巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

21 / 56
以前からちょくちょく日間ランキング入りはしてましたが、4/6は一瞬だけ25位になっていたようです。ありがとうございます。
今回はゲームのパウロ外伝のシナリオが含まれます。




二〇 リーリャの実家

 村の治療院で働いている母様は、ハイハイするようになったノルンを抱いて出かけていた。

 院の経営者である老夫婦に、ノルンをお披露目するためだった。

 

 私はリーリャとアイシャと留守番である。

 リーリャは、食堂の床に座った私とアイシャが遊んでいるのを見ていた。

 ところが、最初はご機嫌で人形を握っていたアイシャが腹を空かせて泣いたから、リーリャは椅子に座って授乳を始めた。

 一人寸劇もつまらなくなり、エマちゃんにもらった人形のひとつをリーリャの膝に置いた。

 

「リーリャはお父さんの役やってね」

「ええ」

 

 リーリャがこちらに目を向けた。

 

「ぢゃああ!」

 

 そしたらアイシャが怒った。

 おっぱいから口を離して海老反りになり、怒った声をあげる。

 アイシャはおっぱいを飲むとき、リーリャが自分を見てないと怒る。ときどき乳首を噛んで、痛がるリーリャの反応を見てよろこびもする。

 母様の乳首を噛んだことはないから、相手を見てやってる、とリーリャは嘆いていた。

 

「リーリャとおままごとしちゃだめ?」

「うぶぅ」

「だめなの」

 

 お母さん取っちゃダメらしい。

 リーリャの膝から人形を回収した。

 

「すみません、お嬢様」

「アイシャ赤ちゃんだからしょうがないのよ」

 

 おっぱい飲んでるとこ見てていい? と訊くと、リーリャはアイシャから目を離さないようにしながら、片手で隣の椅子を引いて、私が座れるようにした。

 

「アイシャはかわいーねー、ノルンもかわいーよねー」

 

 兄に教えてもらった方法で椅子にのぼり、横から覗き込んで抑揚をつけて言う。

 赤ちゃんの黒目がちな眼がちらっと私に向き、すぐにリーリャに戻った。

 

「お嬢様も愛らしい赤ちゃんでしたよ」

「へへっ」

 

 照れちゃう。私はリーリャの膝にくてっと覆い被さった。

 そういえば、前に父様と母様から聞いてから、じゃあリーリャはどうなのだろう? と、気になっていた事があったのだった。

 

「私のおじいちゃんとおばあちゃんもういないよ。あと遠くにいるのよ」

「存じております」

「リーリャのおじいちゃんとおばあちゃんは?」

 

「私の祖父母はもう亡くなりましたが」とリーリャは私を見て、腕の赤ん坊が海老反りになる前にアイシャに目線を戻した。「この子の祖父母は存命です」

 

 リーリャがアイシャを指して「この子」というとき、表情が愛情を持ってやさしくなるのが好き。

 アイシャの祖父母は生きて、ウィシル領という南部の土地で暮らしているのだとリーリャに教えられた。

 

「アイシャのこと見せたいね」

「そう……ですね、いずれまとまった暇を頂いて、実家に顔を出したいものです」

 

 アイシャが乳房から顔を背けた。リーリャはアイシャを縦抱きにして、背中を叩き始める。お乳と一緒に飲み込んだ空気を出してあげてるのだ。

 

「いつ行くの?」

「アイシャが、今のお嬢様より大きくなったらです」

「じゃあずっと先ね……」

 

 小いちゃなアイシャ。

 生まれたときより大きくなってふくふくしてきたが、まだまだ小さい。そんな子が、私より大きく成長するための年月は、途方もなく長いに違いない。

 リーリャの両親はそれまで生きていられるだろうか。

 私は真剣に心配していたのだが、リーリャは「んふっ」と笑い声をもらしたのだった。

 

 

 

「……」

 

 むかしの夢をみた。

 私がいちばん乗りで、他に起きてる人はいない。

 当然だ。まだ夜中である。隣りに寝ているのは、アイシャでも、ましてやノルンでもない。

 イヴだ。とうにやめたはずの指しゃぶりをしたまま寝付いていた。

 

「いいこ、いいこ」

 

 イヴの頭を撫で、もう一度ねむるべく再び横になる。

 枕元の本。兄が私のために書いてくれた本に、頬ずりして目蓋を閉じた。

 

 

 


 

 

 

 次の日、私はこっそり施設の外に出た。

 トウビョウ様の力で視たところ、父様は生きて、ノルンと一緒に、この町にいることがわかった。

 本当は視るのも怖かった。知り合いや友達のように、消えていたり死んでいたら、私は悲しみでしばらく動けなくなっていただろうから。

 

 父様とノルンがこの町にいたことは間違いない。

 ただ、父様が立ち寄った場所への細かい道筋まではわからなかった。視えた風景と一致する場所を探し、やみくもに歩き回るしかない。

 あるいは人に訊くのもいい。

 教えてくれそうな人を見つけるため、人が多い場所を探して彷徨う。

 市場のような通りに出た。昔ウィーデンで見た風景と似通っている。

 

 どの人に話しかけよう。

 オルステッドに腕を掴んで持ち上げられたことを思い出した。

 五体満足の男の人はちょっと怖いから、女の人にしよう。優しそうな人。

 

「どこまで行くの?」

「ひゃ」

 

 背後から袖を引かれた。ビックリした。

 振り向くと、ワーシカがいる。

 

「ついてきちゃったの?」

「シンディ姉、どこいくの? ぼくも行く」

 

 何ということだ。まったく気がつかなかった。

 それだけ父様に会うことしか考えていなかったのだろう。

 付いてきている子が他にもいないか視たが、それは杞憂で、イヴたちは救貧院にちゃんといるようだった。

 ワーシカが迷子になって人攫いにあったり、馬車に轢かれたりしなくてよかった。

 施設に引き返すと勝手に外に出たことがバレるだろうから、一緒に連れていくことにした。

 どことなく不安そうなワーシカとはぐれないように手をつなぐ。

 

「……オーガスタ……」

 

 露店のほうから聞こえた声。

 人の喋り声に紛れ、ともすれば聞き逃していたような声量だった。

 オーガスタさん。村長の奥さんの名前。

 彼女もすでに死んでいた。高所からの落下死。

 

 トウビョウ様の未来視は外れることがある。

 だから、もしかしたら。万里眼の力も外れることがあるかもしれない。

 これを外した事は生前から一度もないのに、そんな望みを抱いて、私は声の方を追いかけた。

 

「シンディ姉、速いよ」

「ごめんね、我慢してね」

 

 会話の中でオーガスタという名が出てきた二人組。

 老年の夫婦だ。男の方は剣帯に剣を下げていた。

 二人とも、赤茶の髪に、白いものが混ざってる。

 五〇代後半のように見えたが、背筋はしゃんとしているから、百姓ではないことは確かだ。

 

 追いついて、話しかけようとした瞬間、男の方がくるりとこちらを振り向いた。

 訝しげな視線は、降って私とワーシカを見つけ、人好きのするものに変化した。

 

「お嬢ちゃんたち、おれに何か用かい?」

「お、オーガスタさんって」

「ん? そりゃおれのことだな」

 

 私の知ってるオーガスタさんは、頭にほっかむりをつけ、「日焼け対策よ」とカラカラ笑ってる根明の女の人だ。

 こんな、逞しい体つきで、髭を生やした男の人ではない。

 つまり、ひと違い。彼女はやはり死んでいた。

 

「……まちがえました……」

 

 父様を探す作業に戻ろう。

「親はどうしたの」とワーシカをつれて引き返そうとすると、女のほうに声をかけられた。「子供二人だけでは危ないわよ」

 

「お母さんは、遠いところにいます。たぶん……。いまは、お父さんを探してるの」

 

 ワーシカは驚いた眼を向けてきた。

 初めて聞く話だからだろう。ワーシカは、そのうち両親が迎えに来ると信じている。

 女は表情を変えなかったものの、男のオーガスタさんは同情をまなざしに乗せた。

 話しかけたついでに、父様とノルンが居た場所の特徴を告げて、心当たりがないか訊ねた。

 

 親切にも、夫婦は人通りから外れた所に私たちを誘導し、根気強く話を聞いてくれた。その流れで知ったのだが、女のほうはフルートさんというらしい。

 寡黙な雰囲気がリーリャに似ている気がした。

 話を聞いた後、オーガスタさんはこう言った。

 

「特徴を聞く限り、お嬢ちゃんが探してるのは、冒険者ギルドだと思うが……父親は冒険者か?」

「うん、昔は冒険者だった、って言ってました。迷宮に潜った話とか、魔物倒した話とか、よくしてくれる」

「そうか、そうか。昔は、ってことは、今は何の仕事をしてるんだ?」

「ブエナ村の、駐在騎士です」

「ブエナ村?」

 

 食糧を入れた袋を持ってしゃがんでいたオーガスタさんは、そばに立っているフルートさんと顔を見合せた。

 こちらに向き直り、訊ねられる。

 

「シンシアといったか。お嬢ちゃん、ひょっとして、リーリャという名前の女性を知ってるんじゃないか?」

「知ってるの? リーリャさんのこと」

 

 自分の表情が明るむのがわかる。

 上背のある男の人だから少し怖かったけれど、リーリャの知り合いなら悪人じゃないと思う。

 

「リーリャはおれたちの娘だ」

 

 何ですと。

 髪の色とか、紫色の眼とか、そう言われてみると似ている。

 この辺では珍しい容姿ではないのか、救貧院にも同じ髪と眼の色の人は何人かいたけれど。

 

「リーリャさんは、もともとうちのメイドでした。でもなん年も前にお父さんの妻になったから、私のもう一人のお母さんみたいな人です」

「そうか、騎士の子の乳母に雇われたとは聞いていたが、今はそんなことになってたのか……そうか……」

「あの子は、男性不信は克服したのね」

 

 夫婦は喜びを分かち合うように微笑みをかわし、そして、「すると妙だな」とオーガスタが視線を明後日に投げた。

 

「どうして、フィットア領のブエナ村の子がここにいるんだ。駐在騎士が子連れでくるもんか? 守衛の仕事は?」

 

 答えられなくて困っていると、「あなた」と、フルートさんがオーガスタさんの肩に触れた。

 

「まずは冒険者ギルドに寄って、この子の父親を捜してやったらどう。荷物は私が家まで運んでおくわ」

「うーむ、そうだな、ここで考えても仕方ないか」

 

 冒険者ギルドに、つまり父様とノルンが居るところまで連れて行ってくれるらしい。

 その間、ワーシカのことはフルートさんが自宅で預かってくれることになった。小さな子を二人も見るのは大変だから、と。

 お姉ちゃんとしてワーシカの面倒はちゃんと見ているつもりでいたが、私も小さな子の枠であるようだ。

 

「シンディ姉、どこにもいかないよね? また会えるよね?」

「お父さん見つけたら、すぐ迎えに来るから」

「あのこわい人のところ行かない?」

「行かないよ」

 

 ワーシカはかなりオルステッドに怯えている。

 すっかり恐怖の対象だ。もう別れた後なのに、オルステッドの所に行かないよね? と見当違いな心配をするほど。

 おとぎ話でしか知らないスペルド族より怖がっているかもしれない。

 

「それじゃあ、また後でな。転ばんよう気をつけろよ、おまえさんももう若くないんだ」

「ええ」

 

 オーガスタさんがフルートさんと別れ、冒険者ギルドまでの道程を案内してくれる。

 

「リーリャのお父さんなら、アイシャはお孫さんですか?」

「そのアイシャってのは、リーリャが産んだのか?」

「そうです。アイシャはすごく可愛いの、それで賢いの、いま三歳なの」

 

 見上げながら話していたら、首が疲れるだろう、と肩車をしてもらった。

 矍鑠としたお爺さんだ。

 年齢も顔立ちも共通点はないけれど、父様を思い出してちょっとだけ泣きそうになる。

 

「剣の道場ですか?」

「ああ。水神流のな。おまえさん、三大流派は知ってるか?」

「剣神流と、水神流と……北神流?」

「おっ、よく知ってるな。リーリャに聞いたのか? それとも父親?」

「お父さんです」

 

 道中で、オーガスタさんの話も聞いた。

 剣術の三大流派がひとつ、水神流。

 ここは水神流の最高位である水神が生まれ育った町で、ちょっとした有名所だそうだ。水神流の道場もたくさんある。

 オーガスタさんも道場を経営していて、リーリャには幼い頃から剣術を教えていたそうだ。

 

「リーリャは昔っから真面目で真っすぐでなあ、剣術一筋なのは良いことだが、フルートに似て美人なのに、化粧っ気がなかった。あれで男を捕まえられるか心配したもんさ」

「リーリャは、十五歳のお祝いに髪飾りもらったって言ってたの。女らしくしろ、って言われたって」

「そんなことまで話してるのか、仲が良いんだな」

「仲良しです! あとね、私も五歳のお祝いに、お父さんから耳飾りもらったの」

「耳飾りか。おまえさんも将来美人になりそうだが、そういうのはまだ早いんじゃないか?」

「うん、お父さんも、まだシンディには早いな、ってくれたあとで言ったよ。買う前に気づくべきです、ってリーリャも笑ってね……」

 

 それで、お母さんは、母様は。

 結晶の中でねむる母様と、輝かしい緑の鱗。

 赤ん坊のころからあの絵は視えていたから、いつか来ることだと覚悟していた。でも思い出すと悲しくなるから、今はまだ母様のことは考えないようにする。

 

「っと、着いたな」

 

 肩車から降ろしてもらった。冒険者ギルドに着いたのだ。

 父様はここで依頼を受けていった可能性が高いらしい。

 冒険者ギルドの建物内は、胸当をつけて剣帯に剣を差した人が数名いる程度で、混雑はしていなかった。

 

 奥にある机の向こうに、若い女が座っている。

 オーガスタさんはその人の前まで歩いていった。

 

「依頼でしたら掲示板に――」

「いや、ちょっくら人を捜してるだけさ。この子の父親なんだが、ここで依頼を受けていったらしい」

 

 机が高くて背伸びをしていたら、脇の下に手を入れて持ち上げられた。女の人の顔を見ることができた。

 顔を合わせると、彼女はにこっと笑いかけ、小さく手を振ってきた。ギルドの受付嬢だとオーガスタさんに教えられた。

 

「そうでしたか。お父さんのお名前は言える?」

「パウロ・グレイラットです」

「パウロォ!?」

 

 オーガスタさんが素っ頓狂な声を上げた。

 体を支えてくれる手に不穏な力が込められ、ソーセージのように握り潰される自分を想像して冷や汗をかく。

 

「す、すまん」

 

 弛んだ。無事である。

 

「パウロ・グレイラット様ね。この辺りでは珍しいSランク冒険者だったから、よく覚えてるわ」

 

 ひっくり返った声を上げたオーガスタさんには驚かないのか。

 受付嬢は椅子ごと後ろに下がり、奥の棚からなにか取り出した。木板に不揃いな紙を幾重に挟んだものだ。

 それを捲り、あるページで開いて机に置いた。

 

「配達依頼、緊急?」

「あら、読めるの。そうよ、急ぎの配達依頼」

 

「依頼を受けたのはいつ?」低い声でオーガスタさんが訊ねた。

 

「一昨日ですね」当時の記憶を探るように右上に視線を向けた受付嬢が答えた。

 

「小さな女の子を連れていました。まあ、馬付きの依頼でしたし、そろそろ目的地に着いてる頃かと」

「お父さんもういない?」

「そうねえ、残念ながら……」

 

 受付嬢さんは机の抽斗から丸めた紙を出し、広げた。

 地図だ。昨日ドレンさんが地面に書いてくれたものとは異なり、アスラ王国が中心に描かれている。

 

「あなたのお父さんが向かったのはここ」

「違います、ここにいます」

 

 受付嬢が指した場所とは逆方向を指さした。

 この町にいる父様とノルンの絵は、すでに過去のものだった。

 もう一度視ると、今度は別の場所が視えたのだ。父様はノルンを赤ちゃんのようにスリングで抱え、馬で移動している。

 やっぱり地図が傍らにあると視やすい。

 生前も今世も、村から遠く離れたことがなかったから、今まで知らなかった。

 

「そこは領地の外よ」

「でもお父さんは……」

「ふふ、適当言っちゃダメでしょ?」

 

 受付嬢は地図をくるくる丸め、広げる前のように真ん中を紐で縛って抽斗にしまった。「帰る場所はあるの?」と訊かれ、ブエナ村の、と答えかけ、ミモザさんに聞いた救貧院の名前『仔羊の家』と答えた。

 ああ、あの通りの、と合点が行ったように受付嬢は頷き、お父さん帰ってくるといいわね、と私に言葉をかけた。

 

 私は、ありがとうございます、と言って、オーガスタさんに降ろしてもらって、ギルドを出た。

 

 

 父様は既にこの町を発ったらしい。

 私は父様がどこにいるか知っているが、父様は私の居場所を知らないのだろう。だから私を置いて行ってしまったのだ。

 そう、知らなかった。私は捨てられたんじゃない。

 わかっているのに、目の前の風景から現実感は遠ざかり、

 周囲のものは透明になり、私ひとりだけ、何もない場所に取り残されたような心地になる。

 

「うああ……」

 

 孤独。その感情だけは、よくわかる。

 建物の外に出てから、ひっ、と喉が鳴った。

 こらえようと思っても、一度声が出てしまうともうダメで、私は声をあげて泣いた。落胆だの寂しさだのが綯い交ぜになった思いが押し寄せてきた。

 なんで先に行っちゃったの、お父さん。ノルンだけ連れて行っちゃったの。私もつれていってほしかった。

 お兄ちゃんもリーリャもアイシャも遠いところにバラバラになった。お母さんはわからない。雪白も。

 友達も知り合いもおおぜい死んだ。

 私はどうしたらいいの。

 どこに居たらいいの。

 

「かあさま、かあさまぁ」

 

 呼んだって来てくれない。

 どうしたの、って慌てて来て、お母さんに話してみて、って言ってくれる人はいない。

 こうなるから。絶対に泣いてしまうから思い出さないって決めたのに。母様に会いたい。母様がいい。母様じゃないとやだ。

 

「おーおー、事情はよくわからんが可哀想に。泣くことねえさ。パウロの野郎なんざ、おまえさんの方から見限っちまえ」

 

 オーガスタさんに抱き上げられる。彼は、ぐずる子にするように体を揺らしながら父様を見限れと言ってくる。

 涙を手の甲で拭いながら、「し、し、しな、い」と勝手に途切れる声で答える。オーガスタさんは苦笑した。

 

 

 

 ワーシカを迎えにオーガスタさんの家につく頃には、私は泣き止めていた。

 善意でしてくれたことだから、降ります、とも言いにくくて、片腕に抱っこされたまま。

 手には、途中でオーガスタさんが買ったオレンジを一玉持っている。私にくれたものか、オーガスタさんが後で食べるためのものかわからなくて、持て余していた。

 

「ここがおれの道場だ。おれとフルートは二階に住んでる。

 どうだい、弟を迎えに行く前に、稽古をちょっと見学してくか?」

「したいです」

「よーしよし、素直だな、奴の娘とは思えんホント」

 

 そんなこと言われても私は父様の娘である。

 腕から降ろされ、オーガスタさんに続いて道場に入る。

 入り口をくぐる時にオーガスタさんが軽く黙礼をしたので、真似をしてぺこりと頭を下げた。

 

「あれは型稽古という。攻太刀と受太刀に分かれ、攻の攻撃に対して、受はあらかじめ決められた動作で対応するんだ」

 

 十人以上はいる少年が二人一組になって待機していた。

 攻側が一歩踏み込むと、受側が一歩下がる。刃は潰してあるが、使うのは真剣だという。

 そうして道場の端から端を移動したところで一区切りであるらしく、青髪の男から指導が入る。

 道場主はオーガスタさんという話ではなかったか。

 

「オーガスタさんは、教えないんですか?」

「もちろん教えてるぞ。だが、おれももう歳だ、大部分の指南は、ああして昔からいる弟子に任せてるんだ」

 

 オーガスタさんがそう言い終わる頃に、指導を終えた青髪の男がこちらに駆け寄ってきた。

 

「師範! お疲れ様です! そちらの子は?」

「お疲れさん。この子は、救貧院に預けられた子らしいんだが、迷子になっちまったらしい。泣いてたんで慰めてやってたのさ」

 

「剣術をやったことは?」とオーガスタさんに訊かれ、首を横に振る。

 

「……おかあ、さん、が、やってみたい? って訊いてきたことあるけど、ないです」

 

 よし、泣かずにお母さんって言えた。

 両親はもともと、男の子が生まれたら剣士に、女の子が生まれたら魔術師に育てることにしていた。

 ところが長男である兄に魔術の才能があり、母様は張り切って家庭教師のロキシーを雇って魔術を水聖まで極めさせた。

 兄は後に医師の道に進んだ。剣とは縁のない職業だ。刀傷を負った患者を診る機会はあるかもしれないけれど。

 母様は、息子に剣術を教える、という父様の楽しみを奪ったみたいで申し訳なく思っていた。だから、もし私が剣術を学びたがっていたら、性別に囚われずその道も用意してやるつもりでいたそうだ。

 とうの私は剣術をやりたいと思ったことはない。

 

「よくお兄ちゃんがお父さんにぼこぼこにされてたから……」

 

 痛そうだもの。

 でも、父様が自分の子に教えたがってるなら私も応えよう、と覚悟したことはある。

 

「一度だけ、お兄ちゃんが昔使ってたおもちゃの剣持って、お父さんの前に出たらね」

「ほお?」

「「オレは娘を打てない」ってお父さんが逃げちゃった」

「だっはっはっは!」

 

 オーガスタさんは豪快に笑った。つられて私もへへと笑う。

 たしか二年前だ。母様の後ろに逃げ込んで頭を抱えてうずくまり、「無理だぁ! できねえよ!」と体を縮こめる父様の背中に、頑張って斬りかかったのだ。あの時は、それを見たリーリャが笑いすぎて立てなくなっていた。

 

「娘を傷つけたことは許せないが――あいつは才能に溢れた男だった。それをおまえさん、悪い女だな! あのパウロをそんな骨抜きチキン野郎にしちまうんだから!」

「パウロ!?」

「あ、しまった」

 

 青髪の男がぎょっとして私を見る。怖い顔だった。

 戸惑ってオーガスタさんの服を握ると、「よせ、子供に罪はないだろ?」と彼を諌めてくれた。

 

「もう十五年は前になるか、パウロは昔この道場で剣術を習っていたんだが、まあ、良い弟子じゃなかった。そのせいで、今でもその名を聞くと怒っちまうやつがいるんだ」

「喧嘩いっぱいした?」

「したな」

「女の人なかせた?」

「泣かせたな」

「はえ」

 

 私は父様の良い面しか知らなかった。

 腕が引っこ抜けるぞ、とか、美味そうだから魔物に食われるぞ、とか、からかわれたことはあるが、酷い態度をとられたことは一度もない。

 じゃあ、母様にもリーリャにも、私が知らないだけで悪い面はある、あるいはあったのだろうか。

 知りたくないような、でも知らないままだと人間味に欠けて物寂しいような。

 

 道場を離れ、オーガスタさんの自宅に行った。

 

「シンディ姉! あのさ、知ってた? 道場にはいるときは、まず頭を下げてさ」

 

 嬉々として出迎えたワーシカが驚いた顔をする。

 

「泣いたの?」

「そう。転んで泣いちゃった」

「かわいそうに……」

 

 嘘に同情させてしまった。すこし罪悪感がある。

 ひしっと抱きついて慰めてくれるワーシカの頭を撫でていると、フルートさんも玄関先に現れた。

 

「おかえりなさい、あなた。親は見つかりましたの?」

「ああ。一応な」

 

 オーガスタさんがフルートさんに小声で何か言った。

 最初こそリーリャに似た面差しで聞いていたフルートさんは、一変。般若の面が顔に浮き上がった。

 

「この子、この子たちが、あの男の……っ」

「ひゃぁ、お父さんの娘は私だけなんです、ワーシカはクロエさんとヴェローシャさんの子なので関係ないですっ」

 

 般若の矛先がワーシカにまで向かいそうになり、食い気味に説明した。

 

「というと、リーリャはあれの妻になったことに……手紙ではそんなこと一度も……」

「あの子はフルートに似て寡黙だからなあ」

 

 フルートさんは怒りを鎮めたようだった。

 実際は腹の底はまだ煮えくり返っているのかもしれないが、少なくとも表面上は平静になった。

 

「シンシアさん」

「はい」

 

 すっとしゃがんで視線を合わされ、たじろぐ。

 ハンカチで頬を拭われただけだった。涙の跡が残っていただろうか。

 

「自力で泣きやんだかしら?」

 

 首を横に振る。

 

「抱っこしてもらいました……」

「泣くのは構わないのよ」

 

 目元の皺の奥にある紫色の眼。

 内に鉄火を秘めた眼が私を見つめる。

 

「男に頼らず、自力で涙を止められる女になりなさい。私の娘は、少し時間はかかっても、それができる子だったわ」

 

 そのとき私が感じたのは、一人で生きていける者への憧れだ。

 母様は力仕事や難しい仕事を人に頼ることに躊躇がない。

 それは悪いことではない。屈託なく手助けをされるのもまた才能である。

 リーリャは、何でも一人でやってしまう。力仕事も難しい仕事も、工夫して自分でこなす。父様と結婚した後もそれは変わらない。

 つまり自活した人なのだ、リーリャは。

 フルートさんに育てられたのであれば、そうなったのも納得できる。

 

「……はい」

 

 子供扱いされないのが、嬉しくもあり、ちょっと寂しくもあった。

 すぐには難しいけれど、これからは自分で涙をとめられるようになろう。そう決意した。

 

 

 

「お世話になりました」

「フルートおばーちゃん、またね」

 

 オーガスタさんが救貧院まで送ってくれるというので、頼ることにした。

 ワーシカはフルートさんにたいそう懐いたようで、満面の笑みでブンブン手を振っていた。

 フルートさんはにこりともせず、真面目な顔で手を振り返していた。

 

「あの、これ」

「ああ、お嬢さんにあげたんだぞ」

「えっ」

「食わないから嫌いなのかと思ってたが」

「きらいじゃないです、好き!」

 

 そして、オーガスタさんが私にもたせたオレンジは、私にくれたものだったらしい。

 確かに、小さな子を泣き止ませるには、何かしゃぶらせておくのが有効だ。私も同じ枠ってことだろうか。

 さもありなん。恥ずかしいところを見せてしまった。

 

「なにからなにまで……」

「ははっ、子供がかしこまるもんじゃないぞ」

 

 ワーシカが羨ましそうに見てきたので「帰ったらいっしょに食べようね」と言う。ワーシカは笑顔で頷くと思いきや、「イヴにはあげなくていいの?」と訊ねてきた。

 

「あら。じゃ、イヴともわけっこしようか」

「うん」

 

 救貧院に戻る途中の道で、私たちを見て声を上げた人がいた。

 腰の曲がった老婆である。昨日、リーリャとアイシャの居場所の名前を教えてくれた人。

 ナヤ婆だ。

 

「こらぁー! 人さらい! 誰か、誰かぁー!」

「こりゃ困った、誤解です」

 

 ナヤ婆は振り上げた杖をバシバシとオーガスタさんに叩きつけたが、オーガスタさんは鞘から出さないまま腰の剣で杖を軽く受け流している。

 ビックリして眺めているうちに周囲の視線が集まり始めていた。

 ナヤ婆は、オーガスタさんを、私とワーシカを攫った人だと思い違いをしているのだ。私は彼女に説明した。

 

「ナヤ婆ちゃん、この人、お父さん捜すの手伝ってくれた人なの。私たち誘拐されてないよ」

「はぁ……ぜぇ……はよ言わんかい」

 

 ごめんなさい。

 大声を出し、杖を振り回したナヤ婆は息を切らしていた。

 私とワーシカがいなくなったことに施設の人が気がつき、職員と動ける大人が、何人か外まで探しに出ていたらしい。

 ナヤ婆もその一人というわけだ。

 あとで怒られるかな、とは思っていたが、そこまで問題になるとは思ってなかった。

 

 冤罪をかけられたことを笑って許してくれたオーガスタさんとも別れ、ワーシカとナヤ婆と施設に戻る。

 腰を曲げたナヤ婆の目線の高さは、私とさほど変わらない。

 

「あすこにいる子は、みんなワシの子か孫のように思うとる。お前たちもそうじゃ。何かあったらと思うと、気が気がじゃなくてのう」

 

 黙っている私に、ナヤ婆はそう切り出した。

 昨日会ったばかりなのに、私もそう思われているのか。

 

「ナヤ婆ちゃんはなんで救貧院にきたの?」

 

 と、訊いた。

 ナヤ婆は身寄りのない老人である。

 夫や子供は一度もいなかったのだろうか。

 

「あれが見えるかい」と皺だらけの手で指さした方。

 ずっと遠くの草原に、柵に囲まれた長屋がいくつかあった。

 牧場にしては、他から離れてぽつんと建っている。

 

「伝染病患者を閉じ込めておく場所じゃい。わしの夫も子も、二十年前に連れてかれて、それ以来、帰ってこん。報せすらないが、もう死んどるんじゃろ。

 稼ぎ頭を失って、老いた女ひとり。働こうとしても、身内から病人を出したからお前も病気じゃろ言うて、誰も雇ってくれんでのう……。

 仕方なしに辻で物乞いをしとったら、救貧院が住む場所と仕事をくれたっちゅうわけじゃ」

「大変だったね」

 

 不思議だ。

 彼女の境遇は、生前ならありふれた話である。

 でも、食べ物も気候にも恵まれ、怪我や病をたちどころに治す技術があるこの国にも、そんな話があることが、不思議だった。

 解毒魔術があるから風邪をこじらせて死ぬことは少なくても、虎狼痢や癩病のような伝染病は存在するらしい。

 

「なんの、わしはこうして病気もせずに生きとる。

 それより、気をつけなきゃならんのはお前じゃて」

「わたし?」

 

 ワーシカと手をつなぎ、ナヤ婆に合わせてゆっくり歩きながら、話を聞く。

 

「お前は別嬪(べっぴん)になるじゃろう」

「そうかな」

 

「ああ、なりよる」と確信のある顔で頷き、彼女は言った。

 

「女の別嬪は、果報と同じじゃ。

 そして、果報にこそ警戒せよ、ちゅう言葉がある。

 綺麗だからといって、幸せになるとは限らん。

 むしろ、不幸を呼ぶ美貌もあるっちゅうことも、よう覚えとけ」

 

 生前の故郷では、良くない事が続くことを不幸とは言わず、「まんが悪い」と言う。

 だから、不幸というのがどんな状態なのか、よく知らない。

 他人から見れば、生前の私の死に際が、それにあたるのだろうか。

 

「ありがとう、ナヤ婆ちゃん」

 

 忠告をくれた老婆にお礼を言う。

 フルートおばあちゃん、また会いたいなあ。手をつないだワーシカの暢気な声が街道に響いた。

 

 施設に到着すると、門の前で、ミモザさんが私たちを迎えた。

 叱られるつもりでいたが、お父さんを捜してました、と言うと、黙って抱きしめられた。叱られなかった。

 

「もし迎えに来てくれるひとがいなくて、家もなくなっても、私たち、ここにいていいですか?」

「もちろんですとも。ミリス様は万人に救いの手を差し伸べる。ここはあなたたちの新しい家になるわ」

 

 ミモザさんは暖かくそう言ってくれた。

 安心した。私たちの居場所は、まだ、あったのだ。

 

 

 

「イヴ、イヴ」

「なにー?」

 

 食堂で揃って食べた夕食の後、無人の部屋にこっそりイヴを呼び、オーガスタさんにもらった果物をワーシカと分けさせた。

 私はいらない。まだ味覚は戻ってきていないのだ。

 

「シンディ姉たべないの?」

「うん、二人で食べてね。他の子がうらやましがるといけないから、三人だけの秘密よ?」

「わかった」

 

 ワーシカは皮を剥いたそれを大事にちびちび食べ始め、イヴは「シンディ姉にもあげる!」とひと房くれた。

 というか、口にねじ込んできた。

 

「お姉ちゃんはいらないってば」

「食べて!」

「ああぁ」

 

 果汁でべとついた手に頬を押さえられて口に入れられる。

 観念して食べた。噛むと薄皮が破けて果汁が流れる。

 甘酸っぱい味が舌を刺激した。

 

「……おいしい」

 

 味がわかる。数年は味覚は返ってこないと思ってた。

 夕食のときはまだ無かったから、ちょうど返ってきたばかりなのだろう。

 やっぱり、生前より霊能力は強力になっている。

 

「おててべたべただから拭こうね」

「はぁーい」

 

 だったら私の分もあげないで食べたらよかった、とは思わない。

 

「ぼくもシンディ姉にあげたかった……」

「ワーシカは馬鹿ね、ひとりでぜんぶ食べちゃうんだから!」

 

 たった一夜でみなしごになったこの子たちには、少しでも良い思いをしてほしい。

 自分の分をわけてくれたイヴと、分けたくても既に食べ終えた後で泣きそうになっているワーシカを、順番に抱きしめた。

 私は、母様の行方こそわからなくても、他の家族は生きている。

 それがどれほどありがたい事か、視て知っている。

 だから、動ける。

 

 

 紛争地帯にいるソーニャちゃんを視た。

 小国が生まれては滅んでいくから、いまある国の数すら救貧院にいる大人は知らなかった。そこが何という国なのか、私も知らない。

 それでも焼け焦げた残骸が残るばかりの荒野に転がる馬や人の死体から、そこが激しい戦地であることが伺えた。

 石積みの井戸の影に隠れていたソーニャちゃんの髪をつかんで引きずり出し、ねじりあげる男がいた。兵士の生き残りだろう。

 兵士は鉄兜を脱いだ。井戸桶の綱を手繰りあげた。桶の水に顔をつっこんで洗った。ソーニャちゃんの上に覆いかぶさった。

 

「だめ」

 

 呪った。頸がぐきりと直角に曲がり、兵士は絶命した。

 メリーちゃんが井戸の影から飛び出してきて、うつ伏せに倒れた死体の下からソーニャちゃんを引っ張り出し、二人は手をとって日が落ちつつある戦地を逃げ出した。

 二人に行く宛てはなく、私にできることはこれだけ。

 

 

 扉が開き、廊下の明かりが部屋に細く入りこんだ。

 年上の女の子が顔を覗かせた。

 

「シンシア、いた! イヴもワーシカも」

「サネルちゃん」

「湯浴みの時間だよ、おいで、体の洗い方おしえてあげる」

 

 理由はないけれど上機嫌なサネルちゃんの後ろを、イヴとワーシカを連れて歩く。

 私たちの生まれた村はなくなった。呆気ない終わりだった。

 でも、ミモザさんがここに居ていいと言ってくれた。

 居場所が無くなっても、すぐにまた与えてくれる人がいる。

 

「キャーハハハ!」

「男の子が逃げたぁ!」

「ぎゃははは! フルチンだ、フルチン!」

「つかまえろ!」

 

 ありがたい巡り合わせに心の中で手を合わせながら、私は裸ん坊で駆け出してくるクラレンスを捕獲するのだった。

 

 

 


 

 

 

 救貧院での生活が始まって数日。

 エリックはほぼ毎晩おねしょをする。

 お母さんどこ? と泣く回数も多くなってきた。

 私はそれを慰めながら、「すぐに迎えにくるよ」という一言だけは言えないでいる。

 クラレンスとヒューは母親を探すそぶりはないが、「ママ」と聞くとグズりだす。それを面白がって、わざと「ママはどこ?」と二人に訊ねる男の子もいた。

 泣かせないで、と私がお願いしたが、あまり聞き入れてくれない。ソマル君たちのように少し意地悪な子は、どこにでもいるのだ。

 

 嬉しいこともあった。

 オーガスタさんたちの世話になった翌日、彼はフルートさんを伴って救貧院を訪ねてきたのだ。

 そして、娘のお古でよければ、と、古着を寄付してくれた。

 ワーシカは大喜びだった。古着にではなく、フルートさんに会えた事にだ。

 ワーシカは綺麗な人に弱い。ソーニャちゃんの次に懐いていたメリーちゃんも美少女だし、当然の流れとして綺麗な母様とリーリャのことも慕っていた。

 ふだんはシンディ姉シンディ姉と私にくっついてくるのに、フルートさんが来たときはあの変わりよう。

 ちょっと小憎らしい。

 

 

 

「よいしょ」

 

 バケツに浸けた雑巾を絞っていると、男の子が来て、「しょあ!」とバケツに汚れた雑巾を叩きつけた。

 飛沫が膝にかかる。着る服は支給の古着だが、無闇に汚したくはなかった。

 

「やん」

「ごめんごめん~」

 

 軽薄に謝った男の子は、オリバン。

 来た初日に「いっしょに遊ぼう」と声をかけてくれた子だ。

 体が大きいから二歳は年上だと思っていたけれど、彼は七歳だった。私とそんなに変わらない。

 

「粉屋の前にアサルトドッグが出たんだよ!」

「魔物?」

「そーそ。なんか、何もないとこから、急に出てきたんだって」

 

 並んで廊下に雑巾をかけながら言葉を交わす。

 

「誰に聞いたの?」

「先生が話してるの聞いた」

 

 最近知ったことだが、施設の入居者は、施設で働いている職員を「先生」と呼ぶ。その中でも「院長先生」がいちばん偉い人だ。

 先生。便利な言葉だ。職員の名前はまだ全員覚えられていない私でも、先生、と呼べかければ振り向いてくれるのだから。

 

「本物の魔物みたことある?」

「あるよ、とっても大きくて、空飛んでたの」

「ほんとぉ?」

 

 端から端まで雑巾をかけ、突き当たりの部屋の前で止まる。

 

「きゃ」

「いたっ」

 

 方向転換しようとしたとき、観音開きの扉がとつぜん開いて、私とオリバンは頭をぶつけた。

 部屋の中から扉をあけたのは、包帯女のメイヨーさんだ。

 メイヨーさんはいつも眼と口元のみを出して、人相がわからないほど顔に包帯をぐるぐる巻きにしている。

 病の後遺症で顔が溶けて、ああして隠しているそうだ。

 唯一見える手の肌には張りがあるから、若い人だと思う。

 声は知らない。彼女が喋っているのを聞いたことがないのだ。

 メイヨーさんは羽根で撫でるように私とオリバンの額に触れ、すたすたと廊下を歩いていった。厠だろうか。

 

 扉がちょっと開いている。

 立ち上がって閉めた。紙とインクの匂いをかすかに嗅いだ。この部屋には入ったことがない。

 

「オリバン、ここって何の部屋?」

「仕事部屋!」

 

 オリバンは「こっそり入らない?」と扉に手をかけて私を誘った。

「こら!」と声が飛ぶ。脚立に座って窓拭きをしていたサネルちゃんだ。

 

「さっきからおしゃべりばっかり。ちゃんとやってよね、汚いとうちがネイサンに怒られるんだから」

「はーい」

「へーい」

 

 十歳から十四歳の健康な子供は、日中は外で奉公し、夕方になると救貧院に帰ってくる。

 サネルちゃんは、外で働く十三歳の少年、ネイサン君をとくに恐れているのだ。

 

「あの部屋では、なんのお仕事してるの?」

 

 バケツの水を魔術で替えながらサネルちゃんに訊ねると、写本をしているのだと返ってきた。

 見本の本を書き写し、作った写本を売って、経営の資金にするらしい。外で働けない人、体に欠損があっても手は動かせる人の仕事であるそうだ。

 

「俺、仕事はなんでもいいけど、煙突小僧だけはやだ」

 

 オリバンがそう言い、サネルちゃんも「うちもやだ」と言い出した。

 狭い煙突内の掃除をする煙突小僧は、小柄でないとつとまらない。そのため、大きく成長させないように、煙突掃除屋に奉公に行く子供は食事を減らされる。

 と、そんな怖い噂がある。

 

「わ、わたしもやだ」

 

 飢えはなにより辛い。ぶるっと体が震えた。

 

「シンシアはへーきよ、魔術使えるでしょ? 大きくなったら、先生がエンジョして、大学通わせてくれると思うよ。昔そういう子いたもん」

「だいがく」

 

 大学。

 絞ってる最中の雑巾をべちゃっと床に落とした。

 

「学校って女もいっていいの?」

「え? うん」

「……」

 

 驚きすぎて声も出なかった。

 尋常小学校に通えるのは男。高等科までいけるのは分限者の息子。

 そんな認識だったのに、小学校すらすっ飛ばして大学とは。

 生前から、学校と名のつくところは、一度もいったことがない。

 そんな私が、魔術がちょっと使えるというだけで、本当に学校に通えるのか。

 

 学校に通えたら、

 私でも、少しは賢くなって、

 今はできないこともできるようになって、

 そしたら、母様を探す方法もわかるかな。

 

 希望が見えてきた。

 

「むん!」

「急に張りきりだした」

「ほら、あんたも掃除、掃除」

 

 雑巾を拾って固くしぼる。広げて角を合わせて折り、雑巾がけ作業に戻った。

 学校に通いたい。そのためには、こういう日々の仕事に精を出して、先生たちに気に入られたほうが都合が良い。

 

 私は膝を上げて廊下を磨き、厠から戻ったメイヨーさんに「頑張ってるわね」と声をかけられて、ビックリして床に平行に伸びた。喋った。すごく可愛い声だった。

 





次回予告

「龍神来襲」
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。