コミュ症を拗らせ過ぎた結果、もうひとりの人格を生み出してしまったぼっちちゃんの話 作:モルモルネク
私なんかが、あの指に止まっていいのかな?
それが、幼い頃から後藤ひとりさんという女の子の根幹にある考えだった。他人と接するときに、いつもどこか後ろ向きな思考になっては尻込みしてしまう。もし迷惑だと思われていたらどうしよう?私がいたらつまらなくなってしまうんじゃないか?そんな具合に悩んでいたら、すでにもう置き去りにされては、ひとりぼっちになっている。そんな感じに、ひとりさんは幼稚園時代から既にぼっち街道を突っ走り始めていたのである。
小学生になってもその生活に変わりはなく、それどころか、アクセル全開でひとりさんは突き進んでしまった。幼稚園でのコミュニケーションすら躓いてしまったひとりさんに、小学校の高度な集団行動はあまりに荷が重過ぎたから。
勉強では、授業を真面目に受けてもわからなかった部分を、先生や他の生徒に聞くことができなかった。それで、だんだんとついていけなくなった。体育の授業では、足を引っ張りまくってチームを敗北に導いた。同じチームの負けず嫌いの男子の『後藤のせいで負けた!』という涙交じりの声を聞いてしまい、心の中でごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返した。給食や放課後の時間、友達と笑い合う他の子と孤独な自分を比べる度に軽く死にたくなった。
瞬く間に、ひとりさんは学校で過ごす時間を苦痛だと感じ始めてしまった。こんな地獄に六年間も通い続けるのは無理、止めてしまいたいと切にそう願った。幸い、ひとりさんのご両親はひとりさんにとても優しい。ひとりさんがそのままに、学校にもう行きたくないと告げればそれは叶えられただろう。保健室登校か、自宅学習か。そういったわかりやすい逃げ道がひとりさんにも与えられたはずだ。
でも、ひとりさんは最後までそれをご両親に告げることはなかった。それを言い出す勇気がなかったというのはもちろんあるだろうけれど。それ以上に、ひとりさんはご両親と同じく優しかったから。娘から学校に行きたくないと告げられてしまう両親の気持ち。それがどんなものか想像できる子だったから、ひとりさんは最後まで黙って学校に通い続けたのだ。
しかし、だ。それはひとりさんが辛い現実に逃げずに立ち向かったなんて話では断じてない。少しばかり失礼な言い草になってしまうけれど、なにか困難に直面したとき、真っ先に逃亡という選択肢が提示されるのがひとりさんなのだ。だからこの時も全力で明後日の方向にひとりさんは逃げ出している。
つまり、何が言いたいのかと言えばだ。ひとりさんがわたしというあまりに都合のいい人格を形成してしまうのに、そう時間はかからなかったということである。
◇◇◇
わたしがわたしという自我を認識したのは、ひとりさんが小学の五年生の頃の話。小学校で作文コンクールが行われて、ひとりさんはその時生まれたばかりの、妹のふたりちゃんについて作文を書いた。
この時はひとりさんにこれといった趣味もなく、学校でも家でも読書に明け暮れていたことから、小学生にしてはかなり文才が培われていたこと。そして、唯一の居場所である家族。その新たな一員であるふたりちゃんのお世話に真剣に向き合う姿勢が文章からも伝わったのか、見事ひとりさんの作文が優秀賞に選ばれたのである。
小学校のものとはいえ全国規模で行われていたコンクール、その中で賞をおさめたひとりさんは、担任の先生からいたく賞賛された。朝のクラス集会の時間で『後藤さんは私の誇りよ』なんて、ご両親以外からおおよそ言われたこともなかったようなお褒めの言葉をいただいて。普段、ひとりさんなんて眼中にない同じクラスの子たちも、この時ばかりはひとりさんに注目の視線を送っていた。
ひとりさんは引っ込み思案のコミュ症なのに、承認欲求を人一倍拗らせてしまっている。だからこそ、この状況はひとりさんのその承認欲求を満たして満たして満たしまくっていた。えへえへうへへと、どこか不気味な笑みを浮かべながら周りの状況も聞こえないくらいに有頂天になっていた。それが本当に良くなかった。
「じゃあ、今度の全校集会で作文を発表してもらっていいかしら?」
「もちろんですよえへぇ…………え????」
いつの間にか、ひとりさんはそんな無理難題をあっさりと引き受けてしまっていた。何百人という衆目の前で自分の作品を発表する。それが当時のひとりさんのキャパを大きく逸脱した行為だというのは言うまでもない。そんなあまりに過酷な状況でひとりさんが取った行動は、やはり現実からの逃避だった。
その日起こった出来事は夢だと信じ込んで、作文発表なんてなかったかのようにいつも通りの日常を過ごした。しかし、悲しいことに現実というものはいくら逃げようと容赦なく襲ってくるものなのである。あっという間に現実逃避できる時間は過ぎ去ってしまい、作文発表当日を迎え、非情にもひとりさんは体育館ステージの壇上に立たされてしまっていた。
俯かせた視線を少し上げて、壇上から下を見下ろせば自分を凝視する無数の眼。それを認識した瞬間、ひとりさんは目眩と迫り上がってくる胃液の味を既に感じ取っていた。どうして、私はこんな目に遭っているんだろう? 自分の迂闊さを棚に上げながらひとりさんは世界を呪った。
ひとりさんは絶望していた。ただでさえ、今までクラスでは石ころ同然の無価値な存在でしかなかったのに、明日からはそんな石ころを投げつけられるような存在に成り下がってしまう。期待されていたのに、作文の発表すらまともにできないダメなやつ。そんな烙印を押されてクラスのサンドバッグにされてしまうに違いない。あまりにあんまりなネガティブな妄想がひとりさんの精神を駆け巡り、過去一番の大きなストレスに晒された。
そして、そのストレスからひとりさんは意識を手放して、わたしという意識が突如浮上した。
「わたしにはふたりという、生まれたばかりの妹がいます」
ひとりさんの身体に生まれてしまった、わたしというもう一つの人格。そのわたしが生まれて初めて取った行動は、ひとりさんが投げ出した作文を壇上で読み上げることだった。自分の正体とかひとりさんとの関係だとか、考えなければいけないことは山ほどあったはずなのだけれど、ひとりさんの困難を取り除いてあげねばならない。そんな、使命感のようなものがわたしには存在していて、ただ作文の朗読に没頭した。
緊張を全くしなかったわけじゃない。でも、そのほどよい緊張感もがわたしを更なる集中へと導いてくれて、ひとりさんが用意していたカンペを見ることすらなく、わたしは胸を張って作文を発表することができた。今思えば、わたしはひとりさんの困難を請け負うために作られた人格なのだから、生まれたばかりでそれが出来たのも不思議ではなかったのかもしれない。
「…5年2組、後藤ひとり。ご清聴、ありがとうございました!」
そう締めくくって頭を下げると、体育館には決して少なくない量の拍手が響き渡った。無事に作文の発表を成功させたわたしに訪れた感情は、称賛された喜びでもやり遂げた達成感でもなく、ひとりさんのネガティブな妄想が現実になることを回避できたという安堵感だった。
ステージから降りると、わたしは担任の先生に体調不良を訴えて、体育館から退場することにした。役目を終えると、自分自身という存在に次々と疑問が湧き出てしまい、それらについてゆっくりと考える時間が欲しかったから。
先生が労いの言葉と共に快く案内してくれた保健室で、わたしはベッドに寝転がり頭を悩ませた。わたしはいったい誰なんだろう? この身体の持ち主、ひとりさんはちゃんと戻ってくるのだろうか? そもそも、これから先どうしていくべきなのか? 考えても考えてもまともな答えは一つもでない。
そうしてただ無為に時を過ごしていると、突然わたしの視界が暗転した。わたしが生まれたのとは正反対の感覚、意識がただひたすらに深く深く沈んでいく感覚。
「ぁ、えっと……あなた、誰? どうして私の中にいるの?」
わたしではない私の声。ひとりさんの声が先ほどまでわたしが動かしていたその身体から響いていた。わたしという意識は精神の片隅に追いやられ、ひとりさんが目覚めて、身体の主導権を取り戻していた。五感はきちんとひとりさんと共有されているのに、わたしは指一本動かせずただ思考することしかできない。なんとも不思議な感覚だったけれど、これが本来のわたしの居場所なんだという安心感のようなものを覚えていた。
『よくわからないですけど、わたしも後藤ひとりなんだと思います』
「……ぇ?」
当然のようにひとりさんが抱くわたしという存在への疑問。口を動かすことができないから念じるようにしてそう思考してみれば、それはひとりさんにもきちんと伝わっているようだった。理屈はわからないけれど、わたしはひとりさんにこうして自分の意思を伝えられるらしい。
わたしがひとりさんの名を名乗ることは心苦しかったけど、それ以外にわたしという存在を説明できる気がしなかった。先程生まれたばかりのわたしという人格だけど、今までのひとりさんの経験や記憶なんかは、わたしもすべて持ち合わせてしまっていて。わたしを構成する要素はぜんぶひとりさんのものだったから、そう名乗らざるを得なかった。
「でも、私はあんなことできないよ」
『それは……』
それが先程の作文発表のことを指しているのは明白だった。現実逃避して意識を手放したひとりさんは途中でもう目覚めていて、発表が終わって落ち着ける状況になったから、身体を取り返したということなのだろう。
ひとりさんがわたしの発表を聞いていてくれた。事実だけを捉えればわたしにとって嬉しい事実だったけれど、ひとりさんの声があまりに悲しいもので、ちっとも喜ばしい気持ちにはなれなかった。諦観を含んだ吐き出すようなその声色に、わたしは言葉を詰まらせるしかなかった。
「やっぱり、私なんていらなかったのかな?」
『……どういう意味ですか?』
「私ってね、ダメなんだ。話す前にあって言っちゃうし、目を合わすのも苦手だし、そんなだから誰とも上手に話せなくて、友達なんて一人もできなくて。頭は良くないし、運動もへたっぴで迷惑かけてばっかり……。お母さんとお父さんは私に優しいけど、そんな二人の顔を見るたびに学校辞めたいって言い出しそうになって……ホントダメだなぁ私って」
それはひとりさんの慟哭だった。わたしが、ただ事実として知っているだけのひとりさんの孤独と苦しみ。それはわたしの想像なんてとても及ばないほど深いもので。わたしは、かける言葉が見つからなかった。だって、できないことに苦しむひとりさんに、それができてしまった私が慰めの言葉をかけるなんて残酷すぎる。
「だからあなた……じゃなくて、もう一人の私が出てきたんだよね? ダメダメな私じゃなくて、みんなの前で胸を張れるカッコいいヒーローみたいな私が。……もう私は、いらないんだよね?」
『違う、そうじゃないんです!』
でも、もう黙ったままでいるわけにもいかなかった。わたしは、ひとりさんにこんな寂しいことを言わせるために、発表を成功させたのだとは認めたくなかったから。そしてなにより、このままじゃひとりさんが本当に居なくなってしまうような気がして。わたしには、それがなにより恐ろしいことに感じられたから。
『あれは、ひとりさんがいたからできたんです。ひとりさんを苦しい場所から遠ざけてあげたくて……ただ、それだけで。ひとりさんがいなくちゃあんなことできません。ひとりさんがいないと、わたしに意味なんてないんです』
結局、ひとりさんを元気づけられる上手な言葉は思い付かず、わたしはただありのままの本心をぶちまけることしかできなかった。ひとりさんがいなくなったら困るからいてほしい。勝手な言い草だと呆れられたらどうしようと、不安でしかなかった。
「もう一人の私は、私がいないとダメなの?」
『はい』
「もう一人の私は……私の味方?」
『もちろん。わたしは今日からずっとひとりさんの味方ですよ』
「そ、そっかぁ……えへへ」
意外にも、わたしの自分勝手な発言はひとりさんの自己肯定感を高めてくれたらしく、初めてひとりさんは嬉しそうな声を聴かせてくれた。そのことに強い喜びを感じると同時に、ひとりさんには家族以外の何もかもが敵に見えているという事実が悲しくもあった。
「じゃあ、もう一人の私は私だけのヒーローになって欲しい!」
『そうあり続けられるよう、頑張りますね』
あっという間に全幅の信頼を込めた言葉を投げかけてくれるひとりさんに、わたしは心の中で強く頷いた。正直、必要とされただけで自分のもう一つの人格なんて存在を受け入れてしまうのは、心配になる程ちょろすぎるだろうとは思う。でも、それはひとりさんが都合よく助けてくれる、ヒーローのような存在を求めてやまなかったという事実の裏付けだ。
だからこそ、わたしはひとりさんをあらゆる苦難から遠ざけて、平穏な生活とその純粋な心を守ってみせる。そう、深く心に誓ったのだ。
◇◇◇
こうして、わたしとひとりさん。一つの身体に二つの人格での奇妙な共同生活が始まった。基本的には今まで通りひとりさんが表で過ごし、ひとりさんが困り事に遭遇すれば、わたしがヘルプで表に出て対処する。そんな形で学校生活を送ることにした。
最初はとても順調だった。
「もう一人の私、代わりに算数のテスト受けて!」
『任せてください』
ひとりさんは苦手なことを自分でやらなくて済むし、ひとりさんから頼られれば当然わたしも嬉しい。ひとりさんが苦手としているコミニケーションだとか勉強だとか運動だとかが、わたしにはそつなくこなすことができた。頑張って結果を出せば、ひとりさんは毎度私が引いてしまうくらいに感謝してくれて、わたしもそれがとても誇らしかった。
しかし、当然ながら学校生活はひとりさんにとって辛いことばかり。わたしに対するひとりさんのヘルプの要請は、日を重ねるごとにエスカレートしていった。
「代わりに体育の授業受けて!」
『任せてください』
「給食の時間が気まずすぎるから、代わりに食べてほしい」
『任せてください』
「運動会、代わりにぜんぶ出てください。お願いします」
『ま、任せてください……』
日に日にひとりさんのヘルプの回数は多くなっていき、わたしが学校で過ごす時間は長くなっていった。そして、六年生の半ば、そろそろ卒業を意識し始める頃合いでひとりさんのヘルプは究極系を迎えた。
「お願いです、もう一人の私。残りの学校生活ぜんぶ代わってください。一生のお願いだから!」
『流石にそれはちょっと……』
わたしはひとりさんのヘルプを断ったことがなかったけど、今回ばかりは気軽に任せてくださいと頷くことはできなかった。了承してしまえば、それはひとりさんが小学校生活を完全に諦めてしまうことを意味する。残り僅かとはいえ、ひとりさんの学校での可能性を奪ってしまうのはマズイんじゃないかと思ったのだ。
「無理、もう無理……! だって、これから青春イベント目白押しだよ……?中学生でも友達でいようねって、友情を確かめ合ったり! 卒業アルバム作ってみんなで寄せ書きを書き合ったり! そ、そんな光景を私はぼっちで見せつけられることになるんだぁ……! 耐えられない、死んじゃう……だからお願い、中学生になったら頑張るから! もう一人の私、助けてよぉ〜……」
ひとりさんは土下座でもするんじゃないかっていう勢いで懇願していた。確実に、昔よりコミュ障も陰キャ度合いも上昇してしまっている。実際問題、ひとりさんはあまりにも青春がすぎる光景を見せつけられたりすると、即座に意識を手放してはわたしが表に出されるので、ひとりさんにとっては死活問題なのだろう。
ここまで泣きつかれてしまうと、わたしはひとりさんを突き放すことができない。こうして自分の嫌なことを溜め込まず、わたしに吐き出してくれるだけで昔よりは健全なはず。ひとりさんを甘やかす口実として、わたしはそう自分を納得させた。
『わかりました。中学生からは一緒に頑張りましょうね?』
「あ、ありがとうもう一人の私! 任せて、中学生になったらきっと……こうビッグになって、友達100人作ってみせるから!!」
わたしが頷けば、ひとりさんは気分を良くして具体的なプランは何一つない自分の未来予想図を語ってくれた。正直にいえばわたし自身も無謀だとしか思えないのだが、こうしてひとりさんが未来の学校生活に希望を持ってくれているのだから、そこに水を差すようなことはしたくない。ビッグになるだとか、友達100人とは望まないけれど、ひとりさんに友達が一人でもできればいいと願うばかりだった。
そして、残りの小学校生活をわたしがそつなく終えて。ひとりさんは無事中学生へとランクアップした。
さて、結論から言ってしまおう。中学校になったところでひとりさんのぼっち街道は変わることがなく、希望なんて欠片も残ってはいなかった。
「ドウシテ、ドウシテ……??」
『声怖いですよ……ひとりさん』
中学校生活を始めて一週間。そこに絶望を見出したひとりさんは、自宅のリビングでソファに寝転がりながら呪詛を唱えていた。そのあまりの鬼気迫る様子に、わたしもどう声をかけるべきかわからなかった。
ひとりさんはともかく、こうなってしまうかもとわたしは予想できてしまっていた。だって、ひとりさんは地元の中学校にそのまま進学した。ある程度のクラス替えくらいはあるだろうけど、小学校の頃と周囲の人物はそう変わらないのだから、小学校との違いなんて存在しないも同然だった。それでも、なにかキッカケが生まれたりするんじゃないかなんて祈ったりしてみたけど、現実はやはり厳しかった。
「もう一人の私。私の代わりに、人生歩んでみない?」
『なに言ってるんですか。やりませんよわたしは』
唐突に立ち上がったかと思えば、代わりに宿題やって、くらい軽いノリで激オモな要求をしてくるひとりさんの言葉を即座に拒否する。声色的に本気で言っている訳ではないんだろうけど、コレが紛れもなくひとりさんの破滅的な願望の一つであるのが困り所だ。
わたしという存在はひとりさんの人生があってこそ。ひとりさんの人生をわたしが取って代わってしまうのは、あってはいけないことだ。
「だって私、これからもずっとぼっちだもん。今日で確信した……。でも、もう一人の私はそうじゃない。カッコいいし、頭も良いし、なんでもできるし、間違いなく陽キャの中の陽キャになれる。そしてクラスの人気者になってみんなから頼られてちやほやされて……そんなもう一人の私の姿を自分に投影して、私は承認欲求を満たすんだ」
『そんな侘しすぎる願望聞きたくなかったですよ……。ひとりさんにはひとりさんの良さがありますから。そんなこと言わずに、ね?』
中学生になって、ひとりさんの承認欲求は膨れ上がり続けているらしい。まさかこんな願望を抱くまで拗らせているとは思わなかった。
ひとりさんにそこまで評価してもらってるのは、わたしにとってなにより嬉しいこと。そして、言うまでもないがわたしはひとりさんの頼み事にとても弱い。ついつい頷いてしまいそうになるが、心を鬼にしてひとりさんを宥めるだけに留めておく。
「ない、私にはそんなのないよぉ……! 私はもう一人の私にすら敬語を使わせてさん付けさせて、それでちっぽけな自尊心を満たすような最低なやつなんだぁ……」
『あー、わたしのコレ。そういうことだったんですね』
再びソファに寝転がって暴れては、ネガティブスパイラルに陥っているひとりさんから明かされる衝撃の真実。わたしがどうにも、最初からひとりさんに敬語を使い続けさん付けまでしていたのにはそういった背景があるらしい。まぁ、どんな理由があるにせよ、わたしがひとりさんを敬愛している事実に変わりはないし、これからも止めるつもりはない。そもそも、頼まれても止められる気がしなかった。
ひとりさんはこう言うが、ひとりさんにだっていいところはたくさんある。努力家なところとか、他人の気持ちに敏感なところとか、いざと決めたときの行動力だとか。それらがどうしても、ちやほやされたいというひとりさんの願望に結びつかないだけで、ひとりさんは魅力的な女の子なのだから。
『ほら、お父さんお風呂から戻ってきましたよ。……しゃんとして、たまには父娘水入らずの時間を楽しんでみたらどうですか?』
「うう、わかったあ……」
そんなことを言っても今のひとりさんは納得しないだろうし、わたしはちょうどお風呂から戻ってきたお父さんを見ながらそう話を逸らすことにした。自分の娘がもう一人の人格を作り出し、更にはその人格に人生の代役を頼んでいただなんて、ひとりさんのお父さんに知られるわけにはいかない。わたしはしばらく黙っていよう。
「これ見てる?」
「ううん」
お父さんがひとりさんの隣に座り、リモコンを操作してテレビのチャンネルを切り替える。親子の会話にしてはあんまりにも簡素に思えるけれど、家でのひとりさんはいつも自然体だから、わたしが口を挟むようなことはない。
お父さんが切り替えたテレビのチャンネルでは、国民的な音楽番組が放送されていた。そして、コレこそがひとりさんの人生を大きく変えるキッカケとなったのである。
「学生の頃は、教室の隅で本を読んでいるフリをしてる奴でした。友達いなくて」
画面ではちょうど、最近流行りのロックバンドがインタビューを受けているところだった。わたしもひとりさんも音楽にあまり関心のある方ではなかったから、そのバンド名すらもわからなかったけど。ひとりさんは、そのインタビューの内容に僅かなシンパシーを感じているようだった。
「まぁ、バンドは陰キャでも輝けるんで」
一人のバンドマンが何気なく発したその一言。インタビューを終えて、ひとりさんと同じく陰キャであるはずの彼が披露する心を震わせる演奏。そして、それを受けて歓声をあげる会場のファンたち。それが、ひとりさんを突き動かす原動力となった。
「お父さん、ギター貸して!」
「え……いいよ?」
「ありがとう!」
そこからはもう止まらなかった。わたしが先程あげたひとりさんの良いところ。その行動力そのままに、父親のギターを借り受ける許可を得ては、ギターを触るために階段を登っていく。
わたしといえば、あまりの急激な展開に理解が追いついていなかった。先程まであんなに自分の人生を悲観していたひとりさんが、期待に声を弾ませてギターをやるというのだから驚きしかない。
『ひとりさん、ギター始めるんですか?』
「うん、私はもう一人の私みたいにはなれないけど。…ギターなら、陰キャな私でも輝けるような気がするんだ!」
その声は、今までのひとりさんのどんな言葉よりも力強く、希望に満ち溢れていた。
◇◇◇
それからのひとりさんの生活は、ギター一色に変わった。学校生活のほとんどをわたしに任せ、帰宅するとただひたすらギターを掻き鳴らし続けた。
ひとりさんはとんでもない努力をした。毎日ギターの練習は欠かさなかった。ギターの弦で指を切っても、心配になったわたしが一旦止めようと諭しても、ひとりさんはギターを弾き続けた。最低でも、毎日6時間以上は間違いなくギターに触れていた。ひとりさんの成績を維持するために、わたしの勉強時間を捻出するのが難しいほどだった。
ひとりさんには才能もあった。たった一人、ギターの教本だけを頼りに独学でどんどん技術をモノにしていった。そして、ひとりさんに勧められてわたしがギターを練習してみても、わたしはまったくギターが上手にならなかった。ひとりさんにできて、わたしにはできない。その事実がひとりさんの自尊心を満たし、さらにギターへとのめり込んでいった。
「私、バンド組む! それで文化祭でライブして、皆からちやほやされるんだぁ」
『ええ、ひとりさんなら必ずできますよ』
きっと、そんな程度では止まらないだろう。圧倒的な練習量に、備わっている確かな才能。そして、ひとりさんの演奏にはどこか人を惹きつけてやまない熱量すら備わっている。
わたしという人格はきっと、ひとりさんがギターを弾くために存在している。彼女がその才能を遺憾なく発揮し、その演奏を大舞台で披露する。その時までひとりさんを支えるためにわたしという存在は生まれたのだと、この時わたしは確信したのだ。