巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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復活しました。蛇足編3巻良かったです。


五〇 ウェンポートでの出会い

 まだ初夏だというのに、蒸されるような暑さであった。

 まつわりつく湿気と、粘液のように重たく流れる霧は、密林地帯の植物にとって必要なものなのだそう。

 しかし人間には過剰だ。いるだけで体力が削られていくような感じがする。

 

 密生する巨木はしつこく聳え、樹冠を真紅の花が派手に飾り、猛々しい羊歯は幹を覆い隠す。

 繁茂した下草は闖入者を阻む。

 樹間をくねる細い水路につながる入江を、小舟に乗って私たちは進んでいる。

 

 貪欲に草木が生い茂るさまは剥き出しの生存慾そのものだ。

 今思えば、ブエナ村の森はずいぶん淑やかであったのだろう。菩提樹は慈悲を持っていた気さえする。

 

「へんな場所ね」

 

 この獰猛な樹々は、水にずっと浸かっているくせに、根腐れしないのだろうか。

 

「前の世界には、こういう場所はなかったよね」

 

 私が息を吹き返したこの世界には、魔術がある。魔物も桁違いに強い。奇怪な景色も存在しうる。

 ここもその奇怪のひとつだろう。

 

「あるわよ」

 

 納得しかけた私に、ナナホシが教えた。

 襟元をパタパタ扇いで、躰と服の間に風を送り込んでいる。

 

「木が河口に生えているでしょ。こういう森を、地球ではマングローブ林というの」

「そうなの」

 

 相槌を打ってからしばらく。

 私はナナホシの言葉の意味を理解した。

 

「日本にも、まごろ……こんな森があったの?」

「〝マングローブ〟ね。これくらい鬱蒼としたのは東南アジアにありそうだけど、日本にも一応あるわ。琉球と薩摩にね」

「……沖縄と鹿児島ならわかるよ」

「え、そう?」

 

 廃藩置県があったのは、チサが産まれる前だもの。

 ナナホシの中で、前世の私は慶応くらい昔の生まれなんじゃないかと思うことがある。

 チサは明治生まれ。鉄道だって走っていた。乗ったことないけれど。

 

 それはともかく、前世の時も、村の外は奇怪であったらしい。

 私は無知であった。

 

 

 アイシャを無事に祖父母のもとに預けた私たちは、赤竜の下顎を通過し、密林地帯にきていた。

 ウェンポートに繋がる魔法陣が、この先にあるらしい。

 オルステッドは転移魔法陣のありかを全て知っている。地図は彼の頭の中だ。

 彼の頭の地図を、ナナホシが手帳にこっそり起こしていることを、私は知っている。

 オルステッドがすべて憶えているのに、どうしてそんな事をするのだろう。

 

 

 魔大陸のウェンポートへ行く。

 と、聞いていたが、どんな所かはしらない。

 地図を見たら、ミリス大陸の北側のはしっこにいちばん近いところであった。

 魔大陸には行ったことがある。ペルギウス様の空中城塞から、転移魔法陣でひとっ飛びだ。

 もう半年は前だが、そこでの記憶を断続的に思い出すことだってできる。

 

 ええと……何が起こったのだっけ。

 昔を思い出してみよう。

 

 どこまでも追いかけてくる角の生えた鬼。

 宙を飛んだ真っ青な頭。

 オルステッドにとても怒られた。

 

 私はぶるりと震えた。

 小舟に描かれた魔法陣に右手で魔力を注ぎながら、左手はオルステッドのコートをきゅっと掴んだ。

 

「魔力が尽きそうか?」

「ううん」

 

 掴んだ手は苛立たしげに払われない。

 頭ごなしに怒ることも、きっともうないのだろう。

 

 霧は迫る。濃く、淡く、塊になり、薄布になり、包み込み、何かに力ずくではぎ取られたように晴間を見せ、舟を異界に隠す。

 オルステッドとナナホシの傍だけが、安全地帯だ。

 

 

 何日か移動した末に、小舟は奇怪なマングローブの下に座礁した。

 水路は陸ほど自由ではないため、魔物筋を避けきれずに魔物に出くわすこともあったが、難なく撃退。

 密林地帯には緑色の猩々のような魔物がいて、よく襲われた。

 

 困ったのが密林地帯の住民と遭遇した時だ。

 怖かった。槍とか石とか投げてくるもの。

 オルステッドが守ってくれるので、誰も怪我はしていない。

 魔物筋を見れば遭遇を予想できる魔物と異なり、人はいつ出会うかわからないから、常にハラハラだ。

 

 座礁した先は踏み固まった地面ではなく、霧に閉ざされた泥沼であった。

 オルステッドは躊躇せず足を沈ませた。さて私もと身をのりだすと、オルステッドは犬の仔でもつまむように私を持った。

 ちゃんと歩けないと判断されたらしい。積雪の上を歩く要領でいけると思ったのに。

 オルステッドの片腕に座り、肩に掴まる。

 久しぶりに、視線が高い。

 

「ぴっ」

 

 梢から垂れ下がる蔦が頭に触れたのだと思って払うと、蛇だった。

 思いっきり蛇だ。

 私は刺激しないようにそっと手を下ろした。

 びっくりした。

 

 

 やがて夜がきた。

 ナナホシが持つ角灯で足元を照らされながら、移動を続ける。

 石碑の前でオルステッドは立ち止まった。横には、大人が六人手を繋いだら囲めるような巨木が聳えている。

 石碑には龍神の紋章が刻まれているのだろう。背が届かなくて私に全容は見えない。

 慣れたもので、私はこれが何なのか知っている。

 転移魔法陣を隠している結界の目印だ。

 これを解くと隠された入り口が現れる。

 

「待って」

 

 石碑にオルステッドが手を重ねるのを、ナナホシが後ろから止めた。

 泥沼地帯を歩いている時は、「転んだら終わる……転んだら終わる……」と呟きながらオルステッドの腕にしがみついていたナナホシである。

 誰だって泥の上で転び、肥溜めに落ちたような有様にはなりたくないのだ。

 

「結界は、オルステッドじゃないと解けないものなの?」

「そういう訳ではない」

「それじゃ、私にもできる?」

 

 と、訊ねるナナホシはそわそわしている。

 

「ここで使う詠唱は――」

 

 そして彼女が続けた言葉に、オルステッドは「合っている」と頷いた。

 結界を解く詠唱は、いつも同じではない。場所によって異なる。

 ここは初めて来た場所なのに、ナナホシはどうやって正解の詠唱を知ったのだろう。

 

「そう……規則性があるのね」

 

 アイシャと別れ、帰りたいと泣いていた彼女も、あれから常に泣き暮らしていたわけではない。

 

「別に、悪用しようなんて考えてないわよ? 何も考えないでついて行くのもあれだから、暇潰しに考えたり、憶えたりしてみてるだけ」

「そうか」

 

 心なしか早口になったナナホシに気づいていないのか気にしていないのか、オルステッドは「魔力結晶を使えばお前にもできるだろう」とナナホシに教えた。

 そして、初めて思い立ったというふうに私を見た。

 

「やってみるか?」

「うん」

 

 どうやら結界を解くのにも魔力は要るようだ。

 オルステッドは、自分の魔力の消耗を減らすために、私に魔術を教えてくれることがある。

 しかし結界の解呪だけは私にはさせず、自分の魔力を消耗していたのだ。

 今まで、悪用することを危惧されていたのだろうか。

 しないやい。

 

 背伸びをしてペタっと手を石碑に乗せる。

 ナナホシがさっき口にした詠唱を憶えていなかったので、もう一度教えてもらい、そらで言えるまで何度か繰り返す。

 

「その龍はただ探求にのみに生きる。

 双の掌より鍛え上げられしは、天穹をも裂く刃。

 四番目に死んだ龍。

 最も深き瞳を持つ、黒銀鱗の龍将。

 狂龍王カオスの名を借り、その結界を今うち破らん。」

 

 つっかえず間違えず、はっきり発音できた時、手から魔力が吸われる感覚があった。

 奔流は熱いのに手のひらは冷たいような、あの感覚だ。

 

 ぐにゃりと木の根元が歪んだ。

 蔦が絡まり、所々樹皮の剥がれた幹に、空洞が現れた。

 空洞には階段が誂えられている。これもよく見る光景だ。

 唐突に出現する遺跡や部屋、その向こうに、転移魔法陣がある。

 

 オルステッドを振り向くと、目顔で進めと促された。

 角灯がひとつでは不安だったので、右手の上に小さな火球を滞空させ、手燭代わりに進んでいく。

 

「次からはこれもお前にやらせるか……」

「まかせて!」

 

 胸を張ってから、ハタと気づく。

 でもそれって、色んな詠唱を憶えなきゃいけなくなるのかしら。

 結界を解くための詠唱は、場所によって微妙に異なる。

 それらをすべて?

 

「魔力結晶でどうにかなるなら、私にやらせて」

 

 最後尾のナナホシがそう申し出たおかげで、私はお役目免除である。

 ほっ。

 

 

 転移魔法陣を踏み、意識が輪郭を取り戻した時には、足元の魔法陣は光を失っていた。

 氷を穿ったような暗闇である。寒い。

 ナナホシが角灯をふたたび灯したので、あたりの様子は、私の眼にもあきらかになった。

 板戸、板床が誂えられ、小屋の中らしいのだが、壁は火山岩で、窓はない。

 転移魔法陣は、祈祷所のような空間の中に、あった。

 

 魔法陣の奥は一段高い板敷で、その四隅に燭台はおかれてあった。

 出入口は向かい合わせに二つあった。魔法陣側と、高床側である。

 

 角灯にオルステッドが火を灯している間、私は魔法陣側の扉をがたごと揺らしていた。

 開こうとしてみているのだが、できない。

 外から鍵がかけられているのかしら、と思ったところで、背後に立ったオルステッドが手を添えて軽く押し開けた。

 

 外――とはいっても洞窟の中である――に出ると、壁の一部を掘抜き、貫通させた中に小屋組みが作られてあったのだと知る。

 

 洞窟の中は、変な匂いが充満していた。

 ずっと嗅いでいると喉が渇いてくるような生臭さ。

 尾籠な喩えだが、月のものの臭気を薄めたような匂いだ。

 私はきゅっと顔をしかめた。

 トウビョウ使いとなったチサの躰にも、必要がなかったのに、やはりあれは来ていた。

 目が悪くなっていたから赤黒いそれを見ることはなかったけれど、婆やんやお母に湿った腰巻きを替えてもらうとき、臭いだけは強く感じていた。

 

 その時の不快を思い出していると、ナナホシがひょいと顔を覗き込んできて、ふっと薄く笑った。

 同じ女として私の内心を見透かされたのだと思い、どきりとした。

 

「どうしたのよ、しかめっ面して。眠い?」

 

 ちがわい。

 

「くさい」

「確かに、潮の匂いがするわね」

「海が近いからな」

 

 塩?

 このいやな匂いはシオというらしい。

 私は進み始めていたオルステッドに追いつき、前に回って通せんぼをした。

 立ち止まった彼に両腕を伸べる。

 

「抱っこしてください」

「……」

「お願い」

 

 抱っこしてもらえた。

 

 私を抱き上げた時に、オルステッドの角灯はナナホシの手に移っている。

 先を歩く炎が、闇の中に点々と赤く光る、くぼみに密集した蝙蝠型の魔物を映す。

 魔物筋は踏んでいるのだが、オルステッドに怯えて、襲いかかってはこない。

 

 洞窟の中は天井から壁、床まで褶曲の跡を残し、鬼の肋の中を行くようだ。

 

 霧がない分、密林より快適ではあるのだけれど、ここは嫌だ。

 早く外に出たい。

 

「はっ」

 

 オルステッドの襟元の黒い毛皮を撫でて整えていた私は、ふと集中が切れ、思い至る。

 オルステッドの顔色をうかがう。

 彼は、普通にしていた。スンと澄ました顔をして、前方を見て歩いていた。

 私は恥ずかしくなって、今さらもじもじとする。

 

 抱っこをねだってしまった。

 もう八歳なのに!

 

 湿った空気は人を住まわせながら腐りつつあった家を、視野の悪い洞窟は盲いていた頃を、シオとやらの臭いはあれを連想させた。

 だからだろう。心持ちがチサであった時に戻ってしまったのだ。

 足萎えのチサが抱っこで運んでもらうのは仕方がないことだけれど、目明きの私が抱っこされるのはただのあまえっ子だ。

 相手のほうから抱き上げてくれるならまだしも、自分からねだってしまったのだ。

 

「あのね、オルステッド……」

 

 やっぱり自分で歩くとは言い出しにくい。

 恥ずかしいもの。

 洞窟の暗がりで熱くなった頬がバレていないことを願いながら、私はオルステッドとナナホシに聞こえるよう宣言した。

 

「わたし、ねむいから……寝るね」

「そうか」

「寝るからね」

「ああ」

 

 寝たふりだ。

 こうしてしまえば、二人とも、私が抱っこされたがったのは眠いからだと納得するだろう。ただの甘えとは思うまい。

 

 私はもぞもぞと楽な体勢を探り、目を瞑った。

 洞窟の外に出た頃に、ちょうど起きたように偽ろう。

 そうして自分の足で歩くのだ。

 

 

 


 

 

 

 からだは台の上にあった。

 天井は木、壁は煉瓦造りの部屋である。木賃宿は黴臭い藁に埋もれるようにして睡るのがふつうだが、私は固いマットの上にいた。

 ちょっと良い宿だ。ナナホシが選んだのだろう。 

 

「ぬっ……」

 

 寝そべったままうーんと伸びをして、芋虫のように体を起こす。

 

「起きた?」とナナホシがこちらを振り返る。

 黒髪はしっとりと濡れていた。洗髪していたらしい。

 夜ではないのに寝支度のようなことをしているナナホシがおかしくて、私はふわふわとした心地で笑いかけた。

 途中から船に乗り込み、陸地に移動したのは、睡っていても感じていた。

 私のことは、オルステッドがあのまま運んでくれたのだろうと思った。

 ナナホシもあの心地よい揺れを感じただろうか。

 

「……夜ね……揺れてたねえ……」

「寝ぼけてるわね」

 

 十秒もかけて、私はゆっくりと目を覚ました。

 

 寝巻きではなくて、移動していた時と同じ服を着ていた。睡る前に、体を拭きそびれてしまったのだ。

 たった一日綺麗にしなかっただけなのに、躰はべたべたしていた。

 唇を舐めてみると、ほのかに塩の味がする。

 

「ここはウェンポートの宿で、今は昼前よ。髪と体がベタベタするのは、一晩中潮風を浴びてたから」

 

 ナナホシは桶に張った水に黒髪を浸し、櫛で梳いている。

 私も躰を拭くために、寝台から降りて荷物から手拭いを引っ張り出した。

 

 桶の中身は透き通っていた。

 海とは広大な――広大っていうのは、つまり、とても大きな水場だ。

 むかし兄が教えてくれたことを思い出し、私は桶を指した。

 

「海の水?」

「塩水なんかで洗ったらもっとギシギシになるわよ」

 

 そうなのか。

 塩水に浸ったことはないから知らなかった。

 

「水、入れておいて」

「うん」

 

 ナナホシが顎の先を向けたのは桶ではなく、寝床横の机に置かれた水筒であった。体を拭くために、飲水を使ったらしい。

 私は空になった水筒を二つ抱え、右手から水球を出して中を満たした。

 寝起きだからかちょっと零してしまった。

 

「びしょびしょじゃない。脱いで。干してあげる」

「ちょっと濡れただけよ」

「ふーん。まあ、すぐ乾きそうね、この暑さなら」

 

 言い訳をすると、ナナホシはあっさりと手を下ろした。

 出会ったばかりの頃なら、ナナホシはもっと明るくて、同じ言葉を喋れるようになると色々世話を焼いてくれた。

 甘やかされたいわけじゃないけれど、昔よりは淡白になった態度に、私は自分の年齢を自覚する。

 まだ子供ではあるけれど、アイシャのようにほんの小さな幼子ではないのだ。

 

 

 オルステッドは明後日の夜に迎えに来るらしい。

 町に到着したばかりで性急なと思ったが、どうやら連れ出すのは私だけで、ナナホシは留守番だそうだ。

 それまでに支度をしておけ、とオルステッドからの伝言をナナホシづてに聞く。

 

「自分の用事にシンシアの力がいるって。それから、近くの島に転移に関する壁画が残されているから、いっしょに調べてくれるみたい」

 

 自分の髪を洗い、躰を拭きながら、聞いた。

 なぜオルステッドが転移について調べるのだろう。転移事件の原因を知りたいのだろうか。

 ナナホシはまるで、転移の原因がわかれば元の世界に帰れるかのような口ぶりだ。

 

 転移事件は魔力災害の一種だそうだ。

 災害であるなら、起こる理由なんかない。

 彼女が探す転移事件の原因は、そもそも存在するのだろうか。

 

 ナナホシが神仏に縋っているところを、私は見た事がない。

 無事に帰れますように、病魔がきませんように。作物が育ちますように。私たちはずっと昔から祈ってきた。

 生まれ変わってもそれは変わりなく。

 家の玄関に近い柱を、トウビョウ様の柱と定めて祈ってきた。

 災害で家がなくなり、拝む柱がなくなってしまってからはそれほど熱心にはしていないけれど。

 

 トウビョウ様を拝む家は、まだ岡山にあるのだろうか。

 ないならそれは、良いことだと思う。

 

「はやく『日本』に帰りたい?」

 

 大日本帝国とは少し異なる呼び方には馴染めないけれど、ナナホシは当然という顔をした。

 

 

 宿に籠っていても暇である。私はウェンポートを探検してみることにした。

 

「ナナホシは?」

「しばらく休んでから、市に行ってみるわ。久しぶりの町だし」

 

 獣脂に浸した灯芯が獣臭を放ちながら燃え、薄暗い酒場に明るみをもたらしていた。

 多くの旅籠がそうであるように、ここも、二階が宿で、一階には酒場という構造である。

 移動する時は寝ていたし、宿の外の様子を私はまだ知らない。

 

「暗くなるまえに帰るからね、ナナホシも気をつけるのよ」

「はいはい」

 

 私は薄暗い裏口の扉を押し開け、暑く蒸された外に出た。

 

 眼が太陽の光に馴染むのを待ってから視線を巡らせる。

 表通りに面していない路は人通りもなく、閑静であった。

 長方形に切り揃えた石組みの家が、ゆるやかな傾斜に並んでいる。

 私がいた宿も坂道の上に建っていたようだ。

 地面は土色の石畳で舗装されていて、手で触ってみたら熱かった。素足で歩いたら火傷をしてしまうだろう。

 ブーツで守られた足の上スレスレを、尾が二叉に裂けた猫が走り抜けた。

 猫又だ。

 異形のものが多く犇めく魔大陸では、動物も妖怪と化すのだろう。

 私とその周辺を巨大な影が抱き込んだ。一瞬のことで、影は地面の下を泳ぐ魚のように去った。

 黄塵色の空を見上げる。

 キャアキャアと甲高い声が聞こえた。

 鳴き声の出処は、あの巨鳥だ。

 魔大陸。やはり恐ろしい地である。

 

 わくわくしながら、宿への道順を忘れないようにしながらあてなく歩く。

 ここは魔大陸の端。海を越えた異国だ。

 遠く離れているそうだが、この町は一年前に訪れたガスロー地方と地続きである。

 同じ魔大陸なのに、すれ違うものも人のかたち、あるいはそれに近い容姿をしている。

 よりミリス大陸――人族の国に近いのが、ここ、ウェンポートであると、地図にはそう記されていた。

 

 ガスロー地方では怯えるばかりだったが、今回の私はちょっと違う。

 相手を怖く思うのは、正体がわからないから。言葉が通じないから。

 だからオルステッドから魔神語をいくつか教えてもらったのだ。

 「否」と「大人しくしろ」と「質問に答えろ」と……。

 

 私は足をピタリと止めた。

 

「困ったわ」

 

 人と仲良くなるための言葉を教えてもらっていない。

 ちっとも教わっていない。「こんにちは、初めまして」すら、私は魔神語で何と言うか知らないのだ。

 

 兄であれば知っていただろう。奉公先で魔神語を学んでいた兄なら、話せたはずだ。

 ルーデウスお兄ちゃん。元気にやっているようなので、しばらく居場所を視ていなかった。

 今はどこで何をしているのだろうか。まだ魔大陸にいるのだろうか。

 同じ町にいるような奇跡があったりして。

 トウビョウ様の力を借り、視ようとしたときだった。

 

『ファーハハハ! ファーハハアアフアガホゲホ……』

 

 高笑いが空から響いてきたのである。

 途中でむせ込んだ声の主は、すさまじい音を立てて、私の目の前に墜落してきた。

 

『ガボガボ!』

 

 屋根からなだれ落ち、頭を水甕に突っ込んだ状態でじたばたともがいている。

 あ、頭が。水甕に。

 それはもう、すっぽりとはまっている。

 水も入っていたようで、中で溺れている雰囲気だ。

 

「た、たいへん……!」

 

 私はまず逆さの女の子の体を押し、横に倒した。

 首と甕のふちの隙間から水がバシャンと流れ出る。これで溺れることはないだろう。

 次に、暴れる足を掴んで引き抜こうとした。

 さいわいと言うべきか、落下してきた子は子供のようで、私でも頑張れば引き出せそうな背丈であった。

 

『足を引いてどうすんじゃい! 甕を引っ張るんじゃ!』

「なにっ? どういう意味?」

 

 甕からくぐもった声が聞こえたが、何と言ったのかがわからない。

 そのうちビヨンと躰を起こしたその子が、座り込んで甕の両側を手でおさえ始めたので、私はハッとして甕をしっかりだき抱えた。

 確かに、躰ぜんぶが詰まってしまったならともかく、頭だけすっぽりはまった状態で足を引っ張っても意味がない。壺を被った子供が引きずられるだけだ。

 

『ふんぬっ!』

 

 苦心の末、頭はスポンと抜けた。

 女の子は、びしょ濡れになった頭を犬のように振った。首がまだ繋がっていることを確かめるようにペタペタと顎やこめかみを触っている。

 頭には、山羊みたいな湾曲した黒角が生えていた。

 きっとあの角がつっかえて、なかなか抜けなかったのだろう。

 

『ふぃー……また死ぬところじゃった……』

 

 女の子は拳で自分のつむじをトントン叩いている。

 伸びた首を上から押し込んで戻すみたいな仕草がおかしくて、私はくすっと笑う。

 

 私と同じか、背が低いので少し年下くらいだろうか。

 とんでもない薄着の女の子である。

 豊かな紫色の髪は太ももまで伸び、背中を覆っている。

 扁平な胸を隠すのは、前が細紐で留られた黒い革のみ。

 下着のまま外に出ちゃったのだろうか。

 首と両の手首に、重たそうな枷がつけられているのが痛々しい。

 しかし悲壮感はなく、女の子の身のこなしは身軽であった。

 

『そこの童! おかげで助かったぞ! 礼を言う!』

「……? よかったねえ」

 

 私は口が欠けてしまった水甕の(ひび)を、土魔術で出した泥でペタペタと埋めながら笑いかけた。

 

『ぬ? おぬし、魔神語はわからんのか?』

 

 女の子は顔を近づけて私をのぞきこんだ。左右で目の色が異なる。

 紫色の片目がぐるんっと上を向き、私はとっさに彼女を抱きとめる姿勢になった。白目をむいて卒倒するのだと思ったのだ。

 紫色の瞳は上に行って、戻らず、下瞼の縁から別な色の瞳が現れた。

 

「……?」

 

 人の眼って、そういう造りだったかしら。

 

「あー、テステス。妾の言葉、通じておるか?」

「わかる」

 

 急に、女の子の声が、意味を持った言葉として聞こえるようになった。

 女の子は満足そうにウンウンと頷いた。

 そして手を腰に、グッと胸を張って、私に命令した。

 

「貴様! 名を名乗れ!」

「シンシアよ」

「そうか! 妾はキシリカ・キシリス! 人呼んで、魔・界・大・帝!」

 

 キシリカちゃんというらしい。

 魔界大帝って、どこかで聞いたような気がする。本で読んだのだっけ。

 私は水甕の中を水魔術で満たしながら考えたが、思い出せなかった。

 魔神のことなら、家にあった本に何度も出てきたから憶えてるのに……。

 

「キシリカちゃん」

「なんじゃぁ!? 馴れ馴れしいのう、だが……許す! まだ子供のようじゃからな」

 

 キシリカちゃんはちょっと変わっている子のようだ。

 子供なのに、こんなにポンポンハキハキと喋る子は、珍しい。賢いのだろう。

「さっきもやったばかりじゃが、復活したてだからの、大サービスじゃ」と独り言めかして言い、キシリカちゃんは偉そうに告げた。

 

「シンシアよ。貴様の献身、妾にしかと届いたぞ。褒美に、何でも一つ願いを叶えてやろう」

「願い?」

「うむ」

「ちょっと大変だけど、いい?」

「うぅむ!」

 

 痩せていて、私より背も少し低い子に頼むのは気が引けるが。

 よいしょと私は水甕を力を込めて押した。甕は乾いた地面に痕をつけながら僅かに動いた。

 なみなみに注いだ水が中でザプザプと揺れる。

 

「水甕いっぱいにしたら、重くて動かせなくなっちゃった。元の場所にもどすの、手伝ってくれない?」

「おお! もちろんじゃ! 妾一人でもイケるぞ!」

 

 キシリカちゃんは重い水甕をヒョーイと頭より高く持ち上げ、ドスンと戸口の横に置いた。

 おお。

 オルステッドもかくやというほどの怪力ではなかろうか。

 身振り手振りが大きくて賑やかなキシリカちゃんと比べて、オルステッドは、もっとこう、スッスッという感じでやるだろうけれど。

 キシリカちゃんは、人のかたちをしているが、角があるし、目の色が左右で異なるし、髪が紫色である。

 きっと怪力な魔族の女の子なのだろう。

 

「すごいね、力持ちね」

「妾を誰だと思っておる! 復活したてのチンチクリンであろうとこんくらい……え? 願いってこれか? これっぽっちか?」

「うん、ありがとう」

「ばっ」

 

 キシリカちゃんは人差し指と小指を立てて、白目をむいた。

 今度はどんな色の瞳が現れるのだろうと思ったが、戻ってきた瞳の色に変化はなかった。

 単に白目を剥いただけだったみたい。

 キシリカちゃんは肺に息を溜め、「バッカもん!」と言い放った。

 

「魔界大帝が下賜するものといったら、魔眼に決まっておろう!」

 

 馬鹿っていわれた……。

 あと、魔眼ってなにかしら。

 

 知らないでいると、キシリカちゃんは説明してくれた。

 曰く、遠くのものが見えるとか、少し先の未来がわかるとか、魔力が見えるようになるとか。

 

「私は魔神語が話せないのに、こうしてお喋りできるのも、魔眼の力なの?」

「そうじゃ! これは万言眼という。この魔眼にかかれば、どれほど異なる言語で語られようとも、意味を見失うことはない。ひとたび目を交わせば、相手の言葉が〝意〟として直接、胸の内に届くのじゃ。

 ただし、魔物とか、植物なんかの意思を翻訳することはできんぞ。言葉を持つ相手だけじゃ」

 

 私はキシリカちゃんを視た。

 ゲドウだろうか、それとも犬神、あるいはこの世界にだけ存在する憑き神?

 異なる言語を翻訳するほどの力はトウビョウ様は使えないけれど、キシリカちゃんは私と同じ――何かに取り憑かれ、呪われた女ではないか、と思ったのだ。

 

「へくしっ。なんか寒気が……ぶるぶる」

「ちがう……」

 

 キシリカちゃんのなかに巣食うものの気配はなかった。

 でも、呪われている。頸と両手首に嵌められた枷が、彼女をここに縛りつけている。

 私は両腕をさするキシリカちゃんの首に手を伸ばした。

 

「なんじゃい」

「大人しくね」

 

 罪人のような鉄の首枷に触れる。

 解呪の方法は知らないが、呪い返しのやり方ならわかる。

 前世で聞き覚えた呪文がある。

 

『甲乙の日にできたる呪詛神なれば東方、隆三世夜叉明王と申す本地なればともしてござし玉へ』

 

 本地とは、呪いを使役する神のことだ。

 つまりこれは、呪いが本地に帰るように祈るおまじないである。

 頭痛を堪える。

 トウビョウ様は呪いをかけるのは得意だけど、返すのは不慣れである。

 

「おお!?」

 

 キシリカちゃんの驚愕の声。

 触れた端からゆっくりと首枷が黒く腐食していく。

 指先からずきずきと感じる鋭い痛みは、段々と腕のほうに登ってきた。

 でも、あと少し、あとちょっと……。

 

「!」

 

 閃光が首枷からパッと走り、私は盲た。

 壊すために凝視していたから、まともに見てしまった。

 頭がくらくらとして、立っていられずに座り込む。

 

「う……」

「ダメじゃったか。ま、仕方ないのう」

 

 目を瞬かせながら見上げると、キシリカちゃんは凝った体をほぐすように動いている。

 あんなに強い呪いを至近距離に置いて、なんで平気そうにしていられるのだろう。

 小さな子が呪われているのが可哀想で、なんとかしてあげようとしたけれど……。

 

「妾を助けたばかりか、解呪まで試みるとは、幼いながら見事な忠誠心じゃ。お主が強く美しくなったら、妾の侍女にしてやってもよいぞ!

 して、褒美にどんな魔眼を望む?」

「ほうび……」

 

 まだチカチカする視野で、私は目を回しながら答える。

 

「万言眼を……」

 

 失せ物探しも、未来を知るのも、もとからできる。

 他の魔眼も説明してくれていたが、いちばん印象に残ったのが、万言眼であった。

 シンと沈黙が落ちた。

 その間に地面に手をついて立ち上がる。

 キシリカちゃんは、きまり悪そうに両手の人差し指をツンツン合わせていた。

 左右で色の異なる瞳が、上目遣いに私をうかがう。

 

「これはな、上位魔眼で……今の妾では与えることができんのじゃ」

「そうなの。じゃあ何もいらない」

「無欲なやつじゃのう……。さっき褒美をやった奴なんか、巨万の富をよこせとか、世界の半分とか、妾の体とか、そういうのを要求してきたんじゃぞ?」

「悪党ね……」

 

 まるでおとぎ話の魔王みたいだ。

 実際に異言語が通じるようにならなければ、私はキシリカちゃんを、人の願いを聞き届ける神様になりきって遊ぶのが好きな子なのだと思っていただろう。

 きっと、この子には本当に、魔眼を与える力があるのだ。

 

 富や世界の方はどうかしら。

 裸に近い格好でポーズを決めていたキシリカちゃんは、財を持っているようには見えない。

 何も持たずとも差し出せるものといったら、躰だろう。

 

「躰をあげたの?」

「なかなか好色なやつでな」

「その人のこと恨んでる?」

「いや? そも妾にはフィアンセがおるからの、この下は誰にも許しておらんぞ」

 

 キシリカちゃんは、とても短いズボンを引っ張って深く履き直した。

 

「妾は誰も恨まん、殺されようと、ハジメテを無理やり奪われようとな」

 

 臥薪嘗胆ではないのか。

 前世の流行り言葉のきっかけは、遼東半島が清国に奪われたときだったか。

 意味は、復讐のために苦労に耐えること。

 

「まさかお主、そんなに幼気ななりで、誰ぞ恨んでおるのか?」

「わかんない」

 

 チサを襲った浮浪者を、私は思い出す。

 恨んだらいいのか、忘れたらいいのか……昔にも、こうして迷ったのだ。

 

「復讐は何も産まん」と、キシリカちゃんは訳知り顔で言った。

 

「恨みも、怒りも、後生大事に抱えたとて、腹が膨れるでもなし。すべて許し、忘れるがよい。おぬしはこうして生きておる、それでよいではないか。

 ……今の妾めっちゃ良いこと言わんかったか? どう? 響いたか? 胸にジーンときたか?」

 

 キシリカちゃんは周囲をチョコマカと踊り周りながら、私の顔を覗き込んでくる。

 よく動く紫色に気をとられるので楽しくなってしまいそうなところを堪え、私はよく考えた。

 臥薪嘗胆では腹は膨れぬ。

 この世界に生まれてから、空腹の辛さとは無縁に過ごしてきた。

 ナナホシには優しいが私には怖かった頃のオルステッドですら、ご飯は与えてくれた。

 今が満たされているから、前世を恨むゆとりを持てる。

 満たされていないと持てない心なら、本来そんなに大事ではない。

 大事ではないなら、潔く捨ててしまえ。

 キシリカちゃんはそう言っているのだ。

 

 不思議なことに、キシリカちゃんは小さいのに、色んな大事なことを知っているように見える。

 このうっすらとあばらの浮いた躰、下着も同然の格好。

 あとちょっと臭い。浮浪者に水をかけたような臭いがする。

 衣食住のありがたみは特によく知っていそうだ。

 

 トウビョウ憑きになる前のチサと、近しいところがある。

 そんな彼女の言うことだから、胸にジーンと……。

 ジーンと……?

 

「……きた!」

「おお! よいのうよいのう! 人間素直が一番じゃからな!」

 

 ちょっと無理やりだけれど、いい。そう思い定めよう。

 死なないと母様と父様の子にはなれなかったのだ。

 二人がくれた果報な生まれを、前世を恨んで過ごしたら母様と父様にすまない。可愛がってくれた兄とリーリャにも。

 前世の未練は捨てよう。もとよりこの世界に産まれてからは日々が楽しく、そんなに思い出すことはなかったけれど。

 

 キシリカちゃんと手を繋いでわーいわーいと喜んだ私は、ふと思い出すことがあった。

 

「キシリカちゃん、私、魔眼はいらない。でも、代わりに探してほしい人がいるの」

「ええぞ! いったい誰を見る?」

「バーバ・ヤーガって人よ。昔お世話になったから、達者にしてるか知りたい」

 

 ガルデニアの地下街で孤児たちを守っている男、バーバ・ヤーガ。

 母様の居場所を教えてくれたのも彼だ。

 似たような力を持ち、かつ蛇に縁がある者として、私と彼は相性が悪い。視ようとするとはじかれてしまうのだ。

 憶えのない名前だというので、だいたいの居場所と、外見の特徴を伝えると、キシリカちゃんは鷹揚に頷いた。

 また瞳の色が変わり、キョロキョロと四方に動き始める。

 真似できない動きだ。

 

「こ、これは……!」

 

 難しい顔をしたキシリカちゃんがわなわなと震え始める。

 そうして、ピョンと大きく跳躍した。

 

「この何とかヤーガとやら、我が倅、バードラ・ヤードラではあるまいか!?」

「せがれ?」 

 

 キシリカちゃんは小さな女の子。

 バーバ・ヤーガは青年であった。

 父親の誤りではないのか。

 

「復活して数百年、音沙汰がないから死んどったのかと……そうかそうか! 元気そうじゃな! 横におるのは妻か? 孫の顔が楽しみじゃのう!

 ああ、今でこそ妾はこんなチンチクリンじゃが、完全体の頃はボンキュッボンのモテモテで、多くの子を産んだものよ」

 

 キシリカちゃんは黒い胸当ての上で、丘を撫でる仕草をした。

 まるで昔はあったものを懐かしむような、そんな動きだ。

 

「妾の秘められた過去が知りたいか? ふふん、よいぞ、教えてやろう!」

 

 石壁を背にちょこんとあぐらをかいたキシリカちゃんが、まあ座れ、というふうに地面を叩くので、私も正面に腰を下ろして膝を抱える。

 

「今でこそ婚約者をただ一人と定め、死ぬまで添い遂げている妾じゃが、昔はそうではなかった。

 強いモンが我慢する道理はなし! 青かった妾はそう豪語し、何人もの男と結婚し、子を産んだ。人族との大戦は初めてじゃったし、表向きは、異種族と妾の血を掛け合せて、最強の種族を作るためとか、そんな風にしてたんじゃ。

 母の期待通り、子供たちはみな魔眼をもって生まれてきたが、バードラはこの母にもない、超つよーい力を持っておった」

「キシリカちゃん、おかあさんだった……の?」

 

 赤ちゃんが産めるものだろうか。その痩せたからだで。

 完全体と言っていたし、昔は大人だったのかしら。

 子供は時が経てば大人になるが、その逆も起こりうるらしい。

 魔大陸。やはり妙な場所である。

 

「あの頃はよかったのう、お気に入りのイケメンを囲ったハーレムで、酒池肉林に興じたりして……。

 東の剣士に、南の戦士、北の王子に、西の商人……『全員妾の婚約者じゃ♡』などとほざいておったのじゃ! かぁー! 思い出すだけで小っ恥ずかしいのう!」

 

 キシリカちゃんは豪快に笑い、バシンと自分の膝を叩いた。

 昔はなかなか強欲な女であったらしい。

 

「種族年齢問わずかき集めたからな、まあ、中には龍族の血をひく男がいても不思議はなかろ?

 魔族と龍族の関係が微妙だった時代じゃ。ネクロスラクロスにはいい顔されんかったが、誰も妾を止める者はおらんかった。

 そんな龍族を父系に持つバードラは、ちっと目を離すと種違いの兄弟にリザッケだなんだといじめられるわ、龍族に恨みを持つ年寄りに殺されかけるわ、普通に死にかけるわで、妾は毎日てんてこ舞いじゃ」

 

 昔を懐かしんでいたキシリカちゃんだったが、次第にさしぐみ、泪を堪えるように眉間を揉んだ。

 仕草がどことなくおじさんっぽい。

 

「マジで不運で不憫な子でのう……まるでなんかの陰謀かと思うくらい、よく死にかけておった」

 

 不運。不憫。よく死にかけていた。

 私が会った時はそのような印象はなかった。

 しかし、思い返せば、バーバ・ヤーガ改めバードラの部屋には、数多くの呪い避けの品があった。

 バードラ・ヤードラという本名ではなく、北の悪い怪物の名を名乗るのも、不運避けの一種だったのだろうか。

 わざと忌み名を名乗ることで、病魔や事故から守られると信じる種族がいる。

 そんなことを、むかし兄が教えてくれた。

 

「超つよい力って、どんな?」

「聞きたいか!」

「聞きたい!」

 

 キシリカちゃんの語り口は軽快で面白く、私も前のめりになって訊ねた。

 キシリカちゃんはニヤッと歯を見せて笑った。

 ギザギザの白い歯である。

 

「人族の高名な占い師を遥かに凌ぐ、精緻な未来視。そして、邪視じゃ」 

「邪視ってなに?」

「睨むだけで相手を殺す、とんでもない力のことよ」

 

 トウビョウ様の呪いのようだ。

 しかし私であれば、その者を見つめていなくても、どんなに遠くにいても、呪い殺せる。

 例外は、オルステッドと、竜だけだ。

 神さまの血を引いている彼は呪いを弾くし、竜も蛇神であるトウビョウ様と相性が悪いので、やはり視界に入っていなければ呪い殺せない。

 それ以外であればだいたい殺せる。

 

「おぬしも倅と同じ……いや、ちょっと違うかの? まあよく見えんが、難儀な生まれなようじゃの」

「私みたいな人はほかにもいるの?」

「おうよ。スペルド族の霊媒師(ムグウェツァ)に、ヌーカディア族の邪術師(ンフィティ)、天族の預言女(シビュレー)。そういう意味わからんやつは、実はちょくちょく生まれておる。歴史に名を残す前にだいたいおっ死ぬから、知られておらんだけじゃ」

 

 キシリカちゃんは立ち上がり、両腕を肩の高さに広げた。

 まるで着付けを待つお姫さんのようだけれど、着物はないし……。

 私はどうしたらいいかちょっと考えて、キシリカちゃんの尻や腿についた砂を手で優しくはらってあげた。

 

 彼女はウムと満足そうに頷き、おもむろに腰だめにしゃがみ、屋根の上に飛び乗った。

 すごい跳躍力だ。

 

 胸を張って見下ろすキシリカちゃんの、紫色の髪は逆光で不気味に黒々として見えた。

 左右で色の異なる目は爛々と光っている。

 

「ズバ抜けた未来視を持つ者は代々短命じゃ! しかーし! 生き延びる道もないではないわ! 我が子バードラのように!」

「生き延びるって、どうやってー!」

「それはわからん! 達者でな、シンシア! ファーハハハ! ファーハハハ! ファーアハハハア!」

 

 豪快な笑い声を響かせながら、キシリカちゃんは屋根から屋根へと飛び移り、姿を消した。

 私は走って追いかけようとして、足をとめた。

 追いつけないのは火を見るより明らかであった。

  

「……いいよ、オルステッドに訊くもの」

 

 知っているかは、わからないけど。

 この世界には、トウビョウやゲド筋ではなくても、託宣を下し、人に呪いをかける者たちが存在する。

 呪いはどこにでも存在するのだろう。

 薄々知ってはいたが、いざ断言されると、私は迷う。

 

 父様のもとに帰れればいい。ずっとそう思ってきたのだ。

 そうしてリーリャと兄と妹たちと前みたいにいっしょに過ごして、私はトウビョウ様を受け入れて夭折する。

 母様もそこにいてほしいけれど、もし叶わなくても、それが私のせいいっぱいの仕合わせであったはずだ。

 

 でも、オルステッドとナナホシと、ずっと旅を続けて、色んな人に会って話を聞いて、トウビョウ様から離れる方法を探す。

 家族と暮らせるようになるのは、きっとすごく後になるだろう。

 そんな私も、未来にいるのではないか。

 そんな図を想像してしまって、それが前ほど悲しくはないのだった。

 




問答無用で抱っこされるのはノーカンだけど、自分からせがむのは恥ずかしい8歳女児。
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