ウェンポートの町を出て、移動をはじめた。
行先を知らされないのは慣れているが、今回は珍しくオルステッドから教えてくれた。
ケイオスブレイカーだそうだ。ペルギウス様の城である。
以前は、意識が朦朧としている中で運び込まれたから、どうやって城を訪れたか憶えていない。
出た時と同じように、魔法陣で入るのだろうか。
空を飛んで行くことはできないものね。
訊いてみると、古代龍族には翼が生えていたとのことである。
オルステッドにはない。望めば生やせたりするのだろうか。
魔神ラプラスを描いた絵を私はペルギウス様に譲ってもらったが、絵の青年に翼はない。
ラプラスも龍族なのに。
あら、と私は疑問を持つ。
「ラプラスは、龍族なのでしょ?」
「ああ」
「父様はそんなこと言わなかったよ。家で読んだ本にも書いてなかったのよ」
話に聞くラプラスといえば、魔族を率いて人族に戦争をしかけた人だ。魔族の王が魔王と呼ばれるように、魔神というくらいだから魔族なのだろうと私は思っていたのだ。
ラプラスは龍族である。オルステッドにそう教えられるまで誤解は続いた。
「大半の者は知らんからな、奴が魔龍王と呼ばれていた事も」
魔龍王ってなに。
新しい言葉にまた疑問が増えたが、風で巻き上がった砂埃を吸い込まぬように口を閉ざしているうちに、訊く機会を逃した。
わずかな植生すら見なくなり、乾ききった大地をオルステッドとはぐれぬように移動し、襲い来る魔物が倒されるのを眺めた。
オルステッドは私にほとんど何もさせなくなった。
魔術で飲み水を調達させたり、火をつけさせたりはするけれど、それだけだ。
もうお前を利用はせん。親元に帰り、平和に暮らせ。
少し前に言われたことだ。
本当に、私の役目は終わりつつあるのかしら。
そんな事を考えていると、ふといつもとは異なる感触に気づく。私は靴底でひび割れた地面をトントンと叩いた。妙に硬い。柔らかくない。
しゃがんで足元の黒い小石を拾い上げると、穴だらけだ。
黒い水がふつふつと沸騰して、そのまま固まったみたい。
ナナホシに私の発見を伝えてみると、「ガラス化してるみたいね」と教えてくれた。
「がらす?」
私は育った家の窓硝子を思い浮かべる。覗き込めば向こうの景色が歪んで見えたものだが、足の下の硬い土は黒く、まったく透きとおっていない。
「隕石とか、落雷、噴火なんかで地面がものすごく熱くなると、融けるの。そして冷えるとまた固まるけど、急に冷やされたら、元通りにはならない。それがガラス化よ」
「そうなの」
地面って溶けるのか。
氷みたいに?
むむむと私は考える。
氷が溶けて水になっても、地面や床に吸われるから、また固まったりはしない。
私は知っている中で、熱くなれば溶けて、冷えるとまた固まるものを思い出そうとした。
ナナホシの教えてくれた現象と似ているものだ。
「焼き物の釉薬って、焼く前はどろどろでしょ、でも焼いたら透明でつるつるになるでしょ。あれもガラス化? なの?」
「ええ、そうよ」
「地面のときは透明にならないのは、どうして?」
「不純物が混ざったまま固まったガラスは、屈折率が低くなるからで――」
ナナホシはすこし驚いたような顔を一瞬したが、さらに教えてくれた。
地面がガラス化しても透明にならない理由、窓の硝子が透明度を持っている理由、この世界の硝子製造技術はまだ未熟で、ナナホシの時代の日本は、もっと透明な硝子が安価に買えるということ。
ものすごい時代になったものだ。
そして視て知る。
踏んだ感触が普段と異なる、ひび割れた地には、ナナホシのいう不純物である砂や土のほかに、生き物の血肉や骨が混ざっている。
古戦場跡とオルステッドは説明しなかったが、私はここで大勢が戦い斃れていったことを知った。
『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』
供養に捧げる花など生えてはいないし、置いてゆける余分な食糧も持ってはいない。水をかけてやるのがいいだろう。
せめてもの念仏を口の中でぶつぶつと唱えながら、右手に水弾を作り、地面に落とした。
そのうちにくたびれたナナホシがオルステッドに背負われた。
私はまだまだ歩けるが、疲れてきたら、オルステッドにしがみつかせてもらおう。
やがて遠くに、周囲よりわずかに盛り上がった円形の台地が見えた。
中央には七つの石碑が埋まっている。旅の途中で、同じ石碑は何度か見かけた。七大列強の石碑である。
あれがオルステッドの目的地だろうと遠目にもわかったのは、ここには、魔物筋とあれのほかには何もないからだ。
石碑の前でオルステッドはナナホシを降ろし、私に笛を寄越すように言った。むかしペルギウス様にもらった笛である。
小さな縦笛で、精緻な龍が彫り込まれている。
「本物だな」
矯めつ眇めつ眺めたオルステッドは呟き、「吹け」と私に笛を返した。
これは見てくれは綺麗だけれど、音色はないのだ。
無音の笛。
フーフー息を吹き込んでいたら「うるさい」と言われた記憶もある。誰にだったかしら。
「音はしないのよ」
「構わん」
「そう?」
ペルギウス様の城で何度も試したのに。
歌口に唇をあて、息をふきこむ。
やはりフーっと筒に空気が通るだけの音が鳴り、なんだか恥ずかしかった。
「あ、光った」
私が笛をしまい込むあいだに、空を見上げたナナホシが言った。
同じ方を向くより先に、白い人影が出現した。白い詰襟を着た狐面の青年が、石碑の前に立っている。
来た、というより、現れた、と言う方があっている。
そのくらい唐突に居たのだ。私はその人物に憶えがあった。
思い出した。
「光輝のアルマンフィ、参上」
この人に「うるさい」って言われたんだった!
「アルマンフィさん」
「……」
「さっきねペルギウス様にもらった笛があってね、それ吹いたのよ」
「だから来た」とアルマンフィさんは言った。
四百数十年前、ガウニス王の時代にアスラ宮廷にならって増改築された城は、幾つもの建物が翼棟や中庭で連結され、複雑な様相を呈している。
空中城塞という別名の通り、ケイオスブレイカーは攻め込まれにくい形をしている。
人族の記憶に戦争が色濃い時代、城といえば攻撃と籠城に耐えうる形をまずまっさきに造られ、快適さだの美しさだのは二の次であった。
病に倒れたとき、ここで療養した。ケイオスブレイカーでの暮らしを懐かしがる私に、そう教えてくれたのは、オルステッドだった。
迷いやすい構造をしているけれど、城の中は過ごしやすい。
私がそう思えるのは、建築から幾百年も経ち、ペルギウス様がちょっとずつ中身をつくりかえてきたのだろう。
美しいもの、奇異なるものも、過程でたくさん蒐集した。
ケイオスブレイカーに着いて、オルステッドはペルギウス様に謁見を願った。
彼はナナホシを伴い、私はその間待つことになった。
一年も経ってからの再訪だから、ちょっと緊張はする。
だから、通された部屋の中でのみ過ごすことにした。前のようにあちこち行ってみるのは、気が引けた。
「まぶしい」
窓からチカチカと西陽がさしている。私は陽が直接目に当たらないように、目をしばしばさせながら窓辺へ行った。
光の精霊や魔照石を生活に利用するより前、自然光が入ってくるのは窓からだけだった。
だから窓の後ろ側のへこみは小さい部屋くらいの大きさになり、両側に窓腰掛が作られた。
これもお城によくある構造なのだという。
私はこの小さな空間も好きだ。あたたかいから。
窓腰掛に後ろ手をつき、背中をずり上げて座った。
琥珀の欠片を持ち、光にあててみた。
ウェンポートで知り合った子が、私に握らせてくれたものだ。
装飾を目的としていないから、砕かれた名残として端は尖り、表面も荒いが、陽を浴びて、てらりと光る。
これを砕いて溶かし、温めると、塗膜油になる。『岩に坐す悪魔』の絵を風化から守るのも、琥珀なのだろうか。
絵ばかりに魅了され、塗膜油も、あれの作者についても、私は気にしたことがなかった。
自然は誰の創作物でもないが、絵にはそれを描いた画家がいるものだ。当たり前のことを私は思い至らずにいた。
人間——人族ではないかもしれないが、人は絵を描くことができる。美しさをかたちにすることができる。
蠟の醜女がいた家の子たちにならい、半分固まった塗料を指で掬い、床にすりつけた。あの感覚は楽しかった。
あの感触がもっと鋭くて、私がものを正確に描き写す力を持っていれば……。
「できるのかしら」
呟いてすぐに、たいそれた望みであると知る。
だいいち、ちっともうまく描けなかったのだ。土魔術で何でも作ってみせた兄ならば、絵もきっと上手いけれど、私にはできない。
「……」
漫然とお城の窓から雲を見下ろし、オルステッドとナナホシを待つ。
そうしているうちに日は沈み、夜になった。
私は窓腰掛に横になり、猫のように丸くなっていた。
食事は精霊が運んできてくれた。ナナホシは一人でいたいそうだし、オルステッドはどこにいるかわからない。
机の水差しの中には常に冷たい水が満ちているから、外に出ようと思わなければ出なくて済むのだ。
部屋の中には、金、銀、玻璃、貴石の技巧を凝らした細工物が、大きなものから小さなものまで揃っていた。
どこにも行かず、部屋の中のものを眺めていたが、暗くなるにつれて、視野は盲じみてくる。
魔照石が光りだし、足元くらいは照らされているから不自由はない。
うとうとしながら、私は、良い未来を考えることにした。
兄と仲直りをして、父様とノルンに会いに行く。男ではないとリーリャの身柄を引き受けることはできないから、兄はシーローンにいって、残された私たちはアイシャを迎えに行く。
そしてまた、ブエナ村を建てなおして、そこで暮らす? 生き残った村の人たちはごく少ないのに。
母様のことは諦めないといけない。私とは異なる未来視をもつ者から、伝えられた。迷宮の結晶に閉じ込められた母様は、人間性を喪失している。
母様のことは間が悪かったが、他の家族は生きている。
でも、ナナホシはどうなるのだろう。ナナホシの家も家族も、ここにはないのに。
扉が開く音がして、部屋に誰かが入ってきた。
私は寝そべったまま、人影に笑いかける。
上質な白の絹地は暗闇の中にうっすらと輝くようで、精緻な刺繍も見事であった。
そんな上等の服なんか、父様は着たかしら。いいえ、きっと何を着ても似合うだろう。父様はかっこいいから。
なによりも、会えてうれしい。
「とうさま」
自分の声を他人の声のように聞いて、はっと目が覚めた。
父様じゃない。父様はいないのだった。
知らず知らず、寝ぼけていたようだ。静かな夜は寂しく、暗いのは心細い。
前世のように、ずっと一人ならば、安寧を感じることもできただろうに。
最初から下にいるより、上がってから落ちる方がつらい。
二度、三度まばたきをして、涙は流し落とした。
ペルギウス様が泣く子を構うことはないと思った。
「ペルギウス様」
私は寝台にしていた窓腰掛を降りて、相手の前まで行った。
オルステッドもそうだが、普通にしているだけで威圧を感じる、みごとな体格である。
ペルギウス様の足元から光の粒子がたち昇り、集まり、輪郭だけは人のような形をとった。
私の目が痛くならない速度で輝きは増した。相手の姿も、部屋の調度品も、次第によく見えるようになる。
誰が調節しているかなど、もう知っている。
「変わらず小さく、賢しいままよ」
鷹のような風貌の、この城の主人は、私のことを憶えていた。
金色の眼も、銀色の髪も、オルステッドと同じで、雰囲気や顔立ちは違う。
「息災であったか? シンシア・グレイラットよ」
「はい! もうすぐ父様に会えるの!」
ペルギウス様のところにいたのは、オルステッドがまだ少し怖い頃だ。
彼が私にも優しさを持ってくれるようになったことを知らせたかった。
「窓辺にいたのよ。開けたら星が見えるかな」
私はペルギウス様を窓辺に連れて行った。彼の指が厚いガラスに触れると、小さな魔法陣が浮かび、窓はひとりでに開いた。
月明かりがいつもより明るいと感じるのは、ここが空の城で、月に近いからだろう。
ペルギウス様はさっきまで私がいた窓腰掛に座った。私は向かいに座ろうと思ったが、やめた。
代わりに彼の足元の床に座り、ペルギウス様を見上げる。話はこちらの方が聞きやすい。
「ペルギウス様は、私の父様のこと、どれくらい知ってる?」
「よく知っているとも」とペルギウス様は笑みを浮かべた。
「外貌に恵まれた人間は、外側の魅力だけで、人の上に立つことができる。転移事件から民草を救うという名目を掲げて行動していれば、なおさらだ。
パウロ・グレイラットは難民を無差別に助く、〈フィットア領の救世主〉だそうだぞ。ずいぶんと高尚な男のようだな?」
共通の話題があるのはいいものだ。
でも、ペルギウス様の褒め言葉ともとれる返事に、私は困ってしまった。
父様のことは大好きだ。強いし、その力を兄を鍛えて伝授しようとし、人を守るために奮えと教えているところも見てきた。
父様の仕事は、ブエナ村を守ること。大切な役割だ。
私の中身が五、六歳のままなら、「父様はすごいのよ」と胸を張っただろう。
以前にオルステッドから、父様がフィットア領捜索団の棟梁をやっていると聞いたときも、実際そう思っていた。
「父様は、知らない人たちのために、そんなに頑張らない」
「では、何のために?」
何のために、と言われて考える。
全てを救おうとか、英雄になろうとするのは、素晴らしいことだけれど、普段の父様からはそういう感じはしなかった。
家長の立場として、そして村を守る騎士としては優しかった。完璧な人間といわれると、そうでもないし……。
結婚する前にリーリャとの間にあったこともそうだし、父様は兄や私に妹たちを守れと言うが、当の父様は自分の弟を嫌っていた。
性格は悪いし、まるで話が合わなかった、とさっぱりと切り捨てる父様に、なんだかその弟が可哀想になったのを憶えている。
そんな父様が、村のためならまだしも、フィットア領という大きな範囲に住んでいた他人のため、頑張るだろうか。
まとまらない言葉を口にすると、ペルギウス様はほうと頷いた。
「俗っぽい人間だ。腕は立っても、発揮する時のない現代で、ノトス家を放逐されたのも頷ける」
「内緒よ……父様ね、人前で母様とリーリャのお尻とかお胸をさわってた。だめって言われてたのに」
「おお、そうか。そのように好色では、手元にいない娘のことなど忘れているやもしれんなぁ」
「えっ」
父様の悪行をこそっと言いつけただけなのに、ひどいことを言われた。
冗談だと笑ってくれるのを期待したが、ペルギウス様は甘い態度をみせず、「人族の長所は、思考の柔軟性、そして適応力の高さだ」と続けた。皮肉っぽい言い方だ。
「紛争地帯の農村はなぜなくならぬ? そこに住み続ける人間がいるからだ。略奪され、焼け野原にされれば、その瞬間は復讐に燃え、悲嘆に暮れもする。
しばらくすれば、また人は集まり、その地を耕し、子を作る。親兄弟の血肉を吸った土の上でな。
怒り、憎悪、執念……まっすぐに持ち続けられる人間が、いったいどれほどいよう」
忘れるのは悪いことじゃない。
キシリカちゃんだって言っていたもの。飢えやその日の暮らしより優先されぬ思いならば、捨ててしまえ。
「家族のために捜索を続ける自分と、難民の指導者として崇められる自分、
今頃どちらが本当の己か、わからなくなっているだろう」
「父様は私のこと忘れたりしないわ」
「どうだかな」
「うぅ〜っ」
言い方が意地悪だ。言い返したかったけれど、考えれば考えるほどペルギウス様が正しいように思えた。
もし私が転移で死んでしまっていても、父様にずっと悲しんでいてもらいたいわけじゃない。
私が生きているうちは忘れないでほしいけれど。
でも、父様は私が生きてるか死んでるかなんて知らないのか。
いや、手紙は出した。返事はこないけど、それは父様が私の居場所を知らないからだ。
しかたない!
せめてもの抵抗に顔をぎゅっとしかめると、ペルギウス様はハッと鼻で笑った。
まるで相手にされちゃいない。
彼が銀髪で金色の瞳の、あの絵の中の美しい青年と似ていなければ、へそを曲げていたところだ。
ペルギウス様はぽふぽふと私の頭を撫でた。
「ふふ、父親との再会が叶った暁には、パウロ・グレイラットを我が城塞に連れてこい。客人としてもてなしてやろう」
「いいの?」
「ああ。身内に限らず、連れて来たければ、来たい時に、誰でも伴えばよい。我が貴様に与えた魔力付与品は、そういうものだ」
音は出ないけれど、息を吹き込めばアルマンフィさんが飛んできたあの笛のことか。
魔族はダメだ、と念を押されたが、オルステッドがいなくても来ていいというのは嬉しい。
父様は三英雄のペルギウス様を知っているし、連れて来たらきっと、喜ぶだろう。
私は嬉しくなり、気も大きくなって、立ち上がってペルギウス様の膝の間に躰をわりこませた。
もっと話を聞きたい。
「父様とノルンは、ミリシオンにいるのよ。母様の故郷でもあるけど、私、行ったことないの。母様は美しい場所だって……」
「では、首都ミリシオンの話をしてやろう。七つの魔術塔が建つ前の話だ」
ペルギウス様は私を膝に抱き上げ、語り出した。
……湖の中心に屹立するホワイトパレス、クーポル型の屋根の大聖堂は黄金に輝き、基盤の上にととのえられた居住区は種族によって厳しく区分されている。
今でこそ水上で繁栄したミリシオン。
水源に恵まれた地は、七つの魔術塔が首都を流れる水量を管理し、氾濫とは無縁の楽園に仕立て上げられた。
しかしはるか昔、ミリシオンは、低い沼沢地、荒れ果てた原野だった。そこにあるのは、灰色の虚無だけだった。
数百万トンの赤花崗岩と無数の杭と、そして十数万の労働者の死骸で、大帝は沼を埋め立てた。
徴発された労働者たちは、泥沼に腹までつかり、赤痢、壊血病、えたいの知れぬ熱病、栄養の不足で死んだ。逃亡者はとらえられ、鼻をそぎおとされた。
それらの上に、壮麗な首都が顕現した。
「ルサルカを踏み押さえて」
浮かんだ言葉を私は口にした。
ミリスのヴィラと北方のルサルカは姉妹だという楽師の歌が思い出された。
川が氾濫し町が浸水する前夜、「ルサルカが暴れるよ」ベリトが薄く笑った。
沼地で踊る美しい魔物は、ミリシオンではもはや脅威足り得ないのだろうか。
「お前は我と似ている」
外貌ではなく、内側を指していると察する。
「ペルギウス様も、怖いものをきれいに感じるの?」
私は〈美〉を怖いところをもつものに感じるし、美をもたないものはあまり怖いと思わない。
いつからそんな感覚を持っていたのか。少なくとも、生まれた時はそうではなかった。旅の中で、そう感じるようになった。
人族にとってラプラスは、昔話の中の存在だ。私にとっては美しい絵でもある。
人族が持ち続けられなかった魔神への怒りが、ペルギウス様をこの地に留めていると感じる。
留まる理由がそれだけではないことは、城内の夥しいものを見ていればわかる。
ペルギウス様は私の右手をとった。彼の手の上で、私は指を踊らせた。
私のこの手で、尖筆を握った、魔術を使った、塗料を指にとって床にこすりつけた。
「シンシアは画家になるだろう」とペルギウス様は断定した。自信がなくて、思いついてすぐに捨てた夢でも、彼が言うと、本当になれる気がした。
「大成するかは、わからぬ。だが、我はずっと見ているぞ。短い定命の中で、不可視の光を、どう
家族が好きだから生きていたかった。
長生きはできない定めでも、兄が、妹たちが、大人になり仕合せになるまでは……と。
今は、それ以外の慾のためにも生きてみたいと思う。
朝の光で充ちた廊下を歩みながら、私はナナホシが泊まった部屋の前まできた。
昨夜、ペルギウス様は、彼女の話もした。
私が一人で待っていた間、ペルギウス様とオルステッドとナナホシは、何時間も話し合っていたのだ。
現在の召喚術では、異界——私たちが〈日本〉と呼ぶところ——とこちらを行き来する術はない。
ナナホシは、家に帰れない。それが結論だった。
「ナナホシ、入っていい?」
そう言いながら扉をあけると、天蓋の透き通るような布の向こうで、寝台に仰いていた影が起き上がるのが見えた。
布を捲り上げて顔をのぞかせたナナホシは、「ノックをしなさい」とむすっとした顔をした。
別々の部屋で過ごすのも久しぶりで、忘れてた。ごめんね。
「まぁ、いいわ、女同士だし……おいで」
ナナホシは本気で怒っているわけじゃないようで、ふっと肩の力を抜き、革張りの長椅子に座ると、自分の隣をポンポンと叩いた。
隣に座って、ナナホシの顔を見上げる。
改めて見ても、こちらの世界ではほぼ見かけない、黄色味をふくんだ白い肌だ。この肌には、似合わぬ衣裳などないだろう。
思ったままを口にすると、ナナホシは下手くそに笑い「なにそれ、『陰翳礼讃』気どり?」と言い、なんのことやらわからずきょとんとする私に、知るはずないわね、と呟いた。
ナナホシの眼の下だけが暗く澱んでいる。
ほとんど寝ていないのだろう。
「私、帰れないみたい。このままだと、一生」
「うん」
「もう聞いた?」
「うん。ペルギウス様から」
「そう、彼は、あなたを溺愛してるんだったわね……」
ナナホシは、オルステッドかペルギウス様のいずれかが、帰還の手段に辿り着くのだろうと思っていた。
私も似たようなものだ。私たちは召喚術についてまったく知らないから、知識人の彼らであれば何とかできるだろうと無垢に信じていた。
一年前に空中城塞を訪れてからこっち、オルステッドはナナホシが帰る方法を調べていたし、ペルギウス様とてまったく無関心だったわけではないはずだ。
けれど、異なる世界を渡るのは、思っていたよりずっと難しかったのだ。彼らが不可能と結論を出すほどに。
抱き寄せる腕を、励ます気持ちで握りかえした。
「……前に、〈青銅の首〉の話をしてくれたことがあったわね」
頷いた。オルステッドもペルギウス様も、かつて〈青銅の首〉について語ってくれた。
難しくて理解は私の手にあまったけれど、言葉の断片を繋ぎ、ナナホシに伝えたことがあった。
「シンシアの説明は、はっきり言って要領を得なかったけど、望みを叶えてくれる機械があるというのだけは、わかったわ。
私は、〈青銅の首〉を探しに行きたいと二人に言った。それがあれば、元の世界に帰れるんじゃないかって。
そしたらあの男たち、なんて答えたと思う?」
「ナナホシにちゃんと教えてくれたのではないの……?」
説明は、むずかしいものだ。人に伝えるには、まず自分がその事柄をわかっていなければいけない。
私では足りなかった部分を補足して、オルステッドとペルギウス様はナナホシに知識を授けたのではないのか。
ナナホシは賢いから、教えられたことを、きちんと理解できるだろう。
ところがナナホシは首を振り、自嘲気味に笑った。
「知らない、そんな物は昔も今も存在しない、って。
でも、私は二人が視線を交わしたのを見たわ、言葉にしない決め事が飛び交ったのよ。〈青銅の首〉について、無言を示し合わせた」
「え? でも……」
「ペルギウス様は、地球とこの世界を繋ぐ魔法陣を研究する気がないみたい。私が主体となって開発する分には、協力してくれるらしいわ」
「ナナホシ、魔法陣のことわかるの?」
「いいえ、まったくよ。だからこれから学ぶの」
ナナホシが、自分で、自分が帰るための魔法陣を開発するのか。
それって、かなり大変なのではないか。
父様と母様が言うことには、ペルギウス様は魔法陣について一番詳しい人らしいのだ。
そんな人ができないことを、ナナホシが実現する。
私には途方もなく困難に思えたが、ナナホシは賢いし、彼女もやる気でいる。
何年もかかるかもしれないが、できそうな気がした。
「それじゃ、ナナホシはしばらくここにいるの?」
すぐに帰れないのは可哀想だけれど、少し嬉しくもあった。
私は父様とノルンのところに行くが、ナナホシは学問をするなら、ペルギウス様のところに留まるのだろう。
空中城塞にはいつでも来ていいと言われたし、その時ナナホシにもまた会えるのだ。
私の期待が顔に出ていたのか、ナナホシは辛そうな顔をした。泣きそうでもあった。
とんでもないことをしたと思い、謝ろうとした。ナナホシは私の額に口付けた。
「可愛いシンディが、ここでどんな扱いを受けてきたのか、よくわかる」
あなたはきわめて躾のよい仔犬です。シルヴァリルさんの言葉が蘇り、頬が熱くなった。
気まぐれに構われるだけの生き方を見透かされ、それを良しとしていることまで、知られていたのだろうか。
「素人に一から教える手間は、ペルギウス様はかけないわ」
ナナホシの言葉に、目を丸くした。
「オルステッドもペルギウス様も、シンシアになら何でも教える。
あなたを気に入ってるから……だけじゃ、ないわね。幼いから、何もわかりはしない。そう思っているんだわ」
ナナホシは人間で、私は仔犬だ。
私に語りかけられる知識は、彼らの頭を飛び交うたくさんの言葉を外へ逃がすための独り言なのだ。
だから手間ではない。知られては困ることも構わず話す。
仔犬でいることは、気楽で、辛くはない。恥ずかしいのは、ナナホシにそれを知られていることだ。
「でも、二人は忘れてる。八歳の子供は、十年も経てば大人になる。言われたことも理解できるようになる」
ナナホシは上半身をよじり、私の両肩をつかんだ。
艶のある黒髪がさらりと落ち、私の両側を覆った。
視野はナナホシに独占された。
「私は、私の頭脳がもう一つほしい」
ぜんぶ教える、ぜんぶ与えるから、一緒に来てほしいの、と、耳元で囁かれる。
頼られている、と感じた。旅をしてきたなかで、初めてのことだった。
「十年、いえ、それよりもきっと長い年月、家族には会わせてあげられない。
シンシアを、異世界転移魔法陣の共同開発者にする。そのためには、私は、あなたが大人になるための時間を、独占しなければならない」
視線を下ろした。ナナホシの頸のあたりを見つめた。
どこを見たって答えは変わらない。ナナホシを傷つけるまでの時間をいたずらに延ばしているだけだ。
「ナナホシ、わたしね」
意を決して、また顔を上げた。
ナナホシの眸は懇願に揺らめいていた。
自分の生活をもちながら、ときどきナナホシを手伝う。
そんな甘い選択肢はないのだろう。それができる賢さも私にはない。
この話を受けて、残りの人生をナナホシに捧げる。
家族を優先して断り、ナナホシの帰還には関わらない。
どちらか一つなのだ。
「私ね、まいにち飢えずにいられるのも、
生まれたきょうだいが全員育ったのも、
こっちの世界に生まれてから、初めてよ」
皆萎びた大根のように痩せていて、育てられないのは間引きして、そんな暮らしが苦しいものだと気づいたのは、こちらの世界に生まれてからだ。
豊かな時代になったとナナホシは言うけれど、私はその時代に生きてはいない。
気軽に行き来ができるならば、身内の墓を探すくらいはしただろう。
生涯を捧げなければ帰れないほど遠くに前世の故郷があるならば、もはやそれさえできなくてもいいと思ってしまうのだ。
私は冷徹だ。ナナホシの望みが叶って欲しいと思っているのに、同じ熱量で、帰還を切望することはできない。
前の世界に戻る魔法陣を、作りたいと思えない。
「ごめんね」
「……」
ナナホシは私を柔らかく突き放した。
眸はもはや私を見てはおらず、伸ばした手は振り払われた。
抱えた膝に顔を埋め、声を押し殺して泣いている。
帰る手段がないと知らされて、自分で作ろうと決意しても、先行きはまったく見えない状態だ。
さらに私が断ったのが決定打になり、ナナホシは深い絶望のなかにいる。
切なくなるほどの「帰りたい!」という激情は、いつかのように噴出することはなかった。
本当は、表に出して、甘えたいだろうに。
ナナホシがそれをできる相手は、もういなくなった。
オルステッドは彼女に与える情報を制限したし、私は帰還への協力を断った。
私たちはみずからナナホシの心から遠ざかったのだ。
ナナホシはアスラ王国で暮らすことになった。
そこで研究のための資金を稼ぎ、いずれラノア魔法大学で研究を始めるのだ。
どの工程においても、もう私がそばにいることはない。オルステッドの力も、そのうち借りずに済むようにするらしい。ぜんぶナナホシ一人でやるのだ。
オルステッドに連れられて城塞を後にするナナホシを、見送った。
寂しいお別れにしてしまった。
もう会えないのだろうか。
作中オリジナル設定
・青銅の首
ラプラスの遺物。ラプラスの思考と知識をトレースした喋る機械。政治上の質問をすると最適な答えをくれる。
その性能から、願いを何でも叶えてくれる魔道具と誤解されがち。
紛争地帯で設計図が復元されそう。
初出は「三二 紛争地帯の子供」