コミュ症を拗らせ過ぎた結果、もうひとりの人格を生み出してしまったぼっちちゃんの話   作:モルモルネク

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変わるもの、変えられないもの、変わってゆくべきもの

 

「ふぅ……気付けばもう夏真っ盛りですね」

 

『お、お疲れ様。もう一人の私』

 

 薄っすらと顔に滲む汗をハンカチで拭い取り、冷えたスポーツドリンクを喉に流し込みながら一息つく。高い気温と声を張り上げ続けたことで消耗した喉に染み渡って心地がいい。ただ、そういった物理的な補給よりも単純なひとりさんからの労いの言葉の方が、わたしには何よりの活力になるような気もした。

 

 ライブチケットの販売という大任をひとりさんから請け負ったわたしは、翌日に早速チケット売りを決行することにした。場所は地元である金沢八景駅前の周辺、今日は夏祭りがあって人通りも多いことからこの期を逃す手はなかった。午前中から宣伝フライヤー配りを数時間続け、現在は水分補給を兼ねて休憩中といった次第である。

 

『……何から何まで任せちゃってごめんね、もう一人の私』

 

『いえ、今回ばかりはわたしの我儘のようなものなのですから。本当に気にしないでください』

 

 昨日から続く何度目か分からないひとりさんの謝罪に、苦笑いをしながら首を横に振る。わたしがふたりに対して格好付けた故の結果なのだから、気にする必要なんて欠片もないのに。もしかすると、フライヤーの作成すらもわたしが担ったことが原因なのかもしれない。

 

 ふたりに描いて見せた絵のように、デフォルメ調で結束バンドメンバーを表現した宣伝フライヤーはなかなかの自信作だ。今回は横着せずに虹夏さんのドラムも添えたので、我らがリーダーの面目も保たれているはず。ロックバンドとしては少々ポップ過ぎるかもしれないけど、結束バンドがガールズバンドという点を加味すれば雰囲気にそぐわないなんてこともないだろう。

 

 宣伝フライヤーくらいは自分で作ってみせる。そんなひとりさんの熱い申し出を断ったのは、決してひとりさんの絵のセンスが壊滅的だからという不埒な思考が過ったからでは断じてない。ただそう、ひとりさんの芸術性に時代がまだ追いついてないと判断しただけのこと。そんな言い訳を、わたしは自分に何度も言い聞かせていた。

 

『宣伝フライヤーを作らせるばかりか、もう一人の私にお洒落をさせてチケットの売り子までやらせるなんて……こ、これって何かの犯罪にあたるんじゃ!?』

 

『いわば全部合意の上なわけですから、何も問題はないと思いますよ……?』

 

 いつも通りに今回も、ひとりさんの不安は予想外の方向にかっ飛んでいるようだ。決してあり得ないことではあるけど、もし無理やりわたしにやらせていたとしてもひとりさんを罪に問えるような法律なんてありはしないのに。ひとりさんの内では、アイドルに怪しい営業をさせる悪徳プロデューサーのような気分だったりするのだろうか。

 

 ひとりさんが言及しているように、今日のわたしはいつものピンクジャージではなくわたし個人の私服を着用させてもらっている。理由は単純に、そちらの方がチケットを売りこむ相手からの心象が良くなるだろうから。ひとりさんの容姿を利用しているようで申し訳なくもあるが、売り込みをする以上他人からの印象を良くしておくに越したことはない。だから、長い前髪もヘアピンで留めて表情も見えやすくさせてもらっている。

 

 一つ言っておくとするならば、常にピンクジャージ姿で顔も隠しているひとりさんの格好を揶揄するつもりは一切ない。勿体無いとは思うけれども。ファッションセンスにしても、時代がひとりさんに追い付いていないだけなのだ。そんな言い訳を重ねることしか、わたしにはできない。

 

 ひとりさんはお洒落だなんて褒めてくれるけど、今日の服装は動きやすさ重視かつデザインも地味なものを選んでいるので別にそんなことはない。ただそんな中でひとりさんがあまり着たがらないスカートを選んでしまったのは、少しでもお洒落でいたいだなんて。そんなわたしの浅ましい願望が漏れ出てしまった故なのだろうか。

 

「……しばらくフライヤー配りを続けて成果はゼロ。休憩後は、もう少し張り切って売り込みをかける必要がありそうですね」

 

 未だ自分の手元に残っている三枚のチケットを眺めながら独りごちる。二時間ほど駅前でフライヤー配りをしてみたものの、チケットを買ってくれる人は未だ一人も現れていなかった。

 

 誰も関心を示してくれなかった訳ではない。愛想の良い笑顔を浮かべ、努めて明るい声を張って見せれば、道行く人々の何割かは宣伝フライヤーを受け取ってくれた。立ち止まって話を聞いてくれる人も、少ないながらに存在していて。勿体無いことに、わたしなんかに『頑張ってね』なんてありがたい声をかけてくれる親切な人すら居てくれた。

 

 世間はわたしが想像しているよりもずっと冷たくはなかった。ただそれでも、見知らぬ他人のためにお金と時間を使いたがる奇特な人間はそういない。これはそんな、単純な話。

 

『どうしてだろう……もう一人の私、あんなに頑張ってたのに』

 

『こればっかりは仕方ありません。お客さんからしてみれば、大切なお金と時間を消費しなくてはいけないのですから』

 

『大切……そっか。そう、だよね』

 

 おおよそ、想定通りでもあるのだ。わたしだって、ひとりさんが関わっていない見知らぬバンドのライブを見に行こうだなんて夢にも思うことはない。時間もお金も、どちらも有限で貴重なものだ。それを無駄にするべきでないということは、身に沁みている。他の誰にしたって、少なからず同じように思っていることだろう。

 

 だから本来、わたしはこんな不確実な方法を取るべきじゃなかったと思う。それこそ、見知らぬ他人ではなくクラスメイトにでも売るべきだったのだ。喜多さんと初めて出会った日に会話したクラスメイト。彼女達はひとりさん達のライブに興味を示していた。実際誘ってみれば、意外と簡単にチケットを買ってもらえたかもしれない。

 

 でも、その方法を取るのは嫌だった。普段わたしの都合で彼女達から距離を置いているのに、都合の良い時だけ擦り寄るような行いをすることが、あまりに身勝手で気持ち悪い行動に思えてならなかったから。つまらない拘りかもしれない。ひとりさんのために捨て去るべきだとも、理性は告げている。それでも、本当に嫌だったんだ。

 

『……そ、そのぅ。やっぱり私も何かした方がいいんじゃ』

 

『大丈夫、勝算はありますので。ひとりさんは大船に乗ったつもりで、ドンと構えていてください』

 

『……う、うん』

 

 勝算があるというのは嘘じゃない。なにせ今日は夏祭り。夕方に差し掛かれば人足は今の比にならないくらい増えていくことだろう。祭りの陽気にあてられて、財布の紐が緩む人も少なくないはず。そこから先はわたしの頑張り次第、なんとでもなるはずだ。

 

『おや、虹夏さん達からロインが』

 

『え!?……な、なんて?』

 

『皆さん、チケット売り終えたみたいですね。それで、みんなで自主練でもどうかってことらしいですけど』

 

『ひ、ひえぇ……』

 

 スマホからの通知音に反応して結束バンドのグループチャットを確認すれば、わたし達以外は既にチケットノルマを捌き終えているようだった。まぁ、これも当然のことだろう。虹夏さんはあの明るくて優しい性格を考えれば、学校でチケットを売る相手には困りそうもないし、喜多さんなんて言わずもがな。リョウさんにしたって、あの格好良さならばクラスで人気があっても何も不思議ではない。

 

 結束バンドには魅力的な人達ばかりが集まっているのだなと、しみじみと感じている。

 

『み、みんな順調そう……もしもう一人の私が居なかったら、ノルマを捌けなくて私はクビにされてたんだぁ……』

 

『それはありませんよ。ひとりさんも、結束バンドの皆さんが優しいってことはもう十分に知っているでしょう?』

 

『わかってはいるんだけど……でも、でもぉ』

 

 それはそれとして、自分への不信感は拭えないといったところだろうか。チケットを売り切るのが難しいことを相談すれば、クビにされるどころか虹夏さん達は嫌な顔もせずに手伝ってくれるはずなのに。ひとりさんもそろそろ、その事実を心から信じても良い頃合いだと思う。

 

 ひとりさんが頼れる存在は、決して心の内にいるもう一人の自分だけではない。あるいは本当にその事実に気付かなければいけないのは、わたしの方だったりするのだろうか。

 

『それで、どうしましょうかひとりさん』

 

『ど、どうするって……何を?』

 

『結束バンドでの自主練です。わたしとしては、チケット売りを中断してそちらに合流しても構いませんけれど……』

 

 チケット売りをするなら今日という絶好の日を逃す手はないが、ひとりさんの意思を蔑ろにするほどではない。どんな状況にあったって、優先されるべきなのはひとりさんの都合だ。そのためなら、わたしは自分のつまらない拘りは投げ捨ててクラスメイトに売る道を選ぶつもりだった。

 

『い、行けないよ!もう一人の私が頑張ってくれてるのに、私だけが呑気に練習だなんて……』

 

 だけど、わたしのつまらない拘りすらもひとりさんの優しさによって尊重されてしまう。どう取り繕っても、わたしが表に出るということはひとりさんの時間を削る行為でしかない。だからわたしは、決してひとりさんの為という理由以外で表に出てはいけないのだと。そんな不変の事実を、心の底で何度も噛み締める。

 

 少しでもひとりさんの時間を奪わぬように、何としても今日でチケットを売り切る覚悟が必要だ。

 

「わかりました。ではすぐにチケット売りに戻り――え?」

 

 虹夏さん達に今日は行けないと連絡し、休憩を終えて再び駅前へと戻ろうとしたところで、ドサリと近くで物音がした。慌ててそちらへと視線を向ければ、一人の女性が道端に倒れ込んでいる。それも受け身も取らずに、真正面から。その凄まじく非日常的な光景に、間抜けな声を上げて硬直してしまう。

 

『も、もう一人の私!?人、人が倒れて……き、救急車呼ばないと……い、いちいちなな!?』

 

『お、落ち着いてひとりさん。117は時報です……そうですね、まずは救急車を呼ばないと』

 

 慌てふためくひとりさんを落ち着かせるために冷静な言葉を吐きつつも、わたしの内心はまったくもって平常心ではなかった。救急の現場に立ち会うのは初めてで、嫌な緊張感に身体が支配されてしまう。救急車を呼んだ後はどうしよう、近くにAEDなんかはあっただろうか。纏まりのない思考が頭をぐるぐると廻り、ただ119とスマホに入力するだけなのが、指が震えてなかなか上手にいかなかった。

 

「……み、水。水ください……」

 

「は、はい!今すぐに買ってきますから!」

 

 そんなわたしが最後の9を入力する寸前で、倒れた女性が身体を這いずらせながら擦れがかった声でそう声をかけてくれた。女性が意識を失っていなかったことに心底ほっとする。

 

「……それと酔い止め。あとしじみのお味噌汁」

 

「はい!……はい?」

 

 しかし、矢継ぎ早に続いていく女性からの要求は何かおかしい。酔い止めはともかくとして、しじみの味噌汁は明らかに身体の具合が悪く切羽詰まっている人間からの要求ではない。先程までとは全く別種の、楽観的な嫌な予感が既にわたしの頭を埋め尽くしていた。

 

「あとお粥も食べたい……介抱場所は天日干しされたふかふかのベッドの上で……」

 

『す、凄い注文してくるね。もう一人の私、これってもしかして……?』

 

『ただの酔っ払いですね、間違いなく』

 

『だ、だよね』

 

 わたしの身体にしがみつき、とても図々しい注文をしてくる女性の姿を見下ろせば簡単に結論は下せた。わたしの先程までの緊張なんて杞憂も杞憂。その実態は二日酔いに苦しんでいるだけのただの酔っ払いでしかない。一気に緊張で強張ってた身体の力が抜けて、気を抜けば大きいため息すら漏れ出てしまいそうだった。

 

『ど、どうする?なんだかものすごく苦しそうだけど……』

 

『どうするって、そんなの考えるまでもなく――』

 

 急患ならばともかくとして、二日酔いに苦しんでいるだけの酔っ払いを介抱しなければならない義理はわたし達にはない。そもそもわたしが表に出ているとはいえ、ひとりさんを見ず知らずの酔っ払いと関わらせるなんて百害あって一利なし。だから悩むまでもなく、わたしが取るべき行動はこの女性を引っぺがして、直ちにチケット売りに戻ることのはずだ。

 

『……はぁ。ひとりさん、申し訳ないのですが少しお時間もらっても大丈夫でしょうか?』

 

 なのに気付けば、わたしはこの場に留まる許可をひとりさんに求めてしまっていた。この女性を助ける合理的な理由なんて一つもないにも拘わらず、だ。そんな選択を取ってしまう自分の至らなさに、堪えていたため息が思わずこぼれ落ちる。

 

 見捨てて放っておくのは流石に良心が痛むとか、満足に身動きできない女性を一人にするのは危ないだとか、言い訳はいくらでもあるけれど。一番の理由を挙げるならば、格好良くもだらしなさ過ぎる我らがベーシストの顔がふと脳裏を過ってしまったという、不可解にも程がある理由。わたしの心のモヤモヤは加速するばかりだ。

 

『う、うん、もちろんいいよ!』

 

『……ありがとうございます』

 

 いっそのことひとりさんが断ってくれれば、こんな複雑な感情に苛まれずに済む。そんな淡い期待を抱くもわたしがこう申し出て、ひとりさんが断るはずもなく。今日一番の弾んだ声色で、わたしのお願いは受け入れられることになってしまった。

 

『どうしてそんなに嬉しそうなんですか?』

 

『あ、ううん、違くて。なんというか……もう一人の私らしいなって思ったんだ』

 

『わたしらしい、ですか?』

 

『うん!やっぱりもう一人の私は、困っている人を放っておいたりしないんだなって』

 

 そう興奮気味に語ってみせるひとりさんは、きっと表に出ていればキラキラと眼を輝かせていたのだろう。ひとりさんの中で、そんなヒーローのような存在でいられていることは嬉しく思う。だけど近頃のわたしは、そんなひとりさんの期待に相応しいような存在だろうかと不安で。純粋に疑問で仕方がなかった。わたしはひとりさんのイメージほど、自分が優しい存在だとはどうしても思えなかったから。

 

『それはわたしらしいと、言えるのでしょうか?』

 

『う、うん。今はあんまりないけど、小学生くらいの頃はたくさんそういうことがあったよね。具合が悪そうな子が居たら、一番に気付いて保健室に連れて行ってあげたり。誰もやりたがらない係や委員会を誰かが押し付けられそうになった時、代わりに立候補したり……違うクラスの名前も知らない子の落とし物を、一日中かけて探してあげたこともあったよね?』

 

『そんなことをしていた時も、ありましたね』

 

 懐かしく、わたしにとっては少し苦い記憶を嬉しそうに語るひとりさんに、どこかむず痒い気持ちになる。まだわたしという人格が生まれて間もない頃、誰彼構わずわたしが善意を振り撒いていた時期があったのは事実だ。そうすることが、ひとりさん自身のためにもなるだなんて無邪気に信じていた頃の話。それがひとりさんの居場所と時間を削る行為だって、初めから気付いておくべきだったのに。

 

 気付いていれば、中学の学校祭の件でひとりさんがあれほど傷付くはずはなかった。

 

『そんなもう一人の私を見る度に、ヒーローみたいでカッコいいって憧れてたんだ……もちろん、今だって』

 

 楽しいばかりではなかった筈の思い出を、ひとりさんは眩しいもののように語ってくれる。だからこそ、ひとりさんの輝かしいヒーロー像から自身が少しずつ乖離していっていることを思い知っていく。

 

 最近のわたしは困っている人を助けるどころか、誰かを困らせてばかりいるから。

 

 

 ◇

 

 

「ぷはぁ、肝臓に染みる〜!ありがとねー、まさか本当にお味噌汁買ってくれるとは」

 

「いえ。まぁ、成り行きですので……」

 

 介抱に必要な物を最寄りのコンビニで買い揃え、二日酔いでぶっ倒れたお姉さんの下へ舞い戻る。手始めに水としじみのお味噌汁を手渡せば、先程まで倒れていたのが嘘のように元気よく飲み干していた。この人、間違いなくわたしが介抱なんてしなくても何とでもなっていた。そんなことを今更悟ったところで後の祭り。

 

 ただまぁ、ただのインスタントのお味噌汁をこれ以上ないほどに美味しそうに飲んでくれて。そのありがたり様を見ていれば、助ける甲斐はあったのかなと思えそうなのが唯一の救いだった。

 

「一応お粥も作ってきたんですけど、食べますか?」

 

「え、食べる食べる!……お味噌汁だけじゃなくてお粥まで、なんて至れり尽くせりな!」

 

「天日干ししたフカフカのベッドは流石に無理でしたけどね」

 

 お粥とスプーンを一緒に渡すと、これまた感動で身を震わせながらお姉さんは受け取ってくれた。こんな不必要な物まで取り揃えてわたしは何をやっているのだろう。それもこれも、温めるだけのカップお粥なんて便利な物まで取り揃えているコンビニが悪い。

 

 途中、お姉さんからの注文をどこまで取り揃えられるか。そんな馬鹿な行動を楽しんでしまっていた自分が、本当に嫌になる。

 

「酔い止めと胃薬も買っておきましたので、食べ終わった後に飲んでください。あ、飲み過ぎで胃が疲れてるんですから、お粥はゆっくり落ち着いて食べてくださいね」

 

「なんて細やかな気遣い……本当にありがとね〜。日本の未来は暗いと思っていたけど、君みたいな優しい子がいるのなら光明が見えるかもしれない!」

 

「大袈裟過ぎですよ」

 

 なんて謙遜をしつつも、わたしの心は感謝されたことにしっかり喜んでいるのだからどうしようもない。わたしのくだらない承認欲求を満たすために、一体誰の時間が奪われていくのか再確認したばかりだというのに。ひとりさんの為だけの存在でいなければダメなのに、他人からの感謝で簡単に舞い上がってしまうこの心が、嫌いでしょうがなくて。わたしまでもが吐き気を覚えてしまいそうだった。

 

「ごちそうさまでした!……あーでも、まだ気分悪い。頭外して丸洗いしたい、内臓取り出してアルコール搾り出したい……」

 

「お姉さんが無理した分を、今内臓さんが頑張って処理してくれてるんですから。今日はゆっくり休んで、キチンと身体を労ってあげてくださいね?」

 

「うん、そうするそうする〜」

 

『なんだか、ヤバい人を助けちゃったみたい……?』

 

『まったくです』

 

 ひとりさんの言葉の選ばなさには驚かされるが、わたしも全面的に同意せざるを得ない。そもそも、お酒の飲み過ぎで日中にぶっ倒れるような人間はどう考えたってまともな人物じゃない。お礼を何度も言ってくれたり、お粥やお味噌汁を一つ残さず完食したあたり悪い人ではなさそうだけど、それとこれとは別問題。

 

 どうしてわたしは、僅かながらにもこんな人とひとりさんの接点を作るような真似をしてしまったのだろう。後悔ばかりがわたしの心に積み重なっていく。

 

「ね、君。名前なんていうの?」

 

「後藤ひとりです」

 

「へぇ〜、可愛い名前」

 

「そうですね。わたしもそう思います」

 

「……?なんか、すごい他人事みたいな言い方するね」

 

「え、いやその、これは言葉の綾といいますか……」

 

 失言を的確に突っつかれてしまい、動揺して言葉を詰まらせてしまう。名前すらもわたし自身が賜ったものじゃない、そんな認識が言葉の節々から滲み出てしまっていた。いくら相手が酔っ払いだとはいえど、これは流石にわたしの気の緩みすぎだった。

 

 しかし、先ほどまであんなにへろへろだったにも拘わらず、わたしの失言への指摘は随分と的を射ている。まさかとは思うが、意外にも鋭い感性を持つ人だったりするのだろうか。

 

「……お姉さんの名前をうかがっても良いでしょうか?」

 

「ん、私ー?私はねー、廣井きくりっていうんだ〜」

 

「きくりさん、ですか」

 

「そうそう、きくりお姉さんだよ〜!よろしくねー、ひとりちゃん」

 

「よろしくお願いします……」

 

 まだ酔いの抜け切ってなさそうな顔で自己紹介をするきくりさんを見て、また僅かながらに後悔する。自分の失言を誤魔化すためとはいえ、名前を聞き返してしまったのは失敗だった。名前と顔が知れていれば、それは少なからず顔見知りという訳で。ひとりさんではなくわたしの印象しか知らない顔見知りなんて、どんな形でも増えるべきではない。

 

「よーし、それじゃあひとりちゃんとの出会いを祝して……かけつけ一杯!」

 

「……えぁ??」

 

 突如きくりさんが取った行動に目を疑い、恥ずかしくもとんでもなく間抜けな声が漏れ出てしまう。でも、こんな反応になってしまうのも無理からぬことだと思うのだ。先ほどまであんなにも二日酔いで苦しんでいた筈のきくりさんが、明らかにお酒とわかるデザインの紙パックを取り出しては口を付けようとしているのだから。その行動の正気を疑いたくもなるだろう。

 

「ちょ、ちょっと何やってるんですか!!?」

 

「なにって、お酒飲むんだけど?いぇーい、迎え酒〜!!」

 

「冗談でしょう!?やめてください!!」

 

 冗談のつもりなんて欠片もないのか、ストローをぶっ刺して今にも酒を飲み干さんとするきくりさんの腕を、必死の思いで掴んで制止する。あれほどアルコールで身体を痛めつけた後に、追い討ちをかけるなんて寿命を縮める行為だとしか思えない。そもそも、ここで飲ませたら先ほどまでのわたしの介抱の意味が無へと帰していく。あらゆる意味で静観するわけにはいかなかった。

 

「止めないで、ひとりちゃん。ちょびっと、ちょびっとだけだからさ!!」

 

「そういう問題じゃありません!わたし、言いましたよね……身体を労ってあげてくださいって!」

 

「これが私流の労わりかたなんだって。私の五臓六腑がアルコールを求めてやまないのさ!!」

 

「そんな労わりかたが認められる訳ないでしょう!?」

 

 支離滅裂な主張を繰り返すきくりさんとの、飲酒を巡った攻防が続いていく。ああどうして、わたしはチケット売りのためではなく酔っ払いを諌めるためにこんなにも声を張り上げているのだろう。わたしは何か大きく道でも間違えてしまったのだろうか。

 

「もう……どうしてそんなにお酒を飲みたがるんですか?」

 

「だって、お酒を飲めば全部忘れられるじゃん?将来の不安とか、嫌なことや辛いこと全部さ……あ、私はこれを幸せスパイラルって呼んでるんだけど――」

 

「嫌なことや辛いこと……」

 

 わたしはそういったワードには、弱い。きくりさんの飲酒を止めようとヒートアップしていた頭が急速に冷めていくのを感じる。

 

 もしもの話ではあるけれど、目の前のきくりさんだって何か辛い事情や苦しみを抱えている可能性はある訳で。ひとりさんがわたしという逃げ道を生み出したように、きくりさんがお酒を人生の逃げ道としてるというのもあり得ない話ではないのだ。

 

 そうした前提の下考えてみると、今のわたしの行動はとんでもなく無神経にも思えてしまって。気が付けば手から力が抜けてしまい、きくりさんの腕を離してしまっていた。

 

「……ごめんなさい。もう止めませんから、好きに飲んでください」

 

「ほんと?やったー!!……でも、一体どういう心変わり?」

 

「いえ……誰かの逃げ道を塞ぐような権利はわたしにはないなって、思っただけです」

 

「ふーん、若いのになんだか詩的だねぇ……それじゃ、いっただきまーす!」

 

 許可を貰えた瞬間にお酒を一気飲みし始めるきくりさんを見ていると、止めたくなる気持ちがふつふつ湧いてくるが、スカートの裾を強く掴みながらなんとか自分を押し止める。

 

 驕ってはいけない。客観的に見てどれだけ間違って見えようとも、わたしなんかが他人の行動に口を挟むなんて烏滸がましいことこの上ない。他人の人生に口を挟んで良いのは、自分の人生をしっかりと歩んでいける者だけだろうから。

 

「ぶはぁ、キく〜〜」

 

『す、すごい飲みっぷりだね……飲む手が止まらない』

 

『ひとりさんは、お酒との付き合い方にはどうか気を付けてくださいね』

 

『うん……そうする』

 

 紙パックどころか一升瓶をラッパ飲みし始めたきくりさんを見てると、頭痛すら覚えそうだったので見ないフリをする。奇しくも、きくりさんの姿はひとりさんが今後お酒と付き合う上での最高の反面教師になってくれている。わたしが気に留めるのはひとりさんのことだけ。そう、これで良いはずだ。

 

『もう一人の私が誰かにあんな大声を出してるの、初めて聞いた気がする』

 

『そうかも知れませんね……申し訳ありません。ひとりさんの身体であんなはしたない声を出して』

 

『あ、やっ、違くて……もう一人の私がなんだか楽しそうで、嬉しいなって思ったんだ』

 

『そんなことは……』

 

 ない、とはどうしてか言い切れなかった。お互いに何を憚ることもなく、冗談や軽口を言い合える間柄。そんな関係に憧れを持っているだなんて、認めるわけにはいかないのに。

 

『もう一人の私は、お酒に興味ってある?』

 

『ないとは言いませんけど……あまり飲んでみたいとは思いませんね』

 

 味自体に興味はある。でも人だろうと物だろうと、縋れる何かを得てしまうのは自分の弱さに繋がりそうで、近づけたくなかった。SNSと同じくどうしようもなく依存し、溺れてしまう光景が想像できてしまうのが怖い。

 

 ひとりさんにみっともない姿を晒してしまうくらいなら死んでしまう方がマシだ。そして実際に、わたしの存在がお酒を飲める年齢まで続くこともきっとないのだろう。

 

『じゃあ大人になっても私はやめとこうかな……うん、コーラで十分』

 

 わたしの想像に反して、ひとりさんはわたしとの未来が続くことを一切疑わない。そんなひとりさんは、わたしという存在が居なくなった時にいったいどんな表情を浮かべているのだろう。

 

 想像すらしたくもない。傷付いていたとしても、驚くほど傷付いてなかったとしても、あるいはわたしのことをすっぱり忘れてしまっていたとしてもだ。どんな顔をしていたって、わたしにとっては地獄でしかない。

 

 自分の居なくなった後の光景なんて考えたくはないのに。それすらも、ひとりさんから逃げているのではと囁く心の一部が、わたしを苛ませるのだ。

 

「でもさぁ……ひとりちゃんって、自分はこれっぽっちも逃げていいだなんて思ってなさそうだよね」

 

「……は?」

 

 きくりさんから投げかけられた言葉に、心臓が跳ねる錯覚を覚える。わたしの思考をせっつくかのような予想外の方向からの揺さぶりに、自分でも驚くくらいの低い声が出てしまう。

 

 そんなの、当たり前だ。わたしはひとりさんの逃げ道として生まれた存在だ。そのわたしが逃げていい道理がどこにある。ひとりさんや喜多さんが逃げることを肯定しておきながらも、わたし自身が逃げることだけは絶対に許容されるべきではないと思っている。それは確かな事実だ。

 

 何故そんな心の奥底を、わたしは初対面の人に覗かれているのだろう。どうしてこの人はそんな芸当ができてしまうのだろう。細めた目から覗いているその瞳が、少しだけ恐ろしくも感じられた。

 

「そんな風に見えますかね、わたし」

 

「うん、見える見える!ひとりちゃんさ、見た目は今時の可愛い子そのものって感じなのに、表情は草臥れたOLみたいなんだもん」

 

 騒めく心の内を押さえ付けながら、なんでもない風を装って口を開く。ここでムキになって否定なんてしたら、ひとりさんがどんな感情の動きを見せるのか想像もつかない。この大事な時期にひとりさんの心労を増やしてしまうことだけは避けたかった。

 

 そんなわたしの心を知ってか知らずか、冗談めいた口振りできくりさんは補足説明をしている。星歌さんに続いてどうしてこう、表情から心の奥底を覗き見られてしまうのだろうか。自分では完璧に取り繕えてると思っているのに。大人からしてみれば、わたしの強がりなんて子供騙しにしか見えないのかもしれなかった。

 

「私もひとりちゃんに釣られて詩的になっちったかなー、なんて」

 

 わたしの心を掻き乱しまくっている本人は、どこ吹く風とばかりに次々と新しい酒を開け続けている。そんな姿を見ていると、この人の発言をいちいち真に受けてしまう方がダメなんじゃないかとすら思えてしまう。そして同時に、あらゆる面でこれ以上は付き合ってられないと思った。

 

「では、わたしはそろそろお暇しますね」

 

『も、もういいの?』

 

『お酒を飲む元気があるなら大丈夫でしょう』

 

 この場を去るために立ち上がる。酔いが醒めるのを待つこともなく、次から次へとお酒を足していくのだから介抱も何もあったものではない。このまま放っておいて家に帰れるのか不安で仕方がないが、そこまで面倒を見る義理は流石にない。これ以上時間を無駄にしないためにも、さっさとチケット売りに戻るとしよう。

 

「おっ、ギター!それギターだよね、弾けるの?」

 

「……まぁ、一応」

 

 背を向けて一歩を踏み出したところで、わたしの言葉を聞いていなかったのかきくりさんが容赦なく言葉を投げかけてくる。無視をしてしまうのは流石に忍びなくて、足を止めて短いながらも相槌を打ってしまった。

 

 きくりさんがテンション高めに反応したのは、わたしの背中に背負われたギターケース。バンドの宣伝をするなら背負った方が格好付くだろうという理由で持ち出したもの。ひとりさんのフリをしているならともかく、わたし自身として接している状態でこれを弾けると言ってしまうのはなんだか後ろめたい。背負っているギターが、分不相応に重く感じられた。

 

「いいねー。私もバンドやってるんだー、インディーズだけどね」

 

「そう、なんですね」

 

 聞き流せばいいのに、あんまりにもきくりさんが楽しげに喋るからつい振り返ってしまう。たまたま声をかけてしまった行き倒れの酔っ払いお姉さんは、どうにもひとりさんと同業者であるバンドマンらしい。喜多さんの時にもつくづく思ったけど、世間というものは存外狭く作られているらしい。

 

『ひっ、お、大人のバンドマン……もう一人の私、早く逃げないと!?』

 

『え、なんでですか?』

 

『だって私洋楽とかろくに聞かないし……ロック舐めんなってギター壊されちゃう!?』

 

『ひとりさんの中でどんな存在なんですか、大人のバンドマンは……』

 

 ひとりさんの思う大人のバンドマンがあまりにも危険人物過ぎる。多分だけど、お父さんの語るおかしなバンドマン像に多大な影響を受けているに違いない。

 

 世の中の大人バンドマンが実際どうかは知らないが、目の前のきくりさんにおいてそれは杞憂だろう。確かに変で傍迷惑な人なのに間違いはないが、不思議と悪い人ではないような気がするのだ。これだけ酔っているのに、攻撃的な台詞が一つも出てこないのもそう思う一因だろうか。

 

「私はベース弾いてるんだー。お酒とベースは私の命より大事なものだから、毎日肌身離さず持ってるの」

 

「はぁ。それで、その大切なベースはどちらに?」

 

「……忘れた」

 

「……なんて?」

 

「居酒屋に忘れてきちゃった」

 

 一つも気にした様子もなく発されたその言葉に、自分の聴覚ときくりさんの正気を疑う。だってそうだろう、楽器といえばバンドマンの武器であり右腕である代物だ。毎日欠かさずメンテナンスを行うひとりさんの様子からその大切さは伝わるし、本人も命より大切だと言い切っている。その命より大切な代物をどうして居酒屋なんかに忘れてしまうのか、一ミリも理解できなかった。

 

「わ、忘れたって……何処の居酒屋ですか!?」

 

「んー適当に立ち寄っただけのトコだったしなぁ……覚えてないかも」

 

 空いた口が塞がらないとはまさしくこのことだろう。そんな体たらくで一体どうやって自分のベースを取り戻すつもりなのか。そもそも今こうして呑気に酒なんて飲んでいる場合なのか。もっと切羽詰まって焦るべきじゃないのか。呆れやら焦りやら怒りやら、そしてわたしのお節介な心がとうとう限界を迎えていた。

 

「ああもう……ほんとにもう!!きくりさん、今すぐ!今すぐに探しに行きますよ!!」

 

「え、ちょ、ちょっとひとりちゃーん!?」

 

 あまりのどうしようもなさに打ちのめされてか、わたしはきくりさんの手を引いていつの間にか駆け出していた。こんな人を放っておいてはいけない。そんなひとりさん以外に向けてはいけない使命感に駆られてしまったのだ。

 

 あとから振り返ればどうしようもなく愚かな行為でしかないけれど、きくりさんの手を引いているこの瞬間だけは、わたしの鬱屈とした気持ちやしがらみは忘れられていて。ひとりさんが語ってくれたような、困っている人を放っておかないヒーローのような気分であれた気がした。

 

 

 ◇

 

 

「大将、ありがとねー!」

 

「もう忘れるなよー!あと、お嬢ちゃんに迷惑をかけるのもほどほどになー」

 

「ほんっっっっとうに、ありがとうございました!!!」

 

 朗らかで気前の良い店主に見守られながら、居酒屋を後にする。最後に万感の想いを込めて、深々と頭を下げてお礼の言葉を残す。今日何度頭を下げた相手かわからないが、やり過ぎということはない。何度頭を下げたって感謝しきれないお人だろう。

 

 きくりさんのベースは無事に見つかった。本当に店の名前も場所も覚えてなかったきくりさんから断片的な情報を聞き出し、時には道行く人に尋ねながらなんとか辿り着いた目的の居酒屋。そこの店主が、しっかりときくりさんの忘れたベースを保管してくれていたのである。

 

 わたしはそれを、決して当たり前のことだとは思わない。楽器は少なからず高級品だ。もしこの居酒屋のお客さんや店主が不埒な考えを抱いていたら、持ち去られていた可能性だって十分にあるのだ。そんな状況下でしっかりとベースを保管し、まだ開店時間ではないにも拘わらず嫌な顔一つせずわたし達に対応してくれた店主の善意には、本当に感謝してもしきれない。

 

『見つかって良かったね……ほんとうに』

 

『今日ほど、世界の優しさに感謝したことはないかもしれません』

 

『めちゃくちゃ頭下げてたもんね、もう一人の私……』

 

 ベース探索の疲労から、道端のベンチに二人して腰を落ち着ける。世界の優しさとこの喜びを分かち合ってくれるのは、ベースを忘れた本人ではなくひとりさんだった。なんてわたしの心に寄り添ってくれるのだろう、やはりわたしにはひとりさんしかいない。

 

「見て見てひとりちゃん。じゃーん、私のマイベース!スーパーウルトラ酒呑童子EX〜!カッコいいでしょ?」

 

「……ですね、カッコいいですよ」

 

 当の本人はご機嫌な様子でわたしに自分のベースを見せびらかしていた。ここまで清々しい態度だと、小言を言う気力すら失せてくるのだから、大したものだと思う。めちゃくちゃなのに、不思議と憎めないような不思議な人柄。ベースがしっかりと保管されていたのも、この人柄の賜物なのかもしれない。そんなことを思ったりしていた。

 

 しかし、本当にわたしは何をしているのだろう。空を見上げると空はすっかり夕暮れ時を迎えている。目的を達成して頭が冷えてくると、急速にとてつもない後悔が襲ってきた。

 

『本当にごめんなさい。ひとりさんの貴重な時間をこんなにも無駄に消費してしまって……』

 

『あ、謝らないで。それに、もう一人の私の時間は……無駄なんかじゃない、と思う』

 

 ひとりさんはフォローしてくれるけど、この時間を無駄と呼ばずして何と呼べるのか。同じ時間があれば、ひとりさんは結束バンドのみんなとの自主練に参加できていた。大切な人達との思い出を重ねることが、できていたのに。自分の浅はかな行動の結果を、まざまざと見せつけられているようだった。

 

『私に確認したり、謝ったりしなくていい……もう一人の私も好きなように時間を過ごして欲しいって、思ってるから』

 

 ひとりさんはどこまでも優しい。でも、その言葉をわたしが素直に受け取ってしまったらどうなる。わたしが仮に好き勝手に友達を作って、自分だけの趣味を持ってそれらに時間を費やしてしまったら。ひとりさんの演奏技術を支えている、たくさんのギター練習の時間。結束バンドのみんなと笑い合うかけがえのない時間が、消え去ってしまう。

 

 どんな言葉と優しさを重ねたって、一人が使える時間の総量が変わることはない。だからわたしが、ひとりさんに甘える訳にはいかなかった。

 

『ダメですよ。時間は誰にも、等しく流れるものなんですから』

 

『ううん、だからこそ。みんなと同じじゃなくたって、もう一人の私とだけは……対等でありたいんだ』

 

 もうわたしの返すべき言葉は見つからなかった。ひとりさんらしい、とても素敵な考え方だと思う。でもわたしには、とても頷けない。わたしが細やかな喜びを感じる時間と、ひとりさんが過ごす音楽と誰かとの彩りに溢れた時間。両方を比べた時に、どちらに価値があるかなんて言うまでもないと思ってしまうから。

 

 それを直接口にしたとしたら、ひとりさんは『そんなの比べることじゃないよ』と、きっと言ってくれるのだろう。だからこそこの話は並行線でしかなく、これ以上は口を噤むべきだった。

 

「ね、ひとりちゃん。何か悩みとかあるでしょ?」

 

「なんですか急に」

 

「思い詰めた顔してたからさ、わかるよ〜。私もひとりちゃんくらいの頃は悩み事がたくさんあったなぁ」

 

 また脈絡もなくきくりさんから話題を振られ、そちらに意識を集中する。目下一番わたしを悩ませている人物から言われるのは少し癪に触るが、わたしの悩み事は日々増え続けているのも事実なので、強く否定することができなかった。

 

「良かったら、お姉さんに話してみなよ〜。バシッと解決してしんぜよう!」

 

「……そう言われましても」

 

 またパック酒を丸ごと一本飲み干しながらそんなことを言うきくりさんからは、一つの頼り甲斐も感じられなかった。果たして、この人に相談して解決するような悩み事が世の中にどれほどあるというのか。それを抜きにしたって、わたしは人様に聞かせられるような悩み事はまったく持ち合わせていない。

 

 しかし、何もないと嘘をついたところでいとも容易く見破られそうなのが、この人の厄介そうな所だった。

 

「実はですね――」

 

 仕方がなく、わたしはきくりさんに悩み事を相談することにした。もちろん、わたし個人の後ろ暗く解決しようもない問題についてではない。バンドのチケットノルマを捌けていないという、表向きのひとりさんが抱えている問題についてだ。

 

 これならひとりさんに聞かれても何も問題はないし、現役バンドマンらしいきくりさんから何か有益なアドバイスが聞ける可能性もある。まさに一石二鳥と言えるだろう。

 

「ふぅん、なるほどねぇ」

 

 一通り事情を喋り終えると、きくりさんはわたしの表情を窺うようにじっと見つめてくる。そんな風にされると、わたしの狡い誤魔化しなんて見透かされているように感じられて、思わずたじろいでしまう。

 

「うぅ、そっかそっか。ひとりちゃんは悲劇の少女だったのか……チケット売るの大変だよね、私も最初の頃はすごく苦しんだなぁ」

 

『す、凄い同情してくれてる……』

 

『チケットノルマの悩みは、どのバンドでも共通事項なのかもしれませんね』

 

 わたしの不安を余所に、きくりさんは涙ぐみながらひとりさんの抱える事情にいたく同情してくれているみたいだった。同じバンドマンとして、その苦しみに共感する部分が少なからずあるのだろう。

 

 きくりさんならチケットノルマくらいノリと勢いだけで何とかしてしまいそうにも見えてしまうが、やはりどのバンドも駆け出しの時期は苦労するものなのかもしれない。

 

「よーし、じゃあ命の恩人のために私が一肌脱いであげよう」

 

「命の恩人は言い過ぎなような……あの、何してるんです?」

 

 ためになるアドバイスでもくれるのかと思えば、きくりさんは立ち上がり徐に上着を脱ぎ始めた。その行動の意図が一切読めず、非常に嫌な予感がして恐る恐る問いかける。

 

「何って……ひとりちゃんと私で今から路上ライブをするんだから、その準備だよ。ほら、ひとりちゃんも準備して?」

 

「……は、はい?」

 

 本日何度目になるかもわからないような理解不能の衝撃が、わたしを襲う。そこに至るまでのプロセスが一切謎なのに、確定事項かのように語るのがわたしの理解を超えすぎていて呆けてしまう。

 

 いけない、きくりさんのペースに飲み込まれて流されるな。これはもう既にわたし一人だけの問題ではなくなっているのだから。

 

「路上ライブって、どうしていきなりそんな話になるんですか!?」

 

「チケット売りたいんでしょ?じゃあビラもあるんだし、路上ライブで客呼んでチケット買って貰うのが一番いいって……今日はこの辺でお祭りやるっぽくて、人通りも多いしさ」

 

「一理ありますけど……急にそんなことを言われても困ります」

 

 きくりさんの提案自体は、とても理に適っていると思う。ただ宣伝フライヤーを配るよりは、路上ライブで実際に演奏を見せた方が何倍もチケットは売れやすくなるに決まっている。個人的にはとてもいい案だとも思う。でもそれは、わたしがギターを弾けるならの話だ。

 

 路上ライブをやるのならば、ギターの弾けるひとりさんに代わってもらうしかない。それは準備も覚悟も出来ていない状態で、ひとりさんを大勢の衆目の前に引っ張り上げる行為に他ならない。わたしの勝手な都合で、ひとりさんにそんな負担を押し付ける訳にはいかなかった。

 

「そもそも、アンプ一つもなしに路上ライブなんてできないでしょう?」

 

「あー、それもそっか……もしも〜し、私。……生きてまーす!今から路上ライブするんだけど機材持ってきてくれない?」

 

「ちょ、きくりさんわたしの話を――」

 

『あ、あの、もう一人の私!!』

 

 機材がないから物理的に路上ライブなんてできやしない。そう理詰めで説得しようとするも、あろうことかきくりさんはバンドメンバーらしき知り合いに電話をかけて、機材の要請をしてしまう。着々と路上ライブの準備が進められていることに焦りを感じ、きくりさんに声を荒げそうになったところで、ひとりさんに呼び止められる。

 

 その心の内からの声があまりに力強いものだったから、電話を続けるきくりさんから意識を離して、ひとりさんに集中してしまう。

 

『ど、どうしましたひとりさん?……路上ライブの件でしたら、心配しないでください。わたしが責任を持って止めますから』

 

『ち、違うの、そうじゃなくて……むしろ、逆、というか』

 

『逆?』

 

『お姉さんとの路上ライブ……止めないでいいよって、言いたくて』

 

 今度はきくりさんではなく、ひとりさんから衝撃の言葉を告げられて呆然としてしまう。どうしてだ、どうしてひとりさんの口からもきくりさんと同じ結論が出てきてしまう。ひとりさんはその意味を、本当に正しく理解しているのだろうか。

 

『よくは、ないでしょう。ひとりさんが路上ライブをする羽目になるんですよ?』

 

『うん、わかってる……正直やりたくないし、すごく怖い。でも、私がやらなきゃいけないことだって、思うんだ』

 

 ひとりさんは全て分かっていた。これから自分が背負い込む苦労をしっかりと理解した上で、逃げずに真っ向から立ち向かおうとしている。わたしのよく知っている、逃げることを第一に考えていたひとりさんの姿はもうそこになくて。わたしの知らない、強い意志を持ったひとりさんだけがわたしの心の内に立っている。

 

 何もかも変わって行く。わたしにとって誰より近い存在であるひとりさんすら変わって行き、わたしを置き去りにして行ってしまう。

 

『どうして、そう思うのでしょうか?』

 

『お客さんは大切なお金と時間を使わなきゃいけないんだって、もう一人の私は言ってたよね?』

 

『ええ、言いましたね』

 

『ならやっぱり、もう一人の私の後ろに隠れてるだけじゃなくて、私も何かするべきだと思ったんだ……もう一人の私と違って、器用じゃないから。ギターしか弾けないけど……でも、ギターなら、弾けるから』

 

 自分のライブに来てもらうのだから、自分が表立って勧誘すべき。とても立派な考えだ。ひとりさんはわたしの何気ない発言すらもじっくりと吟味して、意識の裏でずっと自分のやるべきことを探していたのだろう。そして見つけたやるべき事が困難でも、目を背けずに立ち向かおうとしている。わたしはそのひとりさんの選択を、とても誇らしいと思う。

 

 でもそれと同じくらい、わたしのほの暗い感情がとめどなく溢れ出るような感覚も覚えるのだ。『わたしはもう、ひとりさんには必要ないのでしょうか』なんて。

 

『ひとりさん』

 

『どうしたの、もう一人の私?』

 

 愛しい人の名前を呼んで、その情けない感情に蓋をする。大丈夫、まだ自制できる。大切な人の足を引っ張るような化け物にはならずに済んでいる。どうかこの我慢が効かなくなる前に、わたしの終わりが訪れて欲しいと切に願っている。

 

『たくさん、とは言えないかもしれませんが。きっと少なくない人がひとりさん達の演奏に注目するでしょう』

 

『うん』

 

『格好だって、いつもとは違います。他人からの視線をいつもよりも浴びるかもしれません』

 

『うん』

 

『きくりさんも、少なからずわたしのイメージを持ちながらひとりさんの演奏を見るでしょう……それでも、やるんですね?』

 

『うん。それでも……なんとか、やってみる』

 

 揺さぶりをかけても、脅しのような言葉をかけたってひとりさんは揺らがなかった。今日のこの状況は、中学の学校祭の件に少しだけ似ている。ひとりさんが大きく傷付いたあの時のような状況に、飛び込んで欲しくない気持ちは確かにある。どうか止めて欲しいと、今だって喉は叫びたがっている。

 

 それでも、わたしはひとりさんの選択を肯定し続ける。最初の誓い、ひとりさんのためのヒーローであり続けると証明するように。きっとヒーローは、必死に何かに立ち向かおうとしてる誰かがいるとしたら、そっと背中を押してあげるものだろうから。

 

『わかりました。でも、忘れないでください。辛かったり、苦しかったりしたら……いつでもわたしを頼っていいんですからね』

 

『ありがとう、もう一人の私』

 

 最後にくどいばかりの念押しをしながら、意識の裏に引っ込んでひとりさんに身体を返す。最後の言葉は果たして、ひとりさんに向けた言葉になれていただろうか。自分はまだひとりさんにとって必要な存在だと言い聞かせている、虚しい言葉に成りかけているやもしれない。

 

「ひとりちゃーん!機材持ってきてくれるって〜」

 

「ひっ!?あっ、え、その、は、はいぃ……」

 

「えっ、どったのひとりちゃん。大丈夫??」

 

 電話を終えたきくりさんが戻ってきて、当たり前だがわたしと話していた距離感のままひとりさんに接する。きくりさんと直接対面するのはやはりハードルが高いのか、ひとりさんの狼狽えようは酷い。それに前髪で目を隠していないせいで、目が泳ぎまくっているのも丸分かりだ。さしものきくりさんもその異常にはすぐに気付き、不審がっている。

 

「あっあの……よ、よろしくお願いします!!」

 

 しかし、ひとりさんは俯くことも目を背けることもしなかった。散々百面相を披露した後ではあるけれど、最後にはきくりさんにしっかりと目を合わせ挨拶をしていた。あんなにも自分の表情が覗かれてしまうことを嫌がっていたひとりさんがそうして見せたことに、わたしまでもが驚かされてしまう。

 

「へぇ……良い眼をしてるね」

 

「え?」

 

「これは、私のお節介なアドバイスなんていらなさそうだ!」

 

 その表情を間近で見ているきくりさんは一瞬目を見開いたかと思えば、何故か満足そうな笑みを浮かべ、一人だけで勝手に謎の納得感を得ているようだった。

 

 きくりさんがひとりさんから何を感じ取ったのかはさっぱりわからないが、とても素晴らしい表情をしていたのであろうことは想像に難くない。それをわたしは見られなかった事が、当たり前なのにどうしてか悔しかった。

 

 

 ◇

 

 

「皆さん、今回は私達の路上ライブに足を停めてくれてありがとうございまーす!」

 

 程なくして、路上ライブの準備は呆気なく整ってしまった。道端の一角を許可もなく陣取り、楽器はアンプに繋げて準備万端。道行く人々、脚を止めてくれるごく一部の人達。そんな衆目を一身に浴びて身体を縮こまらせながらも、ひとりさんは正面を向いて立っている。

 

 きくりさんのよく通る朗らかな呼び声のお陰か、はたまた祭りの陽気のお陰なのか。見にきてくれているお客さんの数はそれなりだ。ざっと数えてみた感じても十人以上は、この路上ライブに興味を向けている。

 

「それじゃ、始めますねー!曲はこの子のバンド、結束バンドのオリジナル曲でーす!ぱちぱちぱち〜」

 

「結束バンドの後藤ひとり……です。曲名は、あのバンドって、いいます」

 

 極度の緊張下にあるひとりさんへの配慮もなく、きくりさんは無慈悲に路上ライブ開始の宣言をする。そんな中で、ひとりさんが誰に促されるでもなく自己紹介と曲の紹介をしたことに、ただ驚かされる。拙くても、下手くそでも、今はいない結束バンドのメンバーに代わってMCの真似を努めようとしている。その頑張りに、胸が打たれる想いでいっぱいになる。

 

 ひとりさんのちょうど正面に立っている、大学生であろう浴衣の女性の二人組。その人達がひとりさんの紹介に小さく拍手をしてくれて、そのさり気ない暖かさが印象に残った。

 

『もし、もう一人の私がライブに出るとしたら……どんなことを考えて、ステージに立つ?』

 

『わたしだったらですか?』

 

 ひとりさんから唐突に投げかけられた質問に、必死に頭を働かせる。質問の意図はわからないけれど、この土壇場でわたしに聞くのだからきっと大事なことなのだろう。間も無く演奏は開始される、じっくりと考えている暇はない。

 

 ふと目に付いたのは、先程の浴衣姿の二人組。きっと仲良し二人組で、お祭りを楽しもうとこうして足を運んできたのだろう。素晴らしい青春の一ページだ。わたしもひとりさんとそんな風に遊んでみたかったと、羨ましくなってしまうほどに。

 

 楽器を弾けない身なりに、想像する。もしわたしがバンドの一員だとしたら、自分達の演奏を聞くために訪れてくれた人達。そんな人達の青春に彩りを添えられるような存在でいたいと、そう思うのかもしれない。青春コンプレックスを抱えているわたしが語るには、烏滸がましいかもしれないけど。

 

『自分達のライブを聴いてくれる人達……そんな人達が、良い一日だったって思えるような演奏がしたい。そう、願うのかもしれません』

 

『……そっか、ありがとう。もう一人の私らしいね』

 

 こんな答えでよかったのだろうか。何かの参考になりはしたのだろうか、ひとりさんの返事からは窺い知れない。願わくば、ひとりさんの心構えの一助になれればと思う。

 

「よし、やろう!ひとりちゃん」

 

「は、はい!」

 

 カウントではなく、きくりさんの雑な合図によって演奏は開始される。ボーカルは不在なので当然インスト、二つの楽器の音だけが嫌でも目立つ。そんな合奏の中でまず鮮烈な印象を受けたのは、きくりさんのベースの音だった。

 

 きくりさんにとっても、見ず知らずのギターと即興で組んでいる特異な状況。そのはずなのに、音に全く迷いが見受けられない。あっちへこっちへとふらふらかっ飛んでいくひとりさんのギターを、受け止めて確実に支えてくれている。

 

 堂に入っている、自信に満ち溢れた演奏。虹夏さんの語ってくれた、音楽を楽しむという要素を体現するかのような鮮烈な弾き方だった。インディーズだと本人は言っていたけれど、技術ならプロと比べたって遜色ない。素人目でもそう思わされてしまう。ひとりさんは間違いなく今、凄い人と組んでいる。

 

 対するひとりさんの演奏は、悪い意味で予想通りだった。初めてのライブを完全に焼き直すかのような、不安定なギター。身体を緊張で強張らせて、目を瞑ったまま弦を爪弾いている。不安で、怖がりながら演奏をしている事が音からもありありと感じ取れてしまう。

 

 きくりさんと並んでも全く見劣りしないであろう、ギターヒーローの姿はもちろんそこにはない。不安と恐怖を抑えながら、もがき続けるようなひとりさんのギターは、きくりさんの演奏に支えられることによってようやく形を保っている。

 

 でも、これは凄い事だ。突如発生した、見知らぬバンドマンとの即興路上ライブ。途方もない覚悟と勇気がいるこの状況下の中で、ひとりさんは自分の足で立ち、その腕で止まる事なくギターを奏でている。これ以上を、望むべくもないだろう。この経験はきっと、ひとりさんの今後のバンド活動の糧となって行くはずだ。

 

『昔から、みんなの前で何かをするのが怖かった』

 

 オーディションの日のように、ひとりさんの独白がわたしの脳裏へと響いてくる。何も力にはなれない代わりに、せめてひとりさんの覚悟だけは聞き逃さないように。聞き入ることに集中する。

 

『誰かに笑われたり、失望されたらと思うと……怖くて、逃げ出したくて仕方がなかった』

 

 それは、ひとりさんの根底にある恐怖といってもいい。その感情がきっかけとして、わたしという存在が生まれた。そうしなくては自分を保てないほどのストレスを感じてしまう恐ろしさ。そんなものに、ひとりさんはどうして立ち向かえてしまうのだろう。

 

『もう一人の私が来てくれてからは、もっと怖くなった……もう一人の私への期待を裏切ってしまったらと思うと、何よりも怖かった』

 

 これはわたしの罪といえるだろう。考えなしにひとりさんの身体を使って、ひとりさんに余計な重荷をいくつも背負わせてしまった。そのせいで最終的に、ひとりさんを大きく傷付けたこともある。だからわたしは決めたんだ、誰かと不必要に交流するのは止めようって。

 

 我ながら、正しい判断をできたと思うのだ。わたしが必要以上にでしゃばらなかったことで、ひとりさんは素敵な仲間を見つけて、今ではこんな遠い場所に自分の力だけで立っている。そして、ひとりさんが本当に自分一人で生きられるようになったのならば、わたしの抱える時間だって全てひとりさんに返されるべきだった。

 

 だからそう、認めて納得しなくちゃいけない。わたしがやがて居なくなることは自然なことで、どこまで行っても正しい――

 

「がんばれーっ!」

 

 ギターとベースの音でもなく、ひとりさんの独白でもない。まったく異なる声が響き渡り、そちらへとわたしの意識も引っ張られる。ひとりさんも驚いたように、瞑っていた目を見開いていた。

 

「ちょっとあんた、何言ってんの?」

 

「なんかギターの人辛そうだったから、つい……」

 

「ついって……」

 

 声の出所はまた、正面の浴衣姿の女性達。彼女達からもわかってしまうほどに、ひとりさんの表情は悲痛なものらしい。そんな姿を見ても彼女達は呆れることもなく、笑うことすらない。ただ純粋な激励の言葉だけを送ってくれている。きっと、優しい人達なのだろう。

 

 そんな彼女達の声援に応えたい、報いてあげたい。場違いな使命感すらも、抱いてしまう。

 

『でも、違う……本当に怖いことがあるとするなら――』

 

 意味のない感傷のはずだった。誰かの声援に応えたいなんてわたしの感情は無意味で、それをひとりさんに背負わせるわけにもいかなくて。既にいっぱいいっぱいの筈なひとりさんに応える術があるはずもない。

 

 なのに、わたしの気持ちに応えるかのように、ひとりさんのギターの音が変わっていく。

 

『私が怖がったせいで、もう一人の私が居場所を失ってしまうこと……笑えていた筈の誰かの側で、笑えなくなることだ』

 

 ひとりさんはいったい、なんの話をしている。チケットノルマのため、自分達結束バンドのためにこうしてステージの上に立っているんじゃなかったのか。どうしてそこで、ライブに関係のないわたしが出て来てしまう。

 

 わたしときくりさんが過ごした僅かな時間を肯定するため。そんな馬鹿げた理由で、ひとりさんがこんな苦難に立ち向かっているなんてあり得てはいけないのに。

 

『もう一人の私の時間と居場所を大切にしたい……ううん、大切にできるんだって。私はもう、証明しないと』

 

 あり得ないと断じたはずの結論を、ひとりさんの独白は次々と後押ししていってしまう。何故、どうして。次々と降って湧くわたしの疑問を置き去りにしながら、ひとりさんの演奏は次々と正確さを取り戻していく。

 

 迷いを帯びていたコード進行は、緻密かつ正確に。弦を爪弾くそのストロークは、響き渡るように力強く。縮こまり、恐れをなしていた感情表現はどこまでも大胆に。ボロボロだったひとりさんのギターが、着実にあるべき形を成していく。

 

『胸を張れ、顔を上げろ、背筋を伸ばせ、お客さんから目を逸らすな……もう、怖がらない。音を楽しんで、お客さんを楽しませることだけを考えろ』

 

 ひとりさんから視える景色が、ガラリと変わる。その目に写すのは、瞼の裏ではなくお客さんの表情。前髪がその視界を遮ることはなく、俯いてその視界を傾けることもない。わたしが普段見ている世界と同じ姿を、ギターを携えたひとりさんの奥から覗き見る初めての光景。新鮮で奇妙な筈なのに、どうしてか不思議なくらい、しっくりときてしまう。

 

『私の信じる、誰よりもカッコいいヒーローのように!!』

 

 そして音が、世界が完全に切り替わった。もうきくりさんのベースに寄りかかるだけのギターは、何処にもいない。自分が主役だと高らかに主張するかのように、ひとりさんの音は爛々とその存在感を放っている。それでいて、きくりさんのベースを置き去りにするようなことはなく、一歩先を先導するかのように正確で。きくりさんも完璧にそれに追従してみせるものだから、先程までとは段違いの演奏が展開されている。

 

 お客さんにも、それがわかるのだろう。もう不安げにひとりさんを見るようなお客さんは一人も居ない。足を止めてくれる人は皆このライブに釘付けになって、夢中で演奏に耳を傾けていた。

 

 しかし、このライブに一番魅入られているのはわたしなのかもしれない。わたしはひとりさんのこんな姿を、このような演奏を知らない。結束バンドのリードギターとしてどころか、ギターヒーローと比べても遠くかけ離れた演奏を、今のひとりさんはしている。

 

 雷鳴を地面に打ち据える如く、私の音を聞けと叩きつけるようなギターヒーローの演奏とは、似ても似つかないギター。その対局にあるかのような、繊細で聞き手に委ねる優しさを纏った旋律。遠い遥か彼方へと、届けと祈りを捧げるかのような儚くも力強い、そんなギターだった。

 

 これはいったい、誰の演奏なのだろう。ひとりさんは一体どこへ向かってしまっているのか。本来なら、そんな疎外感を感じそうなものなのに。この演奏を不思議にも、身近に感じてしまうわたしがいる。

 

 この演奏に魅入られて、ただただ沈むように没入していく。今この時間だけは、わたしの葛藤や行く末への不安は欠片もなく。この時間を一秒でも長く味わっていたいとだけ、願うことができていた。

 

「……ありがとう、ございました!」

 

 わたしの願いも虚しく、ひとりさんの会釈とともに路上ライブは呆気なく終わりの時を迎えた。立ち止まり、最後まで聴いてくれたお客さんが拍手でひとりさんの演奏を讃えている。声援を送ってくれた彼女を含めて、みんなが笑顔を浮かべてくれている。そのことをどうしてか、自分のことのように誇らしく思える。思えてしまう。

 

『じゃあ、後はお願いしてもいい……かな。もう一人の私』

 

『え、ちょ、ひとりさん?……疲れてしまいました?』

 

『そういう訳じゃないけど。でも今だけは、これでいいんだ』

 

 路上ライブ成功の喜びを分かち合うこともなく、ひとりさんから主導権を渡されてわたしの意識が表へと出る。ひとりさんが自分の手で作って見せたお客さんの笑顔、道端を陣取っただけのステージ上からでも感じ取れる心地よい空間。それを堪能することもせず、引っ込んでしまうのは勿体無いような気もする。

 

 でも、そんなわたしの懸念をあえて口にする気が失せるほどに、ひとりさんの声色は満足感と達成感に満ち足りていた。

 

「ひとりちゃん、よかったよー!!」

 

「ありがとうございます、きくりさん」

 

 サムズアップをしながら、きくりさんもひとりさんの演奏を褒めてくれていた。本来なら、わたしが表に出て受け取るべきではないひとりさんへの褒め言葉。それを受けたのにも拘わらず、驚くほど素直にお礼の言葉がわたしの口から発されていた。

 

 いつもの、消え入りたくなるような申し訳なさと後ろめたさはどうしてか感じない。熱に浮かされたような、奇妙な心地よさに未だに浸り続けている。

 

「あのー、このライブのチケット買ってもいいですか?」

 

「二枚ください!」

 

「は、はい。ありがとうございます!」

 

 わたしの作った宣伝フライヤーを手に取りながら、浴衣姿の二人組がチケットの購入を申し出てくれた。驚きはない、あれほどひとりさんが凄まじい演奏を披露してくれたのだから、きっと誰かの心を動かせたのだという確信はあった。

 

 でも、その相手が他ならぬ彼女達だったことが、なんとなく嬉しい。

 

「一枚千五百円なので……三千円になります」

 

「初めて路上ライブ見たけど、凄く格好良かったです!」

 

「次のライブも頑張ってくださいね!」

 

「……はい。次のライブも素敵な一日だったって思っていただけるように、頑張りますね」

 

 見ず知らずの人までがひとりさんの演奏する姿を褒め称えて、認めてくれている。その事実に胸がいっぱいになり、その喜びを外へ振り撒くようにわたしなんかがライブへの意気込みを語ってしまう。

 

 推奨されない行い、ひとりさんに不必要な重荷を背負わせる行為。今まではずっとそうだとばかり思い込んでいたけれど。わたしの期待は、ひとりさんがライブへ臨むための糧にもなれるんじゃないかと。今この時だけは信じられるような気がした。

 

 

 ◇

 

 

 あの後、警察からの注意を受けたことで路上ライブの場は解散となった。陽もすっかり落ち切って、街並みは祭りの街灯の明るさだけで満ちていた。

 

『……チケット、一枚だけ残っちゃったね』

 

『今は気にせず、この成果を喜びましょう。とても素晴らしいライブでしたよ、ひとりさん』

 

『う、うん。私、頑張った!』

 

 残ってしまった一枚のチケットを懐にしまい込んで、ひとりさんの健闘を褒め称える。ひとりさんの頑張りによって二枚もチケットが売れたのだ、何の憂いもなく喜んでもらいたい。それこそ、残り一枚の処遇をどうするか考えるのはわたしの役目だろう。

 

「ひとりちゃん、お疲れ様〜」

 

「きくりさん。今日は、ありがとうございました。きくりさんの協力のお陰で、チケットのノルマもなんとかなりそうです」

 

「いいのいいの。元々私がたくさん迷惑かけちゃったからさ、これはほんのお返しってことで」

 

 一緒に路上ライブを作り上げてくれたきくりさんにも、お礼を言う。紆余曲折ありすぎたきくりさんとの出会いだけど、最終的にはとても良い経験をひとりさんにさせてくれたのだ。その事実を感謝しないわけにはいかないだろう。

 

「最後の一枚、私が買うよ」

 

「え、いいんですか?」

 

 きくりさんが最後の一枚を買ってくれれば、ノルマは無事達成。願ってもない有難い話だが、いいのだろうかと躊躇もしてしまう。あれだけお酒を飲んでいるところを見ると、金銭的な事情とか色々大丈夫なのだろうかと心配だ。

 

「もちろん。私、普段新宿拠点に活動してるから近いし、このライブハウス知ってるし……ほら、千五百円」

 

「ありがとうございます……あの、STARRYの店長さんとは面識があったりするんですか?」

 

「あるよ?大学の時の先輩でさー、今でもよくお世話になってんだよね」

 

「……そう、なんですね」

 

 チケットとお金を交換しながらきくりさんの話に耳を傾けていると、STARRYを知っているという聞き捨てならない発言が飛び出ていた。追及して見ると、案の定星歌さんとは知り合いのようだった。それも単なるライブハウスの店長とバンドマンの関係ではなく、同じ大学の先輩と後輩だったというおまけ付き。本当に世間ってものは、狭くできているらしい。

 

 星歌さんの知り合いの先輩バンドマンともなれば、今後ひとりさんと関わることも少なくはないのかもしれない。今のうちにそれを知れてよかった。今後はきくりさんともひとりさんが接していくべきだろう、誰かの誤解をこれ以上広げぬように。

 

「ねぇ、ひとりちゃん」

 

「なんですか?」

 

「ギターを弾いてない時の自分に、価値なんてないって思ってたりしない?」

 

 きくりさんから告げられたあまりの内容に、反射的に持っていたお札を握り潰してしまう。どうして、とは思わなかった。やはりこういう人にはわかってしまうものなのかと、腑に落ちるような感覚さえ覚えていた。

 

 リョウさんが歌詞の書き手を見破った時と同じなんだろう。音楽に精通し、音楽にどこまでも向き合っている人だからこそ、音楽を通して感じ取れてしまう心というものがきっとあるのだ。例えばそう、わたしの浅はかな内面のように。

 

「……よくそれを本人に聞こうと思えましたね」

 

「ごめんごめん。ライブやってた時のひとりちゃんと、今のひとりちゃんを見比べてたら……どうしても、ね」

 

 悪態をついては見せるも、きくりさんがデリケートな場所に入り込んできたこと自体はそれほど気にしてはいない。きくりさんがそういう人だってことは、出会って三十分でそもそも諦めがついている。それに色々な事情を抜きにして考えれば、そういう人とのコミュニケーションが嫌いじゃないんだ、わたしは。

 

 きくりさんが指摘したことも純然たる事実だ。ひとりさんの代わりであるわたし個人に、価値なんてないと思っている。むしろ価値なんて一つも見出されてはいけない、じゃないとひとりさんに申し訳が立たないから。

 

「……」

 

 だが返すべき言葉がなく、わたしは黙りこくることしかできない。心情だけでいえばきくりさんに嘘をつきたくはない。でも、先ほど他ならぬわたしのために勇気を振り絞ったひとりさんの心情を考えれば、自分に価値がないなんて口が裂けても言うことはできなかった。

 

 だからわたしは沈黙を貫くことしかできなくて。でもきくりさんにとっては、それが何よりの答えになっているのかもしれなかった。

 

「実はね、私もそうなんだ」

 

「……どういう意味でしょうか?」

 

「そのまんまの意味だよ。音楽をやってない時の自分の人生なんてゴミだと思ってる」

 

 吐き捨てるような口調で落とされたきくりさんの言葉に、先程とは別の感情の下言葉を失ってしまう。さっきまであれほど楽しそうに、わたし達を振り回していた人の発言だとは思えない。明るくてマイペースで我が道を歩いてそうなきくりさんが、わたしと似た思いを抱いているだなんて信じがたかった。

 

「私ってさ、本当はつまんない奴なんだ。暗くて心配性で、お酒の力を借りないとステージの上にもまともに立てない臆病者」

 

「……そうは見えませんでした」

 

「だよね、だって見せないようにしてるんだもの。結局さ、ひとりちゃんが言った通りなんだよねー。私はロックに逃げるために、お酒に逃げている。コレがないと、行き場なんてどこにもないんだ」

 

 きくりさんはパック酒を手で弄びながら、なんてことの無いように語る。そこには有無を言わせぬ迫力と説得力が伴っていて、信じがたいなんて気持ちはどこかへと消え失せていた。

 

 ひとりさんときくりさんは、少しだけ似通っていた。自分の暗くて引っ込み思案な性格が世界の空気と合わなくて、生き辛さを感じている。そして二人とも、そんな生き辛さからの救済を音楽に求めたのだろう。だからきくりさんはひとりさんではないわたしを見て、音楽以外に喜びを感じてなさそうに見えてしまったのかもしれない。

 

 でもきくりさんは、どうしてわたしにそれを伝えたのだろう。傷の舐め合いを求めるようには見えない。どんな感情で、どんな心構えできくりさんの言葉に返事をせねばならないのかわからなくて。いつまで経ってもわたしは二の句を告げれずにいる。

 

「……んぐんぐっ、ぶはぁー!!!」

 

「ちょ、きくりさん!!?一気飲みは身体に毒ですって!」

 

「あはは、ごめんごめん。でも、こうでもしないと私って言えないことばっかりだしさー」

 

 なんの前触れもなしにお酒を一気飲みし始めるきくりさんに、度肝を抜かれてまた大きな声を出してしまう。でも先程の話を踏まえれば、この行為はきくりさんが理想の自分で居続けるための行為でもあるわけで。軽率に止めてはいけないのかもと、思ってしまう。

 

「私っていつもこんなんだからさー、飲み過ぎても誰も気にしてくれないんだよね〜。昨日だって打ち上げの後、バンドメンバーに見捨てられちゃったし。まぁ自業自得なんだけど!」

 

「……一体何の話ですか」

 

 いきなり凄い方向に脱線した話題に、少しだけ気が抜けてようやくまともな返事を返すことができた。飲み過ぎで動けなくなり、それに呆れたバンドメンバーがきくりさんを置き去りにするのは、残念ながら容易に想像できてしまった。

 

「だから、ひとりちゃんが優しくしてくれて嬉しかったよって話。真剣に体調まで心配して、叱ってくれてさ……そんなのいつ振りだっけかなぁ」

 

「最初にも言いましたけど、ただの成り行きですから」

 

 きくりさんからの感謝の言葉に、居心地が悪くなる。きくりさんを助けたのなんて本当にたまたまだ。むしろ、何度も何度も見捨てた方がいいんじゃないかって頭を過ったくらいなのに。結束バンドのだらしなくて放っておけない人の顔を思い出さなければ、実際にそうしていたはずだ。

 

「あとさ、ベース取りに行く時もダメダメな私の代わりに、大将にめちゃくちゃ頭下げてくれてたじゃん?……あれもすっごい嬉しかったなぁ。普通さ、他人のためにあそこまでできないって!」

 

「……いえ、きくりさん。わたしは」

 

 居心地の悪さはどんどん加速していく。きくりさんからの褒め言葉は全て、わたしなんかが受け取る資格があるとは思えなかった。わたしがきくりさんに見せた優しさは、全部利己的なものだ。ただ誰かの頼りになっている自分を、ひとりさんに見せたかっただけ。そうして悦に入っていただけの行為。

 

 そんな言葉をかけて貰えるほど、価値のある人間じゃない。そのような言葉ばかりが、わたしの口をついてでそうになる

 

「つまり何が言いたいかっていうと。今日出会ったばかりの私でも、ひとりちゃんの素敵な部分をいっぱい見つけられた……誰かのために一生懸命になれる自分。そんな自分を、ひとりちゃんはもう少しだけ認めてあげてもいいんじゃないかな?」

 

 口から出かかっていた言葉は、喉の奥底へと引っ込んだ。お酒で真っ赤になった顔で、たくさんの優しさを投げかけてくれるきくりさん。大量のお酒の力を借りないと残せなかっただろう言葉に、わたしのこんな台詞じゃ不誠実だから。

 

 ここにきてようやく、思い知った。きくりさんはわたしを励まそうとしてくれているのだろう。自分には価値がないと、俯いているように見えたわたしを元気づけるためだけに、ここまで言葉を尽くしてくれた。

 

「これは先輩バンドマンからのアドバイス……ひとりちゃんは、音楽をやる自分に酔っているだけの私みたいには、なって欲しくないからさ」

 

 少なからず、きくりさんは自分の歩んできた人生に後悔する部分があるのかもしれない。そういうところだけは、少しだけわたしにも似ているような気がする。

 

 そんな自分の内面を吐露するのは、抵抗があっただろう。素面ではとても言えなかった言葉であることも、理解できてしまっている。それを助けてくれたわたしへのお礼なんかにやってしまうのだから、きくりさん自身も優しい人に違いなかった。たくさん、優しい人に巡り会う。世界はわたしが思うより綺麗なのか、それともこれがひとりさんの人徳なのだろうか。

 

 勿体無い言葉だ。ここまで言われても、自分には価値がないと揺らぐことすらできないわたしには。本当に、勿体無い言葉だ。

 

 生き方は、変えられない。でもわたしはどうしても、きくりさんの気持ちに報いてあげたかった。きくりさんの尽くしてくれた善を、無意味なものには仕立てたくなかった。こんなわたしにも変えられる部分はあるだろうか。わたしのような存在が変わることが、果たして許されるのだろうか。

 

 変わっていい部分もきっとある。今のひとりさんならそう思って良いのだと、信じてみようか。

 

「生き方は、変えられないと思います……でも、そう言っていただけて凄く嬉しいんです。これだけは、本当なんです」

 

「うん」

 

 表面上では何一つたりとも変わってなさそうな、わたしの拙い言葉。それに対してきくりさんは、笑顔でとても満足そうに頷いてくれた。

 

 今まで、たくさんの素敵な人に出会ってきた。わたしの家族、虹夏さん達結束バンドのメンバーに、STARRYの人達。そして今日出会ったきくりさん。そんな人達と、ひとりさんの代わりにわたしが過ごした時間も確かに存在していて。今までは多くのその時間に後ろめたさを抱えて、後悔し続けていた。

 

 後ろめたいのも後悔するのも、みんなと過ごした時間が素晴らしいものだと思ったからだ。彼女達の優しさと善意に応えられていた自信は今でもないけど、きくりさんのように信じてくれる人もいる。だったらもう、後悔するのはやめよう。

 

 みんなとの出会い、過ごした刹那の時間。そのどれもがキラキラと輝いていて、かけがえのない時間だったと認めよう。その僅かだけは自分を赦してあげようと、心から思えたのだ。

 

「ひとりちゃんが何に悩んでいるのかはわからないけど……きっと大丈夫」

 

「え?」

 

「理由も根拠もないけど、答えはもうひとりちゃんの中にあるんだって信じてみてよ……大丈夫、私の勘は当たるんだ」

 

「勘なら、しょうがないですね」

 

 どうにもならない問題だ。きくりさん以外に言われたら、勝手なことを言うなと少しむっとしてしまうかもしれない台詞なのに、この人が言うと本当にそんなこともあるんじゃないかという気がしてしまう。

 

 勘なら仕方がない、わたしの心の楽観的な部分でだけ信じて見ようと思う。

 

「じゃ、またねひとりちゃん。ばいば〜い」

 

「さようならです、きくりさん。また、お会いしましょう」

 

 またねの言葉も、今日は自然と喉を通り抜けてくれた。明るい気持ちで誰かと別れるのなんて、いつ振りのことだろう。今日一日の感謝を示すように、駅へと遠くなっていくきくりさんの後ろ姿にたっぷりと頭を下げた。

 

『ひとりさん……バンドマンって、カッコいいですね』

 

『うん。私も大人になったら……あんな風にカッコよくなれるかな?』

 

『なれますとも。ひとりさんなら、きっと』

 

 駅の中へと消えていったきくりさんの姿を見届けて、その余韻に浸る。ロックな生き様とは、ああいう生き様のことを言うのだろう。だらしなくダメダメな部分もあったけれど、掛け値なしに格好良い姿だったと少しだけ憧れてしまう。

 

 ひとりさんもきっとなれるだろう。あんな風に、音楽と生き様で誰かを勇気付けてあげられる存在に。

 

『も、もう一人の私』

 

『……ん。どうしました、ひとりさん』

 

『お姉さん、何か戻ってきてるみたいだけど……』

 

『ホントですね。忘れ物でしょうか?』

 

 ひとりさんに言われ視界に集中すると、確かに大慌てできくりさんがこちらへと戻ってきていた。忘れ物だろうかと周囲を見渡しても、上着やアンプなどの機材は一つ残らず回収されていて、思わず首を傾げてしまう。

 

 そうこうしている間に、息を荒げたきくりさんが目の前へと舞い戻っていた。

 

「チケット買ったらお金なくなっちゃった……ひとりちゃん、電車賃貸して〜!!」

 

「は!!?」

 

 なんとも情けない顔でこちらを拝み倒すきくりさんに、到底ひとりさんの身体で出してはいけない声を発してしまう。でも許してほしいというか、これはわたしが悪いわけではないと思うのだ。

 

 あまりにも既視感のありすぎるやり取り。もしかするとベーシストとは、格好良い一面を見せた瞬間に自分で台無しにしないと気が済まない人種なのだろうか。わたしの先程までの余韻と感動を返してほしいと、叫び出したかった。

 

『ひとりさんは絶対に、こんな風になっちゃダメですからね!!』

 

『き、気を付けるね……』

 

 お金のないバンドマンへの嘆きが、心の内にいるひとりさんだけに響き渡っていた。

 

 

 ☆

 

 

「ひとりちゃんからロインきました!『協力のお陰もあり、無事にチケット売れました。明日から練習にも参加します』ですって!」

 

「よかった〜。ぼっちちゃん、あれで人見知りするタイプだし心配だったんだよー……」

 

「私は心配してなかった」

 

「リョウってば本当に一ミリも心配してなかったよね。はぁ、リョウのぼっちちゃんへの信頼感はどこから来るんだか」

 

「これで、明日からみんな揃って練習できますね!」

 

「うんうん。……でも、この協力っていったいなんのことなんだろ?」

 

「ひとりちゃんがよく話してくれる、憧れの人に手伝って貰ったんじゃないでしょうか?困った時はいつも助けてくれるんだって、言ってましたし」

 

「あー、そうかも!……それじゃ今頃、二人で仲良くギターでも弾いてるのかもしれないね」

 

「……え?」

 

「喜多ちゃん、あたし何か変なこと言っちゃったかな?」

 

「い、いえ、そういう訳じゃないんですけど!……でも、ひとりちゃんの憧れの人ってギターは弾けないですよね?」

 

「えっ、いや、そんなはずないよ。だってぼっちちゃん、その人のギターが大好きだって。歓迎会の時に熱く語ってたし……」

 

「でも、ギターを弾けないその人をたくさん練習に付き合わせてしまったって、ひとりちゃん言ってました……あれが嘘だとは、私思えません」

 

「……どういうこと?」

 

「どっちも、嘘じゃないんだ」

 

「リョウ?」

 

「ぼっちには……ひとりには。ギターを聴いてくれる人も、ギターを弾いてくれる人もどっちもいるんだ。私から言えるのは、それだけ」

 

「リョウ先輩、それってどういう……」

 

「確かめに行こう、喜多ちゃん」

 

「伊地知先輩?」

 

「なんとなくだけど……あたし達も、もう知らないままじゃいけない気がする」

 




 最後は変則的な書き方をしました。小説の作法的にはかなりよろしくないのでしょうが、どうしても入れたかったシーンなので許してください。
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