巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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投票ありがとうございました!
オリ主不登場の話は要らない派が多かったのですが、要る派とまあまあ僅差だったので閑話として投稿します。
エリスの兄弟の名前を捏造してます。




 閑話 ルーデウスのパーフェクトかいぼう教室

 台の上に仰向けに置かれた躰の、青ざめた腹部の皮膚は十文字に切り裂かれ、四方にめくりあげられ、子宮が露出していた。

 床におが屑が敷かれ、解剖台の足元には、老犬がうずくまっている。

 

 ロア病院外科医バートンのずんぐりした指が、繊細な動きで子宮の表面を走る血管に着色した蠟を注入するのを、七歳の少年は逆さに置いたバケツを足場にして観察していた。

 場所は勤務する病院内ではなく、バートンの私的解剖室である。

 

「来た!」

 

 裏口の扉を開け顔をのぞかせたエドガーが鋭く言い、ベンの血色の良い頬が青ざめた。

 バートンの弟子は、17歳から20歳の青年で構成されている。例外の最年少――ルーデウス・グレイラットはバケツから飛び降りて、ナイジェルが白い布を床に広げるのを手伝った。

 

「先生、一旦中止です。隠さなくては」

「中止だと? 蠟が固まってしまう」

 

 と、はねつけた医師の両腕を、ウィリアムとフロリアンが押さえつけた。

 

「奴らが来ます。先生、失礼します」

「屍体に傷をつけるな!」

「わかってます。わかってますとも」

 

 四十歳を過ぎたバートンの風貌はジャガイモに似ている。

 屍体を白布に包み、協力して運び出す弟子たちにジャガイモは真っ赤になって怒鳴りつけた。

 力仕事にルーデウスの出る幕はないが、フィットア領治安判事に所属する治安隊員――犯罪捜査犯人逮捕係――の足止めという重大な仕事がある。

 あどけない少年が応対すれば、追求の手はしばし緩むのだ。ルーデウスはバートンの邸宅の玄関に急いだ。

 

 

 解剖学において、他国よりも遅れをとっているのがアスラ王国だ。かつては、そうではなかった。

 数百年前まで、血液が全身を循環しているという事を医者でさえ知らなかった。心臓が血液を送り出し循環させていることを、解剖学によって証明してみせたのが、黎明期のアスラ王朝を生きたオルキド・リーチ博士だ。

 しかし、大きな戦争がない平和な時代が数百年も続くうちに、アスラ王国は慢心し、先人が築いた遺産にあぐらをかき、死者を切り刻むことは瀆神的な行為であると定められた。

 治癒魔術分野と解剖学は密接しているがゆえ、魔術の研究が盛んな魔法三大国、さらにあらゆる研究に金を投じている王竜王国に追い抜かれ、圧倒的な差をつけられるのも時間の問題であった。

 

 人体解剖に対する、世間の偏見の目は厳しい。アスラ王国から公に医師に下げ渡される罪人の屍体は、一年間でたったの六体である。

 屍体が足りないのであれば、非合法な手段でかき集めるしかない。

 ゆえに、バートンは墓あばきから屍体を買いとる。一体で銀貨五枚。資金は、解剖教室で制作した臓器標本を彼の異母兄ロナウドが買うことで賄える。

 ロナウドの常設した博物展示室に陳列されている標本は、バートンとその弟子が制作したものがほとんどを占める。

 

 本日解剖していた屍体は、下級貴族の娘だ。

 盗んだ屍体を買い取り、解体している証拠を掴めば、バートンとその弟子たちは牢獄入り。捕まえた治安隊員には報酬金が支払われる。

 

「バートン先生はいるか」

「はあ、儂は知らんです」

 

 ルーデウスは老いた門番兼下男の矮躯と治安隊員のあいだに滑り込んだ。

 

「バートン先生は実験中で、席を外せません。書斎でお待ちください。案内します」

「あなたは?」

「ルーデウスです。先生の新しい弟子です」

 

 治安隊員は三人。

 冷徹な印象を受ける若い女性が、用心棒のようにガタイの良い男性を二人率いている。

 

「ご足労感謝します。お茶を淹れましょうか?」

「お構いなく。勝手に捜査させていただきます」

「や、やめてください! 警察呼びますよ!」

「私たちがそう(警察)です」

 

 ズカズカ踏み入る彼女らの前に、ルーデウスは両手を広げて立ち塞がった。

 

「どけ!」

「ラッセン! 相手は子供です。威圧的な態度はよしなさい」

 

 ルーデウスを怒鳴りつけたラッセンと呼ばれた大男は、虚をつかれた顔をして、ルーデウスを太い腕でゆっくり押しのけた。

 女史の言葉がなければ乱暴に退かされていただろう。

 冷徹女史に見えて、良心はあるタイプの女性らしい。

 ルーデウスは庇護欲をそそる子供――出会ったばかりのシルフィを己に投影するイメージで、おずおずと訊ねた。

 

「お、お姉さんたち、悪い人じゃないんですか……?」

「ええ。私はシャーリー。ロアの犯罪を取り締まる者です。

 私たちはバートン先生を逮捕しにきたわけではありません。ただ、この町で悪いことをしている人はいないか、確認しにきただけなのです」

 

 シャーリー女史の態度が少し柔らかいものに変化した。

 

「そうでしたか、疑ってすみませんでした。どうぞ上がってください」

 

 ルーデウスは建物内をわざと遠回りし、たっぷりもたついて時間稼ぎをした。

 解剖室に入ると、バートンは血脂に濡れたメスを持ったまま治安隊を迎えた。

 

「また盗みましたな、先生」

「サイモンさん、人聞きの悪いことを」

 

 ウィリアムが如才ない笑みを浮かべ、弟にするように幼いルーデウスの肩を抱いて応じた。

 バートンの弟子たちと治安隊のラッセン&サイモンは顔なじみだ。何度も押し入られている。ただしルーデウスが会うのは初めてであった。

 

  饒舌ウィリアム・ブラックベア。20歳。

  容姿端麗エドガー・アイザックス。19歳。

  肥満体ベンジャミン。19歳。

  雀斑鼻フロリアン。18歳。

  素描画家ナイジェル。17歳。

 

  そして、最年少ルーデウス・グレイラット。7歳。

 

 六人の弟子は解剖台の前に勢揃いし、治安隊員の視線を遮っていた。いや、エドガーの姿だけが無かった。隠し部屋からの脱出が間に合わなかったのだ。

 

 サイモンが手荒く、解剖台の前に立つ弟子を押し退けた。

 台の上に固定されているのは、犬であった。エーテルで眠らされ、足の部分が切開されて動脈があらわになっている。

 

「きわめて困難な解剖の最中なのですよ」

 

 ねっとりと、ウィリアムが嫌味を言った。

 

「動脈壁を、一枚一枚、慎重に剥がしていくんです。そうして動脈壁に再生能力があるかどうかを見ます。それを邪魔するなんて」

「馬鹿馬鹿しい。再生能力? 最近の医者の卵は、揃いも揃って治癒魔術を使えんのか?」

「重要なことです。確かに外傷程度なら、初級の治癒魔術で完治する。しかし、それは治癒魔術が体に働いた場合です。素の再生能力があるかどうかも見なければならないんです。

 例えば、悪性腫瘍の患者に治癒魔術を使うことは、禁忌とされています。活性化した腫瘍が増殖し、病状が悪化するためです。いいですか、サイモンさん、あなたがもし悪性腫瘍を抱えていて、そのうえ誰かに動脈を傷つけられ、大出血したとします。治癒魔術には頼れない。そのとき、動脈壁に再生能力があるとわかっていたら、ずいぶん安心じゃないですか」

 

 ウィリアムの軽薄なお喋りよりも、ベンがさり気なく手渡した銀貨のほうが即効力があった。サイモンは口を噤んだ。

 治安隊の欠点は、元々は慈善事業であるため、組織化された現在もその流れを汲んで薄給である事だ。そして美点は、賄賂次第で犯罪行為も見逃される事であった。

 

「ああ、うら若き女性の体にメスを入れるとは、なんたる非道」

 

 銀貨にありつけなかったラッセンが、わざとらしく一人ごちた。

 

「今回ばかりはマズいぞ、先生。何せあんたが買い取ったのは、アボット準男爵のご令嬢だ」

 

「何も買ってない!」フロリアンが機転を利かせて叫び、続いて弟子たちがわあわあとわめきたてたので、「令嬢? 夫人ではなかったのか」というバートンの言葉は届かなかった……らしい。

 バートンは解剖と実験にかけて偉大な人物であるが、それ以外のことにかけては無頓着であり迂闊である。弟子はひやひやさせられ通しだ。

 シャーリーがサイモンの手からアスラ王国の国章が刻印された銀貨をとりあげ、犬の足元においた。賄賂は拒否するという意思表示である。

 

「アボット家をご存知ですか」

「知らん。患家でもないな」

 

「先生は、そうした事には疎い」フロリアンが雀斑だらけの顔を不快そうに歪めた。ロアの治安を守り、犯罪を取り締まる民衆の味方を、早く追い出したくて仕方ないのだ。

 治安隊員のサイモンとラッセンは、解剖室と、となりの屍体保管室及び標本室を捜しまわった。生ものが腐りにくい冬なら、非合法な手段で集めた死骸が、防腐処置をほどこした上でフックに吊るされている。

 今は肉の腐りやすい夏場である。フックの先には、何もない。

 

 彼らは面白くなさそうに豹の剥製の口を開き、「私の標本に触るな!」「死体に、豹の皮を被せてるんじゃないかと思ってね」標本をおさめたガラス壜をずらして棚の奥を覗き込み――「そんな所に入るわけないだろ」ベンが毒づいた。

 

 ルーデウスは、素描画家ナイジェルの落ち着きがないのに気がついた。そわそわと、青い顔をして腹を押えている。

 

「すみません、ちょっと厠に」

 

 ナイジェルが部屋を出ようとするのを、シャーリーが止めた。

 

「屍体を移動させるつもりですか?」

「いいえ、そんな」

 

「僕もなんだか具合が悪くなってきました」と、ルーデウスが助け船を出した。

「厠に行かせてやってください」とウィリアムが主張し、「屍体の重さをご存知ですか? あんな痩せっぽちと子供には、あなた方の危惧していることは実行できません。こいつならまだしも」と横のベンジャミン(肥満体)を小突いた。

 

「失礼します」

 

 解剖室を出たナイジェルとルーデウスはまっすぐ厠に向かった。

 

「助かった」と言いながら、ナイジェルが服の下から画帳を取り出した。

 画帳には、先程まで解剖していた女性の屍体が精巧に素描されている。

 

「それを見られたら一発アウトですから」

「そうだね」

 

 ナイジェルが画帳のページを切り取り、ぐしゃぐしゃに丸めた。

 彼の素描の腕前は素晴らしい。写真のように正確無比に描かれた絵が呆気なく便所の穴に落ちてゆくのを見て、ルーデウスは不満を顔に出した。

 

「捨ててしまうんですか? そこまでしなくても、他の部屋に隠すとか」

「大丈夫、また描けばいいんだ」

 

 画帳を別室に置き、解剖室に戻る最中に、ルーデウスはナイジェルに訊ねた。

 

「どうしたら、あんなふうに正確な絵を描けるんですか? 僕もできるようになりたいです」

「毎日描くんだよ」

「描く対象は何でもいいんですか?」

「いや。ルーデウス君の利き手はどっち?」

「右です」

「じゃあ、左手を毎日描くんだ。自分の思ったように線を引けるようになったら、別のものを描いていい。実物をよく見てね」

「わかりました。今日からやってみます」

 

 自分の左手をひっくり返して眺めるルーデウスに、ナイジェルは「無理はするなよ」と気遣う言葉をかけた。

 

「病院と教室では先生の手伝いもあるし、下宿先では獣神語を学んでるというじゃないか」

「つねに何かしていないと不安なんです」

「子供は外で遊ぶべきじゃないか?」

 

 ペンだこのある手がルーデウスの頭を雑に撫で、解剖室の扉を開けた。

 入るが早いか、「画帳があるはずです。見せなさい」とシャーリーの声が飛んできて、サイモンの監視下で取りに行かされた。ルーデウスは治安隊員の執念深さを知った。

 

「破いた跡がありますね」

「ルーデウス君が体調を崩して、吐きました。とっさのことで受け止めるものがなく、仕方なしに紙を破いて使ったのです」

「なるほど。その紙は?」

「捨てましたよ。汚れて使い物にならなくなったのでね」

 

 ナイジェルの嘘の証言に合わせて体調の悪いフリをしながら、「探したが、人体を描いた紙はなかった」とシャーリーに報告するラッセンを見て、ルーデウスは冷や汗を流した。回収できぬように破棄しておいてよかった。

 

 

 

「野郎ども、やっと帰ったな」

「夏場は腐敗が早い。はやく再開しよう」

 

 治安隊が引き上げたあと、弟子たちは自作の隠し空間の扉をあけた。ルーデウスが土魔術で固めたので、傍目にはただの壁にしか見えないようになっている。

 三人がかりで扉を開けると、中からエドガーが倒れ込んできた。

 

「エドガー! 意識がないぞ!」

「どうしましょう、先生」

「先生、ペッペの麻酔が切れそうです。また眠らせますか」

 

 ウィリアムが仰向けにしたエドガーのまぶたを開いて叫び、解剖台の老犬が悲しげに鳴いた。

 この時代に〈酸素〉が発見されていなくても、酸欠は起きる。エドガーは、狭く、通気口のない壁の中で酸欠になり、仮死状態に陥ったのだ。

 

(ふいご)を持ってこい」

「あの仮説を試すのですか?」

「そうだ。早く」

 

 一対の鞴を青年二人かがりで運び入れる。一つを鼻孔に、一つを口内に繋ぎ、ウィリアムとナイジェルが動かし、空気を送り込んだ。酸欠という現象を知らないなりに、空気が足りないのでは、とバートンは仮説を立てたのだ。

 バートンは空気を送り込む秒数を記録しながら、「切開箇所を治癒魔術で塞いでやれ。麻酔はいらん」と老犬ペッペを一瞥して、手持ち無沙汰のルーデウスに命じた。動脈壁に自己再生能力があることは、過去の実験で既に判明しているのだった。

 

 エドガーはじきに意識を取り戻した。生還した弟子に二階で休むよう言いつけ、バートンは解剖を再開した。

 

「バートン先生、なぜ先ほどは、夫人だと言いかけたのですか?」とルーデウスが訊いた。

 

「よく見ろ、右卵管が破裂している」蝋を注入するのに忙しい先生に代わって答えたのはフロリアンだ。

 

「原因は、子宮外妊娠以外にありえない」

「「ありえない」ということは、ありえない」

 

 ウィリアムがさる有名な錬金術師の科白を朗唱し、「と、ケプラーが言った」と気どった顔つきでベンジャミンが注釈した。二人は顔を見合せて吹き出した。

 

「一人では子供は作れない。だから先生は、その女性が既婚者であると思われて……ここまで言えばわかるだろ? ルーデウス」

「はい、バッチリ理解しました」

 

 バートンが切除した右卵管を弟子の用意した膿盆に移した。

 無造作に、死者の下瞼を引き下げた。

 

「粘膜蒼白がみられる。やはり死因は、卵管破裂による腹膜腔多量出血だろう。胎児も貴重な資料だ。見つかるといいのだが」

「開いて中を見ましょう。先生がしますか?」

「ああ、いや、フロリアン、君がやってみなさい」

「はい」

 

 検体は小柄な女性であったから、解剖台に余分なスペースは十分にあった。膿盆を屍体の横に置き、剪刀(せんとう)を使い、切除した卵管を切り開くと、透明な胎嚢に包まれた胎児があらわれた。

 誰からともなくささやかな歓声があがる。

 

「六週間くらいか? よくぞここまで大きくなったものだ」

「すごいぞ、もう眼がある!」

「指もかろうじて分かれてる」

「あれみたいだ、虫入りの琥珀」

「どいてくれ、素描する」

 

 推定五六週の胎児は、ナイジェルが画帳にスケッチした後で、防腐液に浸して保存し、博物展示室の標本の一つに加わる。

 

「うわ、何しやがる」

 

 ペッペは雑種の大型犬である。他の学生や師と比べ、ひとまわりもふたまわりも小さなルーデウスは、この老犬に下に見られているきらいがあった。

 子供の肩に前足をかけて立ち上がるペッペの鼻面を休憩から戻ったエドガーがはたいた。「ハウス!」厳しく言いつけたエドガーの指示に従い、ペッペはすごすごと解剖台の下に戻って伏せた。

 

「こいつ、腹減ってるんだな」

「そうか。じゃ、とりあえず、これやるよ」

 

 ベンがバケツに胎嚢から引き剥がした卵管を放り入れた。ペッペは嬉々としてバケツに頭をつっこみ、一口で平らげる。

 解剖室で飼われている犬の食事は、破損し芸術的医術的価値をなくした臓器の一部だの、黄色のぶよぶよした皮下脂肪だのである。

 もっとも、与えられる屍体が手に入らない事のほうが多い。そういう日の餌は、学生の昼飯に挟まったベーコンやハムだ。

 

 溶液に満たされたガラス壜の中で、胎児は標本になった。

 容器をのぞきこみ、フロリアンが呟いた。

 

()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 師のバートンは今にも「くだらん!」と吐き捨てそうな顔をした。他の弟子は「なんのこっちゃ」という顔をしたが、ルーデウスにはわかった。

 学校の図書室に置かれた錬金術の本『物の本性について』の写本から引用したのだ。

 朗唱した箇所は、ホムンクルスの製造法である、と見当がついた。ルーデウスがたまたま読んだばかりの章だ。

 

 

 男の陰茎から抽出した精液を、四十日のあいだ蒸溜すると、人間の形をした透明な非物質があらわれる。これを容器にいれ、馬の胎内と同じ温かさにして、四十日のあいだ――

 

 

「人間の血で養えば、五体完全な人間の子供になる。ただし、小さい。……と、パラケルススが言った」

「正解!」

 

 医化学の祖である錬金術を、一応、医学生もさわりだけ学ぶ事になっているが、現代――それも外科分野においては、重要性は低い。

 ほんの子供の勤勉さに感心したフロリアンに、血脂に濡れた手で頭を撫でられ、ルーデウスは窓から頭を出して髪を洗い流されることになった。

 

 

 


 

 

 

 弟のハロルドがいなくなったことに気がついたのは、獣族のメイドらが空のゆりかごを片付けていたからだ。

 大きくふくらんだ母親の腹に耳をつけた。小さなベッドで眠るほにほにの赤ん坊を、父のフィリップに抱きあげられて覗き込んだ。それは憶えている。でも、いついなくなったのか、エリスにはおぼえがない。

 いつのまにか、消えていた。そんな感じだ。

 わたしの弟、どこへ行ったの。乳母のエドナに訊ねたら、ジェイムズ様の養子になられました、と教えてくれた。

 お母さま、わたしの弟、どこ? 養子という言葉の意味を知らなくて、母親にも訊ねた。エリスの母ヒルダは、顔を覆って泣きだした。取り乱した母のおらび声は、エリスの記憶にしつこく残った。

 二歳のエリスは、弟の話はしてはいけないのだと幼心に定めた。

 子供は、現在が楽しければ、過去の追憶に浸ることはない。

 やがて、エリスは弟が生まれたことを忘れた。兄弟が存在することは、後に祖父が話題に登らせたので、知っている。

 

 弟が帰ってきた。一瞬だけそう思ったのは、エリスより幼い少年が、エリスの母親の膝に抱き乗せられていたからだ。

 

「ああ、可哀想に。こんなに幼い子を賎業に追いやる親はロクデナシよ。でも安心していいのよルーデウス、このボレアス家で貴方を蔑む者はいない、いえ、いたとしてもわたくしが守ってさしあげるわ」

「はい。奥様のご厚意に痛み入ります」

「なんて健気な子なのかしら!」

 

 メイドを介して両親から呼び出され、応接間に赴いたエリスは、自身の母親の膝に座って豊満な胸に抱かれ、あまつさえ褒められた男の子を見た。

 男の子は幼児の肉づきを失いかけた体つきだけれど、顔はまだふっくらと幼気で愛らしい。

 しかし、エリスはそう感じなかった。男の子が母親の胸の谷間を凝視していたからだ。

 

「お母様、お父様、そいつは何なの!」

 

 腕を組み、声を張りあげたエリスを、ヒルダは目顔で咎めた。

 エリスはますます面白くなかった。子供の本能として、その男の子が母親の愛情を奪いかねない存在であることも、見抜いていた。

 

「初めましてお嬢様。ルーデウス・グレイラットで」

 

 ルーデウスが自己紹介を終える前に、エリスの平手が彼の頬を張った。

 ルーデウスは呆然とした顔でエリスを見上げた。出会い頭に叩かれたのは初めてであった。

 

「エリス! ルーデウスに優しくなさい!」

「ふん!」

 

 母の叱咤が飛んできたが、足音荒く、エリスは応接間から立ち去った。

 ロアの広い館に、子供は今までエリス一人であったのだ。両親と祖父の愛情を独占してきた彼女の目に、ルーデウスは敵と映った。

 

 とはいえ、館の中でルーデウスと顔を合わせる機会は、そう多くなかった。

 日中はほとんど居らず、ヒルダに可愛がられていても、扱いは下宿人であるから食事も別。

 己の日々に不干渉の存在であるとわかれば、エリスの敵意も次第に消えていった。

 もっとも、それはルーデウスが〈敵〉から〈取るに足らない存在〉に変化しただけで、エリスが彼に好意的になったわけではないのだが。

 

 

 中庭で剣術の稽古を受けているときだった。

 エリスは、ルーデウスがこちらを見ていることに気がついた。

 珍しく、館にいたのだ。

 ルーデウスは花壇を囲む煉瓦に腰かけて、エリスとギレーヌを眺めていた。気をとられると、「余所見をするな」師範のギレーヌの声と共に木剣がプロテクターを打ち、

 

「だって見られてるのよ。気が散るわ」

 

 エリスは唇をちょっととがらせた。

 ギレーヌはエリスとルーデウスを見比べ、ルーデウスのもとに行って何事か話し込んだ。エリスはこちらに背を向けたギレーヌの尾が動くのを見ていた。

 やがて、木剣を握ったルーデウスがエリスの前に立った。

 

「こいつとやるの?」

「ああ。ここに来るまでは、パウロに教わっていたようだし、エリスの相手にちょうどいい」

「よろしくお願いします。お手柔らか、に!?」

 

 またもやルーデウスが言い終える前にエリスが踏み込んだ。

 ルーデウスは弱かった。エリスがほんの少しのあいだ通っていた学校にいた男の子よりは身体捌きに余裕があったが、それだけだ。

 容赦ない打ち込みに気遅れしていたふうなルーデウスだったが、エリスがまっすぐ脳天を狙って剣を振り下ろしたとき、激しい寒風が正面からエリスにぶつかった。

 

寒冷突風(ボーラブラスト)!」

「ふぎゃ!?」

 

 エリスは後方に吹き飛ばされた。手の感覚が鈍くなっている。体温が下がり、体の末端がかじかんだためだ。

 エリスは剣を捨てた。拳の形ならなんとか作れたからだ。

 そしてルーデウスに飛びかかり、肩を膝で押さえて魔術を封じた。

 

「は!? ちょ、降参、」

「生意気よ! 誰に手をあげたか! 思い知らせてやるわ!」

 

 怒りの感情はエリスの体を温めた。

 ギレーヌに負けるのは、いい。剣の師匠だし、格上の相手と認めているからだ。

 ルーデウスに負けるのは嫌だ。年下で格下の存在に見下されるのは我慢ならない。

 

「このっ、暴力娘が!」

 

 いつまでも殴られ続けるルーデウスではなかった。

 彼は力の限りもがいてエリスの下から這い出た。

 取っ組み合いの喧嘩ならば、ブエナ村でしてきた。エリスの暴力の理不尽さは村の悪ガキたちを凌駕していたが、とにかく、喧嘩には慣れていた。

 エリスは剣を捨てている。であれば、これは既に稽古ではなく、上下関係を叩き込むマウンティングであるのだ。

 自分は居候。相手は領主の孫娘。

 己の立場に二の足を踏み、格下に甘んじるのか?

 否。対等でいなければならない。エリスも村の男の子たちもきっと、いじめつける以外に接触の仕方を知らないのだ。

 いじめられ、泣かされ、やり返し、そうして同化していくのだが、かつてシルフィはその儀式に耐えられなかった。

 

「俺は、耐えられる」

 

 呟いて言い聞かせた。

 苛烈な美少女を睨めつけた。

 

「――やるっての?」

 

 エリスは肩にかかった赤い髪をパッと後ろに払って、背中に流した。

 初対面のときはエリスの母の膝に座っていた甘ったれが、歯向かう意思を見せた。

 顔ももう憶えていない弟。ここに居るのが弟のハロルドであれば、私があんな甘ったれにはさせないのに。

 それはエリスの想像でしかなかったけれど、彼女は怒りを燃やした。

 なぜ私の弟はいないのに、彼と同じくらいの男の子が、我が物顔で館にいる。気に食わない。とにかく何もかもが。

 

 エリスはルーデウスの反抗的な眼をまっすぐ見据えた。

 相手の初動を探るとき、見るのは体ではない。眼だ。

 ここで目を逸らしてくる奴は弱虫だ。

 ルーデウスは目を逸らさなかった。

 初動が足にあらわれた。走って向かってくる。

 エリスは重心を落として拳を握りしめた。

 迎え撃ってやる。狙うは鳩尾だ。

 

「殴られる痛みをっ、教えてあげますよ!」

「殺してやるわ!」

 

 甲龍歴414年。某月某日。

 エリスとルーデウスは派手な大喧嘩をした。

 

 サウロスは「子供は喧嘩をするもの」と咎めはせず、フィリップは仕方なさそうにちょっと微笑んだだけだったが、ヒルダはエリスを叱りつけた。

 

「エリス、意地悪をするんじゃありません」

「意地悪するわ! 私、あいつが嫌い!」

「聞き分けなさい。ルーデウスは可哀想な子なのよ、貴方が優しくしてやらないでどうするの」

「……お母様が優しくすれば!」

 

(ふん! なによ! お母様は怒るし、お父様とお祖父様は、ちっともあいつを追い出してくださらないし!)

 

 息子を二人とも取り上げられたヒルダとフィリップにとって、エリスは可愛い一人娘であったのだ。両親は手もとに残された一人娘を思うぞんぶん甘やかし、ゆえにエリスの望み通りにならないことはほとんど無かったと言っていい。しかし、今は違う。

 エリスの中で、ルーデウスは小さな楽園を脅かす侵入者に返り咲いた。

 

「ギレェーヌ! ギレーヌ! どこにいるの!?」

 

 鬱憤を剣術の稽古で晴らそうと、エリスは剣の師の姿を探した。

「お嬢様、ここだ」通りかかった図書室の扉からギレーヌが顔をのぞかせた。

 

「こんなところで何してるの?」

「ルーデウスに字の読み方を習っていた」

「……」

 

 露骨に機嫌を悪くしたエリスの背中をぽんと叩き、ギレーヌは図書室の閲覧スペースに戻った。

 ルーデウスはギレーヌの正面の椅子に膝をつき、机に身を乗り出して、本を指し示しながら朗読していた。

 ギレーヌの背中と椅子の背もたれのあいだに体をねじ込み、背後からギレーヌに覆いかぶさり本を覗き込むエリスのことをルーデウスは目にとめたが、居ないものとして扱うことに決めたのか、再び本に視線を戻した。

 

「閉じ込められたカスパールは」

 

 ルーデウスは話をつづけた。

 開かれたページの片側に、肖像画がのっている。

 絵がよく見えるようにと、エリスが本に手をのばそうとすると、そのとき、メイドが、お食事の時間ですよ、と呼びにきたので、〝閉じ込められていたカスパール〟の話はそれきりになったのだった。

 後で、エリスはギレーヌに、聞きそびれた話の説明をもとめた。ギレーヌは話を理解はできても、要約してエリスにつたえるのは手にあまったらしい。辻褄のあわない、断片的な言葉を口にし、エリスが何度も聞き返すので、

 

「そんなに気になるなら、ルーデウスに読ませればいい」

 

 と投げやりに言って、話を打ち切った。

 屋敷にいないことのほうが多いルーデウスを探し出し、この私から頼むのは癪だ。かといって自力で本を開いてみても、読み書きの教育を拒否しつづけてきたエリスに、字は紙の上でのたくる黒ミミズと映ったのだった。

 

 

 ある日、庭園のベンチに腰かけ、画帳と見比べながら書蠟板に書き込んでいるルーデウスの前に、エリスは立ちはだかった。

 

「何してるのよ」

「お嬢様」

 

 喧嘩したことなど忘れたように、ルーデウスは画帳をひっくり返してエリスに見せた。拳大の臓物が、精密に描かれていた。四つの部屋に分かれている。

 

「なにこれ?」

「心臓の断面図です」

「しんぞー?」

「体の……だいたいこの辺にある臓器ですよ」

 

 ルーデウスは自分の左胸を指した。

「体の中にあるなら見えるはずないわ」と言うと、「胸を開いて、取り出したら見えますね」と返され、エリスはたじろいだ。

 大森林で暮らす獣族にとって、死者は森に還すのが自然の理であり、切り刻むなどもってのほかだ。エリスは人族だが、ボレアス家のメイドの獣族からそのように教えられていた。

 

「生きたまま取り出すことはしませんし、解剖のために殺すこともしません。病気とか事故とか、別の原因で亡くなった人の体を開いて調べるだけです」

「メイドが言ってたわ、あなたは臭いって。ときどき血の臭いと死臭を漂わせてる、って」

 

 こっそり深く息をしてみた。

 血臭も死臭も、エリスにはさっぱり分からなかった。

 

「見せなさい」

 

 いやがるルーデウスの手から画帳を取り上げて、パラパラ捲った。

 

「借り物ですから、破ったりしないでくださいね?」

「破ったらどうなるってのよ」

「怒ったバートン先生が、苦い薬やメスを持ってお嬢様を懲らしめにきます」

「ふ、ふうん。まあ、ちょっと聞いてみただけよ」

 

 平静に振る舞うエリスは、いつもより丁寧な手つきで画帳を押し返した。

 

「そこに載ってるの、ぜんぶ、ホンモノの死体を見て描いたんでしょ?」

「はい」

「なんでそんなことするの?」

「……医学の進歩のため?」

「進歩するとどうなるの?」

「健康な人が増えて、人の平均寿命が伸びるかも」

 

 そう言われると、さほど悪い行いではないように思えた。

 

「今朝、飼ってる栗鼠(リス)が死んだわ」

「そうですか」

「私かわいがってたのよ。餌だってたくさんあげたの」

「栗鼠の寿命は、人間よりはるかに短いですから」

 

 父のフィリップはエリスに子犬をくれた。騒々しく鳴き、あたりかまわず糞便をする仔犬を母のヒルダは嫌った。フィリップは子犬を連れ去り、籠に入った栗鼠をエリスにあげた。

 栗鼠はうるさくないのでヒルダは家に置くことを許し、エリスも手から餌を食べる栗鼠を気に入った。

 エリスが餌を手にのせて差し出すと、栗鼠は小さい両手でつかみ、鼻の頭をせわしく動かし、顔の形が変わるほど両方の頰袋に溜めこむのだった。

 

「お父様は、また新しい栗鼠をあげよう、っておっしゃったけど……」

 

「解剖しましょうか」隣りにつくねんと座り、気落ちしていたエリスに、ルーデウスが申し出た。「どうして死んだのか、理由がわかれば、今度は長生きさせられます」

 

 

 数日も経たぬうちに、エリスはルーデウスの部屋に呼ばれた。道具は揃えられていた。栗鼠が腐敗する前に、急いで用意してくれたようだった。

 エリスはルーデウスの指示に従い、栗鼠を布を敷いた台の上に仰向けにおいた。

 胸の中程から生殖器に向けて、ルーデウスは線を記した。

 

「この線に沿って、薄く切って」

 

 エリスは早くも失敗した。深く切りすぎて、内臓が溢れ出てきた。

 ――できない! 叫んで投げ出そうとする衝動を堪えた。

 

「まず、心臓を摘出しましょう。この太い血管を切り離して」

 

 太い血管といわれたって糸のように細くて、エリスのメスは血管のみならず、肉まで切り裂いた。

 指の先ほどもない心臓は、ぐちゃぐちゃな肉塊になった。

 切り刻んでいる間に、腐敗臭の甘ったるい嫌なにおいが漂い始めた。

 

「これは?」

「胃袋。食べ物を消化する場所です」

 

 エリスは小さい栗鼠の体内を探り、胃袋と教えられた臓器をえぐり出した。胃袋は、消化されていない食べ物でごつごつと膨れあがっていた。栗鼠はエリスの手から餌を取り、顔の形が変わるほど頬袋に溜めた。四角いチーズの塊をやると、頰が四角にふくれた。それが可愛くておかしくて、たっぷり与えた。与えすぎた。

 

「お嬢様」とルーデウスがエリスの肩を軽く叩いた。

 

「埋葬してやりましょう」

 

 木の箱をエリスはもらった。獰猛な肉食獣と闘って血まみれになったような栗鼠を箱におさめてから、外に設置されている汲み取り井戸に寄って、手を洗おうとした。

 そうされるのが当たり前の態度で、エリスはルーデウスが把手を押し下げて水を出すのを待った。

 

「固いな」ごちたルーデウスの手のひらから水が溢れ、清冽な流れとなってエリスの手をすすいだ。

 糸杉の根方に穴を掘った。箱の蓋をシャベルの代わりにした。蓋をして小さな穴におさめ、土をかけた。細かい土埃が入ったらしく、右目がごろごろした。痛くてこすると、よけい痛みが増した。

 

「目に土が入っただけだからね」

「はい」

「泣いてるんじゃないから」

「そういう事にしときます」

 

 大人ぶった言葉に腹が立ち、ルーデウスの膝を蹴った。

 頬を叩き返されたので腕をねじりあげた。だぶだぶのフロックコートの袖が肩のあたりから裂けた。

 手首で折られた袖がシミで汚れているのを見た。

 

「……服は、きちんとしなさい。だらしなく見えるわ」

「そうしたいところですが、たった今お嬢様に破かれてしまったので」

「口答えしないでよ、お父様に間借りしてる分際で」

 

 メイドの噂話を介して耳に入ってくる言葉をなぞり、エリスはルーデウスをなじった。かくべつ悪いとも感じていなかった。

 

「あなた知らないの? 服は、メイドに渡せば洗って綺麗にしてもらえるよ」

 

 外科医(賎業)に弟子入りをするような変な子だから、洗濯させるのを嫌がって、着た衣類をメイドに出し渋っているのだと思った。

 

「洗ってもらえない」

 

「わかるだろ、俺嫌われてるんだよ」肩が破けたフロックコートを脱ぎ、片腕にひっかけながらルーデウスが言った。

 

「バートン先生のもとで学ぶのは、楽しい。でも、墓を暴いて屍体を開くのは、世間的には悪事です。

 特に、親か本人が大森林で育った獣族には、僕は、死者を侮辱する許しがたい存在でしょうね」

「……」

 

 何と言うべきかわからなくて、エリスは腕を組んでむすっと黙り込んだ。獣族の使用人たちはエリスのお気に入りで、姉が大勢いるように思っていた。ルーデウスの扱いが自分より良くないのは、薄々勘づいていた。

 しかし、優しい姉のような存在が、別の場面では子供を邪険にしていた、という二面性をすぐに飲み込めるほど、エリスは成熟していなかった。

 

「まあ、お嬢様は、僕がイジメられていたほうが清々するんでしょうけど」

「しないわ」

 

 そんな事を知っても、溜飲は下がらない。「いやな気持ち」と付け足し、エリスはたった今からルーデウスを監視することに決めた。

 親切なメイドの悪魔の顔をルーデウスから突きつけられても信じることはできない。だから直接自分の目で見て、確かめようと思ったのだった。

 あんなに心を占めていた〝閉じ込められていたカスパール〟の話は、いつの間にか忘れていた。

 

 

 ずっと勉強をしている。エリスが受けた印象はそれだ。

 監視を始めて数日、食事と睡眠を除き、ルーデウスが家にいる時間は彼を観察し続けていたエリスは、耐えかねて叫んだ。

 活発な性質のエリスには、何時間も続けて机に向かう少年は異常だった。

 

「ルーデウス! あなた頭おかしいんじゃないの!?」

「僕は産まれたときからおかしかったらしいですよ」

「そう! やっぱりね!」

 

「これでも読んで大人しくしてください」とルーデウスから一冊の本を渡された。読めない。エリスは拒否した。

 

「趣味じゃありませんでしたか? 童話ですよ、『雪の女王』っていう」

「ふーん、このタイトル、そう書いてあるのね」

「……お嬢様、もしかして、文盲なんですか?」

「?」

「字の読み方を知らないんですか?」

「必要ないもの」

 

 ルーデウスは驚き、そして、勝ち誇った顔をした。

 

「そうですか。僕の4歳の妹は、こんな本くらい、すらすら読めますけどね!」

「なっ」

 

 エリスは両手を目の前に持ってきて、片手の親指を折り、いちにぃさんし、と人差し指から小指も折った。一桁の計算ならばできる。5。5歳も下の子が、自分より優れている。悔しかった。

 

「わ、私だって、読めるわよ」

 

 本を受けとり、開いた。

 

 

 そのとき、……が、ひどく……きたので、カイはじぶんの……も……できません。……そりは……っていきました。カイはあせって、しきりと……をうごかして、その……からはなれようと……、……はシッカリと……にしばりつけられ……にもなりませんでした。ただもう、……にひっぱられて、……のようにとんでいきました。カイは……をもとめましたが、たれの……にも、きこえませんでした。……はぶっつけるように……ました。そりは前へ前へと、……

 

 

「つまんなかったからやめる」

「そうですか」

 

 

 翌日、エリスがルーデウスの帰宅を知り、彼の部屋に行くと、小さな木札をいくつも用意したルーデウスがエリスを迎えた。

 ルーデウスは木札を横に並べ、短文を複数書き上げると、「いつ」「どこで」「だれが」「なにをした」のグループに分け、ひっくり返して混ぜ合わせた。

 それぞれの集団からランダムに引いて文法通りに並べ直すと、面白みのない文章は混ざりあって思いもよらない文が生まれる。

 そうして生まれた珍妙な文章をルーデウスが読み上げる度に、エリスはその状況を想像して、腹を抱えて笑った。エリスは少し字の読み方をおぼえた。

 

 ある日は、ルーデウスは砂鉄と磁石を用意して、紙の上に砂鉄を敷き、下から磁石を当てて動かす遊びをした。砂鉄がはっと直立するので、砂粒に、ひとつひとつ命を与えている気がエリスはした。ルーデウスは、子供に楽しみを与えながら学習させる方法を熟知していた。

 

 

「ルーデウスは?」

「学校に行かれました」

 

 ルーデウスが不在であると知り、エリスは父親の書斎を訪ねた。仕事中のフィリップの膝の上で、机上の書類の、たまたま目についた文章を読みあげた。堅い文章だったが、少しなら、拾って読むことができた。

 

「誰に教わったんだい?」

「ルーデウス」

 

 フィリップはエリスの頭を撫でながら考え込み、勉強を再開する気はあるか訊ねた。

 座学は好きではないけれど、昔ほど苦痛ではない。なにより、現状では小さな子に負けていることが悔しくて、「ちょっとだけ」と答えた。

 

 

 

「本日付けで、お嬢様の家庭教師として雇われることになりました、ルーデウス・グレイラットです」

 

 貴族式の礼を披露するルーデウスの身なりは整えられていた。

 ボレアス家の一人娘に勉強を教え、これまで無関心だったフィリップとサウロスの関心を集めたことで、エリスの知らぬところで彼の扱いは改善されたのだった。

 

 エリスはルーデウスを眺めた。

 サイズの合う服を着て、白いシャツの襟に通したスカーフを磨かれたスカーフピンで留め、フロックコートを着こなすルーデウスの眼から、ひねくれた色は消えていた。

 風采の良い少年になった。エリスは仄かな満足を得ていた。

 

 栗鼠の腹を開き、死因を探ったことを、あのとき漂ってきた甘ったるい嫌な臭いと共に思い出す。

 与えすぎも毒になるのだと知らないままだったら、エリスはペットを失い続けていただろう。

 それを思えば、目の前にいる少年が弟ではなくても、家に置いてやってもいい、という気になる。

 

「エリスでいいわ。これからは、お嬢様じゃなくて、そう呼んで」

 

 エリスはルーデウスに笑みを向けた。ほのかな好意が乗った笑みであった。

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