十八 蛇巫
【
1 神蛇と交合すること
2 神蛇を生むこと
3 神蛇を祀ること
蛇はかつて大元の神であり、さかのぼれば、縄文時代から信仰の対象であったそうです。
近代の中国地方で信仰されていた蛇神、トウビョウの中には、家の守護神とされるような神聖性と、動物霊として卑しめ嫌忌されるという矛盾した相が同居していますが、その矛盾の理由は、古代と後代における蛇観の差の中に求められます。
古代に蛇が信仰の対象になった理由
1 蛇の形態が男根の象徴であるから?
2 毒蛇や蝮の強烈な生命力と、相手を一撃で倒せしめる毒性から?
これらのことが相乗効果を持ち、蛇を神と祀るに至った?
現代では蛇は信仰対象ではない理由
1 キリスト教では蛇は人間に原罪をもたらす邪悪の権化である→キリスト教の伝来により嫌悪されるようになった?
2 日本神話ではすでに蛇は畏敬と嫌悪を内包していた
※あとで良い感じにまとめます。
つまり、トウビョウは、古代、蛇巫によって祀られた神蛇が零落した姿であって、
かつて巫女や物に憑依して託宣を授け、神意を示してきたのが、
時代とともに蛇の神威は衰え、忘れられていったと考えるのが自然です。
トウビョウの名の由来は不明ですが、時代のどこかで古代の神蛇がトウビョウという名を獲得し、狐・犬その他の動物霊の中の一つとして数えられるようになったのは、古代の蛇神の中にあった「取り憑く」という特徴が、神威を喪失した後も残ったためであると考えられます。
神威を失った上での憑依は、人々にとって害悪以外の何ものでもありません。
中国西国のあたりに蛇をもちて人につけなやます
(寛文十年『醍醐随筆』)
安芸に蛇神あり。又たうべうと云。人家によりて蛇神をつかふ者あり。其家に小蛇多くあつまり居て、他人につきて災をなす
(宝永六年『大和本草』)
備前のたふべうの事、或人曰く、備前の国にもたふべうを持と云者あり。是は狐に非ず。煙管の吹煙筒程の小蛇、長さ七八寸に過ぎざるものなり。……
(執筆年不明『雪窓夜話』)
とうびょうは、また七十五匹が一団で、この家筋のものと縁組みした家には、その七十五匹のとうびょうが、嫁や婿について行き、その家もとうびょう持ちとなる。
(大正十一年『民族と歴史』八巻一号)
今まで貧乏であった家に急に財産ができると、その家にはとうびょうが飼ってあるという。昔はとうびょうが夜出て、他家に行き、なんでも口にくわえて帰ってきたため、急に財産ができたのだといって、大変世間の人は嫌っていたそうである。
(前掲書)
トウビョウのほか、荒神神楽の蛇託宣など、中国地方は古代から続く蛇信仰を濃く継いだ土地であることは明らかです。
※岡山県苫田郡の××村(現在は津山市)で信仰されていたトウビョウについて調べたら加筆します。
※こんど訪ねてみます。
↑もう手遅れだったみたいです
不吉な家だった。
家の裏手に池があって、池は、どこか侘しい茅葺き屋根まで映しだした。
池に家が映る立地を池鏡といい、岡山では忌み嫌われる。
チサが生まれ育ったのは、北の果ての村の、忌み家だった。
この家は死んでいる。
換気や吸湿といった、家としての機能はとうに失われているのだ。
毛羽立った畳は藺草の匂いなどとうに消えていて、寝転べば、畳に染み込んだ垢と汗が粘着質に躰にまとわりつくような。
わざと上げたはしゃいだ声は、どこにも響かずに、じゅくじゅく腐った天井に吸い込まれていくような。
土と木と、人の臭い。それらが充満した陰鬱な家の中でも、チサは婆やんの膝に抱かれていれば、満たされているのだった。
この家が死んどるんは、トウビョウ様がおるからじゃ。婆やんの膝の上で、チサは幼心にそう確信していた。
チサは躰を起こした。
肘で上体を支え、力の起点を肘から手のひらに移す。
敷きっぱなしの湿った布団に手のひらを押しつけた。
足の付け根――動く。
膝の感覚――ある。
佝僂のように背中をまるめ、片足のつま先を布団につける。
足元でわだかまった掛布団から、もう片足も引き抜いた。
裸の両足で布団を踏んで立ち上がる少女は、すでにチサではなかった。
異人の、青い眼をした童女だ。
チサと名付けられた女は、北の果ての寒村に生まれ育ち、飢えと寒さを恐れながら、家系にまつわる因果の中を彷徨ってきた。
シンシアと名付けられた童女は、分限者の家に生まれ、果報の中を歩いてきた。
身の上も名も異なる少女たちは、どちらも、たいそうな別嬪だ。
いや、シンシアはまだ十にも満たない年端であるから、別嬪というには早すぎる。それでも将来の華容を予感させる美貌を備えていた。
それが祝福されたものではなく、前世から続く宿業を証す不吉な美貌であることを知っているのは、彼女に憑いている蛇神くらいなものかもしれない。
シンシアは自分の足で土間に降りた。
ぺた、ぺた、と歩き、納戸を、竃の前を通り過ぎた。
乞食柱の前にしゃがみ、箱を手にとる。
死んだ家にふさわしくない手箱だ。
真鍮の金細工の手箱である。上面には椿のような花、側面には麦穂と二羽の小鳥が浮き彫りになっていて、少し手擦れしている。
上がり框に腰かけ、手箱を膝に置いた。
留め金具を外した。
小蛇は、箱の縁においた指先をはい上ってくる。
シンシアは口を小さく開け、蛇の胴体を咥え、歯をたてた。噛みちぎった。
骨を噛み砕き、嚥下する。あと七十四匹残っている。
最後の一匹。
頸に金と白の輪のある淡い墨色の蛇をみとめた。
シンシアの眼は先に起こることを見た。
身の上に起こることを知った。
蛇を産む女がみえる。初潮は済んでいる年頃だ。
産んで、産んで、産み疲れて二十の半ばで死ぬ。
トウビョウは数を増やし地に満ち、やがて力を増す。
強大な魔物が跋扈する場所は、さぞ居心地がよかろう。
前の居場所では、忘れられてゆくばかりだった。しかし、此処で、魔に属する物への嫌悪と畏敬を忘れない人々を守ってやれば、かつてのような信仰を集められるのだ。
そうして、シンシアの躰を苗床にして、異界の地に根づいてゆくのだろう。
『トウビョウ様よ、そねえに、わたしが憎うてならんか』
いや、憎しみも喜びも神性を失った蛇神にはない。
トウビョウが異界になずむ過程で、たまたまオナゴが一人喰い潰されるだけなのだ。
それらは呪いの集合体。快・不快に従って取り憑く女を選び、託宣を下す。
『まんが悪かったんじゃなあ……』
誰が悪かったのでもない。
強いて言うなら、間が悪かった。生まれた時、場所、体質、それらの仕合わせが良くなかったのだ。
『わたしは、ほんまは果報とはほど遠い身の上じゃけん、人じゃねえきょうてえ*1もん産んで、死ぬんが似合うとる』
乞食に等しい身の上でも、ひとの果報を祈ることはできる。
家族、生まれ育った村の友人、知人、通りすがりに親切にしてくれた他人――シンシアの中で、不幸になっていい人間なんて、ひとりもいなかった。
手にまとわりつく小蛇を見つめる。
蛇は子供の手の上を悠々と這い、指の間に頭を滑らせている。
人の理屈や道理を解さぬトウビョウ様が、願いを聞き届けるのかもわからない。
シンシアは一縷の望みをかけて、口約束をもちかけた。
口から零れ出るのは、流暢な異世界の言語だ。
「産んであげるから、その力、私にちょうだい」
最後の蛇を飲み込んだ。
「シンディ姉!」
強風とともに地面が凄まじく轟いたと思えば、それは紅い魔物が降り立った衝撃なのだった。
揺れた地面に踏ん張っていることはできず、私の体はたやすく宙に浮き、次の瞬間にヒューを抱きしめたまま地べたに叩きつけられた。
背中を打ち、空気の塊が口から吐き出された。
目の前に黒々とした洞窟があり、その奥で火花が散った。
竜は口を開けていた。胸郭が大きく膨らむのが見えた。
頭が鋭く痛んだ。頭に浮かぶ絵は、六つの赤黒い人形だ。
私と、ワーシカ、イヴ、エリック、クラレンス、ヒューの焼死体である。
トウビョウ様!
ヒューを手離した。とっさに祈った。
竜は口を閉ざした。それから、頭がゆっくり一回転して、金属が擦れるような音を立てて、落ちた。
あとに残ったのは、静寂と、巨大な死骸。
頭を置き去りにして、首の断面をさらしながら胴体は傾斜を滑り落ちていった。
「ふぅ」
息を吐き、その場にしゃがみ込む。頭の芯に鈍い痛みをおぼえた。
この体に感じるのは、疲労感と軽い頭痛。人を呪殺した後に同じ状態に陥ったことはない。
不安になった。はるか頭上の空には、まだ竜が蠅のように飛んでいる。
エリックの手をひいたイヴが駆け寄ってきて、私にぎゅっと抱きついてきた。反対側からはワーシカがくっつき、エリックは私の首元に手をのばして正面からしがみついてきた。
誰も、何も、言えなかった。何もわからなかった。なぜこんな所にいるのか、ここはどこなのか。
困ったときは、自分の置かれている状況を、ひとつひとつ整理するといい。
私が頼りにしている人たちは、みんなそう言う。だから、私もそうする。
壱、ここはどこなのか。
わからない。どこかの山頂の集落だと思う。
人はかなり長いあいだ住んでいないらしく、周囲にあるのは、崩れかかった石壁をわずかに残した廃屋ばかりだ。
弐、一緒にいるのは誰か。
ワーシカとイヴ。四歳。
クラレンスとエリック。三歳。
ヒュー。二歳。
そして私、シンシア・グレイラット。六歳。
あと数日で七歳になる。兄が家を出たときと同じ齢だ。
参、なぜここにいるのか。
これも分からない。
母様、父様、リーリャの顔を想像してみる。
『ねえパウロ、リーリャ。シンディももう七歳だし、一人で旅に出してみない?』
『そうだな、いつまでも甘ったれでは困る!』
『ルーデウス様のように立派になって帰ってくるといいですね』
こんなやり取りがあった……とか。
「そんなわけない!」
「はなせー!」
クラレンスの頭を抱きながら空をあおぐ。
先ほど襲われかけたところを呪い殺したから、警戒されているのだろう。襲いかかってくる個体はない。
ただ、隙さえあれば喰い殺すつもりでいる。野犬の群れと同じだ。
ワーシカに起こされなければ死んでいたような危険な場所に、母様が私を放り込むわけないのだ。
女郎屋に身売りに出されるにしたって、もう少し大きくなってからだ。同じ村のハツもタケもヌイもヒサも十を少し過ぎたくらいで女衒に連れていかれたのだから。
母様たちが私をここに置いていったという線は無し。
「シンディねぇね、血がいっぱい」
「え!」
寄ってきたエリックにそんなことを言われた。
エリックの頭からつま先まで見てみるが、怪我はしてない。
「ううん、エリーじゃなくて、ヒューが」
エリックが指をさしたほう。
さっき殺した赤い竜の頭部。
その周囲で、ヒューがばたばた走り回っている。
近寄ると、走った跡に血が点々と落ちている。
走り回るヒューを捕まえ、血の出処を探ると、右手を怪我していた。
指をぱっくり切り、あまりの事に泣くより興奮しているらしい。
「ヒュー、見せて。びっくりしたね、もう痛くないよ」
治癒魔術の詠唱を唱えた。傷は痕ものこさず消え、治ってから、ヒューはようやく大声で泣き出した。
抱っこをして、泣き止ませようとがんばる。
けっこう重い。立っているのも疲れてくるので、地べたに座り、向かい合わせになるように抱いた。
ヒュー自身に訊いても答えられないだろう。
イヴとワーシカに怪我をしたときのことを訊いたが、二人とも見ていないというから、エリックを手招き、聞き出すことにした。
「ちがうよ! エリーのせいじゃない!」
「わかってるよ、お姉ちゃん怒ってないよ。なんでかな? って知りたいだけなの」
「エリーじゃない……」
エリックは泣き出してしまった。
ただでさえ機嫌が悪かったところに怒られそうな気配を感じたのだ、グズりだすのも仕方ない。
クラレンスが寄ってきて、エリックとヒューの顔を交互に覗き込んだ。
「ヒューは、でっかいのさわった。そんで、すげー血がでた!」
「さわった?」
でっかいの、は沈黙を保っている竜の頭部である。巨大な眼はすでに濁りはじめていた。
ついてこようとするクラレンスをワーシカに確保してもらい、一人で、頸の前に立った。
長い頸を鱗流れに逆らって撫でてみると、鋭利な刃を滑らせたように手のひらが裂けた。
みんなを不安にさせないように小声でヒーリングを唱えて治す。
この赤い鱗だ。鱗だけで、人の肌をかんたんに裂いてしまえるのだ。
「もうこれには近寄っちゃダメよ。じゃないと、ヒューみたいに怪我しちゃうから」
さいわい、険しい山脈の只中にあっても、小さな村くらいの空間は拓けている。
屋根もなくなっているが、かろうじて昔は家だったのだろうとわかる場所にワーシカたちを連れて移動した。
山頂であるためか、風が強いし寒い。少しでも風避けになる場所にいるべきだ。
途中で一頭の竜がこちらを目がけてぐんぐん下降してきた。
死ね! 睨みつけた。祈る両手はヒューとエリックに塞がれている。
透明な手に力まかせに引き裂かれるように、空中で、上顎と下顎から真っ二つに裂けた。
残骸が轟音を響かせて石階段の上に落ち、地面が揺れた。
立っていられなくて、みんな転んだ。
「死んだ!」
尻もちをついたイヴが可笑しそうに指さして言う。
つられてワーシカも興奮気味に指さした。
「あれ、あれさ、レッドドラゴンじゃない?」
「レッドドラゴン?」
聞いた覚えがある。
いつどこでだっけ、えーとえーと。
仕事が終わって暇になった父様と、家で話していた時だ。
『いいか、シンディ、この世には最強の魔物がいる。なんだと思う?』
『怒ったロールズさん』
『そんなに怖ぇのかよ。だが、残念ながら違う。なぜならロールズよりオレのほうが強いからだ』
『!? 父さま、すごいね』
『だろう?』
『旦那様、別の話をしたかったのではないですか?』
『あ、そうだった。いいか、赤竜山脈には――』
赤竜山脈には、
赤い鱗に覆われた巨体で空を飛び、口から炎を吐き、優れた探知能力を持つ。
『女の人にへんしんする?』
『赤竜がか? 人に化ける魔物ってのは聞いたことがないぞ』
赤竜山脈は、丸ごと赤竜の縄張りである。
ゆえに、誰も住むことができない。赤竜の上顎と下顎という通行可能な渓谷以外では、山脈を渡ることさえも不可能である。
『赤竜は平地から飛び立つことはできない。だから奴らが縄張りから出ることは滅多に無いんだが、ときどき、平地に落っこちちまう個体がいる。それを〈はぐれ竜〉と言って、放置するとヤバい』
『やばい』
『ヤバい、じゃ伝わらないわよ。はぐれ竜が人里の近くに落ちると、町も畑も荒らされて、怪我をしちゃう人も大勢出るのよね、お父さん』
『ああ。はぐれ竜が出たら、必ず国を上げての討伐を行なう。それくらい強くて危険な魔物なんだ。
まあ、この辺に出ることはないと思うが』
『もし見つけたら、絶対に近寄らず、逃げること』
空を見上げた。
赤竜の群れだ。誰もはぐれてない。
はぐれ竜を見つけたら、逃げる。
でも、この場合は、どうしたらいいのだろう。
「赤ちゃんは食べられちゃうぞ!」
呆然としていたが、ワーシカの声で我に返る。
ワーシカはエリックを抱いて、赤ちゃんは食べられる、とからかい、エリックはみるみる顔を歪めて泣き出した。
「ぎゃああん!」
「なきむしはあっち行って」
可哀想なエリックは、慰めてくれるはずの
涙と鼻水を胸に押しつけられながらイヴを諭す。
「イヴ、エリーに優しくしなきゃ」
「めんどくさいんだもん」
「そんなこと言わないで。お姉ちゃん今からやらなきゃいけないことあるから、今だけイヴがお姉ちゃんの代わりして?」
「えー」
姉弟といっても、年子だ。面倒をみなきゃ、という意識は低いのだろう。
でも今だけは、言うことを聞いてほしい。
「お願い」じっとイヴを見つめて言うと、イヴはうなずいた。
「わかった、エリーこっち来て」
「ありがとう、イヴ」
「べつに……」
イヴはふてくされている。
事の発端であるワーシカはクラレンスとヒューと手をつなぎ、ちょっとバツが悪そうにこちらを見ていた。
私はイヴににこっと笑みを向けた。この中でいちばんお姉ちゃんの私は、この子たちを不安にさせてはいけない。
山岳に顔を向け、口元に手をそえて、息を深く吸い込んだ。
「おーい!」
三秒ほど経ってから、おーい! と声が跳ね返ってくる。
私の声だ。振り返ってイヴたちを見ると、驚いた顔をしていた。
「だれ? あっちに誰かいるの?」
「シンディ姉がしゃべり終わったのに、なんでおんなじ声が聞こえるの?」
ブエナ村では、身近に森はあるけど、山はない。
みんなこれを経験するのは初めてなのだ。
「
「やまわろ? アヤカシってなに?」
伝わらないか。
首をかしげているワーシカに「魔物のことだよ」と返した。
「でも、この魔物は、ふつうの魔物と違って、人を襲ったりしないの」
「だからこうやって」と言葉を切り、山に向かって再度「やっほー!」と大声で呼びかけた。数秒後に二重になって同じ声が返ってくる。
「こうやって、遊んでいいのよ」
「ほんと? 魔物こっちにきたりしない?」
「来ない来ない」
「ぅわー!!」とイヴが元気よく叫ぶ。声はぼやけて返ってきた。
「あたしもマネされた!」
「面白いでしょ?」
「うん!」
「おーしろい!」と〝面白い〟をうまく言えないヒューが言い、クラレンスが「がおおおー!」と山に叫んだ。
ワーシカとエリックも、各々いろんな言葉を叫び出した。
それにも飽きると、みんなは上機嫌で周辺の探索をはじめだす。
イヴとワーシカに、小さな三人が私から離れすぎないように見ていてほしい、と頼むと、二人は素直にうなずいた。
山童で遊んだことで、不安ゆえの不機嫌もすこしは解消されたようだ。
「ここだれの家ー?」
「さっきのドラゴンの家!」
「えー! ドラゴンってもっと暗いとこ住んでるんだよ?」
「シンディ姉、ここってドラゴンの家じゃないよね?」
「うーん、ドラゴンの赤ちゃんのお家かもね」
「ほら!」
時々返事をしながら、風化した壁によりかかり、眼を瞑った。
頭痛は引いていた。消耗はするものの、トウビョウ様の力は使える。
ひょっとしたら、母様に蓋をしてもらう以前よりも強力に、自由に。
そして代償が必要なのは、相手が竜の魔物だからだ、という確信があった。
トウビョウ様は蛇神様である。龍とは、相性が悪いのだろう。だから呪い殺すのに労力が要るのだ。
それはさておき、気がかりなのは、あの白い光のことだ。
思い返せば、あれは私たちだけではなく、村のあらゆるものを飲み込んではいなかったか。
あんな眩しい光を浴びて、村の皆は大丈夫だったろうか。
目が潰れてないといいが。
私は、ブエナ村を
「……?」
目蓋をひらく。とじる。また視る。
なんにもない。土が剥き出しの更地だ。
村の近隣にこんな土地はないのに、変なの。
トウビョウ様でも、視るものを誤るときがあるのか。
「のどかわいた」
「エリーも!」
「はいはい」
喉の渇きを訴える子たちに、水魔術で出した水を手皿に溜めて、飲ませた。昔は水の量の調節に難儀したが、この程度なら労せず発動できるようになっていた。
ワーシカとイヴは上手に手のひらに溜めて飲むのだが、他の子は指の隙間から零してしまう。
私の手のひらに溜めて、飲ませた。素直に口を寄せて飲む姿は、親燕から餌を口移される雛を彷彿とさせる。
エリック、クラレンス、ヒューの三人は、特に小さいから……。
はるか頭上で一頭の竜がねじ切れて絶命した。
クラレンスが風化した家の土台に手をかけ、全身を使ってよじ登った。
「ボロボロ!」
「そうね、誰がやったのかな」
「クラレンスかな?」と訊くと、意味がわかってるのかいないのか、「そうだよ」と頷かれた。
「ウソつくな」とワーシカが不満げに口をとがらせる。エリックがクラレンスを真似て石壁を登ろうとしたが、手の下を通った大きな蜘蛛に驚いて私にしがみついた。
「もう帰ろうよぉ」
また泣きべそをかきそうなエリックの肩に手を乗せ、私は明るい声でみんなに告げた。
「いまからみんなで冒険者ごっこしよう? 自分たちで食べ物を調達して、外でお泊まりするのよ。ペルギウスも、カールマンも、ウルペンもやってたことなの」
「する、やる! 冒険者ごっこ!」
いちばん乗りはイヴだ。今にも一人で突っ走りそうなイヴを抑え、イヴとクラレンス、ワーシカとエリックを組ませる。
年長の方に、再度赤竜の死体に近寄らないように言いつけ、私はヒューと組んだ。
「木の実を採ってここに集合すること、私が良いって言うまで、採ってきた実は食べないこと、毒があるかもしれないからね。わかった?」
「わかった!」
「もう行ってきていい?」
「うん、それじゃあ、始め!」
みんなは蜘蛛の子を散らすように、方々に散っていった。
「たくしゃんいる」
「そうだね」
二歳のヒューに、三より上の数字は「たく
空のたむろする五、六匹の赤竜を指さしてヒューは笑顔でいる。生きている姿と死体が結びついていないのか、怪我をした原因である死体の頭部には怯えた様子を見せるのに、空の赤竜のことはまるで怖がっていない。
だんだん日が沈んできた。
私もヒューを連れ、周囲が見渡せるうちに、食べ物を探す。
うつぎに似た実が群生しているのを見つけた。これを食べ、中毒で苦しむ未来は視えない。
「ほら、ヒュー、これもたくさん」
「ちゃうよ、いっぱい!」
たくしゃん、じゃないらしい。
低木から実を一つとり、汁気のないそれを噛み潰す。ヒューの口にも放り込んだ。
「べぇ」
「あらっ?」
ヒューは顔をしかめて砕けた実を吐き出した。
「これキライ」
「まずい?」
「まじい!」
そんなはずはない、ともうひとつ口に入れる。
問題はなかった。この通り、なんの味もしない、無味である。
……無味?
その意味することを悟り、私は嘆息した。
「味覚とられちゃった……」
代償は、軽い頭痛だけではなかったのだ。
ただのヒトや動物が相手なら、呪い殺すのは普段の供物があれば簡単なのだが、
こんなふうに、自分の何かを代償にとられる。安芸のイズナ使い、隣村のゲド持ちを祟り殺したときは、味覚を取られて半年間も戻らなかった。
聴覚をほとんど取られ、耳元で大声を出されてやっと聞き取れる、という状態になったときもあった。
この場合だと、返してくださるまで、どれほどの年数を必要とするのか。
「ごめんね、美味しくなかったね」
「まじかったよ」
でも毒はないのだ。
他に食べる物が見つからなかったら、これも大事な食料である。ポケットにありったけ詰め込んだ。
蜂の巣があれば蜂の子にありつけるのだが。
ちらりと赤竜の頭を見る。あれの肉は食べ、られる、のかな……?
「グルオオオオオォ!」
腹に響く太鼓の音より巨大な音だった。
一頭の竜の咆哮は、空気を揺るがし、私の体を震わせた。
ヒューなど立っていられなくてコロンと仰向けに転がった。
恐怖を覚えたワーシカとエリックが駆け寄ってきた。
イヴはというと、空に向かって「うるさぁーい!」と叫び返している。強気だ。
「し、シンディ姉、どうしてドラゴンが怒ってるの?」
エリックはともかく、ワーシカまで泣きそうになっている。
「きっとクシャミしちゃっただけよ、ドラゴンは体が大きいから、クシャミの音も大きいだけ」
「……なんだ、そっかー」
「でも、怖かったね」
「ううん! 怖くない。シンディ姉はこわいならぼくの後ろに隠れていいよ」
「うん、ありがとう」
ワーシカは目に見えて安堵していた。
イヴとクラレンスも呼び寄せ、集まった木の実を選別していく。兄の植物辞典に書かれていた植物もあれば、まったく知らない種もあった。
何にせよ、子供五人の腹を満たすにはとうてい足りない量だ。
「さっき小さい動物みつけたよ」
「ほんと!」
ワーシカの案内で、細長い栗鼠のような小動物を捕まえたはいいのだが、死んだ途端ものすごい異臭を漂わせた。
みんなでキャーキャー言いながら、木の枝で死体を崖の下に落とした。
「みて、シンディ姉、これ武器! 剣!」
「危ない、危ないわよイヴ!」
イヴはどこからか拾ってきた銅剣を危なっかしく振り回そうとし、地面に取り落とした。重たくて振れなかったのだ。
よほど昔のものなのだろう、銅剣は満遍なく緑青を吹いていた。
「えらいよ、イヴ。良いもの見つけてきたね」
「へへん」
イヴは胸をはった。重かっただろうに、よく運んで来てくれたものだ。
「よいっ……しょ」
私は赤ん坊と同じくらいの長さの銅剣を持ち、赤竜の首の断面に突き刺し、肉を少しずつ抉りとってゆく。
すごく硬い。重労働だ。
「あっ」
刃先が狂い、太ももにちょっと刺さった。
「シンディ姉、どうしたの?」
背後から心配そうなワーシカの声。
不安にさせてはいけない。家に帰りたいと思わせてはいけない。
「なんでもないよ、手が滑ってビックリしただけ」
血が溢れる腿を手で押さえる。スカートも裂けていた。
治癒魔術、治癒魔術、治癒魔術――
「あら……」
治った。詠唱を言ってないのに。
シルフィのように無詠唱で治癒魔術を使うことに成功した。
あんまり嬉しくない。褒めてくれる母様はここには居ないのだから。
もう日は落ちた。
自生している蔦や低木の枝をかきあつめ、火魔術で火をつけて焚火をした。
火が弱まりそうになったら、魔力で増大できる。
母様に生んでもらったこの体で助かった、と心底思った。火を操る術は生前の私は使えないのだ。
小さな子は、たいてい、自宅の暖炉で火傷をしたことがあるから、私が注視しなくとも火には触らない。
竜肉は、鋭く尖らせた太い枝に刺して焼いた。
「熱いからよくフーフーしてね」と言ってから、みんなに手渡していく。
最初に渡したクラレンスが熱さに驚き、地面に落とした。
水魔術である程度砂を洗い流して、再度わたす。
枝に刺したままなのが食べにくいのだろう。枝を引き抜き、手に直接持って食べさせることにした。
「おいしい? どんな味?」
「おにくの味」
「お肉かあ」
私も少し食べたが、味はわからない。
硬いことはわかった。みんなが噛みきれるか心配だ。
「あーん」
「あ!」
ヒューは絶対に噛みきれない。手でほぐしてちぎり、少しずつ口に入れてやっていると、羨ましそうにエリックが見てきた。
次の言葉はもう予想できる。
「シンディねぇね、エリーのもやって」
「うん、ヒューが終わってから、」
「自分でやんなさい!」
いきなりイヴがエリックの頭を叩いた。
エリックは眼を丸くして、号泣しようか迷う顔になる。
「なんでそんなに全部シンディ姉まかせなの! あんたシンディ姉のこと嫌いなの!?」
「すき……」
「じゃあメーワクかけないで! シンディ姉だってご飯食べないといけないのに、エリーのせいでいつまでたっても食べられないんだよ!」
驚いた。正直、イヴがそこまで考えていたとは思ってなかったからだ。エリックは大声で泣くきっかけを失ったように、視線を手元に戻して食べ始める。
「エリーのはぼくがやってやる」
すかさずワーシカがエリックの横に移動し、まだ湯気のたつ竜肉を小さくちぎってやり始めた。
叱られたことより、その後に優しくされることで無性に泣けてしまう事がある。
今のエリックはそれだ。ボロボロ流れる涙を手の甲で拭いながら、ワーシカに食べさせられていた。
イヴもワーシカも、来年は五歳になる。二人とも、知らないうちに、人のことを見て慮れるようになっていたのだ。
「べーしていい?」とクラレンスが口をもごもごさせながら私に訊いた。
「どうしてもゴックンできなかったらいいよ」
腹に入れてほしいけど、無理に飲もうとして喉に詰まらせても大変だ。クラレンスは少し考える素振りをした後、ごくんと飲み込んだ。窒息しないように水を飲ませた。
「ずずっ」
「クラレンス、ハナすすらないで。ぶーってして」
「んー!」
手巾をクラレンスの鼻に押し当てて鼻をかませる。
冬だからみんな防寒着は着ていて、そのおかげである程度の寒さは防げるのだが、やはり昏くなるにつれ冷え込んできた。
「シンディ、行こっか」
食べ終えたヒューに手をひかれる。
焚火に照らされる範囲より外、暗闇に、ヒューは私を連れ出そうとしている。
「お家いこっか!」
「だめ。もう暗いから、帰るのは明日よ、明日。今日はここでお泊まり」
焚火に手を翳して火の勢いを強くした。
ヒューを抱きしめてごろんと横になると、満天の星が目に入る。星を横切るいくつもの黒い影も。
暗くなる前より、あきらかに数が増えている。
寝る前に、雪隠という事にした物陰にみんなを連れて行き、用を足すように促した。
ノルンもアイシャもそうだけれど、寝る前に厠に行かなければ、翌朝おねしょしてしまうのだ。私もかつてはそうだった。
兄は、夜のおねしょはしない代わりに、昼寝中に漏らす癖のある子供だったそう。母様もリーリャも言っていた。
「ワーシカ、もっとこっち来て」
「ちょっと寒いよ」
「寒くないように、みんなでくっついてねんねしよう」
「ねんねなんて言わないよシンディ姉。ねる、だよ」
ワーシカに訂正されてしまった。
ワーシカに抱きしめられて横になっているクラレンスが「ねんねは赤ちゃんことばだからな!」と追従した。
「あれ? この子赤ちゃんっ?」とぼけてエリックを触る。
「ちがう!」と嬉しそうにエリックが返した。エリックを抱くイヴはもう目を閉じている。いや、目蓋を開けた。
「なんかお歌うたって」
「知ってるお歌がいい? それとも、知らないお歌?」
「知らないやつがいい」
うちの裏のちちゃの木に
すずめが三羽とまって
中のすずめの言うことにゃ
呼んでござった花嫁御 花の座敷に入れたなら
茶々漬け三杯 汁四杯 それでもまんだ 足らんとて
お彼岸団子七いかき 宮重大根十二本
そんな嫁御は 出てかんしょ
生前のお手玉歌である。
盲になる前は、四つでも五つでも投げていられたのだった。
いつだったか、備前の子のお手玉には、米だの小豆だのが詰まっていると聞いた。私のお手玉の中身は砂利だった。格差はお手玉だけではなく、瀬戸内海側の町は、冬も温くて、分限者が多いらしい。
おんなじ岡山なんに、南の方ばっかし、ええ目におうとる、薮入りに奉公から帰省した姉が、そう言っていた記憶がよみがえる。
出て行く道で 子がひとり
男の子ならたすけろ
女の子ならおっちゃぶせ
ヒューの腹をゆっくり叩きながら、繰り返し歌ううちに、寝息が聞こえてきた。
私まで睡らないように、体をそっと起こして、苔の生えた石壁に上体をもたせかける。
がくりと意識が落ちかけて、冷や汗がふきでた。
手の甲を思いっきり抓って、眠気を払う。
昼間のうちに、襲いかかろうとしてきた赤竜を、五頭は殺した。
先ほど集まりつつあった赤竜を、まとめて十は殺した。
それでもまだまだ、羽虫のように赤竜は湧いてくる。
もう気が付かれているのだろう。私が深く睡れば、トウビョウ様の力は使えない。
『あんたでも、おえんか』
頸に金と白の輪がある黒蛇が地面を這い、私の中に戻っていった。
一帯に生息する赤竜をすべて滅ぼすのは、さっきから何度も試みているが、できない。
相手が人であれば、どんなに離れていても呪い殺せる。
でも、竜はだめだ。トウビョウ様と相性が悪くて、私が見える範囲でないと、殺せないのだ。
焚火に枝を投じた。
炎に飲まれていく枝に、昼間痛みと共に頭に浮かんだ、六つの赤黒い焼死体を重ねて見た。
あれは、私たちだ。
あれは、近いうち起こる未来だ。
「シンディ姉」
「起きたの?」
もぞもぞとイヴが身を起こし、私にくっついてきた。
「明日、ほんとに帰るんだよね?」
「うん、帰るよ」
「ふーん」
「イヴは今日はお利口だったね。明日もお利口にしてくれる?」
「うん、する」
膝を抱え、白い息を吐いて頷くイヴの頭を撫でる。
エマちゃんと同じ、灰色の髪。
エマちゃん、イヴ、エリックの姉弟に関われたことは、私がこちらに生まれてから数え切れないほど得た幸福の一つだ。
「実はね、私と、イヴと、ワーシカだけに、おつかい頼まれちゃった」
それなのに、私は、
「ほかの小さい子たちは、明日お母さんが迎えに来るの。
だから、朝になったら、三人だけで下山しようか」
自分が生き残るために、子供を間引こうとしている。
「あたしもお母さんと帰りたい」
「お姉ちゃんとお兄ちゃんにしかできない、特別なおつかいよ。イヴも一緒に行こうよ」
嘘はすらすらと出てきた。
一帯は、満遍なく魔物筋の只中である。逃げ場はない。
明るいうちに、下山する方法を探った。焦燥感に襲われた。険しい道は、視野の限り、どこまでも続いている。
ヒューはまだ二歳。
クラレンスとエリックは三歳。
険しい山肌を、特に幼い三人を連れて移動するのは無理だ。
かといって、ここに居続けても赤竜がいる。みんなと自分の身を守るために、私は睡ることができない。
生きている限り、睡眠は必ずついてまわる。ここに留まっても、あと一日と待たずに全滅するだろう。
「エリーも、って泣くよ、絶対」
心配そうにイヴが言う。
エリックは何でもイヴの真似をしたがる。ヒューも「後でお母さんが迎えに来るよ」と嘯いても聞き入れずに付いてこようとするだろう。
「そうだね、だから明日の朝早く、下の子たちが寝てるうちに、こっそり三人で行くの」
魔物筋を移動しながら私が面倒を見切れるのは、イヴとワーシカの二人だけだ。四歳から下の子は置き去りにするほかない。
助ける子を選別しても、全員が生きてこの山脈を脱出できるかは、わからない。喰い殺されるまでの時間が、ほんの少し延びるだけかもしれないのだ。
手さぐりで、兄にもらった本の表紙に触れる。
昨日まで、ロアのお屋敷にいて、兄とエリスさんたちと遊んだことが夢みたいだ。
ここに母様かリーリャがいたら、もっと良い方法を思いついただろう。
力持ちな父様がいたら、歩き疲れたヒューたちを抱いて、どこまでもどこまでも歩いていけただろう。
「明日はたくさん歩くから、イヴも寝ないと」
「眠くないけど」
「あっ! あんなところにスペルド族が」
「やっぱりねむい!」
イヴは急いでエリックの背中に顔を埋めた。
寝ない子に「寝ないと鬼が来るぞ」と脅すのと同じで、スペルド族が来るぞ、はかなり効き目がある。
中には怖がらない子もいて、イヴも普段はそうなのだが、屋外にいるせいで普段は感じない恐怖を煽られたようだ。
「スペルド族はどこかに行ったよ、イヴ。おやすみ」
イヴが深く寝入ったのを確認して、エリックを引き離す。
クラレンスを抱いて寝ているワーシカにも同様にした。
起きたとき、隣の子が冷たければ、不審に思われるだろう。旅路の始まりに憂いは持ってほしくない。
海辺の村は浜に、川沿いの村は川原に捨てるという。
生前の村は山間にあったから、間引きした子は森や川原に捨てられた。家の裏手にあった地獄沢の名の由来は、間引きした子を捨てる場所であったからだ。
手をくだすのは、その子のお父か産婆だった。
膝の下におししき、糠を口に詰めて窒息死させる。あるいは、首をねじって土間のすみに投げ捨てる。どちらも苦しいはずだ。
私は楽にこの子たちを死なせてやることができる。何の慰みにもならないだろうけれど。
でも、生きたまま魔物に喰われるよりは、はるかに生前の苦痛は少ない。
殺したくない。
どうして赤ん坊のときから知っている子たちを、手にかける事ができるのか。
クラレンスは、兄のヤーナム君に懐いていて、家にある英雄譚を読んであげるととても喜んでくれる。他の子に乱暴に接してしまうことはあるけれど、あとでちゃんと謝れる良い子だ。
エリックは、生まれてすぐにエマちゃんが奉公に出たから、上の姉のことはほとんど知らない。私がエマちゃんの話をすると、「いぶもやさしかったら良かったのに」と決まって言う。でもイヴのことも大好きな優しい子だ。
ヒューは、あの子は、私が昔殺しかけた子。生きていたと知ったとき、どんなに安心したことか。
いつ殺そうか。
東の空に日輪が昇りきる前。
日輪の下側が、尾根から離れたとき。
起きる前に、睡ったまま逝けるように。
誰も、また朝が来ることを疑ってなかった。
「ごめんなさい」
寝顔に謝っても無意味であることは知っている。とほうもない罪の意識から逃れたいだけなのだ。
私が力尽きるのを、あるいは、この子達から離れるのを、星灯の下で、今か今かと待ち構えている赤竜の息遣いが聞こえてくるようだ。
心の中に深い沼があって、激しい言葉はつぎつぎそこに投げ込まれ、よどんで、悪意の層をつくるような気がする。
こんなふうに、色んな人の悪意の層が重なって、〈呪い〉はできてゆくのだろう。
イズナも犬神もゲドウもトウビョウ様も、案外そうして生まれたのかもしれない。
ああ。
もう空の一端が白みはじめている。
無慈悲に経つ時間に、だんだん明るくなる空に、心をすり減らしていた最中だった。
「……なぜ子供がここにいる。誰に連れてこられた?」
目もとに、鱗が生えていた。
顔の左右に一茎の横毛を残し、銀髪を無造作に後方に撫でつけた男。
白色のインバネスコートの丈は長く、首許は黒い毛皮でくるまれている。
無骨なベルトが重石の役目を果たし、マント部分は風に煽られても無闇に翻らず、男の足首までを覆い隠していた。
彼の眼は、金色だった。
トウビョウ様のように縦に裂けた瞳孔を持っていた。
その眼で、そこにあるべきではない物を見るように、私を見ていた。
でも、私の眼には、
朝ぼらけの中に佇むその人が、
まばゆい日輪を背負って立つその人が、
希望の神さまのように見えて、少しだけ泣いた。
・間引き
子供の間引きを殺人罪として法律で取り締まるようになったのは明治時代ですが、実際には昭和三〇年前後まで行われていたようです。
手をくだすのは主に産婆や男親でした。親のほうも平気で殺していたのではなく、事情があって自らが産んだ子を始末せねばならなかった産婦が、自分の所業に逆上し、産褥のうちに子供のあとを追って亡くなることも少なくなかったそうです。
男の子なら必ず生かされる訳でもなかったようですが、跡継ぎになれず、力仕事も期待できない女の子のほうが産まれてすぐ間引きされる確率は高かったそうです。
(参考:日本残酷物語1)