巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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十七 また明日

 大きなお屋敷だ。

 生まれて初めて見る大きさの建物に、私は圧倒された。

 岡山では、北の方に限るが、どんなに貧しい家でも、土間は広く大きく作られている。農作業のためだ。

 でもこの屋敷は違う。豊かさゆえの大きさだ。

 

「うにゃ……着いた?」

「……」

 

 移動する馬車の中で、退屈し、あやとりやお歌で暇を潰していたアイシャとノルンはちょっと眠そうだ。

 獣耳の生えた綺麗な女中さんが何人も寄ってきて、アイシャとノルンを抱っこしてくれた。私もするか訊かれたが、断った。

 この中にお兄ちゃんをいじめた人がいるかもしれない。

 私は敵に油断しないのだ。

 

 両開きの重厚な玄関扉をくぐり、長い石造りの廊下を歩いて客間のような部屋に通された。

 兄の誕生会が開かれるまで、ここで待機するらしい。

 

「可愛いですね、お菓子どうぞ」

「ありがとうございます!」

 

 小さな焼き菓子をもらった。わぁい。

 この小麦色の猫耳の女中さんはきっと良い人だ。

 お兄ちゃんをいじめたのもこの人じゃない。食べ物くれたもの。

 

 妹たちと分け合って食べていると、ドタドタせわしない足音が聞こえ、次いで、扉がバンと開かれた。

 驚いたアイシャの手からポロリと焼き菓子が落ち、膝に敷いたナプキンの上に着地した。

 ノルンはもくもくと頬を動かして咀嚼している。

 

「あなたたちね! ルーデウスの家族は!」

 

 現れたのは、兄よりいくらか歳上の少女。

 整った顔立ち。白と黒を基調とした上等な衣服。

 腰下まである髪は、煮色仕上げ前の烏金よりあざやかな赤色だ。

 

「小さいわね!」

 

 居丈高に私たちを見回した彼女は、母様に目をとめ、その勢いを削がれたようだった。

 彼女はおずおずとスカートを摘み、ちょっと腰を折った。

 

「エリス・ボレアス・グレイラットですわ」

 

 エリスお嬢様。

 兄からの手紙によく登場する子だ。

 

「初めまして、エリスお嬢様。私はゼニス・グレイラット。ルーデウスの母です。

 息子のためにパーティを開いていただけること、家族一同、深く感謝申し上げます」

「あ、えっと、シンディ……、シンシア・グレイラットです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 

 立ち上がった母様に続き、膝と腰を折って感謝を述べる。

 突然のことで、愛称のほうを名乗りそうになってしまった。

 

「アイシャ・グレイラットです! 初めまして、エリスお嬢さま!」

「んん……」

「この子はノルンねえです!」

 

 アイシャが溌剌と自己紹介し、ノルンは恥ずかしそうにアイシャの服を握った。

 

「い、いいわ、楽にしてちょうだい。私もそうするから」

「はい、エリスお嬢様」

「〝お嬢様〟もいらない!」

「じゃあ、エリスちゃん?」

 

 親しみを込めた笑みで訊ねた母様に、エリスさんは少し心を許したように頷いた。

 人見知りを発揮したノルンが、向かいの長椅子に座った母様のところに行き、私の隣が空いた。

 空いた場所に、すとんとエリスさんが座る。

 

「エリスちゃん、会えてとっても嬉しいわ。どう? ルディは、こっちでどんな風に過ごしてる?」

「どんな……毎日学校に行って、それで、私に勉強を教えてるわ」

「そう。勉強は難しいかしら?」

「ぜんぜん! ……ううん、たまに難しいけど、でも、ルーデウスの授業は楽しいわ!」

 

 母様はあっというまにエリスさんと打ち解けた。

 心を開いたエリスさんからは、「それでね!」「あとね!」と兄の話がぽんぽん出てくる。

 女中さんに用意された薄めたぶどう酒を飲み、ひと息ついているエリスさんに、私は話しかけた。

 

「エリスさん」

「何?」

「ありがとう。お兄ちゃんのこと好きでいてくれて」

「ん!?」

 

 親元から離れた場所で、学問に励まなければならない状況で、一緒の家で過ごす人たちから嫌われる兄の気持ちは、私には想像もつかない。

 あん家はトウビョウ筋じゃけ、と遠巻きにされたことはあるけれど、それでも傍にはお母や婆やんがいたのだ。

 兄は違う。少なくとも、来たばかりのときは一人だった。

 そんな中で、自分を慕う存在は、きっと心の支えだ。

 

「す、すす好きとか、そんな、違くて、ちがくはないけど、」

 

 エリスさんは頬を紅くし、もじもじしている。色気づき始めた乙女という感じで、可愛らしい。

 私が恋という概念を知ったのは、こっちに生まれてからだ。

 家族ではないひとを好きになり、ふれ合いたい、ずっと一緒にいたいと思うこと。

 母様たちやエーヴさんたちを見ていると、それが良いことだとわかる。

 いいなあ、恋ができる、って。どんな感じなのだろう。

 

「あっ」

 

 左腕の感覚が、急激に遠くなった。

 強ばった左手から杯がこぼれ落ち、床に中身をぶち撒いた。

 

「ごめんなさい、雑巾貸してください」

「お気にならさず。私どもが片付けますから」

 

 慌てる私に、女中さんがてきぱきと床を拭き、新しい飲み物まで用意してくれた。

 やらかしたことが恥ずかしくて、母様のところに行って抱きつくと、「いいのよ、緊張しちゃったのね」と撫でて慰めてくれた。

 

「お姉ちゃん、どじっ子!」とアイシャにからかわれた。

 ノルンは母様の膝にしがみつき、今にも長椅子から落ちそうになりながら私の腕をよしよしと撫でた。ノルンはずてんと尻で着地した。

「おねえちゃんはいい子よ?」と言ってくれるノルンの方こそ、いい子だ。

 

 その後、赤い長髪に興味を惹かれたノルンがエリスさんにじりじり近づき、最終的に懐いたり、

 アイシャがエリスさんの膝に座り、撫でくりまわされて目を回したり、楽しい時間が流れた。

 

「さあ、行きましょ! これ預かってて!」

「お兄ちゃんにあげるの?」

「そうよ!」

 

 準備の完了を知らされ、エリスさんはワクワクした表情でアイシャと手を繋いで部屋を出た。

 私はというと、桃色の花弁が幾重にも重なった花の束を預けられた。綺麗な花だ。

 

 そうして、大広間に到着した。

 身内だけで、と聞いていたのに、大勢いる。兄はまだ来ていないようだ。

 

「大家族……」

 

 呟くと、母様に、ここに居るほとんどの人たちはこの家の使用人だと教えられた。全員と血縁がある訳じゃなくて、エリスさんの家族は、両親と祖父だけらしい。

 なるほど。さては相当な分限者だね?

 あのドレスを着た赤髪の女性がお母さん、あの怖そうな大柄なお爺さんが祖父だろうか。お父さんはわからなかった。

 

「お兄ちゃんかあ……あたしのご主人様……」

 

 アイシャが幼子とは思えぬため息をついた。

 なぜだか表情が暗い。

 

「どうしたの」

「あのさー、お姉ちゃんはさ、もしお兄ちゃんが変た……」

「へんた?」

「……やっぱりいい」

 

 アイシャが口を割らないので、体を突いてみる。つんのこつんのこ。

 くすぐったそうに笑って避けるアイシャと攻防を繰り広げていると、広間の入口のほうから声と拍手が響いてきた。エリスさんの声もだ。

 

 お兄ちゃん来た!?

 

「ルーデウス、おめでとう!」

 

 私が見たのは、エリスさんから花束を受けとる兄の姿だ。

 

 わー!

 お兄ちゃんだ! 三年ぶりの!

 身長伸びてる! 声ちょっと低くなってる! かっこいい!

 

 ところが、兄は、顔をしかめ、袖で顔を覆ってしまった。

 喜ぶ姿を想像していた周囲は呆気にとられた。

 そうして、涙声で、兄が訴えることには。

 

「ぐすっ……僕、医者になりたくてロアに来て……

 でも、世間の目とか、偏見とか、思ってたより、厳しくて……

 ここでも見捨てられたら、僕もうだめかもって……父さんに迷惑がかかるから、失敗しちゃいけないって思ってて……

 い、祝ってもらえるなんて……思ってなくて……ぐすっ」

 

「お、お兄ちゃ」

 

 泣いてる兄を初めて見た。

 母様を見上げると、感涙した様子で、ハンカチで目尻を押さえていた。

 

 感涙しているのは母様だけではなかった。

 怖そうな大柄なお爺さんが、目に涙を光らせ、杖を振りあげて吠えたのだ。

 

「せ、戦争じゃあ! ノトスんところと戦争じゃ! ピレモンをぶっ殺して、ルーデウスを当主に据えるぞ! そうすりゃ誰もこの子を蔑まん!」

「父上! 抑えて!」

 

 お爺さんは、使用人二人がかりで羽交い締めにされ、退場していった。猪のように元気な老人だ。

 

「お兄ちゃん」

「シンディ?」

 

 兄の前に出ると、兄はきょとんと目を丸くした。

 まったく予想外だったというふうだ。

 

「ルディ! 私のルディ! 良い子ね、立派だわ、今までたくさん頑張ってきたのね!」

「わ、か、母さん?」

 

 感極まったように母様が兄を抱きしめる。

 兄は戸惑いながら、ぎこちなく母様の背中に腕をまわした。

 

「来てたんですね」

「ええ、招待されたのよ、エリスちゃんの提案でね」

 

 母様に抱きしめられたまま、私を見て、ノルン、アイシャを見て、兄は期待する顔を母様に向けた。

 

「じゃあ、父さんも?」

「あ……それがね、お父さんは、森の魔物が活性化してて、来れなかったのよ。残念がってたけど、どうしても、ね」

 

 兄の顔が曇る。

 だけど、それは少しの間だけだ。

 

「会えて嬉しいです、母さん。シンディも大きくなったな。

 ありがとう、エリス。最高のサプライズです」

「! ふふん、それだけじゃないんだから! ルーデウスがもっとビックリする物も用意したのよ!」

 

 エリスさんが指をスカッとさせると、それが合図であったのか、モノクルを付けた初老の男性が杖を持ってきた。

 杖といっても、びっこのあれじゃない。魔術師が使う杖だ。

 瑠璃に似た球体が、杖の先端に滞空している。

 すごい。どういう構造なのかさっぱりだが、とにかくすごい。

 アクアハーティアという名前までついている。

 それがボレアス家から兄への贈り物だそうだ。

 

 アクアハーティアの説明を聞き終え、左手に花束を、右手に杖を持った兄が、エリスさんにお礼を言った。

 

「ありがとうございます。こんな高価な物まで」

「値段のことはいいわよ! パーティを始めましょ!」

 

 兄は使用人に荷物を預け、エリスさんにケーキの前に引っ張られていった。

 いくつも用意されたテーブル。その上には美味しそうな料理が満遍なく鎮座している。

 そのうちの一つを丸々占めるほど、大きなケーキだ。

 

「……」

 

 ずっと持っていた手提げ籠を見下ろす。

 私が作ったのを渡すのは、あとでもいいか。

 

 

 

 

 猪の頭部の丸焼きの口から、焼きリンゴやレモンがごろりと転がり出た。

 白目の皿やナプキンなど、細々したものを用意してくれるのは女中さんだけど、肉を切り分けるのは下男であるみたいだ。

 香辛料のきいた猪肉を味わって食べた。おかわりをもらうべきか。腹の余裕的にはいけなくもない。

 悩んでいると、とんとん肩をつつかれた。

 

「美味いか?」

「……うん、美味しかった!」

 

 お兄ちゃんお兄ちゃん!

 

 兄が話しかけてくれた。さっきまで彼は色んな人に囲まれていたから、私から話しかけていいのかわからなかったのだ。

 兄は微笑み、しゃがんでノルンとアイシャに視線を合わせた。

 

「ノルンと、アイシャですね。どうも、君たちのお兄ちゃんです」

「……」

「……アイシャです」

 

 ノルンは照れ照れと私の後ろに隠れ、アイシャはぺこりと頭を下げてから、やっぱり私の後ろに隠れた。

 母様は向こうでエリスさんのお母さんと話している。

 

「君たち、ひよこは好きですか?」

 

 妹たちと打ち解けたい兄の提案によって、私たちは広間を出て、ボレアス家の鶏舎に移動することになった。エリスさんもついてきた。

 

「お兄ちゃん」

「なんですか妹ちゃん」

「その口調やめてほしいの。寂しいよ」

「わかった」

 

 やっと会えた。それだけで嬉しいのに、私たちの間には気まずい雰囲気がただよう。

 

「着いたぞ」

「持ってみる?」

 

 鶏舎の中は暖かい。部屋の中心に置かれた箱状の飼育機から、エリスさんが慣れたように鶏の雛を取り出し、アイシャとノルンに持たせた。

 私にも黄色い雛が差しだされたが、断った。ノルンが怖がって私を頼るかもしれない。

 

「両手で、包むように持つのよ、優しくね!」

「かわいいっ」

「そうでしょ!」

「おねえちゃん、もってぇ」

 

 ぴよぴよ鳴く雛を抱っこして機嫌が回復したアイシャとは異なり、ノルンは不安そうに両手につつんだ雛を私に差し出した。

 籠の持ち手を腕に通し、ノルンから雛をうけとる。

 鶏を飼ってる友達の家で、雛を持たせてもらう事はあるから、慣れている。

 

「大丈夫、怖くないよ。頭撫でてあげようね、そっとね」

「こう? こう?」

 

 持っているうちに雛は目蓋を下から上に閉じて睡った。

 ノルンはおっかなびっくり頭の和毛を人差し指で撫でる。

 そのうち怖くなくなったのか、自分で抱っこしたそうな顔をしたから、ノルンに再び持たせてあげた。

 

「おもしろい! 抱っこすると、すぐ寝ちゃうの!」

「そうだな、特に子供の手は温かいから、心地良くて寝るんだ」

 

 アイシャはちょっとだけ兄に心を開いたようだ。よかった、よかった。

 

 ノルンはというと、

 

「……」

「こほん」

 

 鶏舎から出たあとも、兄との距離を決めかねている。

 柱の影からじっとこちらを見つめるノルンに、兄は居心地悪そうに咳払いをした。

 

 でも嫌っているわけじゃない。兄の話はときどきしていたし、ノルンも今日を楽しみにしていたのだ。

 

「ノルン、おいで」

 

 私がそう声をかけると、ノルンはててーっと走ってきて、兄に近寄った。

 

「ノルン!」

 

 感動したように兄が膝をついて両腕を広げる。

 ノルンはまた柱の影に隠れてしまった。

 

「お兄ちゃん、ノルンは恥ずかしがってるのよ。そのうち慣れると思うから、自然にして、待ってあげて?」

「そ、そうか?」

 

 兄は立ち上がり、「自然に……自然に……」と呟きながら、ノルンから視線を外して、襟を正したり、肩をぐるぐる回したり、下手くそな口笛を吹いたりした。

 

「ルーデウス、それ、不自然よ?」

 

 エリスさんが不思議そうに言ったときだった。

 ノルンが兄にそーっと近づいて、ぽんっと背中を触った。兄が振り向くと、ノルンははにかんで離れ、私に抱きつき胸に顔を埋めた。

 そして、ちらりと兄を見て、にこっと笑う。

 

「かわいいでしょ?」

「めんこい、めんこいなぁ……」

 

 兄はその場に正座し、合掌してノルンを拝んだ。

 アイシャがむすっとしていたので、「アイシャもかわいい、かわいい」と抱きしめて撫でる。

 

「私が抱っこしてあげる!」

 

 エリスさんが自信満々に両腕を出した。

 リーリャから散々「お行儀よくしなさい」と言い含められていたアイシャは、いいのかな? という顔をしていた。

 しかし、この場にリーリャがいない事を思い出したのか、エリスさんの腕に嬉々として捕まる。

 

「エリスお姉ちゃん、あたし、こんな大きなお屋敷初めて。探検してみたいです!」

「いいわよ、案内するわ!」

「エリス、わかってるとは思いますが、小さな子に暴力はダメですよ」

「するわけないでしょ!」

 

 風のように颯爽とエリスさんは去っていった。興奮したアイシャの歓声が廊下に響く。

 探検、楽しそうだ。私も行ってみたかったな。

 

「あ、そうだ、シンディ、渡したいものがあるんだ」

「なあに?」

 

 ついて行くと、小型の像だの、動物の剥製だのが床や棚に置かれた部屋に通された。兄の自室だろう。

 ノルンは熱心に剥製のヒヨコの頭を撫でている。反応がないことにはまだ気がついていないみたいだ。

 

 渡されたのは、一冊の本だ。

 装幀は赤茶色の山羊のなめし革。背表紙に作者の名前はない。

 

「お前、左手で魔術使えないだろ?

 だから、片腕だけで混合魔術を完成させる方法を、俺なりに色々試してまとめたんだ。あと、自然現象を利用する混合魔術の理論と、使用例なんかも書いてある。役に立てばいいけど」

「お兄ちゃんが書いたの?」

「ああ。五歳の誕生日に間に合わせたかったけど、二年も遅れちまったな」

 

 暇ではなかっただろうに。

 こんな、厚い、立派な本を。

 村のみんなが当たり前にできることを、ひとりだけできない、私のために。

 

「お兄ちゃんあのね、えっとね」

「うん?」

「私ずっとお兄ちゃんのこと好きよ。何があっても、嫌いにならないよ。こわいことだってしない」

 

 ずっと黒い場所から出られないんだって思ってた。

 産まれてすぐの頃は、ほとんど目も見えなくて、何も分からなかった。手のひらをくすぐる指先の感触に、耳に届く、高い幼い声に、どれだけ救われたか。

 

「……」

 

 腕が伸べられた。抱きしめ返して、安心した。

 三年前より成長して、肉付きのしっかりした体だった。

 親元を離れているあいだも、飢えずにいられたのだ。

 

「五歳の誕生日おめでとう、シンディ」

「お兄ちゃんも、十歳のお誕生日、おめでとう」

 

「読んでいい?」机の上に置いていた本を指し、訊ねた私に、兄は「もちろん」と頷き――かけて、

 

「その籠なに入ってるんだ?」

「はっ!」

 

 手提げ籠に言及した。

 そっと背中側に回したが、兄は遠慮なく覗き込んでくる。兄の視野から隠すために体の向きを変えても追いかけてくるので、その場でぐるぐる回ることになった。

 

「何だよ、教えろよ、気になるだろ」

「いまは、いまは欲しくないかもしれないから!」

 

 さっきケーキ食べてたもの。

 もう甘味には飽きてるかもしれない。

 

「おねえちゃんはケーキつくったの」と、床に置かれた置物をペチペチ叩いていたノルンが告げ口した。

 家屋を小さくしたような置物である。あれも兄が作ったのだろうか。

 

「俺に? 母さんに教わったのか?」

 

 にまっと兄が笑う。母様そっくりの笑顔だ。

 私は顔を逸らしながら、しぶしぶ手提げ籠を差し出した。

 

「……そうよ。日もちするから、……思いだした時に食べてね」

「一旦忘れなきゃいけないの?」

「だ、だって、お兄ちゃん、さっきもケーキ食べてたもん。飽きるでしょ」

「全然。だいたい、うちのケーキって甘くないだろ。むしろ口直しになるよ」

「え?」

「え? だって生地に砂糖入ってないし……」

「生地に?」

 

 生地に?

 砂糖とラム酒漬けの果物のおかげで充分甘いのに。生地にまで入れたら、甘すぎて死んでしまうのではなかろうか。

 兄の甘さを感じる基準がすこぶる高い。恐ろしい。

 

「ありがとう、嬉しいよ。一緒に食べよう」

 

 でも、兄がそう言ってくれたから、そんな事はどうでもよくなった。

 

「お姉ちゃん! 部屋たっくさんあったの! 掃除がたいへんだね!」

「メイドがやるから大変じゃないわ!」

 

 戻ってきたアイシャとエリスさんとも合流した。ノルンは兄からもらった小さな猫の置物をご機嫌で触っている。

「アイシャにもちょうだい」とノルンは兄にねだり、渡されたもうひとつの置物をアイシャにあげた。優しい子だ。

 

「よかったね、アイシャ。お兄ちゃんにありがとうって言うのよ」

 

 アイシャは嬉しそうに手の中の置物を見つめていたが、私の言葉を受け、バツが悪そうに兄を見上げた。

 言いたくないけど、でも貰っちゃったしな、言わなきゃだめだよね、という葛藤が伝わってくるようだ。「ありがとう」と小さな声で言ったアイシャの頭を撫でておいた。

 

 それから私たちは、邸内の階段に腰をおろして、パウンドケーキを食べた。ナイフがないので、手で食べたいだけちぎり取る。

 兄は「美味しい」と何度も言ってくれ、エリスさんは「素朴な味ね!」と言いながら二回ほどおかわりした。

 アイシャは手でパウンドケーキをちぎるという普段しないことに興奮したようで、「こんなことしていいの!?」と聞き、しかし自分はそんなに食べずに、ほとんどノルンに食べさせていた。

 

 会場である大広間に戻った。

 エリスさんは椅子を持ってこさせ、ノルンを抱っこして座った。エリスさんとお喋りしていると、赤髪の女性が近寄ってきて、「可愛らしいわ」と私たちに微笑んでみせた。

 

 エリスさんが「お母様よ」と教えてくれた。

 やはりこの人がエリスさんの母親だったようだ。エリスさんより目は小さいが、切れ上がった目元がよく似ている。

 

「仲良くなれたかしら? そうして見ていると、あなたたち、本当の姉妹のようね」

「うん、このちっこいの、可愛いわ!」

 

 ちっこいの、と言われたノルンは、エリスさんに頬の形が変わるほど頬ずりされて、あぷう、と声を出した。

 

「エリス、ルーデウスと結婚したら、その子たちがあなたの妹になるのよ」

「けっこ……」

 

 エリスさんはコチンと固まった。

 母様が来て、「急に言われてもビックリするわよね?」とエリスさんに助け舟を出した。

 

「奥様、少し気が早いんじゃありませんこと? あなたがたはともかく、うちは平民ですわ。そういうことは、当人同士の気持ちを大事にしてくださらないと」

「気が早いなんて……ねえエリス、あなたうちのルーデウスに不満なんてないでしょう?」

「ルーデウスはうちの息子ですが」

 

 私の肩を抱いていた母様の指にキリキリ力がこもった。

 母様と、エリスさんの母親の絡み合う視線に、バチバチ火花が散っているように見える。

 

「お母さん、お兄ちゃんのところ行ってきていい?」

 

 こうなったら避難だ。兄のところに行こう。

 兄のそばに行き、オー・ド・ショースを履いた貴族然とした男性と歓談している兄の背中にぴたっとくっついた。

 

 兄と話をしている人は、フィリップさんだ。さっき母様から教えられた。

「ルディがまだお腹にいるときに、お父さんの仕事と住む場所の世話をしてくれたのよ」と。

 ということは、ブエナ村で、エマちゃんやシルフィたちと友達になれたのは、彼のおかげとも言えるのだ。

 

「やあ、君のことはルーデウス君から聞いているよ。シンシアちゃんだね」

「はい。お父さんにお仕事くれて、ありがとうございます」

「お父さんはしっかり働いてるかな?」

「毎日がんばってます。お父さんは強いので、すごいなって思います!」

 

 弱いとすごくない、みたいな言い方をしてしまった。「もし弱くてもすごいです」と焦って言い足した。

 

「君は良い子だね。温順そうだし。ピレモンが好みそうだ」

「ぴれも……」

 

 誰だろう。さっきも、同じ名前を聞いたような。

 

「フィリップ様? 妹に何をさせるつもりですか」

「……ハ、ハ。ルーデウス君のようにうちに引き取って、然るべき教育をして、嫁ぎ先の世話をしてあげるのもアリかな、とね。

 君がエリスと結婚してくれたら、やりやすくなるんだけどな」

「させませんよ?」

 

 やや遺憾そうな兄に肩を押され、その場を離れさせられる。

 その途中、あの人の言うことは聞いちゃいけません、という内容のことを言いつけられた。

 

「自分の人生は、自分で決めるものだからな」

「そうなの……かな?」

 

 よくわからない。

 病で片輪になったことも、トウビョウ様の使いになったことも、私の意思ではなかった。

 人生は、すべて、生まれで決まる。百姓の子は百姓の人生を、穢多の子は穢多の人生を、それぞれ過ごすと生まれたときから決まっている。

 

「お姉ちゃん、これおいしいね!」

「ほんと? お姉ちゃんも食べようかな」

 

 この可愛い妹だって、兄のために働くことが決まっている。

 リーリャがそう決めたからだ。

 

(……あら?)

 

 ここまで考えて、私は気づいた。母様は私に「こう生きなさい」とは言わない。父様もだ。

 友達と仲良くしてね、とか、人のために動ける子になりなさい、とは言われるけど。

 将来のことまで指定されたことはない。

 じゃあ兄の言っていることは正しいのか。

 わたし……私は、どんな人生になるのだろう?

 

「ねえ、お腹いっぱいになったし、遊びましょうよ!

 私の昔のおもちゃ貸してあげる!」

 

 エリスさんに言われ、中庭で一緒に遊ぶことにした。

 床にピンを何本も立て、木製の円盤を投げて倒す遊びだ。スキットルズというらしい。

 兄はたまに外すが、エリスさんは百発百中である。すごい。

 ノルンとアイシャは小さいから、もっと近くで、円盤の代わりに球を蹴ってピンを倒していいことにした。

 私はもう小さくないので、円盤でがんばった。あまり倒せなかった。

 楽しい一日だった。

 

 

「おやすみなさい、母さん」

「おやすみ、ルディ。一緒に寝る?」

「はは……もうそんな歳じゃありませんよ」

「そう? 別にいいと思うけどね」

 

 夜になり、母様が兄の額に口をつけ、おやすみのキスをした。

 キス。あるいは接吻。唇をつけることをそう呼ぶことは、もう知っている。生前は身近に無かった習慣だ。

 

「おやすみ、お兄ちゃん。また明日ね」

「ああ、おやすみ」

 

 私も兄の頬にキスをして、母様と妹たちと用意された部屋に引っ込んだのだった。

 

 ちなみに、夜中に厠に行きたくなり、廊下に出たら、急ぎ足のエリスさんとばったり会った。薄くてひらひらした可愛らしい寝巻きを着ていた彼女に、お顔が真っ赤よ、どうしたの? と訊いたら「何でもないわよ!」と頭をぽかりと叩かれた。尾を引く痛さだった。

 

 

 


 

 

 

 翌朝。

 ブエナ村に帰る馬車の中で、指にひっかけた青色の毛糸をアイシャはノルンに差しだした。毛糸は川を形作っている。

 

「ノルンねえ、とってとって!」

「?」

 

 ノルンは取った。糸を掴んで引き、アイシャの指から外した。

 糸はただの輪に戻り、アイシャは「もうっ」と憤慨した。彼女は船を作ってほしかったのだ。

 

「お姉ちゃん、ノルンねえがちゃんとやってくれないんだけど!」

「ノルンには、まだむずかしいよ。教えてあげて?」

「昨日おしえたよ。なんでできないの?」

 

 不満そうに、不思議そうに、アイシャはノルンを見た。

 ノルンはきょとんと首をかしげている。今回は喧嘩にならないようだ。

 

「アイシャはもうあやとりで遊べるのか、すごいな」

 

 兄が言い、アイシャはすすす……と母様のもとに移動した。

 警戒心丸出しである。母様は困ったように微笑み、アイシャの頭を撫でた。

 

「よしよし、お兄ちゃんは嫌われてないよ」

 

 兄の頭は私が撫でる。簡易な棚、机まで用意された、ちょっとした部屋のような広い馬車の中で、兄は「ぐすんぐすん」と嘘泣きをしながら私の膝に頭を乗せた。

 

 お兄ちゃんがいる。

 そう。兄は帰省するのだ。学校を何日も休めないらしく、三日後にはまた発ってしまうけれど。

 それまでは、兄と一緒だ。うれしい。

 

「っと」

 

 兄が倒れかけたアクアハーティアを慌てて掴む。

 馬車が田舎に、つまりブエナ村に近づくにつれ、未舗装の道が増える。砂利の上を通るたびに車内が揺れるのだ。

 車内が揺れているときに「あー」と声を出すと、勝手に声が震えてなんだか面白い。

 その上、アイシャとノルンの頬がぷるぷる揺れてかわいい。母様と一緒にめろめろにされた。

 

 

「ただいま、リーリャさん」

「ルーデウス様! ご立派になられて……」

 

 兄が家に顔を出すと、リーリャが感激して兄を迎えた。

 リーリャはひょっとしたら父様より兄を敬っている。予想通り、とても喜んでくれたようだ。

 

「ただいま。パウロは? まだ戻ってきてない?」

「はい、早朝に一度戻られたのですが……」

「んもう、タイミング悪いわね」

 

 足に擦り寄ってきた雪白の腹を撫でながら、母様とリーリャの会話を聞いた。

 そんなに忙しいのか、父様は。昨夜はちゃんと寝られたのだろうか。

 

「母さん、僕、ちょっと外を歩いてきます。久しぶりですし」

「あら、そう? 行ってらっしゃい。シルフィにも会ってあげるといいわ」

「あ、はい」

 

 シルフィの名を聞いた途端、兄がギクッとした。なぜ?

 私はノルンとアイシャを家に残し、兄と一緒に行くことにした。兄に久しぶりに会ったみんなの反応を見てみたかったからだ。

 

 麦はいま播種の時期だ。牛馬に犂を括りつけて畑を耕し、土の塊を砕きならして、人が種をまく光景があちこちで見られる。

「こんにちは」と声をかけると、彼らはまず私を見て笑顔で挨拶を返し、次に兄をみて驚いた顔をする。

「帰ってきたのか!?」とか、「大きくなったなあ」とか、その後の反応は様々である。面白い。

 

 挨拶して回るうちに、兄が村にいることは知れ渡ったようだ。

 夏によく遊んでいた川辺に、懐かしい面々が集結した。かつて魔術を教わっていた丘の上は、もう小さい子の遊び場だ。

 

「すげー! それ! その杖!」

「魔術師みてえ!」

「お前帰ってたのかよ、言えよなー!」

 

 ここ数年で上背がかなり成長したソマルくんが兄と肩を組む。

 ヨッヘンくんは羊飼いの杖を持ってきて、「長さならおれが勝ってね!?」と杖でチャンバラを挑み、兄に「信じられないことをするな!」と膝を蹴られていた。

 

「いくらすると思ってんだ!」

「いくらすんの?」

「買ってもらったやつだからわからん」

 

「ロアって本当に壁で囲まれてたの?」

「シンディ、貴族ってどんな顔してた? どんな服?」

「街の人って太陽じゃなくて、鐘に合わせて生活するってホントだった?」

 

 私も私で質問責めである。

 ほとんどの子が、村から出たことがない。外に興味津々なのだ。

 個々に会うことはあったけれど、大勢が同じ場所で顔を合わせるのは久々だ。

 兄が戻ってくるのが、あと一年か二年も後だったらば、こんなふうに集まることはないだろう。何人か奉公で村を出ていただろうし、村にいても仕事を抜け出すことは難しくなる。

 思っていることはみんな同じなのか、そわそわと浮ついた雰囲気が流れていた。

 

「ルディ!」

「シルフィ」

 

 シルフィが兄に抱きついた。ヤーナムくんが口笛を吹いてはやしたてた。

 

「おかえりルディ。あのね、嬉しかったよ、あのフィギュア? っていうやつ。ボクを作ってくれたんだよね、あんなに可愛く作ってくれてありがとう!」

「喜んでくれてよかった。でも、もう少し髪を長くすればよかったな」

 

 兄が、シルフィの後頭部で結わえられた緑髪を眺めて呟いた。ほどけば肩より少し下まである髪だ。

 シルフィの耳はパタパタいそがしく上下している。「しずまれ!」とハンナちゃんが指で挟んで止めた。

 

「そんな大きな魔石だと、やっぱり威力もちがうのかなー?」

「そうそう、気になる! ちょっとやってみせてよ」

 

 メリーちゃん、セスちゃんに言われ、兄は地面に立てた杖を見上げた。

 アクアハーティアは兄の背丈よりやや高い位置に、青い魔石が付いている。光の加減によって紫色にも見える。

 現物を見た事はないけれど、瑠璃や紫水晶の輝きは、きっとあんな感じなのだろう。

 改めて見ても綺麗だ。

 

「昨日のうちに少し試したんだが、杖ありだと威力は倍増するみたいだ。魔力の消費は少なく済む。特に相性が良いのは水魔術だったな」

 

 と、兄は言い、セスちゃんに杖を渡した。

 

「え?」

「水魔術、得意だっただろ?」

「そうだけど、いいの?」

「ああ。使ってみるくらいなら」

「やった!」

 

 セスちゃんは杖を持ち、わくわくした表情で魔石を見つめ、

 

「わ、わ」

 

 急に巨大になった水弾に慌て、空に打ち上げた。

 青空に吸い込まれるように水弾は遠くなり、しばらくして、空に一瞬だけ虹がかかり、雨と見紛うような雫がポタポタと頭や手に降り注いだ。

 

「すっごいわよ、これ! ギューンって感じ!」

 

 興奮気味にこちらを振り返るセスちゃん。

 レミくんが「はい! はい! 僕も水魔術上手い!」と名乗りあげ、シルフィが「ボクだって火以外なら何でも得意!」と対抗した。

 兄は懐かしそうにちょっと笑い、みんなに順番にアクアハーティアを使わせた。

 

「はい、次はシンディ」

「シンディには難しいかもよ」

「思ったよりギュンって出てくるから、魔力はほんとに少しでいいからね?」

「大雨降りそうだし、みんな離れとこうぜ」

「いや川が氾濫するかも」

「やべっ、おれ羊避難させてくる」

「大丈夫だもん!」

 

 失敬な。ちょっと人が水魔術を使うだけで、やいのやいのと。

 ……でも、本当に不安になってきた。辞退しようかな?

 

 考えながら兄からアクアハーティアを受けとる。

 兄は杖の先端部を地面につけたまま、私に両手で握らせた。

 黒檀のような木の表面はすべすべとしていて、とても固い。虫食いにも強そうだ。

 

「手ぇ離すぞ」

「うん」

 

 一緒に支えていた兄の手が離れる。

 

「おも!」

 

 木の部分は見た目ほど重くはないのだ。

 問題なのは魔石の部分。頑張って支えているけど、これが重たくてふらふらと杖が安定しない。

 ソマルくんが「弱っちい!」と言いながら、二股に分かれた杖の上部を片手で持って支えてくれた。

 ふう。安心して杖から手を離すと、「おいコラ」と頭上から声が飛んできた。

 

「私はやめとく……」

「シンディにはまだ早かったな」

 

 そう言って兄はソマルくんから杖を回収した。

 軽々と持っている。……と、思ったけど、肩に立てかけるように持ち直したから、少しは重いのかもしれない。表情に出さないだけで。

 

「ルーデウス!」

 

 溌剌とした声。聞き覚えのある声だった。

 振り返ると、馬から飛び降りたエリスさんがこちらに向かって来るところだった。

 馬上で手網を持っているのはギレーヌだ。二人乗りで来たらしい。

 

「エリス、どうしてここに?」

「遅いから迎えに来たのよ! ルーデウスのすっごい魔術、見せてくれるんでしょ?」

「言いましたけど、ずいぶん早いですね」

「そう?」

 

 エリスさんはずんずん兄に歩み寄り、――一点を見つめて、ピタッと止まった。

 みんなは、とつぜん現れたよそ者への興味や警戒より、エリスさんの様子がおかしいことが気になったようだ。

 その原因を探るため、彼らの視線は自然とエリスさんの見つめる方に集まる。

 

「誰?」

 

 視線の先には、シルフィがいた。

 驚いたようにエリスさんを見つめ返している。

 エリスさんは怯えた顔で後ずさり、「スペルド族!」と叫んだ。シルフィも怯えた顔できょろきょろ辺りを見回した。

 

「え、え!? スペルド族!? ど、どこ!?」

「あなたよ、あなた! 緑の髪!」

「ボク!? なんで!?」

 

 慌てふためくシルフィの前髪を、ソーニャちゃんが掻き上げた。

 つるんとした白いおでこ。

 種族的な違いなのか、シルフィは炎天下で遊んでもちっとも日に焼けない。うらやましい。

 

「よく見て、赤い石ないでしょ?」

「……すぺ、スペルド族じゃ、ない?」

 

 まだ怖がっているエリスさんに、そばに居た子たちがうんうんと頷いた。

 エリスさんはホッとしたように胸をなで下ろし、居丈高に腕を組んだ。その表情に先程までの怯懦はひと欠片もない。

 

「紛らわしいわね、違う色に染めたら? 白とか!」

「え? 嫌だよ……」

「態度の落差すげぇ……」

 

 兄が「彼女はエリス。俺の下宿先の家のお嬢様だよ」と紹介すると、「貴族じゃん!」と誰かが言ったのを皮切りに、珍しそうな目がエリスさんに集中する。

 怒るかな? と思ったけれど、エリスさんは平然としている。

 お家柄上、見られることには慣れているのだろうか。

 

「行くわよ、ルーデウス」

「はい。じゃあみんな、また後でな」

「じゃーねー」

「明日は魔術の勝負しようぜ。午後から暇にしとくから」

「力比べもやるぞ!」

「今度うちにも顔出してね」

「兄貴に子供産まれたから、見に来いよ。超カワイイんだ!」

 

 思い思いの言葉をかけるみんなに手をひらりと振り、兄は村に背中を向けた。みんなもそれぞれ、残してきた家業の手伝いに戻ってゆく。

 私は兄の背中を追いかけ、服を掴んだ。

 

「シンディ?」

「お兄ちゃん……私もいっしょに行ってもいい?」

 

 私も兄の魔術を見たい。

 天候を操る魔術は、作物に影響が出るから、村からも町からも離れた場所で行わないといけない。つまり、兄はまた遠くに行ってしまうのだ。

 馬車の中でたくさん話したけれど、それでも、一日も経たないうちにまた離れてしまうのは、寂しい。そんな気持ちもあった。

 

 兄はギレーヌの方を見た。ギレーヌは首を横に振り、「いくら子供でも、四人乗りは厳しいな」と断った。

 馬は一頭。村でもう一頭借りることもできるが、乗馬に長けているのは、ギレーヌだけなのだろう。

 

「ごめんな、シンディは留守番しててくれ。多分、夕方には戻ってこれるから」

「夜ごはんはいっしょに食べようね?」

「ああ」

 

 兄はエリスさんに続いてギレーヌに持ち上げられて鞍にまたがった。

 離れていく影を見送り、友達の所に戻ると、メリーちゃんに「可哀想にー」と抱きしめられた。

 

「フラれちゃったねー」

「うえーん」

「私たち、これから教会でレース編み教わりに行くけど、シンディはどうする?」

「私はいいや、やりたいことあるの」

「そう? じゃあまたね」

「うん、ばいばい、明日はいくね」

 

 みんなとも別れ、一度家に戻る。

 

 

「ただいま!」

「お姉ちゃんみてみて!」

 

 居間に入るなり、アイシャが飛びついてきた。

 リーリャとよく似たお仕着せを着ている。ちょっとだぶだぶだ。

 

「あれ、どうしたの、その服」

「お母さんにもらった! 頭のやつも!」

 

 ホワイトブリムに手を当てたアイシャがくるんと回る。リーリャの服と異なるのは、襟に白いスカーフを巻いているところと、腰で結ばれた前掛けの紐が、ふんわりとしたリボンになっているところだ。

 袖口をカフスで留めていないので、手首に余裕がある。

 大きな袖から小さな手が覗いているのがかわいい。

 

「ルーデウス様も成人にひとつ近づきました。これからはアイシャにもメイドの自覚を持たせなくては!」

 

 と、リーリャは息巻いている。

 アイシャはまだ三歳。早期教育だ。

 

「かわいいね、似合ってるよ」

「えへへっ」

 

 お母さんと同じ服なのがよほど嬉しいのだろう。アイシャはご機嫌で可愛いポーズをたくさんしてくれた。

 本当にかわいかったので、言葉のかぎり褒め称える。そうしてノルンが消えていることに気がついた。

 ノルンは机の下でしくしく泣いていた。

 

「ノルンー? 出ておいでー?」

 

 母様が腕を広げて呼びかけても、そっぽを向く。

 

「のるんはかわいくないんでしょ!」

「そんなことないわ、ノルンだってとっても可愛いわよ」

「……」

 

 私はへそを曲げたノルンの元に這って移動した。

 髪のリボンを解き、ノルンの手首に巻いて結んであげた。

 アイシャの腰のリボン結びが羨ましかったんだよね。

 

「はい、ノルンもかわいい」

「……かわい?」

「かわいい!」

 

 抱きしめて頬ずり。

 おまけに羨ましがっていた当のアイシャに、「お姉ちゃんのリボンいいなぁ」と言われて、ノルンの自尊心は回復したようだ。

 母様にもらった私のリボン。ノルンが飽きたら返してくれるだろうか。

 

「おねえちゃん、ありがとーね」

 

 涙の残った赤い頬でお礼を言われた。

 ……返ってこなくてもいいか。もうあげちゃおう。

 

 ノルンはご機嫌で机の下から出て、母様に抱きつきに行った。

 私も出ようとして、机の天板にガンッと頭をぶつける。

 ちょっと前までならぶつけなかったのに。

 

 床につっぷして悶えていたら、母様が抱きかかえて頭に治癒魔術をかけてくれた。痛みが引いていく。

 治癒魔術は、自分でかけるより、母様にかけてもらう方が効く気がするのは、なぜだろう。

 

「お母さん、もっと撫でて」

「ふふ、甘えたね。よしよーし」

 

 全回復した。

 私は母様の腕から抜け出し、昨日兄からもらった本を大事に抱えた。これを目当てに家に戻ってきたのである。

 

「行ってきまーす」

 

 さっそく魔術の練習だ。

 玄関扉を開けようとする前に、扉が勝手に開いた。

 

「お父さん! おかえり」

「おう、シンディか。ただいま」

 

 父様は私をひょいっと持ち上げ、くるりと半回転して、外に私を置いてくれた。家の中から外に瞬間移動したみたいだ。

 

「さっきまでお兄ちゃんいたんだけど、エリスさんとギレーヌと行っちゃった」

「そうか、すれ違いになっちまったな……。

 シンディ、森へは?」

「行かない」

「知らない人に助けを求められたら?」

「大人の人をつれてくる、自分で助けようとしない」

「よしっ、忘れるなよ。行っておいで」

「いってきます!」

 

 外に駆けだす。家の中から、アイシャの「お父さんも見て!」とはしゃいだ声が聞こえてくる。

 周りの人が仕合わせそうだと、私もうれしい。

 

 

 

 近ごろ曇り空が多い。

 今日は久しぶりに晴れたと思ったら、また曇りだした。

 

 丘の上に行き、大樹の根元に座りこむ。

 本を広げると、イヴとワーシカたちが寄ってきた。

 

「なにそれー?」

「字ぃきたなーい」

「そんなこと言わないの」

 

 汚くなんてない。少し……金釘流なだけだ。

 二人とも、字は少しだけ読めるが、魔術はまだだ。

 私が教えているけれど、遊ぶほうが楽しいみたいで、そんなに真面目に取り組んでくれない。

 

 クラレンスやエリックに邪魔されながら、読み進めていく。

 

 

 ・混合魔術について

  複数の魔術を順番に、あるいは同時に使い、効果を掛け合わせることで別の効果を生み出す術である。

  例(上級者向け)

   水蒸(ウォータースプラッシュ)氷結領域(アイシクルフィールド)→ フロストノヴァ

   水滝(ウォーターフォール)地熱(ヒートアイランド)+氷結領域→濃霧(ディープミスト)

   水蒸(ウォータースプラッシュ)流砂(サンドウェイブ)泥沼(マッドドロップ)

 

 

 ページの右下に猫が描かれていて、猫の口元から楕円が伸びている。

 楕円の中には「泥沼はもう一度流砂を発動することで無効化できるぞ!」と口語で書かれていた。

 猫にしゃべりかけられているみたいでなごむ。

 

 

 ・注意

  広範囲に影響を及ぼす魔術は、広い場所で、人払いを済ませた上で使うこと。

 

 

「シンディ姉、なんて書いてあるの?」

「魔術で人をケガさせちゃダメだよ、って書いてあるの」

 

 片腕で混合魔術を使う方法が書かれたページを探す。

 あった。水と火の混合でお湯をつくる方法を例にして、簡潔に説明されている。

 

  1.初級魔術の水弾を生成する。魔力の流れをよく知覚しておくこと。

  2.手首~肘まで魔力を戻し、留めておく。バブルリングが腕を囲んで浮かんでいる図をイメージすると良し。

  3.初級魔術の火弾を生成する。

  4.バブルリングと合流させて手のひらから射出する。

 

 バブルリングって何?

 知らない言葉もあったものの、これでお湯を出せるようになるらしい。

 攻撃魔術としての熱湯ならともかく、単にお茶を入れるための湯や、湯浴みのための湯が欲しいときは、桶に水を溜めて、それを灼熱手(ヒートハンド)で温めるだけで良いとも書いてあった。

 ただし加減をあやまると桶が焦げつくため注意、とも。

 

 無詠唱は大前提として、発動前の魔術の魔力を体内に戻す練習から始め、慣れてきたら、魔力の形を崩さないように戻す練習。

 さらにそれも慣れてきたら、戻した魔力を手首あるいは肘に留めたまま別の魔術を使う練習。とにかく反復練習。

 と、概要はそんな感じだった。

 

「ひえ……」

 

 混合魔術にあたってのコツもたくさん書かれている。

 いったい兄は、これを習得するのに、どれだけの労力を払ったのか。

 いちど本を閉じ、滑らかな革の表紙を眺める。

 これは、妹たちや小さな子には貸せないかも。

 うっかり破られでもしたら、兄に申し訳が立たない。

 

「シンディ、ぐるぐる、ぐるぐるだよ」

「あぅ」

 

 ヒューが抱きついてきて、ぐいぐい顎を下から押される。

 空を見てほしいようだ。真上しか見えない。常緑の梢の隙間から、曇天の空が少しだけ見える。

 まだ正午を過ぎたころだと思うが、太陽は厚い雲に遮られ、あたりは薄暗い。

 

「そうねえ、雨が降りそうだね」

「雨ちがうよ!」

 

 毛虫が落ちてきたのだろうか。寒くなってくると、越冬のため葉の裏に隠れた毛虫が落ちてくる事があるのだ。

 ヒューの顔や手が毛虫に刺されてないか確認した。何ともなさそうだった。

 

 広範囲に枝葉を広げた木の下から出る。エリックが涙を浮かべて飛びついてきた。

 

「シンディねぇね、いぶがさ、エリーとあそばない!」

「あら、それじゃ、仲間にいーれて、って言いにいこうね」

 

 眼下では、イヴとワーシカの二人が丘を転がり落ちて歓声をあげていた。草まみれだ。あとで払ってあげなくては。

 

「ぐるぐる!」

 

 ヒューが空を指さし、叫んだ。

 あまり綺麗な色ではなかった。黄土色、黒、茶色、紫色――濁った色が、曇り空に渦巻いていた。無数の目のようだった。

 いつか見た錦雲とは、まるでちがう。

 

 遠くの空から、一条の光が地上に伸びた。

 私はそれを見た。

 

(あ、死ぬ。)

 

 直感した。

 

「戻りなさい! はやく!」

 

 悲鳴は、言葉になっただろうか。

 丘の下にいる二人に叫び、そばに居たヒューとエリックの手をにぎりしめ、体をひるがえし、走った。木の下に引き返した。

 握った手に、汗がにじんでたまった。私の手の中で彼らの手はすべり、はなれかける。

 私はいそいで握りなおす。爪をたてるほどきつく握り返された。

 木の根元に座り、本の表紙を叩いて遊んでいたクラレンスはきょとんと私たちを見た。

 

 クラレンスの肩を押して木に押しつけた。彼は樹肌に頭をぶつけ、泣き出した。

 何かに掴まるのは、水害で生き残る方法だ。

 ああ、そうだ、生前。私が生まれる前年、それと、数えで八と九の年。

 備中では台風で大勢死んだ。それで、海まで流れた死体もあったそうだ。私がいたのは山陰のほうだったから、被害は、水害の後に蔓延した伝染病のほうが深刻だった。

 でも、そのときに教えられたのだ、川が増水して流されそうな時は、高所で、何かに掴まれ、と。

 

 わかってる。あれは、洪水なんかじゃ、ない。

 

 イヴが、エリックを後ろから抱えてしゃがみこんだ。

 イヴの背中に手を当てる。ワーシカは? ワーシカはどこ?

 

「……!」

 

 いた。走ってくる。

 背後には青白い光。

 

 腕を伸ばした。木に掴まれと言ったのに、私の体にはいくつもの体温がすがりついている。

 

 ワーシカの手首をつかんだ。

 白い光の奔流に押し流された。

 何も見えなくなった。

 

 

 


 

 

甲龍歴417年 フィットア領 魔力災害

■気象の概要

 甲龍歴417年11月下旬、災害の中心部である城塞都市ロアには、風の収束により雨雲が滞留していた。当時の雨量記録が残る観測点は多くはないが、この雨雲によりフィットア領北部では雨風が強まり、20日には88.5mm、21日には147mmと多くの雨量があったのである。災害を免れたハーヴォ村には10月18日に「大暴風雨、30余戸の人家倒壊」、20日にも「大暴風雨により堤防破壊」などの記録があり、相次いで台風が来襲したことをうかがわせる。一方で隣接する市には「10月26日ごろから夏のような日照りが続いた。11月になっても気温は下がらない」という町誌の記載があり、大規模な災害の予兆はあったとみられる。

■被害の状況

 この災害において特筆すべきは、転移による死者・行方不明者である。死者・行方不明者はおおよそ9万人で、ラプラス戦役以降のアスラ王国の魔力災害被害としては最大規模の被害となっている。広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、フィットア領の政治機関が集中するロアを直撃して、金融と政治機能が麻痺したことから、国王と大臣は大規模な対応に追われた。

 サウロス処刑後、フィットア領の領主に擡頭したジェイムズ・ボレアス・グレイラットがダリウス・シルバ・ガニウス上級大臣の援助を受け、フィットア領復興院を設置し、復興事業に取り組んだが、資金の大半は王都の工事事業に費やされた。

 各国の転移被害者を保護する体制は整っておらず、また被害者の救済措置を民間に大幅に委託したことも、被害を甚大にした原因である。当時の国王が、被害の責任をとらせるため当時の領主サウロス・ボレアス・グレイラットを処刑する判断を下したことも、復興が遅れた一因といえよう。

 転移事件による正確な死者・行方不明者の数は、現在でも明らかになっていない。

 

『アスラ王国 魔力災害史(下)』より抜粋

 

 


 

 

 

 蜂蜜を少し垂らしたウーブリ。

 ウーブリは、薄焼きの生地を円錐状にまるめたお菓子である。

 もうすぐ五歳になる男の子、ワーシカの好物はそれだった。

 

 生まれてまもない妹のミーシャの額にウーブリを置いて泣かせ、「食べ物で遊ぶんじゃないよ」と母のクロエに手の甲をぴしゃりと叩かれた事があった。

 

 ちょっといたずらをしただけのつもりだった。

 両親や姉の関心が、小さなミーシャに移ったのがおもしろくなかった。

 妹にはまだ食べられないおやつを顔の上に置いて、からかっただけだった。

 

 母に叱りつけられ、おやつも取り上げられ、甘ったれの彼は、すぐさま五歳年上の姉のソーニャに泣きつきに行った。

 彼に優しいソーニャは、彼を撫でたが、抱きしめてはくれなかった。まだ歯も生えていない妹のミーシャをいじめるのは、いくらソーニャの気質が優しくても、許容できないことであった。

 

 ソーニャは自分のおやつをこっそり弟に分け与えながら、言った。

 

「ミーシャに意地悪ばかりしてると、シンディに嫌われちゃうんじゃない?」

 

 シンディ。

 シンシアお姉ちゃん。

 

 ワーシカが大好きな女の子だった。

 ソーニャとは姉弟で結婚できないから、ぼくはシンディ姉と結婚するんだ、と幼心に思っていた。

 小さな村で、幼い頃からよく遊ぶ男女。周囲の大人からも、いずれ恋仲になるだろう、と思われていた。

 

 シンシアは〈神子〉というらしかった。

 不思議な力を生まれつき持った人のことだ、と彼の両親は教えた。

 実際、シンシアには不思議な力があった。

 村の住民の遺失物。夜になっても帰ってこない子供。それらの居場所を、正確に言い当てた。

 彼女の両親は、彼女が村から疎外されないように、不思議な力を人のために使うことを徹底させた。

 そのやり方が功を奏して、シンシアを気味が悪いと思う人は一人もいなかった。

 気味が悪くはなかったけれど、村の中で、シンシアは特別だった。

 

 ワーシカは、シンシアが誰かに声を荒らげて怒るところを、一度も見たことがない。

 もしかすると、ワーシカの知らないところではあったのかもしれないが、少なくとも、彼の前では一度もなかった。

 穏やかな子だった。女の子はみんなこうなのかな、とワーシカは思い、すぐに違うと結論を出した。

 同い年のイヴも女の子だけど、やんちゃで負けん気が強い。

 イヴは一緒にいると楽しいからそれはそれで好きなのだが、ワーシカはやっぱり穏やかなシンシアのほうが好きだった。

 

 見る者が見れば、あるいは、シンシアの性格は、生まれ持ったものではなく、前世の環境に矯正されたものだと気づいたかもしれない。

 穏やかなのではない。いちいち怒っていては身が持たなかったのだ。

 身に降りかかる不条理を、飢えを、寒さを、じっとやり過ごして耐える他に、方法を知らなかった。

 恵まれた環境に生まれた今世では、奔放にトウビョウの力を振るい、増長する可能性もあった。

 だが、我が子が手元から離されることを拒んだゼニスによって、トウビョウの力の大部分は封じられた。

 シンシアは増長せず、本気で怒ることを忘れたまま成長した。

 文明が開花した明治時代。人民の権利と自由が意識され始めた時代。

 前時代的な暮らしを続けていた貧しい農村の子には、関係のないことだ。

 良くいえば温厚で、悪くいえば事なかれ主義。

 彼女のずっと前の世代からこの生き方は変わらない。

 幸いに、優しい両親のもとで、辺鄙だが人々に余裕のある村において、シンシアの気質は美点になった。

 

 だからワーシカの中でも、シンシアは優しい女の子だった。

 

「シンディ姉はぼくのこと嫌いにならないよ」

 

 ソーニャにはそう言い返した。

 シンシアが誰かを嫌っている姿すら想像がつかなかった。

 ソーニャにはそう言ったけど、後でだんだん不安になってきて、次の日にシンシアに訊いた。

 

「嫌いにならないけど、小さな子に優しくできるワーシカのほうがもっと好き」

 

 妹に優しいお兄ちゃんになろう、とワーシカは決意した。

 その決意はあまり長く持たなかった。でも、シンシアの一言で考えをあっさり変えるくらい、ワーシカの中で、彼女の存在は大きかった。

 

 神子で特別なシンシア。

 シンシアの特別はぼくじゃないのかも、と思うのは、彼女の兄と妹たちが絡んだときだ。

 

 ノルンとアイシャというシンシアの妹。

 その子たちが優先されるのは許せた。

 小さな子は手がかかるし、周りが助けてあげなければいけない存在だからだ。

 

 でも、ルーデウスというシンシアの兄。

 ワーシカがもっと小さなときは遊んでもらったこともあるらしいが、憶えていない。

 もう十歳のお兄ちゃんらしいのに、いつまでもシンシアの心を占める存在。いやだった。早く出ていってほしかった。

 

 シンシアの心からルーデウスが出ていったとき、今度こそ、シンシアは、ワーシカの「大人になったら、ぼくと結婚して」というお願いに頷いてくれる気がしていた。

 

「いいよ、仕方ないね、ワーシカは」

 

 と、笑顔で頷いてくれるだろう。そう思った。

 

 

「戻りなさい!」

 

 シンシアが声を荒らげるのを、初めて聞いた。

 一緒になって丘を転がり落ちていたイヴが、弟の名前を叫んで木の下に行った後だった。

 ワーシカは見てしまった。どんどん膨らんで迫る白い光が、丘から見える家々や畑を飲み込むところを。

 ソーニャは教会でレース編みを教わっている。

 お母さんとお父さんは畑で働いている。

 ミーシャは畑のそばで、えじこに入って泣いているだろうか。

 

 もつれそうな足を動かして、シンシアのもとに走った。

 シンシアの必死な眼には、ワーシカしか映っていなかった。

 

 

 ぼくのせいなのかな。

 ぼくが、シンディ姉のいちばんになりたい、って思ったから。

 こんな、よくわからない、こわいことになってるのかな。

 

 

「起きて……シンディ姉」

 

 目覚めた場所で、ワーシカはシンシアを揺さぶった。

 みんな、砂塵にまみれていた。他の子はまだ寝ている。

 シンシアは背中側をヒューにしがみつかれ、本を抱えたクラレンスを抱きかかえる格好で、目を閉じていた。

 

 ワーシカが気がついた場所は、遊び場の丘ではなかった。

 周囲には苔がまだらに生え、やや離れた場所には、緩やかな傾斜にそって、風化し崩れゆく最中であろう石の建造物があった。

 長い間使われていないのか、苔や蔦が罅の入った石壁に自生している。細長い栗鼠のような齧歯類が、崩れかかった石壁を乗り越えて巣穴に戻った。

 眼下には、白い雲が流れている。険しい山脈の尾根にかぶさる雲はキノコのようだった。

 

 薄昏い空には、紅い鳥とトカゲが混ざって大きくなったみたいな、怖い生き物がたくさん飛び交っていた。

 遠く離れているのに、それらはワーシカたちを見つめているとわかる。

 

 

 417年、転移事件。

 アスラ王国フィットア領を襲った未曾有の大災害。

 被災者の半数は、魔力に変換されて消滅している。

 消滅をまぬがれ生存しても、その後の生存まで保証された土地に転移した者はごく少数であった。

 

 

 大陸の陸地を横断する巨大な山脈――赤竜山脈。

 以前の名前はとうに忘れられ、誰も憶えていない。

 第一次人魔大戦時から存在している。それは確かなのだ。

 ラプラスによって放たれた赤竜が住みつき、かつて暮らしていた人々は追い出された。

 それ以来、この場所は、何百年と変わらず赤竜の縄張りであった。

 

 赤竜の縄張りに踏み入り、生きていられる者はいない。

 骨すら残さず食い尽くされる。それがこの世界の定説だ。

 

 まだ五歳に届かないワーシカは、空を旋回する生き物が赤竜であることを知らない。

 逸らされない赤竜の視線が、獲物を捕らえた捕食者の眼も同然であることを知らない。

 しかし生物に刻まれた本能として、恐ろしい事が起こることを予感していた。

 

「シンディ姉! 起きて! ここなんか怖いよ!」

 

 赤竜山脈に子供が六人。そのほとんどが五歳にも満たぬ幼子である。

 生存は絶望的であった。




一章 終

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