巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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次回でゾルダート編終わりです。


二八 ヒョンナゲ日和

 早いもので、カーリアンに来てから二月が経過した。

 ナナホシもたくさん喋れるようになってきた。

 口調は男のようだが、そんなのは後で治せばいい。まず喋れるようになることが大事なのだ。

 

 フェリムはランク上げのために頑張っている。

 正式にパーティを組めるのは、リーダーの上下1ランクまでだそうだ。

 ランクというのは冒険者としての優劣のことだ。Sが最高でABCDFと続く。ギルドで受けられる仕事もランクによって変わる。

 ゾルダートさんはC級。フェリムが新人さんなのでF。

 だから、フェリムがDランクに昇級するまでは、彼はゾルダートさんと一緒に迷宮に潜ったり魔物を倒したりすることができないらしい。

 

 今の時期は雪かきの自由依頼ばかりで、生活が楽になるほどの収入を得るのは大変らしい。

 食費が苦しいときはゾルダートさんの奢りで、下の料理屋で夕食を一緒に食べる。

 ご飯は大勢で食べたほうが美味しいから大歓迎である。

 

 友達も増えた。

 カノンさんの妹で、同じ年の女の子、ベリトだ。

 

 ベリトは愛らしい女の子だ。

 眉のきりっとした(きつ)い顔をしていて、青い目が私とおそろい。

 よく口にキスをしてくる。頬や耳を舐められもするが、嫌ではない。

 これがベリトの人と仲を深めるやり方なのだ。そう思い至れば、気にもならなくなった。

 

 今日は宿屋の裏手で大縄跳びをして遊んでいる。

 いっしょに遊ぶのはグリシャや近所の子供たちだ。

 四から八歳の男女混合で、たぶん十人以上いるのではないか。全員の名前は知らないが、知らなくても問題ない。

 話しかけたければ「ねえ」と言えばいいのだし。

 

「大丈夫、引っかかってもいいのよ」

「……」

 

 凍てついた地面を打つホップの蔓を前に、怖気付いている女の子を励ます。

 今、今! と、周りの子が声がけをしているものの、きっかけを掴むのが難しいようだ。

 私は女の子の背中を押し、促した。その子が飛んだあとに間髪入れず私も入ってピョンと飛び、次に蔓が足元にくる前に抜ける。

 

「すごいね、跳べたね」

「う、うん!」

 

 女の子は嬉しそうに私を振り返り、私も嬉しくなる。

 蔓の端は木の幹に結び付けられていて、もう一端はナナホシが持ってまわしているのだ。

 

「ベリト!」

 

 籠を提げて小路を歩いてきた女の子――ベリトに声をかけ、大縄の輪から抜ける。

 ベリトは私に手を振り返すと、宿の壁に寄りかかって立っていたゾルダートさんと、彼と話していたトイリーさんに、籠を突き出した。

 二人は残り少なくなっていた獣脂蠟燭の芯を残らず買い取る。

 ベリトは「神さまのご加護がありますように」と二人のために祈ってみせた。

 

「どうした?」

「疲れちゃった」

 

 私はゾルダートさんの腰にしがみつき、体重を預けた。

 ベリトはふぅと息をついてゾルダートさんの靴の上に座る。

 

「懐かれてるじゃないか、ゾルダート」

「止まり木だと思われてるの間違いだろ」

 

 止まり木にしては、腰の剣が邪魔である。

 飾りっけのない柄頭を握ってみると「手ェ斬るぞ」と注意された。

 

 ベリトの凍傷になりかけた足を治すためにゾルダートさんから離れる。

 お金を貰わなければいけないらしいが、ベリトは仲良しの友達だから特別だ。ゾルダートさんも、見て見ぬふりをしてくれる。

 

 大縄跳びをやめた子供たちが、わらわらゾルダートさんの周囲に集まってきた。

 太い木の枝を持った男の子が、頬を紅潮させ、「やあああ!」とかけ声を上げて襲いかかる。

 父様の素振りに比べると、太刀筋がへにょっとしている。

 私自身は剣術を習ったことはないけれど、素人目にも、父様の素振りと彼らの攻撃では、剣のキレが雲泥の差であることはわかる。

 へにょっとした剣撃を、ゾルダートさんはおちょくるように躱した。

 

「何人でもかかってこいやコラァ!」

「りゃあああ!」

「剣をつかえー!」

「俺たちを舐めるなー!」

 

 果敢に挑んでくる子供らを相手取るゾルダートさんであるが、剣は抜かない。

 おもちゃじゃなくて、真剣だものね。うっかり当たったら大変だ。

 

「何してたの」

「長なわよ。ベリトもやる?」

「やる」

 

 剣士ごっこに取り残された女の子たちは、ベリトも交えて縄跳びを再開する。

 ベリトは凍傷の治った足を靴に入れ、トントンとつま先で地面を叩くと、怖気ずにパッと蔓の中に走っていって跳んだ。

 

「横入りしないでよ」

「……」

 

 不満そうに声をかけられても、ベリトはまるでそよ風に吹かれたというふうだ。

 ベリトは、遊びに誘うと仲間に入りはするけれど、私や優しい大人以外とはあまり喋らない。たくさん喋るとくたびれるのだと言う。

 

 喧嘩になりそうなベリトと女の子の仲裁に入ろうとしたとき、空の厚い雲の裏が、青白く光った。

 何秒か後に、空がひび割れるような轟音も鳴る。

 

「わあ!」

「……!」

 

 ベリトがびっくりした顔で抱きついてきた。

 稲妻だ。音源は離れてこそいるが、かなり大きい。

 

「冬でも、雷って鳴るの?」

「たまにある。雪と一緒に落ちてくるぞ」

 

 ゾルダートさんは空を見上げた。

 少し先の天候を視る。たしかに、雷雨ならぬ雷雪になるようだ。

 

 一緒に遊んでいた子供たちは、親や兄姉の迎えがきて、一人二人と家に帰っていく。

 

「坊ちゃん、帰りますよ」

「やだぁ、まだ遊ぶ!」

「んなこと言ったって、(かしら)……ヨナタンさんから連れ帰るよう頼まれちまったんで」

 

 フェリムも来た。不満顔の男の子を抱えあげる彼に、ゾルダートさんが話しかける。

 

「よう、フェリム。まだ元上司にこき使われてんのか」

「ああ。でも、前と違って、ただ働きじゃないのはいいよ。

 坊ちゃんの送り迎えなんて、三助のときはやって当然だったのに、今は駄賃もらえるからな」

 

 あの男の子は、銭湯の風呂頭の息子であったらしい。

 少し前に病気になっていた子だ。治ったという話はトイリーさんから聞いていた。あの様子ならかなり元気そうである。

 

「気をつけろ。三助より稼げても、冒険者は……」

「わかってるってー!」

 

 愛想良く笑い、フェリムは男の子を抱えて走っていった。

 トイリーさんはやれやれという感じでちょっと眉を下げた。

 

 空の雷樹が枝を四方に伸ばし、ゴロゴロと不穏な音が響く。

 ナナホシがホップの蔓を小さくまとめ、持ち主の女の子に返してから、たたっとこっちに駆けてきた。

 

「ナナホシ、あれね、イナズマって言うのよ」

「承知済み」

「そっかぁ」

 

 知ってたらしい。誰か教えたのかな。

 

「つぎ、どこで光る?」

「え?」

 

 ベリトに訊かれ、私は困った。

 

「どこに落ちる?」

「んと……」

 

 そんな正確にわかるかな。

 トウビョウ様に視てもらおうと目を瞑り集中するが、「はやく。わかるでしょ、あんたなら」とベリトにゆさゆさ揺さぶられて気が散ってしまう。

 

 頭にぽんと手を置かれた。トイリーさんだ。

 

「私が当ててみよう」

 

 トイリーさんが空を見上げて佇んだ。

「そこだ」と遠目に見える教会の尖塔の上あたりを指さした。

 直後、予言の通りに空がピカッと光る。

 

「すごい! なんでわかったの?」

 

 教えて教えてとベリトとせがむと、トイリーさんは微笑み、「私はミグルド族だ」と話し始めた。

 

「ミグルド族は、声を使わずに言葉のやりとりをする。念話といって、頭に直接言葉を届けるんだ」

「……??」

 

 どういうこっちゃ。

 トウビョウ様の託宣を受けるとき、絵が見えるのと同じ感じだろうか。

 

「例えば、……」

 

 トイリーさんは黙り込んだ。

 口を閉ざし、じっと私の胸元を見つめている。

 話の続きはどこへ行ったのだろう。例えば、の次は、なに? 

 

「その首に提げている腕輪が綺麗だな、と言ったんだが、わかったかい?」

「ううん、聞こえなかった」

「うん、何にも言ってなかったもん」

「口では言ってない。頭の中で念じただけだからね」

 

 ベリトと顔を見合わせる。

 

「言わないとわからないよ?」

「それが、わかるんだ。相手がミグルド族ならば」

 

 きょとんとする私とベリトに、トイリーさんは続けた。

 

「顔を合わせて念話をするとき、よく注意すると、光る線を自分と相手のあいだに見ることができる。

 空も同じだ。よく見ると、ジグザグとした光の線が走っている」

 

 こう、という時、トイリーさんは宙に指でジグザグ線を描いた。線は上から下に伸びているみたいだ。

 

「原理はわからないが、これが地上に近づいたとき、雷になるらしい」

 

 ほら、と言って指さした西の空に雷樹が立つ。

 トイリーさんの真っ青な髪が、白光に照って、一瞬だけ緑色に見えた。

 

「へーぇ。じゃ、雷が何か言ってるってのか。ミグルド族でその電撃を使って会話してるっつうなら、雷とも話せるんだろ?」

 

 ゾルダートさんが言った。私はにやけて彼を見あげた。

 雷神は稲妻を落とすだけの存在で、人に関心を持たない。ましてや話すことはできないのに。

 世間擦れしているようでいて、妙に可愛らしいところもある。

 

「なにが可笑しい、おいコラ、答えろよ」

「やん」

 

 ゾルダートさんに連続でおでこをつつかれた。

 ナナホシに抱きついて追撃を逃れる。

 

「私に雷が落ちてきたら、雷の念じていることがわかるかもな。私がそのとき死んでいなければ」

 

 ゾルダートさんを笑わず、トイリーさんは真面目に返した。

 トイリーさんはゾルダートさんの言うことを否定しなかった。

 ということは、つまり、何でもできないと思い込むのはよくないのだ。反省しよう。

 

「ゾルダートさん、バカにしてごめんね」

「やっぱ馬鹿にしてやがったかコイツ」

「あう」

 

 もう一回おでこを弾かれた。

 ゾルダートさんはトイリーさんに向き直る。

 

「その雷の前兆は、ミグルド族にしか見えねぇの?」

「ああ。……いや、昔助けられたスペルド族の男も、見えると言っていた。彼らは額に第三の目があるから――」

「……スペルド族ってマジでいるのか?」

「兄ちゃんこわいの?」

「ゾルダートさんこわいの?」

「スペルド族。聞いた。悪魔のごとき種族なり」

「だぁ! うるせえ!」

 

 ベリト、私、ナナホシに口を挟まれ、ゾルダートさんは盛大に顔を顰めた。トイリーさんは苦笑した。

 

「何百年も昔の暴虐を今も悔いているような人だった。会ってもあまり怖がらないでやってくれ」

「へっ、最初っからビビってなんてねぇよ」

「ふふ……。話を戻すが、空のあれは、落雷に先行する弱い電撃だから、先駆雷撃(ステップトリーダー)という」

 

 弱いの? ベリトが訊ねた。

 

「ああ、弱い。人の眼に見えない、幽かな光だ。しかし、ステップトリーダー無くして、霹靂(サンダーボルト)が起きることはない」

 

 パッと雷が枝を四方に広げた。空が轟く。吹雪いてきた。

 一緒に遊んでいた子供たちは、ベリト以外、迎えが来て帰っていた。私たちはトイリーさんと別れ、宿に引き返した。

 ベリトは家に誰もいないというし、家も離れているので、私たちの部屋に留まる。

 

「じゃあ、ベリト今日お泊まり!?」

「ああ。夜まで吹雪が止まなけりゃな」

「やった! お泊まり!」

「まだそうと決まってないからな、俺の話聞いてるか?」

 

 聞いてる。

 雪は今夜はやまないし、カノンさんも迎えに来ない。視たから知っている。

 普段は日が暮れたら別れる友達と夜もいっしょに過ごせるのは、特別感があって楽しい。

 くるくる回って喜んでいたら、差配夫婦にバレたら追加で宿泊代をせびられる、静かにしろ、と頭を掴んで止められた。

 

 差配の目を盗み、上着にくるんだベリトをゾルダートさんが抱えてコソコソ部屋に上がる。

 部屋に入り、パタンと扉が閉ざされたとき、私とベリトは互いの手を叩いて喜びあった。

 

 

 

 雪なんてかわいいもんじゃない、降っているのは細かな氷塊だ、と、外から帰った楽師は言った。赤く(かじか)み、ナナホシのスカートの下に忍び込もうとした手を、ゾルダートさんが叩き落とし、喧嘩になった。

 初期こそ喧嘩が起こる度に身の置きどころを迷っていたナナホシは、すっかり慣れた顔だ。我関せずで、食後の濃い紅茶をふうふう冷ましつつ飲んでいた。

 

 夕食を終え、スープを注いだ椀と黒パンを持って部屋に上がると、一人で待っていたベリトがナナホシにまつわりつく。

 横殴りの風も強いらしく、ビュウビュウと激しい風の呼吸にあわせ、壁は撓んだ。

 ナナホシが薪をくべ足し、私は桶に湯を張り、目の細かい櫛でベリトの髪を梳かして虱を退治してやっていた。

 扉がいきなり開けられ、私とベリトはぎくっとした。

 

「ゾルダートよう、ここも、不味いかもしれねえぞ。補強を手伝え」

 

 顔を出したのはおかみさんではなく、他の宿泊客であった。

 ゾルダートさんは素直に外套を着込み、手燭を持って「お前らは先に寝てな」と言い残して廊下に出た。

 

「ネヴィル河が氾濫したらしい」

「ウラジ広場は、もうダメだな」

「死体がいくつ流れつくことやら」

 

 どやどやと複数の声が階下に移動する。

 私はベリトを見た。ここは安全だ。でも、彼女の家がある辺りは危ない。彼女は、姉と祖母を心配していないのだろうか。

 

 ベリトは轟々と風で軋む窓辺に立った。

 薄く笑い、片腕をしならせて波線を描いた。

 

「ルサルカが暴れるよ」

「魔物がでるの?」

 

 聞き返したが、答えは得られなかった。

 ベリトは何年も前からいる子供のように部屋を走りまわり、毛布に頬ずりし、長櫃の蓋を持ち上げ、中に仕舞われているナナホシの鞄をぺたぺた触って中身を見た。

 

「あたし、これ知ってる。本だ。本なんでしょ」

 

 ベリトは歓声をあげ、小さな本を取り出した。

 表紙が柔らかくてつるつるしていて、大人の手のひらくらいの大きさの本である。

 私にもオルステッドにも読めない言葉で書かれている。読めるのは、ナナホシだけだ。

 

「これ、あたしにちょうだい。高く売れるんだよ」

いいえ(ニエット)。『えーっと……』それは『図書館』にて、借りる、した。私、所有権、持ち合わせがねえ」

 

 ナナホシは拒んだ。

 理由を説明する口調は拙いが、否の意思は固い。

 ベリトはへそを曲げ、「じゃ、なんて書いてあるか、読んで」と本をぶっきらぼうに突き返した。

 ナナホシは暖炉の前に座り、私とベリトは左右からくっついて朗読を待つ姿勢をとった。

 

『〈人はみな、上に立つ権威に従うべきである。神によらぬ権威はなく、いまある権威はすべて神によって立てられたものである。権威に逆らうものは、神のさだめに背くことになる……〉』

 

 

 

 (ごう)とすさまじい風音がした。梁が軋み、窓の硝子が鳴った。

 暖炉の前で毛布にくるまっていた私は、ふと目を覚ました。

 ナナホシによりかかって寝ていたようだ。彼女の左半身には、ベリトが体重を預けきって眠っている。

 

「ねこ……」

「ミャウ」

 

 膝が温くて重いと思ったら。

 前足の付け根に手を入れてもちあげ、灰色の猫を退かした。

 

 ふいに、ナナホシの膝で開かれたままになっていた本の頁が、紅い翳をおびた。

 昨晩は窓掛を閉めるのを忘れていた。目をあげると、瓶底みたいなロンデル窓が赤くゆらめいている。

 

 火事か、と思い至ったとき、まどろみは去った。

 私はナナホシとベリトを揺り起こした。他の住民は逃げた後だろうか。

 

「あ!」

「グリシャ」

 

 扉を開けて廊下を見回したとき、階段を上がってくるグリシャと視線があった。

 

「火事だぞ」

「ここが燃えてるの?」

「ちがう。来て」

「さっき揺れなかった?」

「そうか?」

 

 踵を返したグリシャに追従する私の後ろを、起きたばかりのナナホシとベリトが続く。

 何人かの人々はすでに一階の外に出ていた。漂白楽師が私たちに「おはよう」と声をかけたので、夜が明けたのだと知った。

 建物のあいだの帯のような空は、西のほうが紅く、黒煙がまじっていた。

 鐘の音がここまで響いてくる。火の見櫓の鐘だ。

 

 見に行こう、と、グリシャが私を誘った。断るより前に、火の手にむかって走り出す人々に巻き込まれた。

 立ち止まったら転ぶ。転んだら踏み潰される。群衆から離れることも、流れに逆らうこともできず、私も走った。

 背丈の低い私とグリシャは人の波に飲まれてはぐれた。

 ベリトとナナホシは巻き込まれてないだろうか。

 

「ぷわっ」

 

 橋をわたるとき、私を引き上げる腕があった。

 澱んだ空気で気分が悪くなっていた私は、冷たく澄んだ空気を吸い込み、抱えあげてくれたゾルダートさんの首に腕をまわした。

 彼の腰のあたりにはグリシャがしがみついている。

 

「こんなひどい風、めったにないわ。竜巻が起こったんですって。火事はそのためよ。きっと、どこかの家で手燭が倒れて……あんた、重たくなったわねえ」

 

 ベリトはカノンさんに抱えられていた。

 ナナホシの居所を視た。巻き込まれずに済んだらしい。宿にいる事がわかってほっとした。

 

「俺らが泊まってる宿は? 無事か?」

 

「うん」と答えかけた私を遮り、グリシャが「食堂の窓硝子が割れた!」と興奮して報告した。

 

「火事、よくあるの?」

「貧民窟では、しょっちゅうだ。でも、ここまで派手なのは初めてだな」

 

 抱かれて視線が高くなると、空を焦がす炎がくっきり見える。

 雪は昨晩のうちにやんだらしいが、風は積もった雪を吹き上げて、吹雪みたいだ。

 風が強いせいで、火が燃え移りやすいのだろう。

 

 宿屋にもどる道中で、馬橇に行きあった。

 水樽とホースのついたポンプ、そして分厚い上着に頑丈そうなズボンと長靴、銅の被りものをつけた男たち――魔石の杖を持っている者もいた――を満載した馬橇の一隊が、喇叭を吹き鳴らしがんがん鐘を叩いて人々を蹴散らして走り抜けていった。

 消防士だ、とゾルダートさんに説明されなければ、祭りがあるのかと勘違いするところだ。

 

「パーブシカは?」

「救貧院よ。家の屋根が吹き飛んじゃって。どこの救貧院も空きがないし、あたしたち、しばらく宿暮らしよ」

「シンシアと同じところがいい」

「だめよ。もっと安い宿。消火、いつ終わるかしら」

 

 人混みに苛立ち、ゾルダートさんが舌打ちした。

 

「いっそ、土砂降りになって、全部流れちまえばいい」

 

 私はトウビョウ様に祈って雨雲を呼んだ。

 山上で火を焚く千貫焚きに、百枡洗い、小竹を打ち鳴らすコキリコ踊り……と、雨乞いのやり方は色々あった。

 雨を降らせるのは竜神様だけれど、前の私(チサ)がいた村や近隣の村は、トウビョウ様に縋るのだった。

 語り部となる老人達が早くに死ぬ貧しい村々では、祈祷に正しい儀式だの作法だのはない。日照りが続き、村が干上がると、男は野良着を絡げ、女は釜や盥を叩いて拍子をとって叫んで踊り狂った。

 幼かった私は、婆やんに言われるまま、雨乞いの熱狂から離れた場所で、手を合わせて祈っていた。

 ヒョンナゲヒョンナゲ。気狂いという意味の言葉だが、雨乞いの文句でもあった。

 

『ヒョンナゲ、ヒョンナゲじゃ』

 

 私ひとりで唱えると、強風によって散りかけていた暗雲が、ふたたび垂れ込めてきた。

 

 

 宿屋にもどると、ナナホシが私たちを迎えた。

 私とベリト、グリシャがいなくなったことで、心配をかけたらしい。

 

「危ねぇことはするな」

「ごめんね」

「ばかやろう」

 

 安堵した表情と蓮っ葉な口調の落差がおかしくて、つい笑ってしまう。ナナホシに頬をつまんでムニムニされた。

 

 保護者であるカノンさんがいっしょなら、ベリトも堂々と宿に入れる。

 雨に降られて濡れた服を着替え、ベリトには私の服を着させた。

 カノンさんは部屋に張り渡した針金に服をかけながら、乾いたら借りた服はすぐ返すわね、と言った。彼女もナナホシの服を着ている。 

 

「服はあげるよ」

「気持ちは嬉しいわ。でも、わたしたち乞食じゃないのよ、施しは受けないの。特に女からはね」

 

「新しい服ほしい」スカートの裾を握りしめたベリトは不満そうにした。

 

「火事はおさまったみてえだな」

 

 ゾルダートさんが窓から黒煙のない空を見上げて言い、次いで通りを見下ろして「不味いぞ」と零した。

 どうしたのか訊こうとしたとき、階下が騒々しくなって、階段をのぼってきたおかみさんが上り口に顔を出し、「あんたたちも、下りてきて早く手伝いな」と怒鳴った。

 

「なにを手伝うのよ」

「洪水だよ。ネヴィル河がヒステリーをおこした。大事なものを上に運び上げるんだから、手を貸しな。淫売娘、おまえもだよ。早く」

 

 ゾルダートさんたちは手伝いに駆り出された。

 居ても邪魔くさいから、と、私とベリトは御役御免である。大人たちが一階の什器を階上に運び上げる騒々しさを、非日常感をもって聞いた。

 

 私とベリトは椅子を窓辺に運び、少しだけ開けた窓の隙間から、川にかわった道路を眺めた。

 

 一階は、扉も窓も閉ざされているが、敷居の隙間から撓み、軋んだ。水は土間に流れ入る。風と流水の強い力におされて、扉窓の鎧戸は蝶番がこわれ、はずれて落ちた。

 どこからか飛ばされてきた看板が窓にぶつかり、ガラスが砕け散る音がした。私たちは窓を閉めた。

 

 私のせいではない、と、思いたい。

 雨雲を呼び、消火を助けた。強風は元からだ。

 じゃあ、この有様は、何のせいだろう。

 

「言ったでしょ、ルサルカが暴れるって」

「……ほんとだねえ」

 

 ベリトの答えに納得した。ルサルカが荒れ狂いはじめたのだ。

 貧民窟の大火事は、河にはりつめた氷を溶かし、解き放たれた水は、盛り上がって、低地を襲った。

 地鳴りだと思った音は、河にはった氷が割れ砕ける音であった。

 生前は、増水、洪水は、春の雪解けのときか、台風の多い長月に起きがちであった。

 まだ春の前だというのに氷が溶けだしたのは、大火事のせいだ。燃える家屋の熱が、氷を溶かしたのだ。

 

 部屋の扉がコンコン叩かれた。

 下半身が泥水で濡れそぼち、荷物を頭上でささえて駆け上ってきたフェリムが、部屋に入ってきた。

 この洪水の中を移動してきたらしい彼は、凍えた体を暖炉であたためた。

 

「外はあんななのに、歩いてきたの? 何のご用?」

「ウラジ広場がひっでえ有様でさ。俺が泊まってた木賃宿もダメになっちゃってさ、こっちの宿にしばらく居ようと思って来たんだけど」

 

 ここも危ういよな、とフェリムは冷えに震えながら自分の両腕をさすった。私は唯一使える混合魔術で桶に湯を張り、体を拭く布も用意してやった。

 部屋に空きはある。宿泊代さえ払えば差配の夫婦はフェリムを歓迎するだろう。

 でも、フェリムにそんなお金はあるのだろうか。

 

「ドアが壊れたぞ!」

 

 フェリムは長い耳をピクっと動かし、鋭く叫んだ。

 風の呼吸にしたがって、ふくらんだり元にもどったりしていた一階の扉が、昨夜の補強工事も堤防に砂袋を積んだのもむなしく、ついに壊れたのだ。

 道路を川にかえた水は、一気に屋内になだれ入ったらしい。

 階段を見に行くと、ナナホシとカノンさんが、手をとりあって逃げてくるところであった。その後を、水は追ってきた。

 

「もうおしまいだ、全部流されるんだ」

白樺樹皮(ベリョースタ)をくれ! 遺言書を書くんだ!」

「うるさいねえ、そんな暇ァないよ! いいから運びな!」

 

 上階は安全だと信じていた陽気な酒箒の住民は、たちまちてんやわんやになった。

 しかし氾濫した水が二階まで激しく押し寄せてくることはなく、今のところ、せいぜい床に薄く張る程度だ。

 

「もし二階がダメになっても、こうやっていたら助かるかも」

「ぜんぶ沈んじゃったら?」

「そのときは諦めて」

 

 部屋では、フェリムが真面目な顔で、ベリトを片腕に抱き、片手で梁にぶら下がっていた。

 屋根裏まで荷物を運んでいたゾルダートさんが降りてきて、フェリムを見て大笑いした。

 

「ふ、ハハ、フェリム、てめぇビビりすぎだ! どうやってそこに掴まったんだよ! だはは!」

「ちょっとぉ、あんた正気なの? あーおっかしい! あははっ!」

『へへ、よくわからないけど、笑えてきたわ、んふ、ふふふっ』

「ベリト、高くていいねー!」

「いーい眺めだよー!」

 

 私たちも、つられて笑った。

 彼が笑うと、自然に周囲の気持ちがほぐれる。

 反対に、怒っていると、周りも苛つき始める。

 良くも悪くも、影響力が大きな人なのだろう。父様も母様もそんな人だった。

 纏う雰囲気が華やかなので、立っているだけで注目を集めるのだ。

 

 懐かしくなって構ってほしくて、ゾルダートさんの外套のポケットに手を入れた。

 ゾルダートさんはこちらに視線をよこして、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた。

 

 

 


 

 

 

 河川を埋め立てた上に作られたカーリアンは、しじゅう母胎に帰りたがる。

 冬は、氷の下で水は力をたくわえ、噴出するおりを待ちかまえている。

 

 ゾルダートが慌てふためかず、水害の対処に当たったのは、もはやこの光景が風物詩と化しているからだ。

 顔立ちから生まれも育ちも北方の男だと思われがちなゾルダートだが、ラノア王国に住み始めてから、たった数年しか経っていない。

 それでも、冒険者だの犯罪者だの流浪者だのが巣を作る低地では、こうした水害は珍しくもないことくらいは熟知していた。

 火の波によって氷解が早まり、春に起こるべき洪水が冬に起こっただけの事だ。

 

 一階を完全に水に沈めた川の水は、ある程度は引いた。

 夜になるとたちまち溢水は凍り、酒箒邸をはじめこの一帯の建物は、氷の上に建つようにみえた。

 

「すげえなあ」

 

 フェリムは感嘆と共に白い息を吐き、持った角灯で、いまや凍った運河とかわらなくなった小路を照らした。

 家々の窓の灯りを受け、氷の下には、倒立した町が仄かに映っている。

 氷は、ごみだの木っ端だの帽子だの馬糞だのをその下に抱え込む。

 塵芥でも、氷を透かし見ると、奇妙に美しく見えるのだった。

 

「俺の生まれた所では、土砂と噴火が恐れられた。水害はあまりなかったし、こんなになったのも、初めて見た。ゾルダート、お前の故郷は?」

「自然災害より、伝染病だな。人が多い上にまともな解毒士もいねえから、あっという間に広がるんだ。葬式も間に合いやしねえ。地獄だぜ、ありゃ」

 

 一階の厨房も食堂も、氷が張り、槌で砕いて外に捨てねばならなくなった。

 フェリムもカノンも、この作業を手伝えば、部屋を貸し与えられる約束だ。ただし、一部屋の宿泊賃を二人で折半である。

 災害下にあっても、差配の夫婦は宿泊賃をいっさい負けなかった。

 

「開拓地の奴隷もそうだ。食事不足と寒さで弱っているところに、病がくると、バタバタ死んでいく」

 

 被害のあった冒険者ギルドの修繕に駆り出され、ついでにゾルダートたちが泊まる宿の除氷を善意から手伝っていたトイリーが、妙に陽気に話しかけた。

 体を温めるために酒を飲んだ。酔っ払っているのだ。

 

「不衛生な環境だと、人が死ぬと、その者の頭にたかっていた虱がいっせいに逃げ出すだろう。お前も見たことはあるか?」

「おう、見た見た! 虫けらのくせに、どうして死んだのがわかるのかってなぁ、ガキの頃は不思議だったよ」

「やな会話だな……」

 

 フェリムはぼやき、「ルーは?」と、扉が壊れ、吹きさらしの食堂から砕いた氷を捨てに出てきた狼女にも訊ねた。

 獣族の彼女も、長耳族に負けず劣らず、聴覚はたいそう優れている。故に彼らの会話は離れていても把握していたし、フェリムとてそれが当然だと思っていた。

 

「大森林には雨季がある。

 地上のものがすべて流されるような大雨が、何ヶ月も降りつづけるんだ。

 だが、群れでいれば、雨季そのものは恐るるに足りん。真に用心すべきは、雨季のあと、水がひいた時だ」

「なんで? 水がひいたなら、もう溺れないじゃんか」

「ぬかるんだ泥に、悪魔がひそむ。

 雨季明けの地上で転んだ者の口をめがけて、悪魔は飛びこむ。

 そうして取り憑かれた者は、からだの自由を奪われて死ぬ」

「ふぅん」

 

 悪魔ってまじでいるんだな、怖ぇな。

 踏鋤の柄に顎を乗せたフェリムは思った。

 サボるんじゃないよ、と気を抜いた瞬間を目ざとく見つけて怒鳴ったおかみに、へぇ、と三助時代の名残りで声をはりあげた。

 

「ルーさん、こっち来てみて。鶏が下で凍ってるの」

「何だと?」

「掘り出して食えない?」

 

 シンシアとベリトに絡まれ、ルーは鶏が氷の下で凍死しているのを眺めた。肉屋から逃げ出した商売用の鶏にちがいない。

 鼠の凍死体が一匹もみつからないのは、洪水をいちはやく察して逃げたのだろう。洪水をまぬがれた市場や家々は、いまごろ急増した鼠に悩まされているはずだ。

 

 子供たちは楽しそうに氷上を滑って移動し、建物に戻っては顔ほどに大きな氷の破片を持って出てくる。

 夜だというのに灯りを持って除氷に追われる者の多いことといったら、一帯の家の者たちにある種の仲間意識を持たせるほどなのだった。

 

「ベリト、だめよ、氷食べたらいけないのよ。喉かわいてるの? おかみさんに白湯もらってくる?」

「お湯飲んでから氷食べるとなんかちょっと甘いよ」

「えっ?」

「うわ、ほんとだ! 甘い!」

「グリシャまで……」

 

 厚い氷の表層をカリカリ爪でひっかいていたルーは、馬鹿をやっている子供らの会話で我にかえった。

 何でもかんでも口に入れるな、と叱り、子供から視線を外し、角灯を持って向かいの家に入ろうとするナナホシを目にとめた。

 先導するのはパン屋の男だ。おおかた、暗くて中が見えないから照らしてくれ、と頼んだのだろう。

 

 無防備なナナホシが暗がりに引き込まれる前に、ルーは飛んだ。

 一飛びでナナホシの後ろに着地。腕を掴んで角灯をとりあげた。

 

「ゾルダート。この男が手伝ってほしいそうだ」

「おう、いま行く」

 

 ゾルダートは口惜しそうにする男と笑顔で肩を組んだ。

 

「ようエロジジイ。人手が足りねえなら、ほっそい女より俺を頼れよ。俺たち友達だろ? ったく、水くせぇなぁ……」

 

 

 匂いと雰囲気で、ルーにはわかる。ナナホシは処女だ。

 きょとんとしているナナホシを連れ、カノンに預けた。

 物陰から差配の親父とともに現れたカノンは、ニコニコ笑ってナナホシとルーに抱きついた。

 

「聞いて! ベリトの宿代はタダにしてくれるんだって!」

「太っ腹じゃねえのぞ」

「ぞ? あんたって、ときどき変な喋り方するよね」

「ぞ」

「ねえ、あたし寝るときは、ゾルダートと一緒でいいでしょ? 昼間はナナホシに譲るからさ、夜はあたしが独占していいでしょ?」

「よきにはからえ」

「きゃー! ありがとー!」

 

「ああ、悪く思わないで。あんたのことも好きよ。おとうさんみたいに思ってるわ、あんた、いい男よ」と調子よく親父にしなだれかかるカノンを、ルーは達観した目でみた。

 武力のない女は性を売って食いつなぐ。商いで男と寝たあとで恋人ともしっかりやるのだから、凄まじい精力だ。

 

 自分の女になったからには、娼婦とはいえ他の男と積極的に寝ることをこころよく思わない男は多い。

 ところがゾルダートは、男がいろんな女とやるように、女のほうもいろんな男とやるのが当たり前だと思っている節がある。

 輜重の女――老婆やほんの幼い子供を除いて、ほとんどが娼婦だ――に育てられたと言っていた。それが影響しているのだろう。

 

 ルーの所属するBランクパーティのリーダーと副リーダーは、恋仲だ。

 しかし副リーダーのメリンダが、裏でヒーラーのレイフと寝ていることをルーは知っている。

 不倫が公になれば、リーダーの怒りをかってパーティの関係が破綻することも、

 しかしリーダーとて、メリンダの月のもののあいだ隠れて娼館に通っていることも、ルーは嗅覚で見抜いていた。

 

 自身は奔放に振る舞いながら、女には貞淑を求める男よりは、サッパリしていて好ましい。

 そう、ルーは思うのだった。

 

 

 


 

 

 

「蜂蜜湯ください。ふたつ」

「姫サマよ、これじゃ足りねえよ」

「あら……。じゃ、ひとつください」

「まいどあり」

 

 シンシアは注がれた蜂蜜湯を零さないように運び、宿にいるナナホシと分け合って飲んだ。

 いくら暖炉の火を焚いても、窓がこわれ扉があいたままの食堂は、氷河の底にいるようで、熱い蜂蜜湯はじんわりと体を融かした。

 

「ひとつしか買えなかったの?」

「そうなの、足りないって言われちゃった」

「いまは、食べ物はぜんぶ高くなってるから」

「みんな生活がたいへんなのね……」

「バカじゃないの、足元見られてるだけだよ」

「ベリトも飲む?」

「飲む!」

 

 物価にやや疎いオルステッドは、都市の中心部に館を建てられるくらいの金をシンシアに持たせていた。

 ゆえにパン一斤が法外な値段になろうと、彼女たちだけは飢える事はないのだが、それでも、一日に使う金額は決めているのだ。

 

 水害後、食糧を手に入れるのが難しくなった。

 パン屋も肉屋も水浸しになって凍り、商売をするどころではなくなったのだ。

 他の宿がそうであるように、〈陽気な酒箒〉の経営をほぼ任されている差配の夫婦は抜け目なく食事代をつり上げた。

 ゾルダートたちは、初めに食費も込みで支払っているため、苦しむことはなかった。いや、酒代は別であったので、ゾルダートのみ苦悩した。

 都市の窮乏を知った農家もまた抜け目なく塩漬けの魚や豚肉や穀物、蜂蜜湯をかついで売りにきた。

 

 民衆の不満は高まっていた。こんなときでも、貴族の館では舞踏会がひらかれ、宴会が催されていた。

 領主がノブレス・オブリージュを果たさないことに、民衆は腹を立てていた。

 あるとき、領主館の使用人をみかけたので、数人の男がとりかこみ、難詰した。口だけではなく手や足も使ってこらしめた。

 勢いづいて、使用人をかつぎあげ、領主館におしかけ、建物の前で、いっせいに猫の鳴き声をまねた。騒々しさに窓が開いた。民衆は窓にむかって、腐った卵や石を投げつけた。

 領主館の食客の魔術師が、民衆に水弾を次々に打ちかえした。

 ついに警吏が出動し、騎兵隊までやってきて、乱闘になった。

 騎兵隊は革鞭をふるい、民衆は棒きれと石で立ち向かった。数人が見せしめに逮捕され、開拓地送りになった。

 そんな騒動があったばかりだ。

 

 シンシアは渦中にいなかった。しかし、町全体が貧しくなり、殺伐とした空気は感じとっていた。

 

「姉ちゃん、いってらっしゃい」

 

 外に出かけようとする女に、ベリトが声をかけたので、顔を上げた。

 鉛白で顔を白く塗りたくり、付け黒子をつけたカノンは「おばあちゃんのところに寄ってくるから、帰りは遅くなるわ」と妹に言いつけた。

 シンシアはめかしこんだカノンを見て、目を輝かせた。

 

「カノンさん、かわいい!」

「えぇ? うふふ、ありがとう」

「それで歯を真っ黒にしたらお嫁さんみたいよ*1

「美意識変わってるぅ」

 

「ここんとこ」カノンはシンシアの唇の下の黒子に触れた。付け黒子ではない、天然物だ。

 

「艶ボクロって言ってね、ここにホクロのある子は男に好かれるよ。あんたに神様のご加護がありますように」

 

 カノンは教会の中まで入ったことがないので、正しい祝福の仕方を知らない。

 自己流で十字を切ってシンシアを祝福し、外套の前を掻き合わせて、外に出ようとしたカノンに、シンシアが告げる。

 

「来るよ。警吏のスヴィさん」

「チッ」

「ぺっ」

 

 カノンは悪態をつき、ベリトは床に唾を吐きかける真似をした。

 私娼、窃盗、路上売り等を気まぐれにしょっぴく警吏は、姉の天敵であり、ベリトにとっても敵であった。

 食糧の高騰にともなって町の治安が悪化してからというもの、いいかげんな態度を改め、貧民窟を不機嫌な顔で巡回する警吏のスヴィを、ベリトは前にも増して嫌った。

 

 さっさと部屋に引っ込んだカノンは、ついてきたベリトとシンシアに言った。

 

「あんたたち、見張っていてね。あたしは窓には近づかないから」

「はぁい」

 

 ベリトとシンシアは窓から路地を見下ろした。

 宿の前では、漂白楽師(スコモローフ)が琴を奏で、革の仮面をつけたものが唄に合わせて踊っている。

 彼らの音色に魅入られても、楽人になりたいと願ってはいけない。ベリトはそう教えられている。

 道端で唄い踊って投げ銭をねだる楽人は、物乞いと同じように扱われる。北方大地では、冬のあいだだけ特別に宿に泊まることを許されているが、本来ならば市壁の中に住むことを許されない宿無しだ。

 娼婦のほうが、階級は上なのだ。下から数えたほうが早いけれど。

 

 楽人になりたいと願ってはいけない。パーブシカの言葉が実証されるのを、ベリトは目の当たりにした。

 警吏は武装した兵士を連れていた。兵士らは楽師に駆け寄り、乱暴に追い払った。楽器を取り上げられた楽師が、兵士の脚にとりすがる。兵士は地に叩きつけた楽器を踏み砕いた。

 楽師は激昂し、二人同時に一人の兵士に襲いかかった。

 見応えのある乱闘に、ベリトはくすくす笑った。

 

「ひどい」

 

 隣のシンシアが呟いた。

 そういえば、この子は、あの漂白楽師(スコモローフ)によく構われていたっけ。綺麗だから……。

 ベリトは思い出し、そのとき、警棒で楽師の背中を殴りつけていた兵士がガクリと糸が切れたように倒れた。卒倒したらしい。

 今度は、シンシアがくすっと笑った。でも、すぐに悲しんだ。

 

「琴を壊されて、かわいそう」

「よくあることだよ。いちいち気にすることじゃないよ」

 

 兵士が卒倒したことに戸惑う警吏のスヴィを見納め、ベリトとシンシアは窓を閉めた。

 閉めきる前に、大きな猫の鳴き真似が聞こえてきて、階段を駆けのぼってくる足音がした。

 飛び込んできたのは、こそ泥ジョシュであった。

 同じくらいの体躯で中堅冒険者であるトイリーから身のこなしを仕込まれたジョシュは、近ごろは〈すっ飛び屋〉と呼ばれている。

 

 婦人用の高貴な襟巻を巻いたジョシュは、シンシアたちに目くばせをして笑いかけ、ほつれた毛糸の帽子を片手で押さえ、窓枠に足をかけて跳躍した。

 後から駆け上がってきたスヴィが窓から身をのりだしたときは、向かいの屋根に飛び移っていた。

 

「いいぞ、すっ飛び屋!」一部始終を見ていた向かいのパン屋の男が野次を飛ばした。

 スヴィは握りこぶしをふりまわし、「調子に乗りやがって、くそっ」とわめき、バタンと寝台に仰向けになった。

 

「捕まるなよ!」

 

 窓から身を乗り出し、ベリトも喝采を飛ばした。胸がすく思いであった。

 

「今度はなにを盗んだのよ」好奇心を隠せず、カノンがわくわくした表情で訊ねた。

 スヴィは彼女を見咎めたが、頭を寝台に沈めた。屋内で大人しくしている売春婦を罰することはできない。

 

「黒(てん)の襟巻だ。どこぞのお屋敷から盗んだのだろうよ。わざわざ見せびらかしてきやがった」

 

「大泥棒!」感心しきった顔で、シンシアが言った。「前はパンだったのに」

 

「冒険者どもが余計なことを吹き込むからだ。まだガキなのに怖いものなしだぞ、あいつは。まったく、すえ恐ろしい」

 

 スヴィは呻き声をあげて起き上がり、ナナホシの腰に手をのばした。

 不快を隠さずかわしたナナホシの前に、すばやくカノンが滑り込み、スヴィの上に押しかぶさった。

 

「やりたいんなら、あたしとやればいいわ。すけべお巡り」

 

 カノンのわざとらしい喘ぎ声の響く室内で、ベリトとシンシアは男と女の体位を床の上でまねて笑いあった。

 快楽を伴わないごっこ遊びであったが、いたたまれなくなったナナホシが二人を連れて隣部屋に移ったので、続けることはできなくなった。

 無人の隣部屋は、ゾルダートとカノンが寝泊まりする部屋である。

 本来カノンと同室であったフェリムは、早々に恋人を作ってそちらの家に転がり込んだ。

 恋人はハーフエルフの少女である。

「大森林から遠く離れた土地で、長耳族の血をひく者同士。これって何かの運命だ」とフェリムが陶然と語るのを、ゾルダートたちは聞き流した。

 

 ゆえに、ゾルダートとカノンで一部屋、

 ナナホシとシンシア、ベリトで一部屋、

 そんな部屋割りで、彼女たちは日々を過ごしているのだった。

 

*1
明治3年のお歯黒禁止令以降お歯黒文化は徐々に廃れたが、農村にはけっこう残っていたらしい。





2023/9/1 追記

ネガティブな文章を置き続けるのも良くないなと思ったので後書きは削除しました。
たくさんの励ましや応援の言葉をありがとうございました。拙作を今後ともよろしくお願いします。
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