宿が決まった。ついでに階段の掃除担当も決まった。
掃除はきらいじゃないから、別に構わないけれど。
転移のあとはほとんど野営であった。家じゃない建物に泊まるのは、ボレアスの家が初めてで、次が救貧院である。
どちらも居たのは少しのあいだだけど、どちらも楽しい日々だった事は確かだ。
だから、今回のも、わくわくする。
あの時と違うのはナナホシがいっしょにいることだ。
部屋に入ると、むき出しの煉瓦の壁と、二重窓が目に入った。
壁に造りつけられた燭台の蝋燭には既に火が灯せられていて、獣脂蝋燭が溶ける独特の懐かしい臭いを嗅いだ。
長持はふたつ。寝台と机はひとつ。長持は、腰掛けも兼ねているようで、天板にやや色褪せた緋毛氈が敷かれている。
『ベッド!』
ナナホシの目が輝き、彼女はいそいそと寝台に座って白い敷布を撫でた。
私も上着を脱いでごろんと寝転がる。歩き詰めで疲れた体に染みた。
「寝るのか?」
「ううん」
まだ夜じゃない。
「うふ」
「あん? なに笑ってんだよ」
「ゾルダートさんの顔が逆さまよ」
「お前が枕に足向けて寝っ転がってるからな」
寝台から降り、暖炉に薪を投げこむゾルダートさんの横に立つ。家の暖炉と構造が少し異なるようだ。
「冬の間、暖炉の火はずっと燃やしつづける。だから一度火が付いたらなかなか消えないようになってるんだ。この薪の量なら、半日は持つな」
「そんなに」
ゾルダートさんは馴れた手際で、火打ち石をつかって火をつけた。
私が火魔術をつかう必要はなかったみたいだ。
「じゃあ、俺は荷物取ってくるからな。二人だけで外出るんじゃねえぞ」
「はーい」
そうだった、なぜかゾルダートさんも同じ部屋で暮らすのだった。
寝台はひとつだけだが、広い。三人並んで寝ても、ちょっと狭いくらいで済むだろう。
「……付いてくるか?」
「行く!」
やった!
暇だなあと思ってたのだ。
ナナホシも誘ったが、彼女はあまりベッドの上から動きたくないようだった。
自堕落になっちゃだめよ、と一応言い聞かせてから、彼女を宿に残してゾルダートさんと宿の外に出る。
外では、先ほどまでちらちらと降っていた雪は、激しさを増していた。景色は灰色で、どの家並みも路地も同じに見える。
はぐれないようにゾルダートさんの外套を握る。
「お前、そんな薄着で寒くねえの」
自分の格好を見おろす。
丁子色の上着の下は、冬服のワンピースと毛皮のブーツだが、冒険者ギルドで見た人たちはもっと厚着だったように思う。
今着ているのは、あくまでアスラの気候の冬に対応した服であって、ラノアの気候だとこの服装は薄着に見えるのだろう。
「これ魔道具なの。だから寒くないよ」
「鼻の頭まっかだぞ」
「あら」
フードを被る。これで頭の防寒も抜かりない。
革の手袋を片っぽ渡され、つけろ、と言われる。
左手用のぶかぶかなそれを嵌め、裸の右手は、ゾルダートさんの左手にすっぽり握りこまれた。
「ありがと」
あったかい。
ゾルダートさんは、私の右腕の肘のあたりに引っかかっている腕輪をみて、「それは何だ?」と訊ねた。
「腕輪よ」
「そんなのは見りゃわかる。お前の?」
「ううん、オルステッドの。失くしちゃいけないから、ずっとつけてるの」
灰色の闇の奥から、ときおり、馬橇があらわれ、すれちがう。
鈴の音は、まるで雪片がふれあって鳴っているように聴こえた。
雪の向こうに、漆喰の剥げた二階建て三階建ての家並みを背に、火がちらつく通りがあった。
ぼろをまとった女たちが鉄鍋を火にかけ、「ラプシャーだよ、ヘラジカの脚の煮凝りに、熱い肝臓の細切れだよォ」と、声をはりあげている。
ゾルダートさんが顔をしかめた。
「あの鍋の中身は、すえた馬鈴薯に腐ったソーセージ、萎びたキャベツだ。料理屋の残飯をぶちこんだものだ」
「おいしいのかな」
「美味いわけねえだろ。犬の餌みてえな味だよ」
それでも、生前私が食べていた稗粥よりは、滋養がつきそうな餌だ。
女たちよりいっそう酷い身なりのものたちが、火のまわりを囲み、犬の餌をかっこんでいる。
買う金もないのか、寒さをこらえて足踏みをしている人たちが、ゾルダートさんと私に駆け寄ってきて、手をつきだし、施しを乞う。
私の手に嵌った大きな手袋を引き抜かれそうになり、身をよじると、ゾルダートさんは右手で腰の剣の柄を握るそぶりをして、彼らを追い払った。
凍りついた野っ原に、板や棒杭を打ちつけた粗末な小屋がいくつかあり、そのなかには、馬がいた。
小屋のかたわらで焚火をしている老爺に金を払い、「馬を借りるぞ」とゾルダートさんはどなり、私の腋の下に手を差し込んで抱き上げ、鞍に跨らせた。
小屋の中から、藁をかきわけて子供の顔がのぞいた。
私と同じくらいの年頃にみえ、笑みを向けると、笑顔が返ってきた。
後ろに跨ったゾルダートさんが手綱を握り、馬は歩き出した。
「この辺はウラジ広場といって、娼家、泥棒宿、脱獄囚の隠れ家、乞食の巣窟が
「貧しい人ばっかり?」
「ああ。農村育ちには、恐ろしいだろ」
「ううん。落ち着くよ」
「変なガキ……」
乞食に、私は親近感をおぼえる。
今世にパウロとゼニスの子として生まれ、貧窮と無縁の暮らしができたのは、奇蹟だった。
でも、本来なら、私はあちら側なはずなのだ。
だから、雪国の乞食に、仲間を見つけたような嬉しさを抱いた。
革手袋はゾルダートさんに借りたものだからあげられないけれど。
先ほど小屋から顔をのぞかせた子供も乞食なのだろうか。
「さっきのところは?」
「ジプシーの巣だ」
ジプシーという言葉は、以前にも聞いたことがあった。
ツィゴイネル、あるいはロマの家、と思い直し、ジプシーの巣という言葉を意識の外においやった。
あたしたち、野原で花になる
兄さん、あんたは黄色い花に
あたしは白い花になる
村で聞き覚えた俗謡を小さな声で歌うと、ゾルダートさんがハミングをあわせた。
ほどなく左に折れて、一つ橋を渡った。河より低い地帯であるのか、雪は泥とまじり、乗馬している馬の蹄が何度か埋まりかけた。
錯綜とした小路を、馬は駆け抜けた。道幅は大人が両手を広げれば両側の建物に届きそうな狭さで、そこに連なる家々は、壁が朽ち落ちた穴に板きれを打ちつけて風を防いでいた。
二階建ての建物の前で、ゾルダートさんは馬をとめた。
扉を開けると、中は濃い霧がかかったように、煙でぼんやりしていた。酒と莨と腐った食べ物のようなにおいも湯気といっしょにほとばしった。
「サンド、外に馬をとめてある。盗まれないように見張ってろ。ほら、早く行け」
ゾルダートさんに脅しつけられ、男が転がるように外に出てきた。
ゾルダートさんは、ちょっと入った場所で、莨の煙に目をしぱしぱさせている私を呼び寄せ、奥の木の扉に手をかけた。
顎髭の老人がコップをかかげ、にやりと笑った。
「女連れか、ゾル坊」
子供娼婦にしちゃ上玉だ、と私を松居棒のような腕で指した。
フードが外れ、顔をあらわにしていたことに、私は気づいた。
「こいつの父か兄がこの場にいたら、決闘を申し込まれてるところだぜ、爺さん」
「名誉を重んじるお貴族様の子が、こんな場所にくるか」
「騎士気どりか、ゾル坊」
嘲笑がさざ波のように広がり、ゾルダートさんはしらけた顔をして、奥の木の扉をあけた。
その先は明かりがなく、闇のなかに木の階段がぼんやりみえた。
二階にあがるのと地下におりるのとあり、ゾルダートさんは足音荒く、暗闇をかけ上っていった。
ついて行こうか迷ったが、家の廊下とも〈陽気な酒箒〉の階段とも雰囲気の異なる暗闇に気圧され、一階の酒屋で待つことにした。
「お嬢ちゃん、来な」
老人に膝に抱き乗せられ、戸惑った。
コップを口元に押しつけられ、中の液体が少し口にはいる。
「けくっ、」
喉が焼けるような味に、思わずむせた。
老人の腕は、右は手首から先がなく、布きれを幾重にも巻いていた。
「おじいさん、その手どうしたの」
「凍傷で腐り落ちたのさ」
五本指が揃ったほうの手が、腋の下をくすぐった。遊んでくれているのだと思い、くすくす笑っていられるうちはよかったが、そのうち、手が腿のあたりを這いはじめると、私はなんともいえない居心地の悪さを感じた。
老人の膝から降りようともがくが、暴れるほど押さえつける力は強くなった。
うまく言えないけれど、不安で、こわい。
「このあたりの淫売は、五十、六十の婆もいれば、十にもならないガキもいる。
「しらない」
「まて、俺にはわかる。このガキは、すでに男を知ってるぞ。そんな目をしてる」
「しらない!」
私の大声は、男たちを喜ばせただけであった。
躰を破壊される不快感を私は思い、しらない、と声をはりあげた。
目明きだったころ、羽目板の隙間から覗き見た、オカイチョウ*1をする姉しゃんと村の男は愉しそうに見えたのだが、私のときは異なったのだった。
乞食には親近感をおぼえるけれど、私を破壊した乞食への感情は、決めかねている。憎んだらいいのか、忘れたらいいのか……。
ドタドタ階段を下りてくる音がして、扉が開いた。
ゾルダートさんが老人と私の前に立ち、険しい顔で老人を見下ろした。
オルステッドには及ばないまでも、長身なので、不機嫌を纏って立っているだけで迫力がある。
胸の下に巻きついていた腕がゆるみ、私は老人の膝から解放された。
ゾルダートさんの腕にしがみつくようにして階段を上った。
「なんでちゃんと付いてこなかった」
「暗くてよく見えなかったもん」
「あぁ? ふざけんなよ」
目蓋のふちが濡れてくるのを感じ、ゾルダートさんから顔をそむけた。
ふてくされたように映るだろうか。
でも、ついて行くか訊かれ、頷いたのは私だから、涙が落ちるところを見られたくなかった。
二階は木賃宿であった。壁沿いに五尺ほどの高さに板が敷かれ、板の下は、六尺ごとに筵を垂らして部屋を区切っていた。
やせ衰えた老人や病人のような男たちが部屋に横たわり、あいたところで男たちが博奕に興じていた。
「行っちまった」
「警吏のスヴィは行っちまった」
「もう大丈夫だ」
「マルコのやつ、うまくまいたな」
数人の男がどやどやと階段をのぼってきた。
みんな、背中に大きい布包みを担いでいる。
床に包みを広げると、青貂の外套や銀狐の襟巻き、宝石を縫いつけた華美な服などがあらわれた。
無気力に雑魚寝していた男たちがやにわに起きなおり、服にむらがると、裁ち鋏で無造作に切り刻んだ。
一枚の外套がいくつもの帽子や丈の短い上着になり、宝石をはずされた服は、数着のほっそりした上着にかわる。
しかし、針を運ぶ男たちが身につけているのは、乞食とかわらぬ襤褸だ。
床に盛りあがった高貴な森に、私は心細かったのも忘れ、魅入った。
「あれは盗品だ、盗んだ奴をそのまま市場に出すと足がつく。
ああやって、バラして売ると証拠が残らねえ」
ゾルダートさんが教えてくれた。
高価そうな服が積み上がった山の下に、私は手巾をみつけた。レースにふちどられた手巾だ。
「どうした?」
「レースの編み方ね、村の教会で、友達と習ってたの」
ゾルダートさんと私は、二階から、さらに階段をのぼった。傾斜の急な階段だ。
私はよっぽど上段に手をついて上ろうと思ったけれど、埃で汚れた手で腕輪にさわってはいけないような気がしたので、やめた。
手燭に照らされた部屋は、梁のむきだしになった天井が斜めに傾斜した屋根裏であった。
床に山になった藁の上に毛皮が蟠っている。
安宿にはベッドがないから藁の中に潜って寝るのだ、と父様が言っていたのを思い出した。
「ま、荷物なんざほとんどねぇけど」
背嚢を担ぎ上げながらゾルダートさんが呟いた。
宿に寝具があるからだろう、毛皮は置いて行くようだ。
私は床に伏せて置かれていた真鍮の鍋に目をとめた。
「お鍋は? あれも持っていくの?」
「ああ、一応持ってくか」
「じゃあわたしが持つ」
私は鍋の取手をもって持ちあげ、再び伏せた。
ゾルダートさんを見上げる。
「ネズミが赤ちゃんのお世話してるよ」
「鼠に気ィ使ってんじゃねえよマヌケ」
「やん」
ゾルダートさんは私の頭を鷲掴んで揺らし、鍋をとりあげた。
鼠の親子は、母親を筆頭に、数珠つなぎに母や兄弟の尻尾を咥えて藁の中に逃げ隠れた。
私たちの都合で巣は取り上げてしまったけれど、猫に食われるときまで達者でね。
「ねえゾル坊や」
「〝ゾルダートくん〟な? クソガキ」
「ゾルダートさん……」
帰り道、馬上で話しかけると、食い気味に訂正された。
背後からの圧でなにを言いたかったのか忘れてしまった。
ゾル坊やも可愛らしいと思うのだが、本人はあまり呼ばれたくないようだ。
道中で、ゾルダートさんは革紐を一本買った。
「その腕輪よこせ」
「いやよ」
「取りゃしねえよ、すぐ返す」
そういう事ならいいけれど。
私の手首には大きな腕飾りを渡すと、ゾルダートさんは革紐に腕輪を通して紐の端同士を結びあわせた。
そして、首飾りにしたそれを私の首にかけた。
「わあ」
落とさないように用心しながら腕に通しているより、ずっと楽だ。ありがとう、と礼を言うと、ゾルダートさんはぽむぽむと私の頭を革手袋で撫でた。
「ただいま!」
宿までもどると、温かい部屋の中では、ナナホシがベッドに座り、膝に乗った猫を撫でていた。灰色で毛足の長い猫である。
我がもの顔でくつろいでいるから、宿に棲みついている猫なのだろう。
横に寝そべってみると、猫は私の脇腹をふみふみ揉んだ後、横にぴったりくっついて丸くなった。
その仕草に家で飼っていた雪白を思い出し、寂しさに襲われた。
何度視ても、雪白の行方は、母様と同じようにわからない。
「雪白……」
『ゆきしろ?』
あの黒い毛並みが懐かしく、手慰みにナナホシの黒い毛髪を両手でわしわし撫でる。
首をかしげるナナホシに、〈猫〉と〈かわいい〉という単語を教えてあげた。
カーリアンに留まって一旬。
私とナナホシは、ゾルダートさんに連れられて、冒険者ギルドに来ていた。
「らすたぐりずり」
「ああ、ラスターグリズリーの毛皮だ、おれのこの上着は」
ナナホシが言葉を喋れないことを知ると、ゾルダートさんは毎日のように冒険者ギルドや一階の料理屋や町の酒屋に、ナナホシを連れて顔を出すようになったのだ。
色んな奴に話しかけられたほうが憶えるだろ、とのことだ。
冒険者の人たちも、最初こそ「あの男(オルステッド)は一緒じゃないのか」「ゾルダートはこいつらと居て平気なのか」と私たちを胡乱な目で見ていたけれど、じきに馴れたようだ。
こちらを警戒しているふうだった冒険者の人たちと仲良くなりたくて、「家族と友達にはシンディって呼ばれてたの」などと色々と自分のことを喋っていたら、通称がシンディになった。
今は顔を合わせると、あれこれと構ってくれる。
言葉遣いや所作は粗暴だが、気のいい人たちばかりだ。
いまナナホシに話しかけているのは、ガルゥディア族のルーさん。
狼系の獣族のお姉さんである。出身はミリス大陸の大森林。
本名は別にあるそうなのだが、人間語話者には発音が難しい名前であるらしく、
武器は熊手の鉄爪がついた篭手だ。
体が頑強なので、パーティでは盾役を引き受けているらしい。
体中の至るところに傷があるけれど、凛々しい顔立ちのべっぴんさんである。
「ルーさんはどうして故郷を出たの?」
ラノア王国は大森林からとても離れた地点にある。
私が疑問をぶつけると、ルーさんは私を見て、おれは大森林の神に棄てられた者だ、と囁くような声で言った。
狼は神聖な生き物だ。
久米郡の貴布禰神社の境内にある
前世の私の村では蛇信仰が強かったが、本来オオカミの言葉は大神の義ともいわれ、盗難や害獣除けの神聖な動物なのだ。
それなのに、神に棄てられた……とは。
大日本帝国の外では、狼はありがたい獣ではないのだろうか。
彼女の中では、
「流れ歩くあいだに、いろいろな名で呼ばれた。
数ある名のひとつ、〝ルー〟のほうが、本名より覚えてもらいやすくて、気に入ったのだ」
「響きがかわいくて、すてきな名前よ」
「そうか?」
ルーさんは腰から生えたふさふさした尻尾を左右にふり、そーっと頭に手を伸ばしてきたナナホシに、三角の耳を倒して撫でやすいようにしてやっていた。
「よーぅ、いい子にしてたかぁ?」
外出していたゾルダートさんが戻った。
よほど良い事があったのか、ご機嫌だ。上機嫌のまま、私の両手をつかんで自分のブーツの上にたたせ、足踏みをした。
「へへ! えへへ!」
たのしい。
ルーさんがスンスン鼻を鳴らし、「娼館……いや、娼婦の自宅だな」と言った。
「鉛白の匂いがここまで匂ってくるぞ」
「マジ? あいつ、俺と会うときは化粧は落としてるんだぞ」
「日常的につけていれば、匂いは体に染みつくものだ。人族は鼻が悪いからな、わからんのも無理はない」
ゾルダートさんが自分の袖口の匂いを嗅ぎ、まったくわからん、と眉をしかめた。
「年中発情期の人族は苦労するな」
「なんて言い草だよ。発情期じゃなく恋って言え」
なあ? と、同意を求められる。
でも、恋と躰の交わりは切り離せぬものだ。
「恋とはつじょー期のちがいってなに?」
「恋っつうのは、男と女が愉しく愛しあうことだ。
発情期の獣や獣族は見た事あるか? たいてい決闘だのメスの取りあいだのでボロボロじゃねえか」
「うん」
「だろ? 恋は愉しいものだが、発情は、本能に追い立てられた苦しいものだ。わかったか?」
「たのしいと、苦しい……」
なるほど。ちょっと賢くなった気がする。
発情期って苦しい? とルーさんに訊くと、「体は火照るし、頭はぼんやりするし、その癖些細なことか鮮明に見えたりする。無ければいいのにと何度思ったか」と頷かれた。
「今日は冒険者のひと少ないね」
「ああ、はぐれ竜が……」
「出たのか!?」
眼を輝かせゾルダートさんが訊ねた。
「まだ確定ではありませんよ」と、湯気のたつコップを出しつつ答えたのは、受付嬢のユリアナさんだ。コップは人数分ある。
金は払ってないが、とルーさんが言うと、にっこり笑って「サービスです」と返ってきた。
「門番の兵士が、それらしい影と雪煙を見たというんです。偵察のために、町の冒険者は大半はそちらに行ってしまいました。ロッドナイツも、凍結のアリアも、ブラダマンテも」
「たかが偵察で? Aランクパーティが三つも?」
「少ないくらいですよぅ。今回は確認だけですけど、うっかりまともに遭遇したら、そのまま戦闘にもつれ込むんですから」
「ふーん」
「というか、ゾルダート、お前はCランクなんだから、討伐には参加できないだろう」
「いいだろ、話を聞くくらい。それに、俺はいまにSランクになるからな」
出された薬湯をフーフー冷ましながら飲むと、体がぽかぽかしてくる。
「ドラゴンだったら、私が倒すね」
顔をあげてそう言うと、ゾルダートさんとルーさん、ユリアナさんは顔を見合わせた。
ニヤニヤしながら、ゾルダートさんが私に訊ねる。
「へーえ? そりゃ頼もしいな、どうやって倒してくれるんだ?」
「んとね……こう、えいってして、ぱちんってする」
コップを置き、両手をパチンと合わせると、ナナホシを除いた三人は堪えきれないというふうに笑った。
きょとんとしていると、「ぱちんってするのは、つよーい冒険者の方々の仕事ですから」とくすくす笑いながらユリアナさんが言う。
「やっつけてあげるのに」
「冒険者に夢をみる子供は多い、シンディもその口か」
「シンディちゃんは冒険者より、ギルドで事務員になるほうが向いてるんじゃないかしら」
「話が逸れましたけど」と、困り顔をつくってユリアナさんは言った。
「はぐれ竜のせいで、頼もしい冒険者の方々がごそっといなくなって、町の雪かきが滞ってるんです」
「雪かきやる!」
やる!
はいはいと手をあげて立候補した。私も仕事がほしい。
「はい! 決まりですね。それ、飲み終わったら、お願いします!」
「げー……」
「ぐるる……」
ゾルダートさんとルーさんは揃っていやそうな顔をした。
カーリアンの雪かきは、特徴的である。
積雪をつき崩し、台車や籠に入れて、町の一所に運ぶ。
運んだ雪は、市庁舎前の広場に積む。そして、広場の中央にある魔道具を囲むかたちで、土饅頭状にかためる。
土まんじゅうならぬ、雪まんじゅうである。
集積した雪は、中央の魔道具でまとめて溶かす。ストーブみたいな形状の魔道具である。
カーリアンに限らず、魔法三大国の町や都市は、たいていこのやり方で除雪するらしい。
「よっと」
二往復目。雪を積んだ籠を背負って、人々の列に加わる。
ルーさんは雪を運搬する列の中にパーティの仲間を見つけ、そちらに行ってしまった。
ゾルダートさんは荷車いっぱいに雪をつみあげ、苦もなく押して運んでいる。
ナナホシは籠を前にかかえ、ちょっと重たそうに歩いている。
「シンディちゃん、その格好で雪かきたぁ、正気か!?」
「正気よう」
「ナナホシも薄着だし……ゾルダート、お前、妹分にはちゃんとあったかい格好させてやれよ」
「本人が平気だっつうなら別にいいだろ」
声をかけてきた屋根葺きの親方に、ゾルダートさんは煩わしそうに言い返す。
男の子が近づいてきて、すぽっと羊毛の帽子を被せてきた。
ナナホシにはマフラーを背伸びして巻いてあげている。
「ありがとうね、でも、ほんとに寒くないの、へいきよ」
「いいよ、使えって」
男の子は頬を紅くして、親方のもとに逃げ隠れた。
ひとめで好意を持たれたのだとわかり、嬉しさとむず痒さを同時に感じる。
「返しにいかなきゃ」
「やめとけ、やめとけ、頑なに断るのも、男の矜持を傷つける」
「そうなの?」
なら、雪かきが終わるまで、借りておこう。
「あとでお前らの防寒具も買いに行くか」
「うん」
外出のたびに、周りを心配させるのは悪いものね。
『ふう』
「ナナホシ、疲れた?」
「疲労困憊だなした」
「ひろ……こん……」
難解な語彙が飛び出してきて呆気にとられる。
私もオルステッドも教えた記憶のない言葉である。
「癒しがなきゃやってられねえよ」
「きゃあ」
ナナホシが莫連女*2になってしまった。
ゆくゆくは、家の金を持ち出して遊び歩き、借金で首がまわらず芸妓になり、遊女にされてしまうのだろうか。
いやいや、ナナホシに莫連の気はない。
周囲から聞き覚えた言葉を、そのまま使っているだけだ。
いまのは、きっと、疲れたら休みたい、って意味なのだろう。
ナナホシが抱えていた籠をゾルダートさんが押す荷車の上にドスッと置くと、ナナホシはほっと安心した顔になった。
「疲れたのか?」
「そうみたい」
「荷車に乗っていいぞ」
「ほんと!」
ナナホシを荷車の雪の上に座らせても、ゾルダートさんが押す荷車の速度はまったく落ちない。父様みたいに力持ちだ。
でも、周囲の人にくすくす笑われ、ナナホシは恥ずかしそうに荷車から降りてしまった。
小さな女の子が白い息を吐きながら近寄ってきて、「お姉ちゃん、こうするといいよ、楽だよ」と手ぬぐいを広げ、雪をつつんで持ち運んでみせた。
同じ年頃の少女は平然と運んでしまえる量でも、ナナホシには一抱えもある籠は重すぎたのだ。
彼女は手ぬぐいと、女の子と、私を見くらべ、
『私、そんなに非力……!?』
と、衝撃を受けた顔でつぶやいた。
落ち込んでいそうだったので、背中をぽんぽん叩いてあげた。
ギルドと宿の前の雪が大方なくなるころ、広場の雪まんじゅうもかなり大きくなっていた。
広場にルーさんを見つけ、駆け寄って声をかけた。
「ルーさん!」
「シンディか、元気だな」
「体力ならあるもの」
胸の前で片腕を曲げ、力こぶを強調する格好をする。力こぶはないけれど。
「これは、溶かすのも苦労しそうだな」
「A級の魔術師は全員町の外だろ? どうするんだろうな」
ルーさんと合流した私たちの横で、男が二人、雪を見あげて話していた。
私の出番だろうか。
杖を持っていないし、一人前の魔術師ではないが、魔力ならそこそこ多いほうだ。
雪を溶かすのに尽力できるかもしれない。
「行ってくるね」
「どこにだよ」
魔道具のほうに行こうとすると、ゾルダートさんに頭を掴んで止められた。
それと同時に、「おい、仕事だぞ、フェリム」と雪山の上から胴間声が飛んできた。
「へい!」
私たちの横を、少年が走って通りすぎた。
赤茶色の髪の、長い耳の先がつんと尖っている細身の少年だ。
彼は梯子を登って雪山の上に立つと、ひらりとその身を踊らせて中央の穴の中に飛び込んだ。
次の瞬間、もうもうと水蒸気が広場に立ちこめる。
視野が開けると、広場にあれだけ集まっていた雪はまるっと消えていた。
「おお!」
「すごーい」
圧巻の光景であった。拍手と歓声が広場に満ちる。私も拍手で讃えた。
広場の中心では、さっきの耳の長い少年が、魔道具に手をくっつけたまま、疲れたようにうずくまっていた。
やがて、彼を呼ぶ声に急き立てられるように立ち上がり、去っていった。
「今の、冒険者か?」とゾルダートさんがルーさんに問いかけた。
「わからないが、多分、違う」ルーさんが答えた。
「あの量をまとめて溶かしたのに、魔力が枯渇した様子もなかった。もし冒険者だったら、とうに有名になっているだろう」
「だよなぁ。もったいねえ……」
名残惜しそうに、ゾルダートさんは少年が去ったほうを眺めていた。
「まあ、いいか。シンディ、ナナホシ、お前ら体冷えただろ? 銭湯に連れていってやるよ」
「いいな、おれも行く」
「ああ、一緒に行こうぜ。こいつら初めてだろうし、面倒みてやってくれよ」
「わかった」
ギルドで雪かきの報酬を受けとり、ゾルダートさんは私たちを連れて銭湯に向かった。
異国のこの地に銭湯があるとは、思いがけないことだ。
いつも、湯に浸した布で体を拭くだけでがまんしていた。
前世の据え風呂を懐かしく思うことさえ忘れていた。
「たのしみ! 銭湯!」
「くるしい……」
『暑い……』
息がつまって、鼻の穴がちりちり焼ける。
私とナナホシは、たちまち、蒸し風呂から流し場に逃げ出した。
流し場も熱い湯気がたちこめていて、のんびりくつろぐどころでなかった。
異国の銭湯は、私の想像とまるで違った。これでは拷問だ。
蒸し風呂は板でかこまれた
熱せられたかまどの石が、風呂場内の空気をじゅうぶんすぎるほど暖めていた。
蒸し風呂の壁際に造りつけられた長椅子や、床上三尺の高さの板張りの段々に、人々は座り、あるいは寝そべり、汗を流すのだ。
かまどの石の上に柄杓で水をかけると、大量の蒸気が出る。
大きな石を土嚢状に積んだ隙間に小石がはいっているので、炎の舌がかまどの外に出ない。この竈を
富豪や貴族のための浴場は広々として豪奢だそうなのだが、ゾルダートさんが私たちをともなったのは、平民専用の木造平屋の銭湯で、人がごった返し、蒸し場も流し場も床の板が腐ってぬるぬるしている。
蒸し風呂は男用と女用で分かれていても、流し場の仕切りはない。
ナナホシは男女混合の流し場に出ることに抵抗があったようだけれど、かといって蒸し風呂にいるのも地獄の責め苦だ。
今はあきらめたように、流し場の縁台に腰かけている。
周りが裸で平然としていれば、ひらきなおって堂々とできるものだ。
「そんなんじゃ体が温まらないだろう」
「ゆ、許してください」
「何を?」
背の低い出入口から追って出てきたルーさんが、私とナナホシを連れ戻そうとする。
あれ以上あそこにいたら、蒸しまんじゅうになってしまう。
「馴れれば心地よく感じる」と励ましの言葉をかけ、ルーさんはナナホシを縁台にうつぶせにさせ、熱湯に浸してやわらかくした、白樺の小枝で作ったはたきで背を叩いた。
「あっちぃ、死ぬ……」
男用の蒸し風呂から出てきたゾルダートさんが、私たちの近くに寄ってきて、真っ赤な肌で床に座りこんだ。
ナナホシがさりげなく顔の位置を変え、ゾルダートさんの裸から目をそむけるのを見て、ルーさんがくすりと笑う。
ゾルダートさんは私を床に腹這いにさせ、同じく白樺のはたきで私の背中を打った。思いのほか痛いので驚いた。
そもそも、どうして打つの。
「どうしてぶつの」
「そりゃあ……あー、たしか、白樺には、病や悪霊を払う力があって、白樺の枝で打たれるほど健康になれる……らしいからだ」
「じゃあ仕方ないね……」
厄祓みたいなものか。
なら耐えなければ、と私は諦めて顔を伏せた。
「ゾルダート!」
女の人が近寄ってきて、ゾルダートさんにやわらかく抱きついた。
年頃は十八、九くらいだろうか。二人とも裸だけれど、あいだにただよう空気は淫猥ではなく、友達のような親しさだ。
「カノン、来てたのか」
「ええ。仕事の前に、一汗流したくて」
カノンさんというらしい彼女は、私に目線をよこし、「あなたが、シンディね」と笑顔をむけた。
「そうよ、でね、こっちの子が」
「待ってね、当てるわ。……わかった、ナナホシでしょ!」
「うん!」
いえーい、と言いながら手のひらを出された。
いえい! と返し、彼女の手のひらに自分の手をあわせて鳴らす。たのしい雰囲気の人だ。
「カノンさん、お仕事って何するの?」
「男の人をよろこばせるお仕事よ」
「へぇ」
それが何であるかわからないほど無垢でもないので、踏み込むのはやめた。
カノンさんは、うつぶせに寝た男の腰に乾いたはたきを乗せ、呪いをとなえながらはたきの上を斧でそっとたたいている骨接ぎ婆さんを指さし、「あの人が、わたしのおばあちゃん。腰痛を治しているのよ」と教えてくれた。
流し場には粗末な縁台がいくつも置かれ、裸の男や女が寝そべっている。その背中に、吸い
床屋が蛭をかるく火で焙ると、蛭は一瞬で逆向きに丸まって、ぽとりと客の背中から落ちる。床にはときどき蛭の死体が落ちていて、足元を見ていないと、ときどき踏んづけてしまうのだった。
菩提樹の靭皮製の垢すりで、体を擦らせているものもいる。
「妹もいるわ、ちょうど、あなたと同じくらい」
そう話しているあいだにも、たえまなく汗は流れる。
床を流していた少年が、そばに寄ってきた。大きい桶の水を私とゾルダートさんの頭からぶちまけた。
蒸しまんじゅうは心地よく冷えた。ぬるついた板の感触もいっときましになった。
「お前!」
片手で顔の水気を払ったゾルダートさんが三助の少年の顔をみて、声をあげた。
「広場で、雪を溶かしたやつだよな?」
「ここの三助だったのか、魔術師かと思ったが」
「魔術師だ」と、彼はゾルダートさんとルーさんに胸をはった。
「これでも、もとは
「戦士集団ぅ!?」
「……の、訓練兵だった」
「吸玉、やる?」とルーさんに訊き、彼女が首を横にふると、ルーさんの手からはたきをとり、寝な、とナナホシと入れ替わりで縁台にうつ伏せにさせ、背中をはたき始めた。
「俺は貧しい山岳地帯の出でさ、サザラスタ山ってわかる? あの辺の麓にある集落だよ、若者を兵士として売ることで生活が成り立ってるようなところなんだ。
そんで、俺は元々はただの牧童だったんだけど、魔術がちょっと使えたから、十歳のときに同じ村のやつらといっしょに売られた。考えられないよな。だって周りは十五とか、十六なのに、俺だけたったの十歳だったんだからさ」
「いまは幾つだ、なぜ三助になった?」
「十五さ。チビでひょろっこいから他の訓練兵に下に見られて、ムカついたから、契約ほっぽり出して逃げて、ここで下働きしてるんだ」
「長耳族なら、鍛えても細身なのは仕方がない」
「クォーターだよ。母ちゃんがハーフエルフ。俺は一度も会ったことないけど、祖母が長耳族だっていうよ。
そうだ、名乗ってなかったな。
俺の名前はフェリムファムール。フェリムって呼びなよ」
フェリムはしきりにルーさんに話しかける。
一目で好意をもったのだ。ちょっとほほえましい。
「魔術は使えるのか?」とゾルダートさんが訊ねた。
「ああ。火魔術なら中級まで、それ以外の属性は初級をいくつか」
「十分冒険者としてやっていけるんじゃねえの、三助じゃ休み無しで薄給だろ」
「考えたこともなかった」彼は目をぱちくりさせた。
「でも、できないや。杖は親方に取られてるし」
「フェリム!」床屋に呼びたてられ、少年は走っていき、床に流れた吸玉の血を洗いにかかる。水は床の穴から流れ落ちる。
ほかにも数人、十代の子供から二十半ばくらいまでの三助がいて、客の背中をはたきで打ったり、背中を流したりしている。
魔法三大国より東、小国が集まる地帯では、戦争や内乱のために戦士の需要が高い。
小国の戦闘にガログラスとして雇われるのは、牧羊と狩猟で暮らす山岳地帯の貧しい男たちが手っ取り早く生計をたて得る手段の一つである。
北方大地には、ガログラスの集団が幾つもあって、それぞれの統率者が、小国の領主や王様と契約している。
そんなゾルダートさんの説明を、カノンさんが持ってきてくれた薬草を煮出した汁で、髪や顔を洗いながら聞く。肌と髪がきれいになるらしい。
口に誤って入り、苦味とエグ味が口の中にひろがった。うえっと舌を出す。
「にが!」
「おれもこの匂いは苦手だ」
「ナナホシ、あんた髪洗うの下手っぴねえ、あたしがやってあげるわ」
「……」
カノンさんに放置されて面白くなさそうなゾルダートさんの横に移動する。
よしよし、私はちゃんとガログラスの説明聞いてたよ。
湯気でいままで気がつかなかったが、ゾルダートさんは傍らに革袋を置いていた。
私がオルステッドに渡され、ゾルダートさんに預けた財布である。
荷物なら脱衣場にある籠に預けられる。蒸し風呂はむんむんと熱いが、脱衣場は戸口から雪が吹き込んでくる中で服を脱いで裸にならねばならないので、辛かった。
私が脱衣場のほうに視線をやったとき、怒鳴り声、わめき声が、脱衣場のほうから聞こえた。
数人の男たちが寄ってたかって一人を押さえつけていた。
出口に近い柱に男は縛りつけられ、風呂番、三助、骨接ぎ婆、床屋、浴客、その場にいあわせた人々が、かわるがわる楽しそうに殴りつける。
「ゾルダートさん、あれなに?」
訊ねたときには、既に横に彼の姿はなく、あら? と思っていると、ルーさんが指さして居場所を教えてくれた。
「死ねオラァ!」
「もう殴りにいってる……!」
暴力をふるうのに躊躇はいっさい無いらしい。
集団暴力に嬉々として加わっていたゾルダートさんは、すっきりした顔でもどってきて、私に紐を通した腕輪を渡した。
「……?」
脱衣場に服といっしょに置いてきた腕輪である。
どうしてゾルダートさんが持っているのだろう。
「盗まれてたんだよ、板の間稼ぎには気をつけろよ」
湯気で熱いはずなのに、一気にからだが冷えた。
「とっ、取り返してくれて、ありがとう……」
あやうく、オルステッドに叩かれて、ぺしゃんこになるところだった。
私は革紐を首にかけて、腕輪をしっかり握った。板の間稼ぎが縛りつけられた柱に近寄り、カノンさんから白樺のはたきを借りて、板の間稼ぎの腕を重点的にバシバシ叩いた。
「もう!」
ほんとに、まったくもう!
服なら盗まれても許すけれど、腕輪はやめてほしい。
その後、真っ赤に蒸し上がりそうなナナホシに、水魔術で水をかけて冷やしてやる。
すると、私が魔術を使えるとは思っていなかったらしいゾルダートさんとルーさんに驚かれたり、無詠唱を珍しがられたりしながら、カノンさんとルーさんと別れ、私たちは帰路についた。
「銭湯病、銭湯病、切り株へ、丸太へ、冷水へ」
「?」
思い出したように唱えたゾルダートさんに、首をかしげる。
そういえば、銭湯から出る人たちも、同じことを唱えていた。
「病気をもらわないまじないだ。
どんなに用心しても、人は病にかかるし死ぬけどよ、気休めにはなるだろ」
「ナナホシはとくに、弱そうだしな」と、ゾルダートさんは、背負っているナナホシをちらりと見た。流し場の湯気でのぼせてしまったナナホシは、ぐったりと脱力した体をゾルダートさんの背中に任せている。
「銭湯病、銭湯病、切り株へ、丸太へ、冷水へ」
真似て呪文をとなえる。
その後でシソ送りの呪文もとなえると、ゾルダートさんに不思議そうな顔をされた。
カーリアンで過ごして一旬め。
毎日知らないことや、初めてのことばかりである。
北方大地にロシア式風呂があってもおかしくないよね。
【オリ種族】
ガルゥディア族
狼の獣族。アドルディアから分化した種族。
種族名の由来は、人狼を意味するフランス語ルー・ガルーから。
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