巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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無職転生3期!!


五二 Pressentiment

 兄がいる宿にとんぼ返りする途中、広場に市を見つけた。

 ふたつの樽に渡した板の上にぐんにゃり並んだ生魚が陽を浴びて傷んでいる。

 穀物を詰めた袋が山積みになり、こぼれた粒を鶏があさる。

 桟の粗い檻に詰め込まれた鵞鳥が騒ぐ。

 商品に魚が多いが、光景は今まで見てきた町の市と似通っている。

 

「すんすん……」

 

 つい足を止めて空気を嗅ぐ。

 どこもかしこも、変な匂いだ。一昨日の夜に感じた塩……潮? とやらの匂い。

 町全体に漂う強い潮の匂いは、建物の中にいてもおなじだった。

 

 ……そうだ、市でお兄ちゃんにおみやげを買っていこう。すぐに会いに行くには、実はまだ勇気が足りないのだ。

 そう思い、広場を通り抜け、路地にも続く市を見物する。

 住居の一階部分をお店として使っているようで、頭上では、家と家の間に縄が渡され、洗い晒しの布だの衣服だのが干されている。

 

 厚手の布が私の視線の高さまで積み上げられている。布屋だろうか。

 私が手を伸ばしてなんとか届く高さに吊り下げられた籠には、布のはぎれを縫い合わせて作った巾着袋がいくつも入っていた。

 

 いいな。こういうの、買ってもいいのかしら。

 ナナホシがくれた小さな六文銭にも似たお金、ペルギウス様がくれた黄金の龍の笛。

 こまごました宝物は鞄の中で散らばってしまうから、入れておける袋がほしい。

 今まではゾルダートさんがくれたレースの手巾で包んでいたが、あれはもうアイシャにあげてしまった。

 

 硬貨はともかく、笛はオルステッドに持たされている腕輪みたいに紐を通して首にかけることもできないし。

 

「……」

 

 きゅっと一人で渋面になる。

 これは私が欲しいものだ。兄にあげるものを考えなくては。

 

「ごめんあそばせ」

 

 軽やかに横に走りよる、背の高い人影があった。

 最初に目を奪ったのは、大きく縦に巻かれた見事な金髪であった。

 赤と白を基調とした服には袖がなく丈が短く、華奢で色白な腹と肩がむき出しである。

 下に履いている黒のズボンも異様に短いのだが、腰に巻かれた白い布は動きに合わせてふわりと揺れ、横と後ろから見ればスカートを履いているようだろう。

 深紅の膝上丈の靴下と茶色のロングブーツで脚のほとんどは覆われているが、太ももは出ている。

 

 胸はまだしも、太ももをさらけ出すなんて破廉恥な。

 大人なのに。

 

 私も動きやすい短いズボンを履いているから人のことは言えないが、こんなに短くはない。

 ほとんどパンツではないか。

 

 顔を見上げると、先が尖った長い耳、赤い瞳。

 腰には丸型の盾と細剣が装着されている。

 長耳族だ、そして、冒険者だ、と私は察する。

 

「あなた、わたくしを助けてくださる?」

「うん」

 

 彼女は店主ではなく、私を見て、人間語で訊ねた。

 思わず頷くと、彼女はすばやく腰の盾と剣を外し、店の影に放り捨てた。

 私は抱き上げられた。美しい顔と長い耳が、頬ずりできそうなほど近くなった。

 長い指先が売り物の赤い布を手繰るのが見え、次の瞬間、視野が布で遮られる。

 

『何するんだ!』

「シッ!」

 

 顔にかかった布を剥がそうとしていると、抗議のような声をあげた店主に鋭く威圧する音が聞こえた。

 彼女は顔を出した私に布の一端を握らせ、躰をよじり、片手を使い、器用に長い布を自らに巻きつけた。

 頭巾のように頭もすっぽりと覆うと、私を抱いたまま道の端に捌ける。

 そうして、何をするでもなく、普通に佇んだ。

 

『どこだ、どこにいった、我が妻よ!』

 

 横を、取り乱した男が叫びながら通り過ぎた。

 表情は熱っぽく、何かを探しているようでありながら眼は虚ろだ。

 

「しつっこい男」

 

 彼女は男を視線だけで追い、チッと舌打ちをした。

 追われているのだろうか。

 

「わたくしとしたことが、火遊びの相手を見誤りましたわ」

 

 痴情のもつれというやつだ。

 前世でも、ブエナ村でも、カーリアンでもよく見たから、珍しくもない。

 

「いい子にしてましたわね」

 

 男が失せると、降ろしてもらえた。

 大人しく抱っこされていただけでいい子と言われるなんて、幼子みたいだ。

 商品の布を戻し、放り捨てていた剣と盾を拾い上げている彼女に話しかける。

 

「さっきは何をしてたの?」

「変装ですわ。ああしていれば、親子連れに見えるのよ」

 

 親子。何気なく使われた言葉に、私は寂しくなった。

 子供を抱いて、自らと一緒くたに布を巻つけたような上着をまとっている母子はここに来るまでに何組か見かけた。

 

 変装は、追跡者の目から逃れる手段だったのだろう。

 長耳族の女は、外貌は母様と同じくらいの年頃で、背格好も似ていた。

 太ももの半ばまで覆うブーツも、母様と同じだ。母様はこんなに肌を出してはいなかったけれど。

 彼女の手に指を絡めてみた。握り返された。視線を上げる。

 少し怖いと思っていた彼女のきりりとした眦が、やわらかみを帯びた。

 

「わたくしの子になる?」

 

 お兄ちゃんに謝りに行かなくてはならない。

 その前に、少しだけなら。

 

「今日だけ、なりたい」

 

 

 長耳族のその人はエリナリーゼと名乗った。

 聞いた事のある名だった。フェリムの祖母と同名である。

 

 試しにフェリムという少年を知っているか訊ねると、知らないと返ってきた。

 ただし、エリナリーゼさんには子供がたくさんいるらしく、血縁はあっても面識のない孫やひ孫もたくさんいる。彼もその一人だろうと言っていた。

 

 私はちょっと考え、シンディと名乗った。

 母様にはそう呼ばれていたから、同じように呼ばれたかった。

 

「シンディって、愛称でしょう。本名はシンディアナかしら」

「いいえ、違うの」

「じゃあ、シンデルウェン?」

「ううん。もっと短くて、簡単よ」

 

 長耳族の名づけ方は人族とちょっと響きが異なるらしい。

 シンシアもシンディと呼べるのに、長耳族のエリナリーゼさんは知らないみたいだ。

 足は疲れていないか、喉はかわいていないか、私はエリナリーゼさんに訊かれながら手を引かれて歩く。

 そうしてエリナリーゼさんは、ある家の中に私も連れて入った。

 

 今はないブエナ村の家と造りは異なるが、普通の家だろう。

 でも、エリナリーゼさんの自宅ではない。うまく言えないが、人が住んでいる匂いや気配が、まるきり他人のものなのだ。

 

「上がっていいの?」

「ええ。わたくしの友達の家ですもの……」

 

 友達という言葉に妙な含みを感じたが、それなら安心だ。

 エリナリーゼさんは堂々として階段を上がり、上階にある部屋の扉を開けた。

 

 扉が開けられた瞬間、私は立ちすくんだ。

 背もたれに両手と顎をのせ、椅子に跨った女が、こちらを視線で射抜いていた。

 エリナリーゼさんが意に介さず進むので、思い切ってついて行く。

 そばを通る瞬間、気づく。

 入り口を見据えた女は、蠟でできた人形であった。

 生きた人間に睨みつけられているのだと勘違いするほど造りも彩色も精巧であったが、身動ぎをせず、瞬きもしない。

 これほど怖い醜い顔の娘はなかなかいないだろうという蠟の人形だ。

 顔に皺がないから若いのだろうが、顔立ちは扁平で、鼻梁は短く、鼻の頭は平たくひしゃげ、頬骨と顎骨が突出している。

 植えられた髪は人毛のように艶々とし、死人のように青白い顔色の中、唇だけが生々しく紅い。

 長いスカートの端がまくれ、そこから伸びる足の形は美しい。

 醜悪だが、妙な威厳があった。

 

 蠟人形のほかには、麻布に雪花石膏を塗り込んで滑らかにした板がいくつもあった。

 色とりどりの塗料を手に、板に向き合っていた男がエリナリーゼさんの口をいきなり吸った。

 エリナリーゼさんは拒まず、男の腰から背中をなぞり上げた。

 

 見つめ続けてもよかったけれど、男が手の甲でシッシと払う仕草をしたので、私は視線をよそに移した。

 床には、姉弟だろうか、子供が座り込み、乾いた塗料を練って遊んでいた。

 絵画ならば、カーリアンの教会や、ペルギウス様の城塞で転で何度も見たことがある。

 ペルギウス様にもらった絵画だって、小さいけれど額縁付きの立派な絵である。

 絵画が、絵画になる前の状態は、初めて見た。

 ここは絵を生業にしている者の家だろうか。

 

「私とも遊んで」

 

 歳が近そうな子たちの傍に寄り小声で話しかけると、姉弟は近くに来られて初めて私を認識したというふうにこちらを向いた。

 

「占ってあげる」

 

 上の子は私よりちょっと小さい。

 人族の見た目だし、人間語を喋れるようだ。

 彼女は私を床に座らせ、そばに放っていた薄べったい太鼓のような楽器を膝に乗せた。

 動物の皮を張った表面に筋目が通り、妙な形を作っていた。

 男の子のほうが、黒く汚れた手で、床に散らばっていた植物の種をバラバラと上に撒く。

 何回か、下から叩いた。そのたびに種は踊った。

 私は刻み目に点在する種を覗き込み、訊ねた。

 

「なんの占い?」

「願いがかなうか、かなわないか」

「かなう?」

 

 私の願いは、兄と仲直りすること。

 女の子は答えた。

 

むり(ファ)

 

 魔神語だったか、意味はわかった。

 オルステッドに教えられた魔神語のうちの一つ。否定だ。

 ただの遊びでも、縁起が悪い。ちょっとしょんぼりする私に、姉弟はつぎつぎ玩具を見せてくれた。

 弟のほうはアイシャと同じくらいで、懐いてくるのが可愛い。

 

 エリナリーゼさんと男が裸で絡み合う部屋で、私たちは遊んだ。

 小さな机に乗った皮の袋から、何か半透明なものが覗いていて、私は近寄った。

 ブエナ村にいた時ならば、蜂蜜を固めて飴にしたのだと思っただろう。

 蜂蜜ではない。粗く砕かれた琥珀である。

 ペルギウス様の城塞にも、これを削り出して象嵌した装飾品はあった。

 

 しかし、絵に使われてこそ、琥珀は真価を発揮する。

 ペルギウス様が教えてくれたことを思い出す。琥珀そのものでは絵は描けない。画面を保護する上塗りに必要なのだ。

 琥珀を砕いて粒にし、煮立った油に溶かし、二晩温め……いくつもの工程を経て、蜂蜜色の石は塗膜油に加工される。

 

 袋の口から零れ落ちた小さな粒を袋に入れてやろうとすると、姉の声が飛んできた。

 

「だめ! それだけは、パパが怒る」

 

 手をひっこめて、姉弟のところに戻った。触ってはいけないようだ。

 私が戻るのをちらりと見ると、彼女たちは、まだ乾ききっていない顔料を指につけ、床に擦りつけ始めた。

 そんなことしていいの?

 私は汚れきった床を見回した。綺麗な箇所の方が少ないくらいだ。

 

 私は椅子に跨った蠟女を見た。

 彼女の姿を、床に映そうとした。

 

「なんてことを、貴重な顔料だぞ」

 

 熱中していると、裸の男に急に話しかけられたので、思わずびくっとした。

 いつの間にか、熱っぽい荒い息も喘ぎ声も止み、寝台に腰かけて、下着をつけ直すエリナリーゼさんが視野に映った。

 いっしょに遊んでいた姉弟の父でもある男は、私の手元を覗き込んだ。

 稚拙な出来である。隠そうとする手を無理やり剥がし、男は絵を眺めた。

 

「ミス・ヴァレンタインを描きたいんだろう。人体から、いきなり腕は伸びていない。まず、肩をつけてやらなくては」

「ヴァレンタイン? 誰かしら? あの蠟人形?」

 

 エリナリーゼさんが口を挟むと、男は答えた。

 

「最近名をあげた、ミリスの芸人だよ」

 

 あん畜生、部屋を開けて、ズボンをおろして、乙女を入れたよ、と男が口ずさんだ歌に、私はうっすら笑みを浮かべた。

 かなり露骨な猥歌である。

 

「意味がわかるのか? ママが仕込んだか」

「わたくしは何も」

 

 近づいてきたエリナリーゼさんは私の頬を撫でた。

 

「女の子は七つを過ぎれば、馬鹿でない限り、Pressentiment(予感)を持つものですわ。結婚の夜、夫に失礼なことをされたといって、実家に帰る花嫁はいませんでしょう?」

 

 同調してクスクス笑いながら、私は少しうしろめたかった。

 しかし、二人の大人に認められたようにも感じられて、くすぐったい。

 

 男は蠟人形の腰をかかえて立たせた。だらりと下がった人形の足は、後ろからだき抱えて動かすと、ブラブラ揺れた。

 若い男はやっちゃうのよ、できるときならいつだって。

 本当にひどいやつ、と歌う男に、エリナリーゼさんは声を合わせた。

 

 私も、姉弟といっしょになって、いま聞き覚えた猥歌を歌った。

 わけもなく楽しくて、荒く階段を登ってくる音を聞き逃した。

 ノックもせず入ってくるや、女はエリナリーゼさんの頬を平手で張った。

 合唱は一瞬にしてやんだ。

 

 男の女房だろう。エリナリーゼさんは仕返さず、唇に薄笑いを浮かべて荷物をまとめ始めた。

 私と遊んでいた姉弟は、女の横をすり抜け、逃走した。

 女房は魔神語でエリナリーゼさんに怒鳴りつけた。

 

 私もいっしょにエリナリーゼさんとここを出なくては。

 そう思った時、女房の怖い目は私に向かった。嫉妬に燃えた女の内で、エリナリーゼさんの連れ子――私にまで、敵意が芽生えたのがわかった。

 

『媚びた目をしやがって! いやらしい!』

「ぎゃっ」

 

 ガクンと視界が揺れ、髪が引き攣れる痛みに声が出た。

 私の髪をねじりあげる女の手を、「やめて(ニール)!」と鋭く叫んだエリナリーゼさんが叩いた。

 自分がやられた時は平然としていたのに、エリナリーゼさんはすごい勢いで何かをまくしたてた。

 異言語である。魔神語とも異なる。長耳族の故郷である大森林の言葉か、内容は罵詈雑言だろうとわかる剣幕であった。

 

 女房が怯んだすきに、エリナリーゼさんは私をひったくるように抱いた。

 

「フンッ!」

 

 最後に睥睨し、ツカツカと硬質な(あしおと)を立てながら、エリナリーゼさんは、画家の家を出た。

 間際、追いかけてきた姉弟の弟のほうが、私の手をつよく握った。

 湿った手のあいだに、尖った感触を感じた。

 

 エリナリーゼさんに抱えあげられたまま、手を開く。

 握られていたのは、琥珀の欠片であった。

 激しい修羅場に巻き込まれた代わりに、美しいものを得た。

 

「もう、今日はツイてませんわ」

 

 琥珀をまじまじと眺めつづける私を地面に立たせ、エリナリーゼさんは己の不運を嘆きながら、私の乱れた髪を結び直してくれた。

 

 破片を握り込み、エリナリーゼさんを見上げた私は、彼女の打たれて赤くなった頬に触れた。

 治癒魔術をかける。

 

「心配してくれるの? 優しい子ですわね」

 

 無詠唱だし、それほど酷い怪我ではなかったからか、治癒魔術をかけられた事には気づいていないようだ。 

 

「わたくしの子供たちは、ああいう事が続くと、皆わたくしを嫌いましたのよ。不思議ですわね」

「続くからじゃないかしら……」

 

 美しいのに、筋金入りの淫乱であるようだ。

 家族に嫌われるのはつらいことなのに、エリナリーゼさんの語り口は軽い。

 私はお兄ちゃんに嫌われてしまっている。

 お兄ちゃん……。

 

 エリナリーゼさんは私の頬をむにっと掴んだ。唇が勝手に突き出る。

 変な顔をさせられ、頭を振って細くて細くて冷えた指から逃れた。

 

「わたくし泣く子をあやすのは面倒ですの。泣いたら置いていきますわよ」

「置いてっていいよ。わたし、もうお兄ちゃんに会いに行くもの」

「そう?」

 

「元気で!」と片手を上げ、颯爽と去っていこうとするエリナリーゼさんを、つい呼び止めた。

 思い出したことがあったのだ。

 ずっと気になっていた事でもある。

 

「海ってどれ?」

 

 振り向いたエリナリーゼさんはある方角を指さした。

 

「すぐそこに見えましてよ。あなたも人族なら、ウェンポートに来る時に、船でいやというほど見たでしょう」

「寝てたから、見れなかったの……」

「ねぼすけさん」

 

 エリナリーゼさんはクスッと笑った。示された方角を見渡しても、住宅街が広がるばかりで、水場はどこにもない。

 

「もう少し一緒にいましょう。ついて来なさいな」

 

 ふっと優しい顔になったエリナリーゼさんに連れられ、到着したのは、それなりに上等な旅籠であった。

 待合茶屋がこの世界にもあると知ったのは、旅が始まってからだ。

 ここもそうなのだろうか。エリナリーゼさんは男と会う約束を果たしにきたのか。

 また男の人の嫁さんに怒られたら悲しい。

 

「もう男の人いない?」

「いるかもね」

「火遊びってそんなに楽しいのかしら」

「とっても!」

 

 真剣に悩んだのに、エリナリーゼさんには大いに笑われた。

 

 とはいえ案内された部屋に男は居らず、寝台には旅装一式が、机には円柱の金属の棒があった。

 温めてから髪を巻きつけ、くせをつけるための道具だ。

 母様も昔似たようなものを持っていた。あまり使っていなかったけれど。

 ここはエリナリーゼさんの借りている部屋だろう。

 

「両隣りの部屋には、わたくしのパーティメンバーがいますのよ。昔の男のために組んだ、一時だけのパーティですわ。まだ誰も帰ってきていないようですけど。

 さ、おいでなさいな」

 

 エリナリーゼさんは、窓の鎧戸を開けて、私を抱き上げた。

 上階だから、見晴らしが良かった。

 目の下には行き交う人々の頭、遠く目を向けるとごちゃごちゃと重なり合う屋根の連なりが見えた。

 

「海はどこなの?」

「ほら、あれですわ」

「どれ?」

 

「あそこに見えるでしょう」とエリナリーゼさんは順番に指さした。

 

「家があって、堤防があって、それからあれは砂浜……ですわね。砂浜みたいな筋があって、その上でゆっくりと動いているでしょう。あれが、海ですわ」

「……」

 

 それが〈海〉であると、しばらくわからなかった。

 砂浜か、波打ち際かの区別もつかないままに、うす白い広がりが横たわり、そこに真っ白な泡立ちが動いていて、その末は空に溶け込んでいた。

 浮かぶおもちゃのような帆船は、ほとんど動きがないように見える。

 海は、話に聞いていたように青くはなかった。荒れ狂ってもいなくて、広大でもなかった。

 絵のように動かず、じっとしていた。

 

 

 


 

 

 

 すっかり夕暮れである。

 エリナリーゼさんとも別れた私は、ときどき走りながら、兄のもとに向かっていた。

 途中、腰の辺りから、布が裂ける不穏な音が聞こえた。

 

 立ち止まる。

 服を見て、穴も裂け目もないことを確認していたら、何か滑り落ちた。

 ペルギウス様にもらった笛だ。

 鞄に入れていたはずである。

 

 拾って服の裾で拭っていると、また何か落ちた。

 ナナホシから貰った、稲穂を彫りこまれた六文銭っぽいお金だ。

 五円の価値があると聞いた時はたまげた。とんでもない大金である。

 急いで拾い、傷をつけてないか調べる。笛よりも慎重に拭った。

 

 おかしい。

 笛もお金も、どちらも鞄に入れていたし、鞄の口もしっかり閉じてるのに。

 

「んっ」

 

 腰にくくりつけてあった鞄を外し、頭より高く掲げて底面を調べる。

 小さな穴が空いていた。

 そこだけ縫い目が解けかけている。

 

 なんとなく指をつっこんでみたら、穴が広がって、拾った綺麗な羽だの琥珀の欠片だのまで落っこちてしまった。

 

「あらぁ……」

 

 宿に戻って、鞄の底を繕わなくては。

 でも、その頃には、もう夜になってしまうだろう。

 オルステッドは今夜には私を迎えにくるはずだから、日が落ちる頃には自分の宿にいなきゃいけない。

 

 どうしよう。

 お兄ちゃんにも会いたい。

 

「……」

 

 ――家族より男が大事か。

 

 兄の言葉を思い出す。あんなに意地悪な言い方をされたのは初めてで、驚いたし、悲しかった。

 すぐに否定できなかったのは、私があんなことを考えたばかりだったから。

 家族と暮らせなくても、オルステッドとナナホシといられるなら寂しくないのかも、なんて。

 父様に会いたくなくなったわけじゃない。母様のことがどうでもよくなったのでもない。

 でも、私はいつのまにか、冷たい子になっていたのだろうか。

 

「いけない」

 

 ハッとした。逡巡に長いこと沈んでいたようで、気づけば昏く陽が落ち始めていた。

 服の端をつまんで作ったたるみをポケット代わりに、鞄の穴から落ちてしまう細々したものを入れた。

 服を捲り上げるからお腹が出てしまうけれど、気候のおかげで冷えはしない。

 母様とリーリャに見られたら窘められそうな格好である。

 お兄ちゃんは気にしないだろう。「かわいいおヘソが丸見えだ」くらいなら、ふざけて言うかも。

 今は、きっと何も言ってくれないだろう。

 

 ……もう、今日は帰ろう。

 こんな格好では、謝るどころではないのだし。今日はお兄ちゃんも怒ったままかもしれないもの。

 兄の拒絶は、まだ私の記憶に濃い。本来の優しさを知っていても、きっと顔を合わせたらまざまざと蘇るだろう。

 引き返す理由ができた。

 明日はちゃんと行こう、そう思いながら、私は宿への歩みを進めた。

 

 

「嬢ちゃん」

 

 大通りを歩いていたのだが、細い路地の入口を横切る時、男の声に呼び止められた。

 酒で焼けたような掠れ声だ。

 声の方を向くと、くたびれたコートを着た男が、薄暗がりの中、土壁によりかかって私を見ていた。

 

「なにやってんだ」

「カバンが破けちゃったの。服で運べば落ちないよ」

「おじちゃんが縫ってやるよ」

 

 いいの?

 チョイチョイと指で招かれるまま、近寄った。

 男には額の生え際から口元にかけて、縦に切り裂かれたような傷跡がある。

 刀傷はまぶたの上をも走っていたが、盲ではないようだ。

 腰に剣をさしている。空全体が昏くなりつつある時刻だから、そばに寄らないと分からなかった。

 

「おじちゃん、冒険者なのね」

「まあな。……」

 

 彼は私を黙って見つめた。

 私も見つめ返し、首をかしげる。

 いつ鞄を繕ってくれるのだろう。

 

 針や糸を出す気配はなく、男は懐手だ。

 私は横に留まった。

 

「どこに行くんだ?」

「帰るところよ。でもね、迷ってたの。お兄ちゃんのところに行きたいのに、行きたくなくて」

「そうかい。迷ってんなら、俺と大森林に行くってのは、どうだ?」

「うふ」

「おいおい、笑うなよ。おじちゃんのことパパって呼んだら、いーい暮らしさせてやるぜ?」

「や!」

 

 やなこった。

 おじちゃん、私の父様じゃないもの。父様はもっとかっこいいもの。

 顔に力を入れて拒んだのに、男はニヤニヤと笑っている。

 彼は冒険者ではないと気づいた。纏わりついている怨みが、ただの冒険者にしては多い。

 人攫いだろう。でも私をさらう素振りはないから、今すぐ逃げなくてもよさそうだ。

 

「大森林の言葉を知ってるか?」

 

 言葉は知らないが、大森林なら知っている。

 獣族の国だ。長耳族や小人族も暮らしている。

 オルステッドに連れられて少しだけ居たこともあるが、名前の通りどこまでも途切れることのない大きな森で、アスラ王国にあった草原や拓けた土地は無いようだった。

 雰囲気は、密林地帯に少し似ていただろうか。

 

 国々を流浪して日銭を稼ぐツィゴイネルは、たいていが掟を破り大森林を追い出された獣族である。そう父様に教えてもらったことがある。

 ツィゴイネルとは、前世でいう山窩と近しい存在だと私は解釈している。

 故郷を持たず、漂泊の暮らしをする放浪の民だ。

 

 ブエナ村にもツィゴイネルが訪れたことがあった。

 彼らが滞在した期間、大人たちは施しを彼らに与え、子供は獣族の子供をつつき回し、遊びの仲間に加えた。

 そんな日々のなかで、獣族の男の子に教えられた異国語がある。

 

「ヌーニ!」

 

 意味は知らないままだ。

 私が張り切って口にした言葉に、男は「よく知ってやがんな」と大袈裟に驚いてみせ、「他には」と訊ねた。

 

 私はよくしてくれたエリナリーゼさんを思い出す。

 大森林には長耳族も暮らしているらしいのだ。彼女も長耳族だが、私とは常に人間語で話していた。

 同じ人間語話者でも、国が異なると言い回しや訛りも所々異なるのだが、「ちょっと前までアスラの男と旅をしてましたのよ」と言って、完璧に私に合わせてくれていた。

 そんな彼女が激昂したときに使った、耳慣れない異国語。

 しかし、聞き取れた言葉はあった。

 叩きつけるような大声だったから。

 

「ニール」

 

 男はニヤニヤと笑みを浮かべ、無精髭の生えた顎を撫でた。

 

「〈くたばれ〉と〈やめろ〉か。それだけ喋れりゃあ十分だな」

 

 そんな意味だったの?

 

 わざとらしく値踏みする目を向けてきた男に、私はむっと身構える。

 知る異国語がたった二言では頼りない。十分と彼は言ったが、私を無理に伴うつもりだろうか。

 ほんのちょっとでも獣神語を知ってるからといって……。

 冗談よね。

 まさかね。

 

 警戒する私の前で、男は懐から皮製の巾着袋を取り出し、中身の銭をすべて出してポケットに移した。

 それから私が服の上に乗せていた物を固い手でざっと浚い、空になった袋に入れた。

 

「ありがとうございます」

 

 袋を受けとる。

 これで大切に集めてきたものたちを落とさずに済みそうだ。

 

「もう昏い。とっとと帰んな」

「うん」

 

 大森林への誘いはちゃんと冗談だったようだ。

 

 もっと急いでいれば、日暮れ前にお兄ちゃんのところに行けていただろう。

 なんとなく先延ばしにしていたのは、兄にはっきり嫌われるのが怖かったからだ。

 でも、明日こそは行くって決めたもの。

 ちゃんとしなきゃね。

 決心する私の頭を、男は雑に撫でた。 

 

「俺みたいな奴が、お針子道具なんて持ってるわきゃねえ。攫って奴隷に売り飛ばしちまうつもりだったが、嬢ちゃんがあんまり可愛いんで、やめた。悪党には気をつけるこったな」

「おじちゃんも悪い人でしょ」

「言いやがる」

 

 撫でた手が今度は頭を小突いてきた。

 

「俺だってたまには優しいツラもするさ。四六時中悪い奴なんざそうそういねえ」

 

 悪党でも、仲間や身内には優しいものだ。惚れた人に甘い顔をみせることだってある。

「でもよ」と男は言った。

 

「中にはいるんだ、それができちまう、本物の悪ってやつが。やつらは人間じゃねえ、人の情なんざ通じねえのよ」

 

 呪殺は前世からの生業だし、人の死を願うような悪意をチサは何度も感じてきた。

 しかしチサに依頼してくる分には、その者たちには良心がある。自分で手をかけることができないから、呪いに頼るのだ。

 悪意しかない、人の形をした地獄ならば、自分で殺しにいくだろう。

 

「おじちゃんも、地獄を見たのね。でも、やくざものをずっと続けてたら、また見るよ」

 

 彼は根も腐れた悪人だろうが、今は、気まぐれで優しい。

 親切にしてくれたから、去り際に、彼の未来を視てあげることにした。

 

「銀色の大きい犬には、触っちゃだめ」

「お……」

 

 男は傷跡がまぶたを走る目も無事な目も、丸く見開いた。

 しっかり視たわけじゃないから詳しくはわからないが、よくない未来は視えたから、伝えたのだ。

 

「さよなら」

 

 私は振り返らずに男のそばを離れた。これ以上縁ができないように。

 

 

 日は落ちた。

 夜の町を、一人で歩いた。ウェンポートは坂が多い。

 ブエナ村でのかけっこより、ここでかけっこをするほうが早くくたびれそうだ。

 そんなことを考えていると、凄まじい悲鳴が聞こえた。

 ひとりじゃない。幾つも聞こえてくる。

 まるで町に妖怪が出たような騒ぎだ。

 

 白い背の高い影が、夜の港町に現れた。

 人々はそれから逃げているようだ。

 だけどもそれは、化生ではない。

 オルステッドである。

 

 駆け寄る気になれず、立ち止まって、彼がこちらに来るのを待った。

 私を探しにここまで来てくれたなら、こちらからも行かなくちゃとは思うのだけど。

 オルステッドは気分を悪くした風もなく、とうとう私の前に立った。

 

「シンシア。ここにいたか」

 

 繊細で大胆な(のみ)が水晶を削り上げた風貌を、私は見上げた。

 苦悩にみちた絵画の悪魔は、魔神ラプラスの逸話から着想を得て描かれたそうだ。

 悪魔は美しい青年の姿をしている。ラプラスは龍族だというのだから、同種族であるオルステッドとも、容姿に似たところはあるのだと、私は知った。

 

「お前は(ドラゴン)系の魔物と相性が悪かったな」

 

 唐突な確認に、私はトンと頭を指で突かれた気分になった。

 相性が悪いのはその通りだ。他の魔物は離れていても殺せるのに、赤竜は視界にいないと殺せなかった。

 それも一頭ずつしか駄目で、赤竜山脈に転移した時は、絶望したのだ。

 私が呪殺できなくなる、つまり疲労で眠ってしまった瞬間喰い殺されるしかなかったのだから。

 そこに現れて、私たちを救ってくれたのがオルステッドだ。

 

 強烈で絶対に忘れられない出来事のはずなのに、あの時のことを考えたのは久しぶりだった

 旅の途中、彼は一度も、恩を思い出させるような言動をしなかったのだ。

 脅されたことはあった。……最初のころ、ほんとにちょっとだけ。

 

「次は何をするの?」

 

「はぐれ海竜だ」とオルステッドは潮風の吹く方角に視線をやった。

 つられて同じ方を見た。坂の傾斜のおかげで海が見えた。遠くからだと、止まったように見える。

 

「殺してみろ。お前の力がどこまで及ぶか試したい」

 

 殺せとオルステッドは言った。

 対象が人じゃなくてよかったと私は思った。

 オルステッドに従うか、兄の気持ちに寄り添うべきか、またよく考えなければいけなくなっていただろうから。

 私は頷いた。微笑みさえ浮かべて。

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