巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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三一 知らぬ存ぜぬ(後)

【10日前】

 耐え難い怒り、自分に対する情けなさ、錯綜した気持ちの縺れは、十七歳のゾルダートの手に負えなかった。足首をつないだ長い鎖は恥辱の象徴であり、背後にまわして縛り上げられた袖はあらゆる自由を彼から奪った。

「面会だ」とゾルダートを引き立てた看守は、手負いの野獣のように兇暴な青年に怯えて目を合わせない。

 面会部屋で、フェリムとルーに守られるように座っているシンシアは、ゾルダートと目が合うと、怯えたような顔をしたが、踏みとどまり、手でゾルダートの顔に触れた。

 浅緑色の光が視界の端に映る。顔の殴打痕と、切れた口の中の痛みが癒え、いっとき、じんわりとした温かさが冷えた体に広がった。

 ――泣くなよ、ちび(クライナー)

 涙目で一心に見上げてくる子供に、目で語りかけた。そして、〈クライナー〉は男の子に使う言葉であることを思い出す。

 シンディ、と一言呼びかけてやる前に、短い面会時間は終わった。

 

 

【10年前】

 墓でお眠り、いとしいオーガスティン。七歳の男の子は口ずさむ。ああ、いとしいオーガスティン。何にもない。

 娼婦リサもいっしょに口ずさみながら、男の子の後頭部に手をそえ、胸に押しつける。顔と同じように真っ白に塗りたくった乳房の奥は、よい匂いがした。鼻が乳房に埋まり、歌うのをやめる。

 香車の婆が幕から顔を出し、リサを呼ぶ。リサは身を起こし、男の子は地べたに転がり落ちる。

 

「外で遊んできな、子犬」

 

 リサは男の子を〈子犬〉と呼ぶ。子犬はリサがくれた小銭を握りしめて移動娼婦宿を出た。

 外にはおびただしい天幕がひしめいている。傭兵たちの粗末な幕舎から少し離れて、輜重隊や酒保も天幕を張り車を並べている。子犬が出てきた女たちの天幕の前には、もう順番を待つ兵士たちが群がり、割り込もうとするものとの間に喧嘩が起きていた。

 地元の商人や行商人も入り込んで空き地に市をひろげ、憲兵が睨みをきかせて検閲してまわっている。肉屋とその徒弟たちが豚を叩き殺し、皮を剥ぎ臓物を抜き、腕の悪い料理人が煮込み料理をつくっている。

 小さな町がひとつできたようなものだ。子犬は楽しみを探してそこらを駆ける。

 

 子犬は並んだ商品から、木剣を見出した。子供用の短い木剣だ。柄は手擦れし、刀身部分には真新しい血の痕があったが、子犬の目には、龍皇の傑作にも勝る魅力をもって映った。

 子犬は左手で木剣を持ち、右の手のひらをひらいて酒保商人にさしだす。ふざけるんじゃないと言って、酒保は木剣をとりあげる。他の客の相手をする。子犬は車に小銭を置き、木剣を持って車を離れる。酒保は追いかけてきて、子犬の首根っこをつかむ。子犬は腕に噛みつく。頭をはたかれる。

 

「店主、その子は、ローゼンミュラー隊長の坊やだぜ。見逃してやんな」

「まったく、輜重のみなしごが、ずいぶん出世したもんだよ」

 

 酒場の天幕に入り切らず、屋外で空き樽を椅子に、木箱の上に木の板をのせたのをテーブルにして飲んでいた古参兵が、助け舟を出した。

「〈ゾルダート・ヘッケラー(兵士を妨げる者)の子〉め!」噛まれた腕をおさえ、酒保は歯ぎしりのあいまに吐き捨てた。子犬をこの世に生み出した両親はたいそうな嫌われ者であった。

 子犬は傭兵のもとに逃げ走り、べーっと舌を出す。傭兵に美味しくないソーセージをちょっと分けてもらう。

 数人の傭兵がどやどやと酒場にやってきた。

 

「ここが空いてるぜ」子犬を庇った古参兵が手をあげて彼らを呼んだ。

 三つ四つ空いていた樽に腰をおろした彼らからは、血腥いにおいが漂う。ここではまだ戦闘は行われていない。近隣の村に掠奪にでかけ収穫を得てきたのだ。

 

「おう」とあとからやってきた傭兵が声をかけた。「お前たち、どこの隊の者だ」

 

「ローゼンミュラーの歩兵隊だ」

「おまえたちの隊は、勝手な掠奪を禁止されてるって噂だぜ。本当か」

「ああ、そうなんだよ。聞いてくれ」

 

 傭兵はジョッキを(あお)り、愚痴を吐いた。

 

「俺たち傭兵に掠奪を禁止するなんて、飢え死にしろってなもんだぜ」

「ほ、気の毒に。掠奪をやらせねえ隊長なんて、アレが勃たなくなった男みてえなもんだ」

 

「そんなことはない」別の傭兵が口をはさんだ。ローゼンミュラー隊の騎兵だ。

 

「ローゼンミュラー様は、俺たちにしっかり給料を払ってくださる。お前たちが自前で調えなくてはならない甲冑も、ただで貸してくださるんだ」

「はん、貴族に飼い慣らされたな。てめえに傭兵の誇りってもんはねえのか」

「何だと」

 

 傭兵は気色ばんだが、殴りかかるのを抑える理性は残っていた。話は掠奪を許された他の隊が得た収穫の自慢に移り、不機嫌になったローゼンミュラー隊の傭兵どもに蹴っ飛ばされる前に、子犬は雑踏に紛れる。

 傭兵の子供たちが木の棒を打ち合わせて戦いごっこで遊んでいる中に、玩具の剣をふりまわして飛びこむ。勝つ。

 上等な皮革を縫い合わせた天幕を見つけて潜り込んだ。

 養父――ローゼンミュラー中隊長の背中に切りかかろうとする子犬を、付き人がとめた。木剣を取り上げられそうになり子犬は叫ぶ。

坊や(クライナー)」兜を脱ぎ胸当てをはずした養父が子犬を横に呼び寄せた。訓練を終えたばかりなのだろう、汗と泥にまみれていた。

 身なりを整え、食事を共にし、養父は剣の持ち方や構え方を二、三教えると、いきなり子犬を天幕の外に放り出した。

 

「さあ、どこからでもかかってこい」

 

 べちっと地べたに投げられた子犬の前に立ちはだかり、養父は訓練用の木剣を構えた。

 ――父ちゃんが遊んでくれることはめったにない。

 子犬はあわあわとした南国の桃の実のような頬を紅潮させ、淡いブルーの双眸を輝かせて果敢に挑みかかった。

 

 

【2ヶ月前】

 十七歳のゾルダートは、魔術師の杖をフェリムに渡す。

 杖の上部には、閃光のように赤い魔石が嵌っている。フェリムは霧の中に取り残されたような顔で受けとる。

 杖が掲げられる。はるか夜空で炸裂する獄炎火弾は、フェリムの頭上で、金色と紅色に燦爛と輝く宝冠であった。

 宝石の破片をちりばめたような華麗な色彩が、闇を透かして地獄の劫火が仄見えて輝くようにも、ゾルダートの目には映った。

 勢いづいて走り寄ってくるフェリムを、胸で抱き止めた。

 

 

【5年前】

 十二歳のゾルダートは遠乗りに出ている。羊歯や茂みのあいだに獣道が見え隠れし、山毛欅や栢が聳えていた。樹幹は苔で青黒く膨れ、根方には、厚く朽葉が積もっていた。

 仰げば梢は小刻みに震え、黄金色の葉をこぼした。葉はゆるやかに、宙に金の筋をいくつも引いて、かつて子犬と呼ばれた少年の肩や馬の鬣にふりかかった。

 

 後のゾルダートは、アスラの森にあって、やがて思う。ユシュタの森は、秋ごとに金のかがやきを放つのだろう。人の殺戮と破壊の長い歳月にかかわりなく。

 馬を駆る養父の腰に下げた剣が、木漏れ日に光った。ゾルダートの腰にも、上物ではないが、剣がある。

 

「丘の頂上まで、一息に登ろう」

 

 養父は手網を煽った。白馬は走り出した。ゾルダートも馬腹に拍車をあてたが、ふいに、あの落葉の層に落ちたらどんなだろうと思った。馬が足を速めると同時に平衡をわざと手放し、転げ落ちた。落ち葉朽ち葉の山はゾルダートを抱いたが、重みを支えきれず、体は沈んだ。

 手をつかんで引き上げたのは、馬首をかえした養父であった。鞍から下りていた。

 ゾルダートの外套は枯葉の綴れをまとっていた。養父は吹き出し、ゾルダートも笑顔をみせた。

 

 逸れた馬を捕まえ、鐙に片足をかけ、はずみをつけて鞍にまたがった。

 丘に登ったのは初めてであった。頂上にたつと、市は一望のもとにある。葡萄畑の収穫を待つばかりの実が滴る雫のように光るさまが、遠目にも鮮やかだ。

 下馬して、二頭の手網をかたわらの榛の幹につないだ。

 養父が地に腰を下ろした。ゾルダートも腰を下ろし、足を投げ出した。足の上を栗鼠が走り抜けた。

 

「え?」養父が何か言った。栗鼠に気をとられていたゾルダートは、横を向き、聞き返した。

 

「お前は将来、どうなりたい? 戦うのを仕事にしたいか」

 

 これまで考えてこなかったことを問われ、ゾルダートは初めて己の将来を想像した。

 日々を、輜重のあいだを駆け回り、傭兵に戦いを挑み、養父の座学を受けて、自由に過ごしていた。だが、町であれば、ゾルダートの年は奉公に出されてもいい頃だ。

 傭兵隊長である養父の威光で、今まで守られてきた。巣立ちを仄めかされているのか。

 

「考えたことなかったです。でも……やられるより、やるほうになりたいと、思います」

 

 ゾルダートは正直に答えた。正解には遠いだろうと思ったが、理想通りの受け答えをしなかったからといって、機嫌を損ねる養父ではない。

 この時代、貴族だろうと兵だろうと、掠奪は、当然の権利であった。死者負傷者を身ぐるみ剥ぐことも、捕虜から身代金を絞りとることも、公然と許されていた。

 現金による給料が完全に支払われると期待する傭兵はいない。ゆえに掠奪で補完する。掠奪こそが、傭兵にとって最大の魅力であり、命懸けで戦った報酬であった。

 ローゼンミュラー家は、ユシュタ王国の大公のもとで、国家の常備軍を設立するよう働いている。また、麾下の兵にも民家への略奪放火を固く禁じている。破ったものは容赦なく絞首刑だ。

 それでも、輜重隊に加わって移動していれば、道に散乱する人の死骸、牛馬の死骸、全焼した村々をいやというほど見る。先行した他の傭兵隊のしわざだ。

 悲惨な光景を見るたびに、やられるよりやるほうになりたい、とゾルダートはぼんやり思うのだった。

 

「野放図な傭兵に交ざり、掠奪をしたいと?」

「積極的にやりたいわけじゃないけど」

 

「父さんを助けたい」漠然とした望みを、ゾルダートは口にした。口に出してから、しっくりきた。

 

「俺は何をしたらいいですか?」

「簡単なことだ」

 

 養父は笑顔になった。

 

「お前がだれからも必要とされるほど重要な人物になれば、お前の言葉にみなが従う。掠奪は傭兵の権利であるという不文律を、変えることだってできる。人の上に立ち、掠奪を禁じる者が増えれば、私は目的に近づけるのだよ」

「必要とされる? どうやって?」

 

 養父はゾルダートの肩に手をかけた。若輩ゆえ実際の戦場に送り込んだことはないが、既に剣神流と水神流の二つの剣派で、ゾルダートは中級の認可を受けている。

 子供の身空で、傭兵数人分の働きを見込めるのだ。統率に長け、しかし自身の武力には恵まれなかった男が、少年ゾルダートに大いなる希望を抱くのは、無理からぬ話であった。

 

「お前が十五歳になれば、正式にローゼンミュラー家に加え、戦闘にも出そう。そしてゆくゆくは、歩兵隊をお前の指揮下に置こうと考えている」

「俺が……」

「戦乱に身を置く者たちにとって、強さは正義だ。お前だけが正しいのだ、お前だけが美しいのだと、人に知らしめろ」

 

「期待以上に育ってくれたな」養父は満ち足りた顔でゾルダートを眺めた。「坊や(クライナー)」と昔の呼び名で彼を呼んだ。

 目の前に広がる霧が一挙に晴れたような衝撃をおぼえた。

 ゾルダートは立ち上がり、代赭色の屋根がつらなる町を見下ろした。紺碧の空を、教会の尖塔群が突き上げ、時鐘の音が遠く近く響いた。

 ――そうか、俺が強ければ、強いってことを周りに分からせれば、やられるほうにはならない。それどころか、傭兵の既得権を、塗り替えることだってできるんだ。

 

 馬の手網をとき、鞍にまたがり、ゾルダートは軽く合図した。木々の間を、馬は軽快に走り出した。後ろに視線をやり、馬を駆って追いついてきた養父に溌剌とした笑顔を投げた。

 

 

【2年前】

 十五歳のゾルダートは小川のほとりで涼んでいる。頭にいきなり水がかかった。カノンが笑っていた。商売中ではないから、白鉛の厚化粧は落とし、子供っぽい素顔のままだ。ゾルダートまで子供にかえってしまい、川に入って水をはねかえし、カノンにぶっかけた。

 カノンはびしょ濡れの体をゾルダートにぶつけた。抱きかかえて岸に放り出し、指をさして笑ってやると、カノンは半泣きになってむしゃぶりついてきた。

 じゃれあいから本気の喧嘩に移るのも、子供のやり口だ。むきになって殴りかかってくる野獣の子のようなカノンをもてあますゾルダートの視界に、目を見開いて水底に仰のくちびのベリトが映った。静かに溺れるから、すぐに気がつかなかった。焦って引き揚げると、とんでもない理不尽な目にあったというふうに、ベリトは大声で泣きわめき始めた。

 

 その頃のカノンは、老傭兵をなじみの客としていた。

 ゾルダートに最初に性の味を教えたのは娼婦であり、酒保の女たちであり、軍について歩く傭兵の家族たちであった。粗野で猥雑な行為であった。女の中に精を放つと、一瞬、この上なく心地よい感覚が体を包むことをゾルダートは知った。カノンは、猥雑さでいえば彼女たちと変わるところはないのだが、妙なところがすれっからしじゃなくて愛らしいのだった。

 老傭兵の目を盗んで交わすキスは、二人の愉しい遊びであった。

 

 

【4年前】

 十三歳のゾルダートは、老傭兵に連れられて、カーリアンの冒険者ギルドに来ている。

 冒険者という仕事があり、それが傭兵とは違うことは知っていた。魔物を殺すか、人を殺すかの違いだ。

 老傭兵がカウンターで説明を受けているあいだ、ゾルダートは依頼が貼りだされた壁の前につっ立っていた。白樺樹皮に文字や絵が刻まれているのを、あてなく読んでいた。

 ――イルークォの森にて、ストウドレイクの討伐。報酬銀貨八枚。

 ――ラジェ川にて、漁師の護衛。銀貨二枚。

 ――アカニ草の採取。銅貨三枚。

 

「どけ、小僧」肩を掴んでぐいと退かされた。体格にふさわしい巨大なだんびらを背負った冒険者は、依頼書を一枚取り、カウンターに向かった。

 

(ああやって、仕事を受けるのか。)

 

 ゾルダートは思い、視線をギルド内で屯している冒険者に投げた。

 閑談のかたわら、男たちが、細かく刻んだ葉に白っぽい灰を混ぜ、薄い樹皮に包んでいる。

 若者ばかりの中に、一人だけ少年がいた。青い髪の少年だ。

 顔だちは幼童の域を脱したばかりだろう。腰帯に短剣とロッドを下げている。そう、ゾルダートは観察した。同い年、せいぜい一つ二つ年下ぐらいか。

 

「ガキで、野郎ときては、見世物にも売れねえ。せめて(あま)っ子なら、買い手もつくだろうに」さっそく現地の冒険者に取り入ろうとする老傭兵の声が聞こえた。「連れていたってしょうがねえが、あんなでも、見捨てるのは哀れだ」

 

(見栄、張りやがって。てめえが俺を手放さねえのは、ローゼンミュラー家の財産をあてにしてのことだろう。)

 

 胸糞悪くなり、しゃがみこんだ。膝に、ひたいを強く押しつけた。背中に手を置かれた。また退かされる。そう思ったが、手はなだめるように軽く叩いた。

 

 顔をあげると、青髪の少年がゾルダートを見下ろしていた。ふらりと立ち上がったゾルダートを、彼は自分たちのテーブルまで招いた。

「さっき、見ていただろう」彼はテーブルにあるものを一つとり、ゾルダートに渡した。善意の行為だとわかり受けとった。

 

「名前は?」

「……」

 

 ゾルダートは口を指し、喋れないのだと、身振りでわからせようとした。

 一年前、串刺しにされ焼かれた将校たちの首を、ゾルダートは見ている。目鼻もわからぬ黒い塊が並んでいた。

 ずっと眺めていると、やがて、下顎の肉が腐り落ち、生焼けの舌がだらんと垂れた。それ以来、ゾルダートは喋れなくなった。舌の動かし方を忘れてしまったふうだ。呪いにかけられたとゾルダートは思っている。

 

「ろくな挨拶もできない奴に、噛み煙草を分けてやるな」

 

 ゾルダートにかけられた呪いは、誰にも知られることはなかった。若い冒険者がどなり、取り返そうとしたが、青髪の少年は噛み煙草をゾルダートにしっかり握らせた。

 それから、ゾルダートに見せつけるように、自分も一つ口に入れた。

 片頬が少し膨らんでいる。ゾルダートも真似て、口に含んで歯茎と頬のあいだに挟んだが、慣れないので口の中が煙草の葉だらけになった。

 すぐに吐き出し、細かい葉は唾液で喉に流し込んで飲もうとすると、喉にはりついて激しくむせた。仲間の問いを無視した小僧が背中を丸めて咳き込むさまは、冒険者の嘲笑を誘った。

 

「ラノアの煙草は初めてか?」一人だけ笑わずに、青髪の少年が訊ねた。

 葉巻なら吸う。でも、噛み煙草は初めてだ。

 

「ヤー」

「うん? 人族に見えるが、魔大陸から来たのか?」

「ナイン」

 

 すらりと言葉が出たことに、ゾルダートは驚いた。

 養父のもとで使っていた、ヤー(はい)ナイン(いいえ)、は、ラノアの冒険者には通じず、少年以外には、怪訝な顔をされた。

 

「アスラから来た。その前は、よく憶えてねえ」

 

 心に浮かぶ言葉がかってに口から流れ、ゾルダートは呆気にとられた。

 黒い塊からだらりと下がった舌が、ゾルダートの記憶に刻み込まれている。個人を特定できないほど焼け焦げた首だから、あれが養父のものともわからなかったのに、充血してどす赤く膨張した舌が、思い出すまいとしても生前の養父の顔とともに思い出され、ゾルダートの舌はますます強ばるのが常だったのだが。

 そうして、老傭兵に、喋ることはできなくても食うときは自在に動くんじゃねえか、現金な舌だな、と皮肉られるのだったが、――なんでだよ、どうして、今、喋れたんだ。

 解き放たれた舌の軽やかさに昂りをおぼえながら、こいつは魔術師だろうか、魔術師は呪いを解くこともできるのだろうか……と訝しんだ。

 

「私たちは明日にはこの町を発つ。お前も冒険者なら、また会うこともあるだろう」

 

 少年はそう言い、彼の仲間とギルドを去った。トイリーと呼ばれているのを、ゾルダートは聞いた。

 ゾルダートは呼ばれるままカウンターに向かい、文盲である老傭兵の代わりに、冒険者登録の契約書に記名した。

 ただし、書くのは、老傭兵の名ではない。もらえず終いであったローゼンミュラーの家名でもなかった。

 

 ゾルダート・ヘッケラー。

 そう記した。

 

 

【現在】

 

 振り子のように、記憶の視点は、過去を行き来しながら、やがて〈現在〉に収束して一つとなる。

 赤竜の巨大な黄色い目に捕らえられ、ゾルダートは気を失った。瞬時、走馬灯を見たのだった。

 

「――氷河の濁流を受けろ! 氷撃(アイススマッシュ)!」

 

 氷塊が赤竜の右目に、短剣が左目につき刺さった。

 トイリーだ。魔術で生成した氷塊と短剣が同時に着弾するように、詠唱のタイミングと投擲の速度を瞬時に計算したのだった。

 短剣の刀身には三筋の溝が引かれ、小さい孔が多数穿ってある。毒を流し込んで溜めておくためだ。折れやすいが、斬りつけたときの致死性は高い。

 呼吸障害を引き起こす強力な毒だが、竜の巨体の命を奪う量にはとうてい足りない。

 しかし、眼に流し込まれた毒は、激痛を生んだ。氷撃は視野をぼやけさせた。

 赤竜はとっさに硬いまぶたを閉ざした。照準が狂った。

 凄まじい火炎の波は、ゾルダートからわずかに逸れた。

 灼熱が耳を焼いた。頬を焦がした。冷たい。いや、熱いのだ。

 炎の熱さは、氷を押し当てられたような冷たさを誤認させた。

 

 眼球が頭蓋の奥に引っ張られたみたいに眼窩が落ち窪み、小鼻が固くなり、ゾルダートの全身が刃になった。

 握りこんだ長剣は、この瞬間、ゾルダートの一部であった。

 全体重をのせた、渾身の斬撃を、赤竜の脳天に叩き込んだ。

 

 

 

 眉間に汗が流れた。あまりの熱さに上裸になったゾルダートは、骸から鱗を剥がす手を止め、腕で汗を拭った。

 

「あついな」同じく上裸になったルーが雪の中に仰向けになり、体を伸ばした。「外で風呂に入れるとは」

 ラノアの風呂は、浴槽に張った湯に浸かることではなく、蒸気をからだに当ててたっぷり汗を流すことを言う。

 

 死んで尚、赤竜の体温は、凄まじく高い。紅い鉱石のような鱗に閉じ込められていた温度は、解体によって外へ放出した。流れた血が雪をどんどん解かしてゆき、土の色が見えるほどだ。

 

「解体はまだ終わってねえぞ」

 

 頭の潰れた赤竜の傍で、ゾルダートはルーに片手を伸べた。

 

「おれを憎むか」

 

 ルーは、生き残った犬たちに視線を向けた。かれらは切り離された赤竜の生肉にがっついている。

「ニエット」ゾルダートは答え、握られた手を掴み返し、起こした。

 

「よくやった、ゾルダート、ルー」

 

 片足を失ったクールミーンが、トイリーに支えられながら歩いてきた。結局、傷口が膿む前に切り落としたのだった。

 ゾルダートが鞘に収めた長剣を返そうとするのを拒み、「無銘の長剣(クレイモア)だが、斬れ味はいい。よく手に馴染むだろう」とクールミーンは笑顔になった。

 

「〈危険〉は、勇敢な者と臆病な者を、見分けさせる。危険が訪れたとき、勇者の瞳は太陽のように輝く。戦闘に当たって、お前の瞳は、劣勢なときでも輝いていた」

 

 初めは腰が抜けそうだった、とはとても言えない。

 

「勇敢さに敬意を表そう。その剣は、ゾルダートに譲る」

 

 それでも、認められたことは嬉しい。

 剣帯は町に戻ったら()うことにして、紐で縛って背に括りつけた。

 

「冒険者は引退するのか」

「いや、一時休業だ。ネリス公国に行き、義足を作る」

 

「こいつのおかげで、資金には困らん」とクールミーンは赤竜の骸の方を見てから、「たいそう苦戦させられたのに、こいつ、とか、赤竜、では寂しいな。名前をつけよう」と思いついたことを口にした。

 

「命名権を持つのは、第二の功績者であるお前だ。ルー」クールミーンの言葉に、ルーは〈モリーガン〉と誇らしげに答えた。

 戦いと殺戮の女神の名であった。

 

 

 のんびり勝利を祝っている暇はなかった。

 モリーガンとの戦いのさなか、死んだ者もいた。火葬した。

 モリーガンの体は、余すことなく、金になる。屍体を狙う魔物が集まる前に、解体を終え、二台の犬橇に積んだ。

 

「エヴナの国へ行け」

 

 ミリス教の開祖が生まれる以前、大森林の死者が行くエヴナの国は、花咲き乱れる常春の楽園であった。

 戦闘で死んでいった仲間を悼み、そうして、赤竜の闘志を讃え、ルーが哀悼歌(キーン)を捧げた。

 即興で歌われるそれは、大森林の民の古い習わしの一つだが、ミリス教は、異教の悪習として禁じた。それでも、廃れることはなく、大森林には、今でも死者が出るたびに哀悼歌を作り歌うのを職業とする者もいる。

 ルーはよく響く声と、死者を讃え偲ぶ、皆の心にひびく言葉をもっていた。

 

 行きより少し小規模になった隊列で、カーリアンに向かった。

 

「帰ったら、何よりもまず、ぐっすり眠りたい」ゾルダートの横に並んだノイが言った。

「俺もだ」ゾルダートは応じた。討伐隊の中で年齢が下なのはノイだけだ。フェリムと同じか少し下くらいだと思うと親しみを感じる。

 ノイの手足には擦り傷があり、泥だらけだった。ノイは治癒魔術師だが、仲間の怪我をすべて癒していては魔力が持たない。重傷者を優先して、ささいな怪我は後回しだ。自分の体にしても、後回しの対象であった。

 

「その怪我はどうした」

「崖を落ちかけたんだ、すごく疲れていて……。クールミーンが助けてくれた。その代わり、クールミーンが、張り出した木の根っこで、腿を裂いてしまった」

「片足で助けたのか?」

 

 ゾルダートが驚くと、ノイは愉快そうに笑った。

 

「あの人はすごいぞ。削った秦皮を支えにして、平然と動くんだ。ふつう、手足を欠損した者は、慣れるのに数年を要するのに」

 

 と、言ったが、「俺のせいで怪我をさせた」とちょっとすまなそうな顔をした。

 

 

 


 

 

 

 冒険者たちの凱旋を、カーリアンの市民は快く祝った。

 鬱々としていた町の雰囲気が嘘のように、貴族は街角でパンだの肉だのを配り、酒屋ではただ酒が振る舞われた。

 

 フェリム、ナナホシ、シンシア、差配の夫婦とその子のイリヤとグリシャ兄弟、そのほか同じ宿屋の住人。彼らの間で、ゾルダートは髪の毛がボサボサに逆立つほど抱きしめられた。

 これまで習慣としてなにとなく交わしていた抱擁が、どれほど肉体と魂にとって重要なものか、初めて知った。

 なにか、心強くてあたたかいものが内部を充たした。

 

 この感覚をまた得られるのなら、とゾルダートは思った。俺は多分、死ぬまで冒険者をやめないだろう。

 ゾルダートの方がしゃがんでの抱擁をといた後も、シンシアはゾルダートの手を離さず、グリシャはゾルダートにまつわりつき、喜びと懐かしさを全身であらわしていた。

 

「トイリー。あなたにも、深い感謝を」

 

 フェリムがトイリーと抱擁し、ちょっと身をかがめて口の端を両頬につけた。

 市門を潜り、冒険者ギルドへ向かう隊列からゾルダートは一旦抜け、酒箒邸に顔を出した。

 私はゾルダートを助けるとあの子たちに約束した。再会まで見届けたい。そう言い、トイリーが付いてきたのだった。

 

「子供が喜んでいるのは、いいな。見ていて心地いい」

 

 トイリーは抱きついてきたシンシアに頬ずりを返した。

 ひとしきり生還を喜び、「討伐の話をしてよ」とグリシャが興奮気味に言うや、ルーが息せき切って宿屋に訪ねてきた。

 急ぐあまり四つ足で駆けてきたらしい。掌が黒く汚れていた。

 

「来てくれ、トイリー。クールミーンが危ない」

 

 

 

 

 できることなら、記憶から消し去りたい姿であった。

 ゾルダートたちが到着したときには、クールミーンはすでに絶命していたのだが、恐怖と苦痛が全身に鏤刻されているようで、ゾルダートは目をそむけそうになった。シンシアを――小さな女の子をもし連れてきていたら、俺は両瞼を手で覆ってやり、二度と見られないようにするだろう。

 

 教会内の一室に横たえられていたが、奇妙な形に歪んだまま硬直した躰は、神父が聖水をかけ祈祷しても擦ってもまともにならず、集まった人々は悲しみよりも恐怖に打ちひしがれた。

 

 戦勝と帰還を祝う宴の席で、突然、顔がひきつれ始めた、とリョーリャは語った。呼吸がおかしくなり、そのうち、体が弓なりに激しく反って、痙攣し始めた。その勢いは強烈で、取り鎮めようとする者をはね飛ばした。

 俊足のルーがトイリーに助けを求めて外へ駆け出したのはそのときだ。

 

「毒を盛られた。そう思いもした。だが、席にいたのは、俺たち仲間だけだ」

 

「だれの仕業だ」ハウの声は、これ以上ないほど怒りに充ちていた。

 

「潰れた足の処置をしたのは、ノイだ。癒す者の前では、いかにクールミーンでも、無防備にもなるだろう」

「俺の魔術のせいだと言うのか」

 

 ハウに胸ぐらを掴まれ、怯えたノイは睨み返した。

 クールミーンと同じ席にいた冒険者の中には、動揺のあまり酒瓶を掴んだまま駆けつけた者もいた。ノイは酒瓶をぶん取り、ボトルネックを掴んで壁に叩きつけ、破片の鋭い切っ先を向けた。

 

「ミリス様に誓って言う、俺は誠心誠意治癒に当たった。見ろ、塞いだ断面は、膿んでもいない。それでも、まだ疑うか」

「ごたくさ抜かすな。俺が勝てば、てめぇが下手人だ」

 

「よせ、教会だぞ」腰の湾刀(シャシュカ)を抜きかけたハウを数人が押しとどめた。

 仲間内の和を重んじ、率先して仲裁する役割のトイリーは、沈痛な顔でクールミーンの(はだ)に触れていた。

 

「このような症状をみせる病人は、ときどき、いた。救う手立てはなかった」

「悪魔が取り憑いたのだ。悪魔に殺された」

 

 老神父の声は(ふる)えていた。

 風呂頭の倅の潰瘍は自信を持って治療に当たったトイリーであったが、背骨のへし折れた死者を生き返らせる奇跡は起こせない。

 

「せめて、戦いの中で死んでいったなら誇れた」

 

 こんな死に方、あるかよ。くそっ。

 ハウの悪態に、ほとんどの者が同調した。

 

 いつもは温厚な老神父は、ミロンたちのように戦死した者の遺骨は教会の墓地に受け入れても、悪魔に取り殺された者を埋葬することだけは断固として許さなかった。

 

 土壌の中に破傷風菌という病原体がひそみ、傷口から体内に入り込み、強直性の痙攣を引き起こし、死に至らしめることがあると解明された時代に生きていたのは、ナナホシのみだ。

 破傷風の治療法自体は明治23年に細菌学者の北里柴三郎によって確立されていたのだが、チサのように山間の集落に住む者にまで周知されてはいない。さらに、兵士等によって破傷風ワクチンが一般的に利用されたのはチサの死から数十年後、第二次世界大戦の時である。ゆえにシンシアにとっても、破傷風は原因がわからない、治す手だてもない、死の病であった。

 破傷風の症状を呈した遺体を前に、フェリムとシンシアと共に葬儀に参加したナナホシは、真実に辿りつきかけていた。

 しかし、ゾルダートに即座に目を背けるように言われ、また、彼女も己の考察を正確にあらわす語彙をまだ持たないのだった。

 

 ルーとフェリムの知識のもと、彼らは大森林の習わしに従ってクールミーンの処置を行った。

 悪魔に遺骸を利用させてはならない。頭部を切断し、体とは別々に焼いた。護符を焼いた灰と混ぜ、体の灰は川の表面に張った氷を叩き割って流した。大森林にルーツをもつ彼らにしても又聞きの知識であり、正式なやり方か確信はなかった。思いつく限りの方法を実行した。

 

 頭部の灰は箱におさめ、郊外の荒涼とした地に運んだ。

 冒険者たちが深い穴を掘り、箱の中の灰を撒き、箱も穴の中で焼いた。土をかぶせた上から、聖水が豪雨のように注がれた。

 

 モリーガンとの戦闘より、はるかに皆は怯えていた。相手が悪魔では、戦うすべがわからない。

 

「ルー、クールミーンのために、哀悼歌を歌ってくれ」

 

 トイリーはルーに訴えた。ルーは首を横に振った。

 

「なぜだ。お前は、犬にも歌ったじゃないか。なぜ、クールミーンはだめなんだ」

「戦って死んだ者にも病で死んだ者にも、哀悼歌(キーン)は捧げられる。だが、悪魔に取り憑かれ死んだ者のために歌うことはできない。歌った者に、悪魔は目をつける」

「悪魔ではない。あれは病だ」

「悪魔だ。おれはそう教えられた」

 

「クールミーンの魂を、神よ、悪魔の手より護れ」

 

 我知らず、ゾルダートは歌っていた。

 

「神よ、クールミーンの魂を護り給え」と、リョーリャが続けた。「冬の森を、彼は狼のように駆け、戦地では皆を鼓舞した」ハウとガリバーが加わった。

「魂を護り給え」トイリーが、ルーが、和し、

「彼は戦いにあっては誰よりも勇ましく、休息のときは陽だまりより優しかった」と、ノイが続けた。

 

「クールミーンよ、安らかに眠れ」

 

 すべての者が歌った。

 ゾルダートはシンシアとナナホシに目を向けた。

 悪魔はか弱い子供と女から目をつける。存在を気取られないように、葬儀中は走ることはおろか、喋ったり笑い声をたてることも禁じていたのだが、彼女たちが小声で歌うのを冒険者たちは許した。

 歌った者に目をつけるなら、それは、ここに居るすべての者を相手にすることだ。

 

 

 ギルドへの道を歩みながら、「坊やに遅れをとった」リョーリャがゾルダートに近寄り、言った。

 

「これからは、二度と臆さない。相手が悪魔であろうと」

「ああ。頼むぜ」

 

 坊やと揶揄されるのは、もはや気にならなかった。

 リョーリャは真剣な顔をしていたし、上位ランクの彼らにとって、ゾルダートは紛れもなく未熟なのだ。

 

「疑ってすまない」ハウはノイに謝罪した。剣の聖地の男がよくやるやり方で自分の胸を叩いて己を責め、自分を呪う言葉を吐いた。ノイはハウを許し、和解が成立した。

 

 赤竜討伐という大仕事に当たって、ギルドは死者の追善のためにクチヤ*1を振る舞った。

 死者の分け前は、討伐に参加したすべての者に均等に分けられる。

 娼館に誘われたのだが、女を買って遊ぶ気にもならず、膨らんだ財布を手に宿屋に帰った。クールミーンが悪魔に取り殺されたというのに、町は祭り騒ぎだ。皆、楽しみに飢えていた。

 

 さっさと部屋に引っ込み、寝台に体をのばした。長剣は横に放った。

 譲り受けた長剣が、そのまま、遺品になった……。

 

 

「ゾルダート、メシだ、めし」

「……あ?」

 

 物思いに沈むうちに、睡っていた。

 ナナホシに揺り起こされ、視線をやった窓の外が昏い。階下からは食堂の騒ぎがかすかに聞こえてきた。

 

「いらねえ」

 

 寝返りを打ち、ナナホシに背中を向けた。ナナホシはゾルダートの前に移動し、顔を覗き込んできた。

 

 薄闇の中で、ナナホシの丸っこい目元が愛らしく、黒髪を一房耳にかける仕草がたいそう色っぽいのに、ゾルダートは気づいた。

 腕をつかんで引き、ベッドの上で押し被さった。ナナホシは、信頼する兄が突如顔色を変えて殴りつけてきたような顔をした。

 良心が痛む余裕は十七のゾルダートになく、性急に首元に顔を伏せ、膝から腿を撫で上げた。

 

『きゃあああ!!』

 

 ナナホシはものすごく暴れた。

 一度溢れた欲は押さえ込めない。蹴り飛ばしてこようとする足を押さえ、強行しようとして、じっと入り口からこちらを見ているシンシアに気づき、ぎょっとした。

 生じた隙のうちに、ナナホシはゾルダートの下から抜け出し、ドタバタと部屋を出ていった。

 

「……んー……あー……居たのかよ」

「……」

 

 きょとんとして黙るシンシアの手には、筆具が握られていた。筆具の先端は錐のように鋭く尖っている。

 ゾルダートはごろりと寝そべり、シンシアを手招き、そっと筆具を取り上げた。

 

 階段を駆け上がる音が響いた。

 現れたナナホシは、真っ赤になった顔で、掴んだものを振りかぶった。

 

『……っ!』

「ぐっ!?」

 

 ナナホシは椅子の脚を両手でつかんでゾルダートの腹に何度も振り下ろした。

 あまりのことに一撃目は喰らったが、追撃は腕で防ぐゾルダート。「おーばーきる!」と、シンシアは思わず言った。兄のルーデウスから覚えた言葉であった。

 

 無言の攻防がしばし繰り広げられ、ハァハァと息の上がったナナホシはゾルダートを眺めて言った。

 

「……ちっ、いきなりキックしたことは謝るよ……」

「椅子で殴ったことを謝ってくれねえかな……」

 

「ナナホシ? 急に椅子を持ってどうした?」

 

 ナナホシはゾルダートにふいと背中を向け、彼女を追ってのんびり現れたルーにギュッと抱きついた。

 

「発情の匂いがする……」

 

 ルーは要らぬことを言った。

 続いてフェリムが、床に打ち捨てられた椅子、ルーから離れないナナホシ、ベッドで心なしか憔悴したゾルダートを見つけて吹き出した。

 

「アッハハ! ふられてやがんの! だっせ!」

 

 酷い仕打ちである。ゾルダートはアリスティアにふられたフェリムを慰めたのに、フェリムはこの言い草だ。

 ゆらりと起き上がったゾルダートに己の失言を悟ったフェリムは、逃走した。食堂まで追いかけてヘッドロックを仕掛けた。やんやと野次が飛ぶ。

 

「ごめん! マジでごめんって! でも無理やりはダメだろ!」

 

 確かにそうだ。

 ぎゃあぎゃあともがくフェリムを解放し、ドカッと席についた。

 

「おかみ、俺も飯!」

 

 動いたら腹が減ったのだった。

 

 

 翌日、部屋を出たゾルダートは、廊下でナナホシとはち合わせた。ナナホシは昨夜はルーのもとに泊まっていた。

 明るい場所で見ると、言葉の完全ではない少女に悪いことをした、という気になる。

 

「……よお」

 

 気まずくなっていると、ナナホシはわざとらしく怒った顔をして、拳をつき出して殴る素振りをした。

 見るからにやわいパンチは、当たってもまったく痛くはないのだろうが、ゾルダートは重いのを喰らって悶え苦しむ演技をした。

 それは、日本の学校で、親しい男女がなにとなく交わす短いふざけあいとそっくり一緒であった。

 

「アハハ……」

 

 ナナホシは笑いながら横を通り抜けた。許されたらしかった。

 

 

 

「お前も来てたんだな」

「ゾルダート」

 

 盛った土の前に、トイリーがしゃがんでいた。

 クールミーンの頭部の灰を埋めた場所だ。

 

「何をしにきた?」

「こっちのやり方では弔ってねえからさ。トイリーもそうだろ」

「ああ」

 

 墓地では、埋葬の後すぐに故人の追善が行われる。故人の供養のために火酒(ウォッカ)を飲むのである。立ったまま、何も食べずに飲むのだ。

 

 トイリーはちょっと笑い、「困ったな、三人分も杯を用意してないんだ」と言いながら、ウォッカを注いだ杯を墓の前に置き、酒壺をゾルダートに渡した。

 すぐに酔っ払う質であるため、少しだけ呷ってから、酒壺を返した。トイリーが残りを飲みほした。

 

「どこに行くにせよ、丸腰は心もとない」

 

 紅い光沢を持つ竜鱗を、一枚、ゾルダートはもらっていた。

 傍に埋めた。モリーガンは強力な守護者(ガーディアン)となり、クールミーンを背に乗せて飛翔するだろう。

 

「大地が君にとっての綿毛になるように」

 

 トイリーが祈りを捧げた。ラノアでよく使われる葬儀の結びの文句だ。

 

「クールミーンはくたばりやがった。次のパーティリーダーはトイリーだな」

「いや、解散だ」

 

 なかば茶化して言うと、トイリーは少し寂しそうにした。

 戦斧使いのガリバーはソロで、剣士のハウは同じくパーティメンバーが亡くなったノイとしばらく二人でやっていくらしい。

 ハウとノイに誘われもしたが、断った、とトイリーは語った。ノイは成人前で、冒険者はとかく死にやすい職業だ。子供が死ぬところを見たくない。

 

「お前はどうするんだ」

「さぁ……決めてない」

「……じゃあよ、俺と来ねえか?」

 

 ゾルダートはすでにフェリムとルーとパーティを組む約束を交わしている。

 ゾルダートのランクがひとつ上がったのでフェリムを正式にパーティに加えるのは少し後になってしまったが、冬が終われば行動を共にする予定だ。

 仲間内では一番歳若いフェリムも成人している。トイリーの嫌がることは起こらないし、俺が死なせねえ、ともゾルダートは思っていた。

 

「剣士の俺に、魔術師のフェリム、戦士のルー、そこに、魔法戦士のトイリーだ。種族も職業もバラバラだが、ぜってえ、そっちのほうが面白いだろ?」

「……ああ。きっと、楽しいだろうな」

 

 トイリーは差し伸べられた手をがっちり掴んだ。

 

 

 


 

 

 

 雪解けの始末は大ごとだ。積雪に傷んだ屋根を直し、溝を修理し、ようやくひと片付きしたと思えば、また雪にみまわれる。せっかくの作業が台無しになる。その繰り返しだ。

 それでも、差す光に温もりが増し、風が痛くなくなった。春は近づいていた。

 

 ゾルダートがナナホシとシンシアの護衛を務めるのは、三ヶ月の契約である。

 春が来るのは、彼女たちとの別れが近づくことだ。思い返せば、妹のような奴らと暮らすのは初めてのことで、楽しかった気さえする。

 

 ある夜、ゾルダートは気配を感じて飛び起きた。

 ただの気配ではない。何かとてつもなく邪悪な気配だ。

 フェリ厶とトイリーとルーと酒盛りをし、いつしか寝落ちていた。別室にはナナホシとシンシアを寝かせてある。

 傍らの長剣をひっつかみ、暗闇の中、弾丸のように二人の部屋に飛びこんだ。

 

「起きてた……のか、お前ら」

 

 ナナホシとシンシアは窓辺に立っていた。窓は開け放たれ、窓掛が風で少し揺れていた。

 いきなり扉を開けたゾルダートに、二人は驚いた顔を向けた。

 

「無事か」

 

 瞳孔の細まったルーも飛び込んできた。

 後に、短剣を構え手燭を持ったトイリーが来て、用心深く部屋を照らした。

 

「何か来たのか?」

 

「なんも来てないよ」とシンシアは首を横に振った。見つめると、「なにもいないったら!」と言い張った。

 ルーがすんすん鼻を鳴らし、侵入者の有無を匂いで探ろうとした。フェリムの聴覚にも頼りたいところだが、ぐうすか寝ている。

 

「どうだ?」

「いた……と言えば、いた。いないと言えばいない」

「ふざけてるのか」

「違う。本当にわからない。匂いが薄すぎる」

 

 寒そうに肩をすくめたシンシアが、ゾルダートの外套の中に入ってきた。

 そのまま窓辺まで歩き、下の街路を覗いたが、無人だ。

 

 今さら起き出してきたフェリムは、トイリーに頬を張られた。「冒険者たるもの異変には敏感になれ」と言われながら、目を白黒させていた。

 

 

 

 足場は雪解け水によってぬかるむ。かと思えば、日照時間が短い箇所には、雪がまだ残っている。

 雪を見つけると無意味に踏みに行くシンシアは、とうとうルーに抱えられた。

 シンシアとナナホシの旅装を買い揃えてやった帰途であった。

 

「この光景が見られると、春が来たって感じだ」

 

 外のあちらこちらで見られる大鍋と、立ちのぼる煙を眺め、フェリムが言った。

 冬のあいだ、肉を食べたあとの骨を集めておき、春になったら屋外で長時間煮る。すっかり軟らかくなったのを叩いて潰し、白いクリーム状になったのをバターのようにパンに塗って食べる習慣が、この地域にはあった。

 

 教会の前の広場に人だかりができているのに出会った。

 ゾルダートは、傍らの樹にのぼった。シンシアが羨ましそうにしたので、手を伸べ、引き上げて抱えてやった。

 フェリムも続いた。ナナホシに手を貸した。ルーも敏捷にのぼってきた。

 トイリーが、一つ下の枝に跨った。

 ほかの太い枝には、すでに野次馬が座を占めている。

 地上の見物の群れは、長い棒を横に構えた男たちによって押し退けられ、広い空間が確保されている。

 

 教会の建物を背に、一人の男が高々とボールを掲げた。

 二組に分かれた男たちが、殺気だってボールを見つめる。

 

「何をしてる?」

 

 大人しそうな見た目に拠らず、好奇心旺盛なナナホシが訊ねた。下の枝にいるトイリーが説明した。

 

「独身者のグループと妻帯者のグループに分かれている。教会と反対側の端に立った柱に、的が打ちつけてあるだろう。ボールを奪ってあの的にぶつけた方が、勝ちだ」

 

 毎年、この時期になると開催される行事であった。

 よく見ると、差配の親父と長男も参加している。

 親父は妻帯者、長男は独身者の陣だ。

 

「俺らも飛び入り参加するか」

「おれは女だから無理だな。だいたい、参加資格は18歳からだ。お前はまだ17だろう」

「誤差だ、そんなもん」

 

 腕をまくる素振りをすると、ナナホシがくすくす笑った。

 

「みんなはどっちに賭けるよ。俺、若いのが多い独身に賭ける」とフェリムが言った。

 

「おれも、独身に賭ける。精力がありあまっていそうだ」

「ところが、妻帯者のグループのほうが勝率が高い」

 

「そうだよな?」ゾルダートはトイリーに同意を求めた。

 

「ああ。女房への鬱憤がたまっているから、爆発力が強いそうだ」

 

「シンディ、ナナホシ、どっちに賭ける?」フェリムが訊くと、シンシアはちょっと考えてから独身者を、ナナホシは妻帯者のグループを指さした。

 

「ボールは、豚の膀胱に息を吹き込んで膨らませ、革で包んだものだ」膝の上に仲間の賭け金を回収しながら、トイリーはさらに言った。

 

「数年前だったか、かつてのパーティメンバー全員で参加しようとした事があったが、私だけ通らなかった。子供に見えるのが悪いらしい」

「手ごろなのをぶちのめして、腕力を示せば認められたんじゃないか」

 

 ルーが愉快そうに言った。トイリーは笑いながら返した。

 

「クールミーンも同じことを言ってな、試しに審判を……」

「やったのか?」

「殴るわけにはいかないから、仲間内で八百長をやって見せた」

「どうだった?」

「認められなかった。見た目は重大な要素なんだ」

 

「見た目とか、関係ねえよ。俺はトイリーのこと尊敬してる。やさしいし、物知りだし」とフェリムが慰めた。ゾルダートも同意見であった。

 

 ボールが放り投げられるや、乱闘が始まった。殴る、蹴る、服を引き裂く、倒れた奴を踏みつける。ボールを摑んだ奴は、たちまち、殺到する群れに潰された。

 ボールがどこにあるか、まるで見分けがつかない。

 

「これじゃ、みんな人を殴りたいだけみたい」

 

 一対一の喧嘩なら怯えず見物しているシンシアだが、これにはちょっと圧倒されたようにゾルダートの外套を掴んできた。

 

「そうだ。ボールがどこにあるかなんか関係ねえ、手当たり次第に殴った奴が勝ちだ」

「男の人って、どうして戦うの好きなの」

 

 愛らしい幼い女の子の物憂げな疑問は、ゾルダートたちのみならず、幾人かの地元の見物の笑いも誘った。「賭博と酒、淫売婦も大好きだ!」――俺も! ゾルダートは怒鳴り返した。

 大声で体が揺れたからか、シンシアがしがみついてくる。

 全身で頼られるのは気分がいい。「安心しろ、落とさねえよ」としっかり抱き込んでやった。

 

 高く宙を舞うボールが、ゾルダートたちの方に飛んできた。

 片手を伸ばしたが、ボールの位置はやや低く、受け止めたのはトイリーであった。

 

「こっちだ!」

「こっちへ放れ!」

 

 男たちは、手を振りまわし、胸を叩いて喚く。

 無造作に投げ返そうとしたトイリーの手が、止まった。

 地上の一点を見つめている。

 ゾルダートは視線の先を追った。

 殴りあい掴みあう群れから少し離れて、男が一人、こちらを見上げていた。

 トイリーとその男の視線は、一すじの糸になっていた。

 男はゾルダートたちのいる樹に走り寄ってきた。男の髪は、陽光を受けてエメラルドグリーンに光った。

 一瞬だけの錯覚だ。男の髪は深い青色であった。

 

「ロイヒリン! ……」

 

 男が発したのは一語だけだった。

 トイリーの本名はロイヒリンだった、とゾルダートは思い出した。ロイヒリン・ミグルディア……。

 二人は見つめあい、何も喋らなかった。それなのに、多くの言葉が交わされていた。

 ミグルド族は、声を使わずに言葉のやりとりをする。念話といって、頭に直接言葉を届けるのだ、とトイリーがかつて教えたことまで思い出した。

 

 男は樹から離れ、少し行ってからトイリーを見つめた。

 また、声を介さない会話がトイリーと男のあいだに成された。

 トイリーの表情に、ゾルダートは喜びと当惑を見た。

 

 男は広場を抜け出し、「用がある」とゾルダートたちに言い残し、トイリーも続いて離れた。

 

 

 シンシアとナナホシを依頼主に無事に引き渡すまでの十数日を、ゾルダートは普段と変わりなく過ごした。

 賭博と酒に興じ、フェリムに戦い方を教え、群がってくる近所の子供たちを適当に構う。淫売婦との遊びは、どうしても我慢ならない時以外では控えた。ナナホシたちの財布を預かることで多少は節約を覚えていたのだった。

 

 ガログラスの訓練兵時代の賜物か、基礎がある程度できているフェリムの成長は目覚しい。すぐにでも共に仕事をできると思うほどだ。

 CおよびB級は冒険者としてのイロハを完全に理解した中堅冒険者という扱いである。

 自身はBだが長年A級パーティで仕事をしてきたトイリー、

 B級だてらに赤竜討伐を果たしたゾルダート、

 A級冒険者のルー。

 と、三人のベテランがついているのは、フェリムにとってもたいそう心強いのだろう。

 伸びやかに日々の依頼をこなし、必要とあらば遠慮なくゾルダートたちを頼ってくる。

 

 トイリーはあの日のうちに戻り、持ち出してしまった皆の賭け金を詫びと共に返した。

 はした賭け金より、ゾルダートはあの男に相対したトイリーの態度のほうが気がかりであった。

 誰だったんだ。訊ねると、息子だ、と平然と答えた。お前の種族は、子供の姿のまま変わらないんだろう。相手は、俺より年上に見えたぞ。母親が人族だ。トイリーは深くを語らなかった。

 死んだと思っていたんだ。生きていた。と続く声は、喜びと葛藤が、複雑に入り交じっているようであった。

 

 

 長期に渡る依頼の完了日である。

 活動する者が少ない早朝に、ゾルダートはナナホシとシンシアを連れて宿屋を出た。

 早朝であるのは、依頼主がギルドを介して指定していたからだ。まるで人目を避けているようだ、とゾルダートは思った。

 

「グリシャ、さよなら!」

 

 後ろを振りむき、シンシアが手を振った。

 朝ぼらけの中、高く造られた宿の玄関横に立ったグリシャは、シンシアにキスを投げた。

 シンシアの反応を待たず、しかめ面で階段をかけ上がって宿に引っ込んだ。〈陽気な酒箒〉で進行していた小さな恋は、終わった。

 子供を特別愛らしいと感じたことはないが、ゾルダートはちょっと微笑ましくなった。

 

 ああ、いとしいオーガスティン。なんにもない。

 ゾルダートが何気なく口ずさんだ歌を憶えたのだろう。シンシアは市門までの道すがら歌った。

 彼女たちともう会うことはないのだと思い、ゾルダートも和してやった。いとしいオーガスティン。長い葬式の列。

 

 門を開けるには早い時刻であるが、賄賂はほとんどの不可能を可能にする。銀貨を受け取った門番の兵士は三人を通した。

 

 河の氷が溶ける落雷のような轟音が鳴った。

 依頼主はまだか。周囲を見回したゾルダートの袖を引き、シンシアが木札を持たせた。

 依頼の完了を証する札だ。ギルドに提出すると、依頼主があらかじめ預けておいた報酬金が冒険者に支払われる。

 依頼主が、ゾルダートに渡すべきものだ。シンシアが持つべきものではない。

 

「夜に、窓あけてた日、あったでしょ。ほんとはあのときオルステッドが来ててね、部屋にこれだけ置いて、私たちのこと連れていこうとしてたの。

 でも急にお別れするの寂しかったから、今日まで待ってもらったのよ」

「来てた、って……。なんで、自分のものを取りに来るのに、んな攫うような真似するんだよ」

「嫌われちゃう呪いのせい」

 

「ゾルダートさんが帰ったら、オルステッドも来るって言ってた」と、シンシアは市門を指さした。

 依頼完了の札はすでにゾルダートの手にある。

 ゾルダートが去れば、オルステッドという男が到着するまで、シンシアとナナホシの二人だけだ。

 心配する気持ちもあったが、城塞都市の近くに魔物が出ることはそうそう無い。よしんば何かあったとしても、大声を出せば門番の兵士に聞こえる位置だ。

 

「ゾルダートさん、いままでありがとう。お世話になりました」

「世話、なった。タッシャでな」

 

 シンシアは笑顔だ。別れた者たちがまた逢うことの難しさを真から理解していない子供の顔であった。

 ナナホシは淋しそうであったが、やはり笑顔を向けた。

 ゾルダートも名残惜しかった。別れには慣れているとはいえ、心が動かなくなるわけではないのだ。

 

「シンディ、見てみろ」

「?」

 

 ポケットに入れた物を取り出し、端をつまんで見せた。レースで縁取られた白いハンカチだ。

 手作業で編まれる繊細なレースは高級品だ。傭兵が娼婦の機嫌とりのため贈る場面を、ゾルダートは何度か見たことがあった。

 

 片膝をついてしゃがんだ。手元を見つめてくるシンシアの前で、ハンカチを左掌にのせ、中央をつまんで一ひねりし、右手で覆い団子を丸めるようにくるりと動かした。

 

「きれい!」

 

 右手をどけると、左の掌の上で、ハンカチは薔薇の形に丸まっている。

 左手をちょっと押し出し、シンシアに持たせた。子供の小さい指がつまむと薔薇はただのハンカチに戻った。

 

「いつかの治癒魔術の礼だよ。遅くなっちまって悪ぃな」

 

 シンシアはゾルダートを真似てハンカチを丸め、くしゃくしゃなかたまりに首をかしげている。

 ゾルダートは彼女の丸っこい頭を撫でて立ち上がった。

 

「そんじゃ、元気でな」

 

 一人ずつ抱擁をかわし、別れた。

 賄賂をさらに要求した門番の兵士を反射で殴り、ちょっと考えてから追加を無理やり持たせ、門を潜った。

「さよなら!」と声がかかった。振り返らず、片手をあげた。

 

 

 この日、町を出るのは、彼女たちだけではない。

 彼女たちを南門まで送り届けた後、ゾルダートたちもまた、迷宮を目ざし、ネリス公国第三都市ドウムへと発つのだ。

 

 踵を返してギルドに寄り、札と引き換えに報酬を手にした。

 そうして北門に向かう道すがら、人族にない特徴を持つ者と、ゾルダートは何度もすれ違った。男は、鍋の修繕の注文をとりに家々をのぞき、女たちは魔物の角でつくった櫛だの手作りの籠だのを売り歩く。老婆は通行人をよびとめて占い、厄災を予言して護符を売りつけ、子供は駆けまわり、見てまわる。めぼしいものを見つけては、持主の目がはなれているときに、さっとくすねる。

 町を追われた魔族の血を引く者たちが、戻ってきたのだった。町の活気も戻ってきていた。

 

 市壁の傍で、ルーと共にゾルダートを待っていたフェリムが手を振った。振りかえし、走り寄った。

 護衛を引き受ける契約で隊商の馬車に相乗りすれば移動費を抑えられるが、ゾルダートたちは金銭に余裕がある。四輪荷馬車(チェレーガ)を一台借りた。幌はないが、贅沢に馭者付きだ。

 

「ナナホシたちは行ったか」

「ああ」

「ちびが居ないと寂しくなるな」

 

 フェリムは「ちび」と言うとき、地面と平行にした手を腿のあたりに持っていき、現実よりかなり低く体長を再現してみせた。

 ゾルダートは笑いながら、しかしささやかな疑心にかられてもいた。トイリーはいつごろ来るのだろうか。

 

 

 出発の時間になっても、トイリーは現れなかった。

 仲間と手分けして探す暇はない。すでにチェレーガの馭者はゾルダートたちが乗り込むのを待ち構えていた。

 ゾルダートに遠慮がちな声をかけたのは、ジョシュであった。

 

「トイリーから」と、ジョシュは言った。「あなたがたに伝言を頼まれた。『すまない』って」

 

「それだけか?」

「それだけ」

「なんでトイリーは消えたんだ」

「知らない」

 

 腹が立ち、淋しさがその後に続いた。

 舌を解き放ってくれた。共に戦った。誘いに(ダー)と言ってくれた。トイリーの学識に畏敬の念を持った。ゾルダートは格別な親しみを感じていたのだが、一方的なものだったらしい。

 魔大陸の少数民族が、北方大地の開拓奴隷になるまでのいきさつ、そうして冒険者になった事情。いっさいを、トイリーは語らなかった。

 ロイヒリンという本名で生きていた歳月は、トイリーとして生きた時に数倍する。

 トイリーは、ロイヒリン・ミグルディアに戻ったのだ。

 

「俺、あなたたちのことは、けっこう好きだ。またカーリアンに来てよ」

 

 ジョシュは明るく言い、「よい旅を(シシスリーヴァヴァプチー)!」と、軽業師のような身のこなしで雑踏に紛れていった。

 

漂白楽師(スコモローフ)! 乗れよ、ドウムまで一緒に行こう!」

 

 フェリムが誘い、顔なじみの楽師二人組が乗り込んできた。ルーが馭者に命じ、チェレーガは進みだした。

 気を変えて、ゾルダートは訊ねた。

 

「ルー、お前は、本名を誰にも明かさねえよな」

「ああ」

 

 人語話者には発音が困難だから、と、普段ならば理由をつけるルーであったが、今日は異なることを言った。

 

「おれの名は、ただ一つ身に残った、だれにも奪わせぬ我がもの。だから、言わない」

 

 信頼がないのか、とは、感じなかった。

 実力がものを言う冒険者界隈にとって、行動は相手をはかる最大の指標だ。ルーの普段の行動から、強い信頼を向けられていることはわかりきっていた。

 

 原始の森からは、炭焼きが薪を燃やすにおいがすがすがしく風にのって流れ、樹林の根元には野生の小さい花が咲き始めていた。

 

「そうだ! パーティ名はどうする?」

 

 フェリムが訊ねてきた。これから起こるあらゆることへの期待に充ちた表情であった。

「俺らが付けてやろうか、エルフっ子」楽師が口を挟み、フェリムはちょっと首をかしげて首筋を人さし指ではじいてみせた。

 酔っぱってるのか――いかれてるのか、と仕草で答えたのだった。

 

「これ以上ねえほど、良い案があるぜ」

「えー、じゃあそれで決定じゃねえか」

「ほう? 言ってみろ、ゾルダート」

 

 ゾルダートは背から外していた長剣に、目を向けた。

 悪魔に敗北したクールミーンの遺体は記憶に焼きついている。

 彼を呆然と見下ろし、冷静さを欠こうとしていたトイリー。突然、ロイリヒンに戻ったトイリー。

 残された者は、墓前で手をとったトイリーこそが真実の面であったと思うほかない。

 

 幾つもの生が、触れあい、また離れていく。他人について自分が知るのは、触れあった一瞬のみだ。

 ゾルダートは仲間たちの顔を見据え、高らかに言った。

 

「決まってんだろ、〈ステップトリーダー〉だ!」

 

 

 

 


 

 

 

 

【おまけ】

シンシア視点

 

「腕輪を出せ」

「はい」

 

 三ヶ月ぶりのオルステッドだ。とっても久しぶりである。

 私はちょっと髪が伸びて、生きるための知識が増えた気がするが、オルステッドの外見は何も変わってなかった。髪も背も。

 私たちは服装もちょっと変わった。ゾルダートさんたちがベルトに括り付けられる小さめの鞄や小刀等、いろいろと見繕ってくれたのだ。

 

 ごそごそと首にかけた革紐を引き、服の内側に入れていた腕輪を出す。

 首から外したはいいが、結び目が固くて解けない。

 腕輪と紐を分離できない。困った。本当に困った。

 

「ナナホシ……」

 

 を、頼る前に、オルステッドがひょいと紐ごと取り上げる。

「なぜ直接身につけん」と怪訝そうに言いながら、革紐を枯草のように切って捨て、腕輪を自分の腕に嵌めた。

 まだ使える紐だったのに。……丈夫な紐だったのに!

 

「行くぞ」

 

 紐を拾い上げた私は、小走りになってオルステッドに追いついた。

 けして短くない付き合いになるのだし、当面の目標はオルステッドに優しくしてもらうことだ。

 優しくされるには、仲良くなるしかない。

 仲良くなるには、いっしょに遊んだり喋ったりして、互いのことを知るといい。

 

 喋ることはたくさんある。

 カーリアンで過ごした日々に、ベリトと友達になって別れたこと、ゾルダートさんが帰ってきて嬉しかったこと、様々だ。

 

 

「それでね、えっとね……けほっ」

 

 むせた。移動しながらの喋りつづけで喉が渇いていた。

 意識するのを忘れていたが、なかなか時間が経っていたらしい。

 太陽の位置が東から西に変わっていた。もうほとんど夜だ。

 

「ふぅ」

 

 小休憩をはさみ、水を飲む。首も疲れた。

 オルステッドはなんだか「うるさい」って顔してる。

 

「……よく話が尽きんな」

「色々なことあったもの」

 

 オルステッドはため息をついた。

 

「貴様らが無事に過ごした事はよくわかった。もう喋るな」

 

 しゅん。

 話したいことはまだ色々ある。

 カーリアンの珍しいお風呂とか、ゾルダートさんのこととか……。

 焚き火のそばで寝床の用意をしていたナナホシは、笑顔で私に言った。

 

「発情」

 

 何がなの。

 きょとんとした私を見てか、ナナホシは違う違うと首と手を振った。

 

「発情、その前、手前!」

「はつじょーの前? 興奮?」

 

 だとしたら変だ。私は興奮はしていない。

 ナナホシもちょっと考えてから首を振った。

 

「獣族であれば、発情期の前には雨季があるが」

「雨季って言いたいの? ナナホシ」

 

 オルステッドも解読に参加してくれた。

 ゾルダートさんのところにいた時のようなナナホシ語考察の賑やかさはないが、ちょっと嬉しくなる。

 彼に私たちと関わる気があるということだからだ。

 しかし、私かオルステッドが正解にたどり着くより前に、ナナホシは自力でその言葉を捻り出した。

 

「恋! 初恋だ!」

「恋? 私がだれに?」

「ゾルダート」

「えっ」

 

 恋。初恋。

 私がゾルダートさんに。

 

 言いたいことを正確に表せたナナホシは満足気である。

「おもしれー女……」と私に言い、なんか違うなという顔をしてから、「可愛い可愛い」と言って私の頭を撫でた。

 

「私ってゾルダートさんに初恋してた?」

「……その者に割く思考の比重は多いように感じた。異性に数ヶ月のあいだ守られ、共に過したなら、そうなる可能性は大いにある」

「そうなの……」

 

 二人に言われてみれば、そうかも、という気になってくる。

 キスはベリトとしたしベリトのことは大好きだが、女の子同士だ。

 ゾルダートさんにはベリトには感じない頼もしさがあった。

 陶然としてしまうような、英雄然とした逞しさ、強さである。

 それに、とくに理由はないのに何となくそうしたくて、膝に座ったりくっついてみた回数は多い。

 恋と発情は別もの、とゾルダートさんに教えられていたから、ナナホシの言いたいことはすぐに分からなかったけれど。

 

「えへ、へへっ」

 

 そっか。

 そっかあ。私って、恋できたんだ。

 

 ゾルダートさんは同じくらいの年頃の女が好きだし、トウビョウ様はいるし、結ばれることはない。

 でも片想いを大事に抱えてるだけでも良いのだ。

 母様もリーリャも、結婚は父様としたけれど、初恋は別にある。

 母様は生家の庭師の息子に、リーリャは町の渡し守の青年に、それぞれほのかな恋心を持ったのだ。

 父様のことは愛してるけれど、これも大事な思い出だ、と二人は言っていた。

 

「ナナホシ、恋バナしよ!」

「すぴー……」

 

 恋バナ。それは、私がいままで微妙に仲間に入れなかった話題。

 ここ数年、村の女の子たちがよくしていた、最大と言っても過言ではない娯楽である。

 あれに挑戦せんとナナホシに声をかけたが、彼女は既に寝入っていた。起こすのを躊躇われる安らかな寝顔である。

 

「ふー……」

 

 仕方がない。

 

「オルステッドって好きな人いるの」

「……俺、と……する話か……??」

 

 オルステッドはとても困った顔をした。

 何よりも優先しなきゃいけない事があるからそういう事はあまり考えていなくて、好きな人はいないらしい。

 どういう人が好み? と聞いたら、「繁殖に適していて、見目が良く、都合の良い女」と返ってきたので、最低! と私は言いかけた。

 外見じゃなくて中身が大事なんだ、とは、お腹をぷよぷよ触られがちなソマル君の談だ。

 さらに、女の子友達みんなが言うには、からだ目当ての男は最低なんだそうだ。

 オルステッドは最低ということだ。

 でも悪口を言っちゃ悪いので、「私もきれいな女の人好きよ……」と共感しておいた。

*1
干しぶどう入りの粥。




(誰であれ怖がられるし嫌われるので中身を知る段階に至れず、どうせなら)見目の良い女。
(ヒトガミを殺すのに)都合の良い女だと尚よし。
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