この家で面倒を見られるようになって、暦が一周するほどの月日は経たと思う。今日は庭に出してもらった。
眼前には、巨大な馬の顔がある。体格がどっしりしていて、重厚な感じのある馬だ。体毛と同じ色の睫毛は豊かで長い。
「ほーら、シンディ、お馬さんだぞ~」
「うましゃん」
「そうそう、名前はカラヴァッジョだ。言えるか? カラヴァッジョ」
「かばっちゃ」
「まだ難しいかあ」
「とおさま」
記憶よりも
男は破顔し、私に頬ずりをした。女のそれよりやや肌理の粗い肌が顬にすりつけられてこそばゆい。
他人に擦り寄られているのに、不快感どころか、私は安心と快さを感じている。その理由はふたつある。
ひとつめ、この男から性欲のにおいは感じられないこと。
ふたつめ、この躰が赤ん坊であること。
病気になったのではなく、肉体そのものが別人に変わっていた。
己の境遇を一言で表せばそんな感じだ。
なぜ、だとか、おぼつかないながらも家中を歩いて、目につく限りの柱を拝んでみても姿を見せないトウビョウ様のことも、考えるほどに疑問は尽きない。
人の思考の及ぶところではないのかもしれない。
であれば、私に残された道は、身に起きることを粛々と受け入れて、わからないことは、そういうものだ、と片付けて日々を生きるだけである。
私がチサであった頃から、ずっとしてきたことだ。
今わかることは、この肉体はよちよち歩きの嬰児で、シンシア、あるいはシンディ、あるいはオジョウサマという名前である。
多い。
体が移り変わる前にちぎられた左肩から先は、五体満足のシンシアの体にはきちんとくっついていた。でも、しばらく左腕が健在であることに気がつかなかったので、動かせないのではと心配された。
天秤棒ほど痩せるまで働かなくても、食うもの、着るものに困らない暮らしぶりで、老人や病人はおらず、皆健康である。
親切にも私の面倒を見てくれる家人たちの名前も、ようやくわかってきた。
麦藁色の髪の天真爛漫な女は、かあさま
茶髪の上背のある男は、とうさま
暗い赤茶色の髪の物静かな女は、りーりゃ
幼い男の子は、にぃに、もしくは、るでぃ
青髪の化生の少女は、ろきしー
みんな発音が難しい。
とくに、りーりゃ。舌がもつれて、りにゃ、りにゃ、と呼んでしまうが、それでも伝わるらしく、返事はしてくれる。
とはいえ、聞き取りのほうは上達してきた。
「シンディ、今日もお祈り?」
かあさまに声をかけられた。
馬房の見物を終え、屋内に戻された私は、入口の重い木戸のほうをむいて、膝をついて拝んでいたのだった。
この家には
ほいと柱とは、土間の真ん中に突っ立った柱である。
村のどの家にもあって、物乞いにくる乞食は、ほいと柱から先には来ない。これは罰則を伴う掟ではなかったが、暗黙の了解であった。
それが、ないのだ。
そもそも滅多に物乞いも来ないし、過去に一度来たときは、かあさまたちはむしろ食卓まであげて、食事をふるまっていた。
トウビョウ様はほいと柱に現れるものだ。少なくとも、前の家ではそうだった。
姿を見せないとはいえ、力は引き続き使えるのだから、感謝と拝礼を忘れれば、どんな災いがあるかわからない。
だから、ほいと柱の代わりに、玄関にむかって拝むのを欠かさないようにしている。
かあさまは、おそらく耶蘇の神様を信仰しているのだろう。就寝前、食事前は祈祷をささげている。私の行動は、それの真似だと思われているのだ。
滅多なことは言わないでほしい。
トウビョウ様の怒りに触れたらどうするのだ。私の
親切で優しいこの家の人達には、安楽な暮らしをさせてあげたい。
トウビョウ様の力を使って、悪いことは、できるだけ私が遠ざけてやるのだ。
今度からは人目にじゅうぶん気をつけて拝もうと思いながら、ふるふると首をふって否定する。
かあさまは、「そう?」とたいして気にしたふうもなく、私を抱っこした。
いい匂い。庭に咲いている桔梗によく似た花の匂いもかすかにする。
「ルディとお父さんはどこかなー?」
「おにわ」
「そうね! すごいわ、シンディ」
褒められて嬉しくなった。
ふふ、と笑うと、頬ずりをされた。やわらかくていい気持ちだ。
かあさまに抱かれたまま窓の外を見る。石垣に囲まれた庭は広く、二人はそこで木の棒で打ちあっていた。棒は日本刀を模した形をしているようなのだが、日本刀のような反りはなく、刃は厚い。
私の知るものよりかなり長く大振りだが、全体の雰囲気は銃剣に似ている。
「ゼニスさん」
「あら、ロキシーちゃん」
階段を降って、ろきしーが現れた。
彼女は困った顔をしていた。
「わたしのペンダントを見かけませんでしたか? 三又の槍の形で、昨日、家のどこかで落としてしまったようなのですが……」
「ペンダント? うーん、見てないわねえ……家のどのあたりとか、心当たりはない?」
「外したのは自室です。ひととおり探しましたが見つからないんです……」
失せ物か。
失せ人探しはちょっと集中する必要があるが、失せ物探しならば、息をするのと同じくらい容易い。
「りにゃ、かあさまのお部屋、置くした」
ろきしーの視線がこちらに注がれる。かあさまは淡い青色の瞳だが、彼女の眼の青はもっと濃い。髪色と同じである。
失くしたものは首飾り。首にかける紐が脆くなっていることに気がついた彼女は、自室で首飾りを外し、部屋の机に置いた。
そして深夜、寝ぼけまなこで厠に行った彼女は、肌寒さゆえに外套を羽織り、寝ぼけた意識で首飾りをつかみ、外套の穴……ぽけっとと言うのだっけ、とにかくそこに入れて部屋を出た。
廊下で首飾りが落ちるが、ろきしーは気づかず、部屋に戻って就寝。
それを今朝、りーりゃが拾い、見慣れぬ首飾りをかあさまのものだと思い、かあさまととうさまの寝室にある、かあさまの化粧台に置いた。
そんな絵が視えた。
ろきしーとは同じ家で暮らしていて、かつ思い入れのある品であるようなので、より仔細に見える。
「リーリャさんが、置く下?」
「ああ、置いた、ってことね」
「おいた!」
文法を誤ったらしい。おいた、おいた、と言い直していると、かあさまは私を抱っこしたまま、階段を上って寝室に向かった。
「まあ、本当だわ。よく見てたわね、シンディ」
化粧台の上に置かれた首飾りを見て、かあさまが目を丸くする。前もって頬をさしだすと、ちゅっと口をつけられた。
「ロキシーちゃん、あったわよ!」
「そうですか、よかった……」
かあさまが階段から安心させるように声を張ると、ろきしーは階下でほっと胸をなで下ろしたのだった。
その日の夜。
夜はりーりゃといっしょに寝ている。
思ったのだが、この体の母親は、かあさまとりーりゃのどっちなのだろう?
乳を飲ませてくれたのはかあさまだけど、添い寝はりーりゃで、まだうまく動かせない体と慣れない食具で上手くできない食事は、二人とも介添してくれる。
どちらかが母親で、どちらかが子守りだと思う。
まあ、もっと言葉を聞き取れるようになれば、そのうちわかるだろう。
りーりゃと部屋に向かう私は、にぃにの部屋の前を通ったとき、ろきしーに呼び止められた。
蝋燭の火をたよりに、二人で学問していたようだ。
日が真上に登る前の時間帯も、外で何かしているなあという感じだが、何を学んでいるのかは、よくわからない。
「シンディは、魔術に興味はありませんか?」
「先生、シンディはまだ一歳ですよ」
「何を言います。ルディこそ、二歳の頃にはもう初級を使っていたそうじゃないですか。あなたたちは兄妹ですからね、可能性はありますよ……!」
にぃにが、まさか!? という顔でこちらを見てくる。何なのだろう。注目されていることはわかったので、手をふりふり振っておいた。
「
「ええ。契約では教え子はルディだけですが、ペンダントを見つけてくれたお礼です」
にぃにが箱床の下から盥を引き出し、ろきしーの前に置いた。
「よく見ていてくださいね」
言われた通り、ろきしーを見つめる。
現在のろきしーを見つめる私の目に、過去の幻影が広がる。
これは、三日前の夜だ。私は寝ている時刻。寝室で子供を作っているかあさまととうさまの様子を、細く開けた扉の隙間から、熱っぽい眼で覗き見ている彼女の姿が視えた。
青い髪の少女の頬は紅く上気し、指先は脚の間で忙しなく動いている。
――ぁ……ッ……っ!
蝋燭の火に橙色に照らされた内腿が強ばり、前屈みになって腹を震わせた彼女が、気を遣った余韻に熱い息を吐きながらくったりと扉の横の壁にもたれる所まで、見届けた。
思いがけず、淫猥な秘密を知ってしまった。
「はわあ……」
「? まだ何もしてません」
でもそれを誰かに伝えることはない。こっそり覗いているということは、ろきしーにとって知られたくない事のはずだ。
自涜の事など無かったかのように涼しい顔をしたろきしーは、盥にむかって手を突き出すと、私に聞かせるように、丁寧に唱えだした。
「汝の求める所に大いなる水の加護あらん、清涼なるせせらぎの流れをいまここに――
何が起こったか。
ろきしーの手のひらから、水が膨れあがり、球体となって手のひらから離れた。
水の球体はふわふわとしばらく留まると、急に張力を無くしたように弾けて下の盥に落ちたのだ。
跳ねた水が、ぴちゃんと私の額にかかる。
「室内なので盥に落としましたが、本来はもっと遠くまで飛ばせるんですよ?
それに、これは初級ですから極めればもっとすごいことも――」
「あ……あ……」
私はゆっくりと後ずさり、部屋の入口に立っていたりーりゃの脚にぶつかった。
蝋燭の橙色の光で片頬を照らされた彼女は、いかにも恐ろしげだ。
「きゃーっ!!!」
こ、この女!!
やっぱり化生の者だ! 妖怪だ!
妖しい術を使った! こっちが油断して心をゆるした矢先に!
私は大きな悲鳴をあげてりーりゃにしがみついた。
「あ、あれ? シンディ?」
「やーっ! こわい! ない! バイバイ!」
思いつくかぎり言葉を並べて拒否していると、一階にいたかあさまととうさまが、なんだなんだと此処まで上がってきた。
「何があったんだ?」
「あらあら、どうして泣いてるの、シンディ」
「ここまで怖がらせるつもりは……すみません……」
かあさまととうさまに見下ろされて、しどろもどろになっていたろきしーに代わり、にぃにが前に出て何やら弁解しているあいだ、私はぐすぐす鼻をすすりながら、かあさまに背中を優しく叩かれていた。
ああ、ビックリした……。
「今夜はお母さんとお父さんとねんねする?」
そう訊かれたが、首を振ってりーりゃのほうに腕を伸ばす。二人の寝室はろきしーが覗きに来るではないか。そんな場所ではおちおち眠れない。
「お嬢様にはまだ早かったようですね」
私を抱っこしたりーりゃがそう言い、私たちの寝室に移動した。ろきしーはがっくりしていた。
いつもならりーりゃの寝台の横に置かれた、子供用の小さな箱床の中に転がされるところだが、その前にしがみつくと、りーりゃは私を自分の寝床に入れたまま蝋燭を吹き消し、布団を引きあげた。
「ねんねしゆ」
「寝る前は、おやすみなさい、と言いましょう」
「おやしみむさい」
「はい、御休みなさい」
冷めているようだが、甘えさせてくれない訳ではないのだ。
なにかが怖かった気がするけど、朝起きたら忘れていた。
朝食後、にぃにが蝋を薄く流し込んだ板を木の棒で引っかいて、字を書いていた。書蝋板というらしい。雑記帳の代わりであった石盤と石筆と似たような感じだろうと私は思った。
いいなあと思いながら椅子によじ登ってちょっかいをかけていたら、にぃには、書蝋板をもう一つ持ってきて、私の前に置いてくれた。
そして、カリカリと蝋を引っかいて字を書きつけた。
「これで、シンシアと読むんだ」
「しんしあ」
私だ。以前はチサという名だったが、今の名前はシンシアあるいはシンディだ。
「こ
下に書かれた字列を指さしてみる。
「ルーデウス。にぃにの名前だよ」
「?」
にぃにの名前?
「にぃに、にぃにない?」
「にぃにだよ」
「?」
???
にぃにが、ルーデウスでもあって?
「俺がお兄ちゃんだから、シンディは〝にぃに〟って呼ぶけど、本当の名前はルーデウスだ」
にぃにってにぃにが名前じゃなかったの!?
そんな! あんなにニコニコ笑って、「にぃにだよーうへへ」って言ってたのに!
「かあさま……」
「母様はゼニス」
「かあさま、ない?」
「〝母様〟っていうのは、シンディを産んだ人のことだよ。シンディにも、シンシアっていう名前があるだろ? 母様にも、ゼニスという名前があるんだ」
なんと。
私、かあさま改めゼニスの娘であったのか。
昔もお母はいたが、この体のお母は彼女なのだ。りーりゃじゃなかった。
じゃあ、
「とおさまは……」
「父様はパウロ」
「うええん」
私は泣いた。
名前だと思って呼んでいた単語がただの続柄であって、本名は別にあった悔しさ、言い表せぬ喪失感にわんわん泣いた。
きっとりーりゃもろきしーも何らかの続柄名であって、本当の名前は、なんか違うのがあるのだ!
「りにゃあああ!」
「いや、リーリャさんはリーリャ」
そこは違わないの?
泣き止むと、おろおろしていたにぃに……じゃなくて、ルーデウスが、私の頭を撫でた。やれやれ仕方ないな、という感じの顔だ。
人に触られるのは好きだ。もっと撫でてほしい。
「お嬢様!」
リーリャがびっこを引くようにぎこちなく走ってきて、私を抱きあげた。
まだルーデウスと居たかったので、やあんと声をあげたが、リーリャはひっしと私を抱いて離さない。
リーリャはちょっと怯えた目をルーデウスに向ける。リーリャは私がルーデウスと遊んでいると、たまに邪魔してくる。
やはり悪魔憑きかと前に呟いていたので、同業者か!? と思ってルーデウスを見つめて調べてみたが、全然そんなことはなかった。
視える前世が人より鮮明なだけの、やさしい男の子だ。
「おっと、もうこんな時間だー。先生と魔術の訓練をしなくっちゃ」
ルーデウスは棒読みでしらじらしく言い、そそくさと庭に出ていった。
「……行ってらっしゃいませ」
リーリャはルーデウスの小さな背中に、少し前かがみになる程度のお辞儀をした。
安堵している雰囲気。ルーデウスがいなくなって安心しているのだ。
なんだかなあ。
リーリャとルーデウスの仲は、良くない。
家事をこなすリーリャについてまわり、飽きてルーデウスのお下がりのおもちゃ(ルーデウスが全く使わなかったそうなので新品同然)でひとり遊び、母様と帰ってきた父様たちと昼食を食べた。
さてルーデウスが構ってくれるかと思いきや、そうでもない。彼は父様に剣の稽古をつけてもらうからだ。
ちなみに、本名を知ったことだし、と思い、「るーでうす」と呼んでみたら、引き続きにぃにと呼ぶように頼まれた。
よってこれからは、彼の呼び名はにぃにに戻る。
「だっこー!」
「ごめんね、お母さん今縫い物してるの。もしシンディにチックンしたら、痛い痛いなのよ」
椅子に座っている母様の手の中で、針の先端がきらりと光る。近くには針山があり、そこには大小様々な針が何本か刺さっていた。
痛いのはちょっと嫌だな。
でも抱っこはされたい。
リーリャは居ないし。
仕方がないので、馬の足に車輪がついたおもちゃを持ってきて、母様の足元に座った。
ふと気になり、母様の履物をじっと見つめる。膝下まで丈があり、踵の部分が高くなっている。
「なんてお名前?」母様の沓をさわりながら訊いた。
「ブーツっていうのよ」
「ぶーつ!」
よし、忘れないぞ。
「お母様のブーツが気になる?」
「ううん」
「あらそう」
名前を憶えたから用はない。
と、思ったけれど、やっぱりひとりで遊ぶのはさみしい。
「かあさまのブーツは、お山さんね」
生前暮らしていた村から見えた、毛無山。隣の足は白馬山。
手に持った馬が、山裾の母様のつま先から、尾根の膝まで登っていく。
よいしょと立ち上がり、馬を登り切らせたとき、母様がつま先を交互に踏み鳴らし、膝を揺らした。
「ドッカーン! お山は噴火しました! きゃー! 逃げてーっ」
「きゃー!」
慌てて木の馬を避難させる。
母様はくすくす笑い、「また登りに来てね」と陽気な声で言った。
また来てね、だって。行く?
握りしめた馬の木彫りの目が私を見上げた。
耳をすませば聞こえるはずだ。このおもちゃの内なる声が!
……ふんふん。度胸試しには最適?
「お馬さん、またきたのよ」
「んふふ、無事に帰れるかしら?」
私はふたたび母様の足元にしゃがんだ。
いつ噴火するかわからないのでドキドキだ。
こうして私は、抱っこされたい気持ちを忘れるまで、思う存分母様と遊んだのだった。