1章 0~7歳
2章 ~7歳半
ざっくりこんな感じですね。
3章ではミリシオンに到着する所まで書きたいです。
三五 岩に坐す悪魔
椅子に座ったナナホシが黙々と林檎の皮を剥いている。
ちょっと猫背気味な姿勢で、真剣な顔で、ただ黙々と。
赤いツヤツヤした林檎に寝かせた小刀を添わせ、ゆっくり動かしている。
背もたれ部分が起き上がったベッドに凭れる私は、彼女を見守ることしかできない。
喋ろうとしても舌が回らないし、手足もこわばって時々動かなくなるのだ。
病の後遺症らしい。時間が経てば治るそうだ。
大病にかかるのは前世ぶりである。
チサの時はそのまま足萎えの盲になったのだが、今回はそうならずに済んだようだ。
仏様になって守ってくれた爺やん、仏様に祈っていた婆やんとお母とお父がいなくても、看てくれる看護婦さんみたいな人はいるし、ご飯も滋養のある物を食べさせてもらえる。
きっと良くなるはずだ。
私の見守るなか、ナナホシは林檎の皮を剥き終えた。
それから四等分にして、ちまちま芯を取り除いていく。
そのまま齧るにはちょっと大きい。ナナホシは一旦手を止めてフーッと息をついた。
お疲れ様だ。手を切らなくてよかった。
四分の三がせっせと卸金ですりおろされていく。
残りはきっとナナホシが食べる分だろうと思う。
「ふぅ……できた」
ナナホシは桶に張られた水で手を洗い、布で拭いた。
そして、陶器の器に入れたすりおろし林檎を華奢な匙ですくい、私の口元に運んでくれる。
「どう? 食べにくい、ないかしら?」
「んま」
「よかった。お腹いっぱい、なったら、教えて?」
「ん」
ナナホシのお喋りが日毎女の子らしくなっていく気がする。
どんな喋り方でもナナホシはナナホシだけれど、命令口調に二人称が「てめぇ」だったときと比べると、やはり印象は異なる。
いずれ柔らかい話し方を教えなきゃと思いつつ、冒険者の間では浮かない口調であったし、まずは喋れるようになるのが大事かな、と思ってそのままにしていたのだ。
私が教えてないのに上達しているのは、きっとこの建物にいる人に、言葉の指導をされているからだろう。
そう、ナナホシがいる。
という事は、ここが空中城塞という所なのだろう。
意識がはっきりしてから数日経ち、ナナホシと看護婦さん以外の人を見ていないが、きっとそうだ。
ナナホシは頻繁に訪れて、部屋に花を飾ってくれたり、こうして食事の世話をしてくれる。
今回は、粥を食べさせてくれた後に林檎の準備をしていた看護婦さんに、私がやると申し出て、林檎をすってくれたのだ。
部屋には常に清拭や不浄の世話をしてくれる婦人が控えている。
朝から晩までずっといる。居ることを忘れそうになるくらいずっといる。
彼女は顔を白布で覆っていて、ふだんは彫像みたいにぜんぜん動かない。
白布には、一つ目小僧みたいに大きな目を模した絵が赤墨で描き込まれている。
前に釦があって足首まで覆う白いワンピースを着ていて、看護婦さんみたいな格好だから、看護婦さん、と呼ぶことにしている。
彫像みたいな看護婦さんは、私が用を足したい時、体を清める時は、正確にてきぱきと動いて介助してくれるのだ。
まるで人間じゃないみたい。
実体を持って触れて、ナナホシにも見えているということは、たぶん人であるとは思うのだけれど。
「おー、すてっと、は?」
「オルステッド?」
麻痺が残って喋りにくい口で、オルステッドの所在を訊ねた。
あの場において、私を運べるのはオルステッドしかいなかった。
彼がここまで運んでくれたのだろうが、目覚めてから見かけていない。
ナナホシによると、オルステッドはすでにこの建物にはいないらしい。
一、二日休んだ後に、やる事があるとかで、どこかへ行ってしまったのだとか。
休んだ、という言葉がちょっと意外だった。
オルステッドって疲れるのかな。不眠不休でも平気そうに見えたのに。
私にすりおろし林檎を食べさせる傍ら、ナナホシは剥き身の林檎をシャリシャリ齧った。
「んっ」
ナナホシの顔の部位が中心にキュッと集まる。
そんなに酸っぱかったのだろうか。
甘酸っぱくて美味しい林檎だと思うけれど……。
互いに食べきると、ナナホシが、丸い板を立てて持ち、私に見せた。
板には、女の子が映っている。
寝巻きを着て、ベッドに背中を預けた女の子だ。
焦げ茶色の髪、青い眼、口元の黒子。
横を向いてみれば、正面の女の子も同じ方向を見た。
ぎこちない動きだ。まるで首がこわばっているような……。
ようやっとピンときた。これは鏡だ。
映っているのは私、シンシア・グレイラットだ。
「お……」
こんなに、肉眼で見るのと同じように、くっきり映る鏡があるのか。
錫箔の手鏡は母様も持っていたが、ここまで透き通ってはいなかった。
四つの頃、母様の手鏡を初めて見せてもらったときも、かなり驚いたものだ。
ナナホシは鏡に驚いていない。彼女はベッドに腰かけ、当たり前という顔で鏡を共に覗き込んで、私の喉を指し示した。
私の首には包帯が巻かれている。
なんでも、痙攣のひどいときは息が出来なくなっていたので、喉に管を通して呼吸をさせていたそうなのだ。
そう聞いた時、意識がなくてよかったと心から思った。
喉に穴があいているのだ。意識があったら、絶対に苦しかったはずだ。
「そっちも、よくなったら、治す。傷のこらない。シルヴァリルさん、言ってたわ」
「シ……?」
「2番目にえらいひと。女の人」
ナナホシはそう言い、私を抱き寄せた。
ぽふっと柔らかく温かい胸に顔の片側が触れる。
母様かリーリャだと顔全部が埋まって窒息しかけるくらいだが、ナナホシ相手だとそんな事にはならない。ちょうどいい感じだ。
こわばりの残る首を動かしてナナホシを見上げる。
ナナホシは微笑んでいて、嬉しくなった。彼女が、私が助かるように仏様に祈ってくれたのだと思った。
「はやく良くなれよ」
うん。
「て、てん……天狗……!」
「テング?」
シルヴァリルさんという人には、存外すぐに会えた。首の穴を塞いでもらった翌日の事だ。
順当に回復し、ときどき痺れがくるものの、厠も一人で行けるようになった私のもとに、彼女は現れた。
現れたというとちょっと仰々しい感じだが、肩甲骨の内側縁のあたりから生えた黒翼の存在感が、たいそう強かったのだ。
女にしては長身で、嘴つきの仮面で顔の上半分を隠している。
嘴部分が一瞬長い鼻に見えて、天狗が現れたのかと身構えた。
天狗にしては恐ろしくないので、すぐに違うと気がついたが。
胸先がゆったりした、裾に黒糸刺繍を施された如法衣にも似た服を着ている。
黒い宝石をちりばめた綺麗な首飾りやシニヨンをごく自然に身につけている。
居住まいが高貴な人である。母様も貴族だった頃はこういう感じであったのだろうか。
「魔族?」と訊ねると、否定された後、人によっては侮蔑と捉える質問なのでみだりに口にしない方がいいと教わった。
ちなみに彼女は天人族だそうだ。天大陸に主に棲む種族である。
シルヴァリルさんは、ナナホシや看護婦さんより詳しく病状や施した治療の説明をしてくれた。
それから、私の寝たきり生活で絡まり気味、結ばず下ろしっぱなしの髪を見て、散髪の提案をしてくれた。
今の髪の長さ。
髪紐を解けば、だいたい背中まで。
それを肩口で切り揃えてくれるというのだ。
お願いしますと頼むと、なんとシルヴァリルさんが手ずから切ってくれる事になった。
看護婦さんは散髪等の細かい作業までこなせるようにはできていないそうだ。
できていない、という絡繰のような表現に引っ掛かりを憶えたが、案内されて、病衣のまま外に移動した。
その前に、看護婦さんに湯浴みを手伝われながら体と頭を清潔にした。
さっぱりして良い気分だ。据え風呂とも湯浴み桶とも蒸し部屋とも違う、入浴のための部屋がある事には驚いたけれど。
円柱が支える半円アーチが並ぶ外廊に、看護婦さんが椅子を運んだ。硬いクッションを置いて座高を調節されている。
座ると、首のまわりに手拭いを巻きつけられた。
「苦しくありませんか?」
「ううん」
丁寧な手つきで髪を梳かされ、切られていく。
散髪中、シルヴァリルさんは私が退屈しないようにか、話をしてくれた。
十数万か、ひょっとしたら何億年、想像もつかない太古、龍の国があった。
天が地に、地が天にある、逆さの国である。
龍の国の神は人の国を除くあらゆる国を滅ぼし、海は人の国へ流れ込み、森林は大地を飲みつくし、現在の地殻ができあがった。
過程で、海が大地になり、大地が海になった。海は大地の中に閉じ込められた。山で掘り返される塩は、その名残りだ。
「魔法三大国で有名な塩の採掘地というと、イルブロン洞窟でしょうか。聞いたことはありますか?」
「あります。トイリーさんが、ローゼンバーグ、って言ってた、ような……」
「おや、よくご存知ですね。イルブロン洞窟があるのは、バシェラント公国の第二都市、ローゼンバーグですよ」
「えへ」
「ラノアで過ごした
「ケイオスブレイカーは、天界の浮遊岩石を加工して造られた、太古の遺物です。ペルギウス様が発見なされた時、それはとうに力を失い、地上で沈黙するのみでした。
しかし、ペルギウス様は己の叡智をつぎ込み、再び宙に浮遊させることに成功したのです」
梳き鋏のひやりとした感触が首筋をなでる。
日陰になったアーチの下で、広壮な庭園を眺めた。
どこまでも広がるかのように思える庭園だが、ちゃんと緑が途切れる境界があって、先には青空がある。
「海があるのは、海界だけではありません。天界にも、生き物は少ないけれど、海は存在しました。塩坑ができる仕組みは、先ほど話しましたね。まだ動かないで」
「ごめんなさい」
「浮遊岩石は、長い時間をかけて、地上で出来上がった岩が、いつしか浮遊するのです。そのときに、海は中に封じ込められました。
だからこのケイオスブレイカーにも、地下深くには岩塩でできた洞窟があります。さらに地底に降りていくと、塩分の濃い、広い湖があるのですよ」
見たことがないから、海がどういうものか、正確に想像できない。
私は巨大な湖を想像し、湖底の泥をさらってこね、島をつくり、お手玉みたいに上に投げかける巨大な手を想像した。
神様の手、としか思えなかった。この世が創造主という絶対の存在によってつくられたとするのは、耶蘇教の教えだったか。
仕上げに、首筋や顔についた細かな髪を、刷毛で払われた。
「いかがでしょうか」
朱塗りでふちどられた手鏡の中に、肩の少し上で切りそろえられた頭が映る。
家では、落として割ってはいけないから、と母様の手鏡は子供は触ってはいけなかったのだが、シルヴァリルさんは持たせてくれた。
顔を上げる。笑いかけようとしたけれど、急にまた顔面がこわばり、無表情になった。
「本当に、人形のよう」
シルヴァリルさんは指で私の頬を撫で、目のふちをなぞった。
髪を散らないようにそっと立ち、後片付けをする看護婦さんを眺める。
手伝おうとすると、箒を自分の方に引き、首を横に振って断られた。
私の髪なのに……。
シルヴァリルさんを見ると、「あなたがする事ではありません」と言われた。
「シンシア様は客人ですゆえ」
大人に様付けをされると恐縮する。
「わたし、何したらいい?」
「何も……。ああ、元気がおありでしたら、庭園を散歩してみるのはいかがですか」
「そうしてみます」
「はい、どうぞ。ただ、日光に当たりすぎるのはよろしくありませんね。また痙攣があるかもしれません。すぐに日傘をお持ちします」
「いいの。日陰歩きます」
「そうですか」
シルヴァリルさんは石の外廊を歩いていった。
頭がほとんど上下しない、滑るような歩き方だ。
家がまだあったころ、リーリャは、シルフィに淑やかな立ち振る舞いを教えていた。
あれを私も真剣に聞いておけば、と思った。
母様が「淑女の嗜みは、七歳になったらちゃんと学びましょうね。今は元気でいてくれたら、お母さん何も言うことないわ」と言ってくれたから、甘えていたのだ。
私はもう七歳だが、六歳の終わり頃に、母様ともリーリャとも離れ離れ。
淑女の礼儀作法の手ほどきは受けず終いだ。
シルヴァリルさんに頼んだら、教えてくれないかな。
散髪の後で、重ねて頼み事をするのも気が引けた。
勧められた事に従って、整頓された森のような庭園を歩いてみることにした。
「……」
鮮やかな刺繍花壇のあちこちに、真っ白な彫像が点在する。
生垣の迷路から展望テラス、
行けども行けども、美しい森であった。
たぶん、いっしょに歩いてくれる人がいたら、美しさ、荘厳さに没頭できたのだろう。
ひとりで楽しむには、ここは静かすぎた。
青い
膨大な時の流れに、芥子粒のような私がとりのこされている。それに不安を憶える。
消そうとしても、先ほど想像した、巨大な神の手を思い出してしまう。
ずっとここにいたら、二度と現世に帰れなくなるのではないか……。
私の心は空白になり、かすかな怯えをおぼえる。異界に迷い込んだような不安感に、すぐに引き返した。
建物を見ると安心した。
本当はさっき散髪してもらった所に出たかったのだが、ここは似ているようで違う場所だ。
「つかれた」
ナナホシを探したいけれど、くたびれた。
泰山木に似た樹の根方にすわり、膝をかかえた。
葉漏れ陽が明るい斑点をつくり、膝の上にちらちら踊っている。
ここは、私が私として存在しうる場所だ。私は穴になって、その場の持つ力によってみたされる。沈黙が語る言葉に私は聞き入り、沈黙が生の始原であり終極であることを思い出す。
あんまり先に行ってしまうと怖いけれど、ここなら好き。
大きな影がさし、黄金の鱗が消えた。
「我が自慢の庭園は気に入ったか?」
オルステッドに声をかけられたのだと思った。
そのくらい同じだった。銀色の髪も、金色の瞳も、目尻の鱗も。
六尺をこえるであろう巨漢は、ちょっと身をかがめた。私は、彼の躰がつくる影におおい隠された。
オルステッドは、少なくとも私の前では、こんなふうに上機嫌にならない。人違いだとさとった。
「病み上がりだろう。この景色が、お前の療養に役立てばよいが」
こんな冗談めかした言い方もしない。
どう考えても、違う人だ。知らない人だ。
ポカンと見上げて固まってしまったが、訊かれたことには答えた。
フルフルと首を振ると、おや、と言わんばかりに男の片眉が上がる。
「きれいで、静かです。静かすぎてこわいです」
「そうか。お前は、美術の知識はあるか」
「持たぬだろうな」と、私が答える前に男は納得した。
事実、なかった。額に飾られた絵を美術品というのだと、なんとなく知ってはいたが。
カーリアンの教会やガルデニアの地下街で聖像画を見たことがある。それだけだ。
「しかし……そうか、それなら、フューラーを見ても、同じ感想を持つだろう。あれは、写実の技法でありながら、描き出されるのは静寂と光だ。後で我のコレクションを見せよう。展示室の奥に保管してある」
いきなり、優しい手つきでだき抱えられた。
親しみのない相手に抱かれて喜ぶ子供はいない。
三つのノルンでさえ、知らない男の人に抱っこされたら、無邪気に喜ばず、固まるだろう。
しかし、いつかの時のように不埒な手が内腿を撫でることはなく、私は緊張を解くべきか迷った。
そもそも、彼は誰なのだろう。聞きそびれてしまった。
ナナホシが言うには、この城でいちばん偉い人は、ペルギウス様という人だそうだ。
言わずもがな、父様に読み聞かせてもらった歴史物語の英雄、ペルギウス・ドーラである。
空中城塞から地上を監視し、かつて封じた魔神の復活を、いまかいまかと待ち構えている人だ。
さっき、この人は、「我が自慢の」と庭園を紹介しなかったか。
えっと、ここはケイオスブレイカーだから、
…………。
「ペルギウスさま」
「なんだ?」
当たってた。
ビックリした。思わず口元を両手で押さえる。
その昔、兄が村の子供向けに作った物語がある。
父様の本『ペルギウスの伝説』を換骨奪胎した物語である。
光る泉からドーラドラ、ドーラドラと浮かび上がってきた大きな卵から生まれた男の子、ペル太郎。
ペル太郎はすくすくと成長し、仲間と共に魔神を退治する旅に出て、魔神を倒し、末永く幸せに暮らす。
その元となった人物、ペルギウス・ドーラが、間近にいる。
間違ってペルたろって呼んでしまったらどうしよう。
いやいや、その前に、言うべき言葉がある。
「私、シンシアです。ペルギウス様、危ないところを助けてくれて……くださって……? ありがとうございます」
「ああ、礼ならばオルステッドに言うがよい。我は精霊を貸したに過ぎん」
「え?」
「うん? 聞いておらぬのか?」
ペルギウスの精霊が一柱〈贖罪のユルズ〉――他者の体力や健康を別の者に移し替える能力を持つ。
……そういえば、父様の本で読んだ気がする。『ペル太郎』の記憶ばかり濃くて、元の物語のほうをすっかり忘れていた。
思い返せば、ナナホシはちゃんと説明してくれていた。言葉の中に、何度かユルズという名前が出てきていたもの。
聞き手に予備知識のない物をわかりやすく説明するのはナナホシの言語力ではまだ難しく、私もあのときは聞き返す余力もなかったために、聞き流していたのだ。
他者の体力を分けてもらわなければいけないほど、私は衰弱していたらしい。
そして、自身も弱ることを承知で分けてくれたのが、オルステッドだったそうだ。
らしい、そうだ、ばかりだ。昏倒している時の出来事を実体験として知ることはできない。
「意外か?」
「オルステッドは、私のこと、たぶん……ちょっと、嫌ってるもの」
「我の目には、オルステッドはお前に、正確には、お前たち二人に、執着しているように見えたぞ」
「……」
「奴とは六十年余の付き合いになる。まわりに透明な防壁を築くあの男にしては、たいそう珍しいことだ」
もう一人とは、ナナホシのことであろう。
仲良くなろうとがんばりはした。でも、根深いところで、存在を許容されていない雰囲気は、なんとなくあった。
ナナホシに対してはそんな感じじゃなかったから、私だけ嫌われていると思っていたのだ。
「ふぅ……」
見殺しにされないくらいには、嫌われてなかった。
ほっとひと安心して、ペルギウス様の肩によりかかる。
どうしてこんなに偉い人が、わざわざ抱えて歩いてくれるのだろう。私が歩くのが遅いからだろうか。
ペルギウス様は、大昔、魔神と戦った英雄だ。
いわば、市井の人々の守護者だ。悪い人であるはずがない。
怪しい人ではないと知れたし、ちょっと話しかけてみよう。
「あれ、何ですか?」
行く手に構える、二重のアーチ門。内城門だ。
ちょうどアーチの上にくる位置に、格子状の鉄製の板が壁の溝に嵌っているのだ。
地に映る影を見るに、出口側のアーチの上にも、同じものが取り付けられているようだ。
「落とし扉だ。強行侵入を試みる者は、二つの落とし扉の間に閉じ込められることになる」
順当に歩めば、私たちは落とし扉の下をくぐる事となる。
ペルギウス様といっしょだし、侵入者として咎められることはない。
だというのに、ペルギウス様は落とし扉の間で立ち止まった。私は地面にトンと下ろされる。
「天井に開口部がいくらかあるだろう」
「はい」
「あれは殺人孔という。眼下に閉じ込めた一団に、矢を射る、岩を落とす、煮えた油を注ぐ――なにかと都合のいい孔だ」
「やん……」
ちょうど真下にいる時に教えないでほしい。
殺人孔から逃れ、
あら、壁にも、縦に細長い孔が……。
「矢狭間だ。侵入者に矢を浴びせることができる」
「逃げ場がない……!」
「当然であろう」ペルギウス様は言い、そっとマントをつまみにくる私を見て笑った。
万が一、矢を放たれても、城の主の傍にいれば安全だろうという魂胆を見抜かれたのだった。
ペルギウス様は収集家だ。
集めた品々の量といったら、城の中に美術館をつくるほどである。
壁を埋めつくさんばかりの大小の額を、視点をあちこちに巡らせて私は眺めた。
私は美術のことはまったく知らない。
絵画とひとくくりにしても、様々な技法があり、派閥があり、画題があるということは、今さっきシルヴァリルさんに教えられて知った。
だからといって急に詳しくなれるわけもなく、美麗な絵を見ても、綺麗だと思うだけだ。
素人と知識人では、同じ絵を見ても、そこから読み取れる情報には桁違いの差があるのだろう。
生前、目明きだったころに見た地獄草紙と、ここにある絵画が、本質的には同じ存在であることが信じられなかった。
地獄で亡者に責め苦を与える獄卒と、血の生臭さまでにおってくるような赤色は、この部屋にはない。
中でも、写実という技法の絵は、私にもわかりやすい。
歴史上の場面を描いたもの。現代の風俗を描いたもの。
生きる人々の息づかいから肌の温みまで伝わってくるようだ。
なにげない風景を映した絵がある。
古い騎士の邸宅の、荒れた裏庭。静かな納屋。遊ぶ子供。遠くにそびえるのは赤竜山脈……だろうか。
私の親しむ風景とは、少し違う。
うちの裏庭は母様の手入れが行き届いていたし、曇り空の日に、あんなにくっきり赤竜山脈が見えることはない。
でも、似ていた。生まれてからずっと暮らしていた我が家に。今は更地になり果てたブエナ村に。
記憶よりも精緻に再現された風景を前にして、懐かしいと割り切るには、過ぎた時間が足りなかった。
つい向けてしまう視線を断ち切り、立ち止まって待ってくれていたシルヴァリルさんの傍に行った。
展示室を幾つも抜けた。
一つの部屋の扉を、シルヴァリルさんは開けずに通りすぎ、奥まった小さい部屋にみちびいた。
「来たか。思ったよりも早かったな」
中には、ペルギウス様が待っていた。
シルヴァリルさんが椅子を引いてくれた。「ご自分で座れますか?」と訊かれ、うなずいて座った。
子供用の小さい椅子など、なかなか見ない。子供のほうが大人の尺度に合わせて生活するのが当たり前なのだ。
体に対して大きな椅子に座るくらい、病み上がりでも普通にできる。
ところが、金の縫い取りをし、やわらかい詰め物をした赤い椅子に座ると、体をふわりと支えられた。
揺れる感覚がこころよい。ふわふわした席は楽しかったけれど、落ち着きがないと思われるかもしれないので、背筋を力を入れて伸ばして耐えた。
シルヴァリルさんは、茶器を用意し、紅茶を注いだ。
白磁に銀彩をほどこした杯は、ペルギウス様の前に置かれた。
「おや、我の分だけか? そこな童の茶はどうした?」
「シンシア様は、痙攣と痺れが、ときどきぶり返します」
「嚥下機能は戻っておらぬのか?」
「いいえ、症状が出るのは手足だけです。しかし、この部屋でカップを持たせるのは……」
「
「ハッ」
そんなやり取りの後、私も紅茶が出された。
白鑞の皿は、うちでも特別な日にしか使わなかったのに。
相当な分限者の家では、白鑞のコップも皿も、特別な日どころか、日常の食器の代用品として使われるらしい。
壁に並んだ展示のひとつ、硝子に保護されて、聖像画が飾られてあった。
五百年前のものだと、ペルギウス様は言った。聖ミリスの御大切な者が、聖ミリスの額に接吻している図だ。
ブエナ村唯一の教会には一つ、カーリアンの教会にはおびただしい数の聖像画があった。家の龕に一つ置いている家庭も多い。
同じ構図の聖像画は、なんども見た。それなのに、これは特別だと直感した。
率直な感想を答えると、ペルギウス様は機嫌を良くした。
「ほう。子供でも、わかるか。実際、ミリスへの接吻の図は、珍しいものではない。修道院で行う模写の手本としても、ありふれている」
「修道院で、絵をかくの?」
「
あけすけな物言いに、私はびっくりした。
聖像画は、売る、買う、と表現してはいけない。〝金と交換する〟と言う、と母様に教えられたので、そういう事と絡めて考えるのも言うのもいけないと思っていた。
ミリス教徒でなければ、その限りではないのだろうか。
でも、たしかフェリムは交換と言っていたし……。
フェリムって、そもそもミリス教徒だったかしら。
十字の切り方、戒律、儀式。どれも、母様の教えてくれたものとは微妙に異なったから、混乱した事を覚えている。
「オルステッドは、ペルギウス様の弟ですか?」
「まさか。我に弟はおらん」
ペルギウス様は一瞬驚いた顔をしてから、笑みを浮かべて「我とあの男は似ているか」と訊ねた。
私はうなずきかけ、改めて、ペルギウス様と記憶のオルステッドの顔を比べた。
ペルギウス様の、ふさふさと伸びた揉み上げから顎につづく顎髭は、顔を厳しくしている。
髭がある分、オルステッドより威厳がある風貌をさほど怖いと感じないのは、厳しい顔が笑うと人懐っこくなるからだ。
目元も、よく見たらペルギウス様のほうが丸っこくて穏やかだ。
オルステッドは険しい眼をしている。孤独な人間が持つ険しさだ。
「似てるけど……似てない」
「ほう? それは何故だと思う?」
「うんと……」
顔立ちは異なる。でも、特徴はいっしょ。
そうだ、もう一人、同じような特徴を持つ人がいた。
バーバ・ヤーガだ。ガルデニアにいるあいだ、親切にしてくれた人。
彼は自分のことをこう言っていた。
「ペルギウス様とオルステッドが、リザッケ」
だから、……と続く言葉は登らなかった。
ぞわりと寒気がして、喉にかたまりがつかえたように喋れなくなった。
すさまじい怒気は、黒翼を広げた天人族の女から発せられていた。
いや、怒りというのは間違いだ。
獲物を爪にかける寸前の鷹は獲物に対して怒ってはいないのだ。刻み込まれた本能として、獲物を殺す。
いまの彼女は、それと同じだ。
当たり前の事として、まっすぐな殺意を彼女は私に向けていた。
「よせ。シルヴァリル。何も知らんのだろう」
「無知は免罪符にはなりません。殺しますか」
「よせと命じたのかわからんか」
「は……差し出た真似をしました」
殺意が失せた。私はふっと楽に呼吸ができるようになった。
「……いまの、言っちゃいけなかった?」
おずおずとペルギウス様に訊ねた。
しばらくはシルヴァリルさんの方を見れそうにない。
「リザッケというのはな」ペルギウス様は諭すように穏やかに言った。
「我とオルステッドのような龍族へ使われてきた古い蔑称だ。
昔は龍族のみを指す語であったのが、体表に鱗をもつ者、縦に裂けた瞳孔をもつ者、細長く先端が裂けた舌をもつ者……いつしか爬虫類じみた外見の者を一緒くたに貶す言葉になった。今ではほとんど忘れ去られた言葉だが、お前はどこで知った?」
「バーバ・ヤーガが、自分のことリザッケって」
「あいつか……」
ペルギウス様は複雑な顔をした。
そういえば、オルステッドはちゃんと自分が龍族という種族だと教えてくれていたのだ。
すっかり忘れていたが、言われて思い出した。
「バーバ・ヤーガのこと、知ってるの?」
「ああ。龍族まがいの外見でありながら、中身は魔族そのもの。我の嫌いな男だ」
「でも、あの人、優しい……」
「ふん。知っておるとも。どんな気まぐれかは知らんが、紛争地帯で保母の真似事をしている、
そんなに嫌う?
でも、いい感じに話題がそれた。ううん、ペルギウス様が逸らしてくれた。
私は安心して、部屋に展示している美術品に視線を投げかけた。
「あの花瓶きれい。シルフィの髪みたい」
「あれは孔雀石だ。……緑の髪を持つ者が、知り合いにいるのか?」
「うん、お友達。耳が長くて、兎みたいでかわいいの」
「その者の性別は男か?」
「女の子です」
「そうか。ならばよい」
よく分からないけれど、許された。
近くで見てもいい? と訊くと許可が出たので、椅子から降りて棚に近づいた。
縁に彫刻をほどこした重厚な棚に、鮮やかな緑の孔雀石の花瓶がおかれ、小さな像もおかれていた。
像のほうは、兄が作っていたものより、ずっと精緻に出来ている。
私はルーデウス作の像のほうが愛嬌があって好きだ。身内の贔屓目もある。
そうして、ちょっと背伸びをして棚を覗き込んで、私はそれを見つけた。
ペルギウス様の美術館の中で、その絵だけが、身の置き所を迷っていた。
別の言い方をすれば、画風といい、展示のされ方といい、その絵だけが周囲と調和していないように見えたのだ。
腰に布をまとい上半身は裸体の若者であった。
姿形は生身の人間とほとんど変わらないが、くすんだ金色の鱗が顔から肌をおおっていた。
たくましい体躯の上に、悲しみと憂愁にみちた、精悍な青年の顔があった。
性を問わず、これほど美しい存在を、初めて見た……と、思う。
額は私の両手でかかえられる大きさだった。
シルヴァリルさんに「お手を触れぬよう」と硬い声で言われ、自分が額を持っている事を自覚した。
美しいと思う感情はそのときに追いついてきたのだ。
「離しなさい」
シルヴァリルさんは怒っている。すぐに戻して、ごめんなさいと言わなくてはならない。それはわかっている。
私は絵をだきしめた。強烈に何かをほしいと思ったのは初めてだった。
前世では、ねだったところで無いものは無いと承知していた。今世では、ねだる前に、食も衣服もととのえられていた。
どうすれば、この絵が私のものになる?
何をしたら、この絵を譲ってもらえる?
「可愛い悪戯ではないか。好きにさせてやろう」
ペルギウス様が面白そうに言った。声を受けたシルヴァリルさんから感情が失せ、すっと退いた。
手招かれるまま、ペルギウス様の膝元に行った。
後ろめたさから、視線を上げられない。
ひたりと指が頬に触れ、片手で顎を包むように掴まれた。
顎骨をがっちり掴まれ、強制的に上を向かされる。
「んむ」
「たいそう、美しい顔だ。貴様の父と兄は、黙っていても何でも貴様に与えてきたのだろう。だが、そのやり方は、我には通じぬ」
首をよじって抜けようとしても、私の頬の形がぐにぐにと変わっただけだ。
ペルギウス様の手の力は強く、彫像のようにピクリとも動かない。
視野の端で、静かに近づいてきたシルヴァリルさんが翼を畳んで屈むのが見えた。私は観念して油彩画を手放した。
顎を掴んだ手に力が込められ、没収された絵の行方から、ペルギウス様に注目を移すのは、自然なことだった。
「ねだる時は、我の目を見よ。ハッキリと願いを言え。さすれば考えてやらん事もないぞ」
強い眸だった。
金色の虹彩に、縦に裂けた黒い瞳孔がつぶさに私を見ていた。
押し負けて、目を逸らしたら、あの絵は手に入らないのだろう。
それは、それだけは、嫌だった。
顎を手放された。口が自由に動くようになる。
ペルギウス様の膝の上に手を置き、拳を握った。
「あの絵をちょうだい。お願い」
見つめ返して言うと、ペルギウス様はにやりとした。
厳しい顔は、笑うと、やはり人懐っこく変わった。今度のは少し意地悪そうでもあった。
「よかろう。ただし、タダではやらぬ。我の出す試練に合格することだ」
そう言って、ペルギウス様は懐から小さな物を取り出した。
細長い塔に、双頭の龍が巻きついたような形だ。材質は、くすんだ銀のようである。
よく見ると、塔の上部に四角い孔がある。
笛だろうか。奇抜な装飾である。
「これは、我の精霊を呼び出すことができる笛だ。魔力付与品の一種だな」
マジックアイテムの笛だった。
金属製の冷たい感触とともに手のひらに置かれたそれを、上下ひっくり返して眺める。
「憶えたか?」
笛を回収された。
「もう何十年も前になるか……これと同じデザインの魔力付与品を、この城のどこかで失くしてしまったのだ。
オルステッドから聞いたぞ。貴様は、童女だてらに、特殊な能力を持っているらしいな。
その力を使って笛を探しだし、我に届けてみせよ。それが油彩画を譲る条件だ」
ぽんと頭に手が乗り、撫でられる。
男の人に頭を撫でられるのは久しぶりだ。バーバ・ヤーガ以来である。
「急かしはせぬ。何日でも何年でもかけて見つけるがよい」
いや、在処はもうわかっている。視たから、知っている。
双子のように似た笛が、地下深くの塩湖に睡っている絵がみえたのだ。
「はい。ぜったい、届けます。ペルギウス様」
目下の問題は、そこに繋がる道を、どうやって見つけるかだ。
私を魅了した絵の名は、『岩に坐す
魔神ラプラスを題材に据えた、象徴主義という画風の作品である。
憂愁にみちた顔をした彼が、どうして、忌まわしい悪魔なのだろうか。
銀髪に緑の斑をもつ青年は、額の中で、岩山を背に大地に腰をおろしているのだった。
ペルギウスに造形を惚れ込まれたシンシアがかなり優しくされて懐く回。
カッコつけてるぺ様もあと何百歳か若かったらシンシアがじっと見てるだけで何でもあげてました。
美少女設定を良い方面でも悪い方面でも活かしていきたいです。
・ペル太郎
『無職転生アンソロジー sideシルフィ』の巻末小説から。