巫女転生 -異世界行っても呪われてる-   作:水葬楽

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五三 異人論

 先を行くオルステッドは、岩伝いに入り江におりていった。

 私は慎重について行きながら、角灯を進行方向に突き出すように持った。両先端が鋭く長い、ほっそりした船が一艘、照らし出される。

 夜闇を映して黒い水と化した海は身震いをするように表面をうねらせ、船は縦に横に大きく揺れていた。

 

 船尾と中央にそびえ立つ柱があり、大きな布のようなものが上部に巻き上げられているようだ。

 

「ガレー船だ。風力を主とする帆船より馬力は劣るが、櫂で小回りが利くぶん海上での戦闘には有利になる」

「私とオルステッドでこぐの?」

「お前はしばらく働かんでいい」

 

 オルステッドは渡された板の上を歩き、船に乗り込む。

 私も撓む板から落ちないように、用心しながらついて行った。

 弾ける飛沫は、私の顔までしっかり濡らした。塩水が目に入ると沁みる。袖で顔を拭っていると、オルステッドにぐいと引き上げられ、船に乗せられた。

 

 外から見た印象よりずっとガレー船は大きい。

 船首楼から船尾まで、一町の半分*1はあるだろう。

 中央を太い一筋通路が貫き、両側に二十人は並べるほど長い漕ぎ座が誂えられていた。

 漕ぎ座には、逞しい体躯の人がすでに何人もいて、頑丈な長い櫂を握っている。

 

 オルステッドと私が乗り込んでも、反応はない。彼らはオルステッドの仲間だろうか。

 見上げると、オルステッドは「話はつけておいた」と私に言い、船首楼に立ってこちらを睥睨する赤毛の男には魔神語で短く何かを言った。

 

 たぶん命令だろう。脅したのだろうか。

 ペルギウス様みたいに、少しだけ、本当にちょっとだけ、打ち解けてもいないようだ。

 

 船の周りでは、男女が胸から上を出して泳いでいる。潜った後に巨大な尾ひれが海面を叩くのを見た。

 海に隠れて全貌は不確かな彼らの肉体を想像した。

 頸に鰓があるけど人間の上半身。魚の下半身。 

 妖怪だろうか。

 

 船首楼の男が指示を出し、巨大な櫂が海中に突き出され、碇綱が巻き上げられた。

 船尾から笛の音が聞こえた。高く掲げた腕を、男が振った。

 

『行け!』

 

 異国語であったが、意味は自然とわかった。

 太鼓の拍子に合わせて櫂を漕ぎ、前進する船の周りを、海中からの光が取り囲み照らす。

 

 海は、夜になると光るの? 疑問を口にすると、オルステッドは海底には光る苔があり、海族がそれを持ち寄って夜の海を照らしているのだと言った。体の一部が光る海獣もいるらしい。

 中央の通路に立つオルステッドの横に並び立ち、私は徐々に内から込み上げてくるものと葛藤していた。

 

「条約で取り決めた航路から逸脱しない限り、海族は船乗りに接触せん。だが、はぐれ海竜が、海と陸どちらの縄張りも荒らす時のみ、協力関係に……む、大丈夫か?」

 

 常に揺れる船体の上で、私はオルステッドの外套を握って目を回していた。

 視野どころか頭も揺さぶられて、胃がむかむかする。吐くなら船の外に向かって吐きたいけれど、私まで水面に落っこちそうだ。

 

「あぶっ」

 

 突然、ひときわ巨大な波に頭上から襲われた。背中を大きな手のひらで叩かれたような衝撃だ。

 白い泡の塊は、引いていくとき船床の細かな砂を洗い流した。

 私は全身濡れそぼちたが、何か固くがっしりしたものによって押さえつけられたので、いっしょに流されることはなかった。

 

「無事か?」

「げほっ、こほっ、……うん…………?」

 

 私を床に押さえつけるのは、オルステッドの足だ。

 背中を踏みつけられている。私はうつぶせになって、波に流されないように胴体を床に押しつけられたのだ。

 オルステッドの蹠は、私の背中と同じくらいの大きさだった。

 

「……」

 

 何かしら何かしら。この悲しさ。

 前世も今世も呪われた身の上とはいえ、具合の悪いときに踏みつけにされたことはない。

 もし私が友達や兄、妹たちに同じことをしたら、母様たちは、悲しそうに叱るだろう。

 酷いことだからだ。人の背中を踏んだらいけない。

 

 オルステッドに悪気はない。彼は時々、人を物みたいに扱う。普段だって、私が歩くのが遅いと、声もかけずいきなり抱えあげてくるのだ。

 私とナナホシ以外の人との会話も、会話と呼べない一方的なものであることが多い。

 呪いで嫌われるのが辛いから、人を人と思うことをやめたのだろう。

 

 でも私は、やっぱり踏まれたくはない。

 

「むんっ」

「何だ」

 

 足を退けられた後、私はオルステッドに、怒ってるよ! という顔を見せた。

 本当は口で「やめてね、踏むくらいなら抱っこで助けてね」と言いたかったけれど、喋ると舌を噛んでしまいそうだった。

 そういえば、乗り物酔いには治癒魔術がきくのだ。私は頭に治癒魔術をかけながら、自分が吹き飛ばされないようにオルステッドの脚にしがみつき、揺れる船内にしゃがんだ。

 

 海の様子は見えなくなり、私は夜空を見上げた。

 故郷からどんなに離れようと、見上げる星辰が、ブエナ村で見たそれと変わらないことに、私は暫時、言葉にできない感動をおぼえた。

 

 揺れは相変わらずだが、しだいに私は適応し、気分の悪いのも引いた。

 余裕をもって周囲を見回すと、太鼓にあわせ、全身で櫂を漕ぐのは、前半分の漕ぎ手だけで、後方の半分は手を休めている。交替で漕いでいるようだ。

 

 ふいに手を休めていた漕ぎ手が喊声を上げ、オルステッドに突進した。短剣を抜いていた。

 私はオルステッドがほとんど動かず襲撃者を倒す当然のなりゆきを見守った。

 

『やれ、やれ』

『船の上じゃ、俺らが有利だ』

『横のちいせぇのは他所にやっとけ』

 

 空の椀が二つ、船の上を飛び交った。賭事まで始まっているようだ。

 オルステッドに次々襲いかかる男たちだが、誰も傷をつけることはできないだろう。

 私は誰かの腕に持ち上げられ、船首楼の中の部屋に押し込まれた。

 

 船底は暗黒だった。床は絶えず前後左右に傾ぎ、その度に私の躰は転がった。

 手探りで支柱にたどり着き、床にあった縄で自分を縛りつけた。

 私の力では固く縄を結ぶことはできない。結び目を手でおさえ、揺れに耐えるべくがんばった。

 やれやれ。

 

「ひどい目に遭わされた……」

 

 転移したばかりの頃だったら、こんな時どうしたらいいか分からなくて泣いていただろう。

 怪我だってしていたかもしれない。

 今は、放り込まれた環境で、自分の身を守る手段を考えられるようになった。

 昔よりは、賢くなれただろうか。

 

『全員漕げ!』

 

 外の喧騒に負けない胴間声が届き、ややあって、波とは異なる強い推進力が船にかかった。

 太鼓の音が響く。船の腹を叩く波の音。ギュイ、キュイと甲高く飛び交うのは海神語だろうか。

 騒々しい音に包まれているのに、不思議な静寂の中にいるような気がした。

 待つ時間はとても長く感じられた。静かに扉が開かれる。

 暗闇に馴染んだ目に、外の灯りは眩しかった。

 

「やれ、シンシア」

 

 オルステッドは緩んだ縄から私を取り上げ、船上に出た。

 

 烈風が吹きつける。後ろ肢で立ち上がった馬のように、舳先が宙に浮いた。

 オルステッドにしがみつく。服の後ろを握り込んで押さえつけられる感覚があった。

 船は跳ねて水の急坂を滑り落ちた。目の前にそそり立つ青黒い波の壁が現れた。

 

 壁が割れ、巨きな青白い眼があった。

 目が合った。錯覚かもしれない。

 

『全員、全力疾走! 奴に追いつかれるな!』 

 

 長い首が空に登り、高く上がった水飛沫に船が飲み込まれそうになった。

 突風が、滑車や索具を帆柱に叩きつけた。暗黒の雲が空を覆い厚い襞を作り、上へ上へと伸び上がり、さらに頭上を覆った。

 青白い閃光が中空に亀裂を走らせ、雷鳴が轟いた。

 嵐だ。こんなに近くに。

 

「海竜は水魔術を使う! 豪雷積層雲(キュムロニンバス)だ!」

 

 その魔術ならば知っている。使っているのを見たことがあるから。でも広大な水場では、威力はまるで違う。

 私は抱きつく格好でオルステッドの腰にしがみついていた。

 満身の力でしがみついていないとはね飛ばされてしまう。

 

 櫂をこぐ男たちの掛け声が、猛獣の唸りのようだ。

 波は高くなり、船は持ち上げられ、逆落としになる。

 私からは見えないが、漕ぐ人たち、指示を出す者が一丸となって必死に方向を案配していた。

 

 船は海竜から逃げ惑いながら、しかし離れすぎないように波を乗り越えている。

 魔術を使う者もいるらしく、火矢だの火球だのが海竜めがけて飛来し、すべてが水流に阻まれた。

 

「どうした! 殺せ!」

「できない!」

 

 近くにいるのに大声を出さねば聞こえないような場で、私は、できない、だめ、と訴えた。オルステッドが顔をしかめる。

 

 だって、あんなに恐ろしいもの、殺せない。人間とまったく異なるもの。 

 遡ればむかし、寛文よりも前の時代、トウビョウ様は水の神様であったという。

 雨乞いのときに拝まれていた神様が、万の祈りを捧げられる道通様になった。信仰が薄れたのか、変化したのか、何かの理由で、そうなった。

 かつて蛇は水神の使いであり、水神そのものであった。

 龍もやはり水神であり、蛇は長じて龍となる。

 海竜は巨大だ。私は矮小で、大海を漂う藻屑も同然と、知った。

 蛇神であるトウビョウ様では、水に棲む竜を殺せないのだ。

 

「南無阿弥陀仏……」

 

 私の口からは自然と念仏が沸き起こっていた。

 前世の幼いころから、仏法をあがめよと教えこまれ、仏様にたいする畏怖の念は、心の底に消しようもなくあった。しかし病より生還し、眼と脚を引き換えにトウビョウ様の使いになってから、トウビョウ様の扱いはよりねんごろになり、転生して仏法を教えさとす者もおらず、旅続きのいまではほとんど忘れ去っていた。

 なのに、どうして今さら仏様に縋ろうとしているのだろう。

 トウビョウ様にはできないと思ったからだ。

 海竜を殺せなくていい。ただ命を救ってください。

 その思いから、ただ一身に。

 母様ならばミリス様に祈るだろうか。

 

 でもね、母様。

 私、思うの。

 前世のお母もお父も、婆やんも、村の人たちも祈っていたのに。

 仏様が、助けてくれたことなんて、今まであった?

 

 それまで、心の底に岩のように頑としてあった信仰が、ひび割れて破片になるのを、感じていた。

 

 美作のトウビョウ様に、わたしは、助けてくだされと念じた。念仏となえたところで、仏さまには、なんの力もありはしない。衆生を救うといいながら、腹も膨らませてくれんかった。悲惨の底に落とすのが、念仏じゃ。目足を奪いんさったのが、念仏じゃ。藁屑ほどの頼りにもならんかった。念仏は腐れ藁じゃ。仏にすがってなんとしょう。仏が敵なら、トウビョウ様につくほかはあるまい。人間をもてあそぶ海竜も、攻め寄する波も、仏の化身じゃ。仏と仏の戦いじゃ。憑き物どもは、憑き物同士勝手に戦いはしねえわ。

 

「蛇上臈! 蛇上臈!」

 

 男たちの胴間声にまじる、おのれの声を、私は聴いた。

 仏様への信仰を、忘れるのではなく、棄て去ることが、海竜を呪い殺す方法なのだ。

 そのことは、心の奥処に、満足を与えた。喜び、だったのかもしれない。恐怖と綯いまざった淡いけれど深い色合いのそれをなんと名づけるのか、私は知らなかった。

 

 激しく揺れる船で、全身に降りかかる飛沫の隙間から、のたうつ蛇のような竜が遠くに見えた。

 悶え苦しんでいるようだった。

 やがてその巨躯が、稚児に力任せに裂かれるように、割れた。

 

 私は笑い声をあげ、次の瞬間、水中に沈んだ。

 海の黒さに眼はなずむ。躰の感覚は消え失せ、やがて眼を閉じているのか、開眼しているのか、それすらわからなくなった。

 

 

 


 

 

 

  衛士は月光の中で、はじめて姫御子の顔をつくづくと見守った。

  驚くほどの美しさだ。

  抱きとってみるというよりは殺したい……。

 

『光る道』壇一雄

 

 

 


 

 

 

 弾けた肉片は重量を伴って降りそそぎ、船はとうとう転覆した。

 オルステッドが泳ぎ着いたのは、ウェンポート近くの群島からやや離れた、岩肌ばかりの孤島である。

 秋には海人族の産卵場所となるそこに住む者はなく、ときどき海賊が漂着しては、栄養を必要とする産卵期の海人族に喰われているような場所だ。

 

 空があかるみ、太陽が昇る。

 島の裾づたいに岩を踏み、オルステッドは歩いて行く。

 腕に抱えられているのは幼い女の子だ。意識はあり、睡っているわけでもないのに、眼は瞑られ、躰はだらりと脱力していた。

 二人とも海水に濡れそぼち、言葉も交わさない。

 

 甲龍歴四一九年、ウェンポートより北西の方角で暴れるはぐれ海竜を殺すのは、元々予定していた事であった。

 脅かされる海族や群島で暮らす人々を救いたいのではない。海竜を倒すことで、島民の交流は、オルステッドが手を加えなかった場合の未来より早くに復活する。それによって起こる歴史の微々たる変化が欲しいのだ。

 

 オルステッドは、シンシアの力と竜系の魔物の相性が悪いことは知っていた。しかし対海竜は試させたことがない。

 ちょうどいい機会だと挑ませてみたが、時間をかけていたのは、やはり苦戦していたのだろう。

 もう少し手こずっていたらオルステッドが倒す気でいたが、シンシアはやり遂げた。

 人の目には、海竜が突然自滅したように映るだろう。

 剣も魔術もいらない、願うだけで殺す術は、あまりにも荒唐無稽であり、とうてい人が持ちうる力ではない。ヒトガミでさえ持たぬ力だ。

 呪いとシンシアはかつて言ったが、呪子とは根本が異なる気がオルステッドはしていた。

 もっとも育った村では、彼女は神子ということにされていたようだが。

 衝突も迫害もなく大事にされていたらしいのは、たいそうな幸運だ。

 

「……ご苦労だった」

「……」

 

 沈黙を破ってオルステッドが声をかけた。

 シンシアは何も言わない。それほど疲労が濃いのか。あまり深く考えず、オルステッドは岩肌の一点を殴った。崩落した岩の下に出現した隠し窟に入ってゆく。

 

 手柄を立てたのだし、海竜の鱗か魔石くらいは、取ってやったほうがよかっただろうか。 

 美しい物が好きなだけであれば凡庸だが、シンシアは変わった物にも美を見出す。オルステッドは小さな絵画を想った。だからあんな、ラプラスを描いた絵を気に入っていたのだ。

 ペルギウスに目をかけられているくらいだ。審美眼はあるのだろう。

 

 オルステッドはそんなことを考えながら、シンシアの顔色を確認した。

 濡れ冷えただけでも人族は衰弱する。火にあたらせてやったほうがいいのだろうが、今いる洞窟の中では火はつかないことを、オルステッドは知っていた。

 空気は重く、人族は呼吸をするだけで次第に苦しみだすほどだ。

 オルステッドは自らのコートでシンシアを包み、首に魔道具をつけてやった。首輪じみたそれは、毒が充満する空間であっても生存を可能にするものであった。

 

 洞窟は縦にも広い空間を持つ。

 上部には大きな窪みがあり、窪みには古い船が、ちょうど棚のような具合で乗っているのだった。

 何百年も昔、嵐によって荒れる海は、船をここまで運び、そして引いていった。

 この空間は木材を腐らせるほどの湿度はないが、外の空気も入ってこない。

 岩の上に残された海賊船は、まるで時間の流れから切り離されたように原形を保っていた。

 船体は乾ききり、風化はしているが、朽ちてはいない。

 周囲に満ちるのは、酸素の少ない澱んだ空気だけである。

 

 オルステッドが海竜討伐のついでに孤島に寄ったのは、ウェンポートの宿に残してきた少女、ナナホシのためであった。

 アルマンフィに調べさせた転移事件の跡地には、召喚魔術特有の魔力の残滓があったという。

 ナナホシは召喚されたのではないか、というペルギウスの考察を、オルステッドは真実に近いと思っている。

 オルステッドはシンシアを抱えたまま、時折襲ってくるスケルトンやレイスを倒し、船の一室に移動した。

 書物に囲まれた部屋であった。オルステッドはその中心の空間に子供を座らせ、自分も腰を下ろした。

 

「本来、召喚魔術で人を呼ぶことは不可能。龍界が滅びる前、ドーラが術そのものに組み込んだ絶対の制約だ」

 

 オルステッドは傍にあった適当な一冊を手にとった。

 不揃いの小口から雪のように紙の屑が落ちる。少し力を込めれば音も立てずに粉になるだろう。

 

「だがミリス神聖国が建国されて間もない頃、

 青竜山脈の麓には、制約を破り、人を召喚しようとした小国があった。

 その国の魔術師達が世代を跨ぎながら積み重ねた試行は、形になりつつあったらしい。 結界魔術を独占していたミリスは、彼らの召喚魔術をも掌に収めんとした。

 大人しく差し出そうとする者、拒否する者――召喚術の扱いを巡り魔術師同士は争い、ついには研究の要を抱えて逃亡する者が出た。

 魔術師は海賊と交渉して船に乗り、ここに流れ着き死んだが、執念は上級魔物(デッドリーレイス)となって知を守り続けた。正しい倫理が備わった時代に、ふたたび研究が日の目を見るようにな」

 

 慎重に捲ったぺージの内容を新たな紙に書き写しながら、オルステッドは淡々と語った。

 己の記憶を確認するための独り言のようなもので、子供にもわかりやすく噛み砕きはしない。

 デッドリーレイスは既にオルステッドが倒した。

 あとは、魔物が守っていた書物をナナホシのために持ち帰るだけだ。

 しかし経年による劣化は著しく、羊皮紙は脂が酸化して黄ばむ程度で済んでいるが、亜麻紙や綿紙はほとんど朽ちてしまっている。かろうじて内容を確認できるものも、持ち運びには耐えない。書き写せるものは写すことにした。

 

 普段は意味がわからなくてもオルステッドの話を真剣にフムフムと聞いているシンシアだが、今日は反応をみせなかった。 

 しばらく経った頃、作業を一段落させたオルステッドは振り向き、訊ねた。

 

「盲目はつらいか?」

 

 シンシアはオルステッドに顔を向け、微笑を返した。

 否定とも肯定ともとれる返事であった。

 

 船が転覆し、乗船していた者は皆海に放り出された。オルステッドがシンシアを抱え水面に浮上する少しの間のうちに、彼女は視力と歩く力を失っていた。

 

 相性の悪いものを殺す時、引き換えに何かを失うのだという。

 それは味覚であったり、聴覚であったり、腕の感覚であったりした。失うのは一時であり、すぐに戻るという。

 赤竜を殺した時は味覚がなくなった。でもすぐに戻った、と説明したシンシアは、今回もじきに治るだろうと構えながら、弱気になってるようで、ほとんど口を聞かなくなってしまった。

 

「……」

 

 オルステッドはシンシアの頭を掴んだ。

 親指で眼窩を塞ぐように撫で、治癒魔術をかける。擽ったそうに瞼を開いたシンシアの碧眼は澄んだまま、しかし向き合うオルステッドを映してはいない。

 

「効かんか」

 

 魔力は無駄になったが、試す価値はあると思った。

 頭から手を離されたシンシアはくにゃんとオルステッドのほうに倒れ込んだ。

 顔色は血の気が引いた白さだ。オルステッドは丸一日シンシアに何も食べさせていないことに気づき、少し焦って飯を食わせた。

 

 魚や海の魔物を狩って食いつなぐことはできるが、持ち込んだ食糧が尽きる前には引き返した方が良いだろう、とオルステッドは決めた。

 

 

 一日過ぎ、二日過ぎ、三日過ぎ、オルステッドは着々と写本を進めていた。

 その間、シンシアは静かに待っていた。ほとんど動かず、たまに話しかけてきても、すぐに物思いに沈むように黙ってしまう。

 そんな中で、シンシアはふと、こんな話をした。

 

「説経節のね、まつらのさよ姫の話よ」

 

 オルステッドはペンを機械的に走らせながら耳を傾ける。知ってか知らずか、シンシアはこの世界にはない物語を口に乗せる。

 

「大和国に、サヨヒメというお姫様がいた。サヨヒメは、十五、六の娘。美しいかどうかは知らないけれど、きっと美しかったと思うの。神様にお供え物をするなら、良いものをあげたいでしょう。サヨヒメは、池の蛇神様に献げられる生贄だもの。村の生活につながる真水を支配する神だから、いけにえを選ぶのよ。醜かったら、望んでも、生贄にはなれないと思うわ。

 サヨヒメは、貧しかった。父が亡くなって没落したせいね。父を供養するお金もないくらい貧しかったの。

 だからサヨヒメは人買いに自分を売って、そのお金で母に父の供養を頼んだの。そうして人買いに連れられて、奥州の安達郡にある池にたどりついた。

 湯ごり七(たび)、塩ごり七度、水ごり七度で身を清められたサヨヒメは、船に乗って、池の中の小さな島に運ばれるの。

 島には三層の棚があって、いちばん上の段に、サヨヒメは乗せられる。

 中の段には神主、下の段には太夫が乗って、神主が唱えごとを終えると、二人は陸に戻り、棚にはサヨヒメだけが残される。陸には見物が集まって、サヨヒメが食べられるのをいまかいまかとね、待ってるのよ」

 

 あはれなるかな、ひめ君は、三がいたなにたゞひとり、あきれはてゝおはします、とシンシアはオルステッドの知らない言葉で喋った。

 心の内こそあはれなり、むざんや、ひめのさいごは今ぞと、上下さはぎ申せ共、なにのしさいもなかりけり。

 歌うような調子で言うので、オルステッドは筆を止めた。シンシアの楽しそうな表情を、しばらく見ていなかったのを思い出した。

 

「でもね、蛇神様はあらわれなかった。見物は、神主が手順をまちがったのだと思って、神様の怒りをおそれて、みんな帰ってしまうの。サヨヒメは、たったひとりで、池に置き残された。

 するとしだいに空が荒れて、風雨がはげしくなって、さざ波うって、水の底からおそろしい大蛇があらわれる。

『其のたけ十ぢゃうばかりの大蛇、水をまき上げ、水をまき上げ、くれなゐの舌をふり、三がいのたなの中だんに、こうべをもたせ、さよひめをたゞ一口にのまんと、かえんのふきかけかゝりける』」

「物語のセオリーとしては、サヨヒメが機転を効かせ、故郷に生還するのが筋だろうな」

 

 オルステッドが口を挟むと、シンシアは「このお話も、そうよ」と口から異界の言語が流れ出したことを恥じるように頷いた。

 

「サヨヒメは法華経を唱えてね、その信心に心を打たれた蛇神は、変身をといて、娘の姿にもどるのよ。

 蛇神もかつては人買いに買われて、池に橋をかけるために人身御供にされた人間だったの。その怨みでいけにえを求めつづけていたけれど、サヨヒメのおかげで成仏することができた。

 蛇神はサヨヒメに感謝して、地下の水脈をたどって、奈良の猿沢池におくりとどけた。

 サヨヒメは両眼を泣き潰した母を見つけて、盲目を治して、長者になって八十五歳まで生きたの。そして、死んだあとは、竹生島の弁才天となって祀られた」

「死後に神格化されたのだな」

 

 前世でおぼえたさよ姫の話はできても、神格化の意味をシンシアは知らない。

 人が死後に神になったと素朴に信じているのだった。

 

「サヨヒメは、いけにえになれなかった。サヨヒメを喰う蛇神が成仏してしまったから。

 大和と奥州は遠く離れていてね、大和のサヨヒメは、奥州の人たちには異人だった。異人は、その地の生贄にはなれないの。ナナホシも同じよ」

「何?」

 

 唐突に出てきたナナホシの名に気を引かれ、オルステッドは真剣に聞き返した。

「ナナホシはかわいそう」とぽつりと零された言葉とは裏腹に、シンシアの感情に揺らぎはないように見えた。

 淡々と語る姿勢は、霊験あらたかな巫女のようであった。

 

「ナナホシも、どこにも故郷がない、異人だもの。だから龍神に捧げられても、生贄になれない。さ迷い続けるしかないの」

「彼女が何だというのだ」

「蛇神と龍神は同族なのよ。だからオルステッドも、異人の生贄は喰べられない。

 でもサヨヒメのように帰してやれはしないから、異人のナナホシはひとりで、あのまま……」

 

 シンシアは言葉を切りあげた。

 諦めが早いオルステッドには珍しく、しつこく詳細を訊ねても、二度と同じ話はしなかった。

 

 シンシアが長く喋ったのはこの時だけで、洞窟内の古船に逗留する間、彼女はほとんど喋ることはなかった。

 必要最低限の言葉すら、奥に引っ込んでしまったようだった。

 空腹になっても言わず、用を足したい時は申し訳なさそうに袖を引いてくる。

 二人きりの空間で、頼る者もほかに居らず、命のすべてを委ねられているような気がオルステッドはしていた。

 

 しかし健常から突然片輪に叩き落とされた者の不貞腐れた感じや、卑屈さはシンシアにはなく、それが当然というふうなのだ。

 首を絞められても、抵抗せず受け入れてしまいそうな危うさがあった。

 

 時が腐敗して冥い空洞になったような闇のなかで、シンシアとオルステッドだけが命あるものであった。

 闇の中でも明瞭に輪郭を見分ける龍族の眼には、シンシアの生命が外に流れ出し、微弱に輝いているように錯覚した。

 ある時、オルステッドはよくできたシンシアの顔を眺めた。

 月灯りのような美しさだ。

 

 埃や蠟涙が染みついた床に散らばる艶のある黒髪を想像する。黒い瞳の視線の先は、指に力を込める男を素通りして、宙に預けられる。

 窒息の苦しみに顔を歪めるのは子供ではなく、女、であった。

 

 オルステッドはシンシアに半端に手を伸べ、動かないでいた。早鐘を打つ鼓動は、自分のものであった。

 沸き上がる衝動を抑えた。オルステッドは黒髪の少女といえば一人しか知らない。シンシアに重なって見えたチサの華容など、知るはずがないのだった。

 目的のために殺すのとは違う。こんなのは、ただの慾だ。

 

「シンシア」

「……」

 

 シンシアは宙で手を彷徨わせた。オルステッドの手に指先が当たると、弱い力で握りなおした。

 ――外の力に流され、動かされ、大海に漂う藻屑としてしか生きていけないのは、珍しいことではない。大半の者がそうなのだ。

 だというのに、シンシアの弱さに、暴力性を掻き立てられるのは、どういうわけだ。

 憎んでなどいない。むしろ、傍に置いておきたいくらい気に入っているのだ。

 

 

 


 

 

 

 ふと気がつくと、私は潮風のあたる海辺にいた。

 夜だ。あたりは暗くて、月あかりでかろうじて自分がいる場所がわかったのだ。 

 

 私はオルステッドに横抱きに抱えられていた。

 彼はどこに向かっているのだろう。海竜は殺したし、ウェンポートの宿まで送ってくれているのだろうか。

 足をゆらゆら動かしてみてから、オルステッドを見上げて言う。

 

「もう歩けるのよ」

 

 降ろされた。

 立ち止まったオルステッドの周囲をクルクル歩いてみて、跳ねてみて、三白眼の視線がずっと私を追っていることに気づき、ちょっと照れてしまった。

 足萎えが治ったのが嬉しいだけなのに、ひとりで遊んでいると思われただろうか。

 

 足裏に地を感じるのは久々なのだろうが、盲になり、歩く力も失っていた期間のことは、夢でも見ていたようだ。

 あまりに前世と状況が似ていたから、あれも前世のできごとだと思い込んでしまったのだろうか。

 海竜を殺してから何日経ったのかもわかっていない。こうして生き延びているのだから、オルステッドが私を助け、面倒を見てくれたのだろう。

 

「お世話してくれてありがとう、オルステッド。私、あんまり憶えてなくてごめんね。

 あ、それと、ここってウェンポートなの? 海に出る前にね、長耳族の女の人がよくしてくれたのよ。あの人、まだいるかしら。ナナホシはひとりで寂しくないかな。はやく会いたいね」

 

 喋るのも久々な気がして、言葉はどんどん出てきた。

 

「お兄ちゃんとも仲直りしたら、二人に……」

 

 好きな人と好きな人がいっしょにいると嬉しい。会ってほしいの、と続けようとした言葉は尻すぼみになった。

 オルステッドが私を黙って見下ろしていた。

 それはいつもの事だからいいけれど、表情がちょっと変だ。

 怒っているような、悲しむような、そんな顔だった。

 

「どうしたの?」

 

 悩みでもあるのかしら。

 ブエナ村では、あまり友達の相談に乗ったことはない。だいたいみんな年上だから、慰めの言葉や助言なんかは他の子のほうが上手なのだ。

 年下の子は幼すぎて、悩みだなんだという齢でもない。嫌なことがあったら泣くか喧嘩するかだ。

 

 オルステッドの言葉を待とうと黙って見上げる私に、彼は少しの沈黙の後に告げた。

 

「父親に会わせてやる」

 

 それは、ずっと欲しかった言葉だった。

 それを信じて、オルステッドについてきたのだった。

 でも、突き放されたような感覚があった。

 ずっとオルステッドとナナホシといるのかもしれない、と考え始めていたせいだろう。

 嬉しいことなのに、困惑もあって、口角がじわりと上がったところで固まる。

「ただし条件がある」と無理難題を続けてくれたほうが、かえって安心しただろう。

 

 ところがオルステッドは、一度口にしたことで、胸のつかえが取れたように表情が凪いでいた。

 

「今まで、ご苦労だった、シンシア。もうお前を利用はせん。親元に帰り、平和に暮らせ」

 

 オルステッドに送ってもらい、手燭を灯して宿にそっと入ると、ナナホシはもう寝ていた。

 机には何かを書きつけた紙や、食べかけの果物が乱雑に置かれている。

 寝台は二つあったが、くっつきたくて、起こさないようにナナホシの毛布に潜り込んだ。

 

 思い返してみれば、ちゃんと嬉しいのだ。

 父様に会える。ノルンにも会える。

 母様のことは辛いから手紙には書けなかった。母様のことも話せる。

 父様はすごいから、母様を救えるかもしれない。

 

 オルステッドとナナホシ。

 二人と別れることは寂しいけれど、元からずっといっしょにはいられない人たちだったのだ。

 

 リーリャはシーローンに、アイシャは祖父母のもとにいるから、すぐには無理でも、父様といれば、家族とまた暮らせるようになる。悲しいことは何もない。

 そんな事を、私は考え続けていた。 

*1
およそ50メートル

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