉ちゃんが抱っこしてくれるって。よかったね」
「う゛うう」
川の深さは私の胸ほどだ。二歳の男の子が川底に足をつけたら、口元まで水に浸かる。
鼻は出ているから溺れはしないだろう。私はワーシカを水中で抱きしめた。
「ぴゃっ」
おっぱいを吸われた。びっくりした。
びっくりしたまま、何となくソーニャちゃんを見る。
「あーあ、お姉ちゃんので我慢してよ……」
ソーニャちゃんはざぶんと下半身を水面に滑り込ませ、膨らみのない胸をワーシカに近づけた。
ワーシカははらはら涙を零しながらソーニャちゃんのおっぱいに吸いついた。
「おっぱい出るのか?」
「出ないよ」
「出ないのに、すうの?」
「なんかね、こうすると泣きやむの」
私とヨッヘン君はまじまじと姉弟を眺めた。
私も、ノルンかアイシャがどうしても泣き止まないときは、おっぱいを吸わせればいいのだろうか。
「わたしのも吸うかなー?」
メリーちゃんが興味深そうに近寄ってきた。彼女は下に弟妹がいないから、授乳もどきの光景が珍しいのだろう。
「ためしてみる?」
「うん、やるー」
「ソマルの胸も吸うんじゃない?」
「やだよ俺おとこだし……うわっ、離せ!」
「まあまあまあ」
「抱っこしてみるだけ、抱っこしてみるだけ」
ハンナちゃんとセスちゃんに二人がかりで抑えられ、ソマル君はギャーっと悲鳴をあげたのだった。
ワーシカは女の子のおっぱいなら誰のでも吸った。
私は最初こそ驚いたものの、しばらくすると楽しくなってきた。なにせ本格的なお母さんごっこみたいなものだ。
ワーシカはみんなに構われて嬉しそうになり、私たちも体が冷えてきたこともあり、岸にあがった。
「ノルンちゃーん、体乾かそうねー」
「んきっ」
シルフィが風と火の混合魔術で暖かい風をノルンに当てる。
左手のみ魔力を通さない私は、両手が必須の混合魔術はできないので、見ているだけだ。姉として不甲斐なし。
「ノルン、鳥さんはどこ?」
風を当てられて愚図りかけていたノルンは、ちょっと考える顔をしてから無言で空を指さした。すごいねえ、と拍手をして褒めると、ノルンがにやっと笑う。これでしばらくは泣かないはずだ。
母様はノルンが喋らないことを心配していたけれど、こうして仕草を見ていると、喋らずとも色々と理解しているのだということがわかる。
日向ぼっこで体を乾かそうと岩の上によじのぼると、先客のヤーナム君が体をずらして場所をあけてくれた。
体を乾かしてから服を着て、木に手をついてつかまり立ちをするノルンがふらふらとどこかに行かないようにシルフィと見張る。
「つかまえた! カナヘビ!」
「しっぽ切ってみよう」
「どっちが長く潜ってられるか、勝負な!」
「せーので行くぞ!」
「さっきの花車ってどうつくるの?」
「えっと、まず細くて丈夫な草を……」
「ワーシカ、サイフォンの実験してみる?」
「やだ! さいおんやだ!」
「もうっ、これだからイヤイヤ期は」
「じゃあお姉ちゃんたち二人で行っちゃお。ばいばーい」
「かぼちゃの茎取りに行こー」
「やだあああ!」
「……」
服を着せられたノルンがきょとんした顔で、ひっくり返って叫ぶワーシカを指さした。
「ワーシカお兄ちゃんが泣いてるね」
「おにいちゃんじゃない! ノルンちゃ、あっちいって!」
ワーシカはぷんぷん怒ってこちらに来ると、私の膝の上にすわった。
「おにいちゃんじゃなーい」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「シンディお姉ちゃんはワーシカのお姉ちゃんだけど、ワーシカはノルンのお兄ちゃんになれない?」
「なれないよ」
あらら。
にこにこしながら抱きついてくるワーシカがかわいいから、小さな子に優しくしなさい! と怒る気も失せる。
ノルンもあっち行ってと言われて悲しんでいるわけじゃないし、まあいいか。
「ギャー! 人さらい!!」
突如聞こえてきたレミ君の悲鳴。
シルフィが即座にノルンを抱え、ワーシカと私を背中に庇うように立った。
「違う!」
次に聞こえてきたのは、やや低い女の人の声だった。
脅すために調子を落としているのではない、そもそもの地声が低いのだろうという感じの声だ。
せっかく庇ってくれたけれど、シルフィの後ろからずれて声の方を見ると、褐色肌で白い髪の女が、川にかかる小さな橋に立っていた。
毛並こそ違うが、頭には猫の耳が、臀からはしっぽが生えている。
収穫祭の時期に村にいた、ツィゴイネルの一家と同じ獣族だ。
獣族の女は、レミ君の首根っこをつかんで持ち上げていた。
「あたしはギレーヌだ。人さらいなどせん」
「じ、じゃあ、れ、レミを離せ!」
「でっかい声出すぞ!」
「大人の人よぶよ!」
「にゃんこニンゲンめ!」
「マゾクめ!」
「違う! デドルディアだ!」
「うるさいよ!」
メリーちゃんの鋭い声に、ぴたりと喧騒が止む。
メリーちゃんはギレーヌという人に歩み寄り、「レミがごめんなさい」とぺこりを頭を下げた。
「え、ええ……? 僕が悪いの?」
「レミの水弾がこの人に当たったんだよ。さっき、ヨッヘンと水弾ぶつけあって遊んでたでしょ。流れ弾が当たったの。
……だから怒ってるんですよね? ごめんなさい。わざとじゃなかったんです」
「ああ。驚いて、とっさに捕まえただけだ。わざとじゃないなら、許す」
そう言って、その人はレミ君を橋に下ろした。
レミ君が川に放り捨てられなくてよかった。
危険な人ではないとわかり、みんながわらわらと周囲を囲む。村の外から来た人が珍しいのだ。
私も近寄った。近くで見ると、はるか上にある彼女の顎や顔の横にかかる髪からはぽたぽたと水が垂れていた。
頭からまともに被ったのだろう。
彼女はかろうじて乳首を隠し、ついでに片目を眼帯で隠している他は、上半身がほとんど裸であったので、服はそんなに濡れていない。
つい見上げて眺めていると、赤茶色の瞳がちらっとこちらを見た。
「パウロという男の居場所を知らないか? 家まで訪ねたのだが、馬と黒猫の他は誰もいなかった」
「知ってる!」
「家建ててるー!」
「家? パウロが引っ越すのか?」
「ちがうし、イッシュとエーヴの家だし」
イッシュさんとエーヴさんが結婚して、次男のイッシュさんが羊を何十匹かもらって家を出るのだ。
といっても、暮らすのはブエナ村である。空き家はないから、新しく建てることになる。
住まい程度の建物ならば、大工は雇わない。村の男衆が協力して建てる。家に誰もいなかったのは、多分、今日は家が男衆の昼食をまかなう当番だからだ。
「父さまのともだち?」
「…………ああ、そんなものだ。お前はゼニスとパウロの娘か。道理で似ている」
ちょっと気になる間があったが、そういうことなら、と父様のもとまで案内することにした。
「ボクも行くよ」とシルフィが同行してくれる事になり、他所の人が珍しいのもあって、結局みんなでぞろぞろと移動することになった。
「名前はたしか、シンシアだったな」
「そうだよ! お姉さんは、ギレーヌさん、って言うんでしょ」
「ギレーヌでいい。お前の話は、ルーデウスからよく聞いている」
「お兄ちゃんのともだち!? お兄ちゃんげんき!?」
「ああ、元気にしているぞ。ルーデウスとは友達ではないな。師弟だ」
「してー」
「字の読み書きを教わっている」
「そうなの」
「ああ」
「わたしもね、昔読めなかったけど、いまは読めるよ。ギレーヌもできるようになるよ。がんばってね」
「む。そうか、ありがとう」
道中で、男の子たちが朝顔の葉をちぎり、指の輪にくぼみをつけて叩き、音を出して遊びはじめた。
破裂音が鳴る度に、ギレーヌの猫の耳がぴくっと動くのが面白い。
「ギレーヌもやる?」
大人だからやりたがらないかな、と思ったが、ギレーヌは乗り気だった。
ヨッヘン君から葉を一枚受けとり、「どうすればいい?」などと訊いている。
「そんなに強く叩いたら破れるよ」
「力加減が難しいな」
「なんだ、大したことねーな、ババア! 俺なんて花びらでも音鳴らせるぜ」
「なんで指輪つけてんの?」
「獣族のお守りだ」
ギレーヌは「ババア」と言ったソマル君の頭を、鞠を掴むみたいに片手で掴んだ。
「いってえ!」と悲鳴をあげるソマル君が可哀想だったから、褐色肌の手首にすがって「離してあげて」とお願いすると、ギレーヌはあっさりソマル君を解放した。
「痛かった?」
「超いてえ。指輪の部分がゴリゴリってなった」
お守りの指輪は武器にもなるようだ。
ギレーヌは木陰にあぐらをかいて座り込み、叩いては破ける葉っぱとにらめっこしていたが、
「あたしも教えてやろう」
と、葉を捨て、茂みの
「ギレーヌ、ホオズキ笛鳴らせるの?」
「なんだ、知ってるのか」
「知ってるけど、うまくできない」
「女の遊びじゃん」
みんながギレーヌにわいわい群がりはじめた。私は書蠟板を脇に置き、ギレーヌの腕の下をくぐってあぐらの上に座る。
おかげで彼女の手元がよく見えるようになった。
「女の遊びというが」
ギレーヌは酸漿の嚢を裂き、中から艶やかな紅玉を取りだした。この簪の玉のような美しさが、女の子に好まれ、男の子に忌避される由縁である。
「剣神様は男だが、この笛の作り方を教えたぞ」
「剣神って、七大列強のやつだろ! なんで剣神がギレーヌに教えるんだよ!」
「剣神様があたしの剣の師匠だからだ」
「えー!」
「うっそだー」
「あたしが嘘をついてると言いたいのか?」
ギレーヌが睨みをきかせると、ヨッヘン君とヤーナム君はぴっと気をつけの姿勢になって首を横に振った。
ギレーヌの顔は怖かった。あそこにいるのが私だったら、きっと私も同じように動いただろう。
「まず実をよく揉んで柔らかくする。皮が破けないようにな。破けたらやり直しだ」
「なんか汁でてきた」
「舐めてみたら? 超甘いよ」
「おえっ」
「にっっが! 騙したな!」
ギレーヌは忍耐強く、丁寧に紅玉を揉みやわらげた。
シルフィはときどき体を揺らしてノルンの機嫌をとりながら、ギレーヌの隣でそれを真似ている。
「つなぎ目が離れて、実だけ回せるようになるまで揉め。辛抱強くな」
「はーい」
「あ、破けた」
「ギレーヌのしっぽ触っていーい?」
「今はダメだ。気が散る」
ギレーヌは十分解れたことを確認すると、紅い皮をつまんでそっと引っ張った。
萼にくっついた種混じりの中子が、ゆっくりと実から抜けていく。見ていて小気味が良い光景だ。
私も早くやりたくて、せっせと酸漿の実を揉みこむ。
「空っぽの中に息を吹き込んだら、笛になる」
頭上からギュッギュッと若蛙の鳴き声のような音が降ってきた。
さっそく鳴らしているらしい。
私も中子を引きずり出し、空になった皮を膨らませて、孔を下にして舌の上に置いた。吸う息で膨らませつつ、繰り返し歯茎と舌で押し潰して音を鳴らした。
「上手いな」
「えへ」
一個目で成功したのは、ギレーヌのほかは、ハンナちゃんと私だけだった。メリーちゃんとシルフィは二個目、他の子は三個目か四個目で成功し、最後までできなかったのはソマル君で、悔しそうにしていた。
「食べちゃったの!?」
「まじゅい」
「もうっ」
ソーニャちゃんが酸漿を食べてしまったワーシカの腹に解毒魔術をかけ、ギレーヌはそれを眺めつつ、立ち上がった。
そのついでに抱っこされ、片腕に座らせてもらえたので、父様はあっちだよー、と指さした。
「だろうな。この距離なら匂いでわかる」
そうなのか。
すんすんと空気を嗅いでみたけど、嗅ぎなれた木草の匂いがするだけだ。父様の匂いとやらはわからない。
「この村の住人は、みんな魔術を使うのか……」
すごいなあ、と思っていると、ギレーヌが感心したように呟いた。
視線の先はソーニャとワーシカ姉弟である。すごいと思うことは人それぞれであるらしい。
「父さま!」
建てかけの家、積みかけの石垣の脇で、車座になっている男衆の中に父様がいた。
母様とリーリャは彼らにパンを配り、ヤカンでお茶を注いで回っている。
暑いのだろう。父様たちは上裸で首に手拭いをかけていた。
父様と母様のちょっと驚いたような目、それ以外の怪訝そうな目が一斉にギレーヌを向くが、彼女は気にしたふうもなく父様に歩み寄った。
「父さまのともだち連れてきた!」
「そーかそーか、案内してやったんだな」
「久しぶりね、ギレーヌ! ずいぶん大所帯じゃない」
ギレーヌは母様の友達でもあったらしい。母様は彼女の周囲をぞろぞろ付いてきた十二人の子供たちを見て、可笑しそうにくすくす笑った。
ギレーヌは「子供の相手はお嬢様で慣れた」と絡みついてくるワーシカを尻尾であしらいながら言った。
「手紙だ」
と、ギレーヌは、折り畳まれて蠟で封された紙を父様に突き出した。
「直接届けにきたのか?」
「ああ。用を果たすついでにな。
お前がボレアス家に月々払うことになっている、ルーデウスの下宿代が、来月から不要になることを伝える手紙だ」
「なっ! ルディに何かあったのか!?」
「事情はそこに書いてある」
父様は慌てて手紙を開封し、両隣りから母様とリーリャが覗きこんだ。
緊迫していた父様の顔が、徐々に緩み、じわじわと安堵が広がった。
「あいつ、やっぱりすげぇな……」
「なんて書いてあったの?」
訊ねると、嬉しそうな母様が私を軽々と抱えた。
「ルディが、お嬢様の家庭教師になったのよ! 勉強嫌いで有名なお嬢様のよ!」
母様が私を高く掲げてくるんくるん回った。
兄が家庭教師に……ロキシーみたいになったという事だろうか。
「お兄ちゃんの髪があおくなったの……?」と驚きつつ訊ねると、母様が詳しく説明してくれた。
ロアの親戚の家で書生をしていた兄が、その家で先生になったらしい。この村でしていたように、子供に読み書きだの算術だのを教えているのだという。
「あたしも手習いを受けている」
「ハハ! お前も冗談言えるようになったんだな、ギレーヌ! 今のは面白かったぞ」
「どういう意味だ!」
怒ったギレーヌに脛を蹴られ、父様はくずおれて悶絶した。
「勉強教えるのは、いっつも私たちにしてたもんね」
「なー、ルディなら楽勝だって」
「エリスお嬢様を侮るな。彼女は歴代の家庭教師をすべて殴り倒して、退職に追い込んできた」
「え? お嬢様なのに……」
「殴るの……?」
想像する令嬢像と異なったのか、セスちゃんとハンナちゃんが戸惑いの声をあげた。
「さて」と、ひと呼吸置いたギレーヌは、筋肉をほぐすように小首を左右にかしげた。
「あたしと手合わせしろ、パウロ。今日はそのために来た」
「おお? 何でまた」
「深い理由はない。そうだな……強いて言えば、お前の腕がどれほど鈍ったか、確かめてやろうと思ってな」
父様はムッと不満をあらわにした。
父様は兄に剣術を、村の男衆に自衛手段を教えている先生なのだ。その技術を鈍ったと決めつけられて、良い気はしないはずだ。
「姉ちゃんは剣士か? いいぞ、やれやれ! 剣士同士の決闘なんざ、こんな農村じゃめったに見られねえからなあ!」
「頑張れよ、パウロさん! おらガキども、場所あけろ! 怪我すんぞ!」
「勝手に決めんな!」
エトさん、ヴェローシャさんたちにはやし立てられて、父様が慕わしさを込めた怒声をあげた。
「あら、ノルン、お腹すいたの? あなたー! 向こうでノルンにお乳飲ませてくるから、そっちの試合が終わったら教えてちょうだい!」
「しかも応援してくれねえのかよ!」
悲痛なふうにおどけた父様の声に、どっと笑い声が沸いた。
「シンディ、こっちこっち」
見物の輪をつくる観衆のあいだを縫って、父様とギレーヌを眺められる位置を探していると、シルフィに手を引かれて、ロールズさんに肩車をしてもらった。
「見えるかい」
「うん。ありがとうございます!」
「どういたしまして」
肩車をしてもらってあれだけど、この人、こんなに線が細くて白いのに、ガッシリした人族の農夫と同じ仕事量をこなせるのだろうか。心配だ。
そうして始まった試合は、そこで闘っているのが身内でなければ、面白い見世物だった。
どちらが勝つか賭けを始めた見物人は「パウロ!」「ギレーヌ!」とわめきたてた。
「どうしたら終わる?」
父様が怪我をするのが恐ろしくて、ロールズさんに訊くと、一方が剣を投げ捨て敗北を宣するまで、と答えが返ってきた。それまで本物の剣による闘いはつづく。
父様の武器は堅牢な甲冑も力まかせに叩きつぶすことのできる、重い両手剣だ。
ギレーヌの武器は、巡査が持ち歩いているような反りのある日本刀。刀身に波打つ刃文は赤酸漿のように紅い。
振り回す剣が音をたてて噛み合った。
重い剛剣も、鋭い日本刀も、受けとめ損なったら、無傷ではいられない。
押されているのは父様だった。
そして、おそらくギレーヌは本気を出していない。やや余裕を持って、父様の実力を見ているというふうだ。
父様の剣さばきが、わずかに乱れた。
すかさず、ギレーヌの剣が父様の脛を薙いだ。素早く剣の切っ先を地に突き、支えにして、父様は身を宙に浮かせて躱した。
地に降り立った瞬間、剣を地から抜こうとしたが、彼の予想以上に深く切っ先は刺さっていた。
父様は敗北を認め剣の柄から両手を放したが、ギレーヌは何故か勢いを殺さず、父様の横面を斬りつけていた。
頬が裂けて赤い裂傷ができたのを見たとき、ひゃあ、と声がもれた。私は前のめりになった。叫んだ。
「負けるな! 父さま!」
父様の全身が刃になった。
力任せに剣を引き抜き、肉体は躍動し、猛然と斬りつけるのを、ギレーヌは後ろに飛びのいて避けた。
ギレーヌは剣を大上段に構えて……構えて……。
お兄ちゃんへ
おげんきですか しんしあです。
あいしゃとのるんがかわいいです。
あいしゃはしゃべります。のるんはあるきます。
きょうは川であそびました。そしたら、お兄ちゃんのせいとのぎれーぬという人がきて、父さまとたたかいました。
父さまは負けたけど ぎれーぬは「おもったより弱くなってなかった」といってかえりました。けがは母さまがなおしました。父さまが生きていてよかったです。
しるふぃに お兄ちゃんに「早くかえってきてね。またあそぼう」とつたえてほしいといわれました。
もつとかきたいけど じをよむのはやさしいのに かくのはたいへんです。でもまたかくね。
しんしあ
「何が面白いの?」
エリスに問われて、ルーデウスは己の口角が上向いていることに気がついた。ブエナ村での日常と、遠方の息子への気遣いを綴った両親の手紙と共に届いた一枚の紙面の文章を読み終えたからだ。
「妹からの手紙が、微笑ましかったもので」
「妹って、何歳?」
「4歳です。エリスより何歳年下か、わかりますか?」
「舐めないでよ! えっと……きゅう引くよん……5歳差ね!」
「正解! さすがです」
と、エリスを褒めるルーデウスは彼女より2歳年下である。
与えられていた課題を解く手をとめ、椅子をガタガタと移動させてルーデウスの手元を覗き込んだエリスは、これなら私にも読める、とこっそり安心した。
ルーデウスの両親からの手紙や、父親のフィリップの執務机にある財政書類は言葉遣いが難しく、エリスが拾い読めるのはほんの一部である。
もし、年下の女の子までもが、自分の知らない言葉を使っていたら、プライドの高いエリスはとても悔しがっただろう。
ルーデウスは紙を大事に畳んで脇に置くと、画帳を広げて絵を描き始めた。エリスはそちらには興味を持たなかった。彼の描くものは決まっている。
ルーデウスは毎日毎日、飽きもせず自分の左手を描いている。
「手のひらと甲の違い、そして指の微妙な動きを描けるようになったら、人体素描に進めるそうです」と、彼は以前言っていた。人体を正確に描けるようになるには必要な前段階であるとルーデウスは信じていたが、エリスは無駄なことだと思っていた。絵が欲しいなら人を雇えば良い。
もっと踏み込めば、エリスはルーデウスが下級階層である外科医の弟子であることも不可解に思っていた。
内科医は尊敬されるが、かつては床屋が兼任していた外科医は低く見られる。
「ルーデウスは、家族に会いたくならないの?」
上級貴族の青い血を引く生まれでありながら、親元を離れてまで、賤業を志している少年。
何が彼をそうさせるのか。ふと気になり、訊ねたエリスに、ルーデウスはあまり迷わずに答えた。
「会いたい気持ちはありますけど、少なくとも、あと数年は会わなくていいとも思ってます」
「どうして?」
「エリスは最近、分からないことがあってもイライラしなくなってきましたね。良い事です」
「……理由を答えなさいよ!」
ルーデウスは苦笑し、答えた。
「離れていたほうが、大切に思えることもあるんですよ」
「そーお?」
エリスにはよくわからない感覚である。
大切な者には近くにいてほしいし、大切な物は手元に置いておきたい。でもルーデウスは違うと言うのだ。
「なんか、寂しいわね」
「ええ、僕もそう思います。だから克服しようとしてるじゃないですか」
「してるの? どうやって?」
「医者のそばで勉強して、人が死ぬという事に慣れようとしています」
ルーデウスは声を潜めた。「ここだけの話」という前置きに、秘め事を共有する背徳感をくすぐられたエリスが身を乗り出した。
「バートン先生は手段を問わず屍体をかき集めています。解剖のためです」
バートンはルーデウスが師事している外科医の名である。
バートン医師はアスラ王国の医術に様々な貢献をしている。
骨の成長速度を確認するために多くの豚を生体解剖した。
傷ついたアキレス腱の再生経過を調べるために犬のアキレス腱を切り、片足を引きずる犬を量産した。
帝王切開に成功した。数例失敗した後に。
見知らぬ医者の業績をエリスは知らない。病知らずで頑丈な少女には、医療の発展は興味のない事柄であった。耳に届くのは、外科医は冷酷な動物虐待者であり、患者を実験台に手術をして殺すという悪評ばかりだ。
「つまり、悪いヤツなのね!」
「悪人じゃありませんよ……善人でもないでしょうが。
バートン先生は医者ですから、人を治癒することが主です。でも、人の死に触れることも同じくらい多い。判断を誤って、本来助かった患者を死なせることもある。
俺がバートン先生のところに弟子入りしたのは、医者になって人を救いたいからではありません。人の屍体に、そして人が死ぬ場面に、安全圏から関わる機会が増えると思ったからです」
「ルーデウスが屍体をいっぱい見たり、目の前で人が死んだりすると、近くにいる家族が大切になるの?」
「さあ。まだわかりません。病や事故で死なれることは平気でも、自分の手で死なせる事はいつまでも受け容れられないかもしれない。
ひょっとすると、一生慣れずに、価値観の断絶を抱えたまま過ごすことになるかもしれません」
エリスはとりあえずルーデウスの頭を叩いた。言っていることが難しくてよくわからなったのだ。
しかし、「なんで叩くんですか?」と問われ、よくわからなかったから、と答えるのも癪であった。
ゆえに問われる前にエリスが何か言わなくてはならぬ。何か、何か――
「そ、それで、いつまでも慣れなかったら、どうするの?」
「そうですね。実は故郷のブエナ村に結婚を約束した女の子がいるんですが」
「えっ!?」
「僕の目的が達成できないと、約束は守れそうにありません」
「そ、そうよね。価値観がダンゼツ? してるものね」
「その時はこのロアで、エリスのお婿さんにしてもらいますかね」
「イヤよ!」
エリスは反射的にルーデウスの頬に平手打ちをお見舞いした。全身のしなりを使って放たれた平手打ちの衝撃は凄まじく、ルーデウスは椅子から転がり落ちた。
冷静になったエリスは、脳を揺らされてノックアウトされたルーデウスを見下ろし、どうしようかな、という顔をした。
それから、椅子の背凭れに掛けていたルーデウスの上着を、床に仰向いて気絶したルーデウスにブランケットのように被せて、これでよし、という顔になる。
(ルーデウスが悪いのよ!)
9歳のエリスにとって、〈結婚〉という言葉の響きは束縛に等しい。
冒険者にあこがれて木剣を持ち、外を駆けまわることをおぼえてしまったエリスは、家の中でしとやかに退屈し、社交界のゴシップやスキャンダルに興じる日々は耐えられない。
平民には精力的に働いて稼ぐ女性も存在するものの、上流階級の子供であるエリスの既婚の女性像はそれであった。
既婚の女性像が凝り固まっていたエリスが、ある日、剣士と魔術師の夫婦が冒険者になる話を知り、
数多の試練が待ち受ける迷宮に潜る話を聞き、
北方の厳しい大地で協力してはぐれ竜を討伐する話を聞き、
身近にいる魔術師の少年と、剣士である自分がそうなる未来を想像するようになるのは、あと一、二年は先のことなのであった。
途中まで書いたけど公開するか否か迷ったのでアンケートをとらせて下さい。
原作と少し異なる経緯でルーデウスがエリスの家庭教師になるまでの話(オリ主不登場)は、
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要る。
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要らない。転移事件はよ!