私とて、もう三歳。毎日遊び暮らしているわけではない。
トウビョウ様の柱を拝むのは日々欠かさないし、家族の身に危険がないか毎日視ている。
生まれてすぐの頃は、氷のようなものの中に閉じ込められている母様の姿が視えたが、今は違う。
何度視ても、映るのは、視界いっぱいの巨大な鱗だ。
それもずっと視続けていると、頭が痛くなってくる。
何なのだろう……。
とりあえず、母様には、「川と、湖と、滝には行っちゃダメだからね。ざぶーんってなって凍っちゃうからね」と言い続け、母様は「気をつけるわね」とニコニコ頷いてくれるけれど、視える絵に何の変化も起こらないから、効果はないのだろう。
「これは?」
「〝火〟」
「正解! じゃあ、これは?」
「〝カールマン〟」
「そうよ。ここから、ここまで読むと?」
「〝カールマンの剣撃は、火のカーテンを斬り裂いた〟」
私は母様の膝の上で、字の手習いを受けていた。
母様が本を広げ、適当な単語を指さすので、私はそれを音読する。
答えにつまったり誤ったりすると、母様が正しい読み方を教えてくれる。私はそれを憶える。その繰り返しだ。
これは父様ともしている。
二人の言うことには、兄はもっと幼いときから完璧に読めたという。
だから私も期待されているみたいだ。頑張ろうと思った。
前世では文盲だったぶん、知らない言葉を学ぶのは楽しい。
紙面をのたうつミミズのような黒い線が、新しい単語を憶えるたびに、意味のある言葉の羅列となるのだ。
「シンディったら、天才! 偉いわ!」
「うふ」
何より褒められると嬉しい。畢竟、これが一番の理由だ。
魔術の練習も始まった。先生は、母様か兄かシルフィである。
詠唱の意味を理解し、澱みなく言えて、魔力があれば、初級魔術は誰でも使える、と、兄は言っていた。中級からは魔力を注ぐ時間や量が複雑になってくるらしいが。
習い始めの頃、私は詠唱は言えても、初級魔術すらどうしてか使えなかった。
それもそのはず。
例えば、私が教わった初級火魔術の詠唱文は、「汝の求める所に大いなる炎の加護あらん、勇猛なる灯火の熱さを今ここに、
元々詠唱は初級相当の威力でも数分はかかるものだったが、それでは不便だと短縮されたのが今伝わる詠唱だそうだ。
生成されるのは同じ火弾でも、教本によって微妙に詠唱文が異なることがあるらしい。多分、火は生活に必須だから、色んな地域で色んな短縮をされてきたのだろう。
初級火魔術の詠唱。私はこれを「なんじのもとめるところにおおいなるほのおのかごあらんゆうもうなるともしびのあつさをいまここにふぁいやーぼーる」と読んでいた。
意味のある文章だと思ってなかった。
やたら長い一個の単語だと思っていた。
文字の読み書きの練習が進むにつれ、小難しい単語を知り、詠唱が意味のある文章であることをなんとなく理解し始めた。
それを意識して詠唱してみると、蝋燭の火より小さな、火弾っぽいものが生成された。
兄やシルフィのようにはまだできないけれど、繰り返し使えば上達するだろう、との事。
無詠唱もそのうち教えてくれるそうだ。
魔術を教わる中で、自分の躰について判明した事もある。
私の左腕は魔力を通さない。
魔術を使うときに身体中から右手に集まる熱い流れ。それが魔力だという。
同じ手から魔力を放出し続けると、魔術の利き腕ができるから、と兄は両腕で魔術を使えるように矯正しようとしたのだが、私の左腕は使いものにならなかった。
ものを掴む、投げる、といった動作は問題なくできるのに、こと魔力にかけては使えないようなのだ。
魔力の流れを意識して、と言われても、身体をめぐる熱い流れは左肩のあたりで留まって腕まで行かない。
水草を引きちぎるようにいとも簡単に失われた生前の左腕のことを私は考え、生まれ変わってなおトウビョウ様の小蛇が左腕に巻きついている想像をした。不気味であった。
私の快・不快はさておき、それが判明したとき、母様は顔を曇らせた。
この躰を産んだのは母様だ。十月十日かけて胎の中で育ててくれた。母体として責任を感じているのだろう。
悲しまないでほしい。
私としては、魔術も読み書きも、できなければできないで構わないものなのだから。
「シンディ、今から遊びに行くけど、お前も来るか?」
「行く!」
植物図鑑を小脇に抱え、玄関の扉の把手に手をかけた兄に声をかけられ、私は元気に返事をした。
行く前に母様が髪を結び直してくれた。
兄と二人で「いってきます」を言って、玄関を出る。
「とうさま」
馬房から轡を繋いだカラヴァッジョを出していた父様を見つけ、駆け寄った。
カラヴァッジョは穏やかな馬だけれど、うっかり蹴っ飛ばされる事もないとは言えないから、カラヴァッジョの後脚には近づかないように言われている。
父様はカラヴァッジョの蹄鉄を打ってもらいに行くそうだ。
「エマちゃんとこ!」
「そうだ、よく知ってるな」
エマちゃんの家は鍛冶屋と鋳掛屋をかねている。
つまり農具の製造から修理まで同じ人がしているのだ。エマちゃん一家がこの村から居なくなったら、あっというまにブエナ村の生活は滞るだろう。
そして、鍛冶屋の仕事は農具の製造だけではない。家畜の蹄に蹄鉄を打つ仕事も、鍛冶屋に任されているのだ。
「どこまで行くんだ? 何だったら、乗せていってやろうか」
蹄鉄を打ち直した後は乗るつもりであったのか、カラヴァッジョの背中には既に洋鞍が取りつけられていた。
「いいですよ。友達に見られたら恥ずかしいです」
「のりたい」
「……」
乗せてもらうことになった。
私が鞍の前橋につかまり、背後に跨った兄が私につかまる。
カラヴァッジョの横を歩いて目的地まで誘導するのは父様だ。
「父様、僕に乗馬を教えてください」
「ん? いいぞ。デートに誘いたい女の子でもいるのか?」
「ええ。シルフィを」
「おっ、いいじゃねえか。まずは鐙に足が届くようになるところからだな」
「では、すぐですね。子供の成長はあっという間ですから」
「自分で言うか」
「教えてくださいね。約束ですよ」
「わかったよ……っと、シンディ、ちゃんと掴まってるんだぞ」
「はーい」
きょろきょろしすぎて注意されつつ、私はうんと高くなった視界の景色を眺めた。
この芦毛の馬は私の知る馬よりかなり大きいのである。
毛唐人は躰が大きいと聞いたことはあるが、馬まで大きいとは知らなかった。
いつ見てもたてがみに艶があるのは、父様が手入れを欠かさないからだろう。
穏やかな振動に身を任せていると、兄に話しかけられた。
「楽しいか? シンディ」
「楽しいよ!」
「カラヴァッジョってもう言えるようになったか?」
「言えるよ!」
「言ってみ」
「かや%△#?%◎&」
「なんて?」
くやしい。
急ぎの用事があるでもないし、カラヴァッジョに乗せてもらってエマちゃんの家に行った。
「シンディちゃん!」
「エマちゃん」
父様に抱えられてカラヴァッジョから降ろしてもらうと、家から灰色の髪の綺麗な女の子が出てきた。
私の大好きな女の子だ。
エマちゃんは私を抱っこしてぐるぐるその場で回った。抱っこといっても、ちょっと足が地面から浮くだけである。安定感はないが、安心感がある。
「ウチの娘がよく世話になってるみたいだな」
「いやぁ、パウロさんのお嬢さんに傷を拵えさせないかヒヤヒヤしっぱなしでさ」
「ハハ! 子供は怪我しながら成長するもんだ。何かあっても妻が治すよ」
気にするな、というふうに、道具を抱えたエマちゃんのお父さんの背中をバシバシ叩き、父様は牛馬を固定する木枠のほうにカラヴァッジョを誘導する。
「私もお手伝いするんだよ」
と、言って、エマちゃんは手のひらの上で炎をゆらめかせた。
無詠唱の火魔術である。ぱちぱちと拍手を贈った。
「本当に中級以上は憶えなくていいのか」
「うん。べつに必要ないし」
兄にそう返しつつ、エマちゃんはお父さんのそばに近づいた。
エマちゃんのお父さんはカラヴァッジョの足を曲げさせ、除鉄*1をし、伸びた蹄を剪鉗や小さな鎌みたいな刃物で削っている。
蹄を平らにすると、手槌で蹄鉄を叩いて形を調整し始めた。
「ああやって叩いて、ぴったり合う形に直してるんだよ」
前世で見た事があるから知っていたが、せっかくエマちゃんが教えてくれたので頷いておいた。
「うん、こんなもんか……エマ!」
「はい!」
エマちゃんが手から炎を出し、打ち付ける前の蹄鉄を熱する。
それをカラヴァッジョの蹄に押し当てると、煙が昇って蹄に黒い焦げ跡が残った。
「こげこげ」
「そうだな。でも、カラヴァッジョは熱くないから大丈夫だよ。シンディが爪を切っても痛くないのと同じさ」
前世で見た事があるから知っていたが、せっかくお兄ちゃんが教えてくれたので頷いておいた。
「シンディ、釘ってわかるか? 専用の釘を
し、知ってる。ぜんぶ知ってるよ父様。
近くで見学していたからだろうか、エマちゃんのお父さんは私と兄をちょいちょいと手招いて、打つ前の蹄鉄を見せてくれた。やや潰れた円みたいな形をしている。
「この形の蹄鉄は悪魔除けにもなるぞ。鋲を打つ穴が七つだと、縁起が良い」
「ラッキーセブンですか?」
らっきーせぶん、とは何だろう。兄はときどき不思議なことを言うのだ。
「なにそれ」という顔をしたエマちゃん親子が作業に戻るのを確認して、父様は兄に言った。
「らっきぃせぶんとやらは知らないが、七だ。七。
ルディよ、何か思い出さんか?」
「……うーん、ミリス教が掲げる人間の美徳が、たしか七つでしたよね?」
「まあ、それもあるが」
父様の手が私の頭を撫でる。
私の名前は「誠実」という意味を持っている。母様が信仰するミリス教の教義における徳のひとつが、「誠実であること」なのだ。
父様はミリス教徒ではないが、昔母様にされた話を憶えていて、娘に
誠雄とかにならなくてよかった。
男の子に生まれていたらその名前も良いが、私は今も生前も女である。
両親の願い通り、誠実な子でありたいものだ。
「あ、七大列強ですか」
「その通り」
兄の言葉が望みにかなったのか、父様は満足気に頷いた。そんな父様の様子に、兄は仕方なさそうに小首をかしげてちょっと微笑んだ。
「ななだ、いれっきょう?」
なにそれー、という意味を込めて父様のズボンを引っ張って見上げた。
父様は私を抱き上げ、カラヴァッジョの装蹄が終わるのを待ちながら説明してくれた。
七大列強というのは、世界でもっとも強いとされる七名に与えられる称号と順位であるらしい。
一位から七位まで説明されたが、聞き馴染みのある単語は二位の「龍神」と五位の「死神」だけだった。
生者の魂を狩る死神と、自然の脅威を司る龍神。
生前は龍神様は海にいると教えられてきたが、話を聞くかぎり、列強の七柱は、私の知っている神様とやや異なる。
列強の面々は、種族こそ人間ではなく、遠く離れてはいるものの、私たちの立っている場所と地続きの大地を歩く存在であるようなのだ。
うつそみに生きる者たちが、神の名を持っているのだ。人智を超えた武力はときに神として祀り上げられるらしい。
父様とカラヴァッジョと別れた兄について行き、大樹が一本生えた丘に向かう。
「なにして遊ぶの?」
「誰かいたら魔術でも教えるよ。頼まれればな」
魔術といえば。
村の子供たちにむけて、兄が不定期に開催する魔術の青空教室に、生徒が増えた。
思えば、兄が外に出るようになって一年以上経つ。
当時五歳だった子は六歳になり、六歳だった子は七歳になり、家の仕事を手伝う中で、魔術は使えたほうが便利、という結論に至ったのだろう。
水とか、火とか、治癒とか。
街のほうへ行けば、魔術を覚えるより便利な道具なんかもあるらしいが、辺鄙な農村にはない。
一部は、突風を思いのままに操れたらカッコイイという理由で風魔術を教わっている子もいる。
もっとも、教えた魔術で子供が何か破損した場合、責任はとれないということで、兄が教えるのは初級までだ。
それより上級を知りたければ個人で来い、とのこと。
木の下にはシルフィとソーニャちゃんが居て、二人で小さな男の子をあやしていた。
「えーと、……神なる力は芳醇なる糧、力失いし……失い……再び……ヒーリング? んん? ルフィちゃん、続きなあに」
「惜しいね。〝力失いしかの者に再び立ち上がる力を与えん〟だよ」
ソーニャちゃんは、弟の膝小僧に手をかざし、シルフィから教えられた詠唱を言い直した。
擦りむけて血のにじむ怪我がみるみる塞がり、ソーニャちゃんはシルフィちゃんと手を合わせて喜んだ。こんなに綺麗に治るのは初めてのことだったらしい。
最近歩けるようになったソーニャちゃんの弟、ワーシカは怪我が治ったことで泣き止んだ。
ワーシカは地面に手をついてうんしょと立ち上がり、よちよち歩いて私の方へ来た。
まだ赤ん坊という感じで、とても可愛い。
「ワーシカ、かわいいねえ」
「あー!」
ぎゅっと抱きしめると、うふうふ笑って抱きついてきた。
よだれが服にちょっと付いたが、まったく気にならない。
その後、五人ほど子供たちが来て、みんなで隠れんぼをすることになったが、私は断ってワーシカと遊ぶことにした。
ワーシカはまだ隠れんぼが楽しい齢ではないからだ。
二人で手遊びをしていると、隠(鬼)になったらしい兄が丘をかけ上がってきて、洞の中を覗き込んだ。
「ここには誰も隠れてないのよ」
と、教えてあげると、兄は残念そうに肩を落とした。隠れた友達が見つからず、難航しているのだろう。
「お前、隠れんぼで見つけるの得意だったよな? 全員どこにいるかわかったりしないか?」
「わかるよ」
「なーんて……え?」
「イッシュさんの家の羊の囲いの中に二人いるの、あと、あとね、粉挽き小屋の水車と壁のすきまに一人。……森の監視櫓の中に匿ってもらってるのが一人とー……」
指折り数えて全員の場所を言い上げると、兄は不思議そうな顔でお礼を言い、子供たちを探しに行った。
しばらくワーシカを可愛がっていたら、ソーニャちゃんが迎えに来た。
「ソーニャちゃん、ばいばい」
「うん、また明日!」
ワーシカを背負ったソーニャちゃんを見送る。暇になった。
風が吹くたびにひらひらと頭上から落ちてくる葉を、地面に着く前に掴もうと躍起になっていると、兄が来た。
「お兄ちゃん、待ってた!」
「ああ。帰ろうか」
木の傍に置いていた本を拾い上げる兄の背中に飛びついてみると、兄はビックリした声をあげてつんのめったのだった。
家に帰り、夕飯を食べた。
リーリャは後片付けをしていたので、母様に今日あったことを話す。
食堂の机の上には燭台があり、三本の蠟燭に灯った火が食堂を橙色に照らしていた。
「それでね、わたしがばぁーってしたら、ワーシカが笑ったのよ。こうやって腕をあげて……」
話の内容は、ソーニャちゃんの弟がいかに愛らしいかだ。
母様は私の話をひとしきり聞くと、「シンディは赤ちゃんが好きなのね」と私の頭を撫でた。
好きなのだろうか。たしかに、友達に妹か弟が産まれたと聞けば、必ず見に行っている。
最近ではヤーナム君の所にも男の子が生まれた。
薄い髪の毛はぺったり頭蓋にはりつき、肌なんかまだ赤くて可愛かった。
前世では出産はおろか、結婚もできなかったから、憧れはある。トウビョウ様がそばいるから、望みが叶うことはないけれど。
「ねえ、シンディ」
「んっ?」
「うちにも、赤ちゃんが増えたら、嬉しい?」
「うれしい!」
超うれしい!
ずっと見ている自信がある。
母様はにまーっと笑い、お腹に手をあてた。
「お母さんのお腹の中には、シンディの新しいきょうだいがいます!」
「きゃーっ!」
やったー!
赤ちゃん? 赤ちゃん? と、ぴょんぴょん飛び跳ねながら訊くと、そうよ、赤ちゃんよ! と返された。
母様も仕合わせそうだ。
「あ? マジか、ゼニス、そりゃ本当か?」
「おめでとうございます、母様!」
初耳だったのか、同じ食堂にいた父様と兄はちょっと驚いた顔をしたものの、すぐに喜色を顔にうかべた。
「よかったなあ! ゼニス!」
父様が母様の腹に衝撃がいかないように母様を抱きしめた。
二人で手をとりあって踊りださんばかりだ。
いいなあと思って見ていると、兄が両腕を広げてフッと笑っていたので、遠慮なく飛び込んで二人で手を繋いでくるくる回った。
目が回った。ぺたんと床に尻もちをついてくわんくわんと揺らぐ天井を見上げた。
皿を洗い終わったリーリャが顔を覗き込んでくる。
「りーりゃ、わたし、お姉ちゃんになる……」
「ええ。存じております。おめでとうございます」
リーリャは微笑んだ。めったに表情が変わらない人だから、微笑んでくれた事が嬉しかった。
トウビョウ様の力を使い、母様の腹を視た。
女の子だ。いい按配である。秋には産まれるだろう。
前世では、私に下のきょうだいはいなかった。多分。
いなかったはずだ。私が末っ子だったと思う。
だから、妹の誕生を心待ちにしている。
会う人会う人みんなに、「妹ができたのよ」と言って回っていたら、兄に「まだ分からないよ」と笑われた。妹だもん。
「赤ちゃん、楽しみねえ」
「ふふっ、そうね」
ほんの少しだけ張ってきた母様の腹。
じっと見つめていると、「大事、大事、ってしてあげて」と言われたので、母様の腹を優しくさする。
「だいじ、だいじ……」
「赤ちゃんもお姉ちゃんに撫でられて、きっと喜んでるわ」
私が撫でてあげると赤ちゃんが喜ぶのか。
私も頭を撫でられたら嬉しい。まだ見ぬ妹とは気が合いそうだ。
私は張り切って、家事がひと段落したリーリャのところに行った。
「りーりゃ、ここ、座って!」
「……? はい」
母様の隣りにリーリャを座らせ、まだ平らなお腹をなでなでする。
「だいじ、だいじー」
リーリャは気がついていないが、彼女も妊っている。
三歳になってから自分の部屋を与えられ、一人寝が当たり前になった。赤ちゃんのときから二歳まではリーリャと一緒の部屋で寝ていたが、それも今はない。だからまぐわいやすかったのだろう。
ときどき一人で寝るのが寂しいときは、リーリャのところに行ってるが、行為中にはち合わせたことはない。
父親は父様だ。
ということは、これからリーリャは父様のお世話になるのだ。*2
村にもいたなあ。豪農の出の男に見初められて、岡山市の繁華街近くに家までもらった娘が。
うちは村の中では分限者であるようだし、リーリャにも家を与えて、父様はそこに通うようになるのだろうか。
リーリャが家から出るのは寂しいな。
真剣にリーリャの腹を撫でていると、母様が鈴の音のような笑い声をたてた。
「リーリャ、聞いた? この子、女の人のお腹にみんな赤ちゃんがいると思ってるわ」
思ってないもん。
そこまで無垢じゃないやい。
笑われたのが悔しくて頬を膨らませると、母様は私をひょいっと抱き上げた。
お腹に赤ちゃんがいるのだから重いものは持たない方が……。
そりゃあ、農村では孕み女も労働するのが当然だけれど。
母様は胸とお尻は大きいが腰は細いから心配だ。
「シンディ、赤ちゃんは女の人だけではできないのよ」
「だって、赤ちゃんいるもん」
「もっと大きくなったら、お母さんがちゃんと教えてあげますからね~?」
信じてくれない。
童女の戯れ言だと思われているみたいだ。
チサのときはみんな信じてくれた。雨乞いだの、出稼ぎに行って戻らぬ亭主の行方を捜してくれだの、嫁が一向に孕む気配がないので祈ってくれだの、隣村の誰それを呪い殺してくれだの、様々な依頼客が来たものだ。
まあいいか。私がどうこうしなくても、リーリャの妊娠は、いずれわかることだろうもの。
「……」
「……あら? どうしたの、リーリャ。顔色が良くないわ」
「いっ、いいえ。何でもございません、奥様。私は仕事に戻らせていただきます」
「そう? 無理しないでね」
「申し訳ありません、妊娠致しました」
一旬と経たず、リーリャは家族が揃っている席で、そう報告した。
わかっていたけれど、おめでとう!
おめでとう――兄が母様に言った言葉を真似して、祝福しようとして、母様、父様、兄の誰からも祝いと喜びの言葉が出てこないことに気がつく。
「す、すまん。オレの子だ……」
父様がつけ足した「多分」の声は、ひどく小さかった。
母様は放心したように、しかし確りした足取りで席をたち、父様に歩み寄った。
振り上げた手が父様の頬をぶつとき、母様の眼は怒りで嚇と燃え上がったのだった。
哀れな父様は、一人、居間に追いやられた。母様は食堂の机に肘をつき、重ねた手の甲を額に押し当てて俯いている。
リーリャはそんな母様の正面に、沈痛な面持ちで座っていた。
頬に赤い手形を作り、うなだれている父様に近寄ろうとしたら、母様に窘める声音で「シンディ」と名前を呼ばれた。
妻として、父様が無断でリーリャを妾にしたことが面白くないのだろう。私まで怒られてる気分だ。
「こっち来い」
兄に手招きされ、二人で隅の壁際に立つ。
うなだれている父様と、冷静になろうと努めている母様と、無表情だが所在なさげなリーリャが一望できる位置である。
暖炉から離れた位置に立っているとつま先が冷えてくるが、毛皮のコートを着ているので、さほど寒くはない。
潜めた声で母様とリーリャが何事か話し合っているのを、兄は物憂げな表情で眺めている。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
この雰囲気で、いつも通りの声量で喋るのは憚られた。
ひそひそ声で、疑問に思っていることを兄に訊ねる。
「赤ちゃんできたのに、なんで、おめでとう、って誰も言わないの?」
「うーん、それは……」
兄は困惑と愛想笑いが混ざったような顔を浮かべ、ちらりと父様を見た。
「……シンディ、お前、兄弟が一度に二人もできて、嬉しいか?」
「うん」
「リーリャのことは好きか?」
「だいすき」
当たり前のことを訊かれ、即座に答える。
兄は難しい顔で首を捻っていたが、「パンツのこともあるしな」と小さな声で呟いて、ふぅー、と息を吐いた。
パンツ。腰巻の代わりに履く小さな布がそんな名前だった気がする。
ロキシーの
「よし、見てろ」
新たに生まれた私の疑問を置き去りに、兄は母様とリーリャのもとに向かった。
暖かいコートを着て、毛皮でモコモコの兄の背中は、なぜだか格好良かった。
兄の説得により、リーリャは家に居続けることとなった。
妻とお妾さんがひとつ屋根の下で暮らすというのには驚いたが、決定を下したのは母様なのだ。何も言うまい。
それに、私にとってはリーリャが出ていかなくて願ったり叶ったりである。
母様に手を引かれ、二階にあがる。
その前に、母様の手から抜け出して、リーリャのもとに行った。
肩を震わせ、泪を流しているリーリャの腹に手をあてる。
「だいじ、だいじ!」
リーリャは途切れ途切れに、「ありがとうございます」と言って、私を抱きしめた。
ちょっと照れくさい。腕が緩んだ隙に抜け出し、また母様のもとに戻ると、母様はやさしい笑みを浮かべ、夫婦の寝室に私を招いた。
あら。あらら。
扉につっかい棒をつけちゃった。
今夜は父様を寝室から締め出す心づもりらしい。
「大事、大事、ね。
一体どこまでわかってるのかしら、この子」
寝台に腰かけた母様に、額を人差し指ではじかれる。
私にわかることは少ない。ただちょっと、祟りの激しい蛇神様に憑かれていて、人より見えるものが多いというだけだ。
「今夜はお母さんとねんねしましょ、シンディ」
「やったぁ! とうさまは?」
「あの人は床で寝るみたいよ」
スッと母様から表情が消えた。こわかった。
なお、母様の顰蹙を買った父様は、母様とリーリャと寝床を分けられ、けっこう長い期間の夜を兄か私の部屋に毛布を持ちこんで過ごすことになった。
そして、子供用の寝床は小さいため、兄と私のどっちかの部屋の床に寝そべる(ときどき馬小屋で寝る)父様を憐れに思った私たちが、両隣りから父様にくっついて眠る夜もしばらく続いたのだった。
「馬と子供ってあったけぇんだなあ……」
「次からは庇いませんからね」
「庇うったってもっとやり方があっただろ」
「とうさま、またお妾さんふえる?」
「いやもう流石に、……妾!? どこで知ったそんな言葉! ルディに吹き込まれたのか!?」
「濡れ衣です! どうせ父様でしょ!」
「オレじゃない!」
「ふわぁ」