巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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更新頻度を高くしたいという気持ちだけはあります。
今話には後半にロリ百合要素があります。でもガールズラブが話のメインになることはありません。




二七 ニエット!

 木造の階段に、靴底の雪と泥が模様をつくっていた。

 なんだか顔のような模様を見つけ、他にもあるだろうかとじっくり眺めていたら、後ろから髪を引っ張られた。

 振り向くと、八歳くらいの男の子が私を見ている。

 彼は差配夫婦の次男で、名前はグリシャだ。

 

「ナフイって言ってみろ」

「や!」

「なんで?」

「やらしいから」

 

 中央大陸とミリス大陸の公用語は人間語だそうだけれど、土地が違えば言葉は少しづつ異なってくる。つまり、それぞれ方言みたいなものが産まれるのだ。

 知らない言葉を耳にする機会も、こちらに来てから増えた。

 

 グリシャは私に汚い言葉を言わせて喜びがちである。

 ナフイも意味は知らないが、たぶん綺麗じゃない言葉だ。

 

「どうやらしいの?」

「知らなーい」

 

 こういうのは適当にあしらうに限る。

 知らんぷりをして掃除を再開すると、床を泥のついた靴で踏みにじって、また汚された。

 

「もう!」

「へへっ」

 

 ゾルダートさんが居たらこんな事してこないのに。

 目付きが悪くて上背があり、剣を持っているゾルダートさんを、グリシャは畏敬している。

 一昨日なんて、俺も冒険者になる、と両親に駄々をこね、馬鹿なことを言うんじゃない、と頭に拳骨を落とされていた。

 

 冒険者は、身寄りのない者や傭兵、没落した貴族の子がなるものという扱いだ。貧しい家が、口減らしのために僅かな金と共に子供を冒険者に預け、冒険者として育てさせることもある。

 たまに、貴族社会に嫌気がさした貴族の子が冒険者を志す事もあるらしい。父様と母様みたいに。

 有名になれば、吟遊詩人によって長く語り継がれる。

 しかし、戦う相手は魔物なので、あっけなく死ぬ。

 

 一家が糊口をしのぐ余裕はあるうちは、冒険者になりたいという我が子の望みは許容できないという親心だ。

 

「新年おめでとうございますって言ってみ」

「新年おめでとうございます……?」

 

 すけべな意味ではなかったので、素直に復唱した。

 でも、年明けはまだ先だ。どういうことだろう。

 

「新年おめでとうございます。

 長寿と平穏と和の心。

 それにとこしえの幸いが授かりますよう祈ります。

 不幸と貧困が残らず家から出ていくために、

 恵みが訪れ来るよう祈ります」

 

 言われるままに繰り返す。

 

「何ももらえねえくせにー!」

 

 何が可笑しいのか、グリシャはケタケタ笑い、階段をどたばた下りていった。

 

「茶でも飲むかい?」

「飲むー!」

 

 階下からおかみさんに声をかけられ、掃除道具を片してからナナホシを呼び、共に下の食堂へ行った。

 北方大地の人たちは、湯を沸かすときは、サモワールという器具を使う。

 

 おかみさんはサモワールの中心に通った円筒に松ぼっくりを入れ、火をつけ、上に被せた革の長靴をふいご代わりにして空気を吹きこんだ。

 詠唱付きの火魔術より、おかみさんの方が、火をつける手際は早いかもしれない。

 

 この辺で飲まれる紅茶の茶葉は、ほとんどアスラからの輸入品だ。

 そうして濃く煮出した紅茶を、ジャムを舐めながら飲む。

 私には馴染みのない飲み方だ。

 

 用意してもらった紅茶が飲みやすい温度に冷めるのを待ちがてら、グリシャに教えられた呪文の意味を、おかみさんに訊いた。

 

「新年の挨拶だよ。ラノアでは、子供がその文句を唱えながら祖父母や親戚の家を訪ねて、贈り物をねだるのさ」

 

 この国に私の家族や親戚はいない。

 何ももらえない、と言われた意味がわかって、ちょっとしゅんとした。

 

「ラノアでは、大晦日に占いやる?」

「占い? 別にしないねえ……」

 

 母様と父様は生まれ育った国が異なるから、大晦日の思い出もそれぞれ違った。

 

 父様の国では、古い家の屋根から麦藁を引き抜いて占う。

 穂先に穀粒がついていれば翌年に幸運が訪れるという。

 屋根に登るなんて危ない、という母様の意見で、大晦日の占いは必ずミリス式であった。

 

 母様の国では、女の子の運命を占う。

 四角いテーブルを部屋の中央に置き、それぞれの角に、花冠、水を入れたコップ、純白のナプキン、パンを置く。

 女の子は目隠しをしてテーブルに近づき、最初に触れた物が運命を予告するというのだ。

 私が毎年、死を暗示する花冠か、涙を暗示する水ばかり選ぶので、母様には少し、リーリャにはとても心配された。

 

 大晦日に鱗のある魚料理を好んで食べるのは、アスラ王国もミリス神聖国も変わらないそうだ。

 鱗の数だけ家にお金が入るというまじないである。

 

「ナナホシ、お茶おいしい?」

「ん」

 

 (さじ)に乗った七竈の実のジャムを舐めていたナナホシは、こくんと頷いた。

 冬は果物が手に入らないから、秋のあいだに作られたジャムは貴重な甘味だ。

 

 コップを触る。

 いい感じにぬるくなっている。

 

「……」

「舐めたいの?」

 

 私とナナホシは宿の宿泊客だからジャムを振る舞われたけれど、グリシャに出されたのは紅茶のみ。

 羨ましそうに見てくるグリシャに、テーブルの上に乗り出して、匙の先を差しだした。

 

「はいっ、あーん」

 

 ぱしっと匙ごと取られた。

 一口で舐めとったグリシャの口のはたを、おかみさんがねじり上げる。

 

「いやしい事をするんじゃない!」

「だって、こいつがくれるって言った!」

 

 叱られるグリシャを眺めながら濃い紅茶を飲む。

 

「あんたも、何でもホイホイ従っちゃいけないよ。嫌なことは、ちゃんと、いいえ(ニエット)! と突っぱねられるようにね」

「はーい」

 

 甘いものは、舌がビックリしてしまうから、あまり得意ではない。

 だからグリシャにジャムをあげるのも嫌々ではなかったのだけれど、ニエットニエットと口慣れぬ言葉を私は口ずさむ。

 

 

 街路に面した扉が開き、男がふらふらと食堂に入ってきた。

 三十代くらいの男だ。目の焦点はあわず、表情もぼうっとしている。

 おかみさんが席をたち、台の上に山積みにしている黒パンを男に渡した。

 宿泊客は食べ放題のパンだ。黒パンはこの地域での主食で、白パンよりも硬くて、酸っぱい味がする。

 家では日常的に食べていたアスラン麦の白パンは、こちらではたまに食べるちょっといいご飯という扱いだ。

 

「倉、売った」

 

 彼は私のそばに来ると、囁くように言った。

 

「倉?」

 

 何の話かわからないでいると、「相手にするな」と差配の親父さんが不機嫌な声で言った。

 私に怒っているのではなかった。「麦角病にやられちまったんだ」と続けて説明した。

 商売に失敗し借金をかさね、飢えに耐えかねて麦角病の麦で作ったパンを口にし、病気になったという。

 拍車製造ギルドの長の次男で、家をついだ長男に面倒をみられているが、仕事もなくふらふらと町を歩き、度々こうして物乞いにくるそうだ。

 

「頭がおかしくなっても、自分の尻拭いで倉を売る羽目になったことを申しわけないと、それだけは忘れないんだよ」

 

 麦角病の麦を口にすると、頭がおかしくなったり、手足が落ちたりするのだと、麦を育てていたエトさん達がそう言っていた。

 村の産婆さんは、お産が長引いたときに麦角病の麦を妊婦に飲ませると良いのだと言っていた。子宮が収縮して赤ちゃんが産まれやすくなるのだという。

 麦角病は、黒パンの材料であるライ麦が罹りがちな病気である。ブエナ村で主に育てていた小麦は病に強いらしく、私には無縁な話であった。

 

 カーリアンまでの移動中、オルステッドは、北方大地は作物が育ちにくい、貧しい土壌ばかりだと教えてくれた。

 病気の麦を見つけた畑を丸々焼き払うことを躊躇われるくらいには、麦角病の麦を市場に流通させてしまうくらいには、貧しいのだと思う。

 私には無縁な麦角病の麦でも、この人にとっては無縁ではなかった。

 どうしようもなく腹が減って、害があるとわかりきった食物を口にしたのだ。

 飢餓は苦しい。私もよく知っている。

 

「これも飲んでいいよ」

 

 今まで遠ざかっていた貧困の苦しみを思い出し、私は飲みかけの紅茶のカップを差し出したが、男はそれを無視して暖炉にあたった。

 まもなく、彼の弟らしき人物が、おかみさんたちに詫びを入れ、あやすように、しかし力強く彼の肩を抱いて歩き、宿を去った。

 

 

 

 大晦日の夕方。

 ゾルダートさんが戻る頃であることは、先んじて視たので知っている。

 

「ナナホシ、ゾルダートさん帰ってくるよ。お出迎えしようね」

「? おうとも」

 

 煤払いの仕上げと言わんばかりに、角灯の硝子を丁寧に拭いてたナナホシに声をかける。

 年越し前の煤払いは、私たちが借りている部屋のみで済むのですぐに終わったのだった。

 

「オデムカエってどういう意味だ」

「おも、重いよ、グリシャ」

 

 後ろから覆いかぶさってきたグリシャの下でもがく。

「帰ってくる人をお外で待つことよ」と答えると、叩かれた。

 私より年嵩のグリシャは、ときどきワーシカより幼い。

 中身が幼いのはいいのだけれど、外見は大きいから対応しきれないときもあって、大変だ。

 

 ナナホシとグリシャを連れて宿の外に出る。

 ただ待つのに飽きたグリシャが橇を持ってきてくれたので、宿のすぐ横に積まれた雪の上を滑って遊んだ。

 もちろん、ときどき道を通る馬橇に撥ねられないように気をつけながらである。

 

「ゾルダートさん! ルーさん!」

 

 見えてきた人影に、ぴょんぴょん跳ねて声をかける。

 トイリーさんはいない。彼は狩ったラジアータフロッグを持って風呂頭の自宅に行き、軟膏を作っているのだ。

 

 ゾルダートさんはひらりと手を振り返してくれた。

 その歩き方はややぎこちない。右の膝に怪我をしているようだ。

 

「魔物と戦った!?」

 

 負傷に目をとめたグリシャが興奮気味に駆けより、ルーさんが持っている物に気づいて「ぎゃっ」と叫んだ。

 

「きゃあああ!?」

 

 ナナホシも悲鳴をあげた。腰を抜かさんばかりだ。

 

 ルーさんが掴んでいる荒れた金髪の先には、人の、いや、魔物の頭がぶら下がっていたのだ。

 蒼白な顔色に、緑色の生気のない眼。

 苦悶の表情ではなく、笑顔すら浮かべた不気味な形相。

 姿形が人間に近い人ならざるものが、狼女に討ち取られて、完全に沈黙していた。

 

「な、なに、なに、それ?」

「ん? ああ、ルサルカだ」

 

 人型の魔物は初めて見たナナホシが、人殺しを見たような目で訊ねる。

 私がゾルダートさんを送り出す前に視た魔物の名前は、ルサルカというらしい。

 

 二人は宿の料理屋に入り、ルーさんの持っているものを見た親父さんに「滅多なものを持ち込まんでくれ!」と悲鳴をあげられていた。

 

「心配するな。コレはあとで冒険者ギルドに渡す」

「大晦日は早く閉まるから、すぐ行ったほうがいいぜ」

 

 ゾルダートさんの言葉にルーさんは「わかってる」と頷き、「トイリーはどうしろと言っていたか……」と彼の足の怪我を眺めた。

 言われるままに私が運んできた椅子の上に、ゾルダートさんは踵をのせてズボンをたくし上げた。私は手で顔を覆い、指の隙間から患部を覗き見る。痛々しい傷だ。

 

「きもちわり……」

『モンスター……よね?』

 

 グリシャとナナホシの二人はこわごわと、テーブルに置かれたルサルカの首を眺めている。

 

「こりゃあ、ルサールカじゃねえか?」

「ルサルカといやあ、人を川に引きずり込むおっかねえ魔物だ。それを、倒したのか?」

 

 他のテーブルで飲んでいた楽師の男たちも興味深げによってきた。ゾルダートさんはフンと得意げにする。

 

「ああ、感謝しろよ。てめぇらが魔物の餌になる前に、俺らが、ルサルカの巣を壊滅させ……い゛っ」

 

 ルーさんが親父さんに渡された酒を傷口にバシャッとかけたので、得意げな顔は痛みに歪んだ。

 清潔な水が手元にないときは、酒で傷口を洗うと膿まないと母様が言っていた。

 活かす機会はないと思っていたが、思わぬところで実践しているところを目にした。

 

「すごいね、ゾルダートさんたち、魔物倒したの」

「だろ? すごいだろ?」

 

 ゾルダートさんは私の頭をわしゃわしゃと撫で、ルーさんに言った。

 

「なあ、俺たち、初めてにしては良いチームワークだったな」

「最後にお前がおれを庇わなければ、完璧だった」

 

 ルーさんはフッと笑ってそう言った。

 本気でゾルダートさんに非があるとは思っていないことがわかる、気安い雰囲気である。

 ふさふさの狼の尻尾も左右に揺れている。触ってみたいが我慢だ。

 うずうずする心を抑えつつ、ゾルダートさんの脚にそっと手を添えた。

 

「治してあげるね」

 

 翳した手の下で、淡緑色の光が患部を包みこんだ。

 抉れた筋繊維が修復されてゆき、血管が繋がり、獣の爪にやられたかのような傷が消えた。

 跡形もなく、という訳にはいかなかった。傷があった部位の皮膚が薄い……気がする。

 母様、シルフィ、ソーニャちゃんであれば、もっと綺麗に完璧に治しただろう。

 

治癒魔術(ヒーリング)もできるのか!?」

「できるよ!」

 

 へへんと胸をはる。

 おかみさんや料理屋にいた宿泊客、威張りんぼうなグリシャまで、私に驚嘆の目を向けていた。

 私程度の練度でも珍しがられ、感心され、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。

 

 そういえば、魔術って、無償で使っちゃいけないのだっけ。

 

「もう痛くない?」

「あ、ああ。すげえな、お前」

「よかったぁ。あとね、ゾルダートさん」

「あ?」

「治した対価ちょうだい」

 

 本心では何も欲しくはないのだが、真面目にそう言うと、どっと周囲に笑いが起こった。

 私は思わず周囲を見上げる。変なこと言ったかしら。

 楽師は琴を持つように、軽々と片腕で私を抱えた。頬ずりもされる。

 

「ふへぇ」

 

 髭。ヒゲがざりざり。

 頬をやすりで削られているようで参ってしまう。

 

「こんなに小さいのに、商魂逞しいな!」

「払えゾルダート。あの手際だと、銀貨一枚が相場だぞ」

「うっせ」

 

 頬ずりから逃れようと顔ごと逸らした視野に、ゾルダートさんのきまり悪そうな顔が映る。

 あれは知っている。「しまった。余計なこと教えちまった」の顔だ。

 小さい子が何か仕出かしたときに、村の男の子たちがあんな顔になりがちだ。

 

 顔をまじまじと見ていると、毛髪と同じ色の髭が頬や鼻の下に生えていることに気づく。

 朝剃っているところは何度か見ていたが、冒険中は剃らなかったのだろうか。

 きっと、この気候だと、剃刀もものすごく冷える。髭など処理している場合ではなくなってしまうのだ。

 

「いいか、治した礼はキチンとする。だが、今は手持ちがねえ。ルサルカ討伐の報酬だって、たいした額にはならねえだろう」

「えっ!?」

 

 驚いた声を上げたのは、私ではなくグリシャだ。

 

「魔物殺したのに! おととしも、ルサルカが出た。あのときは、町中大騒ぎだったのに」

「まず、依頼にすらなってなかった。たまたま巣を見つけただけだ。冒険者ギルドも把握していなかった。

 冒険者ギルドも、実際に被害が出て市民が困るまで、ルサルカの駆除なんて、緊急の依頼じゃねえって思ってんのさ。だから、倒しても大した報奨金は出ねえ」

 

 せちがらい商売である。

 魔物は人を見つければ襲いかかってくる恐ろしい存在だ。

 犠牲者が出る前に魔物を倒し、間接的に幾人もの命を救ったのに、見返りが少しとは。

 

「お金ないなら、別にいいよ?」

「俺は一度言ったことは曲げねえ。必ず払う。ただ少し待て」

「いらな……」

「返事は」

「ま、待ちます」

 

 人さし指でドスドスっとおでこを突かれながら返事をする。

 頬にくらっていたら絶対に痛い威力だ。

 

「シケてても、金は金だからな。現物持っていけば、門前払いにされることはないだろ」

 

 ゾルダートさんとルーさんは、来たときと同じように、禍々しいルサルカの髪を掴んで、冒険者ギルドへ向かった。

 彼らの他に、怖いもの見たさでルサルカの首を眺める人はいても、触ろうとする人はいなかった。

 やっぱり自力で倒すと、ある程度はへっちゃらになるのだろうか。倒した温羅を晒し首にしたばかりか、犬に喰わせた吉備の皇子みたいに。

 

 

 


 

 

 

  冬には、沈黙は眼で見うるものとなってそこにある。雪は沈黙なのである。

  可視的となった沈黙なのだ。

  天と地のあいだの空間は雪によって占められていて、天と地とはいまや雪を孕んだ沈黙の(へり)にすぎない。

  雪片は空中で出会い、一緒になって地上に落ちる。その地上も、静寂(しじま)のなかですでに白い。かくて、沈黙が沈黙に出会うのである。

 

『沈黙の世界』マックス・ピカート 佐野利勝訳

 

 

 


 

 

 

 小さい(マーリンキィ)ベリト七歳は、獣脂蠟燭の芯を入れた籠を提げて、宿屋やしもた屋の裏口の扉を叩く。

 庶民の必需品である蠟燭の芯は、作ったら作っただけ売れるけど、籠いっぱいの量が売れても、手に入るのはパンを一つ買えるだけの金だ。

 

 司祭館にいる婆さんは、裸足のベリトを哀れんで粥を一杯恵んでくれる。

 物売りや物乞いをするとき、裸足になれば実入りがいいことを経験者として教えてくれたのは〈姉ちゃん〉のカノンであった。

 雪の日、ベリトがせっせと蠟燭の芯を売り歩くあいだ、湯屋で骨接ぎをして働いている〈婆ちゃん(パーブシカ)〉は、靴を懐に入れてあたためておいてくれる。

 

 ごみ溜めに産み捨てられた赤ん坊だったころは、ベリトにも、ずいぶん高い値がついた。乳のみ子の相場は銀貨一枚。競り合ってもっと高い値がつくこともある。

 首尾よく乳のみ子を手に入れた女乞食は、ぼろでくるんで辻に立つ。元手以上に稼ぐまでは、死骸になっても抱きかかえて施しを強請する。

 三歳になると、大銅貨三枚に値がさがる。五歳になると大銅貨一枚。七歳のいまはいくらになるか知らない。同情を持たせる小ささだとは思うのだけれど。

 

 ベリトが五歳のとき、〈婆ちゃん〉はしなびた赤ん坊を手に入れた。

 赤ん坊の片足は、ねじれた飴のように曲がっていた。〈婆ちゃん〉がやったのだった。

 カノンとベリトにも、膝下と手首から肘にかけての腕に、不自然なでっぱりがある。物心つく前に、何度も〈処置〉をされたので、骨が変形してしまったのだった。

 

 赤ん坊はひわひわ弱い声で泣き、そのたびに、頭のてっぺんの割れ目を覆った皮膚が、へこへこ動いた。

 ベリトのほかは、誰も気づかない。赤ん坊の黒い口から蜘蛛の糸が伸び、ベリトの腕にからみつこうとしている事に。

 カノンが不在の時を狙って、ベリトは赤ん坊の口を塞ぎ、万感の思いを込めて膝で腹を踏みつけた。

 高い買い物だったのに、台無しにしてしまった。嘆く〈婆ちゃん〉の肩を抱き、あたしがその分稼ぐわ、おばあちゃん、とカノンは慰めたのだった。

 

 カーリアンの川べり、少しでも増水すれば水浸しになる貧民窟に建つあばら家に、〈婆ちゃん〉と〈姉ちゃん〉と三人、棲んでいる。

 

 カノンが連れてくる〈兄ちゃん〉はひんぱんに替わる。

 殴らない〈兄ちゃん〉であればラッキーだ。何人か前の元傭兵は、殴る〈兄ちゃん〉だったけれど、ゾルダート・ヘッケラーは殴らない〈兄ちゃん〉であった。

 名のない冒険者なので、物乞いや漂泊楽師(スコモローフ)と同じように市民権はないのだが。男であるというだけで、頼もしさは感じる。

 

 二人はあばら家の夜を、夫婦として過ごす。

 布で隔てられているけれど、声だけはどうにもならない。

 覗き見ると叱られるので、ベリトはパーブシカの横に潜り込む。懸命に目を瞑る。いつの間にか寝ている。

 

 

 ベリトが七歳の大晦日に〈兄ちゃん〉が来て、年越しの宴にカノンを招いた。パーブシカもベリトも来て良いと言われた。

 

 ゾルダートは足腰が弱くなってきたパーブシカを背負って歩いた。

 ベリトはカノンの外套にまつわりつき、魔物の爪に裂かれて赤黒く変色したゾルダートのズボンの裂け目に手を入れ、跳ねるようについて行った。

 

 宿屋〈陽気な酒箒〉で、大人が集まって飲み食いしていた。

 ベリトは年齢が近しい者を目で捜した。見つけた。美しい女の子。

 ベリトが見つけるのと同じくらいに、女の子もこちらに気づき、寄ってきた。

 

「ベリト、シンディちゃんよ」

 

 本名は、シンシア・グレイラットというのだと、シンディはベリトにこっそり教えた。

 あの子を連れて辻に立てば、きっと稼げるでしょうね。

 綺麗なだけじゃ、ダメだよ、哀れじゃなきゃ。思わず手を差しのべちまうほど。

 ゾルダートのいない時に、カノンとパーブシカの間で交わされた会話が、よみがえった。

 

 

 年越しの宴は、賑やかであった。

 狼女ルーに連れてこられた、魔石のついた杖を大事そうに抱えたフェリム少年。

 フェリムが冒険者になった祝いとして、スノーバックを丸々一頭、(そり)に載せて引きずってきたトイリー。彼に声をかけられ、運ぶのを手伝ったジョシュ。

 彼らが、続々と加わったからだ。

 

 おかみが、解体したスノーバックの心臓や血管から出した血を胃袋に詰め、血のソーセージを作った。

 血のソーセージは、地面に穴を掘って作った室に一日置き、発酵させてから食べるのだ。

 きっとベリトの口には入らない。あの子は食べられるのだと思うと、おかみの料理を明日以降も振る舞われる者は他にも居るというのに、彼女にのみ、羨望をおぼえた。

 

 宿の客と一緒になって酒を飲みかわす親父を放り、スノーバックの毛皮をはいで解体するおかみと長男に、パーブシカが協力した。

 

 頭蓋を割り、取り出した脳を皿に受けたのを、黒髪の少女が物珍しげに見ている。パーブシカは匙で脳を少し掬って少女の口に押し込んだ。

 近くで見ていたので、欲しがっていると思われたのだった。

 目を白黒させたナナホシに、シンディが訊ねた。

 

「おいし?」

「極めて美味なり」

「よかったね」

 

 外見に似合わぬ言葉をつかう黒髪の少女がおかしくて笑うと、「あの子ナナホシ。言葉は、いま覚えてる途中なの」とシンディが教えた。

 

「パーブシカ、あたしもちょうだい」ねだったベリトの口にも脳のかけらを入れる老婆の眼は、白く濁っている。

 しかし猫背の小さな老婆は、まるで目あきのように振る舞う。

 ふいに皺に紛れた額の線がひらき、中から紫色の眼が現れた。

 前ぶれなく覗いた目玉がキョロキョロ動くので、シンシアは腰を抜かして尻もちをついた。

 

「パーブシカは、マゾク。あんた知らない? マゾクだよ」

 

 驚いているシンシアの肩をつつき、今度はベリトが教えた。

 他の人にない特徴をもつ者をマゾクと呼ぶことは、誰に教えられるでもなく、知っていた。

 

 シンシアの口にも、脳みそがひと掬い入れられる。

 生の脳は、とろっとしていて、魚の白子のような味わいである。シンディはベリトに笑顔を向けた。

 

「でけえナイフだな、俺に持たせろ」

「お前も手伝ってくれるのかい。若いのに、感心だねえ」

 

 ゾルダートが、脛の骨から腱をはぎとり、大きな刃物で叩き割って髄を取り出した。

「兄ちゃん」腰に抱きつくと、腱のかけらを口に放り込まれる。

 

 シンシアとグリシャといっしょに店の中を走りまわる。

 グリシャは、大人がいないときに、股を見せろと脅してくるから嫌いだ。でも、いっしょに遊んでいると、さほど嫌な奴には見えなかった。

 

 こそ泥ジョシュは、カウンターの下に座り込んで、真剣な顔で足の骨をしゃぶっている。

 おこぼれをもらおうと擦り寄った猫に、気前よく髄のついた骨を分けてやっていた。

 シンシアが駆け寄って耳の瘡蓋に触れた。淡く光る。瘡蓋が剥がれ落ち、綺麗な皮膚が見えた。羨望。

 

 

 切り分けた生肉や大皿の料理を食べ、腹を満たした楽師が(グースリ)を奏で、ルサルカの歌をうたった。

 ルサルカは水のなかに住んでいる。溺れ死んだ娘が水の精ルサルカになる。

 北方のルサルカは凶悪で醜い老婆である。水死体のように肌は青白く、眼は邪悪な緑色、振り乱した髪、つつしみのない素っ裸で、人を掴んで水の中に引きずりこむ。

 迷惑ないたずらも仕掛ける。森にて突然土砂降りに襲われれば、あるいは漁師の網が破れたら、あるいは女たちの布や糸が盗まれたら、それはルサルカの仕業である。

 

 そういう内容のことを、楽師たちは美しい音色にのせて歌った。

 ベリトとシンシア、グリシャは、楽師の前に並んで座って聞いた。

 

「ミリスのルサルカは美しい」眠くなるような歌声で、楽師は続けた。

 ミリスのルサルカは、ヴィラと呼ばれて、月の光のように白く優雅である。軽やかな霧の衣を纏っている。

 昼間は川の深みにひそみ、夜になると上陸し、草地でダンスを踊る。もし、彼女たちの踊りを見てしまったら、すぐさま逃げなければならい。川の中へと誘われるからだ。

 

 ルサルカとヴィラの姉妹は、どちらも、生者を水の死に誘う。ルサルカは苦痛にみちた残酷な死をあたえ、ヴィラはやさしく官能にみちた死をあたえる。

 

 こっちは、河だよ。おいで。

 老婆のしわがれ声をだし、楽師はシンシアに手を伸べた。

 ベリトはいつか、河にいる。黒い波がうねる。照れ笑いを浮かべ、ルサルカの手から逃れたシンシアをベリトは抱きとめた。

 楽の音がやんだとき、夢想の世界から現実にかえった。

 楽師は暖炉に近いよい席を確保していたので、彼らのそばの床に座っていたベリトたちは、暖まった空気で頭がぼうっとしていた。

 

 聞き入っていた者たちは、楽師に金を投げてよこした。

 手前に座っていたベリトの頭にも、コツンと当たった。拾い集めるのを手伝おうと、手元の銅貨を拾った。

 

 頭に落雷のような衝撃が走り、ベリトは短く叫んでうずくまった。

 ベリトの身なりは、浮浪児より少しマシという程度だ。金を盗まれると思った楽師が、杖でベリトを打ち据えたのだった。

 

「何すんだよ、クソジジイ!」

 

 カノンの怒鳴り声が聞こえ、頭に触れる手もカノンのものだと思い、傍らに立つ温もりに体を預けた。

 スッと頭の痛みが引いた。顔を上げた。

 ベリトの頭に手を乗せて、傍らに立っているのは、シンシアだった。

 

「ぶたないでね」

 

 シンシア・グレイラットは。チサは。

 零落した蛇神様に呪われた蛇巫は、

 子供であっても、大の大人がたじろぐほど綺麗な顔をしている。

 幾度(いくど)流転輪廻しようと、そのように造られているからだ。

 

 楽師ににこっと微笑み、シンシアはベリトを食卓に連れて行き、大皿からスノーバックの唇を串に刺して炙ったものをベリトに渡した。

 痛かったことを忘れてかぶりつくベリトを、カノンが後ろから抱き寄せて頬ずりした。

 

「ルサルカ、哀しき水の精よ。やすらかに眠れ」

 

 湯で割った火酒の木ジョッキをかたむけ、フェリムに寄りかかっていた狼女が、朗々と歌い上げた。

 岡惚れ相手のしどけない姿に、フェリムは酒も回っていないのに頬を赤らめている。

 

「大森林には、死者が出るたびに哀悼歌を作り歌うのを職業とする者がいる」

 

 トイリーが、十歳を少し過ぎたように見える風采からは、予想外に落ち着きのある言葉を発した。「しかし、いいのか。魔物風情に」

 

「俺の先祖は、獣族だったというよ」楽師が答えた。

 

「だから知っている。戦闘の中で死んでいった者に、哀悼歌(キーン)は歌われるそうだ」

「ルサルカにも?」

「お前らと闘って死んだのだろう。歌ってやればいい」

 

 勇者よ。森で戦う者の生は、常に死と共にある。死は我らの親しい友だ。勇者よ、光溢るる常春の国エヴナにて、猛き翼を持った鷹、気高き白鳥、敏捷な牡鹿と戯れ、楽しき時を過ごせ。時きたらば、蘇り、地母神の子として生まれよ。

 

 楽の音はこころよく感情を支配する。曲によって快活にも暗鬱にも攻撃的にも感情を動かす。

 獣族の伝承である転生を謳う哀悼歌の余韻が漂うなか、楽師は北方大地で親しまれる楽しいメロディを奏でた。

 

 トイリーが口笛であわせた。他の者も歌いはじめた。フェリムが手拍子をとりながら踊り出し、こそ泥の少年ジョシュや少女娼婦カノンが加わった。

 ルーが微笑んでナナホシの手の甲に触れ、手拍子をあわせるように促した。

 酔っぱらった〈陽気な酒箒〉の男たちは、手を叩き、床を踏み鳴らし、大声で歌い、また訪れ来る新年を祝う。

 琴に手拍子が加わって歌はいっそう華やぎ、踊りの輪ができ、ベリトはなんだか楽しくなった。

 

 シンシアが席を降りるのを、ベリトは目の端に見た。

 ベリトは追い、グリシャも付いてこようとした。ベリトの顔が不快に歪むのを見て、シンシアはベリトの手を握り、片手で口元を押さえてくぐもった声で拒否した。

 

「ニエット!」

 

 かっと頬が血をさし、髪を掴んでこようとした手から逃れ、子供には重い扉をあけ、何段か高くなった玄関をおりて外に出た。外までは、グリシャは追ってこなかった。

 

 曇った夜空は、吐息のように淡雪をふり零した。

 大晦日は、どの家も、窓の鎧戸から明かりが漏れ出ている。

 

 漏れ出た明かりを頼りに、シンシアは山と積まれた白い雪をひとかけら取り、口に入れた。

 口の中の熱で融け、吐き出された水は、血混じりであった。

 

 シンシアは唇の端を引っ張って、歯並びを見せた。

 上顎の前歯のあるべき部分に、ぽっかりとした虚がひとつあった。

 

「骨かじってたら、抜けたの。前からグラグラしてた歯」

「あたしなんて、もう三本取れた」

「奥歯も?」

 

 ベリトはシンシアの指を口に入れた。

 自分と同じくらい短い指が口内をさぐり、生えかけた奥歯を撫でる感触は、不快ではなかった。

 シンシアはもう一度雪を口にふくみ、吐いた。

 

「血、止まるまでここにいる?」

「うん。いっしょにいようよ」

 

 ベリトはシンシアにくっつき、腕を抱き込んだ。

 うふ、と笑う声のあと、冷えた手が首元に忍び入るのに、ベリトも身をよじって笑った。

 

「ベリト、楽しい?」

「楽しい」

「私も楽しい」

 

 あたしたちだけ、静かな場所に取り残されてる。

 歌声が響く宿を背に、ベリトはシンシアとしゃがんでそんな事を思った。

 あわさった手から互いの温もりが伝わり、奇妙な昏迷を、ベリトは感じた。あたしがこの子で、この子があたし。

 二人でひとつの生き物になったみたい。

 

「でも、楽しいところにいると、たまに苦しくなるよ。ベリト、そうなったこと、ない?」

 

 ベリトは首を振った。

 飢えと寒さのみが、苦しいのだ。どうして楽しいのに苦しくなる事があろうか。あたしにはわからない。

 同じだと思ったのに。根底の繋がりを、相手の方から断ち切られた。

 かすかな落胆を露骨に表情にあらわすには、ベリトは苦労を重ねすぎていた。

 

「あんた綺麗なのに、頭は変なんだ」

「うん。変になっちゃったみたい。前は、そうじゃなかったのに」

 

 Survivor's(サバイバーズ) guilt(ギルト)

 ある世界のある時代では、シンシアの感情は、そう定義されている。災害や戦争、事故の生存者が、己が生き延びたことに対して持つ罪悪感である。

 世界や時代を跨ごうと、人の性質は変わらない。名前のない罪の意識に苦しめられている者は、どこであっても存在したが、この世界、この時代においては、適切なケアは望むべくもないのだった。

 

 でも、〈姉ちゃん〉が、どうやって〈兄ちゃん〉を慰めるのか、ベリトは知っている。ベリトはシンシアと口をあわせた。

 舌先で向かい歯の空洞をつついた。小さいやわらかい戯れだ。仔犬のような舌同士がふれあい、恍惚とした快楽を生んだ。

 ベリトとシンシアは、ほとんど同時に戯れを解き、宿に入った。

 

 

 歌と踊りは、終わっていた。

 思うがまま騒いだ後の、心地よい倦怠感が漂っていた。

 

 シンシアの手に握っている乳歯に目をとめ、グリシャが厨房にある鼠の巣に引っ張って連れていった。抜け落ちた歯を鼠の巣穴に放り込むと、丈夫な歯が生えてくるという迷信だ。

 ベリトは長椅子に座り、パーブシカの硬い膝に頭をあずけた。舌先に生まれた甘美な感覚を思い出していると、瞼が重たくなってくる。

 

 一方、フェリムは惚れ惚れとナナホシを眺めていた。

 ほんのり赤みのさした頬で、酒の注がれたジョッキを両手で持ち、ルーの肩に頭をもたせかけてくつろいでいるナナホシは、たいそう愛らしく思えた。

 

「牧童だったらしいな」肩を叩く手があった。差配夫婦の長男イリヤだ。十八歳。

 

「あれはマジの話なのか」

「何が」

 

 イリヤはニヤニヤ笑い、卑猥なジェスチャーをしてみせた。

 

「牧童は、女とする代わりに羊の臀で」

 

 振り向きざま、フェリムはイリヤの腹に拳を叩き込んだ。

 呻いて一瞬かがんだが、イリヤはすぐさま、フェリムの首根っこを掴もうとした。フェリムはすばやく避ける。

 ナナホシとルー。二人の娘が、みなまで聞いていないことを願った。気を抜いたため、イリヤに頭を鷲掴みにされた。洗濯屋で汚れ物を沈めた大鍋を毎日かき回しているだけあって、腕力は馬鹿にならない。引きずり倒されそうになるのを、両腕をつかんだ。

 

「やめろ」呂律もあやしく割って入ったゾルダートの鼻柱に、フェリムの手を振り払ったイリヤの肘がもろに当たった。

 顔を押さえたゾルダートの指の間から血がしたたった。

 血まみれの手で、ゾルダートは掴みかかる。しかし相手を間違え、フェリムを襲った。

 

「喧嘩!」

「喧嘩だ!」

 

 嬉しそうにジョシュとグリシャが寄ってきた。

 三人は見物の的となった。ゾルダートがなぜ自分に向かってくるのかわからず困惑しているうちに、フェリムは足払いをかけられ、床に転がされた。

 

「てめぇは引っ込んでろ」

 

 追撃をかけようとするイリヤをも、ゾルダートは潰した。

 突き飛ばされたイリヤは、頭を酒樽にぶつけ、戦意を喪失した。

 床から跳ね起き、突進してくるフェリムの襲撃をかわし、ゾルダートは「雌猫野郎(コーシカ)!」と挑発した。

 

「かかってこいよ、お前がどこまで粘れるか、見てやる」

「畜生!」

 

 フェリムはがむしゃらにゾルダートに殴りかかった。

「剣士と魔術師の一騎討ちだな」ひときわ嬉しそうな声をあげたのはルーだ。「ただし、素手」

 

「ゾルダート、手加減するな。賭けにならねえだろうが」

「剣を使え」

「杖も持たせるか」

 

 飛ぶ野次をさえぎり、「冗談じゃない。死んじまったらどうするのさ」おかみが逞しい腕でテーブルを叩いた。

 フェリムが潰れた後も、破天荒な若き冒険者に、酔った男どもは次々挑みかかる。

 北方の大男たち――細身なのも居るが――の喧嘩は、見応えがある。ナナホシおよび四人の子供たちは、忍び寄っていた眠気も忘れて見物した。

 

「あまり近づきすぎるな。吹き飛ばされるぞ」

 

 子供たちが巻き込まれないように気を配っていたトイリーは、ふと、騒擾のなかにあえかな鐘の音色をきいた。

 新年を報せる鐘だ。旧年が終わり、新たな年が始まるのだ。

 鎧窓を開ける。夜明けが来ても、太陽は、厚い雲に隠されて視認はできないだろう。

 わだかまった熱気が逃げ、吹き込んだ冷気は、上気した人々の体をここちよく冷やした。

 

「新年おめでとう!」

「おめでとう!」

 

 拳を振り上げ、ウォッカを呷る人をかきわけ、ゾルダートはシンシアを抱きあげた。血と汗と埃に汚れた顔で、シンシアに頬ずりした。

 

「ちいせえなあ、お前はぁ」

「うふ」

「もうちょっとデカくなったらよぉ、お前、冒険者になれよ。そんで、俺んところで、治癒術師(ヒーラー)になったら、いいんだ。オルステッドって奴のとこにいるより、ぜってぇ楽しいぜ」

「いいよ、怪我治してあげるね」

 

 シンシアは裂けた唇のはたに触れ、傷を治した。額にゾルダートの唇が押しつけられる。与えられた親愛に、シンシアは同じ仕草を返した。

 酩酊していたゾルダートは、うとうとしているナナホシの腿を枕にして、無防備に長椅子に寝そべった。

 娼婦カノンは上に跨ろうか考えて、やめた。シンシアの頬を舐めていたベリトを抱いて膝にのせた。

 

「ベリト、次はいつ来る?」

「わかんない」

「また遊びにきてね」

「行くよ」

 

 ベリトは手を差し伸べた。栄養不足ででこぼこした爪のついた指先を、月の光のように美しい童女シンシアは、そっと握り、微笑した。

 

 

 

 甲龍歴418年。

 ルーデウス・グレイラットは、魔大陸の荒野にて、朝日を浴びて伸びをした。眠たい眼をこすりながらエリスを揺り起こす。成長痛を訴える膝をとんとん拳で叩く。

 パウロ・グレイラットは、体調を崩し、嘔吐する愛娘ノルンの背をさすっている。フィットア領への帰還を前に、事の悲惨さが薄々わかってきている。普段は見向きもしない神にも祈る心地だ。

 リーリャとアイシャは、王族の晩餐で出された料理の残りをつまんでいる。既に冷めた軍鶏の腿を、リーリャは幼児に食べやすいようにちぎり、アイシャの口におしこむ。アイシャは笑顔になる。

 ゼニスは××の深部で停止している。巨大な結晶の傍に、かつて彼女の娘に可愛がられていた黒猫がよりそっている。魔力によって肉体が変容したため、飲まず食わずでも生きている。守護者である多頭の竜は、ちっぽけな小動物には敵意を持たない。

 

 

 雪白は顔を結晶にこすりつけ、一声鳴いた。

 小さな娘が迎えにくるのを、いつまでも待っている。

 

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